第4部 第4章 生きたいしずえとなるために

さまざまな問題から逃れられない苦しい巡礼を経た後、マドレ・ピラールは最終的に、修道会内でのいしずえ(土台石)となるべき地位に着く定めとなっていた。彼女は、妹同様、創立者であった。そして彼女の役割は、土台を深めること、建物全体を支えるために自分自身を埋没させることでなければならなかった。神は二人をいしずえとして選んでおられ、マドレ・サグラド・コラソンは、既に修道家族の建物の深みに自分の位置を占めていた。代わってこの建物の生きたいしずえとなる前に、マドレ・ピラールは大きな打撃を受けねばならなかった。

騒然とした90年代

時代の状況さえも、マドレ・ピラールの統治にとって不利なものになろうとしていた。政治、社会、そして経済が、王政復古期の楽観的な年月に対して、まさにそのつけの支払いを請求しようとしていた。彼女は90年代もずっと会の手綱を制御していた。聖心侍女は、スペイン中に広がっていた。そして、各地の共同体の生活は、破局寸前の混乱の中にある一つの国の変化に直面しなければならなかった。20世紀の初めには、不安を抱かずに将来を展望することは容易でなかった。

非常に賢明な一人の女性が、成年に達したあかつきに王となるはずの王子の世話をしていた。しかし、マリア・クリスティナの賢明さと、平和な政権交代は、政治を安定させるために十分であろうか。解決の可能性は、各地に起こっているさまざまな暴力行為に見られる問題の深刻さよりもっと不透明であった。王政復古の建築家キャノバスは、1897年に暗殺された。翌年、スペインは途方もなく多額の税を払い、パリ条約は、スペインの植民地遺産を清算した。(1)
「1886年の経済恐慌と、テロリズムの頻発の後、1898年の惨敗は、王政復古システムの実行不可能なことと効果の無さを立証した。」(2)
1898年にスペインで事態が悪化していたこと、いや、既にある期間、悪化の一途をたどっていたことは、鋭い政治家でなくとも理解出来た。しかし、全てのスペイン人が「王政復古派」の見方に賛成していたわけではなかった。あるいは少なくとも、彼らはその考えを、実行可能であるとか必要であるとは考えていなかった。多くの人が、国を破局に導いた少数派の指導者を退けたのであるが・・・。ホアキン・コスタのように、経済改革を叫び、緊縮財政を説く者もいた。また、ガニベルのように、過去を懐かしむ者もいた。最後に、刷新のための解決策を受け入れず、単に批判することに甘んじ、自分たちなりの状況分析のうちに、新しい理論を容認する言い分を見出している者もいた。しかし、騒然とし、荒れた世紀末は、一方では実り多いものになろうとしていた。悲観主義は、芸術的な創造の域にまで高められようとしていた。そして、スペイン文学は、近代史の中で最高潮に達しようとしていた。
方向転換が必要とされていた。そして、苦しい抵抗のさなかで、それは、生活のほとんど全ての面で始まった。「こうして、スペインにおける危機的な19世紀は終焉し、革新的なイデオロギ―上の、また、社会的な対策の長い時代へと進んでいった。それは、我々の世紀の30年代における悲劇的闘争的交戦の前兆であった。」(3)
王政復古期に恐る恐る表明された要求 (4) は、世紀末には、抗議やストライキやデモ行進に発展した。だが、不満には確かに言い分があった。「全世界が二十世紀のわくわくする冒険に飛びこんだのに対し、スペインはまだ、旧式の生活様式に捕らわれていた・・・。暦の上では人類が既にキリスト生誕二十世紀を歩み出していると主張したとしても、時代の現実はスペイン国内では知られていないように見えた。二パ―セントの持てる者が、四十七パ―セントの耕地を所有していた・・・。」(5) 植民地を失った後、多くの資本がスペインに戻り、それでスペインは産業を支援すべきであった。しかし、発展は、外国の人材、発明や製造のための特許、機械、原料などの重要性に強く影響されていた。その富は、国民、特にある地域の国民の大多数を潤すことはなかった。(6)
世紀末にはまた、反教権的な態度の硬化がみられた。中流階級の盲目さ、または自己中心的傾きが、大多数のスペイン国民の問題を覆い隠していた。多くの聖職者は中流階級内かそれに近い位置にいた。そのため、彼らと国民の間には越えがたい障害が置かれていた。これに加え、あるグル―プ、または運動の無知と関心が、聖職者と反聖職者の対決に必要なものを全て提供していた。国民の騒動――叫び声、侮辱、殴打、投石を伴う――が、一見もっと文化的なレベルでの激しい論争に比べて、より暴力的でなかったかどうかは知るよしもない。王政復古期と同様、この時期の大きな問題の一つは、子どもや青少年の教育であった。この分野で、出来事や逸話の域を越えて、俗世間とキリスト教の間に激しい戦いが起こった。その闘争は、主として、王政復古期にヒネール・デ・ロス・リオスによって創設された無料教育施設(1876)と、民営部門の八十パ―セントを占めるカトリック教育を巻き込んでいた。(7)  ビセンス・ビベスが断言するように、大部分の教育基金は、「中流階級と国の指導者たちの霊的な再征服」(8) のために充てられた。しかし、大多数の修道会も下層階級、少なくとも町のそれ、に捧げられていた。十分に評価されていないとはいえ、これも事実である。彼女たちの教育機関は、確かに教育に於いて、あまり高いところに達しはしなかった。しかし、字の読めない国民が恐ろしく多かった一つの国と時代に於いて、それ以上のことは期待出来なかったであろう。(9)
さまざまな歴史的状況が、マドレ・ピラールの統治における出来事の展開に影響を及ぼしたと言っても過言ではない。彼女と総長補佐たちがどれほど政治と関わり合わないようにと願っても、それを避けることは事実不可能であった。戦争の脅威がマドリードの共同体を恐怖に陥れようとしていた。また、それは、アスペイティアの創立にも影響を及ぼした。すなわち、主としてそれをマドリードの修練院の避難所として使えるものとする、という考えに立っていた。修道会の財政状態は既に不安定な状態だったが、植民地を失った後、キュ―バの資産が下落したため、大きな痛手をこうむった。街頭での反聖職者集会は、時々オベリスク街の修道院の門前でも行われた。(エレクトラの初演)・・・ マドレ・ピラールの統治をより困難なものとしたこれらの出来事のいくつかを、後ほど手短に見ることにしよう。彼女は、その能力と、正直さに対してさえ完全に不信を抱いていたチームが巻き起こす出来事に直面しなければならなかった総長の一人であった。

「・・・ 顕示された聖体のうちにおられるイエスを礼拝することと
教育を結びつけることによって、どれほど私たちは主にならう
ことが出来ることでしょう・・・」

ロ―マに戻るとマドレ・ピラールは各地の共同体の訪問を開始した。彼女は、初期の統治の行動に反映されていた楽観主義を既に失っていた。しかし、自分に課せられた義務だと信じていることを遂行する強固な意志は失せていなかった。1896年1月26日、セビーリャの教会の落成式が行なわれた。そこの修道院はその前年に創設されていた。その年の9月には、1894年来カディスにあった二つの共同体が住んでいる新しい建物に、学校が開かれた。セビーリャとカディスはマドレ・ピラールにとって大きな頭痛の種であった。そして、妹の統治の間には自分自身の考えを表に出すことに慣れていた当人にとって、自分の意志を打ち砕く大きな要因となっていた。カディスの学校はまさに障害物競走そのものだった。開校後1年にして建物は傷みが激しくなり、それを放棄する以外に打つ手は無かった。教育事業、あるいは、一般に、新しいことをあまり支持しなかった総長補佐の何人かは、困難を前に呟きはじめた。彼女たちは、学校という活動の発展を阻止する神の摂理的計画を、これらの困難の中に見てとったのである。マドレ・ピラールは沈着であった。過去にみられた頑迷さからではなく、信仰から生まれる確信から来ていた。そして、彼女の行動にはこれまでにみられなかった柔和さが溢れていた。「・・・ 神に感謝しましょう。試練を短くなさるのも長くなさるのも、神のみ手の中にあるのです。もし私たちが、神のみわざに信頼するなら、奇跡を行なってでもそうなさるでしょう・・・。」(10)
マドレ・ピラールの統治に対する総長補佐たちの反対の最も苦痛に満ちた点の一つは、この学校に対する抵抗であった。これは非常に多種多様な考えに基づいていた。おそらくマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、誤解された伝統の最大の支持者であった。しかし、彼女によって表明された意見は、何らかの方法で、他の顧問たちに支持された。このように重要な事柄に関するマドレ・ピラールの考えは、彼女の手紙の一つにはっきりと述べられている。

  「どうしてだか分かりませんが、私は教育に対する望みをますます強く感じます。妹と私がカルメル会に入ることを断念したのは、コルドバで学校を始めるためでした。その時、私たちは、そこに神のみ旨を見ました。そういうわけで、ウルエラ師が、私たちの指導司祭方に会い、フランス革命のためにセビーリャでは歓迎されないフランスの修道者たちのことに言及された時、私たちの要請により、司祭方はその修道会に、学校を開くように願われました。彼女たちはこの願いに応じませんでしたので、彼女たちとの間に分裂が生じました。他にも原因はありましたが、少なくともこれは明らかな原因でした。主から与えられた第二の導きは、コタニーリャ師でした。師は、私たちのためにお書き下さった小さな会憲の中に、何をさて置いても学校をお入れ下さいました。それに伴って持ち上がってきた困難にもかかわらず、それはまだ残っています。[・・・] 私は主のなさりかたに従っています。そして、顕示されたご聖体のうちにおられるイエスを礼拝することと教育を結びつけることによって、私たちがどれほど完全に主に倣っているかを思うと、私は力づけられます・・・。」(11)

「非常に世俗的な時代」にだけふさわしい世俗的なものとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスがみなしていた仕事――教育――は、マドレ・ピラールにとっては、非常に大切で、高貴な仕事であり、「主イエス・キリストのご生涯の特別な型を作っているもの、なぜなら、主の隠れたご生活の目的は、この教育という聖なる使命のために [・・・] ご自身を準備することでしたから・・・。」(12) マドレ・ピラールは、キリストの真の現存であるご聖体のそば近くにいること、すなわち礼拝への献身を軽視するつもりはなかった。それどころか、彼女は、ご聖体の前での祈りを、教育という使徒職のためのエネルギ―源とみなしていた。「・・・ 会員がもっと増えれば、聖体礼拝と学校がどれほど美しく結ばれるかが分かるでしょう。なぜなら、二つの目的が交互に功を奏するでしょうから。子どもたちと接する上での疲れや同情が、主のみ前にもたらされ、それから [・・・] 主のもとでいただく祝福と光が、クラスや子どもたちの世話にもたらされるでしょうから・・・。」(13)
このように、総長の考えは補佐たちのそれとは異なっていた。しかし、補佐たちの考えも、一つにまとまったものではなかった。しかし、彼女たちは、当時のあらゆる困難の根っこにあり、マドレ・ピラールに対する見方を大いにゆがめるものとなった恐れという点で皆一致していた。このことから、彼女たちは、総長が「霊的な事柄」に対して十分コミットしていない、また、会の中に広がってきている俗世間的な活動に対して過度な関心を抱いている、ということを危険視するに至った。
ある時、マリア・デル・カルメン・アランダは、カディスの学校にふりかかった災難についてマドレ・ピラールに手紙を書いているが、その語調は、ほとんど叱責にも似たものだった。というのも、彼女はその出来事のうちに神の摂理的な働きを見ていたからであった。あまりにも多くの障害が起きたことから、会の中でのこの活動を、神がおそらく望まれていないのではないか――マドレ・マリア・デル・カルメンは示唆していた――。マドレ・ピラールの答えは、以前の抑制を欠いたものとは異なり、彼女の中で働いている成熟への過程を他の何よりもよく表わしている。

  「・・・ 学校に関しては、もしかすると神のお望みではないかもしれません。けれども、反対があるからといって必ずしも神のお望みではないと言えないのではないでしょうか。修道家族の存在が一つの証拠です。それは、矛盾から生まれました。そして、主の聖心の幸いなる御傷から受けたあらゆるいのちの流れに先立つものとして、破壊的な地震がありました。そういうわけで、困難を前に当惑する時、私は降参しません・・・。」(14)

「私は自分の性格を征服しようと努めています・・・」

統治に於いて自分の活動の可能性がますます制限されてきていることにマドレ・ピラールが気づき始めていた頃、総長補佐たちに対するマドレ・プリシマの影響は強くなってきていた。彼女は第一の総長補佐であると同時に、マドリードの修道院の院長、修練長、第三修練長でもあった。こうして彼女は会の統治をたぐる糸を手にしていたばかりでなく、意見開陳の手段をほとんど無制限に有していた。また彼女は、台頭してくる機会をよく利用したと言えよう。マドレ・ピラールの権威と信望を徐々に弱めていったマドレ・プリシマのもくろみは何だったのだろうか。彼女が悪い意向を持っていたと考える必要はないが、彼女が自分自身の資質や能力を非常に高く評価しており、会の中で、他の誰も自分の役割を果たすことは出来ないと次第に確信するようになったことは認めなければならない。マドレ・プリシマのこの確信が強まるのには、状況が助けとなった。当初より、彼女は創立者姉妹たちから高い評価を受け、責任ある地位を与えられた。また、マドレ・サグラド・コラソンからマドレ・ピラールへの統治の変化にまつわる悲しい出来事を通して、「会の柱」としての評判を保持することに成功していた。マドレ・ピラールの存在にも関わらず、彼女は会憲の起草とその認可のための交渉に於いて、主たる役割を演じた。会憲の忠実な遵守に対する熱心さに燃え、あまりにもリベラルだと自分たちが判断した総長について危惧を抱いていた総長補佐たちの目に、マドレ・プリシマ は、会憲の擁護者として映っていた。
この考えに動かされ、補佐たちは、道理にかなったあらゆる限界を超えて、マドレ・ピラールに反対しようとしていた。総長は、会の中であまりにも大きな影響をマドレ・プリシマに与えている任務の幾つかを、彼女からもぎ取ろうと思った。「もぎとる」という表現は、ここで使うのに強すぎることはない。というのも、マドレ・プリシマと彼女の支持者たちは、彼女の任務を保つために、マドレ・ピラールと同じくらい奮闘していたからである――もっとも反対方向にではあったが――。信じられないことと思われるかもしれないが、事実、どちらの側も本当の理由を示さなかった。マドレ・ピラールが望んでいたことは、マドレ・プリシマの影響を抑えることであり、反対者側の意向は、マドレ・ピラールの影響に対して、マドレ・プリシマのそれを確かなものとすることであった。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはこの二つの立場の中間に位置していた。(15) しかし、彼女でさえマドレ・ピラールに不信を抱いていた。というよりはむしろ、証拠もなく言われているマドレ・ピラールの無気力さに対してであった。(16) 考えられないことであるが、総長の行いは、その最も個人的な事柄でさえ、絶えず監視と批判にさらされていた。にもかかわらず、その批判は――最高の賞賛でさえなし得なかったであろう仕方で――彼女の真の徳を表わしていた。マドレ・マリア・デル・カルメン自身、マドレ・ピラールが祈りを好まない、と決め付けることで、補佐たちはとんでもない間違いをしたと認めている。というのは、祈りなしに「彼女は、謙遜、忍耐、苦行(これについては後述する。また、彼女は絶えずこれらを実行しなければならなかった)といった徳を実践することは不可能であったことだろう・・・。」(17)
彼女の「謙遜と忍耐」の証拠として、マドレ・マリア・デル・カルメンはマドレ・ピラールからの何通かの手紙を保存していた。「敬愛するマドレ・マリア・デル・カルメンへ。 昨日お手紙受け取りました。よいご旅行がお出来になったことを神に感謝します。マドレがご自分のあの欠点について私にお話しになるのにずいぶん苦しまれたことが分かり、申し訳なく思いました。察しがおつきにならないかと思いますが、このことがどれほど私のためになったことでしょう。私はいつもどれほど喜んでこれらのことを受け入れていることでしょう。今、私はほとんど戦う必要がございません。それで熱心さが与えられます。」(18) 手紙の続きから察するに、マドレ・マリア・デル・カルメンは、マドレ・ピラールの激しい、どちらかといえば偏った発言をいさめたようである。「他方、私は激しい語調で話すことから益をこうむっています。なぜなら、私をよい人間だと思うことは、別に他の人々にとって益とはならないので、私をありのままに出すほうが、値しないのに尊敬を得ることより良いと考えることで私はほっとします。私は性格を征服するよう努めていますが、それは、自分の内面から出てくるものです。どうなりますことやら。これは力の要る難しい仕事です。お祈り下さいませ・・・。」(19)

「私の望み、それはたいへん強いものですが、その望みをもって皆と一緒に働きます・・・」

ロ―マでマドレ・サグラド・コラソンは、ただ神のみ心の中でだけ、自分の物語を書く仕事にまだ従事していた。

  「私は救われるために生まれたのだということを、きっぱりと確信していなければならない。私は神のものであることを。そして、私は神のものであるから、強い敵は私の自我である。それは、神のみ旨に逆らって働き、私を破滅させようとする。このみ旨が今、私にどのように表されるかを知っている。それで、私は目覚めた時、そして、一日の間しばしば、「主よ、取りたまえ・・・」とだけ申し上げている。そして、私に起こる全てのことを、神の愛のみ手から受け取っている。というのは、経験から私は、神がどれほど私を愛しておられるか、そして、生まれた時からずっと世話をして下さったことを知っている。困難で暗い時は、信仰を奮い起こし、私をたいそう愛して下さっていると知っているお方、すなわち神のみ腕の中にとびこんでいく。経験で分かるように、神は、私に試練をお与え下さる理由を分からせて下さる。私はいつも確固としてみ旨を果たさなければならない。日ごとますます完全に。その他は、他人に扱われるままになること。たとえ、後ろ向きに、あるいは上下さかさまに歩かされるように思われても。というのは、主の道は理解しつくせないから。神は曲がった線からまっすぐな線を引くこともお出来になる・・・。」(20)

「そう、私は神のためだけに行動することと、どんな犠牲を払っても、他の人々の目から隠れて生涯を過ごすことを、確固として望まなければならない・・・(21)
「私は全く神のものである。だから、神は私をお好きなようになさらなければならない・・・。全ての出来事に於いて、私は神のものです、といつも申し上げ
ねばならない・・・。」
「・・・ 全ての良いものを大きな感謝を持って受け入れること、まだまだ私にはそれが足りないが。そして、神の自然的、超自然的賜物を尊重すること。ま
た、苦しみは私の重病を治す薬として、大いなる従順と感謝を持って受け入れること。そして、それらを二次的な原因に帰さないこと。そうすることは、愛徳を
危険にさらすことになるから。」
「・・・ 私が人々の目には役立たず、無価値なものに見え、皆が私を軽蔑し、忘れ去ったとしても、悲しみの道をキリストの後に従って歩むという大きな望み
を持つこと。それが神のみ旨であると分かる限り、私はそうするだろう。私は神のものではないだろうか。それなら、私が神のご計画に不信を抱くはずはないの
ではないか。」
「・・・ イエスは私から、仕事、光、あるいは他の何物もお望みにならない。
私の願い、望み、意見の全てに死ぬことだけをお望みになる・・・。」(22)

マドレ・サグラド・コラソンに関する知識がこれらの手記に限られている人は誰でも、彼女の生涯が神の意思に従っていたとしても、彼女が人々との共存に対する関心からいくらか切り離されて生活していたと考える誘惑に陥るかもしれない。しかし、これは事実とは程遠いものであった。これらの書き物の中には、人々の役に立ちたい、助けたい、理解したいとの彼女の明白な望みが見出される。

  「・・・ 最後の晩餐で主は私たちに、主が私たちを愛して下さったように互いに愛し合うようにとおっしゃいました。モ―セの掟によると、私たちは、隣人を自分のように愛さなければなりません。そして、もっと完全な愛はこれです。主がご自分の命を与えて下さったように、私たちも主のために命を捧げることです。[・・・] もし私たちがお互いを喜ばせようと決意し、黙って互いに忍びあうなら、この世は楽園になるでしょう・・・。」(23)

「わが心のイエスよ、御身のすばらしい諸徳だけのために備えられた、大きく寛大な心を私にお与え下さい。そして、あらゆる悪徳、とくに、謙遜と愛徳に背く悪が入り込まないように、全ての戸を閉ざして下さい。」
「・・・ 心の中で全ての人を敬うこと、そして、その人々が皆尊敬されるのを望むこと。出来る限り、その人々に、外面的にも敬意を表すこと、ただし、いつも単純さをもって。」(24)

「全ての人が尊敬され、賞賛され、愛されることを、そして、私自身は辱められ、軽蔑され、脇へ追いやられることを、心から喜ぶこと。人目につくのは、ただ、笑いものにされる時だけであること・・・。」(25)

マドレ・ピラールが修道会の統治に奮闘し、総長補佐たちの反対のために、半分も成功していなかった時、マドレ・サグラド・コラソンは、明らかに神がお許しになったために生じているその尋常でない状況を受け入れることによって、彼女は自分が神のためになし得る「最高のわざ」を行っているのだとの確信を強めながら、外的な活動停止状態の中で落ち着きを保つように努めていた。彼女は修道会の総長職を辞していた。しかし、母の心は捨てられなかった。個人的な成聖に対する望みも、全て、神の賜物を姉妹たちと分かち合いたいという望みであった。ある意味で彼女は修道会の聖性に対して責任を感じていた。彼女は、全ての聖心侍女の使命に協力したいとの望みを、恵みを寛大に受け入れ、それが豊かな実を結ぶように努力することと解釈していた。

  「・・・ これまでにないほど熱心に、聖人となる望みを更新しなければならない。どんなことがあっても、どんなに困難であっても、私は聖人にならなければならない。神は私からそれを望んでおられる。そして修道会も・・・。」(26)

「・・・ 神が私に歩ませたいと望んでおられるように思われるこの尋常でない生活の中で、主が私の上にお望みになることはどんなことに対しても不偏の心を持たなければならない。それは私にとって辛いことである。私はどちらかといえば働きたいと望む・・・。」
「・・・ 私は人々の魂の救いのために真剣に祈ろう。この決心を緩めることはしないつもりだ・・・。」(27)

彼女の霊的手記の中に表れる、修道会に対する全ての望みは、その年月の間にいろいろな姉妹たちに宛てて書いた手紙の中にも見ることが出来る。「忘れるですって!今でも、以前でも、これからも忘れません!あなたは私の骨の骨、肉の肉です・・・。」と彼女は年配の聖心侍女の一人に書いている。(28) 「私はいつもあなたのため、そして皆のために祈っています。あなたはそう思わないかもしれませんが。そして、あなたを愛しています。神だけがご存知です。」(29)

  「私は、修道会の中で、神の栄光に対する熱意を燃やして下さるように、また、神の愛のために苦しみを経験するように、もし大きな喜びを持って受け止めるものを苦しみと呼ベるならばですが、一日に何度も主にお願いします。値しないにもかかわらず、一人ひとりを、主に少しだけでも栄光を帰すようにと、その賢明なご計画によってお選び下さったイエスのみ心は賛美されますように。私は文字通りの意味では何もしていません。ただ、大変強い望みを持って、皆と一緒に働いています。そして、それよりももっと先へ進んでいます。主がご存知のとおりです。」(30)

「あなたにも、他のどなたにもお手紙をお書きしませんが、イエスのみ心の中に、決して消し去られることのない文字で、長く書いております。それは、主ご自身が私たちにお教え下さった書き方によるからです。」(31)

「主のみ前で、どれほど私は打ち砕かれた心で多くのことを思いますことか・・・!」

日増しに、そして、年ごとに、修道会の総長としてのマドレ・サグラド・コラソンの姿は、多くの人の――心からでないとしても――記憶からは薄れてきていた。しかしながら、神の目に於いてだけでなく、あれほどの暗闇に包まれた生涯を、恨みの心を抱くことなく受け入れた人物の、真の偉大さを知る特別な理由を持つ人々の心の中で、彼女の姿はだんだんと大きさを増してきていた。
こういう人々の中にマドレ・ピラールがいた。妹のいわゆる不安定な状態についての巷の批判の一部を彼女が信じたことは事実である。しかし、心の深いところでは、妹を尊敬したばかりでなく、妹が英雄的な剛毅をもって耐え忍んだ大きな苦しみに対して責任を感じてもいた。感情的ではあるが、生まれつき高潔な人であったマドレ・ピラールは、多くの機会に、自分が悪かったということを表明し、自分の多くの悲しみをもってしても、過去の過ちを十分償いきれないと言っていた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙――彼女の助言に対する返事――の中で、マドレ・ピラールは自分の心を注ぎだしている:

  「私が心の中で感じる自己卑下と痛悔が、私の唇と、神のみ前で私が抱いている自分についての認識を閉ざすことがなかったとしたら、私は自分にされてきた多くの非難を、もっとしつこくあなたに向けることでしょう。[・・・] でも、私は今与えられているものよりもっと大きな罰に私が値することが分かっておりますから、あえて自己弁護は致しません。また、時々私は話し始めると後へ引けなくなりますし、また、手紙を書く時でさえ、あえて愛徳や賢明さに欠けることはしたくありません。それで、神の恵みに助けられて、経験が私に与えてくれている全ての光で、神が、み心のままに、あなたの理解を照らして下さることを願っております。あなたが私の苦しみのために悲しむことがないように申し上げます。主は(疑いもなく私の弱さのゆえに)私を忍耐強く親切に扱っていて下さいます。[・・・] それで私は、毎日、奴隷のように主の御足を抱かずにはおれません。これが私のいちばん信心を感じる姿勢です。他に何の望みも抱きません。主は私を忍耐し、力づけ、赦して下さいます。・・・ ですから、私に同情なさらないで下さい。ただ、私は自由にお仕えしたいのだと神にお伝え下さい。ケンピスが書いているように、造られた全てのものに於いて、また、全てを超えてそうしたいのです、と。」(32)

この長い手紙――ここではほんの一部しか引用していないが――の中でマドレ・ピラールは、はっきりと言明してはいないが、シムイに侮辱された時のダビデ王の態度のことを考えているように思われる。(サムエル記下16,11―12) 彼女の後悔の中でマドレ・サグラド・コラソンの記憶は鮮明であったが、時を経るにつれてそれはますます明白になってくるのであった。

  「・・・ おお、エルマナ、あなたも、そして、関わりのない人は誰も、会の内部の統治に隠れている裂け目を理解することは出来ません。ルデシンダさん(33)、わが主のみ前で、私はどれほど深い痛恨の心でいろいろ思い出していることでしょう!慰めはと申しますと、全てを望み、さらに望ましいことに、私どもの運命をもお望みになるお方の御目には、被造物の目から隠されていることは全て明らかであるということです。全ては神に感謝することにつきます。神が私に与えて下さっていると思われる光を受け継ぎ、よく利用することが出来ますように!・・・」(34)

マドレ・サグラド・コラソンが活動停止の殉教、無益とみえる年月の空虚さをわが主に捧げていた時、彼女は、自分の思い出、その苦しみの現実が、姉を昔の過ちから解き放ち、謙遜の土壌に深く根を張るのを助けていることに、おそらく気づかなかったであろう。もしそのことを知っていたら、マドレ・サグラド・コラソンはこの世で与えられ得る最大の人間的補償を受け取っていたことであろう。
この時期のマドレ・ピラールの手紙の中で、おそらく最も心を打つのは次のものであろう。

  「私が十分な信頼を持ってお手紙をお書きしないことについて:確かに、私は彼女たちに何も隠しだてはしません。(35)  修道家族に関することだけでなく、私自身の多くのことについてさえです。でも、(私はそれを役職のせいにしたくはありませんが)私を助け、偏見なしに行動すべき人々が、私に対して偏見を抱き、意見を言ったり、何かについて口を開く前に、光を探すこともなく、自分たちの間で合意に達している、というのは、一人ひとりは誰か導き手がいて、しかし、互いに支えあうために、などなど・・・ということの証拠をつかむ時・・・。(36)
また時々私は、皆から信頼されている、権威のある方々に助けを求めました。そのかたがたの返事から、私は彼らの偏見や、私について言われているひどいことが分かりました。この全てが押し寄せるのを見ました。そして私はそれを防ぐために何かしたいと思いました。私自身のためではありません。私が何だというのでしょう。修道家族がしっかりと根付くためです。主は会がうまくいくことを望まれませんでした。全てに於いて主は祝せられますように!神は救済策を与えて下さるということに対する私の信頼は増しています。神だけが方法をご存知ですし、お出来になります。なぜなら、前にもいろいろな機会に申しましたように、必要に迫られている人、心の純粋な人は天に向かって叫びます。全てのものの主は、全てを神に信頼し、神からいただくと希望する、打ち砕かれた謙遜な人々の心以外に、何をお望みになるでしょうか。実際そういう人々がいますし、神のみ心をお喜ばせすると思います。でも、今の立場に置かれているルデシンダのような方は大変少ないです。」(37)

「あなたのことを覚えていますと言わないでいられましょうか?」

1896年から98年までの間に二人の創立者姉妹の間で交わされた書簡は、まず第一に、マドレ・サグラド・コラソンが会の統治時代について何ら苦い気持ちを抱いていないこと、そして、マドレ・ピラールが、以前にはその強い気性によって見えなくされていた愛情を示そうと努めていたことを示している。第二に、その頃マドレ・サグラド・コラソンは、姉が経験しており、当面はそれを表したくないと思っていた困難に気づいていなかったことを示している。マドレ・ピラールの自制はいくつかの理由から説明がつく。以前彼女は大反対を示した。それで、今、妹を信頼することを難しく感じるのは当然のことであった。(彼女が動かされたのは恥ずかしさからか、臆病からか、恥によってだろうか?)総長が妹の不安を増大させることを恐れて行動していたことは考えられる。なぜなら、ロ―マの院長たちから届く報告によれば、彼女が心を騒がせ神経質になっているということだったからである。しかし、これは当たっていない。マドレ・ピラールがマドレ・サグラド・コラソンに手紙を書く時は、ごく自然な表現を用い、事実を述べ、完全にバランスの取れた人物にだけ示すことの出来る理由を提示していたからである。
会員の病気、死、新たな創立など修道会内のニュ―ス、また、家族に関するニュ―ス――兄弟や甥たちのこと――などを伝えるとともに、マドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンが知人たちから愛情をもって記憶されていることを、注意深く伝えていた。「ホセ・イバラ師、マヌエル師、ホセ・バロ師からよろしくとのことです・・・。」(38) 「カディスでイサベリータに会いました・・・。たびたび手紙を書いてあげて下さい・・・。」(39) 「甥や姪たちがどれほど私にあなたのことについて尋ねることか [・・・] そして、どれほどあなたに会いたがっていることでしょう。」(40) 「イシドロ師から私がお祝い日に書いたカ―ドの返事が来ました。その中で、彼が特別に祈っている人々の中に私たちが入っていることを伝えてほしいとのことです[・・・] ラ・コル―ニャ出身のヘスス師は、ぜひあなたに手紙を書くようにと私に願っています。彼は決してあなたのことを忘れず、あなたのために祈りと犠牲をお捧げしています。そしてあなたからの手紙を待っています。こちらのゴメス師 (41) はとても熱心にあなたのことを聞いて下さいます。そして、あなたのことをとても高く評価しているとおっしゃっています・・・。」(42)
マドレ・ピラールから送られてくる全てのメッセ―ジの中で、幾つか特に感動的なものがある。「愛する姉妹へ:お返事を書こうと思いながら何日も過ぎました。とても時間が取れません。でも、今日はどうしても書かねばなりません。というのは、エルマナ・ビクトリアが、死期が近づいていることをあなたに知らせてほしいと言っているからです。彼女は煉獄で過ごす時間が最小限になるよう、あなたの愛に期待しています。彼女は自分であなたに手紙を書きたかったのですが、床についてから力がありません。そして、毎日病状が悪化しています。もう自分では書けません。これは事実です。もう今日は死の兆候が見えます。皆は彼女がマリア・タベルネロのようだと言っています。ありがたいことに、彼女は天使です。あなたの想像に違わず、模範的な状態です・・・。」(43) 死後までもマドレ・サグラド・コラソンの愛に信頼を置いたことをみれば、どれほど皆が彼女を愛していたかが分かるであろう。
マドレ・サグラド・コラソンがロ―マで置かれていた状況の困難さの中心は、自分の生涯が一見何の役にも立たないのではないかということであった。:「あなたがカルゴ(院内での責任ある仕事)を求めておられることを残念に思います――マドレ・ピラールは彼女に書いている――。私に関する限り、あなたはずっと以前にそれを手に入れていたことでしょう。でも、会の善が優先だったと皆は申します。こんなふうにあなたに心配をかけることは良くないと思います [・・・] 物事が思うように得られないことについて、私は今少し学んでいます。私たちは心配することをやめなければならないと思います。長い苦しみ、忍耐、そして神のほうに目を向けて全てを耐え忍ぶこと、これが、今私の求めているものです・・・。」(44) マドレ・サグラド・コラソンの返事が、彼女の望みについて、より明らかな光を与えてくれる。「セビーリャからのお手紙の中で、私があなたにカルゴをお願いしたと書いておられます。そうだとすると、私の説明不足でした。私はどんな変化もお願いしておりません。――私が言いたかったのは――ただ、普通の仕事から、どのような区別も免除もあってはならないとの命令を与えて下さるようにということでした。万事に於いて皆と同じであること。私が望むのはこのことです。あなたと院長様と副院長様に何度も申し上げました。ウラブル師がここにおられた時、何とかしていただけるよう、彼にもお願いしました。師は、それがイエズス会の精神だから正しいとお考えになりました [・・・] でも、希望を申し上げましたので、私の心は平和です。苦しみが無いわけではありません。なぜなら、自我ではなく、規則にのっとってなされる卑しい仕事、それは自己満足ではなく、甘い香りを放つのですが、それが修道生活の中であまりにも評価されていないことが分かるからです。」(45)
元総長が、会の統治に関して全く知らされない状態に置かれていたことは、彼女にとって大きな十字架であった。それで、時にはマドレ・ピラールに助けを求めた。時たま彼女が妹のことを、他の場合にあてはまる事実に基づいて判断したことでマドレ・ピラールを責めることは出来ない。ある時彼女は、カルゴに関する妹の節度を欠いた望みについて、自由に発言している。「同様なことは、政府の中でと同じように修道会の中でも起こるということを確信なさい。[・・・] 政府が恣意によってではなく、既成の法律によって統制を是認する時、それは尊敬され、愛されます。そして、国民は喜んで従います。なぜなら、国民は政府の限界と、行きつくところを知っているからです。しかし、政府がある日譲歩し、翌日計画を変える、あるいは、ある人に同意し、別の人を拒むなら、ある嫌悪感や悪感情が生じます。なぜなら私たちは人間だからです。そして、このことは魂を苦しめます。」(46) 事実、この頃までには、マドレ・ピラールは自分の決定の成り行きを自分自身経験していた。しかし、多くの場合、彼女は総長補佐たちによって自分の活動がはばまれ、自由が無かったのである。
1897年の夏、マドレ・ピラールは、その数ヶ月前妹に話していたバリャドリードの創立について、ロ―マの共同体に書簡をしたためた。マドレ・サグラド・コラソンからの一通の手紙はおそらくこの件に関するものであろう。「創立は召命の手段になりますから、私はとても好きです。ここでも始められればと思います。残念ながら、ここはとても行き詰まっています。召命はありません。そこの会員たちも、とても役立ってはいますが、熱心に働くことによって神に栄光を帰してはいません。そのことは、若い人々にとって正しいことですし、皆が望むことなのですが・・・。」(47)
バリャドリードの院長の名を聞いた時、マドレ・サグラド・コラソンは次のように書いている。「あなたは何と元気のない院長たちを置こうとしていることでしょう。レデンシオンは聖人ですし、賢明です。でも [・・・] 彼女はそちらで何か役に立つのでしょうか?マドレ・マリア・デル・サルバドールをこれ以上続けさせないで下さい。あの方はとても値打ちがあります・・・。」(48) マドレ・ピラールは返事として書いている。「マドレ・マリア・デル・サルバドールは元気だとお思いですか?私は彼女をセビーリャに送りました。そこで彼女は一年近く元気でした。でも、三ヶ月前、弱ってきました。[・・・] 彼女はあちらでとても幸せで満足しておりました。でも今は、先ほど申しましたように、また具合が悪くなっています。私にはそのように思われます。どうすればよろしいでしょうか。バリャドリードでレデンシオンの代わりとしては、ゲルトルードとグァダルペとコンソラシオンの姪がいます。[・・・] マドレ・マリア・デル・サルバドールを使うことが出来ればいいのですが・・・。」(49)
総長に宛てた手紙の中で、マドレ・サグラド・コラソンは、ロ―マの修道院の状況と、マドレ・パトロシニオの限界についてたびたび言及している。「ここであなたにお書きしていることは、全てあなただけのためです。あなたの助けになるため、あなたは知るべきだと思いますから。」 修道会の使徒的性格に否定的な影響を及ぼす可能性のある幾つかの点をおろそかにするという、彼女の傾きを示す一連の詳細についてマドレ・ピラールに書いている時に、マドレ・サグラド・コラソンはこのことを書いている。(50) マドレ・ピラールは返信に書いている。「パトゥロシニオのことですが、彼女は決して世界を燃え立たせたりはしないでしょう。 でも、院長たちが、彼女のように頼りがいがあり、辛抱強いのは良いことです。・・・ あの場所はとても不便です。でも、最悪なことに、神は他の場所のためのお金を用意しては下さいません。施しのためには少しあります。修道会は豊かになってきてはいません。疑いもなく、それは、堅固な霊性の助けとなるためです。というのは、豊かさは虚栄心をもたらします。とくに、新入会員たちにです。ですから、私は事態を心から受け入れ、必要なものにも事欠く状態に満足しています。」(51)
ここまで往復書簡にざっと目を通したが、その結びとして、創立者姉妹たちが1897年に互いに交わした挨拶を集めてみよう。聖心の祝日の前夜にマドレ・ピラールは書いている。 「・・・ 昨日ここまで書きました。今、あなたのお祝い日にちょうどあなたのところに着くでしょう。それがこの手紙の主な目的です。私たちの間で儀礼的な挨拶を交わすことが好きだからではありません。私があなたのことを思い出していると言わずにおれましょうか?そのことを疑わないでしょう。さらに付け加えます。誰よりもあなたのことを思い出しております。そして、より大きな関心を抱いています。」(52)
10月、マドレ・サグラド・コラソンは総長に短い挨拶の手紙を送った。「ピラ―ルのマリアの祝日には特にあなたのことを思っています。主の御目に価値のあるあなたの働きの全てを、主がマリアの御手からお受けとり下さり、あなたが報いをおいただきになりますようにお祈り申し上げます。これ以上申し上げることはございません。ただ、もしいつか私たちが遠く離れた海を渡らなければならないとしても、イエスにおけるあなたの姉妹は心づもりが出来ていますと申し上げるだけです。マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス, A.C.J.」
さらにその先があった。マドレ・ピラールからのある手紙に吐露されている思いが、上述のものに加えられてよいだろう。「・・・ あなたの状況を見ると大きな悲しみをおぼえます。でも私は同時に神を見ます。神にまさる方はいません。ですから私は、全てを私自身とあなたのために受け入れます。もう間もなく私たちは、真理のうちに、真理は正義です、全てを見、理解するでしょう。どれほどの善を私たちはそこに見ることでしょう!」(53)

「・・・ これらの込み入った問題は、全能のみ手の中にあります・・・」

1898年の初め、マドレ・ピラールはロ―マに着いた。彼女は共同体を訪問し、また、もう一度家を買おうと試みた。彼女は旅行のために悪い時期を選んだ。戦争が今にも始まりそうな気配だった。キュ―バでは、その前年に与えられた特権が満足なものではなく、その結果、緊張が必然的に武力紛争へと発展し、ついに4月の終わりごろ火を噴いた。合衆国によって宣戦が布告されるやいなやスペイン船隊が一掃されるまで、スペイン国民は完全に状況を把握してはいなかった。(54)
ロ―マでは、海外ニュ―スがマドレ・ピラールを大いに驚かせた。共同体の訪問について彼女は書いている。 「私はただ自分がここでしなければならないことを果たすことだけを考えていました。み旨ならば、明日、終えるでしょう。スペインの情勢のため私は落ち着きません。私たちは集まって、適切な意見をお聞きし、対策を講じなければなりません。心づもりをしておくためです。」(55) 総長の心配の一部は、マドリードの修練院の危険性に集中していた。彼女はマドレ・プリシマに書いている。「これまでにいただいた助言と、私の見解により、私たちは修練院をスペインから移さねばならないと思います。」(56) マドレ・ピラールにはまた別の心配もあった。それは根拠のないものではなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。 「総長は戦争のために懸念を抱いています。キュ―バに多くの出資をしたからです。彼女は全てが失われるのではないかと思いました。 [・・・] そうなれば、私たちは続けることが出来ないでしょう。」(57)
5月8日、総長はビルバオにいた。再び彼女はロ―マの家の問題を未解決のままにしておかざるを得なかった。「・・・ 事態を改善する方法が無くてとても残念です。結局悲しいことに、お金はなくなりました。その上、私たちが大変お世話になっている保護枢機卿様は苦しんでおられ、ロ―マの家が財政的に、そして、スペインからの修練女たちによって援助されるようにと要請しておられます [・・・]。しかし、これら全ての込み入った問題は、私たちを愛していて下さる神の全能のみ手の中にあります。神が計らって下さるでしょう。私たちはただ、状況に合わせていくだけです。」(58) 彼女は12日にマドリードに着いた。三日後、補佐たちを交えて、修練院をフランスに移すことについて話し合った。いくらか不快な試みを経て、その計画は単なる計画の域を脱しないものとなった。しかし、話し合いの過程は、後にマドレ・ピラールが修道会の統治から離れるという結末に発展する、新たな段階に移って行った。
スペインに到着して間もなく、彼女はマドレ・サグラド・コラソンに書いている。「もし私たちが今まで以上に神にお仕えしたいのなら、誰の過ちでもなく、神が非常に困難な道で私たちを導かなければならないのだと覚悟を決めなければなりません [・・・]。神が私に与えて下さる困難を耐え忍ぶ上で、私にはこのことが大いに助けとなります。あなたも察しがおつきになるように、困難はなくなることがないからです [・・・]。人生は過ぎ去ります。私たちもそうです。そして、私たちが出来る限り耐え忍んだ全てのこともです。私たちにお報い下さるお方は神です。何と幸いなことでしょう!」(59)
この頃、統治の心配事がマドレ・ピラールを取り囲んでいた。出来る限りの心をこめて、彼女は困難に立ち向かおうとしていた。これによって彼女は謙虚な信仰の根を深め、それが過去の過ちと現在の限界から真に彼女を解放していた。彼女のオリ―ブの園の上に月が満ち欠けし、受難と復活を告げていた。
総長から妹に送られる手紙は、ますます打ち解けたものとなってきた。「あなたにお書きしないなんてことがありましょうか。もし書かないとすれば、神がそのわけをご存知です。それに、私には本当に時間がありません。もうすぐ [・・・] いくつかの謎が解かれるでしょう。でも、今はそれに触れないほうがいいです。どうやってそれを説明すればよいか、私には分からないからです。神が説明して下さるでしょう。神にはそれがお出来になるからです。ああ、[・・・] 終わりまで耐え忍びましょう。私たちそれぞれを神が釘付けて下さった十字架の上で。どんな犠牲を払っても聖人となるためです。そこでこそ神は、私たちがこの無限の恵みをいただくことを可能にして下さいます!」(60)
マドレ・ピラールは、修練院をボルド―に移したかった。彼女はマドレ・プリシマを修練長に戻す必要性があると見た。補佐たちは、総長のこの計画に断固として反対した。ウラブル師の助言により、彼女はこの件と取り組んでいた。その時、もう一つの困難が生じた。カディスの学校のことだった。倒壊の恐れがあるとして使われずにいた古い建物が壊れ始めたのであった。町の自治体は、その建物を全面取り壊すようにと迫った。彼女たちがキュ―バの投資を失い、あるいは下落した折も折り、そのことは大きな財政的損失であった。カディスから総長は妹に書いている。 「建物を取り壊すためこちらに来ています。お役所の命令だからです。これは大きな悲しみです。この困難を、私の過ちのため、また、そのつもりではなかったにせよ、私が原因であなたや他の人々に与えた悲しみに対する償いとして、主が受け入れて下さることを望んでおります。」(61) 翌年、総会における一連の論争を経て、ラ・コルーニャの家が閉鎖された。そして、共同体はサラマンカへ移された。またもやタベルネロ家が寛大に修道会を助けてくれた。このことを耳にした時、マドレ・サグラド・コラソンは総長に手紙を書いた。「フルヘンシオ氏のすばらしい援助に対して、また、家の購入に際して大いに助けて下さったホアニート氏に対して、神がお報い下さいますように。そして、この家が学校の繁栄と、エルマナスの健康により、ラ・コル―ニャのよき代わりとなる恵みを主がお与え下さいますように。あそこでエルマナスは両方の面で苦しみましたから [・・・]。主がこの恵みをお与え下さいますように。もっともラ・コル―ニャでの多くの会員の幸いな死は、それとして、どこのエルマナスにとっても慰めではありますが、多くの若くして亡くなった会員の損失を残念に思います。」(62)

「・・・ 神は私から自由が奪われるのをお許しになります」

二人の姉妹の関係が徐々に和解へと進んで来たことは、1899年12月にマドレ・ピラールが妹に宛てた親書にその結果が見えている。彼女は会計上の用件でサン・ホアン・デ・ルス――イシドロ・オルティス・ウルエラ師がそこにいくらかの投資をしていた――に行っていた。そして彼女はそこから手紙を書いた。ロ―マの家の院長についてのマドレ・サグラド・コラソンによる一連のコメントに答えるものであった。

  「あなたが感じることを私に話すことに対して、神をも私をも恐れないで下さい。あなたは誰かに話さなければなりません。そして、私に話すことは秘密にします。誰も何も失わないためです。それは修道会の中に留まります。会こそ私たちが何としても守らなければならないものです。近いうちにそちらへ行こうと思っています。その時パトロシニオのことについてお聞きしましょう。でも、内密にです。[・・・] 神は私が自由を享受することをお許しになりません。
正しいか誤っているか分かりませんが、私はこの悲しみと難しさを感じています。でも、あなたと私は、節欲と多くの徳の実践によって、これらの障害を取り除かねばならないと心から思います。他の方法があると思わないで下さい。私は、修道生活を送った最初の聖人たちのことを思います。彼らも同じ道をたどったのです。そして私は、何かすることによってよりも、苦しむことによってより多くのことがなされるという、聖テレジアの言葉を受け入れます・・・。
あなたにこの上ない信頼をもってこの宣言をします――それは私が心に抱いている苦しみに比べれば、ずっともっと楽なものですが――この聖なる日々に、神の御子にすがり、彼がもたらすことの出来る最も抜本的また効果的な救済策を携え、急いで来て下さるように願いましょう。そして、たとえ私に非があっても、私が彼の尊いなさり方に耐えるのを助けるために、慈しみと恩寵をもって行動して下さるでしょう。まず、私が最も忠実で誠実な聖心侍女となり、神のお望みになる時に、この恵みのうちに死ぬことを、私はいつも望ん出来ましたし、今でも望んでいるからです。」(63)

マドレ・サグラド・コラソンはすぐに返事を書いた。彼女は姉の困難な状況を完全に理解した。その瞬間から彼女は自分自身の苦しみを忘れ、どうやってマドレ・ピラールの苦しみを和らげることが出来るかということだけを考えたと言えよう。その一助として――彼女はそれが完全に効果的であったと望んでいたのだが――彼女は、補佐たちやロ―マの院長に対する総長の行動に関するいくつか特別な助言を含めた。

  「愛する姉妹へ。サン・ホアン・デ・ルスらのお手紙を受け取りました。マドレ・パトロシニオが自分でそれを私のところまで持参してくれました。彼女は自分宛のものだと期待していたのです。私は彼女の前でそれを開けました。そして、自分宛のがないと分かった時、彼女はうろたえました。[・・・] 彼女に手紙を書いて下さい。そして、お願いですから、あなたへの助言として申し上げたことがもとで、あなたが彼女に手紙を書くことをやめ、あなたがなすべきだと思っておられることの解決が遠のくようなことがないようにして下さい。私に手紙をお書きになる時は、いつも直接私宛に送らず、彼女を通して、あるいは誰か他の人を通して送るようにして下さい。私たちは何としても不信の様相を避けなければなりません。
あなたがこちらに来られるということなので、あなたに分かっておいていただきたいと思うことは、こちらでは誰も聖年の贖宥をいただくために外出することを望んでいないということです(休憩時間にこのことを聞きました)。もし賛成して下さるなら、そのことを提案なさらないようにということで、これを申し上げます。[・・・]さらに、こちらへ来られる前に、前もって院長に、どうすれば外出しない人々も贖宥が得られるのかを調べておくようにと伝えるべきだと思います。そうすれば私たちも同じように出来ますから。このことは、あちこちで良い印象を与えるでしょう。(64)
もう一つあなたにお知らせしたいことは、こちらの会員たちは、このあたりの信心に関する場所のどこも見ることを好まないし望まないということです。こちらへ来られたら、何もそのことに触れないのが一番だとお思いになるためにこれを申し上げます。彼女たちは関心が薄いか、むしろ、望まないのです。このことを残念にお思いでしょうが、こればかりは何とも致し方ありません!
ものごとが幾らか混乱して見える時、私は出来る限り、規則の遵守に努めます。その方が来世で役立つからです。たとえ波が空まで達しようが、私は落ち着いています。主のお望みを守ることによって、主のみ心を行なうために全てを犠牲にする人の霊魂には、何も触れ得ないからです。そして、疑いもなく、それは、会の善にはね返って来るに違いありません。会の初期の会員たちのように、私たちも会のために自分を犠牲にするよう、そして、他の人々の分も一緒に担うように呼ばれているのです。
[・・・] マドレ・パトロシニオにお手紙をお書き下さい。彼女があなたへの信頼を失うようなことがあってはなりません。
あなたを抱擁します。あなたの姉妹マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘススより」(65)

第4部 第4章 注

(1) 「1898年に蒙った痛手は、19世紀全体にわたる海外植民地の現実を多くのスペイン人の意識にのぼらせることとなった。すなわち、スペインが資本主義世界の中では二番手の国であること、農業構造、所有権と農耕の制度の面で後進国であること、外国人による市場独占の転換と、大国の政治的戦略的策略のために適した地であることを。[・・・] 1899年の始めには刷新が急務であった。歴史のコ―スから外れたくなければ、スペインはその経済、考え方、政治を完全に変える必要があった。」(M.・ トゥニョン・デ・ララ、19世紀のスペイン [バルセロナ、ライア出版 1975] 第2巻 180ペ―ジ)。
(2)  A. ジュトグラール、現代スペインにおけるイデオロギ―と階級(1874―1931)(マドリード、エディクサ 1973)91ペ―ジ。
(3)  A. ジュトグラール 前掲書 91ペ―ジ
(4) 労働者社会党は1879年パブロ・イグレシアスにより結成されていた。
(5) トゥニョン・デ・ララ、前掲書 144―45ペ―ジ。
(6)  実際にストライキの波が押し寄せた。1902年にはバルセロナでゼネストが起こり、
ビルバオ、カルタヘナ、マラガ、サン・セバスチャンと続いた。1903年にはビルバオで起こった。農民の不安はつのるばかりだった。アンダルシアの農園労働者たちは各地でストライキを組織した(カルタマ、モロン、アルカラ・デル・ヴァリェ)。コルドバでは1903年に農園労働者たちがストライキを始めた。商店、工場、銀行、小中学校、報道機関がそれを支持した。それは四日間続いた。そして、戦争状態が起こるに至った。(トゥニョン・デ・ララ 前掲書 165―68ペ―ジ。)
(7)  1902年、ロマノネスの伯爵の言明による。A. セビーリャ、スペイン政治史 Ⅰ 420ペ―ジに引用されている。二十世紀の始め、スペインには2656の女子修道院があり、40,030人の会員がいた。そのうち910人が教育に従事していた。男子修道院は597で、計10,630人の修道士を数え、264の教育施設があった(A. ジュトグラール前掲書 52ペ―ジ)。その尖兵とも言うべき人々の中には、外国、特にフランスに起源を持つ種々のグル―プがいた。彼らはフランス第三次共和国の反教権政治から逃れるために、国境を越えてスペインに入っていたのである。
(8)  スペインおよびアメリカの社会経済史 第5巻 147ペ―ジ。
(9)  1887年にはスペイン人の71.5%が、読み書きが出来なかった(女性では81.16%)
1900年には文盲率はわずか63.79%まで減少したのみであった(TUÑON DE LARA 19世紀のスペイン 第2巻 95―96ペ―ジ)。
(10) カディスの院長マドレ・ルトガルダへの手紙。1897年7月13日。
(11) マドレ・プレセンタシオン・アロラへの手紙。1897年7月6日。
(12) マドレ・プレセンタシオン・アロラへの手紙。1897年7月6日。
(13) 同上。
(14) 1898年11月14日の手紙。
(15) 彼女自身、次のように説明している。「たとえ並外れた素質や才能を持っていたとしても――マドレ・プリシマはそうだと私は確信していますが――ただ一人だけでは、彼女が抱えているたくさんの任務――とりわけ、姉妹たちの養成という任務――を良く果たすことは出来ないと私は確信していました。[・・・] それで、私は、誰をも傷つけることにはならないと思い、率直に、総長と補佐たちと、そして、マドレ・プリシマ自身に、私の意見を申し上げました・・・。」(マドレ・ピラール伝 第Ⅱ巻 44―45ペ―ジ)。
(16) 「私は大きな信頼をもって彼女に話し、彼女は比類の無い謙遜をもって私の言葉を聞いていましたが、私は祈りについて彼女にあることを話さねばなりませんでした。それに対し、彼女は次のように答えました。「祈りに関して私は自分の魂をおろそかにすることはありません。あちら――ビルバオを指している――でのことは、他のどこにもないことです――大勢訪ねて来たためだと思います――私が皆に会うようにと計画されたからです・・・。」(マドレ・ピラール伝 第Ⅱ巻 30―31ペ―ジ)。マドレ・マリア・デル・カルメンはこれらの思い出をかなりの年月がたってから記している。時の経過と、その間の出来事が助けとなって、彼女は、マドレ・ピラールに対する彼女の警告と、それに対するマドレ・ピラールの穏やかな反応の真価を新たに理解することとなったのである・・・。
(17) マドレ・ピラール史 第Ⅱ巻 30―31ペ―ジ
(18) 1896年7月24日の手紙。
(19) 同上。
(20) 霊的手記 38。おそらく1895年のもの。
(21) 同上 39。おそらく1896年のもの。
(22) 同上 41。おそらく1897年のもの。
(23) 同上 38。1895年のもの。
(24) 同上 41。1897年のもの。
(25) 同上 40。おそらく1896年のもの。
(26) 同上 40。1896年のもの。
(27) 同上 42。1898年のもの。
(28) マドレ・マリア・デ・ヘススへの手紙。1895年7月31日。
(29) マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。1895年11月24日。
(30) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。1897年12月12日。
(31) マドレ・プリシマへの手紙。1898年10月29日。
(32) 1896年9月16日の手紙。
(33) マドレ・サグラド・コラソン。
(34) マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。1896年8月8日。
(35) 総長補佐たちを意味している。
(36) このくだりは文法的には不完全であるが、意味は明瞭である。
(37) マドレ・マリア・デル・カルメンへの手紙。1897年2月12日。
(38) 1896年4月8日の手紙。
(39) 1896年11月16日の手紙。
(40) 1896年11月25日の手紙。
(41) バリャドリードにいた。
(42) 1897年6月19日の手紙。
(43) 1897年3月17日に書き始め、18日に書き終えた手紙。エルマナ・マリア・デ・サンタ・ビクトリアのことについて扱っている。(194―95ペ―ジ参照)。実際に、1897年3月19日に亡くなった
(44) 1896年11月16日の手紙。
(45) 1897年1月9日の手紙。
(46) 同上。
(47) 1897年9月末に書かれた手紙。
(48) 1897年9月末頃の手紙。
(49) 1897年10月4日の手紙。
(50) 記録によれば、ロ―マの修道院は、会の他の家に比べてやや特別な状況の下におかれていた。共同体の生活様式は、非常に閉ざされたものであった。これはおそらく共同体の全てのメンバ―がスペイン人だったことによるのであろう。マドレ・サグラド・コラソンも種々の機会に述べているように、このことは彼女らに言語の習得を余儀なくさせた。
(51) 1898年1月6日の手紙。
(52) マドレ・ピラールの手紙。1897年6月19日。
(53) 1897年9月8日の手紙。
(54) 「スペインの政治と、やはり急進的な解決を強いていた“極右グル―プ”による国内の微妙な状況を知らずして差し迫ったものとされた反スペイン運動と独立譲与のための圧力は、一方的な西米戦争を引き起こした。それは、1898年4月21―25日の間に外交の形で始まり、すぐにアメリカ合衆国のお膳立てによる軍事的なものになった。スペイン政府は、アメリカの帝国主義的干渉を前に明白な忍耐をもって交渉した後、他の解決法を持たなかったようである [・・・]。すなわち、国の愛国主義的党派の叫び声を、この劇的な解決法によって黙らせるために、戦争に巻き込まれるにまかせた。」(マドレ・マルティネス・クアドラド、保守的ブルジョア階級 [1874―1931]:豊かな泉スペインの歴史、第6巻 373ペ―ジ)当時、スペインでは、党の交替により、自由党のサガスタが統治していた。アルフォンソ十三世は当時十二歳の少年であった。
(55) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。1898年4月30日。
(56) マドレ・プリシマへの手紙。1898年5月1日。
(57) 年代記 Ⅲ 54ペ―ジ。
(58) マリア・デ・ロス・サントスへの手紙。1897年6月3日。
(59) 1898年6月10日の手紙。
(60) 1898年8月22日の手紙。
(61) 1898年10月21日の手紙。
(62) 1899年11月5日の手紙。
(63) 1899年12月20日の手紙。
(64) ロ―マの共同体と総長の評議員会を指している。この両方が、小心なまでに禁域を遵守していた。この点で、マドレ・ピラールはしばしば非難された。
(65) 1899年12月31日の手紙。