創立者

創立者

創立者姉妹ラファエラ・マリアとピラール
一粒の麦、地に落ちて実を結ぶ
〜聖ラファエラ・マリア小伝〜

1977 年1 月23 日、バチカンの聖ペトロ大聖堂でラファエラ・マリアの列聖式が行われた。その日の正午、教皇パウロ六世はバチカン広場を埋め尽くした群衆に向かって、アナウンスした。
「今日、教会に大きな喜びがありました。今、一人の聖なる修道女の列聖式が終わったばかりです。この新しい聖人は長年ローマに住み、52 年前にこの地で亡くなり、葬られたラファエラ・マリア・ポラス、修道名をイエスの聖みこころ心のマリアと呼ぶスペインの修道女です。
彼女はローマでよく知られているヴィア・ピアーベとヴェンテ・セッテンブレが交差する街角にある聖心侍女修道会の創立者です。この修道会はスペインで誕生、発展し、やがて世界の多く国々に広がり、特に聖体礼拝と女子教育ならびに人間啓発の教育に取り組む修道会として知られています。
彼女は謙虚で柔和、心細やかな沈黙の人でした。しかも、溢れるほどの精神的豊かさと素晴らしい感化力の持ち主です。彼女はイエスの聖みこころ心に象徴される神の愛をすべての人に伝えたいとの熱意にかられ、自国スペインばかりでなく、神の恵みに支えられて、世界各地に修道院を創立していきました…… 」

列聖されたラファエラ

列聖されたラファエラの絵

スペインの名もない小村に生まれた少女が生誕137年後には、
世界のカトリック教会に知られる聖人として多くの人の導き手となった。

I. 幼年時代から青春時代

1、両親とその死去(1850年〜1869年)

ペドロ・アバド村

ペドロ・アバド村

ラファエラ・マリアは1850 年3月1日、スペイン南部コルドバ市郊外の小村ペドロ・アバドにポラス家の第10 子として誕生した。父のイルデフォンソは裕福な地主であり村長として、多くの人々に慕われていたが、スペインにコレラが流行し、村でも大勢の犠牲者が出、村の病人の看護を率先して行ううちに感染し、命を絶った。ファエラが4 歳のときであった。母、ラファエラ・アイリョンは13人の子女を生んだ逞しい女性であったが、夫の死後、相次いで数人の子どもに先立たれる苦しみを味わったが、貧しい人々を家族のように大切にする人だった。1869 年2 月10 日、ラファエラが19 歳のとき、母は心臓発作によって突然、生涯を終えた。その衝撃はラファエラの人生を変えるほど大きかった。後年、彼女は母の死の出来事をどう受け止めたかについて記した。

「私の生涯に起こったいくつかの出来事のうちに、父なる神の慈しみと配慮を知った。母の死、あのとき、たった一人で母のまぶたを閉じた時、私の魂の目が開き、迷いから覚めた。この世の生はあたかも島流しのように思われた。私は母の手をとり、主(キリスト)にこの地上のいかなるものにも私の愛情を結びつけることはしないとお約束した。主は私の奉献を受け入れてくださったように感じた。というのも、その日一日中、地上のものがどんなに儚くむなしいか、また永遠を熱望することこそ必要だという崇高な思いに満たされ、母を失った悲しみは殆どどこかへ飛んで行ってしまった。“私は何のために生まれたのか?”“救われるためではなかったか!”との内なる叫びが心の奥に刻み付けられた。その思いは、その日ばかりでなく、以後、生涯を通じて、徳を求めるための励みとなった」(1892年、霊的手記25)。

「死は終わりではなく、永遠のいのちの始まり」であること、そして、「いつまでも終わらない大切なものは何か」が、はっきりわかったのです。

She came to understand clearly that “death is not the end but the beginning”
and to see what “the precious thing which never changes” is.

Comprendió que “la muerte no es el fin, sino el comienzo de la vida eterna”
Y descubrió “algo importante que nunca cambia”.
                         (絵本 ラファエラ 15頁)

ラファエラは15 歳のとき、自分をまったく神のものとして捧げる個人的決心をし、コルドバの教会で私的に貞潔の誓願を立てていた。母の死は、すでに始めていたキリストへの奉献の道を一層しっかりと歩み続けようとの決意を促し希望と喜びをもたらした。

主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。
山々が生まれる前から
大地が、人の世が生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。あなたは人を塵に返し
「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
夕べにはしおれ、枯れていきます。

人生の年月は70年程のものです。
健やかな人が80年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように。
                 (旧約聖書 詩編 89:1~6, 10, 12)

2、人生の道を選ぶ二人の姉妹(1869年〜1873年)

ラファエラには4つ年上の姉ドロレスがいた。母の死後、姉は末っ子のラファエラに対して母親代わりのようにふるまった。姉は闊達で、面倒見のよいタイプであったが、母の死に打ちのめされ神経的に参ってしまった。普段はおとなしく小さい妹と思っていたラファエラが母の死後に生じた数多くのこまごまとした事柄を処理する際立った確実性力量に目をみはった。兄のエンリケは母の死の2年後に結核で亡くなり、もう一人の兄ラモンはその数か月後、結婚し、家には二人の姉妹だけが残った。二人は母の死後、心を合わせて神と貧しい人々を助けることに専念していった。しかし当時、兄たちや従兄からは社交界の集まりに出て、よい結婚相手に出会うよう勧められ、近親者には村の貧しい人々を助ける二人の令嬢の生活は理解しがたかった。

神に奉献する15歳のラファエラ

図 3 神に奉献する15歳のラファエラ

社交界に出ていた頃のラファエラの肖像画

図 4 社交界に出ていた頃のラファエラの肖像画

 二人は朝、薄暗いうちに起床し、周りの注目を惹かないように、交代で祈りと活動の時間をやりくりしていた。病人の家を訪問するとき、各々一人の召使いと共に出かけた。現代からは想像しがたいが、当時、女性は家庭内の活動しかできず、村の病人の看護のために夜も家に帰らないなどということは、良家の子女にあってはならないことであった。しかし二人は人々に仕えられることではなく、彼女たちを必要としていた貧しさの世界を中心に生きる道を歩み、家では奉公人と令嬢である彼女たちは大体同じ仕事をした。

以前から二人には、ある夢がありました。
教会のために働き、貧しい人たちと共に生きることです。
もう社交界にでることはやめました。そして、
使用人たちがする掃除や洗濯までやり始めました。
これを知ったお兄さんや親戚の人たちは、とても憤慨しました。
そのころの社会の習慣では、とても考えられないことだったのです。
使用人たちもとまどいました。

They had long had a dream of
working for the Church and devoting their lives to the poor.
They stopped going to parties and
started cleaning the house and doing the laundry with their maids.
Their brothers and other relatives got very annoyed with them.
According to the manners and customs of the time, their behavior was not
acceptable.
Their servants were also embarrassed.

Desde mucho antes soñaban con trabajar para la iglesia y
dedicar sus vidas a los pobres.
Dejaron de acudir a fiestas y empezaron a ayudar en los trabajos
de los sirvientes limpiando y lavando la ropa.
Al enterarse de esto, los hermanos y parientes se enfadaron,
porque era algo impensable teniendo cuenta las costumbres sociales de
entonces.
Los sirvientes también estaban perplejos.
                 (絵本『ラファエラ』16 頁)

しかし、ラファエラたちはやめませんでした。
ひとりぼっちの病人や伝染病の人の世話をし、夜どおし看病しました。
飢えた人のために食事をつくり、貧しい家庭の子どもたちを集めて勉強を
教え、
神さまのことを話してきかせました。

Nevertheless, Rafaela and her sister did not hesitate.
They took care of lonely invalids and people infected by disease,
nursing them throughout the night.
They prepared meals for the hungry, gathered the children of the
poor together and talked to them about God.

Sin embargo, Rafaela y su Hermana siguieron cuidando a enfermos
solitarios,
incluso a los contagiosos, atendiéndolos toda la noche.
Preparaban comida para los indigentes y reunían los niños pobres
para darles clases y hablar sobre Dios.
                 (絵本『ラファエラ』17 頁)

1868 年から74 年にかけて、スペインには自由主義的革命の風が吹いていた。彼女たちは革命のスローガンを知らずに、革命の非常に進歩的な考え方を取り入れる決心をしていたのである。

1871 年、ペドロ・アバドの村には新しい司祭ドン・ホセ・イバラが赴任してきた。彼はラファエラとドロレスの信仰生活が聖書と秘跡に根をおろすよう導いた。当時、カトリック教会では聖書を今ほど信徒が学ぶことがなかった。イバラ神父は毎日、聖書を読み、聖書を通して神と対話し、内省するように勧め、二人はその霊的指導に従った。
1873 年、二人は神に奉献するために修道生活に入ろうと決心するが、具体的にどこに行くべきかがわからなかった。イバラ神父は、どの道を通っても天国に行かれるが、自分がどの道を行くことを神が望まれるかを示してくださるように深く祈るように導いた。

二人の姉妹は村人を助ける仕事は共にしていたが、生活の深いところを相互に話し合う心の交わりはなかった。二人とも修道召命を感じていたが、このことについて二人の間で話し合うことはそれまではなかった。1873 年に二人は自分の召命について互いに打ち明けた。
1874 年2 月、関係する聖職者らに相談した末、ペドロ・アバドの実家を去り、しばらくコルドバ市郊外のクララ会修道院で静かな時を過ごして、具体的に自分たちに示される道に入る準備をすることにした。二人は神のみ旨が教会の正当な上長を通して示されるとき、それに従う決心をした。

ドロレスとラファエラは修道院の生活を考え、こっそり準備を始めました。
それを知ったお兄さんたちはひどく腹を立てました。
親戚もみな猛反対です。
そのころスペインは革命によって教会が迫害され、たくさんの修道院が
こわされ、
キリスト教の学校も閉じられたままになっていたからです。

Dolores and Rafaela were thinking about becoming nuns, and secretly
began to prepare for this.
When their brothers found out about their plan they were greatly upset,
and all their relatives were also strongly opposed to it.
This was because there had been a revolution in Spain, which resulted
in the Church being persecuted.
Many monasteries and convents were destroyed and
Christian schools had also been closed for years.

Dolores y Rafaela, pensando hacerse religiosas, empezaron a
prepararse en secreto.
Sus hermanos se sulfuráron al saberlo. Todos los parientes estaban en
contra.
A causa de la revolución que habia en España, la iglesia era perseguida y
muchos monasterios y conventos fueron destruidos y
las escuelas cristianas estaban cerradas.
                 ( 絵本『ラファエラ』17頁)

3.時を待つ、予期せぬ出来事の連続の中で(1874年〜1876年)

1874 年2 月13 日、二人は決然としてペドロ・アバドを後にした。ラファエラ・マリアは生涯、再び、その村に帰ることはなかった。コルドバ司教総代理、ドン・リカルド・ミゲスの指導に委ね、神の代わりとして選んだこの司祭の判断に自分の傾向や考えをすべて任せたのであるが、その後、神はさまざまな人々の考え、判断を通して、二人に対する計画を次第に明らかに示していった。
当時、コルドバ市は、スペイン全土と同じく、教育に従事する修道会を最も必要としていた。コルドバ教区の聖職者たちは教育修道会であるサレジオ会のシスターズを招く機会を探していた。この二人の姉妹をその会で修道生活に入る準備をさせ、コルドバに学校を創立させるにふさわしいと考え、その手筈を整えた。ヴァリャドリードにあるサレジオ会シスターズのところに旅立つまさにその時、担当の司祭が病気になり、出発が延期された。
その数日の間に、二人の道を開く新しい人物、南米グアテマラ出身の司祭アントニオ・ウルエラがコルドバに立ち寄った。彼はコルドバ司教総代理と出会い、二人の姉妹について意見を求められた。司教代理はアントニオ神父の徳と功績、経験の深さを知り、ラファエラとドロレス姉妹についての計画を任せることにした。彼は教育と聖体礼拝に献身する修道会をコルドバに創立することを考え、セビーリャからマリア贖罪会というフランス系の修道会を招くことを勧めた。
ラファエラとドロレスにとって、今、神のみ旨の解釈者は、司教総代理から委ねられたアントニオ神父となった。

1875 年3 月1 日、二人はコルドバにあるポラス家を修道院に改造して、クララ会修道院を出て、マリア贖罪会のシスターズのもとで修道生活の志願期を開始した。ラファエラ、25 歳の誕生日であった。ようやく落ち着いて念願の修道生活が始まると思った二人は、神のみ旨は別のところにあることをその後の一連の出来事を通して知ることになり、二人は、意図せずに、新しい修道会の創立者となっていった。

ようやく修道生活への夢がかなったのもつかのま、指導に来ていたシスターたちが、セビーリャに帰ってしまいました。学校を開きたかった司教さまや神父さまと、意見が合わなかったのです。あとに残ったのは、16 人のシスターの卵だけでした。
この16 人のグループが、のちに聖心侍女と呼ばれる修道会の始まりです。

Rafaela and Dolores had finally realized their dream,
but the nuns from Sevilla went back home, because they did not agree
with the bishops and priests who wanted to start a school.
Only sixteen novices were left in the house.
Later, this group of sixteen was the beginning of the religious order called
the Handmaids of the Sacred Heart of Jesus.

Rafaela y Dolores consiguieron su sueño de ser religiosas,
pero las religiosas de Sevilla se marcharon por desacuerdos con
el obispo y los sacerdotes fundadores del colegio.
Solo quedaron en casa 16 novicias, que formaron el número inicial de la
Congregación religiosa llamada“ Esclavas del Sagrado Corazón de Jesús”
                 絵本『ラファエラ』20 頁)

フランスで誕生したマリア贖罪会はイエズス会の精神を受け継ぐとともに、聖体礼拝を日課としていた。そこでの修道生活は二人にキリストと一致して生きる深い平和をもたらした。しかし、彼女たちを取り巻く周囲には、コルドバにできるだけ早く学校を創立し、その生徒たちのための寄宿舎を建てたいと望んでいた司教側とマリア贖罪会のシスターズ側に考え方の相違があり、さらに、マリア贖罪会がもたらしたフランス的な近代的空気と当時のコルドバの保守的宗教的雰囲気の対立が深まっていた。その結果としてマリア贖罪会のシスターズはセビィーリャに戻ることになった。
姉のドロレスは、マリア贖罪会のシスターズがセビィーリャに引き上げること、また、ここに留まりたいものは司教の保護のもとで、アントリオ・ウルエラ神父の指導を受けることになる旨を一同に告知した。ラファエラは周囲の対立、考え方の違いに対して、きわめて慎重で思慮深く、仲間が自由に選択することに関して自分が影響を及ぼすことを避け、少しでも強制することがないように沈黙を守り、神が働いてくださるようにひたすら祈った。
そのとき志願者・修練者は20 人いたが、マリア贖罪会とともにセビィーリャに行くことを決めた者が4 名、他の16 名はそのままコルドバに残った。この16名が聖心侍女修道会の礎となった。

修道者になる前のラファエラの肖像画

修道者になる前のラファエラの肖像画

1876 年10 月14 日、コルドバのサン・ロケ街で、最初の聖心侍女の共同体が誕生した。この日、ラファエラは司教から院長に任命された。その時、マリア・デル・サグラド・コラソン(聖みこころ心のマリア)という修道名がつけられた。姉のドロレスは会計係に任命され、マリア・デル・ピラール(柱のマリア)と呼ばれた。ラファエラの長上としての役割は、4 歳年長のエネルギッシュな姉との関係で難しくなっていく。彼女は「非常に謙遜で単純であった。また、聡明であり、人間の心の深みにあることを知る先天的な力をもっていた。それで、責任の重さをひしひしと感じていた」。ラファエラはこれからの姉妹としての関係の難しさを予感しながらも、「神のためになし得る最大の業は、神のみ旨に余すことなく、自分を委ねること」との信念に生きていたので、教会の正当な上長からの任命を受けた。
16 名の最初の聖心侍女のシスターズの特徴も単純さであった。当時の女性としては普通よりも高い教養を身に着けていたことにうぬぼれることはなかった。年齢は17 歳から30 歳。共同体の目立つ良い点は喜びであった。
当時のスペインは比較的平穏な時代で、1876 年には王政復古の政治的事業が完成し、6 月に立憲君主国としての新憲法が承認され、ローマ・カトリックは国教と宣言された。

図6 聖心侍女修道会創立者 聖ラファエラ・マリア (聖心(みこころ)のマリア)

聖心侍女修道会創立者 聖ラファエラ・マリア (聖心(みこころ)のマリア)
Fundadora de las Esclavas del Sagrado Corazón Foundress of the Handmaids of the Sacred Heart of Jesus Santa Rafaela Maria del Sagrado Corazón Saint Rafaela Mary of the Sacred Heart

4.神の計画に従うことへの決断と行動(1877 年)

これまでラファエラたちは、神のみ旨を見出すために、神の代理者としての教会の正式の上長に従ってきた。しかし、神の代理者である人間に従うことと、神だけにすべき無制限の従順とは違うことをまだ経験していなかった。

コルドバに残った16 名について、コルドバ司教は非常に満足し、コルドバで祈りと教育に従事する修道会としての認可をその年の12 月30 日に与えた。そして、6 名の修練女が翌2 月2 日に修道誓願を立てる準備を始めた。その準備の最中に、またしても予期せぬ出来事が起こった。誓願の式文と修道規則の変更を司教が求めてきたのである。1876 年2 月5 日のことであった。この変更をうけいれるか否かの返答は24 時間以内にするようにと告げて、司教からの使いの者は帰って行った。司教は教区長管轄の修道会としていつでも規則の変更ができる会の創立を考えていたようであった。
この事態にあって、ラファエラとドロレス、そして他の14 名のシスターズ全員は、司教に対する従順と神への従順を区別することができた。「司教であっても修道女に、その召命に反する規則で誓願を立てることを強制できないことを理解していた」。
1876 年2 月5 日、日が沈んだ頃、コルドバからアンドゥハル行の汽車に14 名のシスターズが手元にあった俗服を身に着けて乗り込んだ。つまり、彼女たちは一致して、コルドバ司教の管轄地域外に脱出する道を選んだのである。ドロレスともう一人は、コルドバ司教とシスターズの家族に彼女たちの選択を伝えるためにその晩は残り、後に合流することにした。アンドゥハルでは愛徳姉妹会の病院に迎えられ、旅の疲れを癒し、修道生活をラファエラのもとで落ち着いてつづけながら、神のみ旨が次に示される時を待った。
コルドバでは、逃亡した14 人の乙女たちを探しにきた市役所の役人や司教代理らとの対応でドロレスは忙しかった。シスターズの家族たちはアンドゥハルまで娘たちの様子を見に行き、安心してコルドバに戻ってきた。アンドゥハルではラファエラとその共同体は村中の人々に好意をもって迎えられていた。16 人は、アンドゥハルは中継地で、マドリードまで行くことを考えていたが、アンドゥハルの市役所からは修繕を要する昔の修道院を無償で提供するとの話もあり、このままアンドゥハルに創立してもよいという考えも起こってきた。
そうこうするうちにアントニオ・ウルエラ神父がマドリードで病に倒れたとい― 16 ―う知らせが届き、3 月19 日に世を去ってしまった。ラファエラはもうこれ以上耐えられないという嘆きの声を姉に手紙で漏らした。16 名の共同体は人間的支えのすべてを失い、ただ、神の導きのみを信頼して待った。そのときの若い姉妹たちのよりどころはラファエラとドロレスの二人であった。「あなた方が行かれるところに私たちも参ります。あなた方が続けようとする生活を、ご一緒に生きたいのです」と口ぐちに語ったと修道会の起源についての報告書に記されている。
かけがえのない存在と見做していたアントニオ神父が舞台から姿を消した後、イエズス会士コタニーリャ師が相談相手として彼女たちの舞台に登場した。このイエズス会士はトレド枢機卿に彼女たちを紹介してくれた。ドロレスがすべての成り行きをモレノ枢機卿に伝え、彼はマドリードに修道会を創立する許可を口頭で与えた。こうして、アンドゥハルからマドリードへの旅が始まり、1877 年4月14 日、マドリードで正式に認可された聖心侍女修道会が設立された。
上述したように、若い14 名のシスターの卵たちは自分たちと同じように若いラファエラとドロレスを支えとして共同体を築いていった。特にラファエラの人間的な深い心と実際的能力、苦しみのなかでも常に明るく、最も愉快に周囲の人を楽しませるユーモアは皆を引付け一致の要となった。徹底して神に根をおろしているので、外からくる困難と心の悩みの最中でも、穏やかに、親切に冷静にふるまうラファエラは新しい修道会の土台であった。
「私はいつも主に信頼しているので、勇気と力が湧いてくる。私たちは神の栄光しか望んでいないので、神はどんなときでも私たちを助けてくださる」(1877年2 月19 日、姉への手紙)

それから3か月がすぎた1877年4月、
マドリードのソル広場に近いアパートで、
ラファエラたちはふたたび修道生活を始めました。
机も椅子もないぎゅうぎゅう詰めのアパートでしたが、みな大喜びでした。
美しい賛美歌や楽しそうな笑い声が、あたりにひびいています。
一人でも多くの人に神さまの愛を知らせようと、希望に満ちていました。

Three months passed, and in April 1877,
at an apartment near the Plaza del Sol in Madrid,
Rafaela and the other nuns started their convent life again.
There were no desks and no chairs in the flat,
and the Sisters had very little space, but all of them were very happy.
They were full of hope that they could teach the love of God to people,
And the apartment rang with the sound of hymns and happy laughter.

Tres meses después, em abril de 1877,
en un apartamento cerca de la Puerta del Sol en Madrid,
Rafaela y sus compañeras empezaron de nuevo la vida del convento.
Aunque sin mesas ni sillas y con un mínimo espacio,
todas estaban muy contentas.k apartamento resonaba con sus himnos y aleg
Estaban llenas de esperanza de poder enseñar el amor de Dios a todo el mundo
y el apartamento resonaba con sus himnos y alegres risas.
                 (絵本 ラファエラ 22頁)

街角で大勢の子どもが騒いでいます。
盗みをする子もいます。革命が終わっても学校は閉鎖されたままでした。
この子たちのためにラファエラは、授業料のいらない学校を作りました。
神さまとゆっくり過ごせるように、祈りの家も開きました。

Many children were making trouble on the streets.
Some were even stealing. Although the revolution had ended,
schools still remained closed,
so Rafaela opened up a free school for these children.
She also set up a house of prayer, a place where people could go to pray.

Muchos niños armaban jaleo en las calles.
Algunos incluso robaban.
Aunque había terminado la revolución las escuelas seguían cerradas.
Rafaela abrió un colegio gratuito para los niños pobres.
También estableció una casa de oración en la que la gente pudiera estar
con Dios tranquilamente.
                 絵本 ラファエラ 25頁)

Ⅱ.修道会の創立と発展

5.聖心侍女修道会の発展

「手の5本の指のように皆が一つに」を合言葉に、ラファエラたちは働きました。評判をきいたあちこちの町から招かれ、修道院づくりにドロレスが出かけます。ラファエラの仕事は、山積の書類を読むことと、ひっきりなしのお客様の相手です。でも一番大事にしたのは、シスターたちの心に種を蒔くことでした。神さまへの愛の種、貧しい人を大切にする思いやりの種を世界中に運ぶためです。

The nuns worked hard together,“ Like the five fingers of a hand”, as
they themselves often said. Their reputation spread and Dolores was
invited to go various cities to establish convents. Rafaela’s role was to
read piles of documents and meet the unending stream of visitors.
However, what was most important to her was to saw seeds in the
nuns’ heart so that the seeds of love for God and the seeds of kindness
and consideration towards the poor could be spread throughout the
world.

Rafaela y sus compañeras trabajaban mucho y muy unidas“ como los
cinco dedos de la mano”, según su lema. Su buena fama se extendió y
varias ciudades invitaron a Dolores a fundar conventos. El trabajo de
Rafaela consistía principalmente en leer montones de documentos y
atender a los continuos visitantes.

Pero para ella lo más importante era implantar semillas en las almas
de sus Hermanas para así diseminar por todo el mundo el amor a
Dios y el cariño y consideración hacia los necesitados.
                 (絵本『ラファエラ』26 頁)

聖心侍女修道会の初期会則には、本修道会会員の召命の特徴を次のように記している。
「私たちの召命の特徴は、さまざまな土地を巡り歩き、また、神に対する優れた奉仕と、人々の救いの助けになると思われるどのような場所にでも住み着くことである」。
修道会は各時代の変化に応じて教会の呼び声に敏感に応えようとする。一人ひとりの才能や教養、資質は神からの賜物であり、それは人々に奉仕するために与えられてと自覚している。
誕生したばかりの聖心侍女修道会には、スペイン各地から修道院創立を求める要請に応じ、マドリード創立の次にはコルドバに修道院が設置され、コルドバ司教との和解も成立した。続いて、1883 年にはヘレス・デ・フロンテラに、1885年には北東部アラゴン地方のサラゴサに、1886 年には北部の都市ビルバオに、1888 年には北西海岸のラ・コルーニャとマドリードにもう一つの修道院も設立された。1890 年にはアンダルシア地方のカディスとイタリアのローマに新たな修道院が設立され、その後、スペイン以外の国々からも、修道院設立の声がかかり、急速に修道会は発展していった。

ラファエラは若い頃から、ずっと院長でした。責任の重い総長の仕事も引き受けていました。修道院の数が増え、方々の町に学校が開かれると、シスターズたちはもっと忙しくなり、難しい問題も増えました。5 本の指のように一つだった仲間の心に、すきま風が吹き込んできました。

Rafaela had been the Mother Superior of her community since she
was young. She also undertook the important position of Mother
General of the Order. As the number of convents increased, schools
sprang up all over the place. The nuns became very busy and also
difficult problems increased.
A cold wind blew into the hearts of the nuns who had once united as
the five Fingers of a hand.

Rafaela había sido Madre Superiora desde muy joven. Además
asumía el importante papel de Madre General de la Congregación.
Al aumentar el número de conventos y de colegios por todas partes,
las Hermanas estaban más ocupadas y surgían problemas cada vez
más dificiles. Un frío viento empezó a soplar en el corazón de las
Hermanas, que en otro tiempo estaban unidas como los cinco dedos
de la mano.
                 (絵本『ラファエラ』27 頁)

6.困難を通して一層深く愛する道を歩む

1890 年の夏、ラファエラはローマ修道院の設立を終えてスペインに帰国したとき、自分の周りの空気が変わっていることに気づいた。総長は4 人の顧問に支えられているが、彼女たちがラファエラの統治の仕方、考え方に疑問をはさむようになっていた。
ある日、修道会会計帳簿に大きな欠損があることが発見され、顧問の一人である姉のドロレスは不安に駆られた。姉の不安が顧問全体に伝わり、総長に対する批判がささやかれるようになった。
―― 大変聖なる善良な方だけれども、大きくなった修道会の経営を見通す力が足りないのではない…… ?
―― 神さまに信頼するということはわかるけれども、何もかも信頼するのは…… ?
―― 修道会の統治は、あの方には重荷すぎるのでは…… ?
こんな空気が流れ始めた。総長と総長を支える人々との間に溝ができてしまったら、会の統治は不可能である。

「ラファエラは総長にはふさわしくない……」「それほど頭もよくないし、立派な人でもない……」と、誰かが言い始めました。本気でそれを信じる人もいました。総長を辞めるようにと言う人もいました。お姉さんのドロレスでさえも、ラファエラを厳しく批判しました。修道会が破産しそうだったのです。

Some began to mutter things like“ Rafaela is not suitable to be
Mother General. She is not so smart, and not such a fine person.”
There were some who believed this, and some who told her that she
ought to part resign as Mother General. Even her sister, Dolores,
severely criticized her for what she thought was her part in causing
the Order to face economic ruin.

Empezaron a comentar:“ Rafaela no merece ser la Madre General.”
“Ella no es tan inteligente ni tan admirable.” Algunas lo creyeron y
otras le aconsejaron que dejara el cargo de superiora. También su
hermana Dolores la criticó severamente pues la Congregación estaba
en peligro de bancarrota.

ラファエラは独りぼっちでした。つらい悲しい日が続きましたが、夜遅くまで祈っていました。「神さま、あの人たちはみな、よい心の人です」と。

Rafaela was totally alone. The hard times continued, and she prayed
late into the night:“ Lord, I know that each one of Sisters has a good
heart.”

Rafaela se encontraba totalmente sola. Mientras continuaban los días
duros y tristes, ella rezaba hasta altas horas de la noche.“ Señor, yo
sé que cada una de las Hermanas tiene buen corazón.”
                 (絵本『ラファエラ』29 頁)

ラファエラは一切をご存知である神に深い信頼を寄せて、その配慮にすべてを任せ、自分が総長の任を去ることで事がきれいに解決するのであれば、喜んで辞任したいと、教会の上長である保護枢機卿に申し出た。枢機卿は1892 年1 月、ラファエラをローマ呼び、名目上は総長としての立場を続けながら、実際上総長の職務は姉のドロレスに委託するように計らった。
翌年、1893 年、保護枢機卿は新たに3 つの解決策を提示し、どれか一つを選ぶように任せた。一つは、姉に付与した総長代行権を拡大強化する道、もう一つは、ラファエラが再び全面的に統治に着く道、そして三つ目は、総長職を辞して修道会総会を開催し、新総長を選出する道であった。ラファエラは第三の道を選んだ。同年6 月に総会が開かれ、新総長として姉のドロレスが選ばれた。そのときラファエラは43 歳という人生の最も円熟した時期にあったが、以後、人々の目から全く隠れた生活に入った。

ラファエラは、総長の仕事をお姉さんのドロレスに譲ると、スペインを離れ、遠いローマの修道院に移って、目立たない奉仕の生活を始めました。若い時から望んでいた生き方です。命令を出す側から、命令を果たす側になりました。

Later, handing over the post of Mother General to Dolores, Rafaela
left Spain for a convent in faraway Rome, and there she quietly
started a new life, dedicating herself to God and the people. This
was what she had wanted most. Her role had changed from that of
one who gives orders to that of one who obeys them.

Rafaela, dejando a su hermana Dolores el cargo de Madre General se
marchó de España a un convento de la lejana Roma, donde empezó
una vida nueva de servicio oculto. Esto era lo que deseaba ella desde
joven. Su misión había cambiando: de dar órdenes había pasado a
obedecerlas.
                 (絵本『ラファエラ』30 頁)

暑い夏の日も、きびしい寒さの冬の日も、ラファエラのほほえみは変わ
りません。責任のある仕事はもう頼まれません。来る日も来る日も「手
伝い」の毎日です。でも、ラファエラはうれしそうに、どんなことも気
持ちよく引き受けていました。そんなラファエラを、おどろきと尊敬の
目で、そっと見つめている若いシスターもいました。

Rafael’s smile was always the same whether in the heat of summer
or in the freezing cold of winter. Important tasks were not required
of her any more.
Day after day, she had to support others as a mere assistant.
Nevertheless, she was always willing to undertake any work which
she was asked to do.
Some of the young nuns secretly watched Rafaela with amazement
and admiration.

Tanto en el calor infernal del verano como en los días glaciales del
invierno, la sonrisa de Rafaela no cambiaba. Ya no le pedían ninguna
tarea de responsabilidad. Día tras día su trabajo era de mera
asistenta. Pero Rafaela aceptaba cualquier tarea siempre con alegría.
Algunas Hermanas jóvenes la miraban en secreto con gran sorpresa
y admiración.
                 (絵本『ラファエラ』31 頁)

この頃、ラファエラが書き残した言葉には、後世の聖心侍女たち、また多くの人々にインスピレーションを与えるものが多い。
「神がかつて外面上、華々しいわざのために、わたしをお使いになったことがあったとしても、今、人の目に隠れ、世に知られず、蔑まれながら、ひとすじに喜んで正確に神のみ旨を果たすことにより、以前と同じ光栄を人知れず神に捧げることができる。」

「主のはからいに身をゆだね、従順に神とその代理者の言うことに従って生活することよりも神をお喜ばせすることはない。イエスの30 年間のナザレトでの私生活はそのよい模範である。」

「世に隠れ、人々に忘れられて生きることを大きな恵みとみなさなければならない。かといって、決して怠惰に流れ、無為に過ごすことなく、イエスが聖母の胎内におられたときのように、始終、全世界の人々のために自分を犠牲にしなければならない。」

7.創設者姉妹の祈りと愛

何年か過ぎて、ラファエラの失敗と思われていたことは、会計係の帳
簿の付け違いによるものとわかりました。驚いたお姉さんのドロレスは、
ラファエラに謝りました。そして、なんとかして、ラファエラの名誉を
取り戻そうとしました。でも、ラファエラは言いました。
「お姉さま、心配なさらないで下さい。すんだことは全部、忘れましょ
うね」

Some years later, it was discovered that what had seemed to be
Rafaela’s fault had actually been the result of mistakes made by the
person in charge of keeping the accounts of the Order. Dolores was
shocked, and apologized to Rafaela for having misunderstood her.
She then tried to get Rafaela to clear her name. But Rafaela said to
her,
“Please don’t worry. I am all right as I am. Let us forget all the
things that have already passed.”

Pasados unos años, se descubrió que la aparente falta de Rafaela era
un error causado por una persona encargada de la contabilidad de la
Congregación. Su hermana Dolores, sorprendida, le pidió perdón por
el malentendido e intentó restaurar el honor de su Hermana. Pero
Rafaela le dijo:“ No te preopupes. Estoy bien así. Olvidemos todo lo
ya pasado.”
                 (絵本『ラファエラ』32 頁)

神は、ラファエラとドロレス姉妹を最後には、同じ道に導き、二人はそれぞれの個性と役割を通して、修道会の創立者姉妹として深く結ばれ、後に続く修道会の土台、模範となった。
修道者として同じ道を歩んでも、一つの組織体であり、その運営のプロセスにおいて様々な行き違いが生じ、また人間的な名誉心や野心によって、単純な信頼関係が崩れ、お互いに牽制し、分裂の傷を刻んでしまうことがある。第二代総長となったドロレスもまた、統治能力に欠けるものとみなされるようになり、ドロレスはマドリードから1903 年にヴァリャドリードに移され、1906 年、正式に総長職を辞任するまでの間、総長代行にアマリア・プリシマが教会指導者によって任命された。こうして姉ドロレスもラファエラと共に貧しく蔑まれたイエス・キリストの道を歩み、死にいたるまで修道院の中で人の上に立つことなく、十字架の神秘を抱きしめつつ、日々を歩み、謙遜と愛を体得していった。

修道会の歴史には凄まじいものがある。しかし、人が清められ、神の子としてのまことの命を豊かに実らせるために、何が大切なのかを学ぶことができる。

第三代総長となったプリシマは、二人の創立者姉妹について、二人とも聖なる方、良い方であるが、「頭がおかしい」という風評を会の中に広げ、修道会の保護枢機卿を取り込んで、自分の思い通りに動かしていった。その統治の期間は約30 年におよぶ長期にわたった。そのうちにラファエラとドロレスは創立者であることさえ忘れ去られていった。不思議なことに、プリシマの統治の間に修道会は外面的には大きく広がり、南米各地にまで設立されていった。他方、ラファエラとドロレスは修道会統治者が「謙遜の精神」を取り戻すように祈り、犠牲をささげ続けた。
ラファエラは、姉が総長職を辞した1906 年、スペインの修道院各地を訪問することが許された。そのとき、シスターズはかつての創立者を目にして喜んだが、彼女は共同体が傷ついている現実を知り、苦しんだ。
「修道会の多くの共同体を訪問したとき、私たちの行いにおける、美しい愛徳と単純さの精神が失われており、その代わりに、外交的手腕、悪巧みの精神、欺瞞が入ってきているのを見て、大きな悲しみを覚えました。今の修道会の精神は、修道生活における本当の精神である愛の精神よりは、むしろ怖れの精神になってしまいました。新しい総長が訪問するとき、彼女は暴徒のように、大声を出したり、呟いたりすることから始めるそうです。そして、彼女が行く時、皆は震えあがり、できるだけ早く彼女が立ち去ってくれることを望むのだと聞きました。」
これはラファエラが保護枢機卿に報告する手紙に見られる記述である。

修道会は統治者のひどい、人を傷つける決定、不当な除外、悲しみの渦の中にあっても、神への単純で深い信頼に満ちた寛大なシスターズによって、その本体の健全さを保つことができた。とりわけ、謙遜と、仕事に対する愛、清貧、そして喜びの精神を失わなず、ひたすら神のみ旨を愛し、周りの人々への愛に生きた会員が修道会本体を支えていた。
ラファエラは、当時逆境にあった姉に書いている。「すべてを喜び、満足しましょう。なぜなら、全ては神のみ旨ですから。神が望まれることを、私たちは大いに喜ばなければなりません。」「消えることなく、永遠に残ることがあります。それは人が行った善いわざと、イエスのために苦しんだことです。」

頭がおかしいと思われたラファエラは、精神の異常をきたしているどころか、類まれなる平静を保っていた。それは自分の考えを堅持する理由をのべたり、求めたりする賢い人物の平静さではなく、むしろ、聖人の平静さであった。そのため、彼女は自分の受けた不当な扱いにもかかわらず、正当な上長への謙遜な従順と内的自由を兼ね備えることができた。またどんな姉妹にたいしても変わらぬ姉妹愛と修道会に対する忠実さを結びつけることができた。

ラファエラは姉ドロレスを修道会の礎となるように励ましている。 「私たちは修道会の中で最初の者として、沢山苦しむ務めがあります。目に見えない礎(いしずえ)になることです。礎が目にみえるとすれば、どれほど醜いことでしょう。壊され、踏みつけられた石は、建物を支えます。そして、建物が美しければ美しいほど、土台はより深くなければなりません。重機によって荒々しく粉々にされるのです。私たちの会は大変貴重なものです。だから、私たち最初の会員は、神が使おうとして選ばれる道具によって地中深く打ち込まれるままにされなければなりません。
全ては神の御手から来ます。神はすべてをご自分のより大いなる栄誉と栄光のために導かれます。私たちは寛大で、本当に善良で、たとえ血の涙を流さなければならないとしても、神をお喜ばせしなければなりません。主イエス・キリストがまずそうしてくださったのですから。勇気と寛大さを私はいつもあなたのために祈っています。私のためにも同じものを祈り求めてください。」

Ⅲ.ラファエラの晩年とその後継者たち

8.人の真実が知られるとき・・・

ある日、修道院の全員が教皇さまにお目にかかりました。ラファエラも
皆のうしろに並んでいました。広間に入ってこられた教皇さまは、こう
尋ねました。
「マドレ・サグラド・コラソン(ラファエラのこと)はいないのかね?」
一瞬、しーんとしてから、ざわめきが起こりました。「教皇さまはどう
してラファエラをご存知なのかしら?」

恥ずかしそうに前に出て跪いたラファエラを、教皇さまはご自分の隣に
座らせました。「誰なのだろう、この人は」教皇庁の偉い人たちも、首
をかしげました。実は30 年あまり昔のこと、まだ教皇ではなかったこ
の方は、マドリードで、若いラファエラ院長を支え、聖心侍女修道会の
ために力を尽くされたのです。
ラファエラが総長を辞めてから20 年近くたっていました。
お姉さんのドロレスと共に修道会の創立者であったこと、最初の総長
だったことを知っているのは、修道院の中でも、ごくわずかな人だけで
した。

One day, all the members of the Order had a chance to meet the
Pope. Rafaela was also there, standing behind everyone else.
When he entered the hall, he said:

“ I would like to see Mother Sagrado Corazon”,meaning Rafaela.
After a moment of utter silence, people could be heard murmuring
“How does the Pope know Rafaela?”

Rafaela stepped up to the front and shyly knelt before the Pope, who
seated her next to him. Even the greatest people there would
wondered,“ Who on earth is this person? Who can she be?”
The fact is, the Pope had helped young Rafaela in Madrid about thirty
years before when he was a priest, supporting her in establishing the
Handmaids of the Sacred Heart of Jesus.
It had been almost twenty years since Rafaela resigned from her
position of Mother General of the Handmaids of the Sacred Heart of
Jesus, and only a few people knew that she was a co-founder of the
Order with Dolores, and that she had been the first Mother General.

Un día todas las Hermanas de la Congregación visitaron al Papa.
También Rafaela estaba allí, de pie detrás de todas.
El Papa, al entrar en la sala, dijo:
“Me gustaría ver a la Madre Sagrado Corazón (refiriéndose a Rafaela)”
Tras un momento de silencio surgió un murmullo:
“¿Cómo conoce el Papa a Rafaela?”

Rafaela salió timidamente y se arrodilló ante el Papa, que la sentó a su
lado. Los dignatarios presentes se extrañaron:“ Quién será esta
religiosa?” Pues bien, 30 años antes, el Papa, que era secretario del
Nuncio en España, ayudó a Rafaela, la Madre Superiora, apoyándola en
la fundación de las Esclavas del Sagrado Corazón.

Ya habían pasado 20 años después de dejar el cargo de Madre General
y pocas religiosas sabían que Rafaela había sido fundadora de la
Congregación, junto con su hermana Dolores, y además la primera
Madre General.

思いがけず、皆の注目を浴びたラファエラでしたが、
「私の歴史は、神さまのみこころの中にだけ書き記そう」と、決心してい
ました。

All eyes were unexpectedly drawn to Rafaela, but she had decided
that her story should be written only in the heart of God.

Inesperadamente todos los ojos se volvieron a Rafaela, pero ella estaba
decidida a“ dejar su historia esctita solo en el corazón de Dios”
                 (絵本『ラファエラ』34、36、39 頁)

1916年7月1日、姉のドロレスは、不当な扱いを受けた晩年を静かに閉じた。その生涯の終わりに彼女の口からでたのは、感謝のことばだけであった。

1916 年7 月1 日、姉のドロレスは、不当な扱いを受けた晩年を静かに閉じた。その生涯の終わりに彼女の口からでたのは、感謝のことばだけであった。
ラファエラは「世界の人が一人でも多く、神さまの愛を知り、その愛に応えるように」と祈り続けた。最後の3 年間は長時間、跪いて祈ったため両膝に大きな「たこ」ができて、それを切開手術したが、痛みはずっと残った。ゆっくり押し寄せてくる死の苦しみを耐え忍び、1925 年1 月6 日、地上での生涯を閉じ、安らかに父なる神のもとに旅立った。

ラファエラの遺体は、二晩、聖堂に安置された。ある会員がラファエラの死後、述懐している。
「ラファエラは死後、全く、お変わりになりました。そのお顔は天上的なものとなり、そこには、いつもの微笑がたたえられ、まるで生きておられるようでした。わたしはご遺体を聖堂にお運びする役目をいただきましたが、そのとき、お顔は一段と美しくなってゆかれました。私はもし、許されたならば、決しておそばを離れなかったことでしょう。お姿を眺めていると、信仰が深まり、何か大いなるものを感じましたが、他の方々も同じようにおっしゃっていました。」

9 年前に他界した姉ドロレスは、晩年、自分と妹を比較して次のような美しい言葉を遺した。

Rafaela008

ローマのヴェインテ・セッテンブレ修道院聖堂に安置されている聖ラファエラ

「ラファエラは見かけ以上に温かい愛情の持ち主であり、このことは家族やその他、精神的にしろ、肉体的にしろ、何か悩みのある者たちを交わるときに、特にはっきりと認められました。
私に手紙をよこすときには、そのようなことについてしか話しません。ラファエラは外面より内面が豊かですから、もっと私より優れています。私は外に表しますけれど、決して心にないことを言っているのではありません。とにかく、ラファエラが私よりも優れているのは自制することを知っている点で、それによってあのように周囲によい影響を与えているのです。…… 修道生活において、特にラファエラが神さまの御前でよい性格を作り上げてゆき、私も劣らずにそうしていることをお聞きになれば喜んでいただけるでしょう…… 」

謙遜な神のはしためであったラファエラの名声は、この世での隠れた生涯を終えると、驚くべき速さで世界の果てにまで伝わり、教会事務の複雑な車輪を激しく揺り動かした。ラファエラに祈ることによって、恵みが与えられたという便りがローマに次々に届いた。死後11 年目の1936 年に列福調査が開始され、1949 年、ラファエラの英雄的徳がカトリック教会から宣言された。神はラファエラの取次を求める人々の願いに応えて、多くの癒しの奇跡も行われた。1952 年5 月18 日、ラファエラは福者と宣言され、さらに1977 年1 月23 日、教皇パウロ6 世によって聖人として認められ、称揚された。
「ラファエラ・マリアは非常に謙遜で、優しく、柔和で、物静かで、溢れるばかりの精神的豊かさと、すばらしい感化力の持ち主です。…… 彼女の声が聞こえてくるようです。私たちが一人ひとり自分に適した方法で、聖性の道を歩むようにと招く声です。……“
さあ、いらっしゃい”と優しく説得力のある声で、彼女は呼びかけているかのようです。“いらっしゃい、試してごらんなさい。聖人たちの道を辿ってみましょう。それはまず、祈りの道です。聖体のうちに姿を隠して現存しておられるイエスに対して、我を忘れるほどの状態で沈黙のうちに礼拝に専心するのです…… ”イエスご自身が言われたように、イエス・キリストは小さい者にご自分を現されます。すなわち、謙遜な人、単純な人、心の清い人、汚れのない人、善良な人、信仰・希望・愛のうちに生きるご自分の弟子たちにです…… その時、イエスの声が聞こえます。行って、助けを必要としている兄弟姉妹に仕えなさい。特に、教育、援助、愛を必要としている人々のところへ」

9.創立者姉妹の後継者たち、今、どこで……

世界は目まぐるしい変化の渦中にあって、教会も修道会も100 年、150 年前とは違う形姿になった。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」と第二バチカン公会議の『現代世界憲章』がその冒頭で述べているように、聖心侍女修道会も、新たな形の貧困、人間社会の苦しみあるところに、神の愛を神とともに携えようとし、小さくなりながら、今、変身を遂げようとしている。

教育活動とイエス・キリストへの公的礼拝(聖体礼拝)は、昔も今も変わらない聖心侍女修道会が神から受けた使命である。ただ、その表し方・形は場所によって変化している。 礼拝はただ、教会や聖堂の中で行うだけでなく、労働者の仕事場や野外で行われることもある。教育活動は、学校の中だけでなく、苦しむ人びとが生活する場で行われることも多い。特に教育を受ける機会のない幼い子供たち、労働を強いられている子供たち、虐げられている女性たちへの啓発活動、自立支援活動…… 。グローバル世界の中で生きる多くの移住労働者、難民とともによりよい世界を創る教育活動。日本では、学校教育活動を大事にし、できる限りの資源・人力を注いできた。今は、教育の現場に適応困難な在日外国人の子どもたちへの必要な支えを、他の修道会や教会の信徒たちと協力して働く方向へシフトしている。
日本からも、シスターズを海外に派遣し、インド、フィリピン、東チモール、ローマで活躍している。また市民運動であるNGO に参加し、修道院の中、修道会の事業にこだわるのではなく、他のグループと協働するようになってきた。
日本のためだけでなく、地球市民として、世界の国々の人々と同じ神に愛された兄弟姉妹として助け合う若い世代の人々が、ラファエラ・マリアの生き方を継承してくれることを祈り、この小伝を閉じよう。

以下、2015年度現在の、世界各地での活動場所紹介。

アジア
日本管区:修道院 5 東京都(五反田、用賀)、鎌倉市(雪ノ下、大船、玉縄)、長野市(箱清水)
(学校) 清泉女子大学、清泉インターナショナルスクール、清泉小学校、清泉女学院中学高等学校、長野清泉女学院中学高等学校、清泉女学院短期大学、清泉女学院大学
現在の主な活動は、在日外国人支援と教会司牧
フィリピン準管区:修道院4 Queson City(幼稚園と黙想の家)、Naga City(小学校)、Daraga-Albay(学生寮)
インド地区:修道院 6 Kochi(ダウン症の子供たちの学校と職業訓練作業所)、Mumbai(ダウン症の子供たちの学校とダウン症の子供たちの学校と職業訓練作業所)、Pune(女性の自立支援)、Roha(山岳民族の子どもたちの寄宿舎、村人の啓蒙活動)、Orissa(女子学生寮)、Vypeen(Kochi)(保育園と女性の自立活動)
東チモール:修道院 2 Dili(女子学生寮、日本語・英語教室、コンピュータ教室、地域開発支援)
Bazartete(幼稚園)
ベトナム:修道院 2 Hanoi(幼稚園・小学校)
アフリカ地区
カメルーン:修道院 3 Mbalmayo(幼稚園、保健センター、憩いの家)、Sangmelima(幼児・小学校教育)Yaounde(修学院)
コンゴ:修道院2 Kinshasa-Cite Mpumbu (幼児・初等教育)Kinshasa-Mont Ngafula(社会司牧、修練院)
南米
アルゼンチン・ウルグアイ管区:修道院 6 ARGENTIN-Buenos Aires( 学校、霊性センター)、Belgrano( 学校)、Itzaingo(学校)、Bario Nuevo(学習センター)、Sanchales-Cordoba(教会司牧)、URUGUAY-Montevideo(霊性センター)
コロンビア・パナマ管区:修道院 6 COLOMBIA-Bogotá 3 つ(学校/ 高齢者シスターズの共同体/ 霊性センター)、Medellin(食堂)、San Antonio de Pereira(寮、教会司牧)
PANAMA-Panama(学校)、San Felix(移住労働者司牧)
エクアドル管区:修道院 5 Cuenca(コンビベンシア)、Guayaquil(学校/教会司牧)、Quito(学校/養成)
ペルー・ボリビア管区:修道院11 BOLIBIA-Cochabanba(学校)、Oruro(学校・教会司牧)、Santa Cruz(学校)
PERU-Arequipa(学校)、Amazonas(専門学校)、Chaclacayo-Lima(祈りの家)
Chota(教育専門学校)、Jaen(霊性センター)、Lima 1(修学院)、Lima 42(祈りの家)、Piura(学校)Santa Maria de Nieva(教会司牧)
チリ準管区:修道院 3 Cerro Navia-Santiago(学校)、Santiago(学校)、Tierra Amarilla(教会司牧)
キューバ:修道院 1 Villa Clara-Cuba(地域協力)
北米
USA管区:修道院 5 Athens(移住労働者司牧)、Haverford(祈りの家)、Miami(野宿者支援)、Philadelphia(難民・移住者支援)、Wyncote.PA(学校)
ヨーロッパ
北大西洋・欧州管区:修道院 11 FRANCE-Avernes(祈りの家、移住労働者司牧)、Paris(学校)
ENGLAND-Beckenham-Kent(教会司牧)、Bournemouth(教会司牧)
London(学校―幼稚園、小学校)
IRLAND-Stillorgan,Co.Dublin(学校・寮)
PORTUGAL-Alhos Vedros(教会・社会司牧)、Lisboa( 教会学校司牧)
Palmela(祈りの家)、 Porto(学校/ 高齢者の家)
スペイン管区:修道院 35 Alcoy-Alicante(学校)、Algarrobo Cosgta-Malaga(祈りと憩いの家)、Barcelona(学校―幼稚園、小学校、中高・大学生寮)、Benirredra-Valencia(学校―幼稚園、小学校、中高・祈りの家)、Bilbao(学校)、Burgos(大学生寮)、Cadiz(学校/寮)、Cordoba(学校)、El Puerto de Santa Maria-Cadiz(学校)、Granada(コレヒオ・マヨール)、Jerez de la Frontera(学校)、Madrid(霊性センター/学校―幼稚園、小学校、中高、/学校―幼稚園、小学校、中学・養成の家/高齢者の家/巡礼者の家)、Oviedo(霊性センター/社会司牧・永久礼拝)、Pamplona(学校―幼稚園、小学校)、Pedro Abado(教会司牧)、Salamanca(高齢者の家/大学生寮)、San Sebastian(大学生寮・病者の家)、Santander(学校―幼稚園、小学校、中高/ 高齢者の家/教育活動)、Santurce-Vizcaya(教会司牧)、Sevilla(コレヒオ・マヨール)Valencia(学校―幼稚園、小学校、中高、養成の家/高齢者の家/教会司牧)、Valladolid(大学生寮、永久礼拝)、Zaragoza(大学生寮・病者の家/教会司牧)

Ⅳ.ラファエラ・マリアの名言と内的手記から

10.ラファエラ・マリアの名言集

・今年こそ 主の喜びとなりたい。

・わたしの生涯を愛の絶え間ない業としよう。

・心が愛で 満たされれば満たされるほど 神はいっそう喜ばれる。

・わたしのまわりにいるすべての人を 幸せにするよう働くこと、それが本当の愛。・すべてのことをどんなに平凡なありふれたことでも、神のみ前で 神のためにしよう。

・主がわたしたちを、主の支えなしに 自分の力だけにされるとき、わたしたちは なんと弱い者だろう。

・主は わたしを ご自分の目のひとみのように 大切にしてくださる。

・私たちは ほんとに小さな弱く貧しいもの。だからこそ、神の恵みに信頼し、大きな望みをもとう。

・わたしの軛は負いやすく、その荷は軽いと、主は言われた。 私たちにそれが重くなるのは 自分の力に頼ってしまうから。

・主は わたしのすべてを心配してくださる。それで わたしは主に信頼しきっている。

・人々が 神をおよろこばせするように…… そのための道具にしていただいたことをどんなに感謝し、よろこばなければならないだろう。

・人々の救いのために 一生けんめいに祈ろう。 そして この決心が 中途半端なものにならないよう つとめよう。

・わたしの道は 数多くの祈りを唱えることではなく、 深く祈る道。

・心をそっくりそのまま神に捧げよう。利己心のかげもない 神への愛に満ちた心しなびた心ではなく、はちきれそうな心を まるごと 差し上げよう。

・神のために わたしにできる 一番すばらしいことは、み旨にすっかり自分を委ねどんな小さな妨げも 置かないこと。

・心が騒いでいるときは 口をつぐみ、一眠りするまで それについて考えないようにしよう。

・聖人たちについて いちばん感嘆することは 試練のときに彼らが示す 深い謙遜。

・わたしの生涯を 信仰と寛大さによって織り上げていく 布としよう。

・大いに奮発し ゆがんだ傾きに 力いっぱい逆らって生きるよう つとめよう。 自分に打ち勝てば打ち勝つほど もっと力を得る。 そう望んでおられるお方が 力強い助けを 確実にくださるのだから。

・苦しみ、侮辱、遺棄が多ければ多いほど、後にはのっと素晴らしいものとなる。

・神のために働き そして地上で十字架を受ける人は 本当に幸い。

・苦しみがやってくるときも 喜んでいてください。苦しみは ご自分のいのちをかけてあなたを愛されたお方の 優しいみ手から 来るものなのですから。

・わたしたちの心は 衰えるどころか、むしろ年を重ねるにしたがって 若くなっていきます。神の恵みで豊かにされるからです。

・キリストの心をもって 苦しみを忍ばない人は キリストと一致することはできない。

・自分の貧しさを知っている謙遜な素朴な人の願いは、神のこころを動かしてしまう。

・一人ひとりは、尊い神の子イエスの御血に贖われたのです。

・すべての人を神の像として尊敬しよう。 本当にそうなのだから。

・すべての人は神の子キリストの生涯をかけた血によって贖われた。その御血は一滴ですら失われてはならない高価なもの。

・神を愛し、神に仕えるために 聖なる人になろう。

11.ラファエラ・マリアの内的生活

★魂の糧

ラファエラは神のいのちに生きるために、神から自分を遠ざけようとする誘惑が何であるかを見抜いていた。そのため、誘惑と正反対の道をいさぎよく歩み続けようと努めた。ラファエラが特に戦ったのは名誉心に対してであった。彼女は名誉心が、いかに深く人の心の奥底に潜む願望であり、これがどれほど自分を堕落させる罠となるかをよく悟っていた。そのため、屈辱や卑下を受ける機会を、自分の内面に神のいのちを養う不可欠の糧として抱きしめた。

・わが主イエス

・キリストと聖母とは私たちの模範である。主イエスも、聖母も、この世にいらしたときには、何の例外も特権もお望みにならなかった。この世において最も名誉なことは、このお二方に倣うことであり、またこれは最も完全で聖なることである。

・私の精神は自愛心にとりつかれ、全く弱っている。今、必要な糧は自己卑下である。それはきわめて必要であり、私はそれをしきりに望み、しつっこく願い求めなければならない。ところで、始終、心の内と外、特に心のうちで沈黙を保っていることが必要である。

・侮辱、はずかしめ、誤解など、これらを私の霊魂の糧として受けなければならない。これによって、キリストはその霊魂のうちに生き、このような苦しみによって鍛えられた霊魂を純粋な愛で満たし、緊密に一致してこれと一体となられる。

・私は賛辞を屈辱であると考え、悪魔をおそれる以上に恐れる。

・たとえ、人々の目には何の役にも立たないつまらない者と見え、忘れられてしまおうとも、苦しみの道をキリストに従って歩みたい。

★神と私

神は弱き者のうちにご自分の力を発揮されると、聖書に書かれている。神にとって、傲慢な者ほど愚かな者はなく、貧しい人、罪深い人を招き、愛するとも書かれている。しかし、現実世界には、自分が神のあわれみを必要とする貧しい、罪多い者であるという認識を持つ人は多くない。というのもこの自己認識は神を知る恵みによって生まれるからであろう。ラファエラはこの自己認識を常に新たにしていた。

・自分のありのままの姿、つまり、自分は神の憐れみに支えられ、かろうじて存在する弱い、もろい、罪に汚れた器であることを常に心得ていなければならない。

・私は自分が小さな何もできない者であるのを見ると、ほっと安堵の気持ちを覚える。なぜなら、私と私にかかわることの中でなさる神のお働きがすべて明らかに見えるからである。これこそ、私の望んでいるところである。

・私たちは何の役にも立たない無に等しいものであり、たまたま何かうまくやり遂げることがあったなら、そのとき、主が自分を道具に用いられたからであることを、はっきり悟ることが大切である。私がしたのである、それをしたのは私であると自負する者があるなら、主は、私たちの愚かな自惚れを何とおかしなことだと笑われるだろう。

・主こそはすべての善の源であり、私たちはひとりでは何事もなし得ない。かえって時には、神を拒むほどの大きな悪をなすに至る者であることを認めねばならない。

★使徒の心

ラファエラの心の中には、常に全世界の人々が生きていた。彼女の隠れた生活への望みは厭世的な気持からではなく、神と人への強い愛から生まれたものであった。

・世に隠れ、人々に忘れられて生きることを大きな恵みとみなさなければならない。かといって、決して怠惰に流れ、無為に過ごすことなく、イエスが聖母マリアの胎内におられた時のように、始終、全世界の人々のために、自分を犠牲にして捧げなければならない。

・人々の救いを熱望する心を燃え立たせましょう。けれども、たった十人足らずの人々ではなく、何億何千万人もの人々を念頭に置きましょう。聖心侍女の心は、ある限られた特定の人々のためだけでなく、全世界に開かれていなければなりません。すべての人間はイエスのみ心に愛された子らであって、イエスの御血はすべての人のために流されたのです。

★神の子らの道

ラファエラは、神に創造されたものとして人間はどのように生きるべきかを、いつも透明な心で、曖昧にではなく、実にはっきりと語っていた。

・被造物―地上にあるものはことごとく神のものである。人間がそれを神の栄光のために用いないならば、神のものを盗み、乱用することになる。あたかも、それらを自分のものと考えてしまうのと同じようだ。

・神のみ旨に最も適う業は、神だけを証人として行う業である。

・現世は何とはかないものであろう。善人も悪人も、すべて過ぎ去ってしまう。
ただ一つのこと、つまり、イエスのためにした善とイエスのために苦しんだことだけが永遠に残る。それは消すことのできない神の摂理の本に書き留められるからである。

・聖人が少ない理由は、私たちが、他人の才能や徳に支えられてはじめて徳を積むことができると思うからであって、もし、神の力を頼りにし、その導きに強力して聖なる生活を送るなら、私たちは聖人になり、神が私たちをお選びになった使命を全うすることができる。

ラファエラ・マリアの内的生活は、24 歳で生涯を閉じたリジュの聖テレジア、そして、この若い聖人を師と仰いだマザー・テレサの霊性と驚くほどよく似ている。外面に現れた姿はそれぞれ全くことなるのだが。マザー・テレサはキリスト教徒だけでなく、世界のどの宗教の人々にもまた無宗教の人々にも親しまれた現代の聖人である。最後に彼女のことばを紹介してこの「小伝」を閉じよう。

「すべての些細なことを、愛による行為として活用しよう」。マザー・テレサはシスターたちにこのことを説明した。「神は非常に偉大で、わたくしたちはとても小さいので、善良な神に対して小さいというものは、全くありません。だからこそ神は、わたくしたちの神に対する愛を証するチャンスを与えるため、身を低くされて、小さなことを創る手間をとってくださるのです。神が小さいチャンスを創ってくださるのですから、それらは偉大です。神が創られるものに小さなものはなく、それらは無限です。そうです、わたくしの愛する娘たちよ、愛の小さな行い、小さな犠牲、会則に対する小さな忠実、小さな内的克己などへの誠実さが、あなたがたの内に聖性の命を育み、キリストに似た者とするでしょう。」
(1960 年11 月初金曜日、マザーテレサから、神の愛の宣教者会シスターたちへ)

「大きなことを求めないでください。大きな愛をもってほんの小さなことをしなさい。小さければ小さいほど、わたくしたちの愛はもっと大きくなければなりません」
(1981 年10 月30 日、マザーテレサから、神の愛の宣教者会シスターたちへの講話)

参考資料

1、『 絵本 ラファエラ』 文 大平尚子a.c.i.   2003年 東京印書館
絵 榎本香菜子(清泉女学院20 期) 英訳 鍵山真由美(英27 期) 西訳 佐藤紘子(西13 期)
2、大平尚子『ラファエラ・マリア・ポラス』聖母文庫、聖母の騎士社2000
3、 塩谷惇子 「ラファエラ・マリアの生涯」清泉文苑 第5 号、第6 号 清泉女子大学人文科学研究所
4、 聖心侍女修道会、塩谷惇子 「一粒の麦 地におちて…… 」1977.4.10 東
京大司教認可
5、 ブライアン・コロディエチェック編集・解説、里見貞代訳『マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!』女子パウロ会2014 年11 月
6、、 インマクラーダ・ヤネス著 聖心侍女修道会訳『いしずえ』2014 年改訂版
Inmaculada Yañez aci“ Cimientos para un Edificio―Santa Rafaela Maria
del Sagrado Corazón” BAC, Madrid 1979

清泉女子大学と聖ラファエラ・マリア

1934 年11 月9 日、ラファエラ・マリアの意志を継ぐ聖心侍女修道会のシスターズ4 名が日本の土を初めて踏み、東京の麻布三河台に修道院が創立された。
その前年、日本は国際連盟を脱退し、カトリック教会に対する弾圧が頻繁に行われていた。満州事変が起こり、軍国主義の風が吹き始めた頃だった。ちなみにスペインでも1931 年には教会への迫害が広がり、イエズス会士は国外に追放された、そのような時勢であった。しかし、当時、シスターズはそうした政治状況をよそに、ひたすらラファエラ・マリアと同じく神の愛に応え、神の愛を伝えたいという熱心に燃えていた。
1935 年4 月には麻布三河台に、高等学校を卒業した女性のために清泉寮を開校した。まもなく、太平洋戦争が勃発し、シスターズは長野県の寒村に疎開し、凍えるような寒さと食糧難の中で敵味方国の区別なく支え合った。
1945 年、戦争が終わると、早速、長野の清泉寮を開校し、今日の長野清泉女学院中学高等学校と長野の清泉女学院短期大学および大学の礎石を置いた。同時に横須賀では清泉女学院小学校、中学高等学校、清泉女子大学が設立された。これら姉妹校はみな聖ラファエラ・マリアの精神を基盤として教育を行い、彼女を学校の創立者として仰いでいる。

キリスト教用語解説

1. 列聖式:厳正な調査と証言によってあるキリスト信者が神と人への愛に生き、神への信仰・希望・愛の模範であることを教会が宣言する公けの儀式。

2. 聖体礼拝:救いのためにすべてを捧げたキリストが、最後の晩餐のとき、これは「わたしの体」と言われて、パンを分けて弟子たちが食した。そのパンの形態のうちに現存するキリストご自身を礼拝し、キリストへの信仰、希望、愛を表す祈り。

3. 秘跡:目に見えない神の恵みの目に見えるしるし。教会は神との交わりと全人類一致のしるし、道具としての第一の秘跡。教会には個別に7 つの秘跡がある。洗礼、堅信、聖体、叙階、結婚、ゆるし、病者の塗油。

4. 修道会:キリストに生涯を捧げるという同じ目的をもって集まった男子、または女子のグループ。三つの誓願(貞潔、清貧、従順)をたて、イエスの教えに従って共同生活をし、福音宣教と礼拝に従事する。

5. 教区長直轄の修道会:修道会には全世界の信徒を統治する教皇直轄とある特定の地域を統治する教区長直轄の修道会がある。

6. イエズス会:スペインのバスク地方ロヨラ出身のイグナチオが創立した近代の修道会。活動の中の観想を旨とし、貧しく、蔑まれたキリストに従い、宣教活動に従事する。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはイグナチオの同志。

一粒の麦、地に落ちて実を結ぶ
〜聖ラファエラ・マリア小伝〜
発行 2015 年4 月1 日
編集・作成 シスター塩谷a.c.i.