第2部 第2章 会の初期の発展(1880-83)

発展を導く一致の力

これからの時期は、ラファエラ・マリア――マドレ・サグラド・コラソン――の豊かな個性が、いろいろな形で現れる機会となる。「現れる」というのは、彼女に於いてはあらゆる面での人間としての成長が長年月にわたって見られたのは事実だが、その人生においては、急激な変化も見られないからである。この時期に開花した全て恵まれた性格、堅固さ、不動の態度、勇気、優しさ、理解など、性格上の長所と、厳密な意味での超自然的美徳の全て――が彼女の人格の底にある豊かな泉から流れ出ていることは確かである。生涯のどの時期をとってみても、根本的な原理を、生命を賭けて完全に具現したということをはっきりと言える人は稀である。
マドレはずっとマドリードに住んでいた。たとえちょっと旅行をしても、すぐマドリードに戻らなければならなかった。マドレ・ピラールはスペインの諸所を経巡り、会の外的な発展に尽力したのに対し、妹は最初の家からこの発展を指導していた。それには種々の仕事があった。いろいろな教区の司教に手紙を書いたり、面談したり、マドレ・ピラールに手紙で指示したりしている。(二人の間には興味深い文通がなされる。) 新しく創立された家に移った会員の個人指導をも怠らず、度々急いで訪問して彼女らを喜ばせた。
もう一つのマドレ・サグラド・コラソンの仕事は、修練女の養成であった。かなり多くの志願者が入り、修道生活の初期を、創立者と直接の交わりを持つ幸運に恵まれた。それぞれの家が友情によって固く結ばれるための、心の深い一致のうちに、会が力強く発展して行ったことは、教会と会という大きな共同体の中にある各共同体の貴重な価値を愛するというもともとの望みと共に、世界に広がる望みを全ての人の中に植えつけるよう、マドリードから院長が努力していたことを考えなければ理解出来ない。初期の会員の一人は彼女について「姉妹たちの心を形作った心である」と言った。その通りだった。
マドレ・サグラド・コラソンの第三の仕事は、会と会憲が教皇庁から認可されるよう努力することであった。膨大な手続きの間中持ち続けていた望みは、彼女の忍耐強さの証拠となり、決断力があり、思慮深い女性であることを表している。社会の中で良い人間関係を保つことも出来、自己を浪費しない分別をも備えていた。さまざまな教養と状況にある人々との交わりに要する異なったニュアンスに敏感であった。困難にあってもためらうことなく、さりとてそれぞれの事柄に性急なところもない。この仕事に対する努力は、ついに1886年1月24日に称賛」の教勅を与えられ、その翌年に、是認の教勅を与えられることによって報いられた。前世紀の他の修道女会が経なければならなかった試しの期間と比較すれば記録破りということが出来よう。(1)
マドレ・サグラド・コラソンにとってこれら三つの主な活動は、その生涯における個々別々の仕事ではなかった。それら全ては年代的に続いているだけでなく、相互関係がある。他の教区に於いて会が認容されるためには、ある教区では、種々の重大な妨げにぶつかるということを知らないならば、聖座の認可を得るために非常な関心を示したことが理解出来ないであろう。いろいろな町に拡がって行くように、会の生命力そのものがどこまで推し進めたかを理解しなければ、その世界に拡がる心を十分に評価しないであろう。他方それは、会が堅実であることの保証として聖座そのものによって要請される条件である。会が発展し、諸所に創立されるために要請される奉献の理想を、具体的に表す必要がある――それは彼女自身が数年来生きてきたことであるが――ことを知らなければ、彼女が修練女一人ひとりに与えた堅固な養成も理解出来ないであろう。

「この会が誕生した地」

 「本会を構成する修道女の数が増してまいりました。また、これらの修道女の大部分はコルドバ市、そして閣下の統治しておられるコルドバ教区の出身者でございます。それゆえ、首都マドリードに教会法に従って創立されている本修道会の分院をそちらに設立したいと希望致しております。それは、先ず会の誕生した地に本修道会が広がり、それによって本会の目的、つまり、聖体礼拝と、恵まれない子供たちへの無償の教育、及び、この手紙と一緒にお送りする会憲に記された他の仕事を果たして神に栄光を帰すことを願っているからでございます。」

 このように、マドレ・サグラド・コラソンは、1880年8月18日、コルドバの司教に書簡を認めた。書類は公式な口調であるが、心に訴えるものがある。「先ず会の誕生した地に本修道会が広がり・・・」その通りである。数ヶ月前、カナリア諸島の司教ポスエロ師が、その島に本会の修道院を設けるようにと願ったが、それは断らなければならなかった。しかしコルドバのそれは違う。コルドバに創立すれば、劇的だったあのエピソードで失われた全ての人との平和と友情を回復することが出来るからである。コルドバからは会員の家族や知人たちが呼んでいるし、特にあの頃の無理解で非常に苦しんだ司祭たちが望んでいる。セフェリーノ師も彼らしいそっけない慎重なやり方だが、彼の親切を表したいという大いなる望みを持って彼女らを招いていた。最後にその土地も彼女らを呼んでいた。「本会を構成しているコルドバ市と教区の出身者」の単なる自然の愛着によるのではなく、彼女たちの大部分が、コルドバ市か地方に財産を所有していたので、隔たっていることは非常に不便であったからである。
創立の手続きを始める前に、会が教区の管轄でトレドの枢機卿に属していたので、彼の指示を仰いだ。彼は、嘆願書をコルドバの司教に書く時に、会はマドリードに教会法的に設立され、その教区では規約は決定的に認可されていることを書くようにと勧められた。過去の不愉快な経験によって躓かないように、最大の賢明さを旨とした。会の規約と精神が危険に瀕するくらいなら、全ての創立を断るつもりであった。
用件を早く運ぶために、9月にマドレ・ピラールとマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオはコルドバに出かけた。後者はセフェリーノ師からよく評価されていたホセ・マリア・イバラ師の妹である。
コルドバ市に着くと、すぐ司教のところに出頭した。マドレ・ピラールはこの司教を非常に尊敬していた。1877年2月のあの事件の後はじめて訪れた時、言葉を発することが出来なかった。(彼女は臆病なたちではなかったし、あらゆる種類の人と話すのには慣れていた。)にもかかわらず、今回は、全てはよく行った。その面会のことは、マドレ・サグラド・コラソン宛の聖職者の手紙に次のように書かれている。「もう全てがよく行きました。イエズス会が指導をすること?それは大丈夫でした。修道院はすぐ手に入り、毎日の聖体顕示も大丈夫です。あなたの会の中で決まっていることを全部行う自由があります。目の瞳のように可愛がられている子供ですから。そうなりますように。これ以上は望めないでしょう。」(2)
彼が好意を持っているしるしとして、教区は、ハリハ朝時代の小さな回教寺院の上に建てられた、サン・ホアン・デ・ロス・カバリェロスの古い小教区を会に寄贈した。寺院の内部は回教徒のものであった跡は全くとどめず、その後の修復によって、中世期のスタイルの跡も全く消されてしまった。しかし外から見ると、風通しの良い、昔の回教寺院の塔が残っている。ともかく教会の寄贈は大きなことだった。その建物を拡げる可能性は十分にあり、サン・ホアン小教区の隣にある小さくて汚い家が借りられ、周囲の家々を段々に手に入れて行けば、拡げることができるだろう。
マドレ・サグラド・コラソンがこれらのことを知った時、セフェリーノ師の様子について感嘆せざるを得なかったであろう。マドレ・ピラールは「司教館から喜んで紅潮して帰ってきたところです。司教様は私たちに対してすっかり父親らしくなられました。その通りなのですが信じられないほどです。司教館の聖職者も家族の者たちも同様です。感心しています。[・・・] 司教様は家を見に連れて行って下さり、非常に行為を示し、優しくして下さったので、びっくりしました。」(3) コルドバの家が創立される所は、二人の創立者はよく知っていた。サン・ホアンの広場には、ラモン・ポラスとIsabel叔母が土地を持っていた。その上、マドレ・サグラド・コラソンにとっては、忘れられない思い出がよみがえってくる。まだ15歳の少女時代に、終生の貞潔を誓った教会だからである。

さまざまの冒険を共に乗り越えてきた人たちにとって、別離にはやはり悲しみが伴う。聖書のたとえを引くことの好きなマドレ・ピラールは、マカバイ兄弟とその母の犠牲をユーモアをこめて引き合いに出し、別れを励ました。「あなた――院長――はマカバイの母親にお願いなさい。こちらに来る人たちはその子供たちに、勇気を出して犠牲を献げましょう。私たちは聖人たちの子供です。この地は聖人が沢山出る所、いいえ、出た所です。」 (4)
実際には皆コルドバに行く心構えは出来ていたし、そこで有用な人々に譲るつもりもあった。10月16日、創立のために5名が到着した。駅にはマドレ・ピラールが迎えに来ていて、彼女らの家になるところに案内した。「壁をしっくいで白く塗り、最初の二人の先発隊が沢山働いたにもかかわらず、緑色の古びた戸や窓には、来る冬は寒いだろうと思わせる穴が開いていた。[・・・] 部屋は天井が低くて梁に手が届くくらいで、出てきたあの立派な修練院とは雲泥の差であった。しかしそれはどうでもよいことで、喜びで一杯だった。時には愛する院長と、ここにいない姉妹たちのことを懐かしく思い出すのではあったが。」 (5)
コルドバに送られた一人の会員は、最初の印象をマドレ・サグラド・コラソンに書き送った。「マドレ・ピラールはお忙しくてお手紙が書けないと言っておられます。他の方たちも同様で、その上、机がないのです。[・・・] 皆からよろしくとの事です。マドレから離れた今、お目にかかれないということがどんなことかを理解出来ました。息が詰まるほど辛いことです・・・。」 (6)
マドリードから到着した5人の修道女は、あの「マカバイ兄弟の母」から非常によく教育されていた。司教総代理は書いている。「6人のエルマナスは模範的です。哀れな私たち教会の聖職者たちだけでなく、霊的生活に明るいイエズス会士にとってもそうです。私がセルメーニョ師に、『神父様、私たちは聖女に囲まれています』と言った時、彼は何度かそれに答えて言いました。『本当にそうです。この若い人たちの前では、私たちが恥ずかしくなるほどです。どうすれば聖人になるかという手本を始終目の前に見ているのですから、私たちが聖人にならなかったら、地獄に落ちるかもしれません。』と。」(7)
「エルマナスはとても熱心で、人付き合いもよく、これ以上の振る舞いは望めないほどです。」とマドレ・ピラールは妹に書き送っている。(8) あの幸福なエルマナスには本当に良い後ろ盾がある。二人の創立者たちは、彼女たちのことを競って褒めている。マドレ・サグラド・コラソンは、コルドバ教区の聖職者に宛てて次のように記した。

 「私の愛する姉妹たちに対して神父様がいろいろご配慮くださいますことを、どのように感謝申し上げてよいか分かりません。イエスの聖心をお愛しするためにしか、別々に住むことは耐えられませんので、彼女たちのためになさって下さることは、私自身になされたかのように嬉しく思います。あなた様にお手紙を差し上げますのは初めてでございますが、いつも彼女たちをご保護下さるよう、重ねてお願い申し上げます。主において愛している娘たちでございますから、別れてから一瞬も忘れたことはございません。私たちは本当に互いに愛し合っておりますし、彼女たちは私に非常によくしてくれましたので、私が彼女たちのためにいくらしても、比べられないほどです。」 (9)

 この司教総代理自身、10月21日、共同体のオラトリオ(祈祷所)で最初のミサ聖祭を執行した。「エルマナスは祝日について詳しく書くでしょうから、一言お知らせするためにペンを執りました。あの神父様が非常に喜んでおられるのは、過去のあの事件を思い出せは、本当に奇跡のようです。」とマドレ・ピラールは妹に書いている。(10) その共同体の一員は書いている。「今日は私どもにとってあらゆる面ですばらしかったので、お手紙を書かずにはいられません。よく説明出来ませんので詳しいことは省きますが、[・・・] わたしの心は喜びでいっぱいだったことを申し上げたいのです。[・・・] エルマナ ピラールは、総長様でもあり、最も謙虚なエルマナでもあり、神様のうちに生きていらっしゃいます。ミサはあの司祭が挙行し、私の兄と、ドン・アグスティン、ドン・ラモンとその娘とマヌエラとが与りました。身分の高い、私たちと親しい方たちが、聖体訪問に見えます。」(11)
他の特別な証人もある。マリア・デ・サン・イグナシオの兄で、二人の創立者の昔の指導者であったD. ホセ・マリア・イバラで、「私には夢のように思われます。家の出入りには、あなたの良い娘たち、キリストにおける私の愛する姉妹たちの家の前を通らないことはありません。神に感謝と常に言わずにはいられません。」 (12) 彼の日誌には、慎み深い調子でその日のことが述べられている。「・・・ ドン. ラモン・ポラスがその娘とともに出席していた。玄関番のマヌエラ・カレロもいた。私も彼らと共に聖堂の入口のところに立っていた。[・・・] 8時29分に聖体が顕示された。最初の礼拝をしたのはエルマナ・サン・イグナシオとエルマナ・サン・ホセであった。」(13)
当然その共同体の世話はマドレ・ピラールに任せられていた。もちろん皆はマドレ・サグラド・コラソンを会の長上とみなしていた。二つの修道院の間の姉妹的な心のこもった度々の便りは、家庭的な雰囲気をかもし出し、それは一致を保つのに与って力があった。
マドレ・ピラールの正式な任命は、翌11月に行われた。その前に彼女自身妹に、任命されることに伴う不都合を述べている。「・・・ 私はどんな係でもお断りしませんが、院長は[・・・] 私は激しい性格を持っているので、悪い手本にならないかと恐れます。たとえ臨時であっても、たった一日でエルマナスに問題となり、悪い結果となりましょう。その上私を厭うようになれば、それこそ最悪のことで、家の良い雰囲気を壊すことになりますから。」(14)
しかし他にもっと適当な人はいなかった。この時代に彼女と付き合った人は誰でも、彼女の性格を知っていた。「用件をよくさばくので、外交官になればよかったと思うほどです。」 (15) 「仕事に伴う種々の反対やわずらわしさをどんなに忍耐強く忍び、何と賢明に私の思いつきや思慮の足りなさを我慢したことでしょう。」 (16) こう言った彼もマドレ・ピラールの限界を知っており、直接彼女に注意した。「あなたの欠点をお知らせするのを喜ばれることを知っていますので、私は見ませんでしたが、あの司祭が私に話したことを申し上げましょう。第一。頑固にご自分の意見を主張なさいます。第二。黙すべきことでも余りにも率直に話してしまい、無思慮なことがあります。それであなたとお話しするのを恐れています。というのは、あなたはそれと気付かずに、情報や薦めの出所を司教様に言っておしまいになるのではないかという心配です。それは創立の仕事と、あなたと話す方を損なうのではないかと思います。[・・・] 私が聞いたとおりにあなたにお知らせします。あなたが嫌にお思いになるか、お気に召すか分かりませんが。あなたは神の御憐れみによって光を受けてお考え下さり、本当ならば直して下さい。」 (17)
あの最初の聖心侍女たちにとっては、マドレ・ピラールの欠点は、その資質を曇らせることにはならなかった。彼女が初代の院長であったコルドバやヘレスでは、起用胴体全体から愛されていた。ある会員たちは彼女の激しい性格を知っており、時には無理なことも言われたが、非常に親しみ易いので、その欠点は覆われていた。彼女のような愛情に溢れた心からだけしか、次のような句は溢れ出ない。「あなた方皆様は、家の中、すなわち会の中にあるものに気がつかないのです。冷静に遠くから見れば分かります・・・。私たちの愛情がどれほど価値があるかがお分かりになれば!神の御目に最も喜ばれること、それは私たちの共同体の愛情です。私にお手紙を下さった方々、本当にありがとうございました。そちらの近況が非常に知りたかったのです。今日は常にもまして愛情を込めて申し上げます。あの創立の業は、神が私にお与え下さった全ての能力を捕らえてしまいます。皆様に、特に、有期誓願者にお目にかかりたいと切望していますが、皆様は私の心の奥深くにいらっしゃいますから、お目にかかれなければそれで満足しましょう・・・。」 (18)
会を構成している人々にとっては、マドレ・ピラールは二人の創立者のうちの一人である。妹の自然的補いであり、妹は全ての人から深く愛された院長であった。

最終的認可に向かって

1880年2月27日、オベリスコの家では、モレノ枢機卿より与えられた規約の最終的認可を受け取った。

 「Hermanas Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者姉妹会)の規約を検討するよう命じたところ、その規約の中には、修道者としての完徳を得、その会の目的を果たすのに何ら妨げとなるものが含まれていないとの報告を受けました。それで、この規約を認め、私の権威によって最終的に認可します。そして、この敬虔な修道会の長上と全ての会員に、この規約を、細部に至るまで守り果すように命じます。」

 枢機卿は規則を「守り果たすように」薦められた。雄弁な説教は彼女らには必要なかった。というのは、各自は、忠実に守るよう、内に励ましを感じていたからである。聖イグナチオが「愛の内的法」(19) と呼ぶ力、それは外的法の戒律に意味を与えるものである。永遠にあなたをお献げしたイエスの聖心が持っておられる、御父の光栄と人々の救霊を望む無限の愛と勇気をもって、歩み始めた道を喜んで歩き続けて下さい。修練女とあなたの全てのよい娘たちの世話をよくし、規則を遵守するように、そして元気よく喜んでいるようによく育てて下さい。」これはその年の7月15日に、院長に宛てたコタニーリャ師の手紙の薦めである。喜びと勇気は誰もが持っていた。規則に対する愛も、既に皆によく現れていた。今やマドレ・サグラド・コラソンは、規則と会に対する愛によって、聖座の認可を得るように努力するのである。
二人の創立者の持っていた最も深い愛の一つは、常に教会に対して抱いていた愛である。教会の事業に対し、また、唯一の大いなる家族に属するように召されているのに、まだ世に散らばっているおびただしい神の子らについての興味に度々よく現れていた愛であり、またそれは、教会位階に対し、キリストご自身が受肉されているキリストの代理者に対し、子供としての忠誠と、深い尊敬の念でもあった。モレノ枢機卿によって認可された規則の最後の注に、マドレ・サグラド・コラソンは、全会の名において、教会に対する従順を誓っている。「このいとささやかなSiervas Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者修道会)は、現在この会を構成している者も、また、将来これに加わる者も、一人残らず、神の恵みによって、使徒継承の、母なるローマカトリック教会と、地上におけるイエス・キリストの代理者に対する従順な娘であることを誓います・・・。」この文章は少しごたごたと続いているが、言わんとしている主なことは、非常にはっきりと記されている。その注を書いたのは、多分コタニーリャ師であろうが、二人の創立者姉妹特有の、教会に対する態度が反映されているのは明らかである。この院長は後に、「会員一同にとり、会には大きな空白が感じられます。教皇様の祝福は本当に有難く、私どもは教皇様を深く敬愛申し上げておりますのに、会はその祝福さえいただいていないからです。」 (20) その頃他の機会に、「この最も愛すべき母なる教会が、今までよりももっと豊かに私どもを祝福して下さる日は何と大きな喜びでしょう。」 (21)
この点でマドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンの気持ちを忠実に反映している。それを示している多くの逸話がある。(22)  しかしその中で一番大切なのは、会が教皇庁の認可を得るように促す、しつこいほどの望みである。
姉と同じく、確かに認可されるとの期待を持って、マドレ・サグラド・コラソンは、1880年11月21日に手続きを始めた。この日、マドリードに創設されてから3年半後に、レオ十三世宛ての嘆願書を、教皇使節ビアンキ師に提出したのである。
その時には、認可を得るのは何と易しく思えたことだろう。初期の聖心侍女の一人が、ローマについて、「普通には、全てのことは長くかかる」と言ったのを、彼女は思い出さなかった。この時嘆願書は、ローマにさえも送られてはいなかった。使節は、生活のプランの写しをマドレに依頼してきた。そうこうしているうちに、クリスマスになった。コルドバからマドレ・ピラールは、いつも認可の必要なことを言ってきていた。――セフェリーノ師が、何か会を変更しようとされるのではないかという恐れにとらわれていた――。12月29日に書いている。「いつ規則が出るのかおっしゃって下さい。神にお願いするのによい友を持っていますので、私たちも友人も一生懸命に祈るためです。」(23) しかしクリスマスの祝いの頃はなかなかはかどらなかった。使節館でも、オベリスコでも、サン・ホアン広場に於いても、キリストの誕生を祝わなければならないので、認可や規則のことなど考える暇も無かった。
1881年の1月中旬に、使節は規則を返してきた。コタニーリャ師はオベリスコ街でそれを手渡した。少し心配そうであった。幾つか訂正されていたからである。創立者はもっと心配して、早速姉を呼んだ。その月の23日にマドレ・ピラールはマドリードに赴いた。二人の姉妹はイエズス会士と共にそれを研究し、コタニーリャ師は彼のこととして使節との仲介の労をとった。この努力のおかげで本文の変更を最小限にとどめることが出来た。(24)
2月14日、コタニーリャ師はオベリスコにもう一つの面倒なことをもたらした。それは使節がモレノ枢機卿とコルドバの司教との報告書を要するということである。実際にマドレ・サグラド・コラソンは驚かなかった。彼女たちもそのほうがよいと思っていたからである。すぐにしなければならないことは、コルドバのマドレ・ピラールに知らせることである。規則をコタニーリャ師といっしょに検討するために来たが、その後すぐに、もうコルドバに帰っていたからである。「教皇使節の秘書からの写しをあなたにお送りしましたが、それを司教様にお見せ下さい。その規則に彼の手で引かれた下線のところに説明がつけてあります。[・・・] あなたもよくそれを理解し、司教様が何かお加えになりたいかどうかを伺って下さい。霊的指導について扱っている最後のところをよくご覧下さい。何とよく書かれていることでしょう・・・。」 (25) その頃、コルドバでは聖堂の献堂式のことで多忙を極めていた。それにもかかわらず、マドレ・ピラールは規則が第一であることを片時も忘れなかった。彼女の手紙の中に絶えず繰り返されているので、この仕事が十分な興味をもって運ばれていないのではないかということを恐れていたような印象を与える。それでマドリードの院長マドレ・サグラド・コラソンが、彼女の側として、「よく理解するように・・・よくご覧下さい・・・。」(26) と繰り返しているのは不思議ではない。

創立者たちは、各自その共同体の用事で忙しかったが、二人とも認可とそれに要する手続きのために同じ心配をしていた。司教からの報告書のことを考えると同時に、日常の種々の細かい事柄にもあたっていた。例えば祭服の色、アルバの刺しゅう、畑の作物、聖堂の職人の働き方の速度、志願者の服、コルドバ、マドリード間の郵便の時間などである。若い会員の霊的身体的健康について愛をこめて配慮する大いなる手腕があり、各自の気持ちを見抜く能力に恵まれていた。「マヌエラはよい声を持っていますが、全くの鼻声なので、今、なおしています。非常に機敏で表情が豊かです」とマドレ・サグラド・コラソンは書く。「マリア・デ・サン・フランシスコは全力を尽くして歌っています。今日はとても良かったのですが、全然信用できません。」「マリア・デ・サン・エンリケは派手です。」同じように、非常に生き生きとした表現で、直感に恵まれたマドレ・ピラールの手紙がマドリードに到着する。「ラファエラはしっかりしていますが、苦しんで震えています。どうなるか様子を見ましょう。」「パドゥラから来た人は良い人ですが、少し極端でロマンティックです。様子を見ましょう。」「聖堂はいつもコルドバの魅力です。副院長は歌が上手です。全ては人々にとって騒ぎの元であり、特に若い女性たちにとってそうです。サン・イッポリートでは古くさく、ここでは新しい・・・と言っています。」手紙には重要な用件と些細なこととが混じって書かれている。非常に簡単な共同体の構造であり、統治の形態ももっと単純であったことが表れている。けれども特に、全てを分かち合う精神の深い一致が表れており、それは外からそう決められているからではなく、自然の要求であり、心から発したことである。
小事に対する注意は、会の重要事、認可を得るために懸命に努力することを忘れさせはしなかった。1881年2月19日にマドレ・ピラールは書いている。「今日、司教館に参りました。司教様はご機嫌がよく、規則とお手紙 (27) とをお受け取りになりました。お気持ちがよろしかったようです。祈りましょう。全てはよく行くでしょう。」 数日後、「冗談だと思いますが、司教様はちょっとの間私たちにひどいことをおっしゃり、同封のものを私に渡して下さいました。ご覧になるように、あなたが当惑なさるかもしれない最後のところは別として、これ以上は望めないでしょう。出来るだけ早くこの事について、非常に丁寧で感謝に溢れた手紙をお書き下さい。[・・・] 最後とその前の文節を直して下さるようにお願いしないほうがよいと思います。というのは、台無しにしてしまって何の効果も無くなってしまうでしょうから。み摂理にお任せするほうがよいでしょう・・・。」 (28)
創立者たちは、セフェリーノ師が、思いがけないことをおっしゃらないかと非常に恐れていたが、真っ先にオベリスコの修道院に届いたのは、彼の報告書であった。次にコルドバの神学校で前に知っていたセゴルベの司教からのが着いて、その次にマドリードからのが着いた。3月30日に枢機卿からのを受け取った。全てこれらの文書は大いなる慰めを与えた。というのは、修道会をすばらしい言葉で褒めちぎっていたからである。それは「空しい称賛」ではなく、セゴルベの新しい司教は、その教区内にどうしても創立したいと望んでいた。「今まで無かった場合には、四十時間の礼拝を私たちの聖堂で始めるために、私たちをセゴルベに連れて行くことを非常に望んでおられます。」 (29) 一番遅かったのはマドリードの補佐司教サンチャ師であった。「まだ規則はローマに出ていません。お願いしたのですが、補佐司教様が時間が無いと言ってまだ書いて下さらないのです。」 (30)
ついに、全ての推薦状と共に、規則はローマに送られた。「・・・ もう規則はローマに行っています。私はイシドロ師に手紙を書いて、ローマの方(かた)が早く事を運んで下さるように思い出させて下さい、そしてもし必要だと思うものがあればお送りしますと申し上げておきました。(31) イシドロ師はドン・アントニオ・オルティス・ウルエラの弟で、ローマの方(かた)とは、司教律修者聖省の審査官の助手をしているアグスティン・ボッカフロリア師である。
この師は自分の役目を始める前に、このことは長くかかるということを忘れずに言っておいた。短くても一年はかかると彼は言った。そしてそれだけ待っても最終的認可は受けられないであろうと。それから少したって、1881年6月中旬に、オベリスコの共同体の聴罪司祭であったエスコラピオ会士マヌエル・ペレス・デ・ラ・マドレ・デ・ディオスがローマに着いた。マヌエル・ペレス師自身、会のことについて興味を持っており、その上、マドレ・サグラド・コラソン、コタニーリャ師と教皇使節自身の依頼状に励まされてもいた。彼の調停のおかげで、7月2日付で書類は聖省の文書保管所に入れられた。
創立者たちが、もしこれらの文書保管所の大きさとそこに含まれている書類の分量を見たならば、手続きが速やかになされる期待を失ってしまったであろう。これらのことについてよく知らないことは、ある意味で良かった。けれどもそれを支えていたのは無知ではなく、むしろもしそれが、召命と会の使命に対する信仰と、教会に対する愛でなかったならば、頑固とさえ言い得たほどの着実さであった。この頃同じマヌエラ・ペレス師はこう書いている。「神が皆のうちに熱心さと良い精神を深く植えつけられ、それがあなた方の会の特徴としるしとなりますように。そのことを心がけ、それを深め、どうしてもそれを保ち続けるように。そうすれば神はあなた方のことを心配して下さり、会員の数を増し、広め、教会の認可を与えて下さるでしょう。」 (32)

コルドバの聖堂の献堂式

サン・ホアンの教会はひどく荒廃していた。それを修繕するにはどうしても時間も費用も相当かかるであろう。しかしそれは確かにセフェリーノ師の大きな贈り物であった。

 「サン・ホアンを私どものために使うことは、神のお望みのようです。[・・・] 今日、司教様はセフェリーノ師にそうおっしゃいました。そしてセフェリーノ師は私に、ためらってはいけないとおっしゃいましたので、家の契約をすることだけが必要です。[・・・] 私はサン・ホアンを使いたいと思います。第一に、聖堂を持つことが出来ることで、もしそうでなければ、いつ聖堂を建てることが出来るでしょうか。第二に場所ですが、コルドバの一番良い場所です。第三に、司教様の愛情のしるしとなるでしょうから。その上、私にはそれを修繕するプランがあり、すばらしい聖堂になるでしょう。両側の狭い脇廊を、最後から二番目のアーチのところまで閉めてしまえば、十字架の形になります・・・。」 (34)

 その頃に書かれたコルドバ宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙は、大部分は失われてしまったが、会の長上としてこの創立を望んでいたことははっきりしている。「私はあなたの全ての手紙と、昨日私どもを楽しませたものがいろいろ一杯入っている箱も受け取りました。私もお手紙を書きました」と、マドレ・ピラールも10月27日に妹に書いている。まだ家がちゃんと創立されていないうちは、文書庫が無かったこと、今の私たちにとってはすばらしい手紙でも、その時にはたいしたものではないと思われた手紙を、取っておこうと考える暇もなかったであろうことは不思議ではない。マドレ・ピラールの手紙によって、妹の手紙の内容を推し量ることが出来る。そこには深い和があったが、不幸にもそれは後に破壊されてしまうのである。

 「お願いした二つの小包を受け取りました。その中の一つにイエスの聖心の布の寸法をお頼みになった手紙が入っていました。[・・・] 香炉と香入れは何と美しいことでしょう。あの神父様は、マドリードの家がこの家を助けることを喜んでいらっしゃいます。それは昨日絵のことで分かりました。それでご覧になるために香炉をお送りしたのです。私たちの精神を知らないのと、昔の隠修士のために作ったので、難しいでしょう。」(35)

 この手紙によって、二つの共同体の間に完全な意志の疎通があったことは想像に難くない。特にマドレ・サグラド・コラソンの寛大さは特別で、新しい家の歩みを遠くから最大の興味と愛を込めて見守っていたのである。聖書にあるあの「初代キリスト者の兄弟愛」は、会の初期の中核をなす人々の間にあった宝であり、コルドバの教区の聖職者たちを驚かせ、感心させたものであった。それらの手紙を全部そのまま載せることが出来ないのは残念である。親しみに溢れ、相互の信頼が表れており、会のメンバーの一致の深さがよく示されている。

 「沢山の雑用を差し上げ、費用も掛かり、仕事も多くなることを申し訳なく思っています。しかし仕方がありません。エルマナスは、私がこちらにいなければならないと申しますし、他の人々は、私が司教様との交渉がうまく出来るからと言います。――私はとても難しく感じます。本当に大変です。疑いもなく神様だけがよくしてくださるのです。――その上、行ったり来たりすることは費用も掛かりますし、目立ちます・・・。
そちらで作らせていただきたいのはイエスの聖心の額です。寸法をお送りします。聖心への信心が深まるように、そしてこちらの人々の変な趣味が忘れられるように、非常に美しいものをお願いします。[・・・] そちらの家は幸いです。そこに何があるかをあなたがたは知らないのです。神のお望みが果たされますように。」(36)

 皆が一生懸命に努力したにもかかわらず、聖堂の献堂はクリスマスには出来なかった。今までのクリスマスを懐かしみながらマドレ・ピラールは書いている。「楽しくお過ごし下さい。そしてイエス様をお喜ばせするように一生懸命なさって下さい。こちらでは、皆様がイエス様をお喜ばせすることが出来ますように祈ります。私たちの代わりになさって下さい。[・・・] 聖堂はだいぶ出来ていますので皆大喜びです。」(37)
1881年1月は最終工事であった。「土曜日に司教様がいらっしゃいました。本当に私たちを愛していて下さいます。工事をご覧になり、例外なく全てがお気に召しました。[・・・] 工事は終わりかかっているのですが、天候の都合で塗装がまだ出来ていません。それだけの理由で、お潔めの日には献堂式が出来ないのです。記念日なので私はその日を望んでいるのですが。」 (38)
最後のこの不都合によって――特にこの塗装の遅れは冬の湿気のためであった――献堂式を遅らせようとしていた。自然の成り行きからすれば、2月6日が可能になりそうだった。しかしこの日は、奇しくもまた不都合にも、サン・ロケ街の共同体がアンドゥーハルに向けて脱出しなければならなかった日に当たっているので、もう4年も経ったが、歴史の主人公だった人々は生きているし、よく覚えている ・・・ マドレ・ピラールは23日の手紙でこの事に触れている。「・・・ 二日に献堂式が出来るかどうか当たってみましょう。六日は余り相応しくないと思います。平手打ちを食わされるような感じがします。あなたがこちらにいらっしゃったら同じようにお感じになるでしょう。」
急ぐことに於いては専門家であった彼女たちは、お潔めの祝日までに終わらせるように職人たちを納得させ、全ての障害を取り除くことに成功した。1月31日にマドレ・ピラールは、習慣を破って非常に短い手紙を書いた。「全然時間がありません。気違いになりそうに複雑なことがあります。聖堂にはあらゆる種類の職人がいます。私はこれから司教館に行かなければなりません。[・・・] 全てに於いて神をお喜ばせするように、またこの二、三日、神に背くことが何もないようにお祈り下さい。ごった返しているのと、私の感情が心配です。」
ついに1881年2月2日、お潔めの祝日に、聖堂の献堂式が行われた。この日は4年前に6人の最古参の修練女が聖母のこの祝日に誓願を立てるはずだった記念日である。「あなたがここにいらっしゃいましたら、お祝いは完全で大きな喜びでしたでしょうに。――カミロ・デ・パラウ師はマドレ・サグラド・コラソンに書いた――私の最上の喜びの中の一抹の寂しさでした。イエスは何と寛容でデリケートな方でしょう。四年前のお潔めの日に、彼女らを試みるためにお許しになった苦しみのように、毎日沢山の喜びをお返しになりました。キリストがご自分の者を顧みられ、主のために謙る人が高められるとは本当に真実です!」(39) 一人の会員は、数年前の状態との対照を控えめに語っている。私たちがコルドバに帰る時に、私たちが脱出しなければならない機会となった同じ方々が教会の権威者として治めていることを神はお望みになったようです。私たちを再び受け入れる時に、私たちの過去の振る舞いが正しかったことを証しする公のしるしであるかのように。」(40)

司教との難しさ

司教との思いがけない難しさがまだあった。あのセフェリーノ師はエルマナスを心から愛していたのだが、彼女らの修道生活のある面を理解しつくしていなかった。この度の最大の危険は、歌隊席のことで、コルドバでもマドリードでも聖堂の中央にあって、会衆から見えるところにあった。マドレ・ピラールは四年前の決裂を繰り返さないかと心配していた。マドレ・サグラド・コラソンもそれを恐れて、コルドバまで行くほうがよいのではないかとさえ思った。しかしコタニーリャ師と相談して、姉に次のようなはっきりした電報を打った。「落ち着き、祈り、様子を見、来られよ。」 実際には実現しなかったか、司教のほのめかしは、会にとって非常に重要な点を犯すものだった。修道者が聖務日祷を唱えたり、聖体祭儀に与ったりするのが、はっきり信者たちに見えるようにするのは、聖体崇敬が、彼女たちにとっては、使徒的次元を持っていたからである。コルドバの共同体もマドリードの共同体、及びその後創立される共同体も同様に、会の使命の本質的部分は、聖体のみ前における全教会共同体の祈りの態度の証しとなることである。「全ての人が、――これは本当で、感情的に話しているのではありませんが――、歌隊が敬虔に祈っていることによい感化を覚え、そのためにこそ私たちの聖堂は魅力的なのです。聖体降福式の時に多くの紳士や司祭、婦人達が、信心深く恭しくしているのを聖堂の二階席から見ると、涙が出るほど感激します・・・。(41) 私たちが歌隊席を使っていることは、聖堂に荘厳さと美を増すと全ての人が言っていますし、[・・・] 私たちの聖堂には本当の熱心さが溢れているのを悪く思ったりする司祭は一人もいません。」 (42)
その心配は現実にはならなかったが、不愉快なことはあった。マドレ・ピラールはマドリードの一人の修道女に面白おかしく書いている。「この家のために十字架を願ったあの熱心な修練女に言って下さい。十字架に直面したら、そうは願わなかったでしょうに。他人の忍耐を当てにして寛大にならないで下さい。これらの苦しみによって大いに成長するように祈って下されば赦します」と。(43)
他の点においても司教との間にまだ難しさがあった。会に入りたいコルドバの人は、司教自身の試しを受けなければ、誰も受け入れてはいけないと司教は望んでおられるということである。それは小さな妨げではなかった。というのは、希望者は誰も儀礼以上のこの試しに服するのを好まなかったからである。「・・・ 希望者を彼がよく知り、許すまで、そして修道者をつけてからでなければ出発しないようにとか、いろいろ非常に困ることです。[・・・] 先日、司教様はセルメーニョ師に問われたので、神父様は、役に立つかどうかを知るところは修道院であること、またその他にも少し司教様に申し上げましたら、司教様は神父様に、あなたは聴罪司祭だけで、指導者は司教だから、司教に従わなければならないとおっしゃいました。私は出来る範囲でカルタ遊びをしているようです。難しさがありますが生きていきましょう。」(44) 「志願者はもう出発の用意が出来ています。ところが司教様から2ヶ月間は行くなという命令があり、私は非常に困っています。明日司教館にうかがって、この点が前と同じように、変更することが出来るかどうかをみましょう。司教様との関わりでもし私が聖人にならなければ、いつ聖人になれるでしょうか。」(45) 司教の他の命令はさらに辛かった。週に何日か聖体拝領をやめるようにとのことで、その頃かなり広がっていた毎日聖体拝領をするという基準からすると、この命令はあまりにもひどすぎると思われた。
ともかく共同体は熱心で、従順の精神を持っていたので、司教との間はよくいっていたが、他方、心から会員のためになることを願っていた。その上過去の経験によって、彼女らは、困難を超自然的な光のもとに見ることに慣れていた。「困難があればあるほど、神はその力をよりよく現されます。[・・・] こちらでは、本当に聖人になりたいと励まされます。というのは、それこそ対策として、私が彼女たちのために願っている唯一のものです。業がよければ神はそれを破壊されるどころか、固めて下さいます。」 マドレ・ピラールは、常に持っていた考えをこのように述べている。(46) もちろんセフェリーノ師のある主張は、横道にそれているということが出来る。マドリードのエスコラピオ会の院長であるマヌエル・ペレス師のように、この問題に直接関係のない人はそのように考えていた。「司教様や他の方たちとの間柄、または事柄が難しくても、がっかりなさらないで下さい。全てを命じ、支配なさるのは神であると思って、心を神におあげなさい。そして、被造物はその道具だと思えば、平和になられるでしょう。」 これはマドレ・ピラールに書かれたことだが、エルマナスに対して彼女が与えていた勧めと同じようなことが、彼女自身の統治のために必要だったのは当然である。その手紙で、このエスコラピオは、真に慰めに満ちたことを言っている。「神の憐れみによって、皆さんを励ましている完徳への飢えと渇きがあるならば、この生まれたばかりの会が成長し発展するのは確かです。神に全く自分を献げようとしている人は、出来る限りの完全さを求めるものですから、召し出しもありましょう。いろいろな所から頼まれるでしょうから、創立もあるでしょう。ですから、非常に堅固な土台である大いなる完徳の上に立ってお働き下さい。神はそのうちに、その他のことをして下さるでしょう。」(47)

問題の根

当時の手紙には、後に恐ろしい十字架になる問題の大小の根が既に見えているとはいえ、二人の姉妹の人間関係は、相互の愛情と信頼の雰囲気を保ち続けていた。実際にマドレ・サグラド・コラソンは、姉が目下になって、自分が院長になることを引き受けた時に何が身に起こるかを、少なくとも、余りにもたびたび批判を受けることをよく知っていた。何故なら、マドレ・ピラールは、修道生活を通して自分が姉であるという意識をいつも持っていたからで、それは直すように一生懸命に努力したが、長い間にもっとそれは強くなっていった。
二人の姉妹はよく文通をした――週に二、三回を数える時もあった――全てを語り合い、会の一致を保ちたいという望みをこのように表していた。手紙にはまた気質の違いも現れていた。マドレ・サグラド・コラソンの手紙は短く簡潔ではっきりとしており、マドレ・ピラールのは長く、たびたびごたごたとしていたが、絵のように細かく、愛情のこもったものであった。会に対する愛は二人に共通であった。しかしマドレ・ピラールのにはその中に、妹の行動についての行き過ぎた心配が混じっていた。コルドバの院長からマドリードの院長に対して注意が多すぎた。「どうして修練女たちは家族に手紙を書かないのですか。」・・・ 「規則がすぐローマに送られれば良いと思います・・・。」 「創立の時に、あの司祭に祭服一式を差し上げられるように、倹約していらしたらいかがでしょう。きっととても感謝なさるでしょう。」「マリア・デ・サン・スタニスラオが来ればよいと思いますが、そちらから出ることを恐れます。何故なら誰かが忍耐しなければならなくなるでしょうから。・・・ それで、十字架を取り除くことについてよくお考え下さい。私が何も言わなかったと仮定して下さい。神父様は一番良い方法をお考えになるでしょう・・・。」「アントニオにお手紙をお書きになりましたか?私たちの家族に於いては、これ以上の振る舞いを望むことは出来ないのです・・・。」
これらはそれほど重要な事柄ではない。しかし手紙全体を通じて見ると、少なくとも会を、同じ権威を持った二人の人が治めていたかのような感を与える。ある時は姉の勧めは、最も重要なことに及んでおり、ものの言い方がかなり横柄であることを彼女はよく知っていた。(49) このような時にマドレ・ピラールは、常に弁解をしていた。「私が怒っているとお思いにならないでください。怒ってはいません。これは私の言い方であることをよくご存知でしょう・・・。」 (50) 気後れしない調子はどの手紙にも表れている。注意の内容もそうである。しかし真に危険なのは、これらの多くの手紙で想像出来る内的態度である。一度マドレ・ピラールはそれに気付いて、謙って妹に詫びた。

 「今日お書きした手紙のことですが、ドニャ・アングスティアスのことであなたにお書きした不尊敬な態度で良心が咎めています。跪いてお詫びしなければなりませんので、今こうしてお手紙を認めています。私が一番悪者であることを良く知っています。それで多分神様の前で一番最後の者でしょう。しかし私の支配的で虚栄的な性格は、度々私が抑えることが出来ない煙の中に私を入れてしまいます。そして当然なことをしたのだと思うほどにまでなってしまいます。」(51)

 彼女の実際の欠点と同時に、マドレ・ピラールの良い性質がよく表れている印象深い告白である。手紙で言っているように、きっと跪いて書いたのだろう。誰にもこの姿勢は見られないだろうが、他の機会と同様に、心の真の痛悔を、全存在をあげて表す必要を感じたのであろう。
この手紙の返事は保存されていない。しかし、マドレ・ラファエラ・マリアの許す大きな力を私たちは知っている。生涯を通じて極端なまでにそれを示した。
二人の姉妹に同じような信頼を抱いていたあるエルマナスについては、創立者たちの間に真の語り合いがあった。これらのエルマナスの霊的進歩にはたびたび難しい時期があった。「Nの手紙は気に入りました。謙遜で、あなたが全てに於いて道理があると書いています。彼女に私は手紙を書きましょう。結局誰にでも弱さはつきものですから。彼女の苦しみを和らげてあげて下さい。何かあなたに対して萎縮したり、言い表さなかったりするようになれば恐ろしいことですから・・・。」このようにマドレ・ピラールは、二人の創立者を非常に愛していた一修道女について書いている。(52) 他の機会にマドレ・ピラール自身、コルドバの共同体の一人に、マドリードの院長に打ち明けるよう勧めている。そして院長にこの事を頼んで、「Nがあなたに打ち明けるでしょう。私は主に、彼女があなたに打ち明けるつもりになるよう一生懸命に祈りました。遂に今日、非常に恐れながらそれをする気になりました。恥ずかしがりやの上に、今後あなたが彼女のことを余り好きでなく、信用して下さらなくなるのではないかと心配しているのです。彼女に愛情のこもった、感謝している手紙を書いて下さり、寛大になるように励まして下さればよいと思います。もちろんその恐れの中には不完全さが沢山ありますが、サモラの町は一時間では争奪出来なかったのですから、神の恵みによってだんだんにその不完全さは取り除かれるでしょう。そしていつものように神は彼女の上に寛大に恵みを注がれるでしょう。彼女は真に神に全部を献げた霊魂であり、将来性があります・・・。」(53)
ずっと前からマドレ・サグラド・コラソンはコルドバに行こうと望んでいたし、マドレ・ピラール自身もそれを望んでいた。「あの神父様は聖心の祝日の準備に大童です。その日まで何も使い始めないと言っておられます。その祝日にあなたと副院長様がいらっしゃれればよいと思いますが、そちらの共同体はあなた方なしでは寂しいでしょうからお気の毒です。聖イグナチオの日の方がよいかもしれません。コタニーリャ師もいらして下されは嬉しいと思います。たとえ費用がかかっても、三人いらっしゃれればと思っています・・・。」(54) マドレは聖心の祝日にコルドバに行こうと思っていた。コタニーリャ師と副院長ともいっしょではなく、――年代記者の――マドレ・プレシオサ・サングレと、修練院を出てアンダルシアの家に帰る必要があると思っていた一人の修練女のつもりだった。その数日前にマドレ・ピラールに知らせると、6月19日の手紙でマドレ・ピラールは少し難色を示した。「あなたがいらっしゃると司教様との関係がまずくなるのではないかと恐れます。あなたがよくご存知のように、いつも不平を言っている時間も好みもありません。この司教様はいつも私たちを訓練するというのではありませんが、あなたがお目にかかれば、考えていることをお話しになるでしょう。それは善意ではありながら、全てに於いて頭であり、全てに於いて命令なさりたいからです。私に口頭でおっしゃったこと、特に入会許可に関することを実行なさることです。[・・・] 願い出る人がある度に私は不愉快になります。申し上げたいのは、私はそちらに従い、そしてそちらでもこの家でももう受けいれられた者が司教館に行かないと不思議にお思いになるのです。近いうちに旅行にお出かけになるそうですから、その時が好機だと思います。あなたがこちらにいらっしゃる時にお目にかからなければ、不快にお思いになるでしょうし、[・・・] 神父様にもこの事をお話して、よいとお思いになるようになさって下さい・・・。」 マドレ・サグラド・コラソンには、旅行を中止するほどの理由でもないと思われたので、6月25日にコルドバに出かけた。多分マドレ・ピラールは、到着の正確な日付を知らなかったのだろう。修道院の日誌にはかなり細かく記されている。「コルドバに25日、ニエト師のお説教の真っ最中に着いたので、入口は閉まっていた。戸をたたいて少し待っていると、受付のエルマナの、どなたですか、と尋ねる声が聞こえた。すると彼女に、共同体が聖堂に集まっているので答えを聞く前に、開ける許可を願わなければならなかったという声が聞こえた。マドレはほほえんで、自分であることを分からせると、エルマナが喜びから我に返らないうちにサン・ホアンの広場の、前に家に泊まるようにと言ってくれた近所の人たちも、彼女の来たことを知った。
マドレ・ピラールは真に嘆かわしい反応を示したが、マドレ・ピラール自身もきっと後でそれを認めたであろう。でもこの時は、自分の不快を隠すことは出来ず、冷淡に挨拶した後、すぐまた聖堂に戻って、自分の不快を誰にも気付かれないようにした。(55) マドレ・サグラド・コラソンは、その時から姉の不機嫌を和らげようとした。これは、その後の彼女の生涯に、自分のものとした態度であった。しかし全てのエルマナスの喜びと驚きは――どれほど深く彼女を愛していたことであろう――この邂逅の印象を全く消し去ることは出来なかった。
コルドバに八日間留まった。修道院の中には、何と多くの新しいことが彼女を待ち受けていたことだろう。聖堂、――貞潔の誓願を立てた――あのサン・ホアンの教会は、多くの時間と努力をかけて修繕したので、何と変わったことだろう。共同体に当てられている場所を広げるために、隣近所の家を買うか借りるかする可能性があるかどうかを調べること。「会が誕生した地に」 召命があるかどうかを見ると、「ここでは全て聖堂のゆえに」召命が沢山あることが分かる。修練女たちの家族、共同体の世話をしているイエズス会士に会うこと ・・・ そして特に共同体自身、彼女自身が愛を込めて育てた若い修道女のグループと話すこと。
7月の初めに、マドレ・サグラド・コラソンとそのお連れはマドリードに帰った。姉はその月の4日に手紙を書いた。それは殆ど無意識にしたことの弁解と痛悔の表れでもあった。「家中であなた方がお帰りになったことを、その上、望んでいたようにもっと長くお引止め出来なかったことを、一番残念に思ったのは私だったと思います。司教様にお目にかかることを避けるためにお帰ししてしまったことを。[・・・] 土曜日にマリア・デ・サン・ホセと司教様をお訪ねしました。司教様は大丈夫でした。ご自分の要求しておられたことに何もお触れになりませんでした。今後お触れになる時にはどのようにして逃げられるでしょう。[・・・] あなたがもうマドリードに帰ってしまったことの弁解と、よろしくとお伝えしておきました・・・。」 (56) さまざまなことが行間に読み取れる。マドレ・サグラド・コラソンが帰ってしまった時の全てのエルマナスの気持は、離れていても決して薄れなかった愛の自然の発露であった。この時マドレ・サグラド・コラソンの取った態度は、他の多くの機会と同様に、マドレ・ピラールの考えに譲って、セフェリーノ師に会わずにマドリードに帰ってしまった。それは司教の病気が回復するまで待ったほうがよいとマドレ・ピラールが思ったからである。――それが最も良かったのであろうか?――否定するのも肯定するのも難しい。それはまあ良かったとしても、マドレ・ピラールの生涯のこの時期と、それ以後に於いても、最も大きな限界の一つは、彼女が既に解決を見出していた時に、違う方法で解決することが不可能だったということで、それは良くなかった。
直感的にというよりは徳によってマドレ・サグラド・コラソンは和を作る人だった。この特質は一生涯大いに役立った。帰る時が来ると、平和のうちに、何の苦味もなく、姉に別れを告げた。「疲れもせず、定刻に着きました。――と、マドリードから7月10日に書いている――この小さい天使の着衣を遅らせないほうがよいと思いました。いつもこのような良い状態であればよいと思います。」(マドレ・ピラールが大いに勧めて、非常に若くして修道院に入った一人の志願者の事を指す。)「そちらの家の皆様のことを懐かしく思い出します。近いうちに皆様にお手紙を書きます。皆様とても良い方たちです。」(57) 数日後ある人に次のように話した。「先月コルドバに八日間行ってきました。院内には本当に良い精神がみなぎっています。その聖堂もすばらしく、主はあの修道院について喜んでおられると思います。」(58)

「ローマからは、全てのことがいつも時間がかかる・・・」

ローマに於いて、規則の認可への歩みは遅々たるものであった。7月20日頃、聖省の審査官のボッカフォリア師は、エスコラピオのマヌエル・ペレス師に、会のある点についての報告を求めてきたので、すぐ次のように答えた。

 「1.マリア・デル・サグラド・コラソンとピラールの姉妹は、初め厳律修道会に入りたいと思っていた。ウルエラ師の指導を受けて、聖なる生活をしながら、神のみ旨を捜し求めていた。彼がこの修道会を創ることを提案したので、彼の指導を受けていた二十人ぐらいの女性たちと共にそれを承諾した。[・・・] 1877年4月14日、マドリードに創立した。2.その目的は、償いの礼拝をなし、恵まれない子女の教育に当たることである・・・。」

 誓願と、「教皇性」でない囲いについて細かく付け加え、この会は、「熱心さと規則遵守によって会員が増え、コルドバにもう一つの修道院を開かなければならなかった。今後速やかに普及するであろう。」 (59) と結んだ。
マヌエル・ペレス師が、このように早く報告を出すほど関心を持ったことを深く感謝しなければならない。しかしこの報告の中には、抜けている事柄があって、それが聖省を心配させたのは確かである。例えば、ウルエラ師の指導を受けていた二人の姉妹と二十人ぐらいの女性は、どのようにして1877年4月14日にマドリードに創立するようになったのか。ローマの方々にとってこの疑問は、単なる物語的物好きでなく、本当の問題で、聖省には、いろいろ問題をもつれさせる反対の資料が沢山来ていたからである。――セフェリーノ師、Reparadoras(贖罪会)、他の人々からの報告書が・・・――、しかし、判定を下すためには、まだ考慮しなければならないことがある。結局、9月30日に教書によって、会の起源と、現在の会の規律の様子と、人員と、聖省から受けた恩典などについて、更に詳しく報告するよう求めてきた。10月8日にマヌエル・ペレス師はマドレ・サグラド・コラソンに手紙を書いたが、彼女にとっては全くの不意打ちであり、まさに不愉快であったに違いない。

 「4日から11日半ばまで聖省はお休みに入りますので、3日に、この事がどうなっているかを見に行きました。私たちの書類を持っている審査官は、修道院と会員数が非常に少ないこと、その団体は教区の全く特殊な仕事にしか過ぎないし、聖座が会や規則を認可するために介入することが出来るような確実性が保証されていないので、この問題を進め、評議会に報告し、嘆願が却下されてしまわないように今は次の事柄を進める方が賢明だと思われる。
1.会が以下の条件を満たすまで、嘆願書の提出を延期する。
2.修道院数が八つか十ぐらいに増える。
3.会員が百人以上になって、異なった六つまたは八つの教区の司教が、会のよい精神と堅実さを認めるようになること。
4.このように発展したら、先ず、会の許可を、その目的と仕事と手段とを記して願い出る。
5.その後規則の認可を願い、期限付きで認可される。
6.この期限付きの認可が何回か与えられた後、会が堅実であり、規則が適当であると認められれば、最終的に認可される。
7.嘆願書には、生活するために固有の家と財産を持っているか、それとも借家か、また、会が解散になった場合に、生活する方法と住む場所があるために、特に母院が会の所有であるかどうかを記さなければならない。
8.規則はより広範なもので、一般に認められるだけの量がなければならない。既に認可された会から取ることが出来ればなお良い。(新しい会に合わせて必要なところを変えれば認可は易しくなるであろう。)」(60)

 この手紙を読んで、マドレ・サグラド・コラソンは考えさせられた。非常にショックを受けたとはいえ、そこには会の認可のために先ず何をすべきかが詳しく理論的に説明されていると思った。今は何から始めればよいかが分かった。その上、マヌエル・ペレス師は、説明に自分の考察を付加えた。それらは賢明で役に立った。

 「これでがっかりなさらないで下さい。その仕事をお続け下さい。神様はその働きを祝福なさり、きっと時が経てば、芥子種は大きな木になるでしょう。[・・・] 私はお勧めする身でもなく、またそのように重要なことに関してはもっと相応しくないので、勧めとしてではなく、私の貧しい考えを言わせていただければ、あなたの謙遜を認めておりますが、あなたは弱い道具にしか過ぎないこと、神は全ての善の創り主であることを考え、小さな仕事をするのではなく、大きな仕事であることを思い、あなたの計画を立て、それを黙想し、祈りによって深め、出来るだけ詳しくそれを敷衍させて下さい。全てのことを果たすこと、召命を獲得すること、母院のことと、八つか十、もっと沢山の修道院を作ること、会に必要な財産があるかどうかを確かめること、特に家と基本財産のことです。[・・・] 神の業であることは確かです。しかしそこには神がお選びになる道具の働きも入ります。[・・・] あなたが持っておられる土台の上に会憲をもっと分厚いものにするにも、先ず祈ること、そしてその後多くの会憲を調べることです・・・。」(61)

  自分のことを「弱い道具」であると思っていたのは確かである。しかし神の御手の中にある道具として働くことを拒まなかった。手紙の内容を心から受け入れたが、一つひとつ吟味して読んだ。ある事柄は、客観的事実に照合すると、完全には合っていなかった。数日後姉にこのことを伝える時に、そのように言っている。

 「同封したのは院長神父様のお手紙です。神父様がよく分かっておられないことについてお返事を書くつもりです。1.私たちに合わせたロヨラの聖イグナチオの規則を持っています。2.この修道院は私たちのものです。持参金だけでなく、生活のための費用はあります。そして私たちが望んでいるのは数年間の認可です。」(62)

 ついに返事を書いた。非常に慎重な手紙で、それは同時にマヌエル・ペレス師への返事でもあった。熱烈に教皇認可を望んでいる新たな理由を述べている。

 「およそ聖なる事業がその初期に遭遇する数々の障害に、私どもも出会いましたが、これによって私は落胆するどころか、勇気百倍です。何故なら、神の業が全て神の証印を捺されているように、本会という事業も、最初からその証印を捺されていることが察せられるからでございます。
「本会の規約が、最後に指示しましたとおり、会の霊的及び物質的統治のために、私どもはロヨラの聖イグナチオの規則を適応させたものを持っております。[・・・] 同規則には、会の目的と、会を維持し、会が仕事を遂行していくための手段とが指示されております。これらの仕事は、会の目的達成のために私どもが採用したものであり、これまでの経験に照らしてみます限り、控え目に、かつ慎重に行っていくことが出来ます。」(63)

 マヌエル・ペレス師は前に、「これらの方々については、教育が非常に重視され、価値があるということを忘れないで下さい。それは教育が直接に益になるからです。あなたの計画が進展するように考え、黙想し、主に熱心に沢山祈りながらお勧め致しますが、教育が重要な部分を占めるようになさって下さい。」(64) マドレは彼の返事を非常によく考慮したので、このエスコラピオは、会の中では、教育に既に大いなる価値を置いていた事実が納得出来たであろう。

 「教育事業は私どもにとって決して二次的なものではありません。それだけに、より完全な教育が行われるよう、教員資格を取得した修道女たちがおります。ただいまこの会員たちは、教員の適性を有していると思われる他の修道女たちを教育しております。当地では教育事業には莫大な費用がかかりますので、まだ大きな学校はありませんが、いずれ神のお望みでしたら開校されましょう。コルドバでは既に会員たちは大きな学校を経営しております。」(65)

 それは真実であった。マドリードに、多少とも教室に使える場所が出来るとすぐ、恵まれない家庭の子供たちに囲まれた。両親たちから小学校教育を頼まれたのである。コルドバでは、聖堂の脇廊の一つを適当な壁で完全に仕切って、クラスを作るための非常にきちんとした工事がなされた。その年の秋には開校し、マドレ・ピラールは人々が感激したことを記している。創立者たちの昔の指導者ホセ・マリア・イバラ師は、この学校を通して要理教育の仕事が広げられるであろうことを期待して書いている。
マドレ・サグラド・コラソンは誇張なしに、教育を軽視していないということが出来た。しかし会のその後の発展のために、彼の勧めを確かに考慮に入れたであろう。
マヌエル・ペレス師に手紙の中で、会の財産、人員、召命について語っている。

 「会員のうちによい精神が溢れており、その何人かを神父様はご存知でいらっしゃいますが、後から入会してくる者たちも、初期の者たちに劣りません。けれども、会員一同にとり、会には大きな空白がございます。教皇の祝福は本当に有難く、私どもは教皇を深く敬愛申し上げておりますのに、会は教皇の祝福さえいただいていないからです。神父様、私どもがぶしつけでございましたら、何卒お赦し下さいませ。けれども神父様にお出来になる限りのことをなさいますようお願い申し上げます。と申しますのも、そちらの尊敬すべきボッカフォリア師が、教皇祝福を得る方法を見つけることに関心を抱いておられるからでございます。また私としましても、もしこの祝福がいただけましたら、本会の発展に大きな影響が及ぼされましょうし、まして全ての修道会が創立当初に受けられた称賛の小教書をいただけましたら、その影響は一段と大きいに違いないと確信しているからでございます。さらにこの点に私が固執いたしますのは、聖下のご許可のない限り、夜間の聖体顕示を行うことが出来ないためでもございます。その上、修道会にもたらされるかもしれない弊害にも心を痛めております。それは、会が聖座の許可を受けておりませんので、各教区の司教方が本会の行動様式を変更することがお出来になるということです。この行動様式が神をお喜ばせするものであることを私ども自身、経験によって知っておりますにもかかわらず、司教方は私どもの意に反して、これを変改しようとされないとも限りません。幸いコルドバに於いては、奇跡的にこうしたことから免れましたが。ですからこのためにも私どもは意を決して、新しい修道院が一つも設立されないうちに、会の行動様式が完全に確定されるよう力を尽くすことに致しました。こうした設立は司教方から要望されており、そのうちのお一人はサラゴサの司教であり、他はご存知のようにサンタンデールの司教とカナリアス諸島の司教、その他の方々でございます。」(66)

 創立者が自分の心の奥底にある気持ちを単純に記しているので、エスコラピオはこの手紙を読んで感謝したであろう。マドレ・サグラド・コラソンと親しかったし、マドリードの修道女たちをよく知っていた彼――共同体の聴罪司祭であった――は、そこに書かれていることが皆真実であることを証明することが出来た。全員の「良い精神」、教皇に対する愛とその祝福を高く評価していること、ある司教たちとの難しさ ・・・ エウカリスチアと礼拝がどの程度までマドレ・サグラド・コラソンとその同伴者たちの生活の中心であったかも明らかに知っていたし、それならば、会によって定められた様式によるエウカリスチアへの祈りを、最終的に組織化することが出来ないのは、彼女たちにとって重要であることも理解した。それにもかかわらず、認可を得るのは非常に難しいと思ったので、創立者が、「全ての修道会が創立当初に受けられた称賛の小教書」を得られるように彼の助けを求めていることを読んで、微笑したであろう。確かに会の認可のためには聖座が踏むべきプロセスがあり、その最初に称賛の小教書というものがある。しかしこの聖なる女性が熱心に求めているものは、創立後四年では与えられないのが普通である。確かにあの女性は聖人であり、その上非常によく言いたいことを尽くしているので、その挙げている理由によって彼は状況をもう一度考え直して見ないわけにはいかなかった・・・。
マドレ・サグラド・コラソンはもしかするとローマに行くほうが良いかもしれないと考えた。多分彼女だけなら出発したであろう。しかしこの事においても、全ての時と同様に、姉の意見を考慮した。彼女の心を知るために、次のように書いた。「家の事と同様に全てあなたが解決なさることを神は望んでおられると思います。私はこのような問題に疎いので、あなたがローマにいらっしゃらなければならないと私が言っているのではありません。私が申し上げていることを私がしようと思います。(67) 神父様がそのようにお勧め下さいましたから。その後どうなるでしょうか。というのは、ボッカフォリア師がおっしゃるように、このことが忘れられてしまうのを望みません。」 (68) この慎重さは、姉に取り入り大げさだと思われるであろう。しかし経験によってマドレ・サグラド・コラソンは、会内が平和であるために、特に外部との関係がある用件に於いては、マドレ・ピラールがイニシアティブを取るほうを好んだのである。
これに対するマドレ・ピラールの返事は非常に簡単であった。「・・・〔マドリードに〕行くことを希望しておりますので、その時ローマのことを相談しましょう。司教様にお知らせしてから規則を引き取るべきだと思います。たとえ期限付きであっても、認可をお願いするのは早すぎると皆が言っています。」(69)
マヌエル・ペレス師の返事はもっと遅かった。それには、マドレ・サグラド・コラソンが10月23日に彼に書いた手紙について綿々と書かれている。

 「教皇祝福を頂く方法を考え、捜し求めていましたので、お返事が遅くなりました。私はこのことについて話しました。そしてどのようにして得られるかを調べてみましょう。私は出来るだけのことをしましょう。たいしたことは出来ませんが。このような折には、あなた方を知り、高く評価しておられる司教様のどなたかがこちらにいらっしゃるとよいのですが。
・・・ あなたの見方は大変正しいと思います。規則は、修道生活にとって大切なことが皆含まれている要約です。幅広く書いてあると、いろいろ異なった解釈をされる恐れがあります。しかしボッカフォリア師は、余り短いので、もっと量の多いものにするようにと言われました。その上それらを実行し、出来る限り完全に実行していることは、その規則が大変良く出来ており、完徳のために必要なことが皆含まれているしるしです。司教様方が、規則を変えたり、削除したり、加えようとして介入なさることを避けるために、手書きのも、印刷してあるのも、各部の最初に、印刷物の教会認可の時にするように、枢機卿と補佐司教、教皇使節、その他今後受け入れられる司教方の規則の認可の写しをお付になったらよいでしょう。司教方はそれを見て、有名な方々が認可し、よい結果をもたらしているのを見て、それを改変する前に、よくお考えになるでしょう。」(70)

 マドレ・サグラド・コラソンは、自分が望んだほどではなくても、自分の手紙が功を奏したのを喜んだであろう。その頃、すなわち1881年12月に、マドレ・ピラールが妹といろいろな問題を扱うためにマドリードに来たので、二人で話し合った。二人はその時までに手中にあった全ての手段を講じた。すなわち教皇使節と、ローマに出かけるベネディクト会の総会計と話した。このような外交手段の他に、ボッカフォリア師とマヌエル・ペレス師が提案した線に沿って、会を発展させることを決意していた。それは召命の増加と新しい修道院の創立である。
召命に関しては、マドリードでも、特にコルドバでは、修練院に入りたい女性が多かった。創立については、司教の依頼は、雨のように降り注いだ。その上 ・・・ マドレ・ピラールは、ヘレス・デ・ラ・フロンテラに修道院を創設するように強く勧めていた。彼女は失敗を恐れなかった。そしてどうしても必要だと思い、この創設が時機に適し、急を要することを誰にでも説得するつもりでいた。

ヘレス・デ・ラ・フロンテラの創立

マドレ・ピラールの相談相手であり、コルドバの修道院に非常に好意を持っていたセルメーニョ師が、1881年9月にヘレスに任命された。このイエズス会士の赴任によって、聖心侍女会の次の創立は、このアンダルシアの都市にされることになった。ヘレス・デ・ラ・フロンテラは、その当時、コルドバかカディスと同じように重要な市であった。世界的に知られているぶどう酒の製造業は、権力と影響力があり、富裕で文化的な社会階級を生んだ。「お歴々の」と創立者たちの手紙の中に度々出てくる人々である。人間的価値の上から、ヘレスの身分の高い人々の欠点として、富める者と貧しい者とを隔てる淵を作り、また彼らは横柄で、社交を鼻にかけていた。マドレ・ピラールも認めていたように、「外見にひどくうぬぼれる人たち」であった。
人口の多いこのヘレスでは、サクソンの血はスペインの血と混ざっており、このことは、最も有名なぶどう酒製造家の苗字としてここかしこに現れていた。これはプロテスタントの宣伝にも見られ、特に宗教的人間的教育を非常に必要としていたこの町の極貧階級に働きかけていた。プロテスタンティズムは、この惨めな人々にとっては、進んで選んだものではなく、無教養から抜け出る方法であった。それで、この信仰を持っている信徒たちによって開かれた学校は、すぐに、入りきれないほど一杯になった。
当時、ヘレスのカトリック信徒は教育がどんなに重要かを理解していた。フェルナンド・セルメーニョ師が指導していた熱心な婦人たちのグループの創意によって、一般の教師によって管理されていたクラスが幾つか開かれていた。そのセンターは――こう呼ぶことが出来れば――使命を果たすのが非常に困難であり、これらの婦人団体とその指導者であるイエズス会士は、この学校の指導を、一般人の手から修道女の手に移管するほうがよいと考えていた。このような状態にあった時、マドレ・ピラールが新しい家を創立する好機を、マドレ・サグラド・コラソンと研究するために、1881年10月、マドリードに行ったのである。
実際の手続きが始まったのは、翌年の夏に入ってからであった。この時には、二人の姉妹の意見は難なく一致していた。しかし当時、会員数が少なく、まだ養成がよくされていない会員を更に分けることには賛成でなかったコタニーリャ師の意見を尊重して、暫く躊躇していた。「セビーリャの枢機卿には克服しがたい反対があるかもしれないということです。そちらの枢機卿にも、コタニーリャ師にもそうだと思います。しかしそれを克服出来るか出来ないか、神のみ旨の表れを見ましょう。この問題の初めから私がしなければならないと考えていた唯一のことは神のみ旨を求めることですから。そしてみ旨なら、生命を賭けてもそれに向かいましょう。いつかは生命を献げなければならないのですから。」このようにマドレ・ピラールは、7月1日にマドレ・サグラド・コラソンに書いている。その少し後で、手紙で予見していたような一連の妨げが生じてきた。8月31日にマドレ・ピラールはマドリードに向けて出発した。そしてすぐに二人の姉妹はトレドの枢機卿にこのことを提案し、枢機卿は全面的に好意を示した。「枢機卿様はとても好意を示され、創立を非常に喜んでおられます。コタニーリャ師はどうお振る舞いになるでしょうか。[・・・] この創立の問題を扱うためにお目にかかる全ての方が正しく考えられるようにお祈り下さい。特別にイエスの聖心にお願い下さい」 とマドリードからコルドバの共同体に書いた。(71) 9月8日にマドレ・ピラールはアンダルシアに帰る旅に出た。創立のことでヘレスに行くところだったが、コルドバの修道院に電報を打って、衣類とお金を持って駅に出ているように願った。列車はかなり長く停まっているからである。この旅行にも、本会の最初の創立につきものの雰囲気の中で、いろいろ面白いことが沢山あった。その共通点は疑いもなく、お金が少ししかないことであった。常に創立者たちの旅行は懐が寒かった。それでこの事は全ての機会に似たり寄ったりの結果をもたらした。
列車はコルドバに着いたが、駅には誰も来ていなかった。マドレ・ピラールは鉛筆で簡単に、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオに書いた。「電報を受け取りませんでしたか?あなたがたが駅にいらっしゃらないので、お金を100レアル拝借していきます。パシエンシア街九番のホセ・ロドリゲス師にお返しになって下さい。私が手紙でお願いしたものを出来るだけ早くヘレスにお送り下さい。衣類はちゃんとしたトランクに入れて下さい。スーツケースは鍵がありませんので。お金は三十か四十ドゥロ、手形で送って下さい。大至急です。私たちは炭屋さんのように真っ黒になってしまいます・・・。」 (72) いっしょにマドリードに行ったマリア・デ・サンタ・テレサがマドレ・ピラールにお供した。この5年間に、施しを願ったり、借金したりするよい経験を積んでいった。たった100レアルしか持たないのに心配せずにヘレスに着き、カルメル会に泊まった。「まだ私たちはお金もなく衣類もなくコルドバからの手紙も受け取りません。この聖なる親切な修道女のおかげで、私たちが清潔でいられるように、私たちが夜休んでいる間に衣類を洗い、トカにアイロンを賭け、必要な衣類が取り替えられるようにして下さいます。感謝のお手紙を書いて、私がそれを読めるようにしてお送り下さい。そしてコルドバから返事が来ないかもしれませんので、何冊か会憲を送って下さい・・・。」これは三日後にマドレ・ピラールが妹に書き送った手紙である。(73) 折り返しマドレ・サグラド・コラソンは規約を送り、また自身の手紙に、セビーリャで二人の先発隊を泊めてくれた修道女に、感謝の長い手紙を同封する心遣いがなされた。「衣類のことは何としたことでしょう。私たち皆が、あなた方が衣類が無くて不自由をなさった原因です。あなた方が苦しみ、そちらのご親切なマドレスが愛徳を実行なさるために神がお許しになったことですが。私の感謝をお伝え下さい。あの方たちがあなた方を初めて泊めて下さった時から、私は非常に感謝していましたが、今からはもっとです。本当に私たちの姉妹のように感じます。私たちは相応しくないのですが、どうぞ姉妹としてお受け下さいとおっしゃって下さい。」 (74)
全てに於いて姉を喜ばせようとするマドレ・サグラド・コラソンの望みには、真に感動させられる。彼女の理に合ったご機嫌取りは無駄にはならない。世の中に彼女ほどマドレ・ピラールの良い面を知っている者はなく、同時に彼女ほど、性格の限界をよく知っている者はない。妹は、あの性格の長短の全てを長い間よく経験してきた。それは姉を、人に目立つ、直感的な人と思わせた。また思慮深くあると同時に、うぶな、親切で頑固な、尊大で単純な、短気で優しい人とさせた。その当時の妹の大きな功績の一つは、姉の欠点の暗礁を、限りない柔和を持って避けながら、その特質と美徳とを最大限に発揮させたことである。「一方が望まなければ、その二人は喧嘩が出来ない」ということは、全く正しいとはいえない。しかし喧嘩にならないように努力することはいつも可能であると言える。マドレ・サグラド・コラソンはこの意味で出来る限りの努力をした。それが避けられなければ、せめて決裂を最大限に遅らせるようにした。
まだその時は来ていなかった。ヘレスでもコルドバでもマドリードでも、長い間一致して働いていた・・・。困難もあり、避けがたい摩擦もあったが、マドレ・ピラールの側からも超えようと真面目に努力した。後に調べて行こう。
マドレ・ピラールとセビーリャ(75) の司教との会見はまさに快いものではなかった。会の起源について、贖罪会から分かたれたこと、1877年夜のコルドバからの脱出、アントニオ・オルティス・ウルエラ師の影響 ・・・ などの物語が再燃した。リュヒ・イ・ガリエガ師はこの問題について話しを準備してあったかのようで、その話の途中にマドレ・ピラールが口を挟むのが難しいほどであった。ともかく枢機卿は、会の規約と、トレドの枢機卿とコルドバの司教の報告書を求めた。余り期待出来ないこの会話は、九月中旬になされたのである。セビーリャの司教座事務局の聖職者たちの偏見を取り除き、好意を取り戻すために、二ヶ月以上もかかった。そして待機中に、思いがけなくリュヒ枢機卿は亡くなった。
「神様のお恵みで、そちらの家も労苦と苦しみという最上の土台の上に、次第に創設されていくようです。何という喜びでしょう。私どもはそれほどの恵みに相応しくない者です。」 とマドレ・サグラド・コラソンはヘレスの創立の困難について語っている。(76) (「いしずえ」、またも「いしずえ」。彼女の生涯を通してこの考えを強調していることは驚くべきことである。岩の上に家を建てた賢明な建築家のたとえ話を何度黙想したであろう。)マドレ・ピラールは妹の代理として、10月に、大司教区参事会代理に嘆願書を、この創立に関心のある婦人たちの請願書の支持を得て提出した。「下に署名しております者たちは、この町におけるプロテスタントの布教防止の望みに駆られて、彼らの教会堂と学校のある町内に、子供たちの教育のために、数年前他の学校を始めました。[・・・] しかし私どもが行っている事業は不十分であります。[・・・] それで今までの努力を倍加し、一旦始めた事業を完遂し、可能な限りの、また、よりよい目的を果たす手段を工夫する必要があります。[・・・] この目的のために、閣下にお願いに参っております私どもは、現在それに当たっている有給教師の代わりに、聖心侍女会の修道女に、この学校の管理運営を任せることを、重大事と見なしている次第でございます。」(77) この婦人たちの陳情書には、彼女ら自身とセルメーニョ師が、この修道女たちに持っていた尊敬による他の理由が述べられていた。例えば、この修道女たちは、神の栄光と人々への愛のためにのみ働くので、一層の効果を効果を上げることが出来るであろう。修道女たちは、一般の人たちのように、この力をそぐような他の義務がない。この第二の理由は、第一の理由に勝るとも劣らないものである。そして最後に、学校の維持には経済的に多大の犠牲が必要とされるが、修道女たちは利益に囚われずに一般の人たちの代わりをすることを志望しているというのがそれである。
もちろんこれは感ずべき無私無欲である。しかし、創立者たちは、共同体が生活するために必要な資産を捜し求めなければならなかった。これこそ、教区に受け入れられる許し(78) を得るとすぐ、努力したことである。まずしなければならないことは、家捜しである・・・。「いろいろな家を見に行き、多くの空き家を探したが、多額の金額を払っても買い取れるような空き家は無かった。ボルベニール通りのはずれの、その時まで一般教師たちの住んでいた、最低とも言うべき非常に狭く汚い貧しい家に、即時住まねばならないと考えられた。」(79) その住居が非常に狭かったのは、二人の教師が住んでいたことを考えればたやすく了解できる。修道女は最初四人でも、すぐ十人以上住まなければならなかったのである。「私が第一に目指しているのは、たとえ掘っ立て小屋でも始めることです。」とマドレ・ピラールは妹に語っている。(80) 「〔コタニーリャ〕神父様にお目にかかれませんが、今家を買うことが出来ないので借りることにしたのを、悪くはお思いにならないでしょう。[・・・] 創立する許可があるので、院内聖堂か公開聖堂に、聖体を安置する許可を、特にお願いしなくても [・・・] 出来るでしょう。」とマドレ・サグラド・コラソンは三日後に返事をしている。(81) マドレ・ピラールが落ち着いて述べたにもかかわらず、参事会代理はその事情がはっきり分からず、容易にその言葉を信じようとはしなかった。「許可のことをお願いする前に、顕示器か、または聖櫃を開いてチボリウムに、毎日午後数時間、聖体を顕示することを許していただきたいと落ち着いてお願いしましたが、ローマの許し次第にと言われました。[・・・] 今日は、それが真実であっても、口頭では、これほど重要なことは信用出来ないと言われました。」 (82)
大小の一連の不都合は、十二月中旬に乗り越えられた。その上、もっと安心出来ることには、コタニーリャ師の手紙がコルドバに着いた。それには、マドレ・ピラールがもうヘレスに行くことと、小さな借家に共同体を作るよう勧めていた。「神がご自分の望みを示すために下さる全ての試練を、主にお捧げ下さい。そして全てにおいてそのみ旨を果たすため以外には、何かの処置をなさらないで下さい。[・・・] その創立にも、規定されていることに全てをよく合わせて下さい。今は創立するだけで十分です・・・。」 (83)
多くの苦闘を経、コルドバ、セビーリャ、ヘレス間を何度も往復した挙句、マドレ・ピラールは、コルドバの共同体の責任を持ちながらも、この都市から出かけようとしていた。このような状況に、彼女の変わりやすい性格も重なって、疲れを感じ、ある種の怖れさえも感じた。「・・・ 体の中に水銀があるかのように震え、いつもの嫌気も感じます。闘牛士が牛の角におどりかかるような勇気を持って、足はもうあぶみにかけています。[・・・] ヘレスからお便りします。皆様、この仕事と私のためにお祈りください。気が弱くなり、ここから出るのが非常に辛いのです。」(84) 翌日一人のエルマナともうヘレスに来ていて、コルドバの共同体に手紙を書いた。「・・・ 皆様と今しがたお別れしてきたことを懐かしく思いながらもお手紙を書く時間がありません。[・・・] 私にもそちらを出るのは辛いことでした。神様のためにしたことですし、全てを補って下さる方を信じていますが、その辛さは消えません。特に病人のことを思い出しています。いかがでしょうか。ひどく苦しんでいらっしゃるかどうか知らせて下さい。[・・・] セルメーニョ師とちょっとお話ししました。もう家は空いているそうです。マドレ・サグラド・コラソンがお知らせになるか、またはこちらに来る方を送って下さったら、すぐ私にお知らせ下さい。八日にはどうしても開校しなければなりません。子供たちがプロテスタントの学校に行ってしまうならば、私にとっては苦しみになるでしょう・・・。」(85)
マドレ・ピラールは全ての欠点にもかかわらず、修道女たちに表面的な好感以上のものを感じさせたのは確かである。彼女が皆から愛されることの一つは、まさに、別離の苦しみを感じ、表し、彼女を最も必要としていた人たちを思い出し、関心を示す深い人柄から出るあの愛情であったろう。マドレ・ピラールにあっては、愛を表す一つの方法は、丁度自分がそれを必要としているという言い表し方であった。そしてそれは全く単純になされた・・・。
新しい創立のために任命されたエルマナスがすぐ到着し、次に子供たちが来た。仕事が忙しかったので、ノスタルジーに浸っている暇はなかった。ポルバニール通りの小さな家での生活と喜びは、一見「非常に狭く、汚く、貧しい」と思われたあの住居を、直ちに変えてしまった。「昨晩、セルメーニョ師が家を祝福して下さってから、始めてそこで休みました。そして今朝開校し、かなりだらしのない子供たちが大勢来ました。子供を扱いなれているマリア・デ・サン・ルイスと神に信頼します。うまくやるでしょう。 [・・・] この家は非常に小さいですが、明るく可愛いです。」 (86)
このマリア・デ・サン・ルイスは非常に若いエルマナで、教育者としての特別の素質を持っているように見えた。(87) 彼女もマドレ・サグラド・コラソンに書いている。

 「マドレ、神の栄光と栄誉のために、ほんの少しでも働けるところに主が送って下さったのでとても喜んでおります。この子供たちは、全く世話されておらず、宗教について殆ど知りませんし、全てに於いて同様です。彼女たちのためにかなり努力しなければなりません。大変無知ですが、注意されるとよく受けるので、きっとためになるでしょうと神様に於いて期待しています。[・・・] 日曜学校も始めました。今日は第一日目なので、どんな子が来るか分かりません・・・。家は聞いていたほど悪くはありません。とても小さくて、余計なものは何もありません。ただ一つのことが欠けており、それは私どもにとって全てです。[・・・] マドレが、今は功徳を積む時ですとおっしゃったのは本当です。私は非常に喜んでいますが、早く、イエスがおられる家を持つことが出来るようにと望んでいます。」(88)

  確かにその家で一番困ることであった。言い換えれば、一番大きなものが欠けていた。その後マドレ・ピラール自身が書いているように、「オラトリオになりそうな部屋が一つも」 (89) なかったことである。毎日近くの教会にミサに行かなければならず、またその教会に何かの祝いか、聖体顕示がある時も行っていた。ポルベニール通りの非常に悪条件の家に五ヶ月間住んでいた。風通しが悪く、陽が入らず、雨漏りもひどかった――どの記録も、この冬は例年に見られない降雨があったという点で一致している――生きるためにどうしても必要な広さが全く不足していた。このような条件の修道院に重病人が二人おり、そのうちの一人が危篤状態になった時、夜、その地域では医者と司祭を見つけることが不可能だった・・・。
昼間は子供たちが来て、教育の必要に迫られているのを見ると、全ての不都合を直ちに忘れてしまうのだった。マリア・デ・サン・ルイス自身、先に引用したマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙で言っている。

 「・・・ こちらに来るという考えを喜んでいましたが、この恵まれない子供たちのために働かなければならないことを恐れていました。というのは、もう子供たちを知っており、コルドバの子供たちのようではないことを知っていましたから。私のうちに主のみ旨が果たされることしか願いませんでした。一日二日は、コルドバの修道院とあの天使のような可愛らしい子供たちのことを思い出して、ちょっと寂しかったのですが、それに沈むようなことをしなかったのでそれもなくなり、神がお望みになることしか望まず、私の役に立たないことを私以上によくご存知の方が私に下さったこの仕事に相応しくなれるようにと、心から神にお願いしました。」

 「大部分の子供たちは全く無知で、礼儀を知らないことはまるで野蛮人のようであった。これはこの学校に通っている子供たちの大部分が住んでいるイエドゥラ地区に漂う放任主義と怠慢の結果であった。」(90) この子供たちと、学校を開いてから一年以上を経て、清潔で、教養があり、勤勉になったコルドバの子供たちとの間には、大いに開きがあった。病気と貧困にもかかわらず、ヘレスに行くことには修道女のうち誰も少しの不都合も見せなかった。むしろ、皆、手中にある使徒職について、喜びと熱心に溢れた手紙を書いている。
ただし、この状況を改良するために、出来るだけの手段をとることを怠りはしなかった。いろいろな交渉の後、創立者たちはメディナ通りに面している家を買うことにした。それには三つの理由があった。第一は、裏にトリニダ教会があること、これを将来手に入れることは殆ど確実であること。第二は、これらの学校を創立する動機であった、プロテスタントの近くにあること、第三は、広くて、建物の構造が好条件であること・・・。」(90) で、ついに同1883年6月に、メディナ通りの家に移転した。

姉妹的交わりを深めつつ

ヘレスの創立にまつわる出来事のうちにも、マドレ・サグラド・コラソンは、会の一般的な問題から目を離さなかった。しかしそれ以上の愛を込めて、自分に任せられた修道女一人ひとりの上を慮(おもんばか)った。先ず修練院で養成し、後に修道生活の歩みに於いて、使徒職の経験に於いて、霊的人間的成長に於いて、そして健康面に於いても。これらのエルマナスが、不本意に病気や死によって彼女に与えた心配と苦しみはどれほどだったろう。
1882年、遂に第一番目が逝ってしまった。コルドバで、マドレ・マリア・デ・サン・ハビエルが、数ヶ月の病の後に三十一歳で亡くなった。共同体は、神がどんなに寛容であるかを特に経験した。寛大さと熱心さに溢れたあの若い人たちのグループの中で、マリア・デ・サン・ハビエルは、何事に於いても全然際立っていなかった。しかし生涯の最後の日々は、全く奉献された完全な日々で、「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12, 9)ということがどこまで及ぶかを見ることが出来た。「悲しみはなく、この人は聖性の香りを残していきました。二日間でそれを得ました。何と英雄的で良いお手本だったことでしょう!」とマドレ・ピラールはマドリードのある修道女に言っている。共同体の聴罪司祭ホセ・マリア・イバラ師は、マドレ・サグラド・コラソンに次のように書いた。「私は、主を讃え、修道生活を生き、その中に死ぬ子供たちに天の御父が下さる恵みが、特別ですばらしいのを、日ごとに明らかに見ています。彼らは主において生き、死ぬので、その幸福は計り得ません。[・・・] 自然的な気持ちにもかかわらず、ここにはお悔やみを言う必要はないと思われます。主がご自分の栄光のうちに、ご自分と共に居らせるために、彼女をお連れになったことを、皆確実に信頼しているので、完全な慰めと喜び以外の何物もありません。」 (92)
マドレ・サグラド・コラソンは、その報せを受けて悲しく感じたが、人間の存在と、その価値と弱さをも、ある程度理解している人の平和を持っていた。「人のいのちがどんなものであるかお分かりになったでしょう。――とコルドバの共同体に書いた――私たちの愛するエルマナは亡くなってしまいました。今、神のためにした全てのこと、神のために苦しんだ全てについてどのように語るでしょう。」 どんなに生と死の真面目な面に目を向けたとしても、自然の苦しみ、一人の人間のあの世への旅をめぐる状況について、考えざるを得なかった。「最近のそちらの様子、臨終や葬儀などはどんなでしたかお知らせ下さい。その時皆様とご一緒でしたら良かったでしょうに・・・。」 (93)
あの痛ましい経験を、どんなにコルドバの共同体と共にしたかったであろう。ともかく彼女たちと、出会いの喜びを分かち合いたかったのである。三月の終わりにそのことを姉に言っている。「今行く方が良いか、それとももう少し先になってからの方が良いか、あなたのお考えをおっしゃっていただきたいのですが。」 それに対してマドレ・ピラールは、「いらっしゃるのをどうして私が望まないことがありましょうか」と答えている。マドレ・サグラド・コラソンの問いとマドレ・ピラールの答えに、確かに、去年のあの不愉快な旅行を思い出すことが出来るであろう。「院内には、あなたのいらっしゃることはまだ黙っておきます。もし実現しなかった場合に辛く感じるでしょうから、もしいらっしゃることになりましたら伝えましょう。外の方たちには秘密にしておき、聖週間だけでも静かに過ごしたいと思いますので。」 (94)
その時はコルドバに行かなかった。しかし皆がどんなに喜んで彼女を迎えたであろうということはよく知っていた。「あなた方にお目にかかりたいと望んでいることをどうして否めましょうか。――とある機会に言った――まだその時が来ていません。そのうちに来るでしょうから、その時互いに楽しみましょう。」 (95) 「あの家の迷路を懐かしく思い出します。――前回の訪問の事を指す――滞在中ずっと道を覚えて過ごしましたが、全部は覚えられませんでした。」(96)
その時は文通で我慢しなければならなかった。そのおかげで、会のエルマナスとの関係を愛に満ちたものにした豊かな言葉のあやを、今私たちは知ることが出来るのである。皆のうちに、神に対する自分の信頼と、神から愛されているとの固い確信を植えつけたいと望んだのは確かである。しかしこの貴重な考えが、誠実さと、愛情のある人間としての深い体験に基づいていたことも確かである。

 「私はあなたに全く信頼しています。それは確かです。あなたは私によりも神に信頼なさい。私に信頼していらっしゃることはよく分かっています。ですからあなたが本当に好きなのです・・・。」(97)

 これらの手紙は非常に個人的で、一般的ではなく、それらを通して、名宛人の心理を研究することが出来るだろう。
幾つかの例をあげてみよう。
マドレ・マリア・デル・アンパロは非常に単純で、気の利いた、愛嬌のある人で、余り恵まれていない顔つきについて冗談を言うことが出来るほどだったが、生活の普通の困難に際して、励ましが必要だった。彼女に対しては次のように書いている。

 「愛するアンパロ、完全な幸福は来世に於いてのみ得られます。従って、現世の幸福は、不偏心を持ってこれに当たり、不変の御者なる神に頼らねばなりません。天国に私どもを導くのに必要なものに、決して欠けることのないようにして下さる神の慈愛に信頼しましょう・・・。」(98)
「私たちは深く神に信頼しましょう。もし私たちが忠実であれば、神は、私たちが必要とするものを全て惜しみなくお与え下さいます。[・・・] 神がして下さらないはずがありましょうか。イエスよ、私はここにおります。私にお望みになることを、お望みになるように、お望みになる時になさって下さい。難しくても、あなたの恵みによって、何もお断りしないようにしたいと思います、と、イエスに心からおっしゃい・・・。」(99)
「休憩時間の時に喜んでいて、人を喜ばせるように自分を抑えなさい。これは愛徳の偉大な業であり、目立たないように犠牲を献げることをお望みになるイエスのみ心に快いものです。」 (100)
「醜い人にも力がありますから、お喜び下さい。[・・・] ペトラはあなたに惹かれています。夢の中でもあなたを思い出すほど、あなたのことを忘れないそうです。
(101)
「では、一瞬ごとに熱心さを増し、非常に明るく、よく召し上がってください。天国で実現できる幸いを得るまで、イエスの御腕に完全に身を委ねましょう。この考えは私を喜びで夢中にさせます。そうでしょう?その時は、あまり遠くはありませんから。」(102)
「愛するアンパロ、あなたが苦しむのを見たくありません。時々あなたを襲う苦しみの中にあってさえも。神がそれを望まれ、この方法であなたの聖性を計らわれるので、彼の生命よりもあなたを愛される、慈しみ深い御手から来ることを考えて、喜ばなければなりません。あなたを天国に連れて行くために、ご自分の生命を失われたのです。[・・・] それで、私たちは苦痛のさ中にあっても喜ばなければなりません。これによって天の王国を買い取ることが出来ることを考えて、大いに喜ばなければなりません。」 (108)
「天国に行きましょう。アンパロ、早く行きましょう。たとえ石ころだらけの道であっても、神に連れて行っていただくなら、辛く感じられるはずはないではありませんか。」(104)

 非常に若い時に入会したマドレ・マリア・デ・ラ・パスは、内的に成長するために、時々暗闇に襲われる難しい時期を通らなければならなかった。

 「この世では私どもの栄光は、誰にも気付かれずに、同情もされずに、辱められて生きることであるはずです。しかし私どもの方からは、他人がそのように私どもを扱うように原因を作るのではなくて、その反対に、私どもの周りの人々皆が、幸せに過ごせるようにするのです。これこそ真の愛徳です。[・・・] 時間をよく利用なさい。どんな時でもイエスのみ姿を見失わないように。イエスがあなたにお望みになるように、彼をお愛しなさい。もしみ旨ならば、恵みもなく、ご褒美もなしに。またもしそれをお与え下さるなら、相応しくない者であることを思いながら、へりくだってお受けなさい・・・。」(105)

 エルマナ・マリア・デ・サンタ・ビクトリアは、入会のとき十五歳の少女だった。可能性は沢山あったが、よく開発されていなかったので、マドレ・サグラド・コラソンは、愛をこめて養成し、常に彼女はそれに応えた。

 「あなたのことを忘れてしまったなどとおっしゃらないで下さい。そんなことはありません。私が今どんなに忙しいかご存知でしょう。時には食事を取る時間さえありません・・・。
とても熱心でいらっしゃるそうで喜んでいます。けれども [・・・] 慰めに満たされているときも、無味乾燥の時も、一生懸命なさるように。[・・・] お分かりになりますか? 潜心に気をつけ、怒りを表さないように用心して下さい。あなたからお手紙をいただくと嬉しく思いますので書いて下さい。私が心配しますから、太って下さい。」(106)
「お手紙をいただいて嬉しゅうございました。あなたは良い望みで一杯なので私も喜んでおります。業はそれに伴っていますか?そうだと思います。でもお勧めは不要ではないでしょう。
・・・ 香部屋係りだそうですね。その大切な仕事を熱心に、清潔に、注意深く果たして、主を深くお喜ばせするようになさい [・・・] 決して誰にも嫌な態度で返答したり、過失があってもなくても、注意された時にふくれないこと。[・・・] これで終わりにしますが、短くても熟慮して書いた良い手紙を下さい・・・。」(107)
「あなたのことをいつも思い出し、主に感謝なさらなければならないことも思い出します。主に対して非常に寛容であるように、自分が熱心であるか、冷淡かを気にせず、常に同じ態度であるように。沢山祈っています。[・・・] いつも神のみ旨と一致し、乾いていても熱心を感じても同じであり、[・・・] 自然性が逆らっても常に冷静で長続きするように・・・。」(108)
「私のサンタ・ビクトリア、お手紙を下さい。主のみ前であなたのことを忘れたことはありません。よい子であって下さい・・・。」(109)

 聖心の祝日には、会の長上に祝いの手紙が洪水のようにマドリードに着いた。その日のうちにマドレは返事を書いた。感謝を表す言葉は、最も心のこもったものであり、通り一遍のものではなかった。

 「私が心から望んでいることではあっても、数日間でお一人お一人に個人的に手紙を書くことは不可能なので、イエスの聖心に於いて、出来ればいつもよりもあなた方のことを思い出しましょう。
皆様のお手紙によると、皆よく振舞っていらっしゃるようですね。主に対して己を忘れた愛をあなた方に下さることによって、神があなた方の献げ物に報いて下さるように。お分かりになりますか?そうです。主のために出来るだけ働きましょう。主がそれをお受けになるのは当然です。慰めも、甘味さも、快さもなく、仕えられるのにこの上なく値する主に仕えるというすばらしさによってのみ。
聞くところによれば、それでなくても私は知っていますが、ある方たちは、神のことを思い出す暇もないということですが、この手紙をお受けになりましたら、イエスの聖心に全てを、散心も、忘れることも、無関心も、全部、その栄光と栄誉のためにお献げして、主があなた方の代わりをして下さるようにお願いなさい・・・。」(110)

 この「己を忘れた愛」は、彼女自身が生きてきた愛であり、彼女の全ての欠点を補う「仕えられるのにこの上なく値する主」への謙虚な奉仕の愛であり、それは祈りのうちにも、仕事のうちにも、はては休息の時にも、主と一致していた愛であった。
彼女の心の優しさは、1882年にコルドバの共同体の会員の一人の健康について、憂うべき報せが届くようになった頃から、実際に表れた。それは丁度若い修道女で――その当時は実際に皆若かったが――将来を大いに期待されていた。マドレは無感覚であるどころか、人間的愛情に感じやすく、マドレ・マリア・デ・サンタ・テレサに大きな期待をかけていた。(それがよく答えられたことは言うまでもない。)この若い修道女が、急激に悪くなって行くのが分った時に、この手紙を書いた。健康と生命の唯一の支配者である主が、何かをお決めになるまでは、彼女をこの地上に留めていただきたいという望みと、病気と死にさえも抵抗することを望んでいることが、強く表れている。

 「私の愛するサンタ・テレサ:やせ細っていらっしゃるそうですが、どうぞそんなことをなさらないで下さい。まだこの地上であなたにさせたいことが沢山あるので、主があなたを愛しておられるのが分からないのですか。
死にたいと思ってはいけません。大事にし、より良い生命に移りたいという望みを捨てるように、イエスへの愛によってお願いします。師父聖イグナチオがライネス師に言われたことを思い出しませんか?神のみ旨への適合の中にありますから探して読んで下さい。(111) 昔のように’teresil’ の空腹が戻ってきて太っていると早く言われるのを期待しています。神はその浄配が、小トカゲで生きているように見えることをお望みになりません・・・。」(112)

 小トカゲでは生きていかれなかった。彼女たちがしていた生活は、仕事が多いだけでなく、さまざまなものが不足し、特に栄養不良だったので、多くの者の体力の消耗に加えて、ローマン派の人々が呼んだ「微細な病」である結核に容易にかかった。やがてマドレ・マリア・デ・サンタ・テレサは、若くして亡くなる。しかし生きるために闘ったであろう。キリストとの出会いを望みながらも、「死にたいと思ってはいけません」に従おうとしたことだろう。マドレ・サグラド・コラソンを苦しめないために、もし自分に出来たら奇跡さえ行ったであろう。
マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・マリア・デ・サンタ・テレサの病気の間、数通の手紙を書いた。

 「あなたのことを忘れてしまったなどとお思いにならないで下さい。あなたがご病気だった時も、今も、そしていつも、会員の誰をも忘れないように、あなたのことも忘れませんでした。丁度母親が大きい娘たちに対するようなことが、あなた方にも起こります。たとえ小さい子供たちと同じように思い出していても、小さい方を、大きい方よりも世話します。というのは、小さい子供たちは、まだ教えを受けていませんので、もっと危険にさらされ、もっと必要に迫られています。会についての興味とともに、あなたも、他の皆様をも、一瞬間も忘れたことはありません。忘れたようでも、丁度非常に愛し合っている兄弟たちの間に起こるように、話さなくても理解しあっているのです。」 (113)
「・・・ 元気をお出しなさい。堅実な愛をもってイエス様をお愛ししましょう。主がお望みになるなら、お恵みによって奇跡さえも行いましょう。そして毎瞬、謙遜に、柔和に、私どもの不完全さをお捧げしましょう。そして特に、神を思い起こすために、自分自身を全く忘れ去りましょう。そうではありませんか?」(114)

 この時には奇跡は起こらなかった。マリア・デ・サンタ・テレサは、良くなったり悪くなったりしながら、巨人のような歩みで、生涯の終わりに近づいていった。マドレ・サグラド・コラソンは、彼女を喜ばせ、その仕事に興味を持たせたが、特に、決然として、徹底的に神に向かうように世話をした。

 「・・・ 神の助けなしには何も出来ないことを経験によって分かるのをお喜びなさい。神は、良いことをしたいと願うだけで、満足して下さるのです。神は、あなたに、他の型の祈りよりも、観想的な祈りをお望みになることはよく分かっておりますが、その前に、あなたが自分をよく知るようにと望まれ、無償のお恵みによって、あなたを清めて下さるのです。ですから、あなたの方には何も悪いことはないのです。」(115)

 1882年の暮れ、コルドバの院長マドレ・ピラールは、ヘレスの創立の手続きのために、度々共同体を留守にしなければならなかった。当時、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオが家の責任を持っていたので、マドレ・サグラド・コラソンに勧めを仰ぐために、度々手紙を書いた。彼女は、ホセ・マリア・イバラ師の妹で、二人の創立者と初めから行動を共にした人たちの一人だった。その友情は、ペドロ・アバドでの日々にさかのぼる。愛嬌があり、細やかで、二人の姉妹に対して深い愛を抱いていたことで、最後まで際立っていた。早く天国に行くことになるこの修道女にも、マドレ・サグラド・コラソンは、初期に書いた美しい手紙の中の一つを宛てている。その手紙の抜粋を載せよう。

 「あなたもいつか経済的乏しさを経験なさり、その結果、お苦しみになると思います。あなたもご存知のように、私もひどい乏しさを経験し、そのような状態にあって、どのようにして心を広くし、高く上げるかを知りました。まず、私どもの主に対する盲目的信頼で、主は必ず私どもを助けて下さるはずであると固く信じること、何故なら主は、私どもを助けることを、ご自分に義務付けられていらっしゃるのですから。第二には、大いなる謙遜をもって祈ることで、私どもに必要なことと、望みを全て主にお委ねすることです。私どもの生涯は全く、全て信仰と寛大さの織り成す布のようでなければなりません。あなたもご存知の通り、私どもの事業のために、人間的援助が何と少ないことでしょう。あたかも主が私どもの会の中で、全てのことをご自分でなさりたいかのようです。そしてその方が、確かに良い結果を生むに違いありません。」(116)

 姉妹的な交わりの価値を、ラファエラ・マリアほどよく認めていた人は多くないだろう。しかし、彼女が望んでいた理想は、深く現実に基づいていた。人間としての条件に付き物の限界を、見逃そうと思ったことは一度もない。むしろ、たとえ「大いなる愛をもって忍ぶためだけでも」、欠点を考えに入れる、単純な愛を信じた。姉妹たちと住むことは、度々、複雑な外的事柄によるよりも、難しさを生じることを、日ごとに悟っていく。会の中で、神がご自分でなさろうと望まれた事柄においてさえも、真の共同体を作るための努力を除外しはしなかった。「そのほうが確かにずっと良くいくのです」ということについても、前に挙げたことを適応させることが出来るだろう。

 「全ての姉妹、そしてお一人お一人に、次のことをお伝え下さい。瞳のように皆様をお愛ししています。主が私たちの会の中で満足されるように、あなた方もお互いに愛し合い、また、私どもの会を愛するように。どうか意見の相違がなく、皆が大きな愛をもって、互いの欠点を忍びあうように。」 (117)

 明らかに才能があるにも関わらず、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオには、デリケートな教養の輝きが欠けていた。マドレ・サグラド・コラソンの、直感と理解のある愛が、彼女の自然的な欠陥を補わなかったならば、このことは時々、自信を失わせることになったであろう。一方には、ずば抜けた才能によって、それは埋め合わされていた。人間が自分の中に期待として持っている良い種を実らせるために、信頼が必要な風土であることを知って、彼女には絶えず励ましの言葉を送っている。

 「今共同体は何人ですか?今こそあなたは大きなはっきりした声で、信頼に満たされているとおっしゃることが出来ます。そうですとも。元気を出して落ち着いて、心も体も、慌てたり悩んだりしてはいけません。動機は不足しませんから、イエスに絶え間なく願うことです。これこそ私どもの生活でなければなりません。すなわち、イエスに摑(つか)まっていること、そのために、もっとよい方があるでしょうか。」(118)
「私は自分でも分からないほど勇気を感じます。何があっても慌てません。私の側からなすべきことを全てしてから、神に信頼します。あなたこそ、そちらで私に全き信頼を起させて下さるはずです。というのは、誰をも恐れてはいけません。誰かの手紙が、私に影響を与えるなどとお思いにならないで下さい。
いつも皆に対して、主があなたに語って下さるように行いなさい。長上の務めを持っている者に、光が与えられることを、知りすぎるほど知っています。そしてどんなに賢い人でも、目下には得られない光です。いつか私があることを命じても、(あなたがご存じないことを命じないようにしましょう)あなたがそうしないほうが良いと思う時は、それを変えてもよろしいのです。私の心には、誰も、何も、あなたに反するように影響を与えるものはないことを、もう一度申し上げます。皆あなたのことが大好きです。」(119)
「あなたが院長になってから、志願者が来るのを知って微笑んでいます。あなたがおっしゃるように、私の姉と私が上品さでするよりも、あなたは粗野でもっと人を捕まえます。[・・・] あなたは自分の小さいことを見て満足なさい。神はこのように粗悪な道具を、ご自分のみ業を発展させるためにお使いになるのをお喜びなさい・・・・」(120)
「あなたは心配や苦しみがあるかないかについて、ちっともおっしゃいません。あれはおっしゃって下さい。私はもうしょげませんし、あなたよりも勇敢だと思います・・・。」(121)

 その同じ1882年の10月に、マドレ・サグラド・コラソンはついに、コルドバの共同体を訪問した。先ずマドレ・ピラールに報せたのだろう。その返事として、「あなたがいらしてもよいだけではなく、望んでおります。[・・・] こちらで人事のことと、他の事等ご相談しましょう。24日の夜だとよいと思います。この手紙が早く出るようにと望んでいますのは、創立のために、もう私がヘレスにどうしてもいなければなりませんので。」(122) 幸いにもこの度は修道院に無事に着いて、ゆっくり滞在し、エルマナスと話し合い、喜ばせることが出来た。30日に、数人の志願者を連れてマドリードに帰ってきた。アンドゥーハル(123) にちょっと止まって、他の志願者を加え、合計六人になった。帰りは賑やかで楽しい旅だった。創立者にとって思い出の多いアンドゥーハルの病院から、マドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている。「無事に着きました。パドラ――志願者の一人――はとても面白い人で、知れば知るほど好きです。[・・・] こちらのエルマナスは、いつものように歓待して下さり、ご一緒にお食事をするように、お祝いの会をして下さいました。[・・・] 午後、志願者は厚着をして来ないと、夜は非常に寒いです。」 (124)
あの志願者たちの中に、ヘレスの創立の最初の実りが混ざっていた。(125) そのうちの二人は後に、会とマドレ・サグラド・コラソンの歴史にとって重要な役割を果たすピラール・バスケス・イ・ペレス・デ・バルガス(後にマドレ・マリア・デル・サルバドール)と、コンセプション・アランダ (マドレ・マリア・デル・カルメン)である。

マドレ・サグラド・コラソンは、あらゆる種類の人と、完全に、幅広く交際していた。イエズス会士、司祭、一般の人たちと、如才なく振舞った。彼女の賢明さは、本会が世話になったコタニーリャ師に対しては、尊敬の形を取って表れた。他の若い神父方――ロデレス、イダルゴ、アラルコン等と交わらなかったわけではない。彼らは新しい風を入れるのに役立ったであろう。彼女がもし、自分の成功を鼻にかけるような人だったならば、1882年7月になされたセフェリーノ師の訪問について、自分の益になるように記すことが出来たであろう。コルドバの司教は、生地アストゥリアスに行く途中、マドリードに立ち寄った。「司教様をお訪ねしようか、それともお便りしようかと迷っていました。数日たってしまいましたが木曜日に、もう来たから会いたいと使いをおよこしになったので、訪問しようと決心しました。プリシマと一緒に出かけましたが、いらっしゃいませんでしたので、名刺を置いてきました。翌日、11時15分前にお現れになり、今までになく丁寧で、優しく親切にして下さいました。家を見て――見たいとおっしゃっただけでなく――あなた方のことを思い出して、汚い家で、中庭もなくて「かわいそうに」とおっしゃいました。台所と食堂を見るために上っていかれ、アスンシオンに、何か食べるものがあるか、とお聞きになり、スープと煮物があると申し上げると、「よろしい。煮物は何ですか。」とお尋ねになりました。「肉と、ちょっとハムがあります。」と答えると ・・・ 「修道女は誰でもこの質問に対して反対の答えをし、あなたが先に言ったことを隠すものです。」と満足げにおっしゃり、彼女の淡白さにご満悦でした。修練女たちも上出来でした。とても喜んでお帰りになったようです。私たちも大喜びでした。」 (126) マドレ・サグラド・コラソンは何も言っていないが、あらゆる点から見て、この訪問において最も良く振舞ったのは彼女自身だったことは言うまでもない。

もう終わりに近づいていた1882年を通して、二人の創立者の間柄は、それまでと大差なかった。多分性格の違いが外に表れるような特別な問題がなかったからであろう。マドレ・サグラド・コラソンの軽い病気――風邪と頑固な咳――のため、姉が長い間何も出来ないでいた。「どうして元気におなりにならないのですか。沢山しなければならないことがありますのに。そのためだけでもお大事になさって下さい・・・。」「あなたがご病気だと思うだけでとても苦しみます。大事になさってよくおなりになって下さい。休むにはまだ若すぎます。」「あなたの健康のためにもっと何かしてさしあげられれば。」・・・(127) 具体的な事柄について考えや意見を交換する他の機会があった。二人の姉妹は自由に、完全な平和のうちに、各自の観点を話し合った。
二人の創立者たちがお互いに、エルマナスの係りにおける進歩や、共同体における個人的成長について話し合っていた信頼によって、マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに、マドリードのある修道女たちが彼女に表した、共同生活の難しさを話した。「・・・ NとNの間にまだつまらないことが続いているのを残念に思います。不一致が入り込んだ暁にはもうおしまいです。[・・・] 彼女たちが、返事がほしいといっているのですが、[・・・] 手紙を書いてもよろしいでしょうか・・・。」(128) 「不一致があるのではありません
――マドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている――ご存知のように、ただ、Nは細かいことにこだわりますし、Nもそうですし、少し閉鎖的ですから、双方とも気を悪くしているように見えるのです。お手紙をお書き下さい・・・。」 (129) このように、二人の創立者の間の文通は単純であった。ともかくマドレ・ピラールはしつこかった。マドレ・サグラド・コラソンのある修道女たちの取り扱い方を、このようにしなければならない、などと言ったので、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールが不信頼だと思ったことに不快感を表している。「そのことと、私を信頼しないこと――あなたは私の好意を得たと思っていらっしゃるのですが――は、私をひどく悲しませました。[・・・] 私がコルドバに行った時、あなたに申し上げようと思ったのですが、勇気がありませんでした。けれどもやはり申し上げるべきだと思います。」(130)
マドレ・サグラド・コラソンは、姉のことで苦しんだことを認めなければならない。マドレ・ピラールがいろいろな機会に、絶えず注意をするので、先天的な謙虚さは自信を失わせた。たとえこれらの勧めが善意から出たとはいえ、それを読むと、本当にある種の不信頼から出ているような印象を与える。
マドレ・サグラド・コラソンの上述の言葉に答えてマドレ・ピラールは、自分の言葉一つひとつに細かく説明を加えている。美しい次の言葉で結んでいるので、彼女の真実さを疑うことは出来ない。

 「私たち会員と私たちの間に、信仰と愛情があることをいつもはっきりとお思い出し下さい。私たちが持っているような愛には、誰も達することはないでしょう。これは多くの理由によってそうです。会に対して大いなる興味を持っているとしても、私たちが持っている程度には決して達しないでしょう。このことを信じ続けるために働きましょう。そして業がそれに応えますように。この地上でも幸福であり、天国でも比べられないほどもっと幸福でありましょう・・・。」(131)

 1883年7月に、マドレ・サグラド・コラソンはヘレスに旅行したようだ。周囲の情況からして、その夏には、修道女たちに自分が教えていた中心的な考えをしっかりと身につけることが必要だった。あらゆる反対に出会ったが、その中には時折喜びも混じっていた。
4月下旬、創立者らは、マドレ・マリア・デ・サンタ・テレサをヘレスに行かせることに決めた。まだ病気であったが、二人とも治ることを希望していたし、家の院長として責任を持たせようと思っていた。彼女の病が頑固なものであることを知らなかったことを彼女たちのせいにすることは出来ない。医師たちも、その病気が、もう取り返しがつかなくなるほど進行するまで気がつかなかった。マリア・デ・サンタ・テレサは、最後の力を振り絞ってヘレスに赴いた。まだ少し力があったが、マドレ・ピラールの勧めで歩き回ったので、それも使い果たした。「・・・ 彼女は私が起きるように励ますので、休んではいません」と、医師の勧めに従っていたマドレ・サグラド・コラソンに書いた。「少しよくなりました。お医者様がおっしゃったので、二日しか休んでいません。寝ているよりも動いているほうがずっと休まります。オルガンを熱情を込めて弾くことが出来、このヘレスの人たちの胸に火を灯すことができるように、食欲と必要な力を与えて下さるようイエス様にお祈り下さい。もうずっと前からご聖体拝領をしていませんし、祝日の三日間ミサにも与りません。これは主と同じ屋根の下に住んでいないということです。けれどもこの小さな苦しみを喜んでいます。それは主がその杯の苦汁の一滴を私に下さりたいしるしであり、私は臆病で一度もお願い出来なかったので、主が下さるのです・・・。」 この病人は五月下旬に、マドレ・サグラド・コラソンにこのように書いている。会の共同生活の存在理由であるイエス・キリストがおられることを、望むことに於いてだけでなく、特に、それよりも単純に神のみ旨を果たすことの方が価値があるということを、理解することに於いて、短時日に、マドレに相応しい弟子となった。
このように語っていた病人は、数日間に三度も喀血していた。それなのにまた熱情込めてオルガンを弾くための力を願っていた。しかし、少なくともメディナ街の新しい家で生活し、「私たちの集まりの最大の慰めと主要な目的となるために」 (132) イエス・キリストがお住みになる「同じ屋根の下に」死ぬ慰めを得た。そしてまだ喜ぶ気力――もう体力ではない――はあった。マドレ・ピラールがその頃言っており、度々マドレ・サグラド・コラソンに言うのを聞いていた、もう「神に献げられた一軒の家と、礼拝のなされる聖堂が」(133) あることを喜ぶ気力はあった。
当然マドリードまでその喜びは伝わってきて、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女たちとその喜びを共にした。「・・・ 八日、一日中をそちらの創立のためにお献げしました。[・・・] あなたがたが最後の手紙でそちらで皆様が熱中したというお報せが、他の方の手紙によっても分かりました。全ては完全によくいきましたが、特に歌はすばらしかったそうです。神に感謝致しましょう!」(134) この大喜びの後、病人は急に悪くなった。マドレはもう、「死にたいと思ってはいけません」と励ますわけにはいかず、平和のうちに死ぬように助けるだけであった。
7月9日にヘレスに着いて、17日まで留まることになった。13日にマドレ・マリア・デ・サンタ・テレサは、マドレ・サグラド・コラソンの腕に抱かれて亡くなった。実際には、この地上の誰かの腕に抱かれて、というのは適当ではない。それよりも、神のうちに、とか、全き孤独のうちに、とか言うほうが相応しいだろう。しかし、どうしても仲間から離れなければならないこと、あの信仰の飛躍を、結核でさいなまれていた若い人も経験したであろう。最も的確に言えば、最後の日々を、彼女を心の底から知り、理解した人と共に過ごす慰めを持った、ということが出来よう。
マドレ・サグラド・コラソンにとってその死は、昔のことを思い出し、生命は主から受けたものゆえ、信頼と愛をもって献げ物としてお返しすべきことを、新たに悟ったであろうし、母の死を思い出したであろう。この若い人に於いて、人間のはかなさをもっと知ることが出来た・・・。
マリア・デ・サンタ・テレサの死によって、ヘレスの共同体に関して彼女の持っていたプランを考え直さなければならなくなった。院長――マドレ・ピラールは、コルドバとヘレスの間を絶えず旅行していることは出来なかったから――に、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・プリシマを提案した。初めてマドレ・ピラールは、妹の意見に真面目に反対した。
彼女の到着後一週間して、マドレはヘレスを出てコルドバに行った。その間非常に苦しみ、冷静に、平和をかもし出すように極力努めたが、完全にそれを得たとは言えない。それは、共に過ごす喜びを妨げる困難を克服するために戦わなければならないが、その喜びを享受するのは、いつも私たちの手中にあるわけではないからである。しかし、その努力は無駄にはならなかった。それは時間がかかったが、マドレ・ピラールの痛悔 となって実を結んだ。マドレが帰ってしまってから、すぐ自分の振る舞いを悔やみ、それを妹に詫びた。「イサベルは泣きませんでした (135) [・・・] 他の者は皆善良です。あなたがお帰りになったことを、私は誰よりも感じています。もう終わってしまった今、私は心の思いを神にお献げしています。いつでもそうなのです。決心しても無駄なのです。何の役にも立ちませんから・・・。」(136) 三日後に落ち着いた。「悪意はないのにあなたを苦しめ、全てに於いて私が良く振舞わなかったので、私はあなたがこちらにいらっしゃったことで心が痛んでいます。神がそのより大いなる栄光と、会の利益のためになるようにして下さることを願っています。私としては、あなたに対しても、誰についても疑っていたのでもなく、不信頼だったのでもないことを真実に証明致します。何か言ったとしたら、それは私がいらいらしていて、抑えることが出来なかったからです。過ぎ去ってしまえば、後悔するばかりです。」 (137)

1882年は、大きな慰めと共に終わった。以前から創立者たちは、規約に記されている、年に何回か、祝日の前夜に、聖体を顕示する恵みが与えられるように望んでいた。その頃はまだ与えられていなかったのである。この問題が任せられていた、ベネディクト会の総秘書のマウロ・プラナス師から、12月31日に手紙を受け取った。「五年間のための許可を同封することが出来て、嬉しく思っています。教皇聖下は、ご覧の通り、年に六回、あなたがたが選んだ祝日に、夜の礼拝をするために、聖体を顕示する許しを与えられました。この特典を与えるためには、難しさがあったことを申し上げねばならないと思います。[・・・] 繰り返しますが、あなた方は幸運でした・・・。」 (138)
六年前、主にこの恵みが与えられるように絶えず祈っていたのである。本当に幸運だと皆感じていた。

マドリードの使節の交代と、認可への新たな歩み

1882年の間中停滞していた、教皇庁認可の件は、新しい年の初めと共に歩みだした。1月に教皇使節として、ランポリャ師がマドリードに到着した。彼は、会の創立当初に、マドリードに於いて、聖座の事柄に関する係官であったので、会のことを知っていた。長い物語を経て1788年に首都に会を設立した若い人たちのグループに、ピオ九世の按祝を送ったのである。
会にとって更に重要なのは、使節の秘書である若い司祭、サンティアゴ・デラ・キエサ師と知り合いになったことである。この司祭は後に、ベネディクト十五世になる人であった。(139)
マドレ・サグラド・コラソンは絶好の機会とばかり、創立者として最も重要だと思っていたこの問題を進めようとした。使節に、すぐに会の認可を望んでいることと、ある人たちが会の起源について思わしくない情報を提供していることで、心配していることを報せた。ランポリャ師は、使節庁の監査官に、セニャ師に、司教律宗者聖省に、事の次第を全て書き送るように命じた。監査官は、その命令を忠実に果たしただけでなく、愛を込めて果たし、その上、会についての個人的賛辞をも付加えた。「修道女たちの模範的な生活と、規則遵守は、教会権威にとって非常に好都合だと思う。」 この手紙に対して聖省の秘書は、約二年前に頼んだ報告書を送るようにとの返事をしてきた。要するに、会の起源とその時の規律、人事、経済状態について再び調べるのである。そして修道女が行っている教区の司教らの手紙をも求めてきた。
二人の創立者が、たとえ大いなる興味を有していたとは言え、これらの質問に答えるためには少し手間取った。秘書の手紙の日付は6月27日になっていた。それがマドリードに着いた時、マドレ・サグラド・コラソンは、ヘレスとコルドバの修道院を訪問するために、アンダルシアにいた。帰ると、その用件の重要さに鑑み、マドレ・ピラールを傍に呼んだ。7月29日にマドレ・ピラールは、マドリードに行くためにヘレスを発った。「休息を最小限にとどめても、それを書くのに五、六日はかかった。」(140) マドレ・ピラールの手紙とマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ(コルドバにいた)のと、少しこの用件については食い違いがある。「・・・ 土曜日ヶ月曜日(8月4日か6日)そちらに行きましょう。依頼された書類を明日教皇使節にお出ししますから。私が非常に望んでいないにもかかわらず、主がそれを進めて下さいます。しかし神父様がそれをお命じになるので、この場合は彼は神ですから、コタニーリャ師のことを指します。従順の行ないと、皆の祈りと、神父様がなさることはいつもうまくいくので信頼しています。」(141)
マドレ・ピラールには、認可を受けようとするのは、時期尚早と思われた。それに反してマドレ・サグラド・コラソンには、遅くなるのは待ち遠しかった。幸い今回は、コタニーリャ師の考えは、マドレ・ピラールの心配を斥けた。
秋にこのイエズス会士は、ローマに旅行した。「・・・ コタニーリャ師はローマにいらっしゃいます。私に出かけるとおっしゃいましたが、どこへとはおっしゃいませんでした。私が期待しているように、彼が関心を持っておられるので、私たちの規則のために摂理的だと思います。」とマドレ・サグラド・コラソンは姉に書いた。(142) マドレ・ピラールは折り返し、「・・・ 神父様が規則のことをお思い出しになるにしても、あなたが良い結果になると思うなら、モレノ枢機卿にお目にかかって、この用件が進むように、神父様に手紙を書いていただくようお願いなさるべきだと思います。[・・・] このためにあらゆる手段をお尽くし下さい。時間があれば私も今日、神父様にお手紙を書き、あなたのお手紙と一緒に行くように同封します・・・。」(143) マドレ・ピラールは、前のためらっていた状態を抜け出してからは、全ての手続きがダイナミックでないように感じる。「今日十二日から、ピラールの聖母にこの目的のためノベナ(九日間の祈り)をし、聖母のお助けに加えて七年前の今頃過ごしてきた苦労をもお捧げし、お取次ぎを願おうと思いつきました。あなた方もなさって下さい。あの正直で無邪気なエルマナスが一生懸命にして下さるように、コルドバにも同じ事を伝えましょう。」 (144) マドレ・ピラールが「七年前」の苦労と言っているのは、創立当初の不愉快とか不安を指しているのである。この十字軍のような雰囲気で、マドレ・ピラールは会じゅうに祈らせた。以前の嫌悪やためらいは忘れてしまった。(そして聖省から依頼された返答をローマに送るために、マドレ・サグラド・コラソンがそれらと戦わなければならなかったこともきっと思い出さなかったであろう。)
コタニーリャ師はローマから帰ってきた時に、アグスチノ会士マヌエル・マルティネス師に、「短い大切な手紙」を書くようマドレに勧めた。それは、聖省への返答を彼に送り、彼自らがそれを提出し、同時に、聖省長官の枢機卿が興味を持つように、「短い熱心な嘆願書」を書くよう願うためである。コタニーリャは彼として、依頼状を書くから、それら全てを使節庁の郵便でローマに送ろうと付加えた。(145)
このように、認可の経過は複雑であった。ローマについて、「全てのことは時間がかかる」とはよくも言ったものである。
1883年12月中旬に、院長は書類を送った。今はまた、祈り、待つのみである。

第2部 第2章 注

(1) 十九世紀後半に創立された十二の修道会が、称賛の教勅と教皇庁認可を得た日付を調べてみると、(Hermanas de los Ancianos Desamparados de la M. Jornet、Compañia de Santa Teresa、Hijas de Cristo Rey、Hermanitas de la Cruz、Esclavas Concepcionistas、Francisicanas Misioneras de María、Hijas de Jesús、Reaparadoras、Siervas de Jesús、Siervas de María、Siervas de San José y Servicio Doméstico)Esclavas del Sagrado Corazónは、称賛の教勅を得るまで、平均年数(四年から三十年)を少し下回る(九年間)。特別なことは、前に挙げた修道会の、(早くて十五年、遅くて六十六年)の平均年数三十一年に比べれば、教皇庁認可を翌年、すなわち創立後十年で得たことである。
(2) 1880年10月1日付のマドレ・サグラド・コラソンに宛てたカミロ・デ・パラウ師の手紙。
(3) 1880年10月6日付の手紙。
(4) 1880年10月5日付の手紙。
(5) コルドバ修道院日誌、3ページ。
(6) 1880年10月17日付、マドレ・マリア・デ・サンタ・テレサの手紙。
(7) 1880年10月30日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のカミロ・デ・パラウ師の手紙。
(8) 1880年10月19日付の手紙。
(9) 同上。
(10) 1880年10月21日に始め、22日に終えた手紙。
(11) 1880年10月22日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマリア・デ・サン・イグナシオの手紙。
(12) 1880年10月22日付、マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(13) 聖心侍女会の文書庫に保管されている、自筆の日誌の断片。
(14) 1880年10月23日付、妹への手紙。
(15) 1881年3月26日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のカミロ・デ・パラウ師の手紙。
(16) 1881年1月12日付、同上。
(17) 1880年10月24日付、マドレ・ピラール宛の手紙。
(18) 1878年9月19日付、マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(19) 会憲 [134]
(20) 1881年10月23日付、マヌエル・ペレス・デ・ラ・マドレ・デ・ディオス師 宛の手紙。
(21) 1881年3月付、サンタンデールの司教ビセンテ・カルボ・イ・バレロ宛の手紙。
(22) その同じマドレ・ピラールがマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙の中で、これらのエピソードの一つを語っている。それは、マドリードにいた最初の年に、コルドバに旅行した時のことである。「その後で、ルイス叔父様にお目にかかりました。[・・・] 色々な事を話してくれましたが、一番ひどかったのは、彼がイエズス会士が好きでないのは、教皇位を擁護するからだと言ったことです。それで私は不快を表して、イエズス会を愛するからではなく、王の王、主の主である、唯一の、謬り得ない神の代理者である教皇と、その権威を私は愛し、支持しているので、そのように感じる人の目を抉(えぐ)り取ってやりたい、と言いました。」(1877年12月9日付の手紙)この言葉は、激しさと愛とを共に表している。実際にマドレ・ピラールをよく知り、家族への特別な愛情を知っていれば、「目を抉り取る」という言葉はひどい表現に過ぎず、本当にそういう意味で言ったのではないことが分かる。イエズス会――彼女にとっては、自分の家族よりも愛しているとも言える――の擁護を二の次にしたことは、心の中に教皇に対する愛がどこまで深いかを表しているのである。
(23) 妹への手紙。
(24) この件にまつわる全ての事柄は、些細なことに至るまで、マドリード修道院の日誌と、二人の創立者間の手紙に書かれている。
(25) 1881年2月15日か16日に書かれた手紙。
(26) 同上。
(27) マドレ・サグラド・コラソンが数日前に書いた手紙を指す。
(28) 1881年2月23日付の手紙。
(29) 1881年3月11日付、妹宛のマドレ・ピラールの手紙。
(30) 1881年5月3日付、姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(31) 1881年6月9日付、姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(32) 1881年9月2日付、マドレ・ピラールの手紙。
(33) 修道院創立の少し前に、教会が倒れそうになっていたので、司祭たちはそれを放置して、トリニダに隣接している教会に小教区を移さなければならなかった。(コルドバ修道院の日誌 12ページ。
(34) 1880年11月13日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(35) 1880年11月9日付の手紙。
(36) 1880年11月30日。
(37) 1880年12月17日。
(38) 1881年1月17日付の手紙。
(39) 1881年2月2日当日に書いた手紙。
(40) マドレ・マルティレスの、コルドバ創立に関する報告書。
(41) 1881年2月10日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(42) 1881年2月23日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(43) 1881年2月23日付、マドレ・マリア・デ・ヘスス宛の手紙。
(44) 1881年6月19日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(45) 1881年6月21日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(46) 1881年2月18日付、妹への手紙。
(47) 1882年1月29日付の手紙。
(48) マドレ・サグラド・コラソンは、このエルマナが共同体の中で難しかったので、助けるつもりで家を変えようとしていた。
(49) 一例をあげてみよう。「・・・ 私は神がお望みになる人と喧嘩をする用意が出来ていますが、あなた方はその機会を私に与えてはいけません。というのは、私が考えるようにあなた方も考えるならばよろしいのですが、もしそうでなければ、よろしいようになさって下さい。私はそれを尊敬しましょう。あなた方がここにいらっしゃれば、どんな苦境に立つかお分かりになるでしょう・・・。」(1881年5月14日付の手紙)
(50) 同上。
(51) 1881年5月18日付の手紙。
(52) 1881年5月5日付の手紙。
(53) 1881年4月23日付の手紙。
(54)  1881年5月21日付、マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(55) マドリード修道院の日誌。5ページ(タイプ写し)。
(56)  1881年7月4日付の手紙。
(57) 1881年7月10日付の、マドレ・ピラール宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(58)  1881年7月16日付、カルメン・ゴメス宛の手紙。
(59) イエズス会士レスメ・フリアス師が、聖省の原本から自筆で写したもの。
(60) 1881年10月8日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のエスコラピオ会士マヌエル・ペレス師の手紙。
(61) 同上。
(62) 1881年10月15日付の手紙。
(63) 1881年10月23日付の手紙。
(64) 1881年10月8日付の手紙。
(65) 1881年10月23日付の手紙。
(66) 1881年10月23日に、マヌエル・ペレス師に宛てた手紙。
(67) 聖イグナチオの規則と、マドリードの修道院の所有と教育などについて、マヌエル・ペレス師にした説明。
(68) 1881年10月15日付の手紙。
(69) 1881年10月18日付の手紙。
(70) 1881年12月19日付の手紙。
(71) 1882年9月2日付、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛のマドレ・ピラールの手紙。
(72) 1882年9月9日付の手紙。
(73) 1882年9月12日付の手紙。
(74) 1882年9月14日付の手紙。
(75) ヘレスは、カディス管区内にあるのに、セビーリャの大司教区に属している。
(76) 1882年10月1日付のマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(77) 嘆願書は1882年10月6日付になっている。マドレ・ピラールがここで言っているのは、同月の18日付のものである。
(78) 参事会代理は、1882年11月23日に、暫定的な許可を与えた。
(79) プレシオサ・サングレ、ヘレスの創立第一報告書 47ページ。
(80) 1882年11月8日付の手紙。
(81) 1882年11月11日付の手紙。
(82) 1882年11月16日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(83) 1882年12月17日付の手紙。
(84) 1882年12月29日付の、マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(85) 1882年12月30日付の、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(86) 1883年1月9日付、マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(87) 1877年の2月に、コルドバを脱出した頃の、あの志願者アナ・モレノのこと。
(88) 1883年1月14日付、マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(89) ヘレス・デ・ラ・フロンテラの創立についての報告書 4ページ。
(90) マドレ・ピラール、ヘレスの創立についての報告書 24ページ。
(91) 同上。4ページ。
(92) 1882年3月2日付の手紙。
(93) 1882年2月25日付の手紙。
(94) 1882年3月の手紙。
(95) 1881年5月、マドレ・マリア・デル・アンパロ宛の手紙。
(96) 1881年7月、同人への手紙。
(97) 1883年2月23日付の、マドレ.マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(98) 1881年7月末の手紙。
(99) 1881年5月下旬の手紙。
(100) 1883年3月1日付の手紙。
(101) 1885年1月の手紙。
(102) 1885年7月末の手紙。
(103) 1882年3月。
(104) 1881年10月。
(105) 1883年9月の手紙。
(106) 1883年5月の後半の手紙。
(107) 1883年5月末か6月初めの手紙。
(108) 1884年5月の手紙。
(109) 日付なしの手紙、しかし1883年に書かれたことは確かである。
(110) 1882年6月12日付、コルドバの共同体宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(111) ページを書き入れるために空けておいたが、後でそれを忘れた。
(112) 日付なしの手紙、しかし「今日21日」」と書き始めている。内容からすれば、1883年5月に書かれたことが分かる。
(115) 1883年1月から2月の間。
(116) 1882年10月1日。
(117) 同上。
(118) 1883年3月26日付の手紙。
(119) 1883年5月20日付の手紙。
(120) 1884年5月8日付の手紙。
(121) 1882年4月1日付の手紙。
(122) 1882年10月22日付の手紙。
(123) 創立者らは、マドリードまでの旅行を何度かこのような方法で行った。アンドゥーハルは大体その中間にあった。
(124) 1882年10月30日付の手紙。
(125) まだ創立されていなかったが、手続きのために、マドレ・ピラールと何人かの修道女がそこへ行かなければならなかったので、ヘレスの若い女性たちは会に惹かれた。
(126) 1882年7月11日付、姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(127) 1882年1月25日と28日、1882年2月12日付の手紙。
(128) 1882年3月9日付の手紙。
(129) 1882年3月11日付の手紙。
(130) 1882年11月14日付の手紙。
(131) 1882年11月23日付の手紙。
(132) 聖女が会の長上として、1877年9月26日、聖座に、聖体を安置する許可を願う書類の中に書かれている表現。第二バチカン公会議文書、「司祭の役務と生活に関する教令」 第五参照。
(133) 1883年6月11日付、マドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛のマドレ・ピラールの手紙。
(134) 1883年6月10日と12日の間に書かれた手紙。
(135) 七、八歳の姪のイサベル・ポラスのことで、母を亡くしたので、創立者らは教育のために、幼い時から自分たちのそばに置いた。
(136) 1883年7月19日付の手紙。
(137) 1883年7月22日付の手紙。
(138) 1882年12月31日付の手紙。
(139) 1919年、既に教皇であった時、総長(当時はマドレ・マリア・デ・ラ・プリシマ)に、自筆の手紙を書いて、昔のことを述懐している。「教皇使節としてマドリードにいた間に、私自身でオベリスコ街の家に度々行きました・・・。」この手紙は、会憲認可の25周年記念日が近づくに当たって、6月19日に書かれている。
(140) マドレ・マリア・デル・ピラール、ヘレスの創立に関する報告書、20ページ。
(141) 1883年8月2日付の手紙。
(142) 1883年10月7日か8日付の手紙。
(143) 1883年10月10日付の手紙。
(144) 同上。
(145) 1883年12月15日付、マドリードにて、となっている手紙。