第4部 第7章 「神の作品である修道会が私どもを傷つける時」

「いつも、本当の祖国である天国に向かって叫んでおります」

マドレ・ピラールの統治機関の最後の数ヶ月、特に、最後の日々には、大小の出来事が頻発した。何もかもがあまりにも速く起こったため、消化しきれないほどであった。彼女の魂の隠れた隅々にまで痛みが行き渡る暇さえなかった。このドラマに大なり小なり関わっていた全ての人々も同様だったが、マドレ・サグラド・コラソンにとってはなおさらのことであった。いくつかの理由により、彼女はこのドラマの主役であった。第一に、彼女は役を退いた総長の妹であったので、その痛手を身にしみて感じていた。彼女はまた、会の創立者であり、母でもあったので、修道家族の一致を保つ上での責任を感じていた。この一致は、当時、会が置かれていた状況により、ひどく脅かされ、壊されていた。当時の彼女の役割は、例外的なものであった。そして、急速な変化の中で絶えず気を配っていなければならないことで、彼女の感情は抑制されていた。繰り返して言う。魂の悲しみは、通常、非常に速く過ぎ去るのだが、この度は、十分な穏やかさもないままに、悲しみが彼女の心の最も奥深くまで浸透していったのだった。
波風の静まる時、無限の静けさは、後に訪れることとなる。それは、何日も、何ヶ月も、何年も何年も続くことだろう。
マドレ・ピラールがスペインに向かっている間、マドレ・サグラド・コラソンは、再び平凡な日々の暮らしを始めた。「今、マドレはバリャドリードにいらっしゃるでしょうと思いますが、そうなのでしょうか――彼女は6月4日、マドレ・ピラールに書いている――。サン・ホアン・デ・ルスと副院長から手紙を受け取りました。[・・・] ここで私どもは今、普通の生活を送っております。いつも、本当の国である天国に向かって叫んでおります。」これらの短い言葉のうちには、最初の瞬間からずっとしてきたように、日々の仕事に自分を捧げようとする彼女の固い決意がうかがわれる。あたかもそれまで何事も起こらなかったかのように、である。とはいえ、彼女は、辛い思いを免れることは出来ず、それが、完全な喜びは「本当の国」においてのみ得られるのだ、との思いを彼女に抱かせたのであった。

「慰める義務」

マドレ・サグラド・コラソンは、それまで十年以上過ごしてきた生活を耐えるだけでよかった。しかし、1903年になって、「他の人々の信仰を強め」、慰め、励ますこともしなければならなくなった。会の上に、悲しみの暗い雲がかかってきた今は、なおさらのことであった。彼女は一番古参の修道女の一人に書き送っている。

  「愛するエルマナ、主の聖なるみ手に接吻しましょう。過去と現在の全ての悲し
みを集めて、小さな束にしましょう。そして、それをお捧げする時、謙遜と平和のうちに、心から申しましょう・・・。『私のイエズス、あなたがこれを望み、お許しになったのですから、あなたの聖なるみ旨が行われますように。私は、あなたの侍女として、他の何も望みません。これが、会のより大きな成聖に役立ちますように [・・・]。 私はここにおります。あなたが知り、望まれるままに、私を扱って下さい。あなたが私と会の全ての会員を、目の瞳のように愛していて下さることを私は存じておりますから。』[・・・] あなたがこのように寛大にお受け入れになること期待しております。健康を保てるように出来るだけのことをなさって下さい。これから先まだ何年も、主がお望みになる全ての苦しみを受け入れながら、寛大な心で続けることが出来ますように。もし私たちが寛大ならば、主はたくさんの苦しみを送って下さるでしょう。それこそが、会を一番美しいものとし、その根を深く下ろさせるものでしょう。
マドレ [ピラール] は、従順と、謙遜と、大きな愛をもって彼女がこの大きな試練を受けたことを目にし、聖なる敬意と尊敬に満たされて、私どものところを去って行かれました・・・。」(1)

この手紙の最後の段落には、悲しみの中にも深い喜びが表れている。それは、マドレ・ピラールが試練を寛大な心で受け入れたことによる。それはまた、状況――それに、はっきり言えば、人々も――が彼女を置いていた屈辱の状態の中で、姉が平静を保つ十分な力を持ち合わせていなかったのではないか、とのある種の恐れを、妹が抱いていたことを表してはいないだろうか。マドレ・ピラールに対する愛と知識を思えば、このような心配は不思議ではなかったことだろう。もしマドレ・サグラド・コラソンが過去に目を向けたなら、姉妹が無数の困難を、さらには、自分自身をさえ克服するのを目の当たりにすることだろう。しかしそれは、常に、彼女が今、バリャドリードで耐えねばならない、人々から排斥されている状態にはそぐわない、エネルギッシュな活動を通してのことであった。ともに生活した年月を振り返り、マドレ・サグラド・コラソン は、姉が、会の誕生や、多くの家の創立のような、非常に困難な時に、寛大で、勇敢な女性であったが、一方で、人生の大半を占める、普通の、灰色の日々に要求される絶えざる均衡を保つことがしばしば出来なかった、と言う事が出来たであろう。マドレ・ピラールのことを思う時、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女が、信仰により、最も大きな苦しみの中にも神のみ手をはっきりと見ることにより、それらを受け入れていることを確信していた。人間が介入することから生じるごたごたの中に、神の、愛に満ちた強いみ手を垣間見ることは、もっと困難なことであった。しかし、マドレ・サグラド・コラソンは、姉が、自分の名誉や命さえ犠牲にする覚悟があること、いつでも死ぬ用意が出来ていることを知っていた。しかし、彼女は、死について語る多くのことを含む人生の無味乾燥な日々の闘いに、マドレ・ピラールの魂が怖気づかないだろうかと心配した。
何年も前には、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールの態度を変えさせるには奇跡が必要だと思っていた。しかし今は、日増しに、マドレ・ピラールは、その余生において、神の恵みの大きな力の証しになろうとしていた。もやもやした状況を、信仰の落ち着きを持って受け入れることは、不断の根気強い祈りに対する驚嘆すべき応答であったと言えよう。その祈りこそは、その生涯のあらゆる活動以上に、創立者姉妹を結びつけたものであった。

「私はあなたの忠告の全てを、心に刻みつけようと努めています・・・」

二人の姉妹の間の美しい文通には、二人の愛の超自然的な深さと、非常に人間的なタッチが見られる。自分が隠れた生活の経験における先駆者であることを知っていたので、マドレ・サグラド・コラソンは、信仰と、常識でさえもが、試練に耐えるために与えてくれた全ての助けを、マドレ・ピラールにも提供しなければと思った。

  「片時もあなたのことを忘れません。そして、あなたが、心も体も、悲しみの、あるいは、主があなたを飾って下さった貴重な真珠の重荷で落ち込まないために、あなたが力をいただけるよう、いつも祈っております。
あなたが既にご存知のこと、つまり、困難はすぐに過ぎ去り、後に訪れる栄光は永遠に続くということを、あなたに確信させて下さるよう、主にお祈りしております。また、主がご自分の教会を悲しみによって聖化されたように、主に倣うことによって、私と、あの本当に苦しんでいるマドレス、院長、サン・ハビエル、フリアたちが会の聖化に役立ちますように。私たちは皆、そうする義務があるのですから。そちらの人々には、言いたいことを言わせておきましょう・・・。」(2)

マドレ・ピラールの最初の頃の手紙は、彼女の受容と同時に、会の運命に対する彼女の十分根拠のある恐れを表している。

  「まず第一に、お祝い日、おめでとうございます。主のみ前で出来る限りのことをいたします。そうしなかったとしても、愛する主は、私があなたに対して感じていることをご存知です [・・・]。私自身について言えば、わたしは幸せで、主にとても感謝しています。でも、今にも会にふりかかってきそうな混沌状態に対する怖れのために、私は心配で気落ちしています。ローマに攻め入ったアッチラに抵抗するため、教皇聖レオが抱いた気持ちを、私も持ちたいと思います。それには本当に奇跡が必要です。こちらの会員にお手紙をお書き下さい。それは彼女たちの慰めとなるでしょう・・・。」(3)

マドレ・サグラド・コラソンの返信は、彼女に対する全ての手紙の中で、最も美しいものである。

  「・・・ 今は非常に大きな忍耐の時です。錆にも虫にも台無しにされることのない宝を獲得する貴重な時です。肉体は反発します、なぜなら、良いものの価値を認める
ことが出来ないからです。しかし、主がご受難において味わわれた多くのお苦しみのほんのわずかでも私どもが寛大な心で苦しむ時、お喜ばせする価値のある唯一のお方はどんなにお喜び下さることでしょう。主は何の罪もおありにならないお方ですが、私たちは、いつも、何か償うべきものをかかえています!
神の聖なるみ旨に、完全に従いましょう。そして、神のみ業である修道会が私たちを苦しめるからといって、私たち自身の意思が抵抗する時、――これは、私たちの心の中で、最も残酷な苦しみであり、最も深い傷に違いありませんが――キリストと聖母のご生涯に目を向け、とりわけ十字架の下に身を置き、私たちの苦しみが、お二人のそれに匹敵するものであるかどうか見てみましょう。
お二人はそこにおられます。主は、裸で、体じゅう傷だらけで、あれほど尽くされたご自分の民からあざけられ、無視されています。主の御母は、一人無力で、目の前の惨めなお方を見ておられます。このお方は、全てにかかわらず、ご自分をこの状態に追いやった人々のために、この上なく深い愛をもって赦しを乞うておられるのです。赦しを乞う以上に、彼らを赦しておられます。また、聖母は、この罪人たちを、真の意味で、ご自分の子として受け入れておられます。このかたがたの模範に倣いましょう。そして、謙遜に、神の力強いみ手に委ねましょう(1ペトロ5, 6参照)。そして、これらの試練でもって私ども自身を聖化しましょう。神が私たちの霊魂から望まれる全ての栄光を得られますように。私は毎日、ほとんど毎日、この意向のために十字架の道行きを致します。試練は私たちにとって大きな一口であり、飲み込むには、私たち自身をよく準備する必要があります。でも、私たちの主を見ることで、私たちは力をいただきます。しかも、たくさんの力を!
何についても心配なさらないで下さい。ご健康を保たれるように努めて下さい。そして、力強い神を信頼しましょう。ご存知のように、神はいつも私たちを、特別の愛をもって目をかけて下さいます。ですから、何が起ころうとも、もし私たちがそれを許さないかぎり、何物も私たちの魂に触れることは出来なのです。」(4)

マドレ・ピラールによれば――そしてそれはもっともなことであるが――、この時期の彼女自身の個人的状態は、「十年近くにわたり、常に年々増え続ける困難とともに」(5) 生きてきた時と比べると、より耐えやすいものであったと思ったのは当たっていた。しかし、彼女は会とその会員の一人ひとりのことを考えていた。(ある会員たちは、統治の交代のために、特別な苦しみを耐え忍ばねばならなかった。)彼女はまた、比較的重要でないことではあるが、彼女が聖なる義務であると考えたことについて心配していた。マドリードまで創立者姉妹について行き、死にあたってその財産をマドレ・ピラールに残した、ポラス家の忠実なしもべ、マドレ・マヌエル・カスティーリャの遺言の実行である。ローマを去る時、マドレ・ピラールは、彼の遺志を実行に移す許可を総長代理に願った。マドレ・プリシマはそれを許可したが、その後、それをひっこめた。(6) マドレ・ピラールは、これらの心配にもかかわらず、全てを神のみ手に委ねようと努めている、とマドレ・サグラド・コラソンに断言している。(7) マドレ・サグラド・コラソンは返信を書いた。

  「もし私があなたでしたら、はっきりとそうするように言われないかぎり、会の
事柄には何の関わりも持たないでしょう。私はこの放棄の行為をイエズスのみ心にお捧げします。それは、どれほど主をお喜ばせすることでしょう。多分、いや、おそらく確実に、これが試練の時を縮める手段となるでしょう。それはまた、あなたがとても愛しているものから離脱するのを見る人々にとてもよい感化を与える行為となるでしょう。それは、英雄的な行為だからです。神は、このような悲しみを耐えるために、もっと助けて下さることでしょう。あなたは今、何に対しても責任がありません。マドレ・マヌエルの件に関してもそうです。これが今のなりゆきだからです。だから、忍耐し、落ちついていて下さい。そして、神のみ摂理の中で憩うように努めて下さい。この事業はあなたのものというよりは、神のものですから。もしそれが神のみ摂理によるものでなければ、続かないでしょう。もしあなたが何かお手伝いをなさったのなら、それはみ摂理のおかげです。もし神が助けて下さらなければ、限りある被造物は何でしょう。過去を御覧なさい。そして、私たちに対する神の憐れみを御覧なさい。でも、いつも私たちが神のご計画に謙遜に従い、神のみ摂理の働くままにお任せしたかどうかを自分に問いましょう。あなた自身を、目や耳の不自由な人、口のきけない人のようにしなさい。会の中で起こっていることについて、人々があなたに話すのを避けようと努めて下さい。そして、子どものような素直さで、ゴメス師の指導の下に身をお置き下さい。神父様に盲目的に従って下さい。そうすれば、ほどなく奇跡に触れることでしょう。
・・・ ところで、今、あなたが大事にしなければならないのは、あなたの霊魂のことです。重病人を世話する時のように大事にして下さい。そして、イエズスに倣うことにより、十字架のイエズスのうちにあなたの救いの全てを見出して下さい。あなたの妹はいつもそこにいて、あなたと一致しております。あなたを忘れることはありません。マドレ・マリア・デル・サグラド・コラソン, A.C.J. (8)
・・・ もしあなたがまだ読んでおられなかったら、聖書の中のダビデ、トビア、ヨブの話を読んでいただきたいと思います。聖書全体ですが、特にこの部分です。とても慰めに満ち、多くのことを教えられます。それからアブラハム、イスラエル人たちの戦い、神が彼らを助け出す奇跡的な方法、など [・・・]、実際、その全てを、聖霊によって語られたものとして読みましょう。」(9)

マドレ・ピラールには聴いて学ぶ時が訪れていた。それも、彼女がいつも助言を与え、指導してきた妹からであった。

  「二つのお手紙の中の、あなたの全ての助言を、私の心に刻みつけようと努めています。そのために、私はあたかも私が耳も目も不自由な人、口のきけない人であるかのように、生きるよう努めています。そして、私はまだ応接間に出ませんから、ほとんど自室を出ることはありません。今では余り手紙も書きませんから、編み物に時間を捧げています。私に関するかぎり、この状況にたいへんよく適応していますので、まるで他の状況にいたことがないかのようです。
マドレ・マヌエル (安らかに憩いますように) の件ついては、あなたのおっしゃるように、全部手放しました。けれども、指定遺言執行人であることをやめるわけには参りません。というのは、亡くなった人の遺言は神聖なものですから、私の意のままには出来ないからです。もし私があなたに許可を求めたのなら、それは、このためであり、また、私が総長代理に遺言を実行する許可をお願いしたとすれば――私は実際そうしなければならなかったのですが――彼女は全面的に許可して下さいました。(10) 後に彼女はそれを取り下げました。いくらか返金しなければならないのですが、まだ返事をしていません。遅れは相手方にとって不利となると言われています。たとえば、ホアニートのお父様の時がそうでした。一般資金には千ドゥロ以上ありますのに、お祈りの方は遅れているのを申し訳なく思います。もし彼がその祈りを必要としておられればどうでしょう。でも、既に申しましたように、私は沈黙を守り、この件を神にお任せしています。
家族の誰にも私は手紙を書いておりません。皆は少なくとも何かは知っているからです。そして、私は皆を悲しませることを恐れています。フラスキートのことは残念です。彼については、あなたからのお知らせしかいただいていません。あと一分で終わりますが、ご覧の通り、私はあなたより難しい状況に置かれています。神は私が完全に姿を消すことをお望みです。ですから、あなたにお手紙を書くことも控えましょう。そうするように努めます。[・・・] でも、今は別です。私たちの愛する人々、以前はよく会っていた人々が、今はほとんど訪ねて来ないからです。
・・・ 申し上げておきますが、私は、欠点こそ持っていますが、神のみ旨以外に何も望んでおりません。上にお書きしたように、身を引くように努めています。[・・・]
私は何事にも干渉しません。苦しみ、受け入れ、沈黙を保ち、出来るだけ祈っております。質問をするどころか、何かを知ることからさえ逃げております。」(11)

数日後、マドレ・サグラド・コラソンは再び書いている。

  「そちらに送られた新聞から、教皇様のご病気とご逝去のことをご存知でしょう。
いつもたいへん良い感化を与えておられました。ご自身で前もって指定された墓碑銘は『塵に過ぎない教皇レオ十三世ここに眠る』です。何というご謙遜でしょう!
この世界が何であるか、私たち自身が何者かが、過ぎ行く年月から分かります。塵以上の何物でもありません。心に銘としてこれを刻み、価値あるものだけを大切にする人は幸いです。それは、堅固な徳と、十字架上のイエズス・キリストに似ることです。これこそ純金であり、他のものは塵にすぎません。[・・・] なぜだか分かりませんが、このところ、私は御子を抱いておられる聖母より、十字架の下におられる聖母にもっと信心を感じています。私にはもっと偉大に見えますし、何よりも何という寛大さでしょう!・・・
前回の手紙では、私自身のことを十分ご説明しなかったと思います。マドレ・マヌエルのために施しが与えられるべきではない、という意味ではございませんでした。それは聖なるものです! そして、もしあなたがお出来にならないのなら、あるいは、神があなたからもその犠牲を要求なさるなら、そうして下さい。他の人の手からそれは与えられることでしょう・・・。」(12)

マドレ・サグラド・コラソンがマドレ・ピラールにこの手紙を書いた日に、彼女はマドレ・マリア・デ・ラ・クルスにも書いている。「私どもの間に起こっている出来事に関して、私の家族がどうなのか、私は存じません。私に手紙を書いてきませんから [・・・]。もしあなたに何かお考えがあれば、多分助けになって下さるでしょう。あなたもご存知の方にとってもそうでしょう。彼女がどうしているのか私には分かりません・・・。」(13) 数日後、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは返事を書き、ポラス家の人々は、統治の交代やそれにまつわる状況を何も知らないかのように平和そのものに見えると述べている。マドレ・ピラールが身を引いていることは、彼女にとって信じ難いことのように思われたが、(「それはあり得ないことに思われます。なぜならマドレ・ピラールは、ご存知の通り、何かご心配がおありになると、それを口に出されるからです・・・。」)しかし、彼女は、穏やかに受け入れるという態度を自分のものにしていた。「あなたがお書きになっているもう一人の人物 [・・・] は、良い感化を与えておられるということです。」(14)

「・・・ 私はあなたに似たものとなってきています・・・」

感化に関して言えば、マドレ・ピラールはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスが彼女について述べたとおりを満たしていた。会への愛のために、彼女は沈黙を守った。当時の自分の家族のことについてもであった。その頃、彼女の長兄が死の床についていたので、特に心配していたのだったが。8月の終りに、バリャドリードからローマに向けて、非常に感動的な手紙が届いた。それはマドレ・サグラド・コラソンの心を鎮め、深い慰めを与えたに違いない。

「ごらん下さい。私は、誰にも手紙を書きたくないという点で、あなたに似た   ものとなってきています。それは、神が私を置いて下さったはしための地位に順     応し、院内の仕事をするためです。私もあなたと同じ仕事を心から望んでいます。家の中の仕事、針仕事(たいていは編み物)です。そして、これまでにない幸せを味わっています。家にいた時でさえ体験したことのない幸せです。また、次のように考えることで、慰めを味わっています。私がしなければならないことは、聖心侍女としての私の立場を学び、実践することに私自身を捧げることであり、そのため、人からの最もひどい扱いも、愛と敬いをもって受けること、ちょうど、人が裁判官や高官、さらには死刑執行人でさえも敬うように。なぜなら、彼らは、王、あるいは、彼らを任命した者によって権威を与えられており、もし敬意を表さなければ、罰が与えられるから。主なる神は私をお助け下さると信じております。こうして、会を正しく評価し、私をもっとお愛し下さいます。」

数日後、記している。

  「私は元気に過ごしております。私とあなたは神からとても祝福されているとの実感を毎日深めています。神は、私たちにご自分の焼き印を押して下さいました。いつ私たちはそれに値したでしょうか?そして、会は勝利をおさめるでしょう。今私たちは苦しまねばなりません。それも、大いに。でも、それは立派なものになるためです。」(15)
「あまりご心配なさらないで下さい。祈り、私たちの主たる仕事のためにひたすらお願いしましょう。それは主のみ手の中にあります。また、多くの聖なる霊魂が祈っています。御父に信頼してうまくいかなかったためしがあるでしょうか?この考えは私に大きな慰めを与えてくれます。」(16)

「私の見るところでは――マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・サグラド・コラソンに書き送っている――、主なる神は、いつもながら、大きな愛をもって働いておられます。あの愛されたお方――マドレ・ピラールのことであるが――は落ち着いておられ、霊的にとても進歩しておられるとのことです・・・。」(17)
ピラールの聖母の祝日が近づいた時マドレ・サグラド・コラソンは書いている。「あなたのお祝い日が近づいています。あなたは良い贈り物をおいただきになるでしょう。私はそれを主からお願いしなければなリません・・・。主が今年あなたにお与えになってきた、素晴らしいお恵みではなく、とっておきの徳のことです。」(18)
「・・・ ピラールの祝日のためのお手紙を頂戴しました。お返しに [・・・] あなたのお祝い日の24日には、きっと忘れずにお祈りします。今はこれまで以上にです。なぜなら、状況が私たちをもっと近づけてくれているように思われるからです。願わくは、主が全てをお喜び下さり、会の善のために役立てて下さいますように。会のために私どもが出来ることは、唯一、耐えること、苦しむことです。私たちは罪人ではありますが、主のために、人を赦し、真の愛徳を持って愛さなければなりません。主は言葉と行いによって、私たちにそれをお教え下さいました。それも、何というみ業ですこと!」(19)

「離れていますが、近くに」

会の善、現在の状況、十字架を受け入れようとの堅い意志、これらにより、二人は生涯の中で初めて、より緊密に結ばれた。今、二人は会の中で起こっていることから閉め出されていたので、耳にした情報の端々を伝えたいと思った。マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに書いている。「今日耳にしたニュースをお伝えします。これを聞いて私はとても嬉しく、感謝に満たされました。」(20) 「会については、私もあなたと同じ考えです。会は神のみ業ですから、神が心配して下さるでしょう。神以上によくして下さる方があるでしょうか。誰よりも会を愛している者以上に、神はもっと心を配って下さいます・・・。」(21)  会から切り離されているかのように見えたが、二人はこれまで同様会に関心を持っていた。
家族についても同様、離れてはいたが、二人の心は近くにあった。物理的に離れていることで、以前よりもっと、兄弟たちとの関係から離脱しているように見えた。しかし、兄弟たちの問題――病気や死からくる悲しみ、新しい世代の誕生による喜びと希望――は、いつも、利害を超え、愛情に満ちて受け入れられた。「イエズスの聖心と聖母に祈りましょう。――フランシスコ・ポラスの最後の重病の間にマドレ・ピラールは書いている――そして、主と御母に、私たちの現在の悲しみをお捧げしましょう。彼は私たちの兄弟です。主はラザロの死の場面でマルタとマリアに同情を示されました。同じことが、私たちの上にも再現されるかどうか見ましょう。」(22)
二人の熱心な祈りは、彼女たちの「ラザロ」のうらやましい限りの死において実を結んだ。福音の中のラザロのように生き返ることはなかったが、永遠という、この上なく豊かな報いをいただいたのであった。創立者姉妹が望んだように、フランシスコ・ポラスは、その深いキリスト教的和解の点で、ペドロ・アバドの万民の認めるところとなった。彼は、サント・クリスト小聖堂において、皆が見ている前で赦しの秘跡を受けた。それから、教区の教会で聖体を拝領した。「今日いただいた短いお手紙と、その中のお知らせがどれほど私を喜ばせたか、言葉では言い表せないほどです。――これを知った時、マドレ・サグラド・コラソンは彼に手紙を書いている――(23) あなたの霊魂のためばかりでなく、あなたが子どもたちと、村中の人に与えた良い模範のために喜んでいます。公平に見て、あなたは、この人々の前に、信仰と宗教心の堅固さを証明しなければならなかったのです。あなたが主なる神と、天国全体を満足させたことを思うと、私の心は喜びではじけそうです。あなたも大いに喜ばなければなりません。そして、今日からあなたのために、天に場所が備えられていることを確信しなければなりません・・・。」死に直面した時の「フラスキートの」態度から来た喜びは、彼らに信仰を伝えてくれたあのキリスト者であった両親の思い出と重なった。しかし、ラファエラ・マリアにとって、幼少時に失ったドン・イルデフォンソ・ポラス――彼が亡くなった時、彼女は四歳であった――の思い出は、長兄のそれと混じりあっていた。「お祈りであなたをお助けすることについてですが――彼女は「フラスキート」に書いている――、今も、いつも、絶えず実行しています。私がどれほどあなたのお世話になっているかを忘れたりするとお思いですか?決して忘れることは出来ません。私のお父様代わりだったのはどなたでしょう?」(24)
フランシスコは、1903年11月4日に亡くなった。彼については、主の平和のうちに眠りについたと真に言えるだろう。限りない感謝の気持ちが、二人の姉妹の悲しみを和らげた。彼の死をめぐっては、二人の助けが非常に大きかった。マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに、彼の死の特別な恵みについて述べている。「彼と同様、口と喉のあの病気にかかった何人かの熱心な司祭や信者のことを思う時、彼らは何ヶ月もの間主を拝領できませんでしたのに、私たちの兄弟は、あなたもご存知の通りです。私は不思議に思います。そして、神の愛深いご配慮を讃えます。というのは、疑いもなくあの熱心なかたがたには、ご聖体をいただけないことがもっと為になったのですが、私たちの兄弟は、力をいただくために、この聖なるパンが必要だったのです。」(25)

「会の激変」

マドレ・サグラド・コラソンまたはマドレ・ピラールが「口がきけない、そして、目の見えない人になる」ことについて話した時、当時、二人が生活していた状況で取ることのできる、唯一の態度のことを指していた。マドレ・プリシマの統治における最初の措置は、当然のことながら、創立者姉妹に最も身近だと思われる者をはじめとして、ほとんど全ての長上たちをやめさせることであった。交替や移動の非常事態が始まった。最初にその役を退いたのは、マドレ・ルトガルダであった。彼女は統治の交代の前の年に、マドレ・プリシマに替わって修練長になっていた。彼女は、ローマの出来事の一ヶ月後、サラゴサに送られた。彼女に代わって任命されたのは、マドレ・ピラールの目から見ると、最もその役に相応しくない人物だった。マドレ・マリア・デ・ロス・サントス、フィロメナ、マリア・デル・カルメン・アランダ・・・。彼女らは皆、家と任務を変えられた。皆が皆、マドレ・ピラールに対する彼女らの忠実さが危険を及ぼすことのない場所と任務に就かされた。総長補佐の中にも、こうした激しい決定を承認しない者もいた。彼女らは、反対のための働きかけに努めた後、総長代理が神のお望みのままに行動するのを待った。(26) 職務を変えられたのは、院長たちだけではなかった。1904年1月には、マドレ・ルス・カスタニーサが、総長秘書の任務を、まだ終生誓願をたてていない修道女と交替させられた。理由として挙げられたことは、かなり疑わしいものであった――健康の不足、能力の不足ということであった――。本当の理由は、統治グループに支配的な一連の意向にあった。マドレ・プリシマは、小心な、しかし尊敬すべきルス・カスタニーサが、あのように騒然とした出来事によってもたらされた総長代理グループとは合わないと考えた。実際これは当たっていた。
長上を替えた後、マドレ・プリシマは、1906年の総会のメンバーとなるべき他の会員について考えをめぐらした。マドレ・ピラールは、仮の総長が、会憲で承認される体制のもとで、常に、総会の結果を自身の手に握るだろうと予見し、恐れていた。1906年の総会参加者は、各家の院長および最も古参の会員だった。これらの参加者の中には、マドレ・プリシマに屈しない者もいたようだ。(27) 当時、家を移動させられるもっともな理由は、こういうところにあった。
会員のこれらの交替で共通の一つの特徴は、それが非常な速さで実行されたことにあった。特に院長の交代ではそうだった。中には、書類や個人的書き物を整理するために戻ることも出来ないとは知らずに、総長代理に呼ばれて共同体を去る者もいた。当時の混乱の中で、創立者姉妹の手紙が、その所有者により、かなりの数にわたって、失われ、急いで破棄された。それは、マドレ・プリシマの手に渡ると、統治に対する反抗の証拠として使われるのではないかと恐れたからである。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが、このような手紙の一つについて話している。その日付については確かではないが、1904年ごろ、マドレ・サグラド・コラソンが次のように彼女に書いたと記している。「いつもの優しさと礼儀正しさで彼女は書きました。『マドレ、マドレ・ピラールに対してなされたことが正義に反するとお考えなら、なぜそうおっしゃらないのですか。建物の礎であった方を、そのままにしておかれるのですか?皆さんが賛成なさらないなら、私は何も致しません。』と。」マドレ・マリア・デル・カルメンはコメントしている。「多分私は少し言葉を変えたかも知れません。私はその手紙を破棄しましたので。でも、そういう意味のことが書かれていました。私は次のように短くお返事しました。『マドレ、あなたの望まれることは不可能です。』 全ての状況を考慮に入れると、これが、私の思ったことです。そして、人間的な解決法はありませんでしたので、私はいつも一生懸命神に祈りました。」(28) マドレ・マリア・デル・カルメンは、総会の顧問たちの間に流れている空気――より正確には、総長代理が考えていたこと――がよく分かっていた。それで彼女は、1903年の夏、マドレ・ピラールが全く信頼していた何人かのイエズス会士(ビセンテ・ゴメス、チェサレオ・イベロ・・・)に手紙を書き、彼女の側に完全な沈黙を勧めることを願った。なぜなら、起こったことについてのどんな言葉も「恐ろしいはねかえり」(29) を引き起こしかねなかったから。実際、反動は「恐ろしい」と呼ばれるに値した。1903年5月、あの歴史的な日々に、マドレ・プリシマ は、保護枢機卿と話し合った。彼女がマドレ・マリア・デル・カルメンに話したことによると、枢機卿は、可能なあらゆる反抗に対して使用する特別な権限を聖省から受けることを提案した。「従わない者は誰でも訴えさえすればよい。このためには、記録を取り、証人を探すだけでよい。その者たちはただちに退会させられるだろう。」そして、マドレ・プリシマは続けた。「枢機卿が含む人物の中には、あなたマドレ・ピラール、[・・・] 秘書、マドレ・フィロメナそして他に五人が脅かされ、マークされていました・・・。」(30)
この種の即決の処置とともに、マドレ・プリシマは、数ヶ月以内に、内面の苦しみの大きな重荷を覆い隠す外面的な落ち着きを、再び打ち立てることが出来たのは明らかである。彼女はまた、ローマを去る前にとられた防止策のおかげでこれをかちとった。それは、この先数ヶ月の間、会員によって出されるどんな訴えにも聖省は注意を払わないというものであった。(31)
疑いもなく、このような対策は、不満や、いかなる反逆の試みも沈黙させる上で、非常に効果的であった。しかし、平和と静けさは単に外面的なもので、恐れの結果にすぎないと考えるなら、会を不当に判断していることになろう。真実からこれ以上遠いものはなかった。ある意味でマドレ・プリシマは、ほとんど全ての会員の協力に頼ることが出来たであろう。なぜなら、彼女ら、とりわけ創立者姉妹に最も忠実だった会員は、並外れて有徳な人々であったから。外から、自然的な見方をすれば、会員の中には、突然の予期しない変化に、捕囚の様相を見た者もいた。しかし、ルトガルダやフィロメナあるいはマドレ・マリア・デ・ロス・サントスのような人々を流刑にすることは困難であった。彼女たちは真の聖心侍女であった。どこへ送られようと、彼女たちは、地上のどこにも決まった住み家を持たない人々の単純さをもって順応していた。以前、より重要な任務を受け入れていたのと同じように、今は、自分たちに託された単純な仕事を受け入れていた。彼女たちに何らかの政治的追放を課すことは、容易ではなかった。なぜなら、人間的政治、あるいは何らかの陰謀、または、利己的な目的に彼女らを巻き込んだかもしれないごくわずかな考えも、彼女らの生活に入りこんだことはなかったからである。
ある程度まで、会の存続は、これらの単純で貴重な存在である女性たち、忠実で現実的、従順で、それでいて妥協しない存在の行動によるものである。彼女たちは、創立者姉妹が彼女たちに置いた信頼に、勇気と、変わらぬ忠実さをもって応えていた。彼女たちの英雄的勇気、沈黙の模範により、その当時、会を構成していた人々の従順と謙遜、平和的で現実的な愛とが養われていた。もし会が栄えるなら――二代目総長の更迭の数ヶ月後、ラ・トレ師はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに言っている――それはマドレ・ピラールの徳と犠牲による [・・・] ということを疑ってはいけません。」(32)  彼は、特別マドレ・ピラールについて話していた。なぜなら、彼はマドレ・サグラド・コラソンよりもマドレ・ピラールを知る機会の方が多かったからである。しかし、彼の意見は二人の姉妹を含めてのものだった。「マドレ・ピラールは才能の面ではあなたより劣っていますが、実際的な才能には恵まれています――少し前に彼が言ったことだが――。しかし、四人の総長補佐たちを合わせても、マドレ・ピラールの徳とは比べられません。彼女とその姉妹は二人の聖人です・・・。」(33)

「・・・ これは神からのものではありません。断じてそうではありません・・・」

1903年の嵐が過ぎ去った後、ローマの共同体では、日々の単調さが、マドレ・ピラールのまわりに、静けさという一種の共謀を形成していた。マドレ・サグラド・コラソンは非常に苦しんでいた。姉からの手紙は少なくなってきていた。二人の創立者姉妹は郵便を信用しなかった。そうするのに十分な理由があった。マドレ・ピラールからの手紙の一つはローマの院長によりコピーされ、保管されていた。そして、次のような加筆とともに、マドレ・プリシマに送られた。「マドレ.、これを彼女に渡しましょうか?・・・。」その手紙はマドレ・サグラド・コラソンには渡されなかった(それは、今では失われている別の手紙に対する返事であった。)それは二人の姉妹の気持ちを表している。

  「あなたのこの前のお手紙にお返事しなければなりません。なぜなら、私たちの
十字架を担うために、お互いに励まし合う義務があると思うからです。次の三つの考えが私には大変助けになります。この世での私の使命は、より高い完全性を目指すこと、特に、敬愛申し上げる神父様(ウラブル師)(34) が私にお勧め下さった方法で。舌を制すること [・・・]、全てのことについて、皆とともに沈黙を守ること。二つ目は、何事にも関わりを避けること。何が行われているのか、とか、何が起こっているのかを知ることがないように [・・・]。そして、全てにおいて、イエズス・キリストに頼ること。第三に、私は、頭であるイエズスに倣うために苦しんでいるのだと思うこと。そして、子がその父に似るように、彼に似るものとなることを望むこと。」(35)

これらの考えは何度繰り返されたことか、そしてその結果、どれほどの誤解を受けたことか。マドレ・サグラド・コラソンが大変心配し、何年も文通していたマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに、姉のことを尋ねる手紙を書いたのは驚くべきことではない。

  「マドレ・ピラールのことについて心配しています。彼女はほとんど私に手紙を書きません。書いたとしても少しだけですし、重要でないことについてです。彼女の名前が口にのぼるのを聞いたことがありません。もし名前が出たとしても、会話はすぐに打ち切られます。どうしたのでしょうか、マドレ.?信頼して私にお話し下さい。私どもの会には一致と愛徳の親しい精神が消えてなくなるのでしょうか?この考えは私の心をひどく悲しませます。なぜなら、神はこれをお喜びにならないからです。
マドレ、互いの遠慮が多すぎます。非常に小さなグループの中だけに信頼関係があるようです。こんなことは神から来るものではありません。いいえ、いいえ、断じてそうではありません。
この状態が終わるよう、絶えず祈っております。これが終わりますように、そして、心を引き離す人々のグループに終止符を打って下さい。私たちは皆、互いに愛し合い、助け合いましょう。そして、成るべき人に成りましょう。一つの心、一つの魂に。あなたとお話できさえすれば!・・・。」(36)

この頃彼女が保護枢機卿に書いた手紙も彼女の悲しみを表している。

  「私たちはいつも私たちの悲しみについて司祭に打ち明けます。そして、その司祭は、出来ることなら解決法を見つけようと努めます。そうしないわけがありましょうか。
私には会の状況による大きな悲しみがあります。この哀れな小さな植物は大変痛めつけられています。今はこれまでにないほどです [・・・] 内部では、ある者は、起こ
っていることをほとんど何も知らずに、悲しみでいっぱいです。他の者は、非常に心配しています。これは、愛徳、単純さ、信頼、そして、長上に対する信頼を冷まします。そして、外部では、当然の事ながら、人々は会の統治の仕方に驚いています。批判する人もいれば、退いていく人もいます。このことは、多くの害を及ぼしていると思います・・・。」

これらの真実は打撃のようであった。しかし、多分、枢機卿はそれらに気づいてさえいなかった。そして、彼がやっとその手紙――それは保管されていた写しであるが――を受け取ったとしても、それにはあまり注意を払わなかった。結局それは、正常でない、少なくとも、全くとまでは行かなくとも正常でない、と彼が思った人によって書かれたものであったから。保護枢機卿はあまりにもマドレ・プリシマの考えに影響されていた。彼には、他の考えを考慮する時間がほとんどなかった。
このような状況の下では、人々とは沈黙を守り、神と直接結ばれる以外に何もすることはなかった。「・・・ そして言いましょう。『み心が行われますように』と。そして、嵐が静まるのを忍耐強く待ちましょう。そして、自分自身とも、他の人々とも、沈黙を守りましょう。手紙で助けを求めることさえもしないように [・・・]。この場合の『お言葉どおりになりますように』は、私たちの主に捧げることの出来る、最も純粋で、最も美しい愛の行為です・・・。」マドレ・サグラド・コラソンは、試練を受け入れることについてこのように表明した。(37)
「私が誘惑され、もがき、信仰も希望もないかのように思われる時――マドレ・ピラールは書いている――少なくとも唇に上(のぼ)らせ、繰り返します。『私は神の望まれること以外に何も望みません』と。そのことについてのどんな会話も避けます [・・・]。私は自分を、盲目で、耳が聞こえず、口が利けない状態にします。全てを携えて、神のもとに参ります。沈黙のうちに [・・・]。あなたの哀れな侍女、マリア・デル・ピラールを、人々がはりつけ、あなたがそれを許された十字架の上で死なせて下さい。そして、彼女を、そこから彼女の贖い主、主であり浄配である方のご心臓の聖なる御傷のもとに飛び込ませて下さい。そして、彼女のために死んで下さったお方のためだけに生きさせて下さい。」(38)

「・・・ 私はこの世であたかも大神殿の中にいるかのようです・・・」

マドレ・サグラド・コラソンは総会の数ヶ月前に霊操を行った。過ぎ去った年月は、一つの長い闘いであった。しかし、それにもかかわらず、彼女が日々生きてきた寛大さは、神との深い、親しい出会いに役立った。
この霊操の惠みと、彼女の決心を導き出した新たな寛大さは、彼女の霊的進歩の頂点を示すものである。
「私は大きなすさみのうちに霊操を始める [・・・]。私は、主が大きな犠牲を私に要求しておられるのを予感している。」と、彼女は最初に記している。しかし、その同じ日に書いている。「雲は晴れた。そして、何も拒まないための大きな力と、主がともにいて下さるとの大きな信頼と、お望みの時に、主は私にまつわるこの全ての苦しみから救い出して下さると感じた。」
突然彼女は暗闇から出て、非常に明るい光の中に入った。窓が開かれ、暗い部屋に太陽が差し込むかのようであった。「主よ、あなたは私の魂の大きな苦しみがお分かりです。私の魂は、憐れみ、赦し、そして恩寵を求めます。[・・・] いつの日か、主の恵みにより、私は、完全な解放を私に約束するとのみ言葉を忠実に守って下さったことで、あなたを賛美するでしょう。私は主に希望を置きます。人間の側の努力は当てにしません。聖母よ、どれほど私が、そして、会が、ひどい鎖や足かせから解放されることを確信しているか、あなたもご存知です。」(39)
霊操の惠みは、何よりも、非常な解放感であった。それは、彼女を押し潰していた問題や苦しみのいずれかの具体的な解決によるものではなく、信仰と、神の力への信頼に基づくものであった。第一日に「雲が晴れた」時、実りは「被造物などにではなく、神のみに向けられた無限の信頼と力でなければならない、神は全能である、と彼女は感じた。」

  「私はこの世で、神のみ旨だけに信頼して生きなければならない。いかなる被造
物の奴隷にもなってはならない。被造物は、神の真の子どもたちの聖なる自由を妨
げるかもしれないから・・・。」

「神のみ旨だけ」を受け入れることは、全ての捕われから解放するものであるが、それによって彼女は、「聖なる自由」を勝ち取ることとなり、それは、彼女の身にふりかかる出来事の大きな機会に彼女から輝き出ていた。その霊操に続く数ヶ月の間に、そして、その後の全ての年に、マドレ・サグラド・コラソンは、神の真の子どもたちの自由をもって行動することとなる。しかし、彼女の行いの深い真実を過小評価、あるいは「飼い馴らし」てはならない。彼女の全ての外面的行動には、霊の自由が表れていた。しかし、彼女の自由は、もっと幅広く、深く、全てを包含し、一つにまとめるものであった。彼女は手記の中で、「自由であること」の真の意味を、次のように述べている。

  「・・・ 不利なものも有利なものも、全ては私の聖化のために神から与えられた手段として用いなければならない。そして、確固としてこの状態にとどまり、私の霊魂のために最大の実りを引き出さねばならない。
全ての行いにおいて、私は、あたかも大神殿の中にいるかのように、この世に  いることを覚えておかねばならない。そして私はその中の祭司として、誰であれ、私に逆らうものは全て、絶えざるいけにえとしてささげ、喜びとなるものは全て、絶えざる賛美として捧げなければならない。常に神のより大いなる栄光のために。このために、神は私たちをこの世に存在させて下さったのだから・・・。」(40)

この段落で彼女は「賛美のいけにえに変えられる、日々の生活の意味」をまとめている。これらの高みにおいて、マドレ・サグラド・コラソンは、「自己を忘れることにより、神のために、完全に透明になった。」(41)
謙遜と自由のうちに、マドレは霊操を続け、そして修了した。それはある意味で、彼女の生涯中最も劇的な場面のための準備であった。会と、その中のある特定の会員たちが、当時の彼女の祈りの中で重くのしかかっていた。

  「主は私を、ご自分の目の瞳のように愛して下さる。主は私の身の上を慮って  下さる。私は主を信頼している [・・・]。もし、いつかある日、主が『もう十分だ』と仰せられたとしても、それが被造物にとって何であろうか。風に吹き飛ばされる藁のようなもの(詩編1,4)。そして、そうなさるのは主である。私は盲目的に信頼する。主は慰めて下さるであろう。」(42)
「・・・ 私は全ての被造物において主が用いられるあらゆる善を喜ばねばならない。なぜなら、私は神が望まれることだけを望まねばならないから、他の人々の中で主がなされる全ての良いことを喜ばなければならない。
人から知られることを望んではならない。出来る限り、自分自身を隠すこと。私の大きな隠れた業により、神のみ心の中にだけ私の物語を書くこと・・・。」(43)

霊操の真っ只中で、神の御子の受肉と、「へりくだって聖主をお喜ばせしている聖母」を「観想していた時」(44) 彼女は、神の賜物に感謝する呼びかけを再び感じた。――「人が持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか?もし、全てが神に由来するものであれば、人には誇るべきものがあるでしょうか?聖パウロが言っておられるように、無だけを誇るべきです。」(Ⅰコリント4, 7参照)――。そして、同時に、当時の会の状況に対する悲しみについてもであった。

  「対話の中で、私は聖母に、私たちの上に憐れみの目を注ぎ、真の謙遜を理解せず、大きな害を引き起こしている、会の上層部の多くの会員の目を開いて下さるようにと願った。当時彼女たちが選ばれたのは、摂理によるものであったと盲目的に願うものであるが、それは、主と聖母が癒して下さらねばならない重大な悪である。み旨ならば、解決の時が早く訪れるようにと倦むことなく祈っている。なぜなら、それは最重要事であるから。この恐ろしい闘いを続けていく力を主が私たちに与えて下さいますように。」

  「悲しむキリストとともに悲しむ」彼女の全ての悲しみの根にあったのは、マドレ・ピラールの悲しみと、会の多くの会員――特に古参の会員――の苦しみと疑いという、人間的な現実であった。彼女は、キリストのゲッセマネの園における祈りと、ご受難とご死去の秘義について書いている。

「会員の全ての苦しみ、私自身の苦しみ、そして、これからも私が耐えねばならないことが、私の上に重くのしかかっています。もうこれ以上耐えられないと思うほど、私は気落ちしています。私はこのように祈り始めた。でも、私はすなおにみ旨を受け入れた。すると、思いがけなく、次の思いで慰められた。『私が望まない限り、誰も何もすることは出来ない。私は全能ではなかったか?』そして主は私に思い出させて下さった。本当に主は私に驚くべきことを成し遂げて下さった。私は何を恐れることがあろうか?
「・・・ 私にははっきりと分かる。N.(45) と私に起こったことは全て、私たちが
徳にしっかりと根をおろすように、主がお許しになったことだと・・・。」

「総会のための最終的準備」

1905年の半ばごろまでには、翌年の総会のための準備がほとんど整っていた。総長を選出しなければならない集まりを前にして、統治集団に見られたさまざまな変化が尋常でないことは、誰の目にも明らかであった。しかし、その時は、効果的に警告を発することの出来る者はほとんどいなかった。マリア・デル・カルメン・アランダが記すところによると、10月に彼女はマドレ・マリア・デル・サルバドールから、「来るべき総会の準備がなされた仕方」に彼女の注意を惹く手紙を受け取った。マドレ・マリア・デル・カルメンは付け加えて、他の手紙と同様、その手紙を破棄したと述べた。「私は急いで返事を書き、神の愛のために面倒を引き起こさないようにと願いました・・・。悪を増す以外に何も得られないでしょうから。それで私は彼女に繰り返し願いました。たくさん祈り、全てを神に委ねるようにと。」(46) マドレ・マリア・デル・サルバドールは返事を書いた。「あのような仕方で準備された集会に参加しないことを喜んでいます。」と。しかし、この二番目の手紙はマドレ・マリア・デル・カルメンの元に届かなかった。その手紙を傍受していたマドレ・プリシマによって告げられるまで、彼女はその中身を何も知らなかったのであった。(47)
不興を買い、不信感に囲まれ――マドレ・プリシマからはあからさまな、他の総長補佐たちからは控えめな――マドレ・マリア・デル・カルメンは、顧問の役から退く決意をした。少なくとも、総会に参加する権利を放棄した。総長代理は彼女の決意を、安堵感を包み隠すことなく受け入れた。しかし、彼女にはその辞退を受け入れる権限はなかった。枢機卿が彼女に大変好意的であったので、彼女はそれを既成の事実として受け取ったのかもしれない。1905年11月6日の顧問会で、マドレ・プリシマはマドレ・マリア・デル・カルメンに、彼女と総長補佐たちが彼女の決定を受け入れたことを知らせた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは付け加えた。「この後、総長代理はひそかにローマへ行こうとしました [・・・] 辞退の件を、枢機卿との間で解決するためでした。なぜなら、マドレ・マリア・デル・カルメンにとって全ては終わっていたのですが、実際はそうではなかったからです・・・。」(48) しかし、マドレ・マリア・デル・カルメンが説明に満足させられたのだと思った時、彼らは彼女をあまり知らなかった。実際、その日の彼女の辞任と、その後の全ての事柄における不法行為は、マドレ・プリシマにとって傷を増し加えるものでしかなかった。それらは、マドレ・マリア・デル・カルメンを統治グループから退けたいとの彼女の望みを表していたから当然のことであった。
しかし、1905年のその秋にローマで扱われるもう一つの件があった。不正確ではあるが、表現力に富んだ文体で、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは次のように説明している。「辞職の件以外に、総長代理マドレ・プリシマには、もう一つ、取り扱うべき重要な事柄があった。それは、マドレ・マリア・デル・ピラール・ポラスの件を解決することであった。もし彼女が総会に行けば、最も古参の会員たちとの間に難しさがあるだろう。しかし彼女は、そこに出席する権利があったので、彼女を除外するわけにはいかなかった。」(49)
これらの言葉でマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、言いたいことより多くを述べていた。実際、法的には、マドレ・ピラールを除外することは出来なかった。しかし、彼女の出席から来る不都合を避けようとの固い意志をもって、枢機卿は次の決定をした。「二人の元総長のうち、職務上もっとも古参のマドレすなわちマドレ・サグラド・コラソンだけが総会に出席してもよろしい。マドレ・ピラールは総長職を解かれた最後の者であり、いかなる口実のもとであれ、顧問会、あるいは総会に参加することは出来ません。」(50) (枢機卿がこの手紙で述べていることからすると、会合に参加するのは家族を代表してのことであり、二人の創立者姉妹のうち一人だけが参加できると考えられた可能性がある。)
ビベス枢機卿の下された最後の決定は完全に秘密にされた。
マドリードでの最後の日々に、マドレ・プリシマは、三人の総長補佐たち――マドレ・マリア・デル・カルメンは今や数に入っていなかった――に対し、総会の前にさしあたって準備することはないと知らせた。三日間の祈りも省略された。「というのは、これは会憲の定めるところではなく、前回は、ただ、創立者姉妹の決定によるものであったから。マドレ・プリシマは、どの司祭からも、助言を受けることを望まなかった。指名については、各自が自分で決めるように、また、それについては、たとえ死の危険にさらされようとも誰にも話さないように、なぜなら、もし誰かが死に直面したとすれば、痛悔を起こさねばならないから。」これらを書くにあたり、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、総長補佐たちが、選挙のためのこのような手続きは会憲に反すると分かり、大きな内面の闘いを感じた、という事実を隠すことは出来なかった。(51)
総会の第一会期は1月29日に開かれることになっていた。20日には、マドレ・マリア・デル・カルメンに、ビベス枢機卿が教皇から与えられた特別の権能をもって彼女の辞任を受け入れたことを知らせるため、マドリードで顧問会が開かれた。そして、ほとんど間髪を入れず、その同じ夜に、彼女はその家の院長から、総会の開始が早まったので、参加者たちは旅を始めていると知らされた。最後の瞬間に、マドレ・プリシマはマドレ・マリア・デル・カルメンをスペインに残しておかないことに決めた。彼女は、ボローニャに最近開かれた家にいる方がもっと安全であろうと考えた。そこからなら、元総長補佐は、あの歴史的な総会のこだまをいくらか感じ取ることが出来るだろう、と。
しかし、最も困難なことがまだ終わっていなかった。それは、マドレ・ピラールに、彼女が総会から締め出されたことを告げることであった。彼女たちは、出来るだけ穏やかにこれをする方法を見つけ出そうとした。そこで、マドレ・マティルデ・エリスをマドリードに送った。1903年にローマまでマドレ・ピラールに同伴したのは彼女であった。ついにマドレ・ピラールが知らせを受けたのは、ちょうど院長とその家の古参の会員が駅へ向かって出発しようとしていた時であった。創立者は何も言わず、沈黙のうちに受け入れた。さらに、事が大急ぎでなされ、それが事の不正を増し加えていたことに対する驚きのそぶりさえ見せなかった。(52)

「・・・ 神の真の子どもたちの、この聖なる自由」

総会は1906年1月29日に始まった。それは聖省による会の認可の十九周年記念日であった。集会は三十四人の選出議員からなっていた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダによると、事の成り行きを理解でき、従って、行動するための十分な人格を持っている古参の会員は、ほんの少数にすぎなかった。残りのメンバーは、他人の意見に容易く影響される者たちと、新たに任命された院長たちであった。後者は過去の出来事を知らず、自分たちに向けられた信頼に対する感謝を表すことに汲々としていた。(53)
ビベス枢機卿が座長を務めた。彼は、マドレ・マリア・デル・カルメンとマドレ・ピラールの不在の説明から始めた。マドレ・ピラールに関しては、ここで既に記したことを述べた。すなわち、総会は、創立者姉妹のうちの一人だけが出席することに決めたこと、そして、それはマドレ・サグラド・コラソンであることであった。そこには、枢機卿からよく見えるところに、当の人物がおり、その正義感をひどく傷つけたに違いないお知らせを黙って聞いていた。1902年から1903年の間の会の出来事について話すことを禁ずる、との言葉を、枢機卿の口から聞いた時には、もっと傷ついたことであろう。マドレ・サグラド・コラソンは保護枢機卿に話そうとしたが、彼は注意を払わなかった。彼とマドレ・プリシマだけが、相談することの許された唯一の人物であったという事実にもかかわらず、であった。他のメンバーたちは、この両者から情報を与えられていた。
総長選挙は2月2日に行われた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはこれについて多くの詳細を伝えていない。しかし彼女は、三十四票のうち、六票がマドレ・プリシマに反対であったと書いている。副書記のマドレ・マルティレスのメモによると、マドレ・サグラド・コラソンは四票を獲得した。(総会の準備を巡る状況からすると、ほとんどの会員にとって、創立者姉妹たちの排斥を受け入れることがいかに困難であったかが、この四票からうかがわれる。)ここではじめてマドレ・マリア・デル・カルメンの証言にふれていない。彼女は会期中、ボローニャの家に閉じ込められていたからである。元総長補佐の彼女は、何年もの間、会の統治に参与してきたので、あの2月2日の朝、ローマで起こっていたことから超然としていることは出来なかった。彼女は書いている。「その日は一日中、二枚の絵が私の心に浮かんでいた。一つは、日中、カルワリオの丘で十字架に釘付けられている主イエズス・キリスト。もう一つは、ヨシャファトの谷で、大群衆が全ての真実を知らされるのを待っているものであった。」(54)
マドレ・サグラド・コラソンもまた選挙についての彼女の思いを記している。

  「総長選挙の集まりは、2月2日に開かれ、結果は予想されていた通りであった。
彼女がその集まりを手中にしており、自分に有利となる全ての要素を握っていたからである。メンバーの多くは、非常に苦労した。第一に、保護枢機卿と総長代理は、一切の相談を禁じた。第二に、何人かは、不肖私に着目していた。しかし、狂っているとされている私の手に、会の統治を任せることがどうして出来ようか。
枢機卿は [・・・] 前もって、教皇聖下から、マドレ・ピラールを総会参加から除外するとの布告を手に入れていた。彼は、彼女が出席することと、投票することさえ禁じた。総会に参加した私どもは、始まるまでこの決定について知らされていなかったので、驚きと不快感を引き起こしたことは想像がつくであろう。さらに、私どもは、マドレ・ピラールの統治の最後の年に起こった出来事について話さないようにと言われた。それは、戦場を敵に明け渡さなければならない、と言うのに似ている。何らかの試練をお許しになる主は祝せられますように。」(55)

注釈は要しない。多少ともマドレ・サグラド・コラソンの面前で、彼女自身の、あるいは彼女の姉の、俗に考えられていた精神的な異常性についての話題が出たとは信じがたいことと思われる。これが彼女に与えた印象については、さまざまな手記に書きとめられている多くの言葉に現れている。「・・・ 選出議員たちに、私が狂っていると言いました。[・・・] そして、私の姉妹マドレ・ピラールは、混乱しており、頭が正常ではないと。それは、マドリードの医師、マリアニ先生に証明された通りです、と。このことは、後に、悲しみのうちに総長のところへ行った複数のマドレによって確認されました。」(56)
会の新総長は、これまで他の機会にも示してきた落ち着きをもって、選出議員たちと共同体の祝福を受けた。もちろん、この喜びの表現には、外交的手腕ではなく――そのためには必要がなかった――かなりの自制心が混ざっていた。 マドレ・サグラド・コラソンの記すところによると、枢機卿自身、これは「犠牲の選挙」であったと述べた(公式訪問者パニオラ神父との面接のための覚え書きより)。他方、彼女は確かにマドレ・プリシマに投票することはなかったが、心からの寛大さをつくし、信仰のうちに彼女を受け入れた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。枢機卿が帰った後、「皆はお祝いを述べるために総長の部屋へ行きました。最初に行ったのは,マドレ・サグラド・コラソンでした。とても喜んでおられる様子でした・・・。」(57) この喜びの意味は、選出議員たち全員にとってはっきりしていたに違いない。しかし、それは、2月11日、総会の最後の会期において、さらにはっきりした。

  「総長は、自分の統治の期間に、修道者聖省から本修道会に次のことが与えられ
ることを望んだ。それは、会憲の最終認可のために提示された最初の計画の中にあったもの、すなわち、総長職の任期の終身牲であったが、その時には認可されず、わずか十二年間とされたものであった。全員が承認し、全てのメンバーが承認の署名をした。ただ一人、マドレ・サグラド・コラソンだけは承認せず、署名を望まなかった。(58)

マドレ・サグラド・コラソンが反対したのは、統治の様式ではかった。彼女は、今はそれを願い出る適当な時ではない、また、マドレ・プリシマが自身でそれを願い出るのは不当であると考えた。彼女は二度拒んだ。それに対する反対意見を出した時と、請願に署名することを拒否した時であった。

スペインへの旅の喜び

1906年、マドレ・サグラド・コラソンはローマでの春を見なかった。総会の仕事の後、マドレ・プリシマは彼女に、スペインの家々を訪問して休息を取ることを提案した。彼女はそれを非常に単純に受け入れた。
彼女の不在の間に、かなりの数の家が創立されていた。セビーリャ、バリャドリード、サラマンカ、ブルゴス、アスペイティア、サバデル、それにグラナダであった。会員数はほぼ三倍になっていた。非常に多くのことを変更した危機にもかかわらず継続していくことは、それらの共同体と、その使徒活動にとって不可能であると思われたかもしれない。しかし、苦しみという肥料によって肥やされ、マドレ・ピラールがその手紙の一つに記していたあの不思議な「いのちの水脈」に養われた土壌からは、まだ実りが得られていた。大きな試練(限界、弱さ、人を傷つけるような決定、それに、不当な除外など)を受け入れることの出来る、あの寛大な女性たちの信仰が、共同体を救ったのであった。そして、彼女たちは、時に、小さくない悲しみのさなかにあっても、平和の中に生き続けた。
マドレ・サグラド・コラソンは皆に会う機会を持とうとしていた。彼女は、こよなく愛する人々の上に、時の重みがかかっているのを見て、苦しみ、また喜ぶことだろう。彼女らは、肉体的には年をとってきているが、霊的には恩寵の素晴らしい働きを示している。彼女は、この姉妹たちの喜びと悲しみを自分のものにするだろう。(この数週間の旅行の間に、彼女は、十四年間会っていなかった自分の昔の修練女たち、「昔は若かった古い」修道女たちの口から、多くを耳にすることだろう。)
彼女は、3月5日の早朝、ローマを発った。そしてまず、サバデルに着いた。彼女はそこの共同体とともに一週間を過ごした。その家の貧しさは、創立の特徴を示しており、強く彼女を惹き付けた。そして、彼女の思いは、会の初期の、ボラ街やクワトロ・カミノスでのあの英雄的な日々に引き戻された。3月14日、彼女はサラゴサにいた。ここでは、多くの困難が記憶に蘇った――彼女が職責についていた時代に経験した、教会の建築にまつわる非常な困難、また、後に聖心侍女となった寛大な恩人のことなどが・・・――。しかしこの全ては、時の霧に包まれ、ぼんやりした背景に浮かぶ苦しみよりも、現在の喜びが、くっきりと際立っていた。サラゴサの共同体は、非常な感激をもって創立者を迎えた。そして、その家の日誌に記録を残している。「この聖なるマドレに対する共同体の感謝と愛を、どのように表現したらよいだろう?いつか天国で、どれほど私たちが彼女に負うところが大きいかが分かるだろう。いつものことだが、特に今回の滞在中に彼女が示されたすばらしい模範について何と言おうか?彼女はいつも真っ先に鐘に従われた。そして、修練女のように単純で謙遜であられ、尊敬の片鱗も表されることを望まれなかった [・・・]。彼女は真に聖人であられる [・・・]。その慰めと模範のために、聖心が彼女を長らえさせて下さいますように。今日、私どもが、彼女によって創立された会の会員となっているのは、その聖心の限りない御憐れみによるのである・・・」。
サラゴサから彼女はマドリードに行った。オベリスコ街の彼女の家では多くのことが変わっていた。しかし、すみずみまでもが、寛大さ、自己犠牲、愛情にまつわる過去の秘話を物語っていた。「神に私たちの心をまるごと差し上げましょう」「会の誰かが、自分はたいしたものであると思うなら。その者は、気の狂った女性と思われてもよいでしょう」「私たちは今、建物の土台になっています。うんと深く埋められましょう」・・・などと書かれたあの霊感に満ちた手紙が認められた、マドリードの彼女の家。そこから会が多くの方面に広がっていったのであった。
「彼女が私たちを抱擁し、一人ひとりに挨拶された時、私は深い感銘を受けました――志願者の一人が詳述している――。私を抱擁しながら、彼女は、私の名と出身地、そして、着衣の予定はいつかとお尋ねになりました。聖アロイジオの祝日だと申しましたら、こうおっしゃいました。『その聖人によく倣って下さい。会を愛し、良い聖心侍女になって下さい。』と。」しかしながら、共同体のより多くの古参の会員たちは残念に思っていた。この特別な訪問が、十分な仕方で行われていないと、彼女たちは思ったのであった。
春の最中の4月3日、彼女はコルドバに着いた。彼女は自分の街で、共同体と、ポラス家の両方を合わせて二週間を過ごした。ポラス家のほとんど全員が、聖ヨハネ広場を行き来した。
4月、5月の間に、彼女はアンダルシアの残りの部分、セビーリャ、ヘレス、カディス、グラナダを回った。――この最後の家から彼女は書いている――。「ここは大変人数が少なく、また、彼女たちが、少なくとも自分たちの引越しの時まで滞在してほしいと頼み続けますので、お知らせしております。私としては構いませんので。たいしたことは出来ませんが、少しはお手伝いが出来ます。ご存知の通り私は健康ですから。もし彼女たちが承知するなら、私に働かせてくれるようにおっしゃって下さい。運動は私に元気を与えてくれますので。」(59)  働くこと、手伝うこと。彼女が今、そしていつも願った唯一の特権はこれであった。
マドレ・サグラド・コラソンは、全ての家々からマドレ・プリシマに手紙を書き、短く印象を述べ、旅程を知らせていた。彼女は、総長の一言で、どんなことでも変更する心構えがあった。彼女は、多くの愛する人々との交わりを楽しんでいた。しかし、これらの満足のどれにも執着していなかった。
5月28日、彼女はマドリードへ帰途に着いた。スペインの王、アルフォンソ十三世 (60) の結婚の直前だったので、列車は混んでいた。途中、マドレ・サグラド・コラソンは、この旅行の出来事や逸話を思い起こした。「昨日私は、朝の六時の代わりに午後二時に着きました――マドリードから彼女は書いている――。というのは、旅行者がいっぱいで、バエザでの乗り換えの時、やってきた列車が満員で乗れず、何時間も待ったあげく、数時間後の臨時列車に乗った次第です。」(61)
彼女がスペインで訪れるべきところはまだたくさんあった。ブルゴス、サラマンカ、アスペイティア・・・そして、バリャドリードであった。姉との再会がまだ残っていた。それは、何よりも、互いに慰めあい、深い喜び――それは、苦しみと両立しうるものであるが――「神のみ旨のみ」(62) に頼って生きることの喜びを分かちあう、またとない機会として望まれたものであった。

「何と偉大な聖人でしょう!」

マドレ・サグラド・コラソンの旅の同伴者マドレ・マティルデ・エリスは、この旅の全ての行程と動きをマドレ・プリシマに報告した。彼女の記述と、古参の修道女たちが総長に書いた手紙を比較すると、マドレ・サグラド・コラソンのローマ在住中にその家の院長を務めた人々同様、マドレ・マティルデに影響を及ぼした偏見がどういうものであったかの察しがつく。
いろいろな共同体から送られてくる手紙のほとんどが、マドレ・プリシマの気持ちにそぐわなかったと思われる。それらは、創立者に対する熱愛、愛情、そして、驚嘆の念に溢れていた。「・・・ 愛するマドレ・サグラド・コラソンを私どものところに遣わして下さったご親切を感謝申し上げます・・・。私どもから遠く離れていらっしゃいますから、この世でもう一度彼女にお会いする喜びがいただけるとは思ってもみませんでした。この数日間、彼女はあらゆる徳の美しい模範を示して下さいました。とりわけ謙遜と、仕事に対する愛、清貧、そして、喜びの精神です。これで彼女は休憩時間に私ども皆を明るくし、励まして下さいました・・・。」(63)
彼女たちは皆、非常に単純に、この再会の発案を総長に感謝した。「・・・ 愛するマドレ・サグラド・コラソンをこちらに送って下さったことに対し、神があなたにお報い下さいますように。私どもはこの再会をとても喜び、彼女の徳と良き模範を喜びました。マドレ、彼女は何と大きな聖人になられたことでしょう!私どもは、彼女の謙遜、単純、従順、その他全ての徳に驚嘆しております!これら全てを最大限に生かし、私が神の望まれる人間になれますよう、神が私をお助け下さいますように・・・。」(64)「こちらで日々を過ごされた後、マドレ・サグラド・コラソンは、私ども皆に良き模範を残されて去っていかれました。彼女を知らなかった会員は、彼女の魅力に取り付かれました・・・。」(65) 「マドレ・サグラド・コラソンが八日間の代わりに少なくとも十五日間こちらに滞在して下さるよう、お願いすることをお許し下さい・・・。」(66)
愛と喜びをもって創立者を歓迎した会員たちの中には、彼女の均衡を欠いた状態について、ある方面でささやかれていた意見を耳にしていた者もいた。総会に参加した会員たちは、マドレ・プリシマが全面的にその意見に傾いていたことをよく知っていた。しかし、彼女たちは、会の大多数の者から長年離れていたこの愛するマドレのうちに、良い感化と尊敬に値する理由以外に何も見いださなかった。
しかしながら、この旅行には陰の部分もあった。コルドバの院長は、修道女たちが
マドレ・サグラド・コラソンと個人的に会うことを制限すべきだと考えた。もっとも彼女は非常に注意深く彼女たちにこれを伝えようとしたのは事実だが。「皆が彼女と会うことを望むだろうと思ったので、一度だけ彼女と会うことを許可すると、彼女が到着する前に皆に申しました。ですから、彼女が在室の時には、望むものは誰でも入ってよかったのです。神父様方も彼女が好きで、彼女の訪問は兄弟的一致の絆を強める助けとなると思っておられます・・・。」(67) 「マドレのことで皆がもっと騒ぎ立てなかったことを残念に思いました。私がマドレにお話をしに行ったことが、院長様のお気に召さなかったので、とても驚きました・・・。」(68) と年配のシスターの一人が記している。
しかし、この旅行についての非常に暗い記述が、マドレ・マティルデ・エリスから総長に宛てた一連の手紙に見いだされることとなる。彼女の語調は、上に引用した喜ばしい文面のそれとは非常に対照的である。マドレ・マティルデが、自分に命ぜられた監視員としての悲しい役割を、完璧にこなしたことは疑いの余地がない・・・。
マドレ・マティルデはコルドバから書いている。(69) 「私がこの家に参りましてから、一度も困ったことはございません。というのは、マドレはご家族のことで心が占められていますから。彼女がどれほど喜んで、リラックスしているか、ご想像がおつきにならないでしょう [・・・]。お悲しみの聖母の祝日の前晩に、彼女はお姉様に手紙を書きました。そして、私にも一筆添えるように願いました。でも私はそうしませんでした。彼女はその手紙の中で一体何を書いたのでしょうか・・・。古いシスターたちは彼女のところに話しに行きます。何について話したのか、後で調べてみましょう・・・。」
前掲の段落によると、二つのことがマドレ・マティルデの好奇心を誘ったことが分かる。マドレ・ピラールへの手紙はどんな調子だったのか?(これは我々にも分からない。その手紙は我々の手に入っていないから。)もう一つは、古参のシスターたちは、長い面接の中で何について話したのだろうか?彼女が今回だけはその手紙を傍受しなかったこと、また、面接の話題を詮索しようとしなかったことを、我々は認めなければならない。

「全てを喜びましょう、なぜならそれは神のみ旨ですから」

アンダルシアから戻った時、マドレ・サグラド・コラソンは、スペインの残りの家への旅行を続ける指令をマドリードで待った。5月は終わった。6月の日々は速やかに過ぎていった。それからついに、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・プリシマの命により、バリャドリードへの旅を続ける代わりに、ローマに向かわねばならなかった。(事実、彼女はこのような結末の可能性を予想していた。しかし、あまり驚かなかったと言うことは、一向気に留めなかったということを意味しない。)バリャドリードへ行くことを禁じられたことで、旅の終わりは悲しいものになった。この旅には、始めから悲しみと喜びが混ざり合っていたのではあるが。

  「あなたは幸せですか?」――マドレ・サグラド・コラソンは一人の古参のシスターに尋ねている――。「マドレ、当人は答えた――、私は受け入れていますが、幸せではありません。」
「全てを喜び、満足なさい。なぜなら、全ては神のみ旨ですから。神がそれをお望みになるのです。私たちは大いに喜ばなければなりません。そして、聖人にならなければなりません・・・。」(70)

数ヶ月後、マドレ・ピラールに宛てた手紙の中で、彼女は、その旅行を終えるにあたって、そして、何よりも、最も重要な段階が終わっていないのに、止めることを余儀なくされたことで彼女が感じたに違いないことの非常に意味深い一文を記した。「・・・ 消えることのないものが唯一つあります。それは、消すことの出来ない本に書き記されているからです。それは、人が行った善いわざと、イエズスのために苦しんだことです・・・。」(71)
ローマへの帰途、イタリアで最初に留まったボローニャで、彼女は総長に書いている。「昨日、木曜日、午前3時に、無事この家に着きました。神に感謝。途中で一晩泊まることは致しませんでした。私の同伴者たちがとても元気で、私に、泊まらないように願ったからです。み旨ならば、月曜日にローマに向けて出発します・・・。」彼女はその家の一人のシスターについて短く述べてから、次のように結んでいる。「聖心においてあなたを抱擁します。これほど多くのシスターたちと知り合える喜びを与えて下さったことに感謝いたします・・・。」(72)

「大きな苦しみが会の上にのしかかっています」

スペインのあちこちの家を訪問したことに対する彼女の真の反応と、その四ヶ月間に彼女が経験した全てのことの大要が、彼女のわずかな個人的メモに散見される。
マドレ・マティルデは、コルドバでのマドレ・サグラド・コラソンが、多数の家族の訪問により、全ての心配を忘れ、楽しんでいたとマドレ・プリシマに書き送ったが、それは完全に間違っていた。マドレ・サグラド・コラソンは司教との面会を願おうとしたが、結局それをあきらめた。数日後、彼女はポスエロ司教に手紙を書いて説明している。「私の置かれている状況では自由がございませんでしたので、あえてお願い致しませんでした。これにより慰めをいただく自由さえもです。」しかし、アンダルシアを去る前に、彼女は手紙を書くことにした。

  「・・・ コルドバにおりました時、お話し申し上げたいと存じました。長い間私が置かれている状況の中で、私は本当の、忠実な友人からの助言を必要としたから
でございます・・・。
主がお許しになっている苦しみがどんなものであるか、お分かりでしょうか。全能の主だけが、このようにひどい苦しみの中にいる姉と私を支えることがお出来になります。
会は私たちを愛していてくれます。私たちが値する以上にです。しかし、今、会を治めている長上は、神が霊魂を浄めるためにこの世に送られる人々の一人です。今、彼女はそれを行っています。姉と私自身だけでなく、彼女の前に膝をかがめない全ての人に対してです。それは、多くの、古参の会員たちです。若い会員で従う者たちは、経験不足、あるいは恐れから従っています。家々を巡って、彼女たちが私に話すのを聞いてまいりました今、特にそれが分かります。司教様、このマドレは愛徳の精神を破壊しています。今は奴隷的精神、恐れの精神が支配しています・・・。」(73)

第二の文書は、1906年、ローマの家に公式訪問を行ったルイジ・パニオラ師のために書かれた報告書である。彼女の多くの下書きから幾つかを引用してみよう。

  「このところシスターたちは、私のスペイン行きを願い続けていました。そして、総長は、今が好機だと思いました。
私は3月4日 (74) 、総長とともにここを出発しました。二人はバルセロナで別れました。私がそれぞれの家にもう少し長く滞在することになっていましたから。私がそれぞれの家で、特に、古参の会員との個人的な会話――院長の許可のもとですが――の中で示された愛情のしるしを全てお伝えすることは出来ないくらいです。
でも、このように彼女たちが自然に心を開いてくれたことで、私は悲しみでいっぱいになりました。なぜなら、それは私に、ご訪問の時には申し上げたくなかったことを表しておりましたから。というのは確信が持てなかったからでございます。
神父様、修道会はその精神に於いて申し分ありません。ある程度までこのことはお分かりと存じます。ですから、別の精神を吹き込もうとする試みがあるのは大変残念でございます。こちらの方は、一見もっと輝いて見えますが、もっと脆く、もっと世俗的です。これが、今の総長が導入しようとしているものなのです。」(75)
「・・・ さらに、年齢、経験、そして会に対する愛の点で尊敬に値する、非常に有徳な会員の多くが、大変苦しんでいます。彼女らは、姉と私を慕っており、私どもが完全に孤立させられていることが分かって、総長に抗議しました。それで今総長は、私どもから彼女らを切り離しました。申し上げておきますが、私どもはどんなことにも干渉致しません。彼女たちは皆、会のことを考えるよう私に願っています [・・・] 私はどうしてよいか分かりません。なぜなら、一見私はもっと自由な立場にいるようですが、実際にはフランスのカトリック信者のように監視されています。誰かと二人だけでいることはほとんど許されませんし、私の手紙は検閲されています。悲しいかな、もし何か気づかれようものなら、私たちを治める長上が何をするか分かったものではございません!」(76)
「・・・ あらかじめ約束されていた通り、私は全ての家を訪問することになっておりました。スペインで訪れた全ての家で、非常な喜びを持って迎えられたにもかかわらず、姉マドレ・ピラールに会うことなく帰るよう命ぜられました。大変近くまで来ておりましたのに。そういうわけで今、私はこちらにもどり、再び、何の役目もなく、シスターたちとの交わりもほとんどない状態で、自室におります。休憩時間でさえ、誰かが私の言行を監視しているのです・・・。
今、ここで起こっていることをご存知でいらっしゃいますから、イエズスの聖心のより大いなる栄光のためにのみお願い申し上げます。私自身の心の平和のために、何をすべきか助言をいただきとうございます。何の功徳もございませんのに、神の純粋な憐れみにより、私は姉とともに、会の創立者として選ばれました。それで、今までしてまいりましたように、非常に多くのことに耐え、沈黙を保ち続けるのか、それとも、神のみ前に、このような厳しい囚われの状態から、会とその多くの会員を解き放つ決心をすべきなのか、私には分かりません。
追伸。総長が本会の統治を絶対的なものにしようとしていることを知っております。もし彼女が成功すれば、多くのシスターたちは、創立者姉妹も例外ではありませんが、会の中で生涯を終えることはないでしょう。」(77)

マドレ・サグラド・コラソンは、保護枢機卿への手紙に効力があることを疑ったが、それでも書くことに決めた。

  「スペインから戻ってまいりましたので、閣下にご挨拶申し上げたいと存じます。
また、私の印象をお知らせすべきだと感じております。
それらはあまり慰めに満ちたものではございません。大きな苦難が会の上にのしかかっております。総長代理であった期間の総長の行動と、任命の手続き上のやり方は、修道生活を送ってきた年月の長さと、果たしてきた職務のゆえに経験豊かな多くの会員たちの間に非常な苦しみを生じさせました。そして、彼女らは、このように恐ろしい試練を甘んじて受け入れることが出来ずにいます。なぜなら、参与する人々の人選において、全てが彼女の益となるように、運ばれていたように思われるからです・・・。
彼女たちの多くは、今、私に会い、神様のおかげで、私がローマにいた十四年間に何も間違ったことはしていなかったこと、そして姉も同様であること、姉は、今だけでなく、退位以来四年の間、大変元気で、模範的であることを知り、とても動揺しております。中には召命を失う誘惑に会っている者もいます。もし踏みとどまるとすれば、それは、私とマドレ・ピラールに対する愛と、私たちが神と修道会だけに目を注いで、この大きな試練を忍耐強く耐えているのを見た上でのことです・・・。」(78)

「・・・ 美しい愛徳の精神と単純さが失われています・・・」

1906年の夏、マドレ・サグラド・コラソンはその旅行の記憶を思い巡らした。彼女はまた、自分の霊的手記、前回の霊操のコメントを修正した。「私はこの世で、神のみ旨に頼って生きなければならない。神の真の子どもらのこの聖なる自由を妨げるいかなる被造物の奴隷にもなってはならない・・・。」「神のみ旨」は、今でも彼女にとって十字架の狭い道を際立たせていた。「・・・ 十字架の中に救いといのちがあることがはっきりと分かる!」と彼女は書いている。(79) 1906年の9月、彼女は、あの精神の自由、神の意志を絶えず受け入れることから得られる自立を、今一度示すことになった。彼女は、マドレ・ピラールを弁護するため、もう一度保護枢機卿に手紙を書いた。

  「娘が父親に対するように、閣下にお書きしております。私が誤解したのかも知れませんが、本会は、イエズス会のそれのような統治形態を与えられており、その会憲を取り入れています。
そうだとすれば、とても嬉しゅうございます。しかし、この惠みをいただくのなら、マドレ・ピラールにも惠みが与えられ、もう一度、彼女がそれに値する統治の地位に就くなら、たいへん正義にかなったことではないかと思います。彼女は会を創立するに当たって神が用いられた最初のいしずえであり、彼女はこの会のために三十年に亘って大いに働き、閣下もご存知の通り、罪もなく苦しみ、バリャドリードの家に四年間閉じ込められ、大きな感化を及ぼしているのです。
今、私は、聖テレジアが、兄弟のために惠みをいただきたかった時主に申し上げたように、閣下に申し上げます。『主よ、もし彼があなたのものなら、貴方ならどうなさるでしょうか?』と。」(80)

彼女は返事を受け取らなかった。そして、状況を改善するため出来る限りのことを全て行ったとの確信によって強められた、最も完全な服従が、この後に続いた。「祈り、私の力の及ぶ限り全てを穏やかに実行しよう。主が教えて下さるように・・・。」

最後に、二つの印象的なテキストをここに引用する。マドレ・サグラド・コラソンは、紙切れに、先の報告のいくつかを準備のメモとして書き、スペインへの旅を通していろいろな共同体に見いだした主な傷について述べている。

  「会の大部分を訪問した時、私たちの行いにおける、美しい愛徳と単純さの精神が失われており、その代わりに、外交的手腕、悪巧みの精神、欺瞞が入ってきているのを見て、大きな悲しみをおぼえました。今の会の精神は、修道生活の本当の精神である愛の精神よりは、むしろ怖れの精神です。新しい総長が訪問をする時、彼女は暴徒のように、大声を出したり、呟いたりすることから始めるそうです。そして、彼女が行く時、皆は震えおののき、出来るだけ早く彼女が立ち去ってくれることを望むのだと聞きました。」

何マイルも離れたところで妹や会から切り離されていたマドレ・ピラールは、次のように書く気になった。

  「私の神、私の主よ [・・・] あなたは私があなたの侍女であることを望まれます。それは、キリスト者として、また、修道者として自分の務めを果たすことです。どんな被造物の考え方や望みの奴隷でもありません。言い換えれば、あなたは私が、奴隷のような卑しい者でなく、ふさわしい侍女(エスクラバ)であることを望まれます。あなたは私たちが、会の中でこのように振舞うことを望まれたのだと私は理解しております。意気地なしや臆病でなく、従順、謙遜などあらゆる必要な徳をもって。私に訪れた平和と慰めの結果からすると、この理解は神からいただいたのだと思われます。私の心はこの思いで溢れるほどでした。それで私は、会の中で、全く信頼のおける四、五人のシスターに書きたいと思いました。もし私が死ねば、彼女らがこれを会の中に植えつけてくれるようにと。でも私は何も言いませんでした・・・。」(81)

彼女はそれを誰にも伝えることが出来なかった。しかし、彼女が書きつけた粗末な紙切れは、破棄されるのを免れた。こうしてそれは、1903年の直後のマドレ・ピラールの不安と困難の悲しい証しとして伝わってきている。

あなたのお手紙は「あなたがお考えになる以上に私の慰めです」

続く数年間、あらゆる種類の困難により、マドレ・サグラド・コラソンの忠実さと信仰が試された。それぞれの場合でいくらか違いはあったが、二人の姉妹の状況には、共通の特性があった。絶えまない不信感、人々や会の出来事からの、ますますの孤立、ある人々からの同情、他の人々からの軽蔑、ますます忘れられていくこと・・・。
ローマとバリャドリードの間での手紙のやり通りは続いていた。保存されているものは、愛情のこもった理解を示している。それは、状況が課す控えめな沈黙と限界の埋め合わせをしてくれた。ある時マドレ・ピラールは書いている。「少し前にあなたからのお手紙をいただきました。神に感謝します。もっと度々いただきとうございます。その望みを捨てません。なぜなら、神がそれをお望みになると思うからです。同様に、私もあなたにお書きしましょう。今私たちが行っているやり方によってではありますが。」(82) マドレ・ピラールがその職から退けられた時、マドレ・プリシマは、封をして手紙を送ったり受け取ったりする特権を、彼女に与えていた。(83) このことは、彼女が総長として、また、創立者として、会の内外で無数の関係を持っていたことで、与えられたものであった。これは、マドレ・ピラールのための個人的な特権というよりはむしろ、彼女に信頼し、自分たちの秘密について個人的に彼女に話していた全てのシスターたちに対する尊敬のしるしとして与えられたのであった。マドレ・サグラド・コラソンと同様、マドレ・ピラールも、彼女の手紙に関するいわゆる例外は、ちょっとした作り話であることが、ほどなく分かることとなるのであった。マドレ・プリシマが総長だった三年間に、権威は、厳格な規律と、書き物、会話を問わず、個人的なコミュニケーションの極端なまでの統制により保たれていた。マドレ・プリシマにとって、二人の創立者姉妹がいることだけでも真に危険なことであった。そして、彼女の見方によれば、このような恐れは、創立者たちの孤立をあたかも十字架のように耐えていた多くのシスターたちの悲しみのゆえに、十分な根拠があった。このような時に権威を保つには、例外的な手段が必要であった。そして、それが実際に取られたのだった。マドレ・サグラド・コラソンは監視され、マドレ・ピラールはそれ以上だった。(84) 彼女らの手紙の幾つかは没収された。二人の姉妹は、独特な方法で反応した。人間の尊厳に対する卓越した感覚と、さらにそれを上回る信仰の眼をもって。特権の侵害という不正に対する彼女らの抗議は、柔和と忍耐の線に沿ったものであった。二人は例外というものを放棄した。そして、普通の基準によって与えられる安全を受け入れた。「私の手紙は開封されずに渡され、初めはそれを受け入れていましたが、今ではそれを望みません。それで、私はマドレ・マリア・デ・ヘスス・ラバリエタ(院長を務めています)に、私の全ての手紙、送るものも、受け取るものも全て、を読むように願いました。私を喜ばせるために、彼女はそうして下さいます。ですから、今、お分かりいただけるでしょう・・・。」マドレ・サグラド・コラソンに宛てたマドレ・ピラールの手紙 (85) の一つにあるこれらの言葉は、ベールに包まれた警告を含んでいる。創立者姉妹たちは、自分たちが受けていた不当な監視に気づいていた。二人は信仰の精神を持ってそれを甘受していたが、当然考えられる、心の荷を下ろす可能性に対しては戸を閉ざしていた。
このような文通の制限にもかかわらず、マドレ・ピラールとマドレ・サグラド・コラソンの間の手紙は、すばらしい文面を提供してくれる。「二ヶ月に一度は少なくとも数行書いていただきたいと思います――マドレ・ピラールは書いている――。私が知りたいのは、あなたが生きておられるか、そして、お元気なのかということです。このお知らせは、ご想像以上に私の慰めとなります。そして、このニュースがないことは、私を苦しめます [・・・]。私の風邪は大変よくなってきています。でも、寒くはありませんか?私は他のことでもっと苦しんでいます。でも、それらは死の苦しみほどではありません。できれば死が早く訪れて欲しいものです。私の贖い主、審判者であられる主の友情と恵みの中に。でも、私がもっと心から望むのは、神の哀れみにより、会の中に、あなたに、そして私の中に、神のみ旨が完全に行われることです [・・・]。あなたのお誕生日を忘れてはいません。あなたと私のためにずっと祈っております。年とともに徳に進歩なさいますように。神のみ摂理に対する信仰を燃え立たせるために、1月の末から私どもが祝っている出来事の記憶を新たになさっていますか? 感謝とともに。(86) マヌエルを忘れないで下さい。この頃に亡くなりました。忠実な僕でした!」(87)
「いつもあなたのためにお祈りしております――マドレ・サグラド・コラソンは、悲しみの聖母の祝日の前晩に書いている――。でもこの日には、聖母があなたの心をご自身の心に似たものとして下さるよう、特別にお祈り致します。後に、あなたがその聖なる御子ともに、完全な喜びに預かることが出来ますように。あなたは、この愛すべき殉教者の女王に倣い、生涯を通じて捧げた全ての行為によって、それがお出来になります。ですから、あなたの前には広野が開けています。聖母があなたに力をお与え下さいます。心からそれをお祈りします。どんな犠牲を払っても、私たちは天国で大きな栄光に与らねばなりません。そして、私たちは、まず、十字架につけられたキリストの山に登らなくては、これをいただくことはできません。」(88)
「お手紙頂戴しました――マドレ・ピラールは返事を書いている――。聖心の祝日が近づいていますので、すぐあなたにお書きします。既に申しましたように、全てに対するあなたの霊的、および身体的関心は、常に私のそれと同じです。そして、私が天のみ国の前で心からお願いするのは、[・・・] 私たちが、最後の息を引き取るまで、主なる神が私たちのために供えておられるご計画に完全に従うこと、私たちが、ごく些細なことでさえ、決して主をがっかりさせないことです [・・・]。お手紙の中で、私が苦しみのための広野を与えられていると書いておられます。それは本当です。でも、ずっと考えて参りましたが、功徳のための野も同じくらい、いや、もっと無限に広く、それを思うと心が平和に満たされます。ですから、主がお望みになるところまでずっと前進致しましょう。終わりはさほど遠くはございません。日々が何と速く過ぎて行くことでしょう。そして、何週間も何年も!・・・」(89)
これらの手紙は霊的な内容に満ちているからとはいえ、そのために、その深いところにある人間性が見えなくなるわけではない。家族についての詳細、会員や会の恩人についての話・・・.小さなことであっても、それらが起こっている状況を知っているものなら誰でも通じ合える事柄、特にそれらが直接関係する者にはなおさらピンと来る事柄があった。「私がスペインにおりました時、カディスでララ神父様にお会いしました。あの方がどれほど当地で聖性の名声が高く、どれほど愛されていらっしゃるか想像がおつきにならないほどでございます。」(90) 「クレラック家の一人であるセレスティナ嬢は、あなたにお目にかかり、とても喜んで帰って来られました。この方々をお愛し下さい。あの方たち以上に堅固なキリスト者をほとんど知りません・・・。」(91) 「院長様はあなたに、彼女に手紙を書いていただきたいと望んでおられます。彼女のためにお祈り下さい。彼女は会のことをとても愛しています。そして、会のために働いています。時には必要以上に。」(92) 「あの院長のレヒナに、手紙を受け取ったとお伝え下さい。私は彼女の偉大な聖人の祝日の前夜からずっと彼女に挨拶を送っています。私は変わっていませんし、彼女の善良で立派な両親を忘れておりませんから。彼女がどこへ行こうとも、彼女に対する私の関心はついて行きます。皆様によろしく。とりわけ私の知っている皆にくれぐれもよろしくお伝え下さい・・・。」(93)
創立者姉妹の手紙にもっともしばしば登場する話題の一つは、彼女たちの知人の病気と死についてである。このテーマについて記された考えは、希望についての文章の集積として集められるであろう。「それから、私たちのマドレ・フェリサ・レカルデですが、彼女が天国に行ったことをご存知ですか?マドレ・バリェが亡くなった時ビヌエサ師様がおっしゃったことからすると、彼女は聖なる示現を見、大いなる至福のうちに亡くなったそうです[・・・]。私は彼女が天国で祝いの席につき、私を招いているのが見えるように思います。私たちの亡くなった姉妹たちの中で、これほど生き生きとした、美しい印象を残して行った人はいないと思います。彼女が特別の愛を持ってあなたを愛していたことを思い、ご自身を慰めて下さい。」(94)「彼女たちは皆、私たちのために場所を準備するために先立った友人たちです。神よ、どうぞ私たちもそこへ着きますように。神の無限の御憐れみにより、そのことを期待します。そして、次のように歌いたいと思います。〈私が期待する善はとても大きいので、どんな悲しみも私には喜びとなります。〉と。」(95)

「・・・ 私は遣り残しをしたくはありません・・・」

1908年、一つの重要な出来事がマドレ・サグラド・コラソンの心配の種となった。総長に宛てた通常の手紙の中で、マドレ・マティルデ・エリセは書いている。「〈子供〉には浮き沈みがあります。あなたからお手紙をいただいたと彼女は私に言いました。でも、彼女によれば、あなたはこの度はお優しくなかったとのことです。先日、私がお礼拝から出てきた時、彼女が私を待っていました。そして、誰かと相談しなければならないと言いました。彼女は枢機卿様に手紙を送ってほしいと言いました。あなたが彼女にお書きになったことを彼に知らせたかったのです。(それが確かかどうか私には分かりません。彼女の名義になっている全ての財産の放棄です。)枢機卿様に報告する必要はないのではないかと私は申しました。あなたがご存知と分かっていましたので。でも彼女はたくさんの理由を並べ立てました。彼女の考え方によれば全く正しいことです。彼女がとてもしつこいので私は申しました。〈もしそれだけのことであればお書き下さい。そうすれば私がその手紙を送りましょう。〉私があまり彼女に逆らいませんでしたので、彼女は思い留まり、手紙を書きませんでした。私は自分が彼女に申しましたことを院長に話しました。院長はその手紙を出すべきではないと私に言われました。次の機会のためにあなたのお考えをお聞かせ下さい・・・。」
この一節は創立者の状況をどんな解説よりも明確に説明している。枢機卿に頼りたいとの彼女の気持ちは妨げられた。彼女が置かれた状況においては、それが彼女の煩いを癒す唯一の方法であったことであろう。さらに、より上級の権威に近づくのを妨げられたことで、新たな不正への痛みが生まれた。
枢機卿に相談したかった件は、彼女の遺言と財産の放棄であった。3月1日、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・プリシマに書いた。「自分自身に関することである限り、物質的なことについてあまり心配したことはございませんし、ご存知の通り、自分自身のためには、清貧の誓願についてあまり勉強したことはございません。でも、必要性があって、今、それを行っております。そして今、ちょうど、六十八番を発見したところです。(96)  それを解決するために何をすればよいかどうぞおっしゃって下さいませんか?それから遺言のことですが、整っているでしょうか。死が迫った時、いえ、生存中でも、やり残しをしたくはございません。主が私をお呼び下さる時のために、全てが用意されていることを望みます・・・。」(97)
単純さと寛大さに満ちたこの手紙――筆写された部分だけでなくすべの文脈において――に対し、マドレ・プリシマは、一ヶ月遅れの4月10日に返事を書いた。それはマドレ・マティルデ・エリセにより引用されている。(98)  彼女の説明によると、事実、マドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールの財産は全て、第二回総会(1893)の始めに、司教律修者聖省に提出された目録に、修道会の名において記載されているということであった。それにもかかわらず――マドレ・プリシマは続けている――「その後、清貧の誓願は会憲の中で、現在述べられている通りに説明されました [・・・]。ですから、私たちは所有物を保持するか、あるいは、財産を放棄するかの自由があります。教会によって与えられる自由を知らされた時、全てのシスターたちは、特に終生誓願を立てる時、収入だけでなく、財産の所有も私的に放棄しました。そして、その放棄は記録簿に記録され始めました。しかし、あなたには、会憲と清貧の誓願によって少なくとも前者を行うことが義務づけられています。しかし、この放棄よりももっと大切なのは、あなたの財産はあなたではなく修道会のものであると、聖省の記録簿に保存されている書類にある宣言だと思います。」(99)
終生誓願を立てた修道者のうち、その放棄をしなかったのは、創立者姉妹たちだけだと断言した時、マドレ・プリシマは二人を責めていたように思われる。しかしながら、二人の場合は、1893年に聖省に提出された書類のためにこれが不必要だったことを彼女は認めた。我々はさらに認めることが出来る。会は、その誕生以来、創立者姉妹たちの遺産を使ってきたのである。
マドレ・プリシマの手紙は、マドレ・サグラド・コラソンによればあまり愛情に満ちたものではなかったが、マドレ・ピラールについての非常に厳しい言葉を含んでいた。いわく、彼女は「自分の名義になっている財産に関する交渉に手を貸すことを拒み、管理の事柄に協力しなかった。その財産の多くは彼女のものでなく、会の他の財産と同じように、彼女の名前において保持されていたにもかかわらず・・・」である。マドレ・ピラールの態度を判断することが出来る十分な事実を我々は持ち合わせていない。我々はただマドレ・プリシマから得られる情報を通してのみそれを知ることができるだけである。(100)  彼女があえて次の一節をマドレ・サグラド・コラソンに書いたのは不可能であるとしか考えられない。
「・・・ この世のいのちには限りがありますので、時が全てを解決してくれることを期待します。それで私は彼女――マドレ・ピラールのことですが――に一層おゆだねします。なぜならそれは、マドレが顧問として選ばれたその同じかたがたに私が助言されたことだからです。そしてそのかたがたは、彼女の頭が少しおかしくなっていると思っておられます。[・・・] けれども、これが事を長引かせますし、新たな困難と同様私はそれを避けたいと思いますので、マドレ・ピラールの名義で遺言を書いた者は全てそれを変更すべきだと、そして知る必要のある人には知らせねばならないと私は申しました。あなたがご自分の遺言を変えて、主のお望みだと思われることは何でもしなければならないかどうかお考え下さい。私の望みは、あなたがそれを変えることです・・・」。
死だけがマドレ・ピラールによって生じた問題を解決出来るということを、非常な冷酷さをもってほのめかしている手紙の辛らつさを感じないでいられようか。創立者姉妹の財産が事実既に修道会のものとなっていたとしても、放棄の必要はなかった。そのことを話題にすることは、マドレ・ピラールにとっては、過去の傷の記憶を呼び覚ますことに他ならなかった。ましてや新たな遺言を作成することをマドレ・サグラド・コラソンに要求する必要はなかった。(101) また、総長が、語調を和らげようともせずに、マドレ・ピラールの頭が変になってきているとマドレ・サグラド・コラソンに言うなどはまことに言語道断である。」
疑いもなく、マドレ・サグラド・コラソンは前の総会のことを思い出したことであろう。当時、二人の創立者姉妹のいわゆる精神的な病気のうわさが飛び交っていた。(「・・・ 私はとても狂っていました・・・」;「姉は頭が混乱していました・・・」)それは小声で噂され、程度の差こそあれ軽率に言い広められていた。彼女自身、ほとんど直接にそれを耳にすることが出来たほどであった。今、マドレ・プリシマはこれを繰り返し、自分は、これを知る必要のあるものには誰にでも話していたと付け加えた。このことから、マドレ・サグラド・コラソンが次のように考えたことが容易に察しられる。すなわち、マドレ・ピラールは、自分の遺産を所有することによって自分の益としようとしていたが、財産同様、家族からの遺伝として受け継いだ精神的病(やまい)で苦しんでいたから許されたと、多くの会員は考えたと。
この問題に直面して、どのような姿勢が取られただろうか。創立者は自分の苦しみのことで無益な思いにふけって時間を無駄にすることはしなかった。彼女はマドレ・プリシマ に手紙を書き、自分に出来ることは何でもするとはっきり伝えた。しかし、同時に姉にも手紙を書きたかった。そして、大きな愛をもって、この点に関して姉に助言を与えたいと思った。
総長に宛てた返信は、彼女の手紙を受け取ったその日に書き終えられた。

  「愛するマドレ.、今日お手紙を受け取りました。それで、大きな喜びとともに急ぎ返信をお書きします。
大きな喜びととともにと申しますのは、マドレのおっしゃることは本当です。すなわち、会の中では、正式に署名されると、私の両親や兄弟のものであった全て、そしてマドレスが、本会のためにと私に残して下さった全て、そして私がその意向で受け取ったものは、確実なものとされるからです。神に感謝。
遺言に関しては、神のみ前に最上と思われることを、そして、聖心侍女修道会の最大の益となるようになさって下さい。
必要ならば、あるいは、私が、第六十八番ではなく(私が間違っておりました)第八十二番の清貧の誓願について述べられている私的な遺言をすべきだとお思いになるなら、書式をお送り下さい。そうすれば、すぐにそれを致します。
マドレ、今日のお手紙で、どれほどの重荷を私から取り去って下さいましたことか!今日私は主の祈りを、今までより一層の喜びをもって唱えるつもりでございます。」(102)

5月6日の手紙でマドレ・プリシマはマドレ・サグラド・コラソンに宛てて書いている。「神の栄光のため、そして、本会の善のために、彼女は、会のために遺言書を書いたであろう会員の一人にならって、遺言書を作るべきである」と。マドレ・サグラド・コラソンは返信として書いている。「お手紙頂戴致しました。私が作るべき遺言書に、どのマドレス、あるいはエルマナスに言及すべきかお教えいただきとうございます。どなたが一番適当な方であるか分かりませんので。」(103) 答えは総長秘書からの手紙に記されていた。彼女が遺産相続人として指名されるようにとのことであった。
この時点でマドレ・サグラド・コラソンは枢機卿との面会を願い出た。その望みは合法的なものであった。そして彼女はそれを隠そうとはしなかった。面会を願い出ることが記された手紙を、彼女は院長に手渡した。院長はマドレ・マティルデに知らせ、マドレ・マティルデは5月31日付の手紙でマドレ・プリシマに、マドレ・サグラド・コラソンが独断で行動しようとしていること、そして、枢機卿が言ったことは何でもマドレ・ピラールに伝えるつもりであると知らせた。
創立者が大変驚いたことに、保護枢機卿からは何の音沙汰もないまま何日も過ぎていった。この沈黙の説明は、沈黙自体よりもっと信じられないくらいである。「・・・ 昨晩オトン神父様からの電話で、今日午前中か木曜日にうかがってもよいということでしたが――
ローマの院長はマドレ・プリシマに書いている――マドレ、私は二つの理由で [・・・] 行くことを望みませんでした:このマドレの気まぐれと心配が、出かけることの十分な理由になるかどうか分かりませんので。(104) そして第二に、もし私がいつか彼女を枢機卿に会うためにお連れするなら、彼女は毎日出かけることを望むでしょうから。それで私は、枢機卿は誰がこの手紙を書いたかがお分かりになり、私が上記の理由で出かけることが出来ないとオトン師にお書きしたのです。ですから、多分神父様は、マドレがとてもおかしくなっていて、確かにこの頃はとてもひどい状態であるとお思いになるでしょう・・・」(105)
十二日後、マドレ・マティルデは、枢機卿が修道院を訪ねてきていないと述べている。それは驚きだった。なぜなら、院長は面会に行くことを拒否していたから(もちろん、当の本人には知らせずに、であるが)。マドレ・サグラド・コラソンは完全に頭がおかしくなっていると枢機卿に納得してもらっていた。「・・・ 枢機卿が来られないので彼女は心が休まりません。――マドレ・マティルデは記している――今朝、院長によれば、枢機卿に三度目の手紙を送ったそうです。それで、枢機卿が来られず、返事も来ないので、彼女は同じ用件についてマルケッティ師にはがきを送りました・・・。」(106)
彼女は少なくとも四回助言を求めようとした(三回は枢機卿に、そして一回はマルケッティ師に)、しかし、どの道も閉ざされていた。そのことが分かって、マドレ・サグラド・コラソンは神に自分自身を全くお任せしようと心に決め、遺言書を作ることにした。(107)
枢機卿はようやく修道院を訪れた。しかし、その時までには、マドレ・サグラド・コラソンは既に、手紙によって自分の意向をマドレ・プリシマに伝えていた。今、彼女はもう何も助言を求めることはなく、ただ枢機卿に報告した。

「聖人になりましょう、そうすれば、私ども以上に会のためになる人はいません」

頭がおかしいと思われた女性は、精神に異常をきたしているどころか、類まれな平静を保っていた。自分の考えを支持する理由を述べたり求めたりすることの出来る賢い人物の平静さではなく、むしろ、聖人の平静さであった。それだけが、大きな疑いと困難のさなかにある人を、平和に保つことが出来るのである。マドレ・サグラド・コラソンは聖人であった。だからこそ、彼女は従順を内的自由と結び付けることが出来たし、――自分の受けていた不当な扱いにも関わらず――、兄弟的愛と、修道会に対する忠実さを結び付けることが出来た。
マドレ・プリシマ宛ての、また、姉に宛てた次のような手紙は、マドレ・サグラド・コラソンならではのものであろう。

「愛するマドレ.、遺言の延長についてマドレにお書きした後、私はその中に、血肉の関わりの何かが混じっていないかと不安になりました。それで、私はそれについてどなたにご相談すればよいか考えました。こういうことについて話すのは苦手ですので。そこで私は、保護枢機卿に話すことにし、お手紙をお書きしました。その後、さらに二、三度お書きし、いらして下さるようにお願いしました。でも、まだいらっしゃいません。今日までお待ちしました。でも、いらっしゃらないと思いますので、もう解決しました。み旨ならば明日、院長は弁護士に来院するよう依頼されると思います。そして、遺言状が作成されるでしょう。
今私は他のことで心配しています。マドレ・ピラールをどう扱えばよいかということです。財政の手はずのことで協力しないという点で彼女は間違っているということを分かっていただくことです。それに私はもっと困っています。というのは、彼女に忠告を与えている方々が、彼女の頭が正常でないと言って彼女を騙しているからです。神に感謝します。彼女たちは私には逆の仕方で関わってきます。私はそれをとてもありがたく思います。これからもずっとこうでありますように。
私はいつも私の手紙を開封して彼女に渡しますし、彼女も同様にします。それで私は彼女に信頼することが出来ませんし、彼女も私にそうすることが出来ません。それで私はこの手紙をあなたを通して彼女に送ろうと思いました。もちろんマドレはこれをお読みになるでしょう。そして封をし、彼女の院長を通して送られるでしょう。もしマドレが賛成して下さり、彼女が私に返事を書き、そうしたいと思うなら、同じ方法で届くでしょう。でも彼女はどのように、ということを知る必要はありません。私は彼女に物事をはっきりさせたいと思います。試してみます。後は主なる神がお計らい下さるでしょう。
この全てのことはあなたのためだけです。もしご賛成下さるなら…」(108)

マドレ・ピラールに宛てて送られることになっている手紙は次のようなことにも触れている。

  「ご存じの通り諸修道会の財政は常に奪われる危険に脅かされています。ちょうどフランスに起きている通りです。私どもの会でも財産の安全を確保するために、あらゆる努力がなされています。権威を認めることによって協力することが私たち皆に必要です。わたしの理解しているところによれば、あなたは拒否しています。もっと言えば、あなたの名のもとにある全ての利害関係はあなたのものであると言っておられます。などなど。
このことをとても残念に思います。もしそれが本当なら、寛大さの欠如であると思われるからです。今、修道会の責任を任せられている人の立場にご自身を置いて下さい。誰かがあなたにそのように行動することをあなたは望まれますか?苦情をおっしゃるのではありませんか。それは当然です。もしこのことが知られるようになるなら、大変躓(つまず)きを与えることにならないでしょうか。何より、あなたと私は最も寛大で、最も離脱しており、会の善のためなら真っ先に協力する者でなければなりません。また、会の名誉、会を堅固なものとするためには、出来ることは何でもして助けねばなりません。そして、今は以前よりもっと大きな功徳があります。なぜなら、私どもはあらゆる自然的な利益を剥奪され、純粋に神への愛のためにのみ行動しているからです。
今、全ての不満を脇へ置きましょう。私たちのより大きな善のために主がお許しになる試練に謙虚に服従しましょう。私たちの魂の聖化こそが私たちにとって最も大切なことです。そして、多分そのために主は私たちをこのような純粋な功徳のある状況にお置きになったのでしょう。
神の愛のために、私の申し上げることで動揺なさらないで下さい。それについて
思いめぐらし、変えられねばならない全てのことを、あなたが他の機会にも持って
おられた迅速さと寛大さをもって変えて下さい。会の初期の頃の屈辱を思い出して下さい。それはとてもひどいものでした。また、あなたがそれらを受け入れた寛大さと、それに対して、主がどれほど豊かにお報い下さったかを思い出して下さい。ですから、どうか後戻りなさらないで下さい・・・。」

この手紙は長い追伸で終わっている。

  「・・・ 聖人たちの中で最も称賛されるべきことは、試練の時における彼らの大いなる謙遜です。聖人になりましょう。会のためにこれ以上のことが出来る人は誰もいません。天を仰ぎ、地上のこと、そして、神のみ前にあなたには責任のない全てのことを軽蔑しましょう。聖イグナチオの言葉を思い出しましょう。彼が非常に愛している修道会が、彼の過ちではなく滅ぼされるとしたら、彼は十五分間の祈りでもって心の平和を取り戻すでしょう [・・・] 。今ではあなたも私も、会の中での義務と言えば、そのために祈ること、そして、会憲と会の規則をよく守ることしかありません。神は私たちからそのことについて厳しい報告を要求なさることでしょう。でも、私たちが自分に引き受けたい他のどんな重荷や責任のためではありません。それらはここに記されているように、“全然”私たちのものではないのです。」(109)
聖心があなたに力を与えて下さるよう、そして、あなたをつなぎとめようとし、あなたが神の子の自由をもって走るのを妨げている紐を切って下さるように真剣に祈っております。」(110)

マドレ・ピラールの返信が保存されていないのは残念である。それがあれば、もっと確実に彼女の考え方を知ることが出来たであろうに。間違っていた可能性はあるが、おそらく確実に彼女の本音を示していたことだろう。既にマドレ・サグラド・コラソンは手紙の中で、マドレ・ピラールについて入手した情報を前に自分が感じていた疑いを垣間見せている。(「このことは私には残念です。なぜなら寛容さに欠けているからです。もしそれが本当なら・・・。」)

「私たちは ・・・ いしずえ・・・」

7月の始めにマドレ・サグラド・コラソンがマンシーニ師の死について姉に知らせる手紙を書いた時、同じテーマに戻っているが、静かな口調で書かれている。

  「・・・ 今、神父様はその全ての善い業のために報いをお受けになったことでしょう。そして、たくさん苦しんだことでどれほど喜んでおられることでしょう。それがあの貴重な苦しみのためならなおさらです!たくさん、非常にたくさん苦しみ、この世で私たちの主、イエス・キリストの歩みに従う人は、千倍も幸せです。そして、この世のいのちが終わる時、自分の働きによって得た貴重な宝を両手にいっぱいいただくでしょう。そして、終わることのない幸せをいただくでしょう。
私たちは会の中で最初の者として、こうなる務めがあります。目に見えないいしずえになることです。いしずえがもし目に見えるとすれば、どれほど醜いことでしょう。壊され、踏みつけられた石は、建物を支えます。そして、建物が美しければ美しいほど、土台はより深くなければなりません。そして、機械によってもっと荒々しく扱われるのです。私たちの会は大変貴重なものです。だから、私たち最初の会員は、神が使おうとして選ばれる道具によって地中深く打ち込まれるままにされなければなりません。全ては神のみ手から来ます。神は全てをご自分のより大いなる栄誉と栄光のために導かれます。私たちは寛大で、本当に善良で、たとえ血の涙を流さねばならないとしても、神をお喜ばせしなければなりません。主が先ずそうして下さったのですから。勇気と寛大さ、私はいつもあなたのためにそれをお願いしています。私のためにも同じものを願っていただきとうございます。聖心のマリア、E.C.J.」(111)

この手紙に対してもマドレ・ピラールからの直接の返信はなかった。しかし10月の初めのある日、マンシーニ師のことについて触れてはいる。「彼も聖人です。――何と大きな功徳を積まれたことでしょう!――彼の長く苦しいご病気と、どれほど彼がそれに耐えられたかだけを考えただけでも。」(112) これは家族についての記述、甘い霊的な慰めに満ちた言葉がちりばめられている、大変長く、穏やかな語調の手紙であった。マドレ・ピラールが妹の忠告によって感情を害することなく、それをよく受け入れたことは明らかである。どこまで彼女がそれを実行に移したかは分からない。(113)
その年の12月にもまたマドレ・サグラド・コラソンは姉に手紙を書いている。その手紙は、思慮深さ、愛情、そして、ユーモアに満ち、驚嘆に値する。「しばらくの間あなたにお手紙をお書きしたいと思っていましたが、大変あなたの心にかかっているあの少女たちについての明るいニュースをお待ちしておりました・・・。」言うまでもなく、ここで彼女が語っているのは自分たち自身、つまり、創立者姉妹たちのことであった。彼女は一種の寓話の手法を用いて、自分たちの立場について述べている。

  「ご存知の通り、少しの浮き沈みの後、二人は良い場所を見つけました。でも、
数年後、まず若い方が、そしてそれから年上の方がひどい不幸に見舞われました(世間ではそう呼んでいますが、修道生活では、それらを大きな益となるもの、神からの祝福として受け入れます。なぜなら神はこのようにして霊魂をご自分の御子になぞらえられるからです。これ以上大きな祝福があり得るでしょうか!しかし二人にはそれが分かりません)。若い方は最初に大きな逆らいを蒙りましたが、退いて幸せに暮らしました。年上の方は、後に苦しみましたが、心は平和でなく、落ち着きませんでした。そして、思うに大変痛めつけられました。彼女に関心を持つ人、あるいは、彼女にはっきりと物を言う人は一人もいません。皆彼女の不安を助長し、何も得るところがありません・・・。」

(実は、マドレ・ピラールの不安、「年上の方は心が平和でなく、落ち着きませんでした」というのは、彼女を絶えず監視していた人物たちの見方を通してのみ我々に知らされていることである。枢機卿に話そうとのマドレ・サグラド・コラソンの試みが、頭が変になっていることのしるしとして解釈されたことを思い出せば、おそらくマドレ・ピラールの行動も同様にねじまげられたと思ってもよいだろう)。
マドレ・サグラド・コラソンの手紙は、マドレ・ピラールに深く考えさせたに違いない言葉で終わっている。

  「もし私が年上の方に話すことが出来れば、落ち着いているようにと言うでしょう。神の国とその義だけを求めるように、そして自分自身を盲目的にわが主に委ねるようにと。他の全てのものは、思し召しの時に、加えて与えられるでしょう。彼女は、自分がこの状態にあるのは、自分自身のせいではなく、彼女の家族のためであると言います。よろしい。私は彼女の家族について問い合わせました。すると、誰もがその構成と繁栄を賞賛している、ということを彼女に知らせて下さい。その家族の上に神の卓越した摂理を見て、誰もが神を賛美しています。なぜなら、子どもや孫たちが皆、出来ることなら先祖たちの精神を保ち、さらに発展させるようにと、精一杯努めているように見えるからです。
今、あなたはお知りになりたいことが分かりました。彼らのために祈って下さい。そして、神と聖母が彼らを愛していることを確信して下さい。これ以上何を望めましょうか。」(114)

12月末、マドレ・ピラールは妹からの手紙を待っていた。クリスマスには欠かさず手紙を送っていたから。彼女自身も28日に書き始めた。しかし彼女は、ローマからのニュースが入ったかどうか見るために、1月7日まで待った。ついに彼女は自分の手紙を手渡すことに決めた。「お手紙を下さい [・・・] そちらの院長様と全てのマドレス、エルマナスにおっしゃって下さい。この美しい祝日の季節、私のために何かよいことをして下さろうとお忙しかったかどうかお尋ね下さい。私も彼女たちのためにそう致しました。それ以上何も望みませんとお伝え下さい――と彼女はその手紙を結んでいる――。」(115)
おそらくスペインとローマの間の郵便事情は、数年前ほどスムーズにいっていなかったのであろう。おそらく会の中でも文通に対する自由があまりなかったのであろう・・・。

「1911年の総会」

1911年という年は、マドレ・プリシマの統治が決定的なものとなった年として、また、その結果、二人の創立者姉妹の撤回不可能な排除の始まりとして、会の中で記録に残ることであろう。
1912年には、修道会の総長の選挙のために総会が召集されるはずであった。なぜなら、マドレ・プリシマは1906年の2月に、六年間という任期で選ばれていたから。しかし、総会の日取りは、前回もそうであったように、先送りされた。ある面ではのろのろと運ばれ、他の面では大変速く進められた、秘密裏の準備の後のことであった。総長諮問委員会は数ヶ月にわたって効果的に進められた。他のメンバーたちは、準備においても進展の途上でも、ほとんど参与する余地がなかった。
6月、マドレ・プリシマは来たるべき総会に関わる事柄を保護枢機卿と話し合うためにローマに来ていた。彼女がスペインに戻った時、二人の総長補佐はローマに留まっていた。その一人、マドレ・ロサリオ・ビラリョンガは、少し後で、院長たちに「最大の信頼をこめて、会の大変重要な事柄、会とその将来に大きく関わること」について書いている。その長い手紙の中で彼女は、1906年の集まりで賛成を得たこと、すなわち、終身総長職を獲得するために作業していることについて説明している。「現在、私ども総長補佐は、総会で総長に与えられた課題、すなわち、総長の任期の間に、総長職の終身制度を獲得するために出来るだけのことをするという課題と取り組んでおります。総長様がご自分でこのことをなさるよりもっと良いし、彼女のためになると思いますので、私どもがこれと取り組んでおります。このため、マドレ・マルガリータと私はローマにおります [・・・] 次の総会でよい結果が得られることを期待しております・・・。」この手紙の目的は、ローマに手紙を書き、修道会のために総長の終身制という特権を得たいとの大きな望みを表すようにと院長たちに告げるためであった。(116)
総会の招集も同様、秘密裏に行われた。「総会に定められた時が近づいてきました。私どもの保護枢機卿ビベス閣下に報告し、その賛同を得ましたので、参加資格者は全員、9月26日にローマに集合しなければなりません。神のみ前に注意深く考慮した上で、私はあなたと、総会に参加することになっている全ての会員に対し、秘密厳守をお願いします。誰にも、いかなる理由があろうと、この集まりがいつ行われるのか知らせてはなりません。ある院長の欠席の理由を説明するためであろうと、それはなりません。この秘密に対する全ての責任は私自身が負います。外部の人々の上に及ぼすかもしれない影響を考えてのことです。ここには書けませんが諸般の状況からみて、また、総長補佐たちの薦めによって、私は上述のことの必要性を確信しております。」(117)
当然のことながら、もし創立者姉妹の一人が総会に出席したなら、総長職の終身制に対する請願は満場一致で主張することはできないであろう。1906年、マドレ・ピラールが能動的、受動的に発言することを禁じられたということが公表されたが、今、決定的に宣言することが必要だと思われた。保護枢機卿はこれを教皇に頼み、それが得られた。(118)   マドレ・サグラド・コラソンを退けることも必要であった。満場一致を確実なものとするためばかりでなく、第二代総長職に関わることを自由に扱うことが出来るためでもあった。(119)
総会に創立者姉妹たちの参加を禁ずるのに、どんな正当な理由が考えられるであろうか?マドレ・サグラド・コラソンは、深く傷つくだろう、また、ローマを留守にするには、自分から枢機卿の許可を頼むべきだと言われた。彼女は自分に強要されることに従い、枢機卿に手紙を書いた。しかし、その短い手紙に彼女は、枢機卿にとって馬鹿げていると思われたであろう理由には触れなかった。

  「キリストにおいて尊敬申し上げる枢機卿様。総会が来年開かれることは存じております。これが行われるまでローマを留守にすることをご許可下さいますよう、そして、閣下の祝福を賜りますようお願い申し上げます。
聖心において、愛をこめてご挨拶申し上げます。枢機卿様の卑しい娘でありはしためであるイエズスの聖心のマリアE.C.J. ローマにて、1911年7月4日」。

マドレ・プリシマ、「終身の」総長

1911年10月15日、マドレ・プリシマは再選された。そして、その同じ日に、正式に終身総長と承認された。全ての共同体からの総長支持の電報の中に、バリャドリードからのものは奇妙な記述を含んでいた。「レアンドラは落ち着いています。水曜に着きます。大変喜ばしい結末です。アスンシオン。」バリャドリードの院長アスンシオン・アグアドは、自分の票を郵便で送る許可を枢機卿から得ていた。「なぜなら、当時その修道院を留守にすることは、その秩序を保つ上で害になると院長は説明していたからです。」これは公式の手紙に書かれてあったことで、私信ではこの警戒の理由が述べられていた。このような厳しい秘密に囲まれた来たるべき総会に対するマドレ・ピラールの心配がそれであった。マドレ・プリシマが終身総長として選ばれたというニュースは、おそらくマドレ・ピラールから強い反応が予期されていたであろうが、実際には何も起こらなかった。「レアンドラは落ち着いています。」この電報は言うまでもなくマドレ・ピラールの外的な反応を指していた。
マドレ・サグラド・コラソンはボローニャで報せを受けた。彼女はあまり驚かなかったであろう。しかし、それは彼女に大きな苦しみを与えなかったことを意味しない。想像に難くないことだが、彼女は総会の幾つかの話し合いのテーマを知っていたと言えよう。そこでマドレ・ピラールに関して公に話し合われるということを。姉の名誉を回復させるために、出来るだけのことをしたが、あとは神のみ旨を受け入れることだけであった。実際、彼女は状況を好転させるどんな試みも無駄であることを、もう長い間悟っていたのだった。彼女は数年前に、たとえ話の口調で姉に話している例の手紙の中でこのことを述べている。

  「若い方は、年上の方の状態を見て、祈りだけでなく、他に出来ることなら何でも大いに努めました [・・・] そして今、明白な証拠を前にして、少なくとも今は、何かよい結果が得られるのは神のみ旨ではないことを確信しています。」(120)

完全な平静さと、常に神のみ旨のみを求める人の平和のうちに (121)、マドレ・サグラド・コラソンは、卓越した手紙の中で、修道会の長上に関する事実を受け入れ、それに従うことを表明した。

 「愛するマドレ、院長とマドレ・マグダレナが私からの伝言をもうお届けしたことと思います。お忙しい時にあなたを煩わせないように、お手紙をお書きしないでおりました。でも、私はあなたのことを主にお委ねし、あなたの大きな十字架を軽くし、重荷を軽くして下さるようにと祈っておりました。
主はそうして下さるでしょう。なぜなら、主は、それに耐える力を与えることなしに、人に重荷を負わせることはないからです。そして、み心にとっても私たちにとっても喜ばしい結末へと導き続けて下さるのです。
日々、よりよく神をお喜ばせし、お仕えする恵みを、神が私たちにお与え下さいますように。これこそ私たちが望むものではないでしょうか。
もうすぐお目にかかれると思いますので、これ以上お書きしません。み心のうちに抱擁を送ります。」(122)

選挙の反響が修道会じゅうに響き渡った。今は統治に参与していないマリア・デル・カルメン・アランダは、今回はいわば「外野」の人々の単純な反応を集めることが出来た。彼女はコルドバにいた。その修道院の院長は、勝ち誇ったような口調で、選挙のことについての一部始終を記した手紙を、共同体に送った。ある個所で次のように記している。

  「完全な沈黙のうちに、メンバーは一人ひとり進んで壺の中に投票用紙を入れました。一人を除いて全員がレベレンダ・マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマの名前を記しました。枢機卿は深く感動し、彼女を私たちの総長と宣言しました[・・・] 枢機卿が文書を読み上げた後、私どもは皆、それが終身のものであるようにとお願いしました。それは大変大きな恵みであって、当時は普通与えられないのだとのお答えでした。けれども、私どもがそれを望んでいることが分かり、彼は前夜教皇聖下にそれを願い出たこと、聖下は修道会に大変満足され、私どもが皆ひざまずき、教皇と聖なる教会の名において、満場一致で願い出ているのをご覧になり、総長を終身のものとして任命されたこと、ただし、これを他の場合の前例とはしないことが伝えられました」(123)

実際、この出来事を共同体に話す時、全ての院長がコルドバの院長のように思慮深さに欠けたなら、総長職の終身制の授与は総会の始まる以前に注意深く準備されていたことは、数日のうちに、修道会全体で誰一人知らないものはないということになったであろう。
マドレ・マリア・デル・カルメンは、選挙の数日後に起ったある出来事をもってその報告を結んでいる。

  「・・・ コルドバの院長がローマから戻り、皆が休憩時間で集まっていた時、彼女はローマで起ったある出来事について話し、私どもの気を引こうとしました。しかし、効果はありませんでした。誰一人興奮しませんでした。そして、彼女がその話を終えた時、姉妹の一人が尋ねました。「それで、マドレスは?」 マドレ・マリア・デ・ヘスス・レバリエタは一瞬ためらい、それから低い声で言いました。「マドレ・ピラールはそこにいませんでした・・・。マドレ・サグラド・コラソンは、お気の毒に、修道会に対する英雄的な愛と、聖人でいらっしゃることの証しをなさいました。でも頭が・・・。」こう言ってそのマドレは涙に咽びました。他の大勢も同様でした・・・。
マドレ・サグラド・コラソンは本当に頭が変だったのでしょうか?このことを耳にする時、私は若い頃何度も聞いたある詩を思い出します。その音楽喜劇には、ベッドに子どもを眠らせたまま仕事に出かけるある田舎の女性が登場します。戻ってきた時、ベッドが空になっているのが分かります。彼女は外へ出て、大声で叫び、息子を探し回ります。彼女を見た人々は、周りに立って口々に言います。「気が狂った、気が狂った・・・ [・・・]。」
大きな悲しみのうちにあった時、マドレ・サグラド・コラソンはときどき口にしていたそうです。「姉と私は幾人かの美しい子どもを持っていました(修道会)そこへプリシマがやってきて、子どもたちを連れて行ってしまいました。まず彼女は私を、それからマリア・デル・ピラールを退けました・・・。」
よく物の分かった人は言います。彼女は頭が変などではなかったと。私はそれを信じます。
マドレ・ピラールはどうでしょうか。やはりおかしかったのでしょうか?修道会がその本当の創立者たちに対してそのように振舞うのを見て驚く人々のくちびるを閉ざすために、『彼女の頭が正常でなかったので』というようなことを言っている者がいるようです。
神よ、あなたは全てをご存知です。そして、あなたが母として修道会にお与えになったかたがたに対して、一部の人々がしてきたこと、今もしていることを、あなたはご存知です!」(124)

第4部 第7章 注

(1)  マドレ・マリア・デ・ラ・パスへの手紙 1903年5月後半。
(2) 1903年6月の手紙。
(3)  1903年6月3日の手紙。
(4) 1903年6月17日の手紙。
(5) 1903年6月16日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(6) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 79-80ページ。
(7) 6月16日の手紙。
(8) 1903年6月20日の手紙。
(9) 1903年7月9日の手紙。
(10) 事実、マドレ・ピラールは、5月16日にローマを出る前に、マドレ・プリシマに願い出てその許可を得ていた。(アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 77-78ページ。
(11)  1903年7月16日の手紙。
(12)  1903年8月10日の手紙。
(13)  マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはコルドバにおり、ポラス家からのニュースを得られる状況にあった。
(14)  1903年7月17日の手紙。
(15)  1903年9月2日の手紙。
(16)  9月14日の手紙。
(17)  1903年9月7日の手紙。
(18)  1903年10月上旬、マドレ・サグラド・コラソンから姉への手紙。
(19)  1903年10月2日、マドレ・ピラールから妹への手紙。
(20)  1903年10月20日の手紙。
(21)  1903年11月5日、マドレ・サグラド・コラソン の手紙。
(22)  1903年10月20日、マドレ・サグラド・コラソン への手紙。
(23)  1903年10月30日の手紙。
(24)  前述の手紙。
(25)  1903年11月7日の手紙。
(26)  マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは次のような表現でこれについて述べている:「・・・ 彼女はさまざまな変革や新たな任命を次々に出して止まることがなかった。ある総長補佐たちはそれを容認せず、それを止めさせようとした。そして、彼女がそれにこだわるのは一層よくないとみていた[・・・]、総長代理は補佐たちがそれを受け入れないとみた時、しばらくそこから手を引き、少し経ってから、この件に戻り、それが得られるまでがんばった。[・・・] 外の人たち [・・・]、中でもイエズス会の司祭たちも、そのように大幅な、そして性急な人事配置はよくないと思った。ある司祭は、私どものためを思って、総長補佐の一人に言った。その補佐役は総長代理にそれを告げた。が、総長代理はこの親切な忠告をよく思わなかった。」(年代記IV 101-103ページ)。
(27)  たとえば、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス がマリア・パス・ロドリゲス・カレテロについて述べていることを参照されたい。「・・・ 総長代理は彼女が総会に行くことを望まなかった。彼女には理解出来ないし、参加する能力もないということであった。彼女は創立者姉妹たちが総会の指揮を執っていないことを大変残念に思った。」(年代記IV 467ページ)。
(28)  マドレ・ピラール史 XⅢ 3ページ。
(29)  マドレ・ピラール史 XⅡ 97-98ページ。
(30)  マドレ・ピラール史 XⅡ 70-71ページ。
(31)  マドレ・マリア・デル・カルメンもマリア・デ・ラ・クルスもこの事実を記録している。マドレ・ピラール史 XⅡ 71ページ、年代記IV 12ページ参照。
(32) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XⅡ 120ページ。
(33)  同上、88ページ。
(34)  ホアン・ホセ・ウラブル師は、1904年8月11日、ブルゴスで亡くなった。彼の死がマドレ・ピラールにとって何を意味したかは計り知れない。「・・・ 私のウラブル師は盛んに私を天国へと招かれます。」と彼女は書いている(1905年6月24日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙)。1908年、兄弟ラモンに宛てた手紙の中で、ウラブル師を失ったことを「この5年間に味わった最大の苦しみの一つ」として回想している。そして、この「模範的な神のしもべ」に、修道会は、「ウラブル師やコタニーリャ師同様にお世話になりました。なぜなら、彼のおかげで私たちは聖イグナチオの規則と会憲、そして、会の認可をいただいたのですから・・・」と述べている。(1908年4月21日の手紙)。
マドレ・サグラド・コラソンはこのイエズス会士を大変尊敬していた。彼にいつも理解されていたわけではなかったが。客観的情報の不足から、ウルエラ師はマドレ・ピラールの初期の総長職に時代に、その誤りを共に分かち合った。後年、マドレ・サグラド・コラソンに対して彼が抱いていた高い評価を、様々な機会に表明した。マドレ・サグラド・コラソンは、彼の死にあたり、「非常に徳の高い方」と評価した (1905年6月8日、マドレ・マリア・デ・ヘスス・レバリエタへの手紙)。
(35)  1904年12月の手紙。
(36)  1905年8月26日の手紙。
(37)  霊的覚え書 55、1903年。
(38)  霊的覚え書 1903年。
(39)  霊的覚え書 62、1905年3月4日。原文では、「Alabaré un día ・・・(いつの日か賛美するでしょう。) 」から「los esfuerzos de los hombres(人間の側の努力)」まではイタリア語で書かれている。
(40)  霊的覚え書 63 霊操第一日の黙想。
(41)  マドレ・アグアド、前掲書、91ページ。
(42)  霊操第二日の霊的手記。「N」というのは疑いもなくマドレ・ピラールのことである。
(43)  霊操第三日の霊的手記。
(44)  ロヨラのイグナチオ 霊操 [108]。
(45)  マドレ・ピラールのこと。
(46)  マドレ・ピラール史 XⅢ、38、39ページ。
(47)  同上。データはマリア・デ・ラ・クルスの年代記 IV 443ページにもある。ヘレスの院長代理、マドレ・マリア・デル・サルバドールは、もっとずっと若い修道女の後任として任命された。
(48)  年代記IV 457ページ。
(49)  年代記IV 458-59ページ。
(50)  この決定は、マドレ・プリシマが以下の三点について枢機卿に送った手紙に対する彼からの返信の中に含まれている。一.マリア・デル・カルメン・アランダの辞任について 二.総会の招集と、これを推し進める機会について 三.マドレ・ピラールの総会への出席について。マドレ・プリシマは文字通りに尋ねている。「元総長のマドレ・ピラールは、聖省により職を解かれています。総会に出席する資格があるでしょうか。マドレ・ピラールが総会に出席すべきか否かを尋ねられた時、どのように答えればよいでしょうか。」マドレ・プリシマの手紙は1905年11月9日付になっている。枢機卿の返信は11月21日付になっている。
(51)  年代記IV 474-75ページ。
(52)  注釈なしにマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはそれに言及している。「マドレ・ピラールが総会に出席出来ないという知らせが入ったのは、院長が、マドレ・ピラールに次いで古参の修道女とともにまさに出発しようとしていた時であった。彼女は全く何の感情も示さなかったということである。」(年代記 IV 478ページ)。
(53) マドレ・ピラール史 XⅡ 103ページ。
(54) マドレ・ピラール史 XⅢ 74ページ。
(55) 公式訪問者との会話に助けとなる点についての覚書、ルイジ・パニオラ師、(ローマ 1906年)。
(56) ビベス枢機卿への手紙。日付はないが、1906年後に書かれたもの。他の覚書に彼女は書いている。「巧妙にも彼女は、希望するものは誰でも、最初の二日間は私に話しても良いと申しました。それは、私の考えと他の会員の考えとを聞いた後、最終日に、マドレを支持する者は安心して攻撃することが出来るからでした。・・・ 私は気が変になっていると皆は言っていました・・・ マドレ・プリシマ以外には誰もいないと言っていました。マドレ・ピラールなら出来るかもしれませんが、彼女も正常ではありません。だから役に立ちません・・・。」(1907年、ボローニャの公式訪問のための覚書)。
実は、マドレ・プリシマは、1901年にドクター・マリアーニからの診断書を手にしていた。マドレ・サグラド・コラソンの列福調査において、調査官のイエズス会士ラモン・ビダゴール師S.J.はこの事に言及した。マリアー二はマドレ・ピラールの不在の間にマドリードで証明書を出した。(一人の人物の健康あるいは病気について証明するのには、実に奇妙な状況である。)診断書はローマの保護枢機卿宛に送られた。十年後にマドレ・プリシマがそれを利用するために取り戻し、1911年の総会の参加者に見せた。(Responsio del Animalversiones 55)。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダも有名な証明書に言及している。「・・・ 専門用語を用いて、[マリアー二] は、マドレ・ピラールのうちに、ある種の精神的弱さが見られると言っています。――確かではありませんが―― [・・・] 書類の記述についてマドレ・プリシマがドクター・マリアー二に説明を求めた際、マドレ・ピラールが精神錯乱にかかっていると言いたかったのではなく、単なる疲れか、それとも脳の、あるいは精神的な疲労にすぎないと言ったのだということでした。このことは私の記憶に残っています。でも、記憶、そして、理解の上で、そして、心で、マドレ・ピラールが苦しんでいたという知らせを持っています。これはマリアー二が無視していたことでした。[・・・] 彼女のような立場にいる人が、生活のどこかで、記憶が薄れていたり、注意に欠けているといったことが見られたとしても不思議ではない。しかし実際には、自分を苦しめていたことや来るべきことを予見して、放心していたり、心配に押しつぶされそうになっていたのであった・・・」。
(マドレ・ピラール史 XIV  54-56ページ)。
(57)  年代記IV 494ページ。
(58)  年代記 IV 500-501ページ。
(59) 1906年5月20日、マドレ・プリシマへの手紙。
(60)  結婚式は5月31日に執り行なわれた。
(61)  1906年5月30日、マドレ・プリシマへの手紙。
(62)  マドレ・サグラド・コラソン、1905年の霊操。
(63)  サラゴサ1906年3月、マドレ・マリア・デ・ラ・ストラーダからの手紙、。
(64)  コルドバ1906年4月16日、マドレ・サン・エスタニスラオからマドレ・プリシマへの手紙。
(65)  ヘレス1906年6月10日、マドレ・マリア・デ・サン・ホセからマドレ・プリシマへの手紙。
(66)  カディス1906年5月8日、マドレ・マリア・デ・サン・ルイスからの手紙。
(67)  1906年4月9日、マドレ・コンソラシオンからマドレ・プリシマへの手紙。
(68)  ヘレス1906年6月10日、マドレ・マリア・デ・サン・ホセからマドレ・プリシマへの手紙。筆写された一節の続きは大変意味深長である。「・・・ 私は四回しか参りませんでしたが、とても私のためになりました・・・。」ここから次のことが分かる。院長がほのめかしていることは、マドレ・サン・ホセを驚かせた。が大事には至らなかった。
(69) 1906年4月8日、マドレ・プリシマへの手紙。
(70) マドレ・マリア・デ・サン・エスタニスラオの報告。
(71) 1906年8月9日の手紙。
(72) 1906年6月29日の手紙。
(73) 日付のない覚書。おそらく1906年5月のもの。
(74) 日付の間違い。マドレは3月5日に出発したことが分かっている。
(75) これらの文は、おそらく1906年7月5日以降に書かれた覚書の一つであろう。
(76) これらの文は2番目の覚書に属すものであろう。これも日付がなく、7月5日以降
に書かれた。
(77) これら最後の4段落は、1906年7月15日付の、第三の覚書に属している。
(78) 日付なしの、そして未完の覚書。
(79) 霊的手記 63。1905年の霊操。
(80) 日付なしの手紙。1906年9月の終わりごろに書かれた。
(81) 日付なし。しかし、ある段落で9月11日に言及している。何年のことか、確かなこ
とは分からないが、同じ1903年のことであろう。
(82) 1907年10月21日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(83) 前述したように、当時、修道者の手紙は開封のまま長上に渡されるのが普通の習慣であった。全員がこの規則を知り、受け入れていたので、院長は、目下の権利を何ら無視することなく手紙を読むことが出来た。時にはそれが不快感を伴うこともあったが。
(84) デラ・キエーサ神父に宛てた手紙の中で、マドレ・サグラド・コラソンは書いている。「・・・ 院長様たちは、私と姉とをまるで牢獄に留めておかれるかのようです・・・。」(1907年4月)。1907年、ボローニャで書かれた、公式訪問者のための覚え書きの中では、「・・・ 姉と私は二人の囚人のように、何の自由もなく、監視され、内部外部を問わず誰とも接触させていただけません。誰かに会うことが許されるのは、彼女たち自身の都合によるのです。信頼もされず、落ち着きも与えられません。そしていつも部屋に閉じ込められ、何もさせていただけません。」(1907年 ボローニャの公式訪問のための準備の覚書より)。
(85) 1903年7月16日。
(86) 修道会の設立に先立つ「出来事」。
(87) 1908年2月24日の手紙。
(88) 1908年4月7日の手紙。
(89) 1908年6月10日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(90) 1907年12月26日、マドレ・サグラド・コラソンからマドレ・ピラールへの手紙。
(91) 1908年6月10日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(92) 1907年12月26日、マドレ・サグラド・コラソンからマドレ・ピラールへの手紙。
(93) 1908年10月6日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(94) 同上。
(95) 1906年9月11日、マドレ・サグラド・コラソンからの手紙、聖フランシスコの書き物からの引用。
(96) 誤り。彼女が別の手紙で説明しているように、彼女は会憲八十二番を意味していた。
(97) おそらく1908年3月2日の手紙。
(98) マドレ・マティルデの手紙もマドレ・プリシマのそれも、マドレ・サグラド・コラソンの列福調査で提出されている。
(99) 1908年4月10日の手紙。
(100) マドレ・ピラールの統治の問題をざっと調べると分かるように、財産管理は長年にわたって論議された問題であった。マドレ・ピラールは自分のケースだけではなく、他の姉妹たちのケースについても、財産放棄に対する総長顧問たちの望みには反対の考えを持っていた。二代目総長はこの件についてある考え違いをしており、それは総長顧問たちの反対により、顧問会の中に生じた雰囲気により深刻なものとなった。明らかに問題の核心は、マドレ・ピラールが両親から相続され、初めから修道会に譲渡された財産への愛着などでは断じてなかった。
(101) マドレ・プリシマの見方によれば、こうだった。というのは、遺言は若い方の創立者が、姉に有利なように作成していたから。
(102) 1908年4月14日の手紙。
(103) 1908年5月11日の手紙。
(104) オトン修士はビベス枢機卿の秘書であった。院長はマドレ・サグラド・コラソンと一緒に謁見に行かねばならないと感じていた。
(105) 1908年6月2日、院長マドレ・レヒナ・アルエから総長への手紙。このことについて、列福調査請願書は述べている。「院長は神のはしためを、そして枢機卿を欺き、神のはしための正当な要求を妨げ、彼女の頭がおかしくなっているとのうわさを広め、あおりたてようとの目論見を示している・・・。マドレ・プリシマはこの罪と共犯することにより、彼と見解をともにしたように思われる。」(Responsio ad animadversiones 76ページ)。
(106) 1908年6月14日の手紙。
(107) 上に引用した、1908年6月14日付の手紙の中で、マドレ・マティルデ・エリセはマドレ・プリシマに書いている。「二日前、彼女は私に言いました。マドレ・バラの伝記を読み、その中で、主が彼女に非常に大きな犠牲を要求された、などなど。そして、彼女の寛大さのゆえに、主は彼女を助け、擁護された、と。そして、それを読んだので、彼女はあなたの全てのお望みを果たす用意がある、と。そして、これは枢機卿にもマルケッティ師にも話さずに行う、と・・・。」
(108) 1908年6月16日、マドレ・プリシマへの手紙。
(109) “Affatto”は「全然」の意。
(110) 1908年6月16日の手紙。
(111) 1908年7月5日付けの手紙。“Coraggio”は「勇気」を意味する。
(112) 1908年10月6日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(113) 実際、マドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンのように、新たに遺言状を作成する必要はなかった。彼女は1897年、修道会の三人のメンバーに有利なように、それを作成していた。おそらくマドレ・プリシマは、マドレ・ピラールが多くの人の名目上の相続人として現われないように、多くの人に遺言を変えさせたのであったが、さしあたって彼女にはいかなる権限も、放棄の行為も要求しなかった・・・。実際、それは無視しよう。
(114) 1908年12月21日の手紙。
(115) 1908年12月28日から1909年1月7日の間に書かれた手紙。
(116) 1911年7月12日の手紙。院長たちの請願は、保護枢機卿の兄弟であるホアキン・デ・リェバネラス神父宛に送られねばならなかった。彼は事を有利に運ぶことに大きな関心を示した。
(117) おのおのの選出会員に個人的かつ私的に送られた召集の手紙は、1911年7月8日付けであった。
(118) その文書は、1911年7月18日付けとなっている。その最後の段落には次のように記されている。「私たちは教皇聖下の名において宣言する。この決定は永続するものである。しかし、純粋に管理上のものである。それは、全ての会員が愛し、感謝すべきマドレ.・マリア・デル・ピラールの名に逆らうものとして理解されることは出来ないし、そうすべきではない。
(119) 列福調査官、イエズス会士ラモン・ビダゴール師はその過程で書いている。「総会ではマドレ・ピラールに反対することが既に決定されていたのだが、総長職の終身制を満場一致で願い出ることをより容易にするためだけでなく、マドレ・ピラールに対して公に不信任案を提出するため、この神のはしための総会への出席を免除することが必須であった。このような公然の非難の中で出席することは、明らかに神のはしためにとって非常な苦痛であったことだろう。事実、総会の議事録に見られる通り、上記の二点が取り扱われた・・・。この総会で創立者姉妹の廃位が完全に決定され、マドレ・プリシマは終身総長の立場へと上げられた。」(Responsio ad animadversiones、38ページ)。
(120) 1908年12月21日の手紙。
(121) 1900年6月8日、マドレ・プリシマへの手紙。
(122) 1911年10月23日の手紙。列福調査の過程でこの手紙への言及がある。「この無私無欲さ、落ち着き、敬虔な心、自己放棄、神のみ旨との完全な一致。これだけでも、神のはしための英雄的な徳を天にまで挙げるのに十分である。」(Responsio ad animadversiones 39ページ)。
(123) 1911年10月15日、マドレ・マリア・ヘスス・レバリエタからコルドバの共同体への手紙。
(124) マドレ・ピラール史 XⅢ 109-11。