第2部 第4章 家を建て、新たな礎石を据える

1885年の熱望

1885年の終わりに、教皇庁認可の問題が、実際的には解決する最も重要な要因となったのは、デラ・キエサ師が私たちに対して持たれたはかり得ないほどの関心であった。修道会は、後にベネディクト十五世となったこの方に、十分に感謝せねばならない。
年の初めからたえず注意を要していた他の計画の進展と同時に、ローマの問題が再び第一線に表れてきた。1月に、Sociedad de María Reparadora(マリア贖罪会)が聖省に他の訴願をしたという通知があった。すなわちそれは、修道会の名称が混同し易いという理由で「Reparadoras españolas(スペインの贖罪会員)」がその名称を変えるようにという訴願であった。
聖座が修道会の名称に関することまで考慮に入れるということは、おかしなことに思われるが、それがあの時代では現実のことであった。そして、まさにこの点に関する努力は失敗に終わったのである。というのは、各修道会が既成の会の名称を繰り返さないように工夫して名称を変更しても、四つや五つの全く同じか、非常によく似た名前が現われ、ひどい状態だったからである。司教年報や、修道会案内を引いてみれば、それが事実であることが分かる。二人のポラス姉妹によって創設された修道会は、その名称を変えざるを得ない羽目に陥っていた。彼女たちは素直にそれを受け入れたに違いないが、それにしても、修道服を変えた時ほど無頓着ではなかった。それは名称のうちに、その召命が何らかの形で反映していたからである。コタニーリャ師も、教皇使節の秘書であるデラ・キエサ師自身も、そのように考えていたし、それを彼女たちに勧めていた。
1885年は、これらの手続きに、マドリードの教会の建設にまつわる心配事や、サラゴサやビルバオの創設が重なって、疲れきってしまうほど充実した一年であった。これらの問題のおのおのは、それ自体骨の折れる仕事であった。その上、用件相互のもつれと、それがもたらす創立者姉妹間の見解の相違などの困難は、苦難の色で染められていた。これは、マドレ・サグラド・コラソンにとって、いずれはたどらねばならなかった十字架の道行きのささやかな練習のようなものであった。

苦難の中に立つ家

マドリードの教会の新しい建築家は種々の困難を抱えながらも計画を進めていった。また工事を指導するやり方が忍耐を試すようなものであったことも事実である。「ドン・ホセ・アギラールとも、やはり力が及びません。工事は、クバスのよりも、もっと高くつきます。とてものろまで、まるでお金を稼ぐためにぐずぐずしているかのように思えます。なぜならば、のんびりしているので職人たちが何もしていなくてもそれを奮い立たせるわけでもなく、いたずらに浪費させているからです。」とマドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている。(1) 数日後、「ドン・ホセは、身動きが取れなくなった」こと、そして彼が計画したものよりも安上がりの普通のレンガを聖堂の正面に使ってもよいことにしたと姉に言っている。「今やっと型通り始まります。というのは、6月までに屋根をつけねばならないからです。もちろん神様が助けて下さるだろうと信頼していますが。」 (2)
楽しみに工事の進行を見ていたマドレは、資金が必要なことや、月日が経つとともに最初の見積もりよりも高くなっていくことも至極当然だと思っていた。最初から大きい聖堂を建てるのは無理だと見ていたマドレ・ピラールは、出費がかさむのを日ごとに腹立たしく思いながら遠くから見ていた。あの工事は、二人に真の苦汁をなめさせる結果となっていた。二人の精神状態は、事件の発展に大きく影響した。マドレ・サグラド・コラソンに於いては、その態度は計画に対して夢中であったし、楽観的で信頼に満ちていたと言えよう。反対にマドレ・ピラールは、かなり疑い深く、悲観的で危ぶんでいた。マドレ・サグラド・コラソンは院長であったが、自分の考えを実行に移すことは殆ど出来なかったし、その上、いつも円満に解決するために妥協しようという望みを保っていた。マドレ・ピラールは妹の目下であったが、会の財産管理を任されており、実際に彼女が工事の資金集めに携わっていた。従って、特殊な目下であり、法外と思っていた出費に対しては、断固として自分の立場を守った。
一般的に言ってこれらのことが、紛争の結末であった。事の詳細は、多かれ少なかれ客観的な理由付けや、くどくどした説明をさせることになったに違いない。マドレ・ピラールとしては、度重なる乱暴を償うように努めていた真の後悔の情を示さなかったわけではない。「私はあなたと、気の毒なエルマナスに対する私の態度をとても心苦しく思っていたことを忘れられません。私は、彼女たちを喜ばせたことはありませんでした。それは、一種の誘惑であり、それに打ち勝つことが出来なかったためで、私の気持ちはそれとは異なっていたことを、神はよくご存知です。」 (3) 「神がもし私たちをこれ以上守って下さらないならば、それは私のせいであると恐れています。それなのに、私は会にとって必要な人物だと言われているのです。」 (4) 結局のところこれは、とても複雑なことで、人間同士理解出来ないような種々の状況なのである。人間にとって最も過酷なことである無理解は、お互いに愛し合い、一つの理想に向かって真に一致している人々の間を引き裂こうとする時、辛さを増すものである。この場合の理想とは、同じ血を分けた人々の間で目指されたものなのである・・・。
3月上旬にマドレ・サグラド・コラソンは、工事を続けるのに必要な金額を姉に請求している。「あなたもお分かりになるように、こちらでは今こそお金が要る時なのです。なぜならば、一番厄介なことは、もう終わり、もし続行するならば、工事は手っ取り早くなされるでしょうから。」 この要請がマドレ・ピラールに与える印象を見抜いてか、付言している。「今は苦しみばかりですが、やがて喜びもやってくるでしょう。なぜならば、神は確かに私たちに沢山下さると思うからです。」 (5) この状況に対決して行くための実際的な方法として、お金を借りることが浮かび上がった。
返事はすぐに来た。「昨夜のあなたのお手紙は、私をとても困惑させました。というのは、あなたの意気込みも分かりますし、あなたがご存じない私たちの貧しさも分かるからです。というのは、お金のことに関わっておられないからです。マドレ・ピラールは、五〜六千ドゥロは出費できると思い、この金額を超えた場合は、工事を中断しなければならないと考えていた。そして、明らかに、自分の立場を有利にし、妹の判断が的を得ていないということを示した一連の考えを付け加えている。「私はあなたと同じように、この工事を完成させたいと思っています。しかしそれは、賢明だと思われるところまでです。[・・・] 神は、見当はずれのことは祝福されませんし、み摂理も不賢明なことはなさいません。」お金の利子を取るという考えを、無分別で恐ろしいとまで言っている。「あなたが現状を把握なさるように、このように書いたことを余りお怒りにならないで下さい。」 (6)
マドレ・サグラド・コラソンが、どんなに神の計らいのうちに全てを計算するとしても、内省的な人としてある考えを弁護するために彼女なりの理由を持っていたのである。彼女が、自覚が足りないとか迷っているとか言って非難されることは、それがどこから来たとしても彼女にとっては、痛ましい経験であったことを注意しておこう。彼女はそれを説明しようと試みた。「あなたが何とお書きになろうとも、別に気を損ねたりはしませんが、私たちが何も計算出来ないと思っておられることは残念です。」と、自分の計画と、実現できるであろうと思っていた資金の算段について三日後に(7) 記している。「あなた(マドレ・ピラールのこと)は私のように理由もなく困っておいでです。というのは、今まで私たちにとって、神に止むことなく感謝する理由しかありませんでした。それは、私たちの望みに先手を打たれるように見えたからです。」確かに、資金不足だということは認めていた。しかし、それにはマドレ・ピラール自身が、コルドバとヘレスの修道院のために必要な費用をかけたことが、しわ寄せになっていたからである。
これは確かであり、修道会は容易には手放せない財源を有していたにもかかわらず、一般に経済的に貧窮した状態にあったことも確かであった。ある意味において、マドレ・ピラールの恐れはマドレ・サグラド・コラソンの批判と同様、根拠があった。もし姉が、マドリードの工事が、コルドバやヘレスのようにとても必要だと思っていたならば、確かに資金を集める方法を見つけたに違いない。マドレ・ピラールのうちには、この計画に対する根本的な排撃の気持ちがあった。寛恕の理論は――全てが全て捨てたものでもないが――常にあの根本的な姿勢という色に染められており、どこまでが確信していることで、どこから欲情が始まるかを決めるのは非常に難しいことであった。
マドレ・サグラド・コラソンの説明に答えたことの中に、今述べたことをかなり解明できるものがある。彼女は、妹がそれほどまでに自分の判断を固執していることを残念に思っていた。――事実は、そのような固執はなかった。なぜならばマドレ・サグラド・コラソンは自分の意見を述べた後は、工事を中断する構えのあることを示していたからである。――「私は余り荒々しくものを言いたくありませんが、止むを得ないと思います。私は何の徳もありませんが、あなたには徳があるとしていますのに、余りにも忍従と諦めが足りないのに驚かされました。信じて下さい。本当にそうなのです。」 (8) これは誰に向けて言われてもきつい言葉であった。その上これは院長に対して無遠慮な言葉であった。しかしながら、それは二人の姉妹の間で交わさた言葉であったことを考えねばならない。信頼の気持ちは、それらの言葉を大いにやわらげた。いずれにしても創立者たちの間で交わされた対話は語気が強まり、二人の間に痕跡を残し始めていた。それはマドレ・サグラド・コラソンには、不信頼と、骨の髄まで感じていたある種の軽蔑による痛みという形で残り、マドレ・ピラールにとっては、不快な反逆による苦味という跡であった。
4月の半ばに、マドリードの教会と修道院の拡張工事は中断された。「急を要するので廊下の工事は終えるように。そして後は神の計らいを待ちましょう。なぜならば、今のところ合理的な一線を越えていますから。」 (9) 四日後にマドレ・サグラド・コラソンは、言葉少なに通達している。「工事は既に中止するように命じました。廊下は使えません。沢山の費用をかけねばならないでしょう。」 (10)
秋に再び工事が始まった。あの年は夏が過ぎてから雨が屋根のない教会の上に降り注いだが、他の意味で、この問題の上にも沢山の雨が降った。総論は物事全体の進行にかなりの影響を及ぼしたし、創立者たちの関係を悪化させた。しかしながら対立は――もちろん愛情を抜きにしたものではないが――親しさの中にも続いていた。一方はマドレ・サグラド・コラソンの忍耐と、我慢するという力。また一方は、彼女たちが自らの限界に気付くのを不可能にするような、全会員の二人に対する特別な支持である。(あれほど大きな愛は、マドレ・サグラド・コラソンのみならず、姉のマドレ・ピラールさえも非常に積極的なよい特質を持っているということに基づいていることは疑いもない。)

生きるも死ぬも歌いながら・・・

コルドバでマリア・デ・サン・イグナシオは帰天した。彼女は皆が生き、死んでいったように天に上っていった。というのは、彼女が長い年月の間ひきずっていた病気に気付く暇もなく帰天したからである。マリア・デ・サン・イグナシオは、大半の人のように結核ではなく、心臓病で亡くなった。ずいぶん前から息苦しく感じていたが、皆が聞きほれるようなあのすばらしい声で歌い続けていた。それが神について語る彼女の方法であり、マリア・デ・サン・イグナシオを黙らせることは容易なことではなかった。前にもあげたように、ホセ・マリア・イバラ師の妹は、彼とはだいぶ異なっていた。彼は閉鎖的で内気であったが、妹の方は、話し好きの明るい人であった。彼女がどれほど快活であったかは、その死後、同時代の人々が語った彼女の生涯における根本的な出来事からも分かる。すなわち、思春期に、実際には別に何も改心することがなかったのに「改心した」と彼女は言う。それは、彼女の青年期の全てのたわごとは、歌うことと、ギターを弾くことから成っていたからである。
マリア・デ・サン・イグナシオは、主任司祭であった兄とペドロ・アバドに住んでいた時に創立者姉妹と出会った。後に彼女は、Reparadoras(贖罪者)がサン・ロケ街に修練院を置いた頃の初期の志願者として修道会に入った。何の疑いもなく、彼女は、ポラス姉妹の決心によって開かれた道を、あらゆる時期において歩み続けた。彼女の明るく楽観的な性格がポラス姉妹の助けになったのである。
コルドバの修道院創設以来、彼女はこの共同体に属し、マドレ・ピラールが不在の折には、院長も務めたことがある。1884年の末頃、彼女の息苦しさは次第に続くようになり、休息に再起不能になっていった。もちろん歌うことも断念しなければなかったが、最後の瞬間まで微笑む力を保っていた。3月半ば頃、一人の会員はマドレ・サグラド・コラソンに手紙を書き、マリア・デ・サン・イグナシオは、ある発作の後、――何度か発作を起こしていたが――「むくみがひどく、疲れ果てています。でもまるで聖人のようで、[・・・] 苦しみましたが、全てに於いて、全ての機会に気持ちのよい人でした。」(11)
死は、修道会の中に、再び豊かな教訓と希望の約束、そして栄光の糧をもたらすと同時に、痛ましい要求も出してきたのである。マリア・デ・サン・イグナシオは、二人の創立者を心から愛していたし、それには大きく報いられていた。マドレ・サグラド・コラソンは、1885年の1月、他の用事を兼ねて、彼女に会うために旅行をした。彼女は一進一退の状態で、夏までは持ちそうであった。この間にマドレ・サグラド・コラソンは、人生の偉大な真理と死について彼女が感じていたことを非常に美しく表現した手紙を彼女に書いた。すなわち、彼女にとって、苦しみや喜びを伴った友情が何であったか、また、自然的な愛を消し去るのでなく、死をもって終わることのない愛と希望にどこまで変わっていったかを表していた。

「親愛なるマリア・デ・サン・イグナシオ: まだお悪いようですね。あなたは本当に幸せな方です。私の低い部分が感じていることを種々の理由からあなたに説明できませんが、何にもまして私の苦しみの同伴者になってほしいことです。[・・・] 天上に於いてはお喜びなさい。しかしここ地上に於いては、自分自身をお清めなさい。もし、キリストのみ旨があなたを連れて行かれることならば、すぐに彼に永遠の抱擁をして下さい。何とすばらしいことでしょう。誰がその幸運のくじを取り替えることが出来るでしょうか。気も狂わんばかりにお喜びなさい。最愛のキリストに会い、もうずっと彼と共にいるのですから。心からそれを望みませんか?時間が経つのが遅くて、いつになってもその時が来ないように思いませんか?とは言っても、拝すべき神のみ旨に任せきっていらっしゃい。病苦との闘いにおいても決していらいらしないように。そうでないと、冠の光輝を消すことになり、それは困ります。度々お便りしましょう。私はあなたをイエスの聖心の中にしっかりといれてあります。あなたを深く愛して抱擁をお送りします。――マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス。」(12)

彼女は、まだ数ヶ月間生きた。その間彼女は、非常に苦しみ、いつも彼女の特徴であった微笑を神に捧げ続けていた。8月22日の明け方、彼女は帰天した。「・・・ その日の夜、他のことは何も話せませんでしたが、周りの人が繰り返し唱えていた射祷を彼女は時々自ら繰り返すことを止めませんでした。そして、息を引き取る少し前に、司祭が彼女に、聖母の歌を思い出していますかと尋ねられると、(13) 彼女は、はい、と答え、歌い始めました。余りにも熱心にJesús mio(私のイエス)と言っていたので、それを聞いていた人は、よい感化を受けずにはいられませんでした・・・。」 (14) 愛
マドレ・サグラド・コラソンが言っていた通りである。「多くの人にとって大きな悲しみです。慰めは、皆が天国へまっすぐ行くことです・・・。」 (15) 死に瀕した人が、歌うためにありったけの力を振り絞っていたという事を、誰が疑い得るであろうか。

スペインの司教らは、修道会を称賛した

4月の半ばに、誰かがマドレ・サグラド・コラソンに、教皇認可は既に終わっていると伝えた。「・・・ 規則はもう認可されたそうです・・・」と、この月の17日に半信半疑の気持ちで言っている。「ローマのニュースは私を狂わせましたが、余りにも冷静にあなたがおっしゃるので、確実ではないのか心配しています。そのような認可は存在しなかったと再び私が納得するのは大変だと思います。」とマドレ・ピラールは返事をしている。(16)
結局その情報はデマであったと納得せねばならなかった。「規則のことは正式には知りません[・・・] イシドロ師にはもう手紙を書きました。明日は教皇使節庁の査問官であるセニャ師に書きます。この方は、最も関心を寄せてこられた方です。」とマドレ・サグラド・コラソンは言明している。(17) マドレ・ピラールは、妹がこの問題について、イエズス会の誰かに、彼女自身にも確信もないのに話したことを咎めた。「私はこんなにすばらしい出来事に、こっそりと触れました。その反対のことは非常に悪いことで、やり遂げることが出来ません。私はひどく慎重にしています。そして私はよく知っていますが、あなたは私ほどお話しになりません。それでもおしゃべりになりました。私はだいぶ以前から、私のおしゃべりを直そうと努めています。というのは、それがどれほど悪い手本であり、細やかさに欠けることかが分かるからです・・・。」 (18)
事実、その頃までに、聖省の顧問に報告書すら出していなかった。それは5月6日に提出した。この事柄に関する顧問のドミニコ会員トマス・ボネット師は、名称を変えるべきだと考えていた。それは、ただ単に他の会の名称と混同しやすいということだけではなく、神学的な理由によるものであった。彼によれば、「Reparadoras(贖罪者)」と呼ぶことは、キリストのみが有する、広義では聖母も有する機能を自分自身に負わせるようになるからである。顧問は認可について、楽観的、積極的に考えていた。高位聖職者方の推薦の手紙は、修道会に、もう称賛の回勅を与えても軽率ではないように思われるという非常に好意的なものであった。もちろん名称の問題は克服していた。(19)
スペイン人司教の報告書――推薦状――は、真に慰めであった。1881年に、既にコルドバ、サンタンデール、セゴルベ、トレド、インディアスの総大司教、およびマドリードの補佐司教の報告書が出ている。
コルドバの司教 セフェリーノ師は、「行状が教会の規定に完全に合っており、また、修道会の一般的精神に全く一致しているので、これ以上何も望むところはありません。[・・・] 今日、この会の中に守られている完全さと、生活の規則正しさ、またその会員たちは、一致と愛の精神、謙遜、従順、内的節欲の精神に優れていると判断されるので、この会は、大変役に立つ有益な会であると、真面目に期待しています・・・。」と言われた。
「・・・ この報告書を出す者は、本会のうちに同輩相互の兄弟的愛徳、長上らのうちには母性愛と分別のある熱意、そして全員のうちに聖座に対する絶対的服従と、限りない支持を持っていることだけを知っていました。」・・・ とセゴルベの司教は言っていた。インディアスの総大司教は、「これほど信心深い修道会は、教会のためにも社会のためにも有益であると確信していました。何故なら、聖体への絶えざる礼拝に捧げられているのみならず、青年、特に貧しい子女の教育にも関与していますから」と言い表していた。モレノ枢機卿は、1880年に彼の手によって決定的に認可された会憲――規約――と、修道会が適したものであることを経験したと言っている。補佐司教は、姉妹たちは「感嘆すべき福音的精神に活かされており、それによって教育や、聖体のうちに在すイエスへの絶えざる礼拝をもって、称賛に値するほどの熱意の証しとなっている」と保証していた。
ローマで、司教律修者聖省は、既に見てきたようなおびただしい推薦状と、一方では、姉妹たちの行状に関することではなく、修道会の起源そのものに関する反対の報告書を受け取るという事態に直面し、その驚きから殆ど抜け出していなかった。この年、すなわち1885年の6月12日に、会がもっと発展するまで問題を保管するという教勅を発行した。そして、会の名称を変更する必要性のあることをも、改めて強調していた。フェリエリ枢機卿は、翌7月13日にマドリードの司教にその旨を通達した。
この件に関して、種々の異なった意見があった。マドレ・サグラド・コラソンに勧告を与えた人々の大多数は、修道会の前の名称を守るように切願していたが、一方マドレ・ピラールは、かたくなな態度を示し、聖省の回勅が認可を延期したのであるから、それほど急を要する用件ではないとした。また、イエスの聖心との明らかな関係を保つのであれば、名称を変更しても何の不都合もないという態度を示していた。この最後の点では、妹とも、また全会員とも意見が一致していた。教皇使節(ランポリャ)、教皇使節庁秘書(デラ・キエサ)とコタニーリャ師は、古い名称の支持者であった。反対に、聖省の教勅が直接通達されたマドリードアルカラの司教、ナルシソ・マルティネス・イスキエルド師は、変更することに決定的に傾いていた。初期の名称の支持者たちは、世論に不安定な印象を与えるのではないかという懸念から、認可の前に、今までの名を放棄するのは危険だとみていた。マドリードの司教は、何よりも先ず聖座に従順と服従の明らかな証しを立てる必要があると考えていた。
結局、マルティネス・イスキエルド師の勧告に従った。「・・・ 皆さんが勇敢に服従の道に入られるのを見て、私は非常に満足しています。聖座に対する服従と、『Hijas del Corazón de Jesús(イエスの聖心の娘たち)』という名称を受諾されたことを祝し、聖省がそれを伝える方に確認することを期待しています。」司教はこのように、マドレ・サグラド・コラソンに、10月5日付けで出している。しかし、この選んだ名称も既に他の修道会がつけているらしく、まだ困難とためらいがあった。
この時にマドレ・サグラド・コラソンに与えたデラ・キエサ師の忠告と、同司教による聖座への推薦状が断然ものを言った。1885年10月24日、マドレは、聖省の長官であるフェリエリ枢機卿に嘆願状を書いた。それは、修道会に関する細かい説明と、同時に熱烈な懇願であった。説明としては、明白で、よく整理されており、的確に表現されたものであった。謙遜な態度で修道会の名称の変更に同意したマドレ・サグラド・コラソンは、大胆にも称賛の回勅を要請したのであった。(20)

「常に全き服従と、娘としての尊敬をもって聖座のご命令を恭しくいただく心構えでおります私どもは、閣下が私どもに課して下さいます名称をお受けするのに何の不都合もございません。教区長が、聖座に幾つかの名を提案するように言われましたので、『Hijas del Corazón de Jesús(聖心の娘たち)』[・・・] あるいは『Esclavas del Corazón de Jesús(イエスの聖心の侍女)』、『Siervas o Discípulas del mismo Sacratísimo Corazón(聖心の僕または弟子)』もしくは『Congregación de Reparación al Corazón de Jesús(イエスの聖心への償いの会)』とすることに、言葉と書き物をもって同意申し上げます。」

八年以上もの間「Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者)」という初代からの名称を使ってきたので、この期に及んで名称を変えることは、真の犠牲であることを付け加えた。このように呼ぶことによって、キリストのみに与えられるべき贖い主という役割を決して自分のものにしようと試みたわけではない。その後、修道院の状態や、財源、及び修道院の中で繰り広げられていた使徒活動についても提言していた。ヘレスでは三百人、コルドバでは七十人以上の子女を教育していた。マドリードでは、広い教会と、大きい学校を開いていた。それは、教育、特に恵まれない子女たちを無償で教育することは、本会固有の使命であったからである。
1885年には、他の創設も目前にしていたこと、また本会の創立以来、「聖なる都ローマ、地上におけるキリストの代理者の足許」に修道院を開設することを考えていたことも提言していた。
終わりの方に、そのことを嘆願している文章がある。

「聖省が、本会の正確な概念を把握されるのに、私どもの請願が不十分ではなかったかと思い、閣下にこのように説明をさせていただきました。つきましては、称賛」の教勅と教皇の祝福を持って、私どもを励まして下さいますように懇願申し上げます。」

修道会の認可を得るためにあらゆる手段を尽くした今は、ただ、祈りと希望が残されているのみであった。これら二つのことは、マドレ・サグラド・コラソンと、初代の聖心侍女会員にとって既に習慣的な態度となってしまっていたのである。

対照

1885年の夏、コレラがその世紀の最後の流行病としてスペインに蔓延した。この禍は、ムルシアとバレンシアの東部地方にも及んだ。この病による犠牲者の数は、十万人を大きく上回った。流行が最高潮に達した時、この病に犯された地方の死亡者数は、毎日五百から六百にも達していた。前年の地震の後、流行病は、既に痛ましい状況にあった社会を複雑なものにしていた。
アンダルシア地方もまた、この災難をこうむった。この地方の幾つかの町はまさにぬれた地にコレラの雨が降ったような状態になった。というのは、地震による災厄の結果が重くのしかかっていたからである。グラナダとマラガがまさにその通りであった。衣料の遅延と衛生の一般的不足から、悪の力は恐ろしいほど増加して行った。それをくいとめるために、当局者らはある期間中、コレラの汚染地区からの旅行者を隔離所に監禁するシステムをとった。各州との相互交流は、最大限に複雑化していった。
あの当時の国の情況は、マドレ・サグラド・コラソンと姉の書き物の中に反映している。8月にマドレは、修道院を訪問するためにコルドバへ行った。あの状況の下にマドリードを出ることは危険を伴っていた。一ヶ月前に、アルフォンソ十二世は、流行病によって、恐ろしいほど苦しめられた町と共同責任を負うためにアランフエスへ行っていた。政府は、その旅行はまさに狂人的だとみなしていたが、それに反して実行されたのであった。しかしながら、彼のそのような態度は、死期をまじかに控えていたあの王の頭に、親しみのある愛情の冠を戴かせる結果となった。
マドレ・サグラド・コラソンは、アランフエスではなく、アンダルシアへ行った。そしてコルドバから、ヘレスにいたマドレ・ピラールに手紙を書き、財産問題を扱うためにヘレスで会う可能性をほのめかした。マドレ・ピラールはその考えを拒絶した。それはヘレスに来る旅行者を四十日間隔離所に足止めにする危険のあることを知っていたからである。「それ以外は、私はあなたがここに来て教会を見たり、エルマナスたちもあなたに会うのを喜ぶと思います。」 (21) マドレは、その会談を取りやめた。数日後、二人の姉妹は互いに手紙を書いたが、それは途中で交差した。マドレ・サグラド・コラソンは、旅行で得た利益や、コルドバの共同体を訪問したことについて書いた。その頃、つまり8月31日にマドレ・ピラールは、その同じ用件を余すところなく非難した手紙を書いていた。彼女は、マドレ・サグラド・コラソンが、「必要もないのに度々、しかもこのように特殊な状況の下で」マドリードから出ることを非難していた。また彼女がその独特で本質的な義務を放棄したことを責めた。それは、たとえば「私たちにとって最も重要な」教皇認可の用件などである。最後に、直ちに首都へ戻るように勧めている。そして、あのひどい手紙を正当付けて手紙を結んでいる。すなわち、「あなたにこのように言うことを怒らないで下さい。あなたが私に下さった忠告を快諾しています。というのは、会員のうちの誰もそれをする勇気もなければ、神がそのようになさるので私たちの過失を見ません。」そして翌日繰り返し言っている。「私に不平をこぼさないで下さい。私はあなたの気分を損ないたくはありません。あなたが私におっしゃるように私もあなたに言います。私たちがいつもよい人であるためです。」 (22) マドレ・サグラド・コラソンは、それに対する返事の中で姉の忠告は認容しうる一線を越えていることを、今回は隠そうとしなかった。そして短い言葉で、会の統治のために必要と思われる旅行は、何回でもすると言っている。(23)

サラゴサの創設

この年の秋は、サラゴサとビルバオの創設で多忙であった。「来客用の貧しくて汚い家にお世話になっています」と9月30日にマドレ・ピラールは妹に書いている。マドレ・マリア・デル・サルバドールに伴われてサラゴサに到着していた。神があの創設を望んでおられたと納得していたにもかかわらず、全ての原因である傲慢と虚栄を殺すために主が受けるように望まれた「不安とひどい落胆[・・・] 」 (24) を感じた。
この手紙を書いた前日に、その町に着いた。翌朝ピラールだけ聖堂を訪れ、聖母にこの創設と、それに必ず伴う種々の苦労をあらかじめ捧げたのである。そのあとで枢機卿を訪問し、「非常に親切に」迎え入れられた。彼は、「感激し思い出している」 (25) マドリードの院長のことを訪ねられた。
この方は、フランシスコ・パウラ・ベナビデス枢機卿で、本会がマドリードに創設された時から最も忠実な友の一人であった。この聖職者が、本会は「教会のためにも社会のためにも有益であることを確信しています」という報告書を聖座に提出されたのである。これを書かれた同じ年、すなわち1881年にcesaraugustana(サラゴサの司教)の座を占めるようになった年である。その時からサラゴサに本会を創設することを望んでいたのである。
この創設は、コレラの病魔に脅かされた年に、しかもその町に実現したのである。この町では衛生管理が特別に欠けていたので、病はますますひどくなったのである。マドレ・ピラールは、「非常に美しく、重要な」都市であると考えていたサラゴサが、かなりその価値を失い、街路はもちろんのこと、家までも汚いのをみて、最初からあまりよい印象を受けなかった。「主要街路は広くまっすぐであり、広場は沢山あり、広々としていました。従って昨夜ここに入った時、照明を通して見た光景は、びっくりするほどでした。」その照明は失態をそれとなく隠していたが、夜が明けるとともにそれをさらけ出していた。しかし夜の都市の輝きは、それを美しくすると同時に、彼女に非常に現実的な心配をも与えた。「景色は非常に美しく、すばらしい家々がありますが、家は安値なので、私たちの期待に沿うかどうかとても心配です。」(26)
同じ枢機卿は、彼女たちが、Religiosas de Santa Ana(聖アンナ修道会)の修道院に暫定的に宿泊できるように配慮した。「家捜しの問題については非常にすばらしく私たちにおっしゃいますし、私もそのように思っています。その上聖母が家が手に入るように助けて下さるでしょう。」(27)
マドレ・ピラールは、彼女を元気付けるのに最も適した伴侶を連れていた。この会員は、この時から、会の種々の用件に関わりを持つことになるであろうし、マドレ・サグラド・コラソンも特別な好意を持っていたので、彼女について幾らか述べることは、余計なことではないであろう。マドレ・マリア・デル・サルバドールは、当時25歳であった。カディスのサン・フェルナンドに生まれ、1882年に本会に入会した。
彼女の名は、ピラール・バスケス・デ・カストロ・イ・ペレス・デ・バルガスであった。22歳で修道院に入会した時、既に非常に短い結婚生活の後に、たった2年間の未亡人の生活をしただけだった。彼女は、ヘレスの修道院創設の手続きをしていた会員と出会い、すぐに本会への召命を感じたのであった。マドレ・サグラド・コラソンは、彼女のことを「島の可愛いやもめ」と呼び、そのように手紙に書いている。事実彼女は、とても若い奥様で、その顔も殆ど少女のようで、大きな眼は表情に溢れていた。一緒に入会して、彼女をその時から知っていたマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは、「魅力的な人」と断言してためらわなかった。マドレ・サグラド・コラソンは、彼女の性質に特に感激していた。「マリア・デル・サルバドールは、最初の頃幾分かたくなっていましたが、それは彼女の性質ではありません。本当はとても明るく面白い人であり、長上方を喜ばせ、そのためには命を与えることも惜しまない人です。小さなことで躓くこともなく、[・・・] [マリア・デ・サン] ハビエルのように、絹にきれいに刺しゅうをすることを知っており、花も最も上手に作り、絵も描きます。何事に於いても目立たない人です。あなたもきっとそうお思いになるでしょう。」(28) 内気なところと、親しみ易さが入り混じり、自然に出てくる慎み深さは、いにしえの「島の可愛いやもめ」の最も大きな魅力であり、マリア・デル・サルバドールとなった彼女は、マドレ・サグラド・コラソンの信頼を勝ち得たに違いない。
概して、サラゴサで修道会を代表しようとしていた二人組みは、見た目も快く、間もなく町の人々の好感を得るようになっていった。
到着して数日後には、Servicio Doméstico(家庭の奉仕)の修道女のおかげで、一軒の家が見つかった。「私どもは、Servicio Doméstico(家庭の奉仕)のマドレスとご一緒に住んでいます。院長様は、私どもがここに留まるようにしきりに勧めて下さいます。[・・・] これから、マドレスと語一緒に一軒の家を見に行きます。」「家を見てきました――と追伸として同じ手紙に書いている――大きい家ですが、とても古くがたぴししています。でも、私たちだけで生活でき、しかも高くかかりません・・・」(29) その建物を一年契約で借りた。そして修道会の必要に応じて、どうしてもしなければならない工事を始めた。すなわち、聖体に対する公的祭儀を行うことが出来るように、聖堂を修理し、恵まれない子供たちの教育のために、場所を提供するように努めた。修道女たちの住むところは、それほど心配しなかった。彼女たちは、皆どんな片隅にでも何とか落ち着くことに大いに慣れていたからである。
サラゴサでは、コレラが猛威を振るっていたので、共同体が到着するまでかなりの日数がかかった。マドレ・ピラールとその同伴者がしばしば訪れていたセルヴィシオ・ドメスティコに、丁度総長、マドレ・ビセンタ・マリア・ロペス・イ・ビクーニャが共同体の訪問に来ていた。彼女はポラス姉妹の旧友であった。「マドレ・ビセンタは、私たちが彼女たちと一緒に生活をしていないので腹を立てているが、とにかくあなたによろしくとの事です。」とマドレ・ピラールは妹に宛てた手紙の中で言っている。(30) その申し出はもちろん感謝すべきものであった。「何と細やかでよい方々でしょう――とマドレ・ピラールは話している――今、収容されている一人が死に掛かっています。皆はあらゆる面で苦しんでいます。」実際に、十三歳の生徒が死亡し、共同体の中にも、何人かの会員は危険な状態であった。
何年も後に、マドレ・マリア・デル・サルバドールは、サラゴサの創設に関する記事の中で、セルヴィシオ・ドメスティコに起こったことを特に記している。「共同体の人数が少なかったので、院長と、志願者と、重態のマドレ・ハビエラと、皆の看病にあたり、疲れきったエルマナだけになってしまった。これら全てを見ていたマドレ・ピラールは、私たちが、これという仕事もしていなかったので、その会のマドレスを援助すべきだと思った。しかし彼女は、そのためにもし私が病に倒れ、死ぬようなことになれば、マドレ・サグラド・コラソンが何と言われるだろうかと思案に暮れた。そして当然のことながら、私はマドレ・ピラールにそのようなことが起るのではないかと怖れていた。そしてこのような葛藤のうちにありながらも、感染に対する怖れから、私たちはそこへあえて行く気にはなれなかった。しかし、ある朝、マドレ・ピラールは、体の調子が悪くて、手がけていたある用事のために出かけられないと私に言われた。私はその言葉を信じた。午後になって彼女は私に、その時修道院にいたある信頼できる婦人と共に、その用件を果たしに行くように命じた。(31) (その用件は何かの支払いだったと思う。)私は出かけた。そして、マドレといっしょではないと思うと、私の足は、おのずとセルヴィシオ・ドメスティコの方へ向かった。そこに着くと、病状を知って駆けつけてこられたマドレ・ビセンタ(創立者)が階段のところまで私を出迎え、私の両手をとって、それ以上中に入らないようにと懇願された。彼女は高熱に侵され、燃えるようだった。私は何も手の施しようもなく、その状況が納得できた。(32) そして、マドレ・ピラールにそれを報告するために家に帰ろうとした。ところが、道の角を曲がると、他の夫人と共にやって来られたマドレ・ピラールに出会った。今朝の体の不調とは、自分がただ一人家に残り、セルヴィシオ・ドメスティコへ行き、どんな様子かを見るための工作に過ぎなかった。マドレは、自分こそ夜通し看病に当たるべき人であると言われたので、私は、今朝あなたは体調がすぐれなかったではないか、と言った。するとマドレは、それは、一人で家に残り、今してきたことをするためだったと白状された。」結局マドレ・マリア・デル・サルバドールが家に残った。臨時の看護婦は「昔風の中庭のついた、だだっ広い家の中をかけまわるという、夜の奉仕を始めたのである。[・・・] 最も大切な仕事は熱湯の入ったビンに囲まれて横たわっている病人と、同じ温度を保つことであった。[・・・] 病室は廊下の一部で、小さい折りたたみベッドと、ランプがやっと置ける程度だった。その他には、看護のエルマナが休むためにカーテンで仕切られた所があり、私が必要な時にいつでも彼女を呼べるようになっていた。しかし、その夜は起こす必要もなく、翌朝、鐘を鳴らしてもらうために起こすまで、彼女はぐっすり寝ていた。十一時半にある人にはミルクを、他の人には薬を運んだ。少人数なので、全員に何かを運んだことになる。長い間彼女たちは私のことを『自分たちの看護婦さん』と呼んでいた・・・。」 (33)
10月27日、マドレ・サグラド・コラソンによって任命された第一団が、サラゴサの新しい家に到着した。同月31日、ベナビデス枢機卿から、創設の許可書を受け取った。皆は、今までどこでもしてきたように、一生懸命働いた。そして数ヶ月でその共同体を軌道に乗せ、中でも器用な会員は、簡単な家具を自分たちの手で作り上げたほどである。もちろん、自ら進んで建物の塗装もやったのである。
当然のことながら、創設時の貧しさにも関わらず、聖堂だけは家中で一番よいところになるように気を配っていた。11月9日にマドレ・ピラールは、大司教の秘書が彼女たちを訪問され、聖堂を視察されたため、それを公的聖堂として認められたこと、また、それは修道会に対する好意と、教皇使節庁の秘書という職柄からとも言われるが、と妹に通達している。「私たちが彼にお報いしたいだけお報い出来ない償いに、主なる神とピラールの聖母が報いて下さるようにお願いして下さい」とマドレ・ピラールは書いている。事実枢機卿は、その公認の許可を与えたことを決して悔いることはなかった。修道会の中で、サラゴサのマヨール街にあった最初の聖堂ほど、常に大勢の信徒が出入りしたところは少なかった。
エスクエラの方は、もう少々遅れた。1886年の開設を計画していたが、場所の問題で、同年の3月まで延期せざるを得なかった。1888年、共同体はテルエル街へ移転し、そこに修道会の中では一番感じの良い聖堂を建てた。そこでは、市民の熱烈な参加により、見事な祭典が行われたに違いない。無償のエスクエラも開校され、暫くして、女子のための黙想会も開かれるようになった。
マドレ・ピラールの考えは正しかった。サラゴサの家は僅かな資金しかなかったが、「聖母が全てを解決されたのである。」 (34)

ビルバオ

殆ど同時に、ビルバオの創設の手続きがなされた。この創設のためにも、マドレ・マリア・デル・ピラールとマリア・デル・サルバドールが選ばれた。1885年10月、サラゴサの家の購入と、共同体の設立の間を縫って、二人の派遣隊は北方の地を歩いて回った。同月20日、二人は、司教からの創設の許可を求めてビトリアへ赴いた。彼女たちは、イエズス会のバルビノ・マルティン師の推薦状を携えて行った。「・・・ この修道者たちは [・・・]、この辺を視察した際に、社会のあらゆる層の人々から厚くもてなされ、大いに歓迎され、また彼女たち自身も、旧ビルバオや、サン・フランシスコを見ながら、そこには沢山のエスクエラがあるにもかかわらず、無数の子供たちが、街路や広場をうろついているのを見て、恵まれない子供たちのために、ここに無償のエスクエラを設立したいという望みに駆られたわけです。そこで閣下の是認と、さらにその保護を願い、また、マドリード、ヘレス、コルドバ、サラゴサなどの創設の状況が、その目的を達成させるようにお願いしています。彼女たちは、イエズス会とは親交が厚く、モレノ枢機卿がマドリードでどれほど彼女たちに好意を持たれ、保護されたか、また上述の教区で、どれほど歓迎されたか、よく知っています。それは、そのエスクエラや、日々顕示される聖体の礼拝から、また種々のよい行ないのお手本などから人々が得ている実りを知っているからです。閣下もまた彼女たちを迎えられ、ビルバオへ派遣されるようにお願い致します。そして全ての場所でしているように、ここでも私たちは、彼女たちを出来る限り援助するつもりでおります。」(35)
この称賛の手紙は、司教の手には渡らなかった。手紙は、ビルバオへの途中で、司教に会いにビトリアへ向かっていた二人の修道女と行き違いになった。バルビノ・マルティン師は、司教との会話の中で、手紙に書いた事柄を繰り返したため、司教は喜んで創設を許可した。これは、1886年1月末になされた。最初の共同体は、サン・フランシスコ街の家の地下と一階を借り、そこに落ち着いた。同年2月4日、書面で創設の許可を受け取り、翌日、聖堂が使用されるようになった。設立の当初からビルバオの家は、すばらしい収穫を得るようになった。人々は修道女たちに熱狂的だった。「こんなに親切な修道女は見たことがない」とバルビノ・マルティン師は言った。(36) しかし、最大の魅力は、聖堂に最初から顕示された聖体であった。それをマドレ・マリア・デル・サルバドールは、次のように記している。「この地で、私たちに対してだけでなく、ご聖体に対して見られる人々の熱心さを私がどれほど喜ばしく思っているかお分かりにならないでしょう。・・・ 毎日朝早くから私どもは聖体を顕示しております。」 (37) そしてバルビノ・マルティン師は書いている。「・・・ 規則により、修道女たちは、市民が礼拝出来るように、朝から晩まで一日中聖体を顕示しました。その時から、公的聖堂にはあらゆる層の人々がいつも訪れています・・・。」 (38) しかし何よりもビルバオの信徒自身が、このことを証明していた。聖堂で絶えず祈りを捧げていたからである。
すぐにエスクエラも開校した。開設数ヶ月後には、百五十人の子供たちが出席していた。「あの地区の人々が、これらの修道女が来たことを喜んでいるのは当然です」とある地方新聞は述べている。(39) 喜んでいるはずであり、実際に喜んでいた。(40) 会がこれほど暖かい歓迎を受けたのは珍しいことであった。皆が示した好意がうわべだけのものでなかったことは、バスコ地方の召命が特に多かったことでよく分かる。
創立者たち、特にマドレ・サグラド・コラソンが、ビルバオの人々に特別な愛情を感じていたことは事実である。入会を希望していた若い女性たちのことについて、マドレは言っていた。「あの地方からなら、眼をつぶっていても大丈夫(受け入れましょう)。」(41)

第2部 第4章 注

(1) 1885年2月24日か25日。
(2) 1885年3月1日付けの手紙。
(3) 1885年1月23日付けの妹宛の手紙。
(4) 1885年1月24日付けの手紙。
(5) 1885年3月8日か9日に書かれた手紙。
(6) 1885年3月11日付けの手紙。
(7) 1885年4月13日か14日に書かれた手紙。
(8) 1885年3月30日付けの手紙。
(9) 1885年4月13日付けの手紙。
(10) 1885年4月17日付けの手紙。
(11) 1885年3月16日付けのマドレ・マリア・デ・ラ・クルスの数行の手紙。マドレ・ピラールの手紙に書き加えたもの。
(12) 日付なしの手紙。1885年3月か4月頃にかかれたことは確かである。
(13) 彼女の臨終に立ち会ったイエズス会員マヌエル・モリナ師
(14) 1885年8月21日か22日のコルドバ修道院の日誌。
(15) 1885年2月18日付けの姉宛の手紙。
(16) 1885年4月19日か20日に書かれた妹宛の手紙。
(17) 1885年4月21日か26日に書かれた姉宛の手紙。
(18) 1885年4月28日付けの手紙。
(19) 司教律修者聖省の分書庫、イエズス会員レスメ・フリア師自筆の写しで、聖心侍女修道会文書庫にある。
(20) 書類を書くのにコタニーリャ師とデラ・キエサ師がじきじきに手を加えた。その上デラ・キエサ師はそれをイタリア語に訳して個人的な依頼を付け加えた。
(21) 1885年8月27日付けのマドレ・サグラド・コラソンの姉宛の手紙と、1885年8月28日のマドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(22) 1885年8月31日と9月1日付けのマドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールの間に交わされた手紙。
(23) 1885年9月5日付けの手紙。
(24) 1885年9月30日付けのマドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(25) 1885年9月30日付けのマドレ・ピラールの妹宛の手紙。
(26) 前に引用した手紙。
(27) 同上。
(28) 1885年5月11日付けのマドレ・サグラド・コラソンの姉宛の手紙。
(29) 1885年10月4日付のマドレ・ピラールの妹宛の手紙。
(30) 1885年10月22日。
(31) サンタ・アナの修道院のエルマナスのことを指す。
(32) 「me percaté(悟った)」と言いたかったに違いない。
(33) マドレ・マリア・デル・サルバドールが1927年に書いたサラゴサの創立についての自筆の報告書で、細かいことは書かれていない。しかし内容は真実である。サンタ・ビセンタ・マリア・ロペス・イ・ビクナの手紙には、マリア・デル・サルバドールが語ったエピソードがもっと控え目に載っている。「もう夜でしたのに、Reparadoras(贖罪会員たち)は病気のことを知って来られ、非常に熱心に居残りたいと言われて、今一緒におります。彼女たちに看病していただければ、私にとっては本当に安心です。」(865番の手紙、マドリードのエルマナス宛)。「Reparadorasのお一人が昨晩病人を看て下さって大助かりでした [・・・] 皆安心して休みました。今晩もう一人の方が残るとおっしゃいましたが、病人はもうすっかりよくなったので、誰も起きている必要はないでしょう。」(マドリード1976年版 Santa Vicenta María López y Vicuna書簡集 M. A. Carrera宛の858の手紙)
(34) 1885年11月19日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(35) 聖心侍女の文書庫に保存されているビルバオ創立の資料。ビルバオは当時ビトリア教区に属していた。
(36) 1885年10月18日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(37) 1886年2月5日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(38) 1886年6月26日付けのビトリアの司教宛の手紙。
(39) その新聞の名は分からない。この文章は、マドレ・マリア・デル・サルバドールが写して1887年2月5日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙に同封して送った短い記事の一部であることは分かっている。新聞の記事は前年のことを言っているのだろう。
(40) 2年後に共同体はカンポ・ボランティンに移って平屋建ての聖堂とエスクエラを建てた。
(41) 1886年4月11日付のマドレ・ピラール宛の手紙。