第4部 第6章 マドレ・ピラールの「受難」

「恐ろしい手紙を受け取りました。とてもひどい・・・」

1902年1月19日、マドレ・ピラールはバリャドリードで補佐たちとの会合を持った。これは第二代総長の統治の期間で最も緊迫した会合の一つだった。補佐たちは非常に非難のこもった言葉で修練院についての意見を述べた。次いで、補佐たちの苦情は、修道会全体のことに及んだ。彼女らによれば、会は1893年の時とは全く違ったものになってしまったと言えるぐらい、悪い状態になっているというのだった。主たる非難は取るにたりないものだった。あるものは本当に馬鹿げたことだった。しかし補佐たちによれば、その非難は自分たちが完全に棄権することを正当化するものであった。議事録に記録されている、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダの介入はこうだった。「・・・ この件に関与しないと私が言ったのは、修道会が、清貧、禁域、院内規律、習慣に関して大きく変わってしまったからです。要するに、会憲の変化です。1893年にこの規則を取り入れた修道会が、現在では全く違ったものになっています。ですから、問題に介入することを良心が拘束しない限り、私は協力しません・・・。」(1) 彼女たちの頑固な態度の一つの表れは次の事である。養成の期間を終えて、着衣、または初誓願の準備が出来ている修練女たちに、補佐たちは、その許可に賛成する投票を拒否した。マドレ・ピラールの返答も議事録に記されている。「彼女たちに難点があれば、具体的な事実を述べて、署名し、書面で提出していただきたい。欠点、過ちが分からなければ、どうして私が彼女たちを癒すことが出来るでしょうか。皆さんにその用意が出来た時、次の会議を開きましょう。」(2)
補佐たちはマドレ・ピラールの態度に不満を持った。具体的な事実を指摘するのは易しくないというのが彼女たちの言い分だった。(それはた易くはないだろう。しかし、総長に対するこのような重大な非難を正義に於いて支持するには、唯一の方法であった。)その嘆かわしい会議では、幾つかの非常に些細な事柄が述べられた。(3)
19日の会議の結果は、マドレ・プリシマからマドレ・ピラールに書かれた一通の手紙であった。彼女は四人の補佐の名でこれを書いた。「・・・ 少し前に、私どもは枢機卿様に、私どもの恐れと心配についてお知らせし、この件についてお考えいただきたい、お命じになることは何でも致しますから、とお願いしました。」(4)
枢機卿の返事は補佐たちに宛てた手紙ではなく、マドレ・ピラールに対する非常に厳しい警告であった。枢機卿が、なぜマドレ・ピラールの言い分を聞かずに意見を述べたのか、また、なぜ補佐たちの非難を、マドレ・ピラールの見方とバランスの取れた見方をしなかったのかは理解に苦しむ。また、たとえ彼が、総長の言い分は四人の補佐たちに提示されたものと等しく考慮されるべきでないと思ったとしても、彼は少なくとも総長の反論に耳を傾けるべきであった。
この頃までにはマドレ・ピラールは四人の信頼を失っていたのだが、枢機卿の手紙は彼女にとって大変な打撃であったことだろう。この頃彼女はある手紙を書いた。「枢機卿から私に一言も話がなく、ひどい手紙が私に届きました。とてもひどいものでした。ドン・サンティアゴ (5) と彼の後任は驚き狼狽しています。」(5*) 彼女はその時、普通なら自分を助けてくれるはずの、まさにそういう人々から、何ヶ月もの間、背後で批判されていたことが分かった。その手紙に光をあててみると、彼女の決定の幾つかは、それ自体では正当で理に適ったものであるにもかかわらず、いかにリスクを伴うものであったかが分かる。
たとえば、修練長の任命である。もしマドレ・サグラド・コラソンが状況を知っていたとすれば、「事態を混乱に陥れ続ける」よう姉に忠告したであろうか。
枢機卿の手紙には、長く荘厳な序文があった。

  「修道会の保護者としての役目から、父親の愛をもって、また、主に奉献された善良な方々の霊魂の成聖のためという私の真摯な望みを果たすためにこれを書いております。あなたへの神からの恵みとして私の言葉を受け入れるように願うことから始めましょう。そして、神への信仰と感謝の心をもって、出来れはご聖体のイエズスの前に跪いて、お読み下さるようにお願いします。」

続いて彼はこの序文でマドレ・ピラールに、枢機卿に対する「信頼と従順」を要求した。また、「この修道会に属する全ての霊魂」に対する自分と総長の責任、修道女たちを欺くことがないようにとの強い望み、いよいよ事態を回復する可能性を見出すことが出来なくなったと分かった時に、総長が「嘆き悲しむ」ことがないように、等々を指摘した。そして、もし父としてのこの忠告の効果があがらなければ、修道者聖省の公的介入を図らざるを得ないだろうと警告した。

  「私の言葉は神から来るという信仰の行為を、神のみ前に表明して下さい。そ
の結果として生じる、実際の、あるいは想像上の犠牲や辱めを甘んじてお受け下さい。――修道女の霊魂の栄光は、より大きな辱めにあることを忘れないで下さい――。今日からは、自分の務めを完全に果たすこと以外には何も求めず、自分の良い行ないが人から認められ賞賛されるかどうかは気にしないように。――自分の行ないは、おそらく良心的に判断されるなら、賞賛に値すると認められないかもしれないからです。
私の言うことを、修道会の善に対する関心だけに動かされてお読みください。」

ここから非難が始まった。禁域、統治、補佐たちとの関係、第三修練、および、通常の規則についてであった。枢機卿は特に、総長とマドレ・プリシマの対立に言及した。 「・・・ あなたと筆頭補佐役の間に、今、強い対立があるのは明らかです。[・・・] この理由のためだけに、あなたが修練長の職を解任するのはふさわしくありません・・・。」
顧問会に関して枢機卿は言われた。

  「・・・ あなたが明白さと誠実さに欠けていて、何かを提案する時の横柄な口調は、補佐たちの立場を気まずくし、顧問会での彼女たちの存在を無意味なものとします・・・。」

文書の結末は、さながら悲劇的で激しい交響曲の最後のようだった。

  「最後に、私が受け取っている多くの重大な苦情のために、次のことを申し上げます。あなたは内面に入り、ご自分の全てのなさり方をじっくりとお調べ下さい。そして、もしかすると、あなたの統治の仕方は、修道者というよりは世間の人のようではないかお考え下さい。修道者全員の道徳的善よりも、何らかの人間的な目的のために、過度の親切な行為、気晴らし、特別なことを許可していないか、ある人々を特別に信頼してはいないか、統治するよりも命令を下すことを追い求めてはいないか、また、人を惹きつけるよりは、ご自分を押し付けてはいないか、また、会に仕えるよりはご自分を高めることを追い求めてはいないかお調べください。この全てについて考え、黙想し、反省して平和に行動して下さい。主と聖母マリアに助けを求めてお祈りなさい。あなたの行ないの中で必要なものは何でも犠牲を捧げ、それを絶つように。とりわけ互いの調和の絆、あなたを補佐たちと一致させるための理解と愛、譲ること、へりくだること、服従することに於いて誰よりも抜きん出るように・・・。」

枢機卿は、マドレ・ピラールが、直接自分に全ての説明をしたいと望む可能性を予見していた。しかし、彼はそれを避けた。「・・・ ただちにローマへ来ることによって解決を求めないで下さい。私が申し上げた重大な苦情を償い、応じるように、そちらで努力なさって下さい。」そして彼は、その頃バリャドリードにあった顧問会を、ただちにマドリードに移すように命じた。

  「最後に、この手紙が書かれたのは、会の中でのあなたに対する迫害に基づいているとお考えにならないで下さい。この手紙は、会の必要性に関する完全な、調査済みの知識と、おそらくあなたが完全に知らないうちに犯されてきた悪習のそれに基づいています。
反対のことを考えるのは、悪魔の誘惑でしょう。このような盲目の原因となった事柄に対して、主の赦しを請うべきです。」

枢機卿はこの長い手紙の写しを補佐たちに送った(こうすることにより、彼は、その判断と、総長に対する糾弾を強調した。それは、この手紙の最初に彼が主張したこととは非常に異なっていた。すなわち、父性的な訓戒であった)。四人の補佐たちは一緒にその手紙を読んだ。マリア・デ・ラ・クルスは、この手紙が「たいへん厳しい口調で」書かれていると皆が思ったと記している。マリア・デル・カルメン・アランダはもっとはっきり記している。

  「手紙を読み終えたとき、怒りがこみ上げてきました。それで、自分が何をどのように言ったのか覚えておりませんが、その手紙には真実でない事が書かれていると言ったことをはっきり覚えております。・・・そして、私はエンリケ師 (7) に手紙を書こうと思いました […] 手紙の中で物事が歪められていることについて、また、修道女であり、女性である一人の人に対して何という扱いかと、マドレスとともに抗議しました・・・。」(8)

数年後、枢機卿の手紙を思い出して話題にしていた時、マドレ・マリア・デル・カルメンは、非難の多くに対する一般的な答えとして役立つ一節を記している。彼女は、マドレ・ピラールを取り囲んでいた雰囲気、とくに、顧問会におけるそれについて述べている。

  「総長様は、話をなさる時大変混乱しておられます。でも、今までに彼女ほど誠実な方にお会いしたことはありません。補佐たちの行動を妨げたのは彼女ではありませんでした。横柄さと組織的な反対によって、彼女を妨害したのは私たちでした。だから、彼女は何と言ってよいかお分かりにならなかったのです。でも彼女はいつも大変辛抱強く、私たちがふさわしくないにも関わらず、とても親切に扱って下さいました。」(9)

マドレ・ピラール自身、ときどき会議で同時に四人から話しかけられると、論争についていけなかったことを認めていた。「・・・ 私たちは王に特別の勝利を願わなければなりません。なぜなら、ドン・レアンドロは、気が動転してしまって、何を言っているのか分からないほどですから。」と彼女はこの頃書いていた。(10) また書いている。「水曜日に会議があり、そこであまり色々話し合われたので、ルスはまだ議事録を作成することが出来ていません。(11) 議論ばかりなので、レアンドラにとってどんなに困難なことかお分かりになるでしょう。全ては主がなさることです。私たちは次のお知らせがあるまで祈らなければなりません。あるいは、私たちが先に進む前に、主がそのより大きな栄光のために全てを解決して下さるかもしれません。ああ、私は全てに於いて神のみ旨を果たすために、深い信仰と希望と愛をもって神に従うこと以外に何も望みません。」(12)

枢機卿への返信

枢機卿の忠告に従い、マドレ・ピラールは2月の末に、補佐たちとともにマドリードへ戻った。1902年の春の間に、総長補佐たちは、会の統治の論争となっている点を扱うために、しばしば集まった。5月2日には、聖体崇敬の使徒職を果たす形式について総長になされた非難に議論が集中した。マドレ・ピラールは次のようにこの問題を説明した。

  「聖体礼拝は私どもの会の本質的な部分であり、皆がそれを会憲の非常に重要な規則と見なし、この務めを優先的なものとしなければならない。これが行われていることを神に感謝する。全員が毎日聖体礼拝を行っている。毎週木曜日の夜から金曜日にかけて夜の礼拝があり、聖時間はその他の夜、一年中行っている。また、会員数の多い家では、会憲に記された祝日の夜にも行われている。この夜の礼拝については、健康に気をつけるようにと指示している。そして、健康を損ねることなくこれを行うための充分な人数がいない家には、総長が簡単に免除を与えてもよいとはっきり記されている・・・。」(13)

夜の礼拝を簡単に免除するとか、「キリストが諸民族に礼拝される」ための手段として
修道会の全ての家で行われている聖体顕示の時間を、ある場合には短縮するといった総長の傾向を、補佐たちは、手紙や談話で批判していた。それらの批判は、あいまいで不正確な一般論に基づいていた。そして実際には、マドレ・ピラールが顧問会に供述を提出した時、それが真実であることを誰も否定しなかった。この点に関して彼女を攻めることは、とりわけ正義に反していた。何故なら、会憲を文字通り実行することで、精神を押しつぶす――ましてや会の心を害う――ことになってはならないと彼女はいつも言っていたにもかかわらず、全ての修道女が、この点に於いて、拍車というよりはむしろ、何らかの抑制を必要としていることは事実である。この状況にあって、病気や早死によって非常な試練を受けている修道会に於いて、健康に恵まれない若い会員や、仕事に忙殺されている会員や、自分たちの身体的な力を顧みずに、神と修道会に身を捧げている会員たちを注意深く見守ることを、マドレ・ピラールは自分の義務と考えた。ある時、カディスの共同体に話している時、次のように言った。「神を暴君と考える厳格主義者に対して、今私は少し申し上げたいと思います。いいえ、姉妹たちよ、神の愛のために、どうかそのように考えないで下さい。神はお父様です。本当によいお父様です。」姉妹たちは、会憲に示されている全ての夜に聖体顕示を行うことを熱く望んでいたのだが、その日彼女は、彼女らが礼拝を長引かせることを禁じた。毎週、一時間の夜の礼拝をすることが、各会員に「許されていた」。これは「命じられて」いたわけではなかった。「そして、人数が少なく、礼拝する姉妹が足りない時は、安心して神の御腕の中で眠りについて下さい。主なる神とともにお休み下さい。」(14)
マドレ・ピラールが聖体に対する愛について述べる全てをはるかに上回るのは、彼女の生活による証しであった。彼女について非常に心を打つ幾つかの出来事が伝えられている。ある日彼女はローマの修道院の典礼係(15) に言った。「マドレ.マリア、今日私はとても疲れています。今朝たくさん働きましたので。でも、私は十二時に礼拝をします。主とともにいることが必要なのです。」(16) 「・・・ 創立の頃、通りを歩き回って疲れ果てていたとき、彼女は言っていた。『さあ、今は休みましょう。』そして、彼女の休みというのは、主の御前に跪くことであった。」(17) マドレ・ピラールの死に際して書かれた報告は、いろいろなイベントの時に記された文書に含まれている事実の裏付となる。これらは弁明を意図して書かれたものではない、詳細な報告であった。それゆえ、もっと信頼に値する。多くの中から一つだけ引用しよう。ラ・コルーニャからローマの院長宛のマドレ・ピラールの手紙である。「愛するパトロシニオ、聖ペトロの祝日にカディスから乗船し、昨日、その船が寄港する最初の港、ヴィゴに泊まりました。ひどい嵐のために私たちは苦しみました。 [・・・] ヴィゴから一時間半の汽車の旅をし、昨晩この家に着きました。こちらの皆は元気で喜んでおられます。神に感謝。 [・・・] 今日は金曜日なので、主はその王座で私たちを待っておられました。すぐ主にお目にかかれたのは大きな慰めでした!残念なことに、マドレスは私たちが十二時から一時まで礼拝することを許しては下さいませんでした。私たちが着いたのは十二時だったのです・・・。」(18)  二日以上の旅の後で、彼女にとって最上の休息は、礼拝のひと時を過ごすことだっただろうに。個人的な手紙の中でこのように無邪気に語られている「主」との出会いの喜びは、会の中で何世代にもわたって続いている、聖体に対する愛、そして、創立時代から、統治を続けるためにマドレ・ピラールが非常な努力を払って働いていたこの時代までの、聖心侍女の修道院や共同体の「生命と喜び」と直接に結びつく。
この総長の苦しみが増すにつれて、彼女の聖体における生活は、ますます「神の力、神の知恵」(Ⅰコリント1, 24)、弱さを支える力であるキリストの体験となった。「私は気付いたのですが、もし誰かがご聖体を訪問し、聖なるホスチアを仰ぎ見る時、たとえ慰めは得られないとしても、確かに力はいただくのです。重荷に押しつぶされそうな時は、他の全てのことはさておいて、ご聖体を訪問して下さい。慰めを受け、光と恵みを願うことが出来るようになるでしょう。」(19)
5月2日の集会をもって、総長補佐たちの会合はしばらく休会となった。案じられていた通り、これまでの多くの会議は、より大きな光をもたらすものとはなっていなかった。統治のある点において、マドレ・ピラールと補佐たちの立場は妥協しないように思われた。修練長任命の問題についても、たやすく一致が得られなかった。総長は多数決によってそれを決めるとしたが、諮問委員会はそれを認めず、保護枢機卿によっても認められなかった。ある日、マドレ・ピラールは言った。「皆さん、私は全ての理由をお出ししました。他の事は思いつきません。私の意見は、これが終わった時、全ての写しを枢機卿様にお送りすることです。閣下がお決めになることです。」(20) 補佐たちはこれに憤慨した。というのは、総長は既に枢機卿によって裁かれているので、新たな判断に対する個人の意見を提出する権利さえないと考えたからである。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。「補佐たちは、枢機卿が早く解決の方法を見つけて下さるよう、起こっている全てのことについて、ほとんど毎日のように詳細にわたって手紙を書いた。主としてマドレ・マリア・デ・ラ・プリシマとマドレ・マリア・デル・カルメンが書いた。[・・・] 重大な事柄についての時は、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマが筆頭補佐として書き、他の補佐たちが署名するのが常だった。」(21) このことはマドレ・マリア・デル・カルメンによって確証された。「・・・ 私はこの悲しい事態に、私の全ての力、全ての活動、私自身の全てを注いだ。[・・・] 会の善のため以外に、私は何の目的も持っていなかった。でも私は騙された。」(22) 総長顧問会会合の議事録を記した後、マドレ・マリア・デル・カルメン自身、次のように記している。「彼女らについて何も述べる必要はないと私は思う。彼女ら自身が充分すぎるほど雄弁に語っている。私はただ、聖イグナチオがその霊操の第一週の黙想で述べている事だけを付け加えたい。感情:恥、乱れ悩む心、涙の恵み、痛悔の心。そう、私はその全てを感じる。後悔、悲しみ、混乱、恥・・・。」(23)

「・・・ 主なる神は、私がどれほど正義に背いていたかを分からせて下さいました」

最後の数ヶ月、特に、彼女が補佐たちの態度をはっきりと見て取った時に保護枢機卿からの手紙を受け取った後のマドレ・ピラールの体験は、彼女の霊的成熟において決定的なものとなった。不当な扱いを受け、彼女は強烈な痛みを感じていた。それだけではなかった。手紙、その中に盛られている非難、そして日々言葉として耳にする非難、それらは彼女にとって、より大いなる誠実さ、神のみ旨に対するいっそう寛大な従順を通して心を清めるようにとの呼びかけであった。

  「わが神よ、あなたの聖なる御母が私を導き、あなたに背くことがないようお導き下さい。そして、私たちの母である修道会を、その名誉、あるいは何であれその良いものを損なうものからお守り下さい。」(24)

「主が、その聖なる御母を通して、私たち皆をお守り下さいますように [・・・] そして、――もし他の方法がなければ――力ずくででも、神のみ旨に反して行動する自由を私たちから取り去って下さい。」(25)

「母 (26) についても私のためにもご心配なさらないで下さい・・・ 神の前に罪のない母なる修道会を、神が守って下さらないわけがありましょうか。その聖心の御傷から彼女を生み、育て、ご自身の聖なる名を与えて下さった方が。私のことも心配なさらないで下さい。私は傷ついておりません。むしろ清められております。その上、み主は助けて下さいます。」(27)

「・・・ 自分と他の人々の罪に対する謙虚な痛悔によって、私たちの主に一層しっかりすがりつきましょう。どんな罪がこれまでに犯され、現在も冒され続けているか誰も分からないからです。そして同時に、信仰と節制と涙をもって、また、地の深みでなされることさえもお見通しであり、その本質を計り、その御手にとっては、望むことが即為すことであるお方に懇願しましょう・・・。」(28)

自分の罪に対する「謙虚な痛悔 」から、彼女は、当然、過去と、また過ぎ去った年月の自分の態度と直面することとなった。彼女の後悔は最近のことだけではなかった。マドレ・サグラド・コラソンを苦しめた全てのことに対する彼女の悲しみは、彼女が会を統治し始めた時からずっと彼女の心を離れなかった。しかし今、マドレ・ピラールは、いわば公式に妹の赦しを請う必要を感じた。

  「愛する妹よ、修道会で多大な出費があったのは、ひとえに貴女のせいであったとか、その他諸々の訴えに対し、その真偽をよく調べもしなかった事がどんなに不正なことであったかを、しばらく前から主なる神は私に分からせて下さいました。事実に反していたことが分かり、私は心の底から痛悔し、イエズスのみ心によって、どうぞ私をお赦し下さるよう跪いて赦しをお願い致します。機会があり次第、一刻も早くこの点について私がとった態度を償うことをお約束いたします。
心からの誠意をもってこの赦しをお与え下さい。聖心がこの負い目を取り消し、その日から全てが主の誉れと栄光、そして聖心侍女会の益となりますように、何か霊的な行為をお捧げ下さい。
最もふさわしくない聖心侍女、あなたの姉、マリア・デル・ピラール、E.C.J.」(29)

この手紙に対するマドレ・サグラド・コラソンの最初の返事は知られていないが、マドレ・ピラールが5月26日に書いた手紙によって推測できる。「私を寛大に赦して下さったあなたに、神がお報い下さいますように。そして、私が提案する目的に役立ちますように。主に祈り、希望しましょう。主は全ての良いもの、正しいことを祝福して下さいます。手紙は続けて他の事柄についても話し、最後にこう結んでいる。「今日はこれで終えましょう。あなたを抱擁し、あなたに感謝している妹より・・・。」

数日後、マドレ・サグラド・コラソンは再び書いている。彼女にとって、赦すだけでは不十分だったのである。彼女は全てが忘れ去られることを望んだ。そしてこれは、彼女の謙遜な寛大さから侮辱を意に介さないためだけでなく、生涯を通して彼女のものであった執念、すなわち、修道会の善のためでもあった。彼女は一致と平和のために、無名であること、忘れ去られることを既に受け入れていた。そして今、皆の心の平和と一致のために、新たな心配の種を引き起こすことになりかねないいかなる正当化も放棄する心の用意が彼女には出来ていた。

  「必要なことを一つ申し上げるのを忘れておりました。マリア・デ・ヘスス、サン・ホセ、パスたちにお話なさるときはお気をつけ下さい。(30) 彼女たちは、私が彼女たちの手紙を開封されないままに受け取ると思っています。それで彼女たちは、あなたが彼女たちにご自分の困難についてお話なさり、悩んでいることをお示しになることを、私に知らせてきます。誰であれ私の前にその手紙を読む人がそのことを知るのはよくないと思います。(31)
あなたの心の奥深い思いを打ち明けるのは、ほんの数人になさって下さい。そのつもりでなくても、人は大きな害を及ぼします。ある人は単純さから、ある人は慎重すぎることから、ある人は自分が辱められたと思うから、そして皆にとっては成聖のために、神がそれをお許しになるからです。
もう一つ大切なことを申し上げることを忘れておりました。私自身のことに関して、私から取り上げられたとあなたがお思いになるものを私に返すために、言葉によって――まして行動によって――何かを変更しようとなさらないで下さい。少なくとも今のところは、この全てを完全にお忘れにならなければなりません。第一に、それが必要だからです。第二に、会を損なわないためです。会は、重病人のように、大きな辛抱と我慢強さによってのみ助かるのです。[・・・] あなたは出来る限り全てに譲歩して下さい。私は死ぬほど苦しみましょう、もしそれが主のお望みであれば・・・。」(32)

ますます感謝の心を深め、マドレ・ピラールは返事として、マドレ・サグラド・コラソンに書き送っている。それは、彼女がローマで妹と合流し、自分の在職期間における最後の苦しい試練において、ともに苦しむこととなる前の、最後の手紙であった。

  「愛する妹へ。この手紙は遅く着くでしょう。でも私の霊的なお祝いの言葉は遅れないでしょう。今日、それをお捧げし、み旨ならば明日、全てをお捧げしますから。」

これは、初代総長、ラファエラ・マリア・ポラスによってその名がつけられた「会の主」の祝日の前晩であった。姉のマドレ・ピラールからのお祝いの言葉は、二人が生きていた時代に相応しい嘆願と結ばれていた。

  「私たちが、人間の惨めさに可能な限り、いつも、そして全てに於いて、イエスに倣うことが出来るよう、イエスの聖心にお祈り下さい。とりわけ、自己を放棄して神のみ旨を受け入れることに於いて。これは一時的なことです。失うことの中に一番多く、しかも一番確実に得るものがあります。主がその聖なる全生涯、ご受難、ご死去を持ってお教え下さるとおりです・・・。」(33)

ローマ、「スピットホーヴァー」の家

マドリードでのあの困難と闘いに満ちた日々と時を同じくして、ローマの共同体はついに、大きく快適な別荘「スピットホーヴァー」を借りた。引越しの仕事でいくらか気晴らしになったが、会の統治の問題にまつわる不安を取り除きはしなかった。マドレ・パトロシニオとマドレ・ピラールの手紙のやり取りからはっきり分かることは、ローマの院長が、全ての困難を把握している総長とよく一致していることだった。「あのように聖なるお方でいらっしゃる枢機卿様が、どうしてあなたがおっしゃるようにとても不公平でいらっしゃるのか私には分かりません。片方の言い分をお聞きになりながら、同じ権利のあるもう一方の言い分を聞こうとなさらないなんて、考えられるでしょうか。ある件に裁断を下すには両側の言い分を聞くのは当然ですもの。このようなことをお許しになるのは神です。[・・・] 大きな忍耐と辛抱が必要です。私の分からないことに嘴(くちばし)を入れることをお許し下さい。つい口が滑ってしまいました。苦しんでおられるあなたをお慰めしたいという私の望みをお受け下さい・・・。」(34) マドレ・パトロシニオは親切心から、問題について知っていることをマドレ・サグラド・コラソンに知らせないように努めたことが、この同じ手紙から推論できる。「彼女は何もご存知ありません。でも何か察しておられるように思います。マドレスがまだマドリードにおられるかどうかお聞きになるからです。それで、彼女が心配しておられることが分かります・・・。」(35) 彼女は枢機卿の手紙に関する事実を、あるいはこの件がまさに修道者聖省に達しようとしていることを知らなかった。しかし彼女は最悪のことを恐れていた。補佐たちがマドレ・ピラールと絶えず対立していること、また、彼女たちの間の不一致について知っていたからである。不確かさと、具体的なニュースの欠乏は、彼女にとって新たな苦しみであった。彼女は心から会を愛し、危機に瀕している姉、総長を愛していたからである。
長年にわたる単調さの苦しみに今加わったこの苦しみにもかかわらず、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女が関心を寄せていたいろいろな人との関係をさらに深いものにし続けていた。彼女は自分の苦しい不安と完全に両立しうる落ち着いた喜びをもって、優しさに満ちた手紙を書くことを決してやめなかった。
マドレ・マリア・デ・ラ・クルスに宛てた次の手紙はその一例である:

  「イエスに於いて愛するマドレ.へ。あなたのお祝い日に、私があなたのために望む全てを御子があなたに伝えて下さいますように。御子がそちらへ行かれるのはこれで最後です。もう一度こちらへ来られるとしてもです。御子は別荘で大変喜んでおられたのに、なぜ行っておしまいになったのか分かりません。(36) 私はまずまずです。私は間違っているかもしれませんが、御子は私のもとを去り難くお思いのようです。私のような、全く貧しいものとともにいることを好まれると御子は言われます。本当に、マドレ、私は貧しい、とても貧しい者です。そしてもういい年をしています。神の御慈しみに信頼しないなら、どうなっていることやら!
ここは神を賛美するのに大変良いところです。神は祝されますように。私の部屋から全ての主だった教会のドームが見えます。聖ペトロ大聖堂や聖イグナチオ教会のような、いくつかの教会の正面もほとんど見ることが出来ます。
マドレ・マリア・デ・ヘススのお母様が亡くなられたとき、彼女にお手紙を書きました。(安らかに憩われますように)。その手紙はどこかで無くなったに違いありません。肝心なこと、彼女のために祈ること、は致しました。
マドレ・エンカルナシオンはお変わりないと思います・・・。
私どものご病人について。院長様はここ数ヶ月ほとんど体が麻痺しています。今は少し良くなっていますが、まだお悪いです。よくなられるかどうか様子を見ましょう。マドレ・マルガリータは相変わらずです。まだしばらく持ちこたえるでしょう。レオノールは悪くなってはいませんが、元気ではありません。マドレ・マリア・デ・ヘススは弱ってきています。どのような最期になるか見ましょう。
この世の生活には悲しみと喜びが混ざり合っています。私たちが執着しないように、主がそうなさいます。私たちがみ旨に従って全てから善を得るよう、神が私たちをお助け下さいますように。そして、そのみ旨に一致して私が最後の息を引き取ることが出来ますように。イエスにおいてあなたを抱擁します。あなたの姉妹であり、はしためであるマリア・デル・サグラド・コラソン, E.C.J. ナティビダ (37) によろしく。彼女の手はどうなりましたか?」(38)

彼女は総長補佐の一人に書いている。その補佐が、当時、会の中に問題を引き起こしていた人々の一人であることを思い出していたに違いない。しかし彼女は、そのことに触れなかった。むしろその手紙の口調は、現世の生活が「悲しみと喜びの混ざり合ったもの」であることを、そして何よりも、神のみ旨を寛大に受け入れる必要を知っている人の英知を表していた。

ギサソーラ司教の介入

5月、補佐たちから困難の報せを受けた聖省は、マドリードの司教に対し、非公式にその家を訪問し、報告書を提出するように委任した。(39) その司教は、会の初期から創立者姉妹の親しい友人であったビクトリアノ・ギサソーラ司教であった。補佐たち、特にマドレ・プリシマは、彼の介入に対して懐疑的だった。この不幸な事件において顧問たちの支持者であったエンリケ・ペレス師は、「もし報告書に十分な根拠がなければ」、なされる決定には全く効力がないだろう(40) と請合うことにより、彼女たちをなだめた。全過程に数多く見られた偏見は、おそらくこのような多くの詳細から推論されたものであろう。
ビクトリアノ・ギサソーラ司教は補佐たちに話した。マリア・デル・カルメン・アランダは司教の話を次のようにまとめている。(41) 「彼は、総長に対してなされた非難の多さに驚き悲しんでいる、また、彼女は創立者であり、皆の母であると認められるべきであるのに、また、彼女にある程度の行動の自由が許されるのは当然と思われるのに、皆で共謀して陰謀を企てたいと思っているかのようだ、と話されました。」
大変がっかりしたギサソーラ師は、総長と補佐たちがその職を退き、当局が適当と考えることを決めるよう、聖省に道を空けることを提案した。彼は、総会が自由に新しい統治グループを選ぶまで、五人のマドレスの一人ではない代理者を任命することが妥当な方法だと判断した。補佐たちは、聖省には状況を知らせてあるので、保護枢機卿を頼りにしないでは敢えて辞職することは出来ないと返事した。
保護枢機卿は補佐たちを賞賛し、助言したり辞任を受けることは司教の権限ではないと司教に言った。(ギサソーラは、辞任を受けるなどと考えたことはない、自分の意見は、顧問会が聖省の行動に任せるべきだということである、と返事した。)
マドレ・ピラールは聖省に対して何の義務もなかった。彼女は単純に司教の提案を受け入れ、辞表を提出した。そして――マリア・デル・カルメン・アランダは付け加えている――「この方は、皆の分を揃えてでなければ提出しないと言っていましたのに、総長の辞表を、彼の報告に添えて聖省に送りました。彼は総長から大きな感化を受け、補佐たちからは悪い印象を受けました。」(42)

ローマでは、数人が、マドレ・ピラールについて保護枢機卿に届けられる不利な報告の影響を阻止しようとしていた。イエズス会の中での地位にゆえに、また、以前、聖心侍女の顧問会に介入していたために、本会の中でよく知られているラ・トレ師は、総長の公正さと、補佐たちの偏見を確信していた。エンリケ・ペレス師は彼に反対のことを納得させようとし、補佐たちに指摘されたのと同じ欠点のかどでマドレ・ピラールを責めている、バリャドリードの共同体の一員からの報告書を彼に見せた。しかしラ・トレ師は、マドレ・プリシマを通して届けられたその宣言の中に、多くの理由のために会の中で考慮に値する一人の人物を、あらゆる可能な方法で糾弾しようとしているその過程の不当性の、もう一つの証拠をみてとったのである。そこでラ・トレ師は、各家の院長、そして何人かの年配の会員たちが、この件について枢機卿に報告出来るよう、彼女たちに状況を知らせることをマドレ・ピラールに勧めるべきだと思った。(43)
マドレ・ピラールにこの助言を与えるに際してラ・トレ師に良い意向があったことは疑いない。しかし、彼の提案が非常な混乱状態をもたらし、それが不一致を助長したことも間違いない。マドレ・ピラールは生まれつき話好きであった。彼女は既に何人かの会員に自分の問題について話していた。しかしわずか数人に対してだけだった。今、本当の反目が始まり、ほとんど全会が一丸となって総長に有利となる証言を望んだ。おびただしい報告書が保護枢機卿のもとに届いた。実際は、エンリケ・ペレス師と枢機卿の秘書のもとに届いたのであった。枢機卿自身は決して事件を検討しなかったからである。
危機は会の土台を揺るがし始めた。統治者の分裂は共同体の中で感じられた。この種の聖戦は調和の破壊を脅かした。そして大多数の会員の良い意向も、共同生活の中に生じた不和を癒すのに十分でなかった。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは書いている。「会全体が痛みを感じました。そして、聖心侍女に対するイエスの聖心の特別な愛のおかげで、精神の亀裂は修繕不可能、あるいは手の施しようもないものにならずにすみました。それにしても、なんと大きな害があったことでしょう!」これが書かれた時 (44)  マドレ・マリア・デル・カルメンは、それほどの被害を総長顧問たちの所為(せい)にすることを躊躇しなかった。そして彼女は自分自身も除外しなかった。「そして私は、マドレ・プリシマの行動を、また、他の顧問たちのそれさえも見ることが出来ましたのに、[・・・] その私は盲目でした! 私は総長様のお徳に感嘆していました。でも、私たちが理解していた会の精神と会則を、彼女が駄目にしてしまうのではないかと恐れていました・・・。」(45) 他方彼女は、会の救いが二人の創立者姉妹にかかっていると思っていた。 「・・・ 会は彼女たちお二人の徳と犠牲のおかげで滅びから免れました。[・・・] 第一にマドレ・サグラド・コラソンの、そしてマドレ・ピラールの・・・。」(46)

「私は沈黙のうちに祈り、ひどく苦しみました・・・」

優に夏まで続いた一種の麻痺状態の後、保護枢機卿は、顧問会のマドレスをローマに召喚した。マドレ・パトロシニオはマドレ・ピラールに書いている (47)。 「あなたと他のマドレスがおいでになることをマドレ・サグラド・コラソンに申し上げました。そして幸いマドレはそれをよくお受けになりました。ただ漠然とですが、何らかの誤解があることがお分かりになったので、閣下はマドレスをお呼びになったのだ、ということだけ申し上げました。彼女がもっと知ることをあなたがお望みになるなら、こちらにおいでになった時の方がよろしいでしょう・・・。」
8月の末にマドレ・ピラールは秘書と、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスとともに到着した。他の三人の補佐たちは数日後に到着した。それは、一年もまともに続いたことのなかった統治の、最後の段階の始まりであった。
ずっと後になって、マドレ・サグラド・コラソンはその当時の印象を記した。それは、使徒的訪問者(1907年ボローニャ)との話し合いに役立てるための、個人的な書き物であった。そのため、あまり良い文体ではなかった。尻切れとんぼの文や、出来事の不明瞭な記述もある。しかし、真に物事を明らかにする部分もある。

  「マドレ・ピラールと、続いて補佐たちがローマに来た時、何が起こっているのか私には分かりませんでした。もっとも何かを感じ取りましたし、主の聖心侍女、イネス (48) のために神の憐れみを見ました。私は沈黙を守り、何が起こっているのか詮索することを望みませんでした。私は沈黙のうちに祈り、ひどく苦しみました。事が進行するにつれて、終わりが近づいているのが分かりました。物事をもう少しはっきりさせるために、私はマドレ・ピラールに質問しました。しかし彼女は補佐たちのところへ行くようにと言いました。私はマドレ・マルガリータのところへ行きました。すると彼女はマドレ・ピラールのところへ行くように、あるいは彼女の許可を得るようにと言いました。そこで私は、何か起こっているのか私には完全に分かっていると彼女に言いました。補佐たちは、退位させられた総長に対して前の補佐たちが行ったことを、自分たちの間で行っていました。そして、現在の保護枢機卿は、前任者と全く同じように、その影響力で援助していました。ですから、お願いです、会の良い評判のために、一致のために、総長の任期にまだ残されている二年の間、彼女らを待たせて下さい。それから彼女らは別の人を任命することが出来るでしょう。不名誉は彼女らのものです。何故なら、最初の者を、役に立たないとして斥け、[・・・] 広場のオベリスクが壊れるのを防ぐために建築技師がしたのと同じように、現総長が会の中で働くと思って選んだのです。「ロープが燃えている!水を!」、そしてそれは、話した人への死刑の宣告にもかかわらず救われたのです。」(49)
「イネスは沈黙を守り、自分に言いました。『主があなたを預言者にして下さいますように』、なぜなら彼女はその時結末が分かったからです。お願いですから、それについて考えてみて下さい。そして全てを止(や)めて下さい。彼女を深く考え込ませ、私はその場を去りました。」(50)

これはたいへん感動的である。マドレ・サグラド・コラソンは、自分の個人的な関心には注意を払わず、過去への思いに対する苦味は露ほどもなく、姉の弁護を引き受けている。しかし、とりわけ彼女は、会を脅かしている新たな嵐を撃退しようとした。あの時彼女は、会憲の特別な箇所のことは考えていなかった。ただ彼女は傷ついた会の全ての会員を心に留めていたのである。彼女は会員たちのために「祈り、沈黙のうちに大きな苦しみを捧げ」、一致が戻るよう神に懇願していた。彼女は悲痛な語調で祈っている。「後生だからお願いします」、「会の評判を大事にするためと、一致のために」、「お願いですから・・・。」この危険に照らしてみれば、自分の悲しみ、何年間もの隠れた生活、自分の行ないに対する過去、現在の解釈、自分の無能さに対する性急で根拠のない意見、その全ては物の数ではなかった。

「私のために信仰、謙遜、忍耐、剛毅、そして、堅忍をお祈り下さい」

マドレ・ピラールがローマに着いた時の最初の印象は、その頃何人かの院長に書いた手紙に見出される。「カラサンシオ師はまだ来ていません。アウグスティノ会士は来ていました。」
――彼女は保護枢機卿とエンリケ・ペレス師のことを指している――。「彼に会う時、かなり自分を抑えなければなりません。不信感でしょうか。神がそれをお許しになりませんように・・・。[・・・] 誤った意見があります。それなのにカラサンシオ師(枢機卿)はさらに調査する気はありません。実際には、彼の計画は出来ており、それを実行に移す時が来たのです。[・・・] 私のために信仰、謙遜、忍耐、剛毅、堅忍をお祈り下さい。また闘いがあると思うからです。それは決定的なものとなるでしょう。そしてレアンドラの行動は聖なる母 (51) にとって非常に重要なものとなるでしょう。私はこの哀れな人が気がかりです。彼女は非常に感じやすく、苦しむからです。」(52)
この最初の手紙は意味深い言葉で結ばれている。「マドレ・サグラド・コラソンはずいぶんお痩せになりました・・・。彼女には一番話す機会が少ないのですが、一番心にかけている方です。」
紛争の解決に向けて、多くの交渉や延々とした話し合いや措置が取られた後、1902年は終わりに近づき、代わり映えのしない状況が続いていた。これほど異なった立場を調和させること自体、困難なことであったが、この件の場合は、何人かの補佐たちの個人的な態度のために、ほとんど不可能に近かった。彼女らは、総長代理を任命することが最善の解決策であると考え始めた。そしてある時、総長秘書のマドレ・ルス・カスタニーサが注目された。「枢機卿はこのことに触れられました。[・・・] マドレ・プリシマは、それは法、あるいは会憲に違反すると言いました。会憲は既にこの役職を、第一補佐に指定していたからです・・・。」(53) 会憲の擁護が個人的な利害関係と、混ざり合っていた。そして、全く悲劇的なことに、ある人たちはこのことに気付かなかったらしい。
11月には新たな場面の展開があった。それは、後の書き物と、その当時書かれた手紙に描かれている。

  「ついに、聖母の奉献の祝日に枢機卿がやってきた。そして彼は、総長、総長秘書、および補佐たちを呼んだ。彼は私たちに、Normas [規範] を適用することによって本会の問題を解決することに決めたと言った。[・・・] 彼は次の言葉でその意向を述べた。「これらのNormas が適用されます。したがって、あなた――総長を指している――の望みは果たされないばかりでなく、あなた方――補佐たちに向かって――の望みも容れられません・・・。」(54)

皆は非常に落胆した。なぜなら、Normasを適用することは、ある意味で、イグナチオ
の息吹を、会憲のあの点この点からだけでなく、会全体から取り除くことを意味したからである。(55) 全ての新しい修道会が従わなければならないそのNormasは、ほとんど全ての事柄について、顧問たちの審議票決によって総長の権威を制限するのであるが、その事に補佐たちが我慢できなかったのは不思議である・・・。
そこで彼女たちは、ブチェロニ師の介入を求めた。聖省の意向を知ったとき、彼は、総長と補佐たちに、会憲に手を加えないことを要求している彼の文書に署名することを提案した。もし彼女たちがその請願書の要求を得ることが出来れば、平和を乱した全ての論争は終わるだろう、とブッチェローニは信じた。

  「総長はブチェロニ師に、彼の提案を受け入れる用意があると言った。しかし、
マドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはそうではなかった。マドレ・マルガリータと私は望んでいた。(56)  マドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは大胆にも秘書を通して伝言を送った。文書に署名がなされるなら、彼女は辞任を承認したものとして甘んじて受け入れ、新しい修練長を任命するのか、すなわち、会憲に従って事を進めて行くのか、というのであった。」(57)
総長はただ、自分は常に会憲に従って統治してきたとだけ答えた・・・。」(58)

マドレ・ピラールはスペインの院長の一人に書いた (59)。「ここではまだ規則の変更について闘っています (60)、変更は大きなものになると私は恐れています。何と残念なことでしょう!でも私に何が出来ましょう。この全ての混乱から何らかの救いが来ることを私は信じています。彼女たちは説明に加わることを望みませんでした。私は一向に構わない、と彼女たちは考えているのだと思います。そんなことではありません。多分彼女たちは、私よりも苦しんでいない、あるいは働いていないのでしょう。[・・・] 彼女たちはいつも、自分たちがしていることを注意深く私から隠して、行き来し、興奮しています。私は彼女たちがアンシアニート師に導かれ、援助されるに任せます。](61)
マドレ・マリア・デル・カルメンの言葉がこれを裏付ける。「私たちには、外出するにも、来客を迎えるにも、手紙を受け取るにも、少しの妨げもありません。総長様の態度はこの上なくご立派です・・・。」(62)

「・・・ あなたの聖心の御傷の中に私の悲しみを・・・」

顧問会のローマ滞在は長引いてきていた。その間マドレ・サグラド・コラソンは何をしていたのだろうか。外面的には何も特別なことはしていなかった。彼女は気付いていた。補佐たちの行き来、姉の悲しげな、しかし穏やかな表情を見ていた。事の進行についてはほとんど知らなかった。(そして多くを知ることはたやすくなかった。誰もこの件の結末を予見することは出来なかったから。)彼女は祈った。おそらく彼女は、もう長年にわたって彼女の唯一の務めとなっていた「この仕事」にこれまで以上に精出すべきだと思ったことであろう。
その間、総長もまたたくさん祈っていた。マドレ・マリア・デル・カルメンは書いている。「ほとんど毎晩、いえ、毎晩、彼女は礼拝に行った。聖体をしまった後も、手を組み、言うにいわれぬ悲しみの表情で、聖櫃の前に跪いて祈っているのが見られた。」(63)
創立者姉妹たちに対して最も好意的でない証言者たちでさえ、彼女たちが特別に祈り――救いをもたらし、この場合には実際に会を救った唯一の手段である祈り――を大事にし、並々ならぬ信仰を持っていたことを認めている。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。

  「総長は、主が状況を回復させて下さるよう、多くのミサが捧げられることを願った。そして彼女はほとんど毎晩聖時間に行った。[・・・] 彼女は、祭壇布の下や祭壇の上に願いを書いた紙を置いた。何度か、彼女の自筆になる次のものが見出された。総長が心と魂の中に抱いていた大きな悲しみを示すため、それらを書き写す。一つは次のとおりである。「我らの父であるロヨラの聖イグナチオよ、あなたの会を救い、いつもお守り下さい。」別のは言う。「我らの主イエスのいとも聖なる聖心よ、あなたのものであるこの家族の全ての問題を、御手に委ねます。また、あなたの聖心の御傷の中に、私の悲しみ、悩み、困難を委ねます。」「悲しみのみ母よ、我らの家族をお守り下さい。我があるじ、我が母よ。」「全ての天使、聖人たちよ、取り次ぎ給え!」(64)

マドレ・ピラールはその連祷の中に、かつて地上でともに過ごし、会に対してとても好意的であった、今は天の住人となっている人々を含めた。「マゼラ神父様、天国で聖心侍女のためにあなたの愛情を行使して下さい。」(65) これらの射祷はマドレ・ピラールの内的な祈りの態度を表していた。その数ヶ月前、彼女は会のための一つの祈りを書いていた。それを封書に入れ、バリャドリードの教会の祭壇に置くように指示していた。それは、神だけが知る秘密として、心から神に語りかけられている、非常に心打たれる祈りであった。

  「永遠の父よ、真心から、また、全てが聖三位、とりわけ聖心の、より大いなる栄誉と光栄のためになるよう願いながら、その同じ聖心の侍女の共同体の名において、次の祈りを捧げます。祈りが聞き入れられるよう、この祭壇の上で祝われる全てのいけにえを捧げながら。その叫びが絶えず天に届きますように。 [・・・] 特に、各会員が会憲と規則に従って聖となりますように。自己放棄に生き、まっすぐな心と不屈の精神をもって神をお喜ばせすること以外に、誰も、何も望み願うことがありませんように。そして、誰をも害したり、羨んだりすることがありませんように。そして、寛大にあなたのみ旨を果たしたいと望んでいることをあなたがご存知である、あなたの侍女のためには、天国であなたを所有するまで、あなたのお命じになるものを与え、あなたのお望みをお命じ下さい。[・・・] また、会の中で生き、死んで行く者は誰でも聖人となり、この中に、主よ、あなたがご存知のこの侍女をも加えて下さいますように。」(66)

この悲しみの時期ほど二人の創立者姉妹が密接に一致した時はなかった。他の機会に
彼女らは会のために似たような苦しみを経験していたが、今、二人は、似たような、英雄的受容の行為によっても一致していた。
「・・・ この聖ヨゼフの月に、聖なる太祖がその聖なる浄配とともに、主のより大いなる光栄のためにお計らい下さり、会の問題を解決に導いて下さいますように。そして、ああ!私自身から始め、正義がいただきとうございます・・・。」マドレ・ピラールは2月に書いた(67)。神のみ旨に対する彼女の従順がどれほど大きくても、総長は全ての交渉の結果を恐れた。そして、決して失うことのなかったユーモアをもって、ある時彼女は聖ヨゼフの取次ぎについて言った。「・・・ 聖人は御子と同じお考えですので、それは苦難と悲しみです。何が起こるか見ましょう。」(68)

「水先案内人はとても確かで、私たちを救って下さるでしょう・・・」

3月まで事は未解決のままだった。顧問会の中では立場が固まってきていた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは、衝動的にあちらこちらへ働きかける、あの性急な性格に苦しめられ、今度はマドレ・プリシマがこれまで彼女に及ぼしてきた魅惑的な影響から逃れ始めた。この頃までには、この「ビルバイナ」――ビルバオの院長だったところから、彼女は顧問会の中でこう呼ばれていた――は、補佐職から退こうとしていた。しかし、保護枢機卿とラ・トレ師がそれを思いとどまらせていた。彼女は後者と長い話し合いを始めた。マリア・デ・ラ・クルスは、マドレ・プリシマだけが会と会憲を救うことが出来るのだという考えに、まだ取り付かれていた。そして、この思い込みで目が閉ざされ、何とかマドレ・ピラールを統治から切り離そうと、あれこれ手段を惜しまなかった。マドレ・マルガリータ・バロは、いつものように、目立たない脇役を演じ続けていた。
マドレ・プリシマは、問題解決への効果的な方法を探すのに苦心していた。皆と同じように、枢機卿が秘書の思い通りに動かされていると確信し、ラ・トレ師を味方に引き入れることに専念した。
補佐たちの心変わりを見定めて、マドレ・ピラールは書いている。「ビルバイナ嬢は完全に回心したように見えます。それで、アンシアニート師の勧めに従っています。アマリア嬢はその苦しみの全てが同情に値します。見かけよりも深刻であるに違いありません。時々ものすごい顔つきをしています。(普通は平静と慎み深さを装っていますが)。彼女のために優しい心で祈って下さい。彼女の頭はどうかしていると思われます。お祈り下さい。彼女は神の御血で贖われ、神から特別な寵愛のしるしをいただいているのですから。」(69)

3月25日、ビベス枢機卿の秘書が聖心侍女の家を訪れた。彼は総長と補佐たちを呼び集め、彼女たち全員と秘書の前で、聖省長官からの文書を厳かに読み上げた。聖省長官は次の決定をし、保護枢機卿が今それらを報せているのであった。

  「一.総会は、会憲によれば1905年の6月に行われることになっているが、本年
中に召集される。開催に最も適当と思われる時期を定めるのは、枢機卿閣下の賢明な判断に任せられる。
二.総長とその顧問会の任期は、六年を越えないものとする。(70)
三.総会の前に、顧問会は聖省に、会の財政および不動産の状態の、完全で正直な報告を、宣誓のもとに提出しなければならない・・・。」(71)

マリア・デル・カルメン・アランダは述べている。「この決定は総長に一瞬強い印象を与えた。しかし、彼女は、そして私も、すぐにこれが、起こり得る最良のことだと分かった。しかし、マドレ・プリシマはそうではなかった。[・・・] これで私たちは統治と非常な責任から免れると思い、満足している私を見て、彼女は努めて不満を隠し、私に同意する振りをした。」(72)
総長の平静さとマドレ・プリシマの不安には十分な根拠があった。総会に参加するであろう面々が分かっていたので、結果は容易に予測できた。そして、マドレ・マリア・デル・カルメンが言ったように、全ての補佐たちが「統治から免れる」ことが確かになれば、マドレ・ピラールの総長再選という最も苦しい状況に耐えなければならないのは第一補佐であることは疑いなかった。(73)
枢機卿は総会開始の日を聖心の祝日に定めた。それは二ヶ月余り先のことであり、一部の人々の間で裏工作がなされるには十分な時間があった。マドレ・ピラールは5月に述べている。「・・・ 神の御手を見ることが出来ます。でもそれは、祈りと完全な働きで支えられなければなりません。[・・・] これらの嵐には原因があります。いつも何かが起こっており、それをただ見ているだけで妨げないためには忍耐が要ります。アマリア嬢 (74) は止まることを知りません。そして彼女は、カプチーノ師 (75) の秘書の中に好敵手を見つけました。饒舌で、弁が立ち、想像力たくましく、騒々しい、等の性格の点です。でも、お願いですから、私が言っていることで腹を立てないで下さい。かえって、私たち皆を主が御手をもって導いて下さるよう、そして、私たちの滅ぶべき自然性に相応の、神の知恵を与えて下さるように願いましょう。さらに、自分が何をしているのか分からない性格の人々がいることは確かです。そして、このお二人はその部類に属します。そういうわけで、彼らが神の御目に価値があるかどうかは、誰に分かりましょう。」(76)
待機期間中、「カプチーノ師の秘書」は、一連の不法行為を犯したが、それは彼の性格の偏りと、あたかも修道生活のことを周知しているかのように思われて任されることとなった問題に対する、完全な経験不足を併せて考える時、初めて理解できるのである。(77) しかしマドレ・プリシマは、彼の大きな欠点にもかかわらず、彼が枢機卿を動かしていたので、また、彼を通して聖省の決定を調整することが出来るだろうと思ったので、彼の好意を得ることが不可欠だと考えていた。
ルペルト修士の行為の一つは、顧問会の議事録から数ページを破り取り、会の総長秘書の手からもぎ取ったことであった。何年何ヶ月にもわたる討論や苦悩の記録が、修道士の力によって消えうせた。非常に痛ましい一致の不足に対する証言は失われた。しかし総長には――そして、それほど盲目になっていなかった補佐たちには――家族にとって都合の悪い秘密が広がるのではないかという不安から、新たな傷が与えられたのだった。秘書の修道士は、顧問会のメンバーたちが、とくに会議の持ち方、ふさわしい議事録の書き方を指導される必要があると主張することによって、自分の行動を正当化した。幾つかの重苦しい会議を通して、ルペルト修士は、上述の議事録から、会の実際の、また、想像上のあらゆる悪を暴露したのであった。

  「彼はまず、私たちを指導すること等の必要性を大いに強調して話し始めた。そして、疑いを晴らすために質問したいことは何でも遠慮なく彼に質問するようにと言った。総長は、謙虚さと権威をもって、自分は何も言うことはないと彼に言った。そして、むしろ会議から席を外させてほしいと願った。[・・・] それから秘書は、誰かが自分と相談したいかどうか尋ねた。彼を最も立腹させたのは、総長の態度であった。マドレ.は手を組み、一言でも口が滑って出てこないかと恐れているかのように、唇を固く結んでいた。ルペルト修士が議事録を奪った翌日、総長はどうすべきかと私たちに尋ねた。秘書が着いた時、彼女は彼の許に行き、彼が取った議事録を返してほしい、そしてもし焼却してしまったのなら、そのことを証明する文書がほしい、なぜなら議事録は会に属する文書だから、そのため、彼女はそれに対して責任があるからと言った。これだけでルペルト修士を怒らせるのに十分だった。彼は大声をあげ、秘書の前で総長を罵倒し、威嚇した。[・・・] いつもこの調子であった・・・。」(78)

総会を待つ日々はゆっくりと過ぎていった。マドレ・ピラールは後に書いている。「裏工作のために、私にはとても長く感じられました。もっともそのことは、私自身の経験によって既に知っておりましたが・・・。」(79) 彼女自身が見ることの出来た、マドレ・プリシマと秘書の活動について、彼女は述べている。「・・・ これらは重い十字架です。そして、それに関わる全ての人にとっては、破滅への道です。交戦相手が神の恵みに値する時、そのことは起こらないは本当です。その時、恐れることは何もありません。なぜなら神が苦しみをお許しになるからです。しかし神は試練を制限され、もしそれによく耐えるなら、試され苦しめられた側は収穫、それも、大きな収穫を刈り取るでしょう。ですから [・・・] あらゆる試みのない平和を求めるべきではありません。いいえ。ア・ケンピスが言うように、私たちはそれを求めるのでなく、もし主なる神がその恩寵をお与え下さるなら、風と波に逆らって、歌を歌いながらでも、漕ぎ進めようとすべきです。水先案内人はとても確かで、私たちを救って下さるでしょうから。」(80)

「・・・ 私は言い分を聞いていただけずに判決を受けます・・・」

後に起こった出来事――すなわちこの長い過程の結末――は、あまり耳にすることがないので、実際の文書の裏づけがなければ信じ難いことであろう。徹底的に述べることはせず、ここでは同時代の叙述の一つひとつに示されていることを見てみよう。
枢機卿の秘書は、3月25日後のある一日に、おのおのの補佐と個人的に話すことを望んだ。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは彼が自分に言ったことを詳しく述べている。それは、マドレ・ピラールが総会で再選されることを聖省が望んでいないということであった。

  「マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、マドレ.・マリア・デル・ピラール・ポラスが総長を辞めることを聖省が望んでいると答えたが、総会の集まりでは実現しないだろう。なぜなら諸修道院の院長たちは彼女を大いに尊敬しており、マドレ・マリア・デル・ピラール以外のマドレが総長に選出されることを望む者には注意を払わないだろうから。」(81)

このようなことを確信していたので、マドレ・プリシマは総会の開催を避けるためにあらゆる可能な手段をとった。彼女はラ・トレ師と会見したが、彼は意見を曲げないことが分かった。「彼には彼女はとても悩まされた」とマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは言っている。「そこでマドレ・マリア・デ・ラ・プリシマは枢機卿とその秘書のところへ行った。後者は枢機卿よりもっと活発に、本会の問題と取り組んでいた。」(83) 秘書は補佐たちに、総会参加者がマドレ・ピラールを選ばないように圧力をかけるべきだと説得しようとした。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、「会はそれを神による選びなどではなく、補佐たちによる工作だとみなすでしょう」と言って。これを拒んだ。(84)

  「その同じ日、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマはこのことについて保護枢機卿に話した。彼はその忠告は正しいと思った。しかし、補佐たちが統治を続け、マドレ・マリア・デル・ピラールがその職から斥けられるための手段は何も考えられなかった。」
マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマ自身が、会憲の線に沿ってこれを行う方法についての考えを枢機卿に与えたようである。すなわち、第一補佐が総長代理となるということであり、これが実行されたのである・・・。
この頃、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマは、ただマドレ・マリア・テレサ・カスタニサ(85) だけを伴って、頻繁に枢機卿館へ行った。彼女は他の補佐たちが外出することを望まなかった。何故なら、彼女たちは、どれほど誰かに話したところで物事が良い方向に向かうとは思っていなかったからである。」(86)

この孤独な旅の結果は、聖省からの最初の教令になされた変化であった。歴史的出展はこの件について非常に明快なので、完全に再現することが出来る。
5月11日、ルペルト師はスピットホーバーの家へ行き、秘書を呼んだ。彼は新しい教令を読み上げた。それによると、前回の総会の集まりで指名された総長代理のマドレ・プリシマに制限が与えられるだろう、彼女は教令の日付から三年間、会を治めることになるだろう、ということであった。

  「この文書を読んだ後、秘書は、直ちに総長に報せねばならないと言った。秘書は非常に驚き悲しみ、総長に心の準備をしていただくまで少し延ばしてはもらえないかと彼に願った。しかし、涙ながらに懇願したにもかかわらず、彼女の願いは聞き入れられなかった。総長は直ちに入室しなければならなかった。二人は次のような会話をした。
『秘書: こんにちは、お元気ですか。この5月はどのように過ごしていますか。
総長: 元気にしております。
秘書: そして、問題の方はどうですか。
総長: あなたがご存知です。私は何も存じません。
秘書: ところで、聖省はこれを終わらせ、問題を解決し、お助けすることを望んでいます・・・。辞任することに同意しますか。
総長: 明日まで考えさせて下さい。それからお返事申し上げます。
秘書: いえ、いえ、今、私に返事しなければいけません。
総長: 今は出来ません。私は性急に行動するタイプの人間ではございません。明日お返事申し上げます。
秘書: 駄目です。聖省は昨年のあなたの辞任を受け入れていますよ。(87)
総長: 聖省がお決めになっているのなら、私には何も申し上げることはございません・・・。』」(88)

マリア・デル・カルメン・アランダの記述は、その出来事から二週間後にマドレ・ピラールによって書かれた手紙から確証される。彼女はマドレ・ナティビダ・オルエに出来事を話し、秘書に返事する前にしばらくの猶予を願った時、ラ・トレ師に相談しようとしたことを付け加えている。

  「『それはいけません。』カラサンシオの個人的な秘書ですから、同じ家族に属すこの司祭は反対しました・・・。『最高裁判所は即座に辞任することを要求しています。』
私は答えました。『長い時間とは申しません。少しお時間をいただきとうございます。』(実は私はアンシアニートさんとお話したかったのです。)それから、時間が迫ってきた人のように私に言いました。
『もう遅いです。聖省は、あなたが昨年出した辞任を受けて、今それを批准します。もう用意が出来ています・・・。』」(89)

翌5月12日、マドレ・ピラールは保護枢機卿に手紙を書き、決定に従うと述べた。秘書は返事を持って午後戻ってきた。マドレ・マリア・デル・カルメンは再びその会話を報告している。

  「『秘書: 閣下はあなたの態度に大変感心されました。
総長: 私は聖省が決定されることをお受けいたします。けれども、私は言い分を聞いていただけずに判決を受けることにご注目下さい。私はなぜ非難されるのか分かりません。』
秘書が自制心を失い、罵倒し、非難を浴びせ始めるには、これだけで十分であった。最後に彼はこう結んだ。
『今からは、総長代理、補佐たち、それに我々が統治します。分かりましたか。
総長: 私はこれまでと同じです。』――平和を失うことなく彼女は答えた。
それから秘書は、良心の咎め等を糾明するよう彼女に勧めた。そして、自分のために祈ってくれるようにと言って言葉を結んだ。実際彼は大いに祈りを必要としていたのだった。
マドレ・ピラールは深く傷ついた。しかし彼女は感嘆すべき落ち着きと平和を表していた。」(90)

数日後、マドレ・ピラールは語っている。「・・・ (秘書は)会合が開かれないようにと私に伝えてきました。その理由は、第一。私が再選されるだろう、だがそれは受理されないだろう、そして彼らは、私がそのために辱めを受けることを望まないから。第二。私が四人の女性たちに対するあなたがた長上たちの信用を失わせたから。第三。総会に出席することになっているその他のメンバーは年配の会員で、彼女たちも私の味方であるから。第四。会則によって任期を終えている院長を、私が移動させなかったから。第五。修練長の任命のため。」(91)
秘書は、出来るだけ早くマドレ・プリシマを総長代理に任命しようと急いでいた。マドレ・ピラールは5月12日か13日にローマを発ちたかったが、体調が優れなかった。既に疲れ果てていたので、このひどい打撃がこたえたのは驚くに値しない。外面的には非常に落ち着いているように見えた――これには大きな努力を要したに違いない――。が、彼女という一人の人間は、この事件の初めから終わりまで、ただ魂だけに影響を及ぼすのでなない悲しみを経験しながら生きたのだった。彼女は少し回復するまでローマに滞在する許可を枢機卿に求めた。(92) 修院長が彼に理由を説明するために参上した。そして同伴したマドレ・フリア・エルナンデスは、マドレ・ピラールと一緒にスペインに行く許可を枢機卿に求めた。彼女らは二人とも強い印象を受けた。マドレ・ピラールに向けられた強い敵意をその雰囲気の中に認めたからであった。「この訪問から非常に驚いて帰ってきたマドレ・パトロシニオは言った。『マドレ・ピラールがすぐお出かけにならなければ、ここにいらっしゃる間に、事の全てが明るみに出てしまうでしょう。』」(93)
マリア・デル・カルメン・アランダは、マドレ・プリシマの行ないに憤慨し、マドレ・ピラールに対する不当な扱いを悲しみ、聖省に訴えた。しかし、まさにその手紙によって、枢機卿と秘書は、総長代理の任命を急ぐことに決めたのであった。

「・・・ 先ず第一に、英雄的で聖なるマドレ・サグラド・コラソンが」

マドレ・サグラド・コラソンは、悲しみの、しかし同時に恵みでもあるこれらの日々を、悲痛な心で生きていた。おそらく彼女は、ほとんど彼女独特とも言える特別な仕方で、会における自分の使命を感じていたのであろう。数年後、最も困難だったその時期を回想し、彼女の人生における里程標となった他の幾つかの時期と重ね合わせていた。

  「それから5月がきました。そして、イネス (94) がマドリードで任命される日である13日がやってきました。十一時半頃、マドレ・マティルデが休憩室でイネスのところへ来て言いました。『総長様は退位させられました』と。イネスは彼女の部屋へ跳んで行き、これを確かめ、彼女を慰めようとしました。」(96)

まさに偶然の一致だった。会の最初の総会が、創立者姉妹の妹のほうを総長として選出した1887年5月13日から、ちょうど16年経っていた。あの日、マドレ・サグラド・コラソンにとって最も難しい存在の一人だったマドレ・ピラールは、彼女に一つの大きな悲しみを与えた。今回の5月13日にも、彼女はマドレ・ピラールのために苦しんでいた。しかし、この二つの5月13日の状況は何と異なっていたことであろう!マドレ・ピラールは今苦しんでいたが、以前のように謀反や不平不満の悲しみからではなかった。今は悲しみによって清められ、彼女は他人を慰めることが出来た。マドレ・サグラド・コラソンははっきりとこのことを述べている。マドレ・ピラールは「彼女を慰めようとしました」と彼女は言っているが、成功しなかったらしい。ラファエラ・マリアはドロレスを非常に愛していたので、わずかな慰めの言葉では彼女の目から、あるいは心から、涙をぬぐうことは出来なかったのである。――二人は常に姉妹であったが、あの5月13日には、かつてないほどに姉妹だったのである――。
5月15日の午後2時、枢機卿の秘書が教令を布告するためにスピットホーバーの家に到着した。聖省に訴えたマリア・デル・カルメン・アランダの抗議にもかかわらず、ルペルト師は共同体を呼び集めた。親切心から彼は、新しい統治グループが発表される時、マドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールはもし望むならその場を欠席しても良いとした。
この日々におけるマドレ・サグラド・コラソンの態度は、マドレ・カルメン・アランダとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスによって詳しく述べられている。(97)

  「終生誓願を立てた会員たちは、祈祷所の隣の部屋に急いで集合した。その中には第一に、英雄的で聖なるマドレ・マリア・デル・サグラド・コラソンがいた。[・・・] ルペルトは教令を自分で読みたがったが、最終的には、マドレ・ピラールもマドレ・サグラド・コラソンも出席しないようにと言って、秘書が読み上げることに同意した。(98) マドレ・サグラド・コラソンはその免除を断った。彼女はただそこに居合わせただけでなく、秘書が非常に動揺したのを見て彼女は『もしあなたがお読みになれないなら、私が教令を読みましょう』と言った。『あなたが?マドレ.』驚いて秘書が答えた。『はい。』――マドレ・サグラド・コラソンは答えた――『私は杯を澱(おり)まで飲み干しとうございます。』
終生誓願を立てた会員が全員出席したところで、秘書は、聖省がマドレ・ピラールの総長職辞職を受理し、統治は今マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマに委譲された、という内容の教令を読み上げた。(涙の洪水がこの発表を迎えた)非常に落ち着いて冷静だったマドレ・プリシマは立ち去ろうとした。その時マドレ・マルガリータが――マドレ・サグラド・コラソンが報せたのだと思うが――私たちが従順を捧げねばならないことを彼女に思い出させた。彼女は戻ってきて腰掛けた。そして私たち全員は、マドレ・サグラド・コラソンから始め、跪いて代理者の手に接吻した。皆がこれを終えた後、私たちは祈祷所か、どこでも出来るところへ行って泣いた。
マドレ・サグラド・コラソンは泣かなかった。しかし、縁に隈が出来、沈んだ目をした彼女の青ざめた顔は、非常に深い悲しみを表していた・・・。」(99)

マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはマドレ・マリア・デル・カルメンほど二人の創立者姉妹を賞賛することはしなかったが、その彼女が短く述べている。

  「最初に跪いてマドレ・プリシマの手に接吻したのは、会の創立者であるマドレ・. デル・サグラド・コラソン・ポラスであった。彼女は従順と剛毅を示してこれを行った。この段階が彼女にとってどれほど辛いことであったか、私たちは理解しなければならない。」(100)

マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはこう結んだ:

  「こうして、非常に性急に行われ、決して忘れることの出来ない、二倍の苦味を皆に残すこととなった裁定は幕を閉じた。」

秘書のマドレ・ルス・カスタニーサは記録している。

  「マドレ・マリア・デル・カルメンは非常に心配し、この尊敬の行為を行うことをためらっているかのように、往ったり来たりしていた。しかしとうとうマドレ・サグラド・コラソンが彼女に合図して近づかせた。それから他の補佐たちと、残りの会員たちが後に続いた。共同体は幻を見ているかのようだった。」(101)

「・・・ 主が槍で貫かれた時刻」

マドレ・ピラールは、秘書が教令を読むため修道院に来ていることを知った時、聖堂へ行った。しかし先ず、マドレ・ルス・カスタニーサに二言三言話し、「主が尊い聖心を槍で貫かれた時刻にそれが行われる」ようにとの望みを表した。(102) その時午後二時だった。マドレ・ピラールは、全てが三時までに終わるよう、皆に急ぐように願った。(cf. ヨハネ19.28)
マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダによれば、秘書はマドレ・ピラールに次の祈りを書き写した紙を手渡した。「ああ、やさしいキリスト、あなたは砕かれたパンと御体を、踏み潰されたぶどう酒と御血を合わされました。私は挽(ひ)かれ、粉々にされ、踏みつけられ、辱められるために、自分自身を捧げます。姉妹たちに対するあなたの愛と、彼女らの一致と調和が保たれ、神であるあなたが、この世ではあなたの豊かな恵みによって、あの世では永遠の栄光の絶えざる一致によって、私をあなたと一致させて下さいますように。アーメン。」マドレ・ルスは、義のために迫害されている、そして、一致を望み、そのために闘っているどんなキリスト者にも非常に適切な祈りであると思って、これをラ・プエンテ師の黙想から書き写した。(103) その祈りはマドレ・ピラールがその時感じていたことに大変近かったに違いない。彼女はまた、ラ・プエンテ師の対話の中に含まれているものと似た考えを、自分の言葉でしばしば表明していた。彼女の信仰の土壌に深く根をおろしていた他の幾つかの考えも、彼女の心と唇に上ってきたことであろう:「イエスは聖体のうちにご自身を私たちにお与え下さり、それとともに、そのご生涯とご死去のうちに含まれる全てを分け与えて下さいます。ですからキリスト者は、自分の身に起こる全てを、黙って忍び、受け入れること以上の何物も求めるべきではありません。」(104) 「私が主の聖なるみ旨を果たしますように。たとえ私自身の罪のために十字架に付けられたとしても。」(105) 「まったき信仰と希望と愛をもって神に私自身を従わせること、そして、全てにおいて神のみ旨を行うこと以外に、私は何も望みません。」(106) 「ただ一つの慰めが残されています。それは、主のみ摂理です。人も物も、全ては主の御手にあります。何物も主に逆らうことは出来ません・・・。」(107)
彼女は、初めからキリストの聖心に根をおろしていた会の運命のことを考えたのかもしれない。――「神は生きておられます。神は義なる方、全能で、私たちを愛して下さる方です。そして私たちの母は?どうでしょうか・・・。もし主の御脇腹から生まれたのなら!」――そして、大地から解き放たれた力のように土台を揺るがす困難によって彼女の信頼が試された時には。「・・・ 主の聖心の祝された御傷から受けた全ての命にとっては、破壊的な地震がいつも前もって来るように思われます・・・。」(108)
おそらくマドレ・ピラールの思いはこれよりもっと単純だったであろう。おそらく彼女は考えることすらしなかったのではないか。彼女はただ、自分自身の深い経験から生まれ、他の人に何度も与えてきた助言を、自ら実行に移そうとしていただけなのであろう。「ご聖体の許に行き、聖なるホスチアを眺めることから慰めを受けないとしても、力は確かにいただくということに私は気付きました。」

終生誓願を立てた会員に教令が読まれた後、有期誓願者も呼び入れられた。

  「マドレ・ピラールは大変落ち着いておられ、礼拝をしていた一人が教令を聞きに行けるよう、代わりにその跪き台に跪きました。こんな悲しみを見たのは初めてでした。
聖体降福式の後 (109) 、マドレ・ピラール は自室へ戻られました。皆は急いでそこへ行き、彼女の足下に身を投げ、激しく泣きました。
マドレ・ピラールはとても明るく平和な様子で夜の休憩時間に参加しておられたので、その姿を見て良い感化を受けました。」(110)

マドレ・ピラールのローマでの最後の時間は、非常な単純さのうちに過ぎていった。「その同じ夜、私のそばで聞きなれた声がしました。それは、総長の座を降り、ただ私たちの一人として一緒にいるマドレ・ピラールでした。」(111)

「翌16日、彼女は何人かの人に別れを告げに行った。午後には補佐たちと総長代理を呼んで言った。

  『明日出発したいと思います。ここで何をしようというのでしょうか。人々を苦しませることでしょうか。』(112)
マドレ・ピラールはマドレ・プリシマに幾つかの許可を求めた。
『あなたはそれらを全てお持ちになっております。』と総長代理は答えた。そこでマドレ・ピラールはマドレ・プリシマの前に跪いて言った。『では、私を赦して下さるよう、皆様にお願い致します。』
それから、手を合わせ、子どものように泣きだして言った。
『会に憐れみを持って下さい。これだけをお願い致します。』」(113)

マドレ・ピラールは直ちに出発しなければならなかった。枢機卿がそう決めており、教令が読まれた翌日、秘書を通して催促状を送った。(114) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは書いている。「その手紙で満足せず、彼はマドレ・プリシマに、マドレ・ピラールを行かせるよう、そしてもし彼女が抵抗するなら、従順のすばらしさを彼女に示すように勧める葉書を書いている。」(115)
マドレ・ピラールは抵抗するつもりはなかった。彼女に命令を思い出させる必要はなかった。だいぶ良くなった時点で彼女はすぐバリャドリードに向けて出発した。
5月17日の早朝、マドレ・ピラールは院長に伴われて出かけた。二人はジェズ教会と聖ペトロ大聖堂へ行った。それから朝食のために戻り、マドレ・ピラールは、今度はマドレ・サン・ハビエルと一緒に出かけ、ゲルマニーコ教会へ行った。マドレ・ピラールは赦しの秘蹟を受けに行き、ラ・トレ師と話した。それから、彼女が行く前に彼女に会いたいと思っていた総長のルイス・マルティン師が彼女に別れを告げた。院長のマドレ・マリア・デル・パトロシニオと補佐のマドレ・マチルデ・エリスが、ゲルマニーコ教会へ彼女を迎えに行った。マドレ・ピラールの旅のお供は、最初予定されていた院長と違って、この補佐があたることになった。」(116) マドレ・パトロシニオとマドレ・マリア・デ・サン・ハビエルは駅まで行き、彼女が「感嘆すべき落ち着き」(117) を持って出発するのを見送った。マドレ・ルス・カスタニーサによると、彼女は正式に共同体に別れを告げなかった。それで、多くの者――彼女もその一人だったが――彼女が行ってしまうまで知らなかった。「その朝、いつものように、何か必要なものがおありかとお部屋に参りました時、もう彼女が行っておしまいになったことが分かりました。」(118)

「一大悲劇は終わりました・・・」

マドレ・ピラールの任期の劇的な終わりに関する全ての記事の中で、マドレ・サグラド・コラソンは第一線に現れる。マリア・デ・ラ・クルス、マドレ・マリア・デル・カルメン、そしてルス・カスタニーサは、三つの違った角度から、驚きと賛嘆の眼(まなこ)で、彼女の真に英雄的な行ないを観察した。彼女の振る舞いについての三人の描写は、彼女の真の姿を描いている。その生涯の重要な出来事においていつも示していた落ち着きと沈着さをもって、どんなに緊迫した時にも穏やかであった彼女。自分の悲しみの中に、そして、他の人々への思いやりの中に示された、人間らしい彼女。信仰、希望、愛に満ち、彼女と妹が礎(いしずえ)としての役割以外に何も持たなくなるあの将来にも、まだ、会に対する信頼を保つ務めがあることを自覚していた彼女の姿を。
マドレ・サグラド・コラソンは1903年5月の事件について、彼女なりに書いている。

  「イネスの場合とは比較にならないほど大きな、痛ましい一大悲劇は終わりました。[・・・] 前に申しましたように、私は前の晩に知らされました。しかし共同体は、総長代理に従順の行為を捧げなければならなくなった時に初めて知りました。共同体の、そして、その時はっきりと偽造の全体像が見えたある補佐たちの、悲しみと苦悩は筆舌に尽くしがたいものがあります。皆が、あるいはほとんど皆が、総長代理にあの従順の行為をすることに甘んじるのは難しいと思っていました。彼女たちは、私たちの従う義務について私が皆に話すまで折れませんでした。
その間マドレ・ピラールは聖堂で非常に落ち着いて祈っていました。そして全てが終わった時、確認のため戸口のところへ行き、とても平和な表情でテ・デウムを唱えてからその場を離れました。そして、そこに居た二日間、あらゆる場合に、良い感化と服従の聖なる模範を与えておりました。」(119)

「神は二人のために計画を持っておられました。しかし一緒に」

二人の創立者姉妹はお互いに別れを告げた。二人はまだ何年も生きるはずだった。しかし、お互いに二度と会うことはなかった。1903年5月17日の朝、はたして二人にそのことが想像できたであろうか。マドレ・ピラールはスペインへ出発した。しかし、先ず彼女は、マドレ・サグラド・コラソンが数年前にしたように、ロレトの聖地を訪れた。これから二人を結びつける何と多くのものがあったことか。マドレ・ピラールの旅行はとても長かったので、彼女は列車の窓から過ぎ行く景色を眺めながら、自分の全生涯を振り返ることが出来た。ペドロ・アバド、マドリード、マドリード、ローマ・・・。何と多くの段階が、道が、疲労が、暗闇と光が、悲しみと喜びがあったことか!マドレ・ピラールは列車の中で祈ることが大変好きだった。――彼女はその生涯に何マイルも旅し、たくさん祈ってきた!――彼女の秘書は語る。「彼女には、列車から教会の塔が見えた時や、山の中で病人にご聖体を運ぶ司祭の姿を遠くから見つけた時、主を礼拝する信心がありました。」(120) ロレトへの道中、そして後にはスペインに向かう途中、遠くに見ることが出来た小さな塔は、最終的に彼女の生活、特に最後の数年間における生活のバックミュージックとなる、あの礼拝の姿勢を彼女に保たせた。青年時代から熟年時代まで、マドレ・ピラールは非常に長い過程を経て旅してきた。彼女は聖人たちの決意と寛大さを持って、家庭を、ペドロ・アバドの両親の家を出た。が、まだ事物に、自分自身の意見に、完徳に対する自分の望みにさえ、非常に執着を持っていた。彼女はその頃のことを、遠くの霧の中に、しかし非常に近くに見た。自分の生涯を思う度に、彼女は柔和さと強さを持った妹の単純な姿を見た。このずっと前、彼女は自分の召し出しの物語を書き始めていた。「アンダルシアの小さな町で、二人の少女が、家族の大きな愛に包まれて、大事に大事に育てられました。」彼女の生涯の最初の部分は、この単純な文が示すように澄み切っていた。後に・・・「神は二人のために計画を持っておられました。しかし一緒に・・・。」マドレ・ピラールがこれを書いた。そう、二人は一緒だった。しかし妹の方が姉より先だった。彼女は妹から多くを学んだ。が、いつもそれらを理解したわけではなかった。それから彼女の過失が、生涯のあの一大過失が、彼女に誤った道を選ばせた盲目がやってきた。[・・・] 最後に、清めとなる悲しみ、そして、神と人々の前にまっすぐな心で振舞いたいとの望みが表れた。単純化の全過程である。そして今、彼女は、再び妹が自分の前に辿った道、自分にとっては新しい段階を歩み始めていた。沈黙のうちに人の目から隠れて生きることを、彼女は妹から学はなければならなかった。ラファエラ・マリアが既に熟練していた仕事に取り掛からなければならなかった。人から見られることも認められることもなく、建物を建てる手伝いをすること、気付かれることも理解されることもなく、愛し、一致を生み出すことがその仕事であった。
列車はほどよい速さでスペインに向かっていた。彼女の人生の列車はもっとずっと速く走ってきた。それにしても、何と多くの駅があったことか!道中何と多くの道連れがあったことか!そしてその全てに神に現存があった。後から付いてきて、警告を発し、支え、要求したあの現存が。彼女は数年前、その単純な自伝的物語の中に書いていた。「主よ、あなたは祝せられますように。あなたに罪を犯し、侮辱した者に、大きな憐れみを示して下さったからです。あなたはいつも彼女の後から付いてきて下さいました。そして、彼女が逃げると、近づいて (121) あなたの息吹を注ぎ、恵みを与え、(弱さのため)、それ以上に、心が愛に乏しいために、大変実行困難であると後に分かったことを、自分では気付かずに祈り求めるという具合に、その魂を扱われました。」(122)

第4部 第6章 注

(1) マリア・デ・ラ・クルスに回収された議事録、年代記 Ⅲ 856ページ。
(2) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、同上、656-57ページ。議事録原文は事件によって失われた。後に説明する。マリア・デ・ラ・クルスとマリア・デル・カルメン・アランダのコピーのみが実在する。
(3) 主としてクリスマスの最後の祝日に言及している。その日々、修練女と志願者たちは補佐たちの判断により、踊ったり歌ったりして至極楽しんでいた・・・。「総長は、クリスマスの日々に何か特別なことをしても別にかまわない。毎年その頃にはもっと楽しんでいた、と反論した。マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマは、ある程度は良いが、これでは度を越している。誰かにむりやり踊らせたりしていることもある。気晴らしのためとか、毎日のようにするのはどうかと思う。」(マリア・デ・ラ・クルス同上、855-56ページ)。踊りについてのやりとりには興味がつきない・・・。
(4) 1902年1月29日に書かれている。
(5) ウラブル師のこと。
(5)* 1902年2月9日、マドレ・プレセンタシオン・アローラスへの手紙。
(6) 年代記 Ⅲ 881ページ。
(7) 会の古い友人であるエンリケ・ペレス師は枢機卿とともに全ての出来事に介入していた。
(8) マドレ・ピラールの歴史 Ⅹ 341ページ。その時確かに、ある点について、実際には手紙全体に反駁したと付け加えている。手紙の執筆者――ルペルト・デ・マンレサ師。カプチン会、枢機卿秘書――が修道会の特質であるイグナチオの精神を無視し、あるいはよく理解出来なかったこと、また総長に反対する補佐たちの訴えの中に、どうでも良い事と、より重大なこととが混ざっていて混乱を引き起こしていること、全般的に、正確さの欠如が目立つことに基づいて、その歴史的な言及に疑問を投げかけている。(マドレ・ピラール.史  Ⅹ341-56ページ)。
(9) 同上。350ページ。
(10) 1902年4月11日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。「Don Leandro」というのは「Leandra」から来ている。マドレ・ピラールを、そう呼んでいた。そして彼女自身、信頼している人々への手紙に使っていた。
(11) 総長秘書のマドレ・ルス・カスタニェサ。
(12) 1902年4月14日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(13) 1902年5月2日の顧問会議事録から。マリア・デル・カルメン・アランダのマドレ・ピラールの歴史 Ⅺに取り入れられた。83、84ページ。
(14) 1896年カディスの共同体への公式訪問における訓示。一修道女による覚書。
(15) «マドレ・マエストラ・デ・コロ»というのは典礼係の修道女のこと。
(16) マドレ・ピラールの死後マドレ・インマクラダ・グラシアによって書かれた証言。
(17) マドレ・マリア・デル・サルバドールから口頭で受けたマドレ・トランスフィグラ シオン・バルデロマールの証言。
(18) 1896年7月3日、マドレ・パトロシニオへの手紙。
(19) 1902年9月9日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。同じ見解が他の手紙にも現れる。「退屈な時はご聖体の前にいらして下さい。そこで根気よく続けられ、また、たとえ慰めを感じないとしても、強められるでしょう。(1903年2月2日、マドレ・ナティビダ・オルエへの手紙)。「・・・ ご聖体のイエス様の前にいらして、たとえ我慢してでもご聖体をじっと見つめていらっしゃい、最初は慰めをいただけなくても、少なくとも不屈の精神を頂くでしょう。」(1903年6月1日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙)。
(20) 1902年4月6日、顧問会議事録。マリア・デル・カルメン・アランダのマドレ・ピラールの歴史 Ⅺ 27ページに取り入れられている。
(21) 年代記 Ⅲ 946ページ。
(22) マドレ・ピラール史 X 175ページ。
(23) 同上。XI 92-93ページ。
(24) 1902年1月19日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(25) 1902年1月21日、同上。
(26) 修道会のことを言っている。
(27) 1902年2月12日、(25)と同じ。
(28) 1902年8月10日、同上。
(29) 1902年5月10日、同上。
(30) 修道会の初期のグループに属していた三人で、創立者姉妹を特に愛していた。
(31) 当時修道会では、目下に手紙を渡す前に院長が受け取り開けるのが普通の習慣であった。聖心侍女会会憲は述べていた。「… 手紙は最初に院長に、そして院長が本人の善と神の栄光のためになると考えるなら本人に渡す又は渡さない」とある。(第二部 300)マドレ・サグラド・コラソンもこの点、特別の理由で特権を受けなかった。後でこれについて説明する。
(32) 日付のない手紙。多分1902年6月1日に書かれたものであろう。
(33) 1902年6月5日の手紙。
(34) 1902年4月23日の手紙。
(35) 1902年6月5日の手紙。
(36) マリア・デ・ラ・クルス とマドレ・サグラド・コラソンが、ロレトへ巡礼したとき以来、特に鮮明に印象に残っている、キリストの幼年時代の神秘を思い出すため、一致のしるしとして互いに送っていた、幼子イエスのご絵のことを言っている。ヴィリャ・スピットホーヴァーはローマの新しい共同体だった。
(37) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス の姉妹。やはり聖心侍女。
(38) 1902年4月の末に書いた手紙。
(39) この委員会の前に司教はマドレ・プリシマの願いでオベリスコの家を訪問していた。マリア・デル・カルメン・アランダによれば、マドレ・プリシマは、司教が総長の側につくのではないかと恐れていた。彼女はこの二人がもう話し合ったのでは、と疑ってさえいたが、そうではなかった。オベリスコに着いた時、司教はまず起こっている問題について知らせを受けた。彼は大変驚き、マドレ・ピラールは動揺した。(アランダ、マドレ・ピラール史 97ページ)。
(40) マドレ・ピラール史 Ⅺ 99ページ。
(41) 同上。102ページ。
(42) 同上。109ページ。
(43) マリア・デル・カルメン・アランダ, マドレ・ピラール史 Ⅺ 110-11ページ。
(44) マドレ・ピラール史は相当長期間に書かれた。1903年から1912年の間のことを含んでいる。
(45) 同上。116ページ。
(46) 同上。90-91ページ。
(47) 1902年8月20日の手紙。
(48) この名前で彼女自身に言及する。
(49) マドレ・サグラド・コラソンは、現在聖ペトロ大聖堂の広場の中心にあるオベリスコの移転に関するローマの伝説に触れている。1586年、それをもとあったネロ皇帝の円形競技場から現在の場所へ移すことを命じたのは皇帝シクストゥス五世であった。群衆の叫び声が、その大工事を行っている人々の注意をそらすことがないよう、見物人が一声でも上げるなら死刑に処するとした。しかしながら、太綱の一本が燃えているのを見て、村の一婦人が自分を制しきれずに叫んだ。「綱に水を!」と。こうして事態は救われ、当然彼女は罰を免れた。この史実を引用し、マドレ・ピラールに会の救済者の役割を与えている。
(50) マドレ・サグラド・コラソンの自筆の原稿。
(51) 修道会のことを言っている。
(52) 自分自身のことを言っている。1902年8月28日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスとフィロメナ・ゴイリへの手紙。
(53) マリア・デル・カルメン・アランダ, マドレ・ピラール史 Ⅺ 127-28ページ。
(54) マドレ・ピラール史 Ⅺ 129-30ページ。
(55) Normae secundum quas S. Congr. Episcoporum et Regularium procedere solet in approbandis novis institutis votorum simplicium (ローマ1901)。
(56) マリア・デル・カルメン・アランダが記している。
(57) 管理運営について、また、統治に対する補佐たちの介入をめぐって討議された幾つかの点に触れている。
(58) マドレ・ピラール史 Ⅺ 148-49ページ。
(59) 会憲のこと。
(60) 1902年12月15日、マドレ・プレセンタシオン・アローラへの手紙。
(61) ラ・トレ師を指している。彼自身も何度かこの名で署名している。
(62) マドレ・プリシマは、全てを意のままに行い、それは敬意を払うべき共同体の行事にまで及んだ。彼女の興奮は大変なものだった。息抜きのためか、自分の位置を確かめるためか、彼女は「教会の祈り」の途中で聖堂から出て、ベルを鳴らした――それは修道院で普通に行われていたやり方、つまり、受付からベルを鳴らして呼んだのである――院長を、そして私もある日呼ばれた。そして非常識なことを言い始めた。それを聞く人に悪い結果を生むのは必至だった。院長は彼女が退会するのではないかと非常に恐れた。会の中であれほど多くの人を養成してきた彼女が。(マドレ・ピラール史 Ⅺ 151-52ページ)。
(63) マドレ・ピラール史 Ⅻ 50ページ。
(64) 年代記 Ⅲ 1035-36ページ。
(65) 同上。
(66) この祈りに関しては、ローマの聖心侍女の文書庫に、マドレ・ピラールの幾つかの原稿が保管してある。会のいろいろな家から出てきたものである。その全ては封蝋により封緘(ふうかん)され、祭壇の聖石に置かれていた。
(67) 1903年2月10日、マドレ・ナティビダ・オルエへの手紙。
(68) 1902年4月17日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(69) 1903年2月23日、マドレ・ナティビダ・オルエへの手紙。
(70) 会憲で規定された十二年という期間に代えて。
(71) 聖省庁長官フェラータ枢機卿の導きのもとに、会の保護者であるホセ・デ・カラサンス・ビベス枢機卿に宛てて、イタリア語の原文からスペイン語に訳されたもの。1903年3月24日。
(72) マドレ・ピラール史 XⅡ 33ページ。
(73) 審理がマドレ・ピラールに有利な方向へと進んでいく場合には、マドレ・プリシマは他の修道会に移ることを考えていたことを、マドレ・マリア・デル・カルメン、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス はともに認めている。アランダ、マドレ・ピラール史 XⅠ253ページ; マリア・デ・ラ・クルス、年代記 Ⅲ 1055ページ参照。
(74) マドレ・プリシマ。
(75) 保護枢機卿を指している。
(76) 1903年5月8日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(77) マドレ・サグラド・コラソンは秘書のルペルト・デ・マンレサ修士について述べている。「血気盛んな修道士で、若くて経験に乏しく、その上精神錯乱で苦しんでいました。」と。(間違いなくボローニャの共同体の公式訪問のため1907年に書かれた自筆の原稿)。
(78) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ34-39ページ。
(79) 1903年6月1日、マドレ・ナティビダ・オルエへの手紙。
(80) 1903年5月8日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(81) 年代記 Ⅲ 1049ページ。
(82) 同上、1054ページ。
(83) 同上、1056ページ。
(84) 同上、1057ページ。
(85) ローマの共同体の一人の会員。この問題とは無関係。
(86) 年代記、1057-58ページ。
(87) マリア・デル・カルメン・アランダはここに付け加える。「マドリードの司教が総長と補佐たちに書き取らせ、お願いしたことについて。後に記載しているとおり、補佐たちは否定した。総長は司教の判断に従った。そして、一つではなく皆のを送ると伝えたにもかかわらず、総長だけのを送った。そしてそれに固執した。
(88) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅢ 54-55ページ。
(89) 1903年6月1日の手紙。
(90) マドレ・ピラール史 XⅡ 58ページ。
(91) 1903年6月1日、マドレ・ナティビダ・オルエへの手紙。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは注解している。「院長たちが再選されず、他の会員たちが適切に任命されなかったこと」の動機について、「修道会に、歴史に、状況に訴えます。私どもの会憲は規則ではありません。補佐たちは院長任命の諮問機関に過ぎません。総長様は常に私たちに相談していました。もし時間が与えられれば私はこれらの相談のいくつかを引用することが出来ます。[・・・]。私が提案したことに、どのように答えられたか。私のように人間的な動機ではなく、超自然的な動機に基づく理由をあげて答えられたことを。そして人選に於いて時に間違いがあったとしても、少数でした。院長職の期間の延期については、私の判断では、これらの三つの理由で足りると思います。全てにおいてイエズス会をお手本にしたいのではないですか?イエズス会では時折かなり年配の会員に院長職を務めさせています。これが第一の理由であれば、第二もそれに関連します。養成された人材の不足と、総長と補佐たちの絶えざる不一致が、これらの変更を困難なものとしていました。最後の第三は、補佐たちは今まで移動について何も言っていませんでした。もし言えば確かに総長はすぐに応じていたでしょう。」(マドレ・ピラール史 XⅡ 67-68ページ)。
(92) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス は書いている:「マドレ・マリア・デル・ピラールは本当に体調がすぐれなかった。[・・・] 多くの仕事をかかえていたから・・・。」(年代記 Ⅳ6ページ)。
(93) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 59ページ。
(94) 「イネス」の名前については、マドレ・サグラド・コラソンが自分のことを指している。
(95) 光り、電光。
(96) マドレ・サグラド・コラソンの自署。1907年、ボローニャの公式訪問の準備の原稿。
(97) 「(マドレ・サグラド・コラソンは)マドレ・ピラール に何かが起こったことが分かったが、補佐たちには何も知らないようにふるまった。休憩時間には、わざとらしいくらい明るく元気に振舞っていた。マドレ・ピラールが免職させられたと知った時叫んだ。『ああ、お願いです。そんなことをおっしゃらないでください。修道会を見て下さい。』と。いつも目立たない仕事に精出し、いつもとても熱心に夜と昼の礼拝をし、いつも一番最初に…。」(アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 74-75ページ)。
(98) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、その頃の出来事の性急さを強調している。彼女自身、総長補佐でありながら、その頃の公表を知らなかった。彼女はその印象をこのように述べている。「1903年5月15日の午後3時、共同体がローマの修道院で集まって会則の霊的読書をしていた時だった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスが気付いた時には、一人また一人と補佐が呼ばれて出て行き、そしてその家の院長も出て行き、他の何人かのマドレと彼女が読書に残っていた。しかし、何のためか分からず、驚き心配しながらも読書を続けていた。彼女も呼ばれた。行かなければならない所に着く前にマドレ・マリア・デル・カルメンに出くわした。カルメンはメモ用紙を見せた。それは出来るだけ早くお考えをおっしゃって下さるように望んで彼女が聖省長官に書いたもので、同意するようにとのことだった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは驚いて、すぐに、まだその時期ではないと答えた。部屋に呼ばれた。終生誓願のマドレスと総長補佐が集まっていた。総長は不在だった。大急ぎで、皆が集まるとすぐ、そこに集まっていた共同体に聖省の指令を読んだ・・・ 。」(年代記 Ⅲ 1065-67ページ)。
(99) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 77-78ページ)。
(100) 年代記 Ⅲ 1067ページ。
(101) 1937年コチャバンバで書かれた報告書(題名なし)。12ページ。
(102) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 77ページ。
(103) 第4部、黙想13。
(104) 霊的手記 1906年。
(105) 1902年3月14日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。
(106) 1902年4月4日、同上。
(107) 1902年11月9日、同上。
(108) 1898年11月14日、マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(109) 会では毎日の聖体顕示は午後の聖体降福式で終わった。
(110) アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 79ページ。
(111) 報告書、12ページ。
(112) マリア・デル・カルメン・アランダは、マドレ・ピラールが特に親しくしている何人かのエルマナス――その中には彼女自身と秘書も含まれるのだが――のことを指しているのに気付いた。
(113) マドレ・ピラール史 XⅡ 79-80ページ。
(114) マドレ・プリシマへ手紙にこうにあった:「・・・重大な理由が発生する場合を除き、命じられたことの実行を本日以降に延期することは出来ないと申し上げねばなりません [・・・] その判断はビベス枢機卿閣下が持っておられます・・・。」(マリア・デ・ラ・クルス, 年代記 Ⅳ 3ページ)。
(115) マドレ・ピラール史 XⅡ 83ページ。
(116) マドレ・サグラド・コラソンから信頼されており・・・、常に忠実に応えていたマドレ.・.マドレ・マティルデ自身。マリア・デル・カルメン・アランダは、この点でマドレ・プリシマは常に彼女のことを特別に評価していたと強調する。(マドレ・ピラール史 XⅡ 81ページ)。
(117) 同上、82ページ。
(118) 報告書 12ページ参照。
(119) ボローニャの共同体の公式訪問のため1907年に書かれた自筆の原稿。
(120) 報告書 7ページ。
(121) 聖アグスチヌスの「告白」の感嘆の叫びが思い出される。「いたるところから御身が近づいて来られるのが分かりました。」(告白 Ⅷ 1:PL 32,748)。
(122) イエズスの聖心の贖罪会の源泉と創立の要約。1877年8月にマドリードで書かれた未完の報告書の初め。