1887年1月29日
1887年の1月下旬、聖省の顧問は、遂に好意的な報告書を作成した。入念に会憲に目を通した彼は、――確かに、何と長い時間をかげたことだろう!――幾つかの具体的な注意書きに留意しつつ、筋の通った順序に基づいて、もう一度会憲を編纂しなおすべきであると判断した。しかし次のように付記した。「この修道女たちは、確かに主の息吹に満たされており、(会憲も同様であるが)召された目的に到達するために活気に満ち、燃え盛る火のような熱烈な望みに恵まれているので、認可すべきであると思う・・・。」 結局、彼は認可に賛成し、最終的に会憲が認可される前に、これを書き改めるように勧告した。
1月28日に開かれた会合で司教律修者聖省は、顧問のトマス・デ・フォルリ師の意見を受理し承認した。翌日1887年1月29日、聖省の長官マソッティ枢機卿は、勅書に署名したのである。その日マドレ・ピラールは直ちにマドリードに向けて打電した。
午後三時であったが、電報局では、二時間余りで着くであろうと言った。果たしてその通りであった。「土曜日、午後の五時に、私たちは大喜びで電報を受け取りました。テ・デウム、マグニフィカット、ラウダテを歌いましたが、それはもう歌というよりは、歌う人たちの喜びの絶叫でした・・・。」 (1)
「今日のそちらの喜びを想像しています。」とマドレ・ピラールは翌日になって書いている。彼女の推測に間違いはなかった。喜びは余りに深く、余りに激しく、他の全ての感情を消し去ってしまった。教会のあらゆる感謝の讃歌も、この時の喜びを表すにはもの足りなくさえ思えた。過ぎし日の苦しみも、あるいは確かにマドレ・サグラド・コラソンが将来について予測していたことも、この時の喜びには比へることが出来なかった。彼女はこの時に受けた特別の恵みに熱心に応えることは、修道会の母として味わうであろう喜びも苦しみも、前以て受け入れることであるということを十分に弁え、自覚していた。子供っぽい夢に浸ってはいなかった。以後、彼女に多くを求めるであろうこの神の賜物を、彼女は全存在をあげて抱きしめたのである。認可の勅書はまだ手にしてはいなかったが、この後どれほどしばしば、彼女はこれについて黙想することであろう。最後の節は勧告であったが、それが素晴らしいのは、修道会が既に何年も前から歩み続けて来た道を、確認するものであったからである。それは新たに始めることではなく、続けて行くことであった。
「それゆえ、姉妹たちよ、悪を忌み嫌い、善を行ない、姉妹愛を持って互いに愛し合い、主に仕え、希望をもって喜び、苦難のさなかにあっては忍耐強く、絶え間なく祈り、教区司教たちの指導の下に、自らと他の人々の聖化に努め、日ごとに目指す目的に到達するよう、更に続けて熱心に励まれよ。そうするなら、イエスのいとも甘美なる聖心のうちに喜び、生命の冠を受けるに値するものとなるであろう。」
「希望を持って喜び、苦難のさ中にあっては忍耐強く。」 忍耐強くという教会の勧めは、マドレ・サグラド・コラソンにとっては、殆ど必要はなかった。しかし彼女は、その文の持つ意味に二年後に書いた手紙の中で触れている。「どうぞ心配なさらないで下さい。むしろ喜んで下さい。教皇様が私たちにおっしゃって下さいましたでしょう。――認可の最後の文は、あたかも予言なさったかのようです・・・。『イエスのいとも甘美なるみ心のうちに喜び』『苦難のさ中にあっては忍耐強く』、かつてないほどに、今までにも増して主に全てを期待しましょう。」(2)
マドリードの聖堂は1887年2月20日に落成した。汗と不快のうちに出来上がった工事であった。石の一つひとつはその独特の歴史を語ることが出来たであろう・・・。マドレ・サグラド・コラソンの言葉によれば、質素で、敬虔で、美しかった。新築だったので当然美しく輝いていたが、年が経つにつれてその輝きは失われて行った。
ついにマドレ・ピラールとプリシマがローマから帰ってきたのは、春も間もない頃であった。生命の自然の喜び、全自然界の蘇りは、マドレ・サグラド・コラソンとマドリードの共同体と出会う喜びをいや増した。その上今年は、会が教皇認可より生じた確実な期待に光彩を添えるために春はやってきていた。着いたばかりの二人は工事を見て周り、特に聖堂は気に入った。マドレ・ピラールが喜んだのは他でもなく、クバス侯爵の監督によらなかったからである・・・。
選挙の見通し
会が認可されれば、会憲によって定められているように、会の統治を組織しなければならない。1877年から行われてきたあの初期のやり方は必然的に終わりを告げなければならなかった。(3) 1887年まではマドレ・サグラド・コラソンはただ一人の長であった。コルドバ、ヘレス、サラゴサやビルバオの新しい共同体を開く時に院長は任命されたが、マドリードの母院の院長に従属していた。1877年から1887年までの間、マドレ・サグラド・コラソンは厳密な意味での、会の総長ではなかったので、統治を助ける教会法による顧問会を持っていなかった。
明らかな法制はなかったが家庭的な形で習慣として行われてきたことはあった。会の中には初代の院長のために重要な問題について顧問はなかったが、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに知らせずに、またその承認なしに重要なことは何もしなかった。それは納得がいくことである。ペドロ・アバドの召命から会が設立されるまでの修道生活の歩みを二人はいつも一緒に歩んできたのである。神の計らいによって二人は創立者となった。共同体の院長として、マドレ・サグラド・コラソンが任命されたことは、創立に際してのマドレ・ピラールの重要な役割を無にはしなかったし、初期の修道女たちは皆このことを納得していた。
会が発展するにつれてマドレ・ピラールが自分の場を得ていることがより明らかになっていった。院長の命により、実質的には殆ど全ての創立を成し遂げたのは彼女であり、明らかに初期の頃から特別にその歳能を示す活動を継続していった。新しい家を開くにはいろいろな用件――司教や他の人々との折衝、賃貸借、売買契約などなど――があり、マドレ・ピラールはいわゆるそれらの専門家になっていった。これらの事柄を会の名でなし、妹との文通には、この創立に関する許可まで含まれていた。しかし、それにもかかわらず、絶えずこのように行っているうちに、この分野に於いて自分の方が優れていると自然に思うだけでなく、マドレ・サグラド・コラソンの権威に殆ど独立して、会の財産管理の責任まであるかのように感じていた。マドレ・サグラド・コラソンは自分に該当しない責任を取りたいなどとは毛頭考えていなかったし、生来の傾きから言っても野心家ではなかった。しかし彼女の望みが慎ましやかであったとしても、長上としてしなければならない義務を怠ることは、それが徳であったとしても――誤った徳であるが――良くないことを知っていた。思慮深くあるために全ての用件を、マドレ・ピラールに相談した。しかし義務上、マドレ・ピラールが始めたことの報告を求め、度々その用件を進める許可を与え、ある時には拒否することもあった。
しかし実際には、権威に暗黙の分離があった。マドレ・サグラド・コラソンは会員の養成により多く関わり、マドレ・ピラールは会の発展と財産管理に携わっていた。以上述べた分担のことはかなり自然に思えた。そのことを指して、非常に簡単だが決まり文句のように、マドレ・サグラド・コラソンは「心をつくり」、マドレ・ピラールは大理石の強い柱のように「物的および外面的で」会を支えたと言われた。(4)
総会の準備
認可されたばかりの会憲には、一人の総長が、総長補佐と呼ばれる四人の終生誓願者を顧問として持つように定められていた。この目的のために、マドレ・サグラド・コラソンは4月15日付けをもって各修道院の院長に宛てて、選挙に関することについて知らせる手紙を書いた。「先ずこれらのことを行うには、正しい意向とよい精神が薦められます。私たちの主がこれら全ての業のうちにおられ、主のより大いなる栄誉と光栄のためと会の善のためにインスピレーションを与えて下さるためには、大部分がこれらの行為を完全に行うかどうかにかかっています。」 総長選挙のために集まるべき人は、発言権と投票権を持った各家の院長と、各共同体のメンバーから指名された二人の会員である。
マドリードの司教は、選挙は復活節のうちに行うようにと定めた。それで日付は5月13日に定められた。マドリード、コルドバ、ヘレス、サラゴサとビルバオの家の会員たちは、前以てその代表者を定めた。その集会を構成するのは、大部分が若く、まだ一人も終生誓願を立てていない修道女たちだった。
聖心侍女修道会の最初の総会に選ばれて出席した者たちは、大部分が1876年から1877年の間に、コルドバとマドリードで養成された創立初期の人々であるか、少なくとも会の中では年代の古い者たちに属していた。ある人たちは、マドレ・サグラド・コラソンからじかに養成され、もっと若い人たちはマリア・プリシマから教育された時代に当たっていたが、創立者の傍で生活し、彼女に大いなる信頼を抱くに足るほどの交わりがあった。マドレ・サグラド・コラソンがプリシマに修練院を任せたとはいえ、「修練女たちは喜んでいますが、プリシマは少し厳しいですから」 (5) と言って、実際には彼女自ら修練女一同に定期的に話をしていた。選挙より前のこの時期に保存された手紙によれば、マドレ・サグラド・コラソンは養成担当者としての特別の素質があったが、その使命を決しておろそかにしなかった。彼女の学び舎で育てられたこれらの出席者たちにとっては、5月13日の選挙についてはそれほど難しく感じていなかった。その上総長には、その時まで長上の役目を果たしてきた人以外に考えられなかった。疑いもなく各修道院では総会がうまくいくようにとの祈りが捧げられたが、それは確かに事前の感謝の祈りのようだった。
しかし第一回総会を構成する会員の中には、選挙はそれほど易しいこととは思われなかった。その頃会の中にはポラス姉妹の間柄の痛ましい問題を知っているか、または推測していた――もちろんごく少数ではあったが――人があった。この時期にこの二人の姉妹ほど苦しんだ人はいなかった。人間の苦しみの――肉体的または精神的――性質と激しさを量ることは難しいが、創立者の各自にとってその苦しみは異なった様相を帯びていて、しかもその苦しみは同様に彼女らの魂の奥底まで貫いていた。
マドレ・サグラド・コラソンの生涯において最も重大なことの一つであった総長選挙について、その時に起こった状況を人間同士の最も深い問題に対する尊敬をもって、分析してみよう。彼女の苦しみ、忍耐、謙遜を推し量ることの出来る重要な事柄であり、また彼女の大いなる愛と建設的な能力を表すことになった事柄だからである。多くの理由によって尊敬を持って近づくことが必要であるその理由のうちの一つは、苦しみは品位に取り囲まれているべきものであるから、私たちは尊敬をもって保ちたいのである。他の理由はマドレ・ピラールのように、非常に際立った人々に多少なりとも過失が考えられる場合である。マドレ・ピラールを、その妹を苦しめた単なる道具としてではなく、惨めさと偉大さという重さを持った生身の人間として見なければならない。すなわち矛盾に満ちた力に打ちのめされ、自己の情欲に振り回されて苦しみ、たびたびそれに負け、他の機会には打ち勝った婦人なのである。マドレ・ピラールの引き裂かれた状態を、最もよく描写できたのはその妹であった。数年後に、自身とその他の総長補佐について、「彼女を苦しませることで、皆非常に苦しんだ」 (6) と述べている。
ローマから帰ってきたマドレ・ピラールは会の認可という大きな喜びをもたらした。と同時に、その後のいろいろの事柄の発展に強く影響を与える種々の体験をも多く持ち帰った。
会の過去数年間を振り返れば、神の助けと、着実さによって乗り越えてきたあらゆる、おびただしい外的困難を思い出すことが出来よう。しかし同時に――疑いもなく――数多くの小さな内的不和、妹との殆ど絶えざる対立、争いの後、自分に過ちがあったと認めさせた多くのことをも思い起こしたはずだった。ローマでは一年間プリシマとだけ過ごした。マドレ・ピラールの話好きのことを考えれば、会の認可のことで自分と共に働いていた同僚に、全ての心配事を打ち明けたことは全然驚くに当たらない。遥かなるマドリードではマドレ・サグラド・コラソンは同じ興味、関心を持って懸命になっており、絶えざる文通によって会に対する愛における一致を保っていた。しかし距離的な隔たりは非常に大きく、多分その時にはまだそれほどになっていなかったかもしれないが、無理解、摩擦、小さな争いを生むことになった。気質上マドレ・ピラールは長い間自分の印象を隠しておくことは出来なかった。自分の目には妹の不足や限界と思われるもの全てをプリシマにそのまま打ち明けた。彼女の特徴である自発性をもって、親しい者同志に特有な共通の秘密として話した。プリシマはそれら全てを心の底にとどめていった。これらの打ち明け話の重要性と、会の内輪のドラマにおいて彼女が演じる役割の重要性を彼女がどの程度まで意識していたかは私たちには分からない。
カルメン・アランダは、この時期にローマに起こったことを、プリシマの話を通して知っていた。その話しにはプリシマ個人の推定も加わっていたので、このマドレとマドレ・ピラールとの友情がどこまでいっていたかを要約することが出来ると思った。その供述の中で次のように言っている。
「マドレ・サグラド・コラソンの指導の下に修練院を引き受けました。彼女は私を非常に信頼して下さり、私は側で、彼女に犠牲と自己放棄、特別な信仰と救霊熱と彼女を燃え立たせていた神の愛とを感嘆して見ていることが出来ました。[・・・] マドレ・ピラールのことを高く評価し、尊敬をもって話されました。プリシマについても大変高く評価し、あたかも自分の手足のようでした。その間ローマでは(後で分かったことですが)マドレ・ピラールはさまざまな交渉などにおけるマドレ・サグラド・コラソンの仕方を、非難したり批判したりしていました。これらの打ち明け話(私は多くの苦しみの根と原因になっていると思うのですが)を、プリシマはウラブル師にさえ漏らさず、胸に秘めていました。マドレ・ピラールについてよく研究して、全てに於いて彼女を喜ばせるように努めていました。例えばマドレ・ピラールの健康に気を配るとか [・・・] 聖なるところを訪ねる時に(マドレ・ピラールはそういうことがとても好きだったので) すぐ彼女と共に出かけるとか、会憲をフランス語に訳すとか。ともかくプリシマは目的を果たすことを念頭に置いて、彼女に仕えるとか喜ばせるどんな手段をもおろそかにしませんでした。成功を博して帰ってきて・・・[マドレ・ピラールは] プリシマのことを褒めちぎり、会の認可の勅書、すなわち全ての手続きは彼女に負うところが大きいこと、つまり一生懸命に彼女を称賛しました。」(7)
当然この長い文章は批判しながら読まなければならないが、その中には具体的な事柄があり、直接の報告で分かったことであり、疑う余地がないと思われる。例えばマドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールとプリシマのことを、称賛と尊敬をもって話しており、彼女らがローマから帰ってくると、マドレ・ピラールはプリシマのことを褒めちぎって、それ以上の言葉は見つからないくらいだった。他の事柄はプリシマを通してカルメン・アランダによって分かったことである。すなわちマドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンの財産管理を非難していたが、プリシマはこれらの打ち明け話を誰にも話さなかったし、ローマの滞在中、プリシマはマドレ・ピラールについて研究し、その後全てにおいて彼女に仕え、彼女を喜ばせるように努めた。最後に、これらの打ち明け話は、その後の悪の根と原因になったという、カルメン・アランダの推定が記されている。(8)
マドレ・ピラールが妹の財産管理のやり方について賛成しなかったことは、これまでに見てきたことで明らかである。マドリードの聖堂建設についての議論を思い出せば足りる。しかしマドレ・ピラールの批判はもっと広範囲にわたっていたらしい。ローマにおける長い会話の中にいろいろのたいしたことでない些細なことが明るみに出てきたに違いない。昔、問題になっていたことについて語る時に、多分その当時には全然なかったことが上塗りされたに違いない。「これらの打ち明け話が、[・・・] 多くの苦しみの原因であると思います。」 (9) というカルメン・アランダの観察は、的を得ていないわけではない。マドレ・サグラド・コラソンから遠く離れていた間になされた長い会話や、長く一緒に生活していたことは、マドレ・ピラールとプリシマの間に、ある種の不審な友情を作り出すことになった。不審なというのは、自然に性があったというのではなく、矛盾した性格の複雑な要素に根ざしていたからである。マドレ・ピラールにとっては、ローマに於ける仕事のお仲間は見たところ良い話し相手であった。――それにプリシマは観察と研究の態度で臨んだからには、非常に注意深く聞いていたに違いない――マドレ・ピラールの話は自分の心配と不満の全てを誇張したり、幾度も話しているうちに想像も加えて熱を帯びていたに違いない。創立者の姉の方は、こうした会話がなされているうちに、自分の考えが色づけられていくことの重要性を意識していなかったであろう。気がついていたということは証明出来ないが、それが現実になることはあり得ることである。常に彼女のうちには妹の上に立ちたいという傾向、少なくとも経済的なこと、財産管理の問題については明らかであった。自分が優れているという意識は今まで誘惑のように部分的に感じていたが、公正に認められ、許されていると感じ始めるようになった。実際前述したように、この時期からマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙の中には、あの非常に謙遜な告白、種々の事情の下に彼女を支配する欲情に引きずられたときの感動的な真実さに溢れる言葉は姿を消していった。しかしカルメン・アランダによれば、プリシマはローまで観察していた全てのことは心に秘められていたが、その秘密は少しの間しか守られなかった。スペインから帰るとすぐカルメン・アランダ自身に話した。特に会の統治がその後すぐに難しくなってきた時に他の人々にも話したと考えるのは行き過ぎではないと思う。
最後の日々の緊張
どんなに客観的な基盤が欠けていたとしても、会の統治に於ける妹のやり方に対するマドレ・ピラールの不信は最初の総会の準備の日々に於いては徹底していた。この不信は過度の責任感と結ばれてマドレ・ピラールのうちに異常なほどに不快、恐れ、不安定さをかもし出した。彼女の根本的な態度は悲観的な見方で、全ての言葉と行ないに苦味があった。マドレ・ピラールは感じやすい気質なので、現実をその時々に独特の気分で色付けする傾きが非常に際立っていた。財産管理上的外れなことをしているという推測は、真の不幸であり、良心的に認められないと思うようになった。このように頑なな姿勢に達したからには、状況のいろいろなあやを許容したり、他の人々の仕業や意向について冷静に考えることは彼女にとって不可能に近かった。ここ数年間のマドレ・ピラールの最もひどい振る舞いは、会の状態についてなされた全く否定的な判断を変える可能性のあるどんな示唆にも完全に自己を閉ざしていたことになる。このような否定的な姿勢に出る最初の状態について、どこまで過失があるのだろうか?それを決めるのは非常に難しい。
このような状況にあっては、マドレ・ピラールが会憲によって会の統治を組織する時期を恐れていたことは理解できる。会の皆の意見によれは、マドレ・サグラド・コラソンが長上になるのは論を待たないことは確かだった。同様に総長顧問を選ぶのに、他の誰よりも彼女自身すなわちマドレ・ピラールに目を注ぐのも当然だった。彼女の見方によればこのような我慢の出来ない見通しを前にしてウラブル師に相談すべきだと思ったし、このイエズス会士に、ある投票者たちの気持ちに影響を与えるように力を貸してほしいと提案さえした。いつもの賢明さをもって彼は答えた。「総長の選出については神様に沢山祈りなさい。私も祈りましょう。けれどもいろいろな理由によって、私にも他の人にも、あなたとか、他の誰かのことを断念させるように介入するのは良くないと思います。主がそのような任務から免れさせて下さるように祈りなさい。そして主が自由に取り計らって下さるように、そしてこのような大切な問題について同じ事を他の姉妹にも、何を望んでいるかを見せずに、祈りをお願いしなさい。あなたがたを良く守って下さる主が、その大いなる栄光のために全てをよくして下さるでしょう。」(10) 「マリアさまと聖心に期待しましょう。その月のその日に選挙をなさるのですから、お二人がこの生まれたばかりの修道会の支持と統治のために、永遠から選んでおられた方が選ばれるように教えて下さいますように。」 (11)
ウラブル師の勧めは、多少なりともマドレ・ピラールの表明した不快を和らげたであろうが、その時最も必要としていた平和を与えることはもちろん出来なかった。このような心の戦いのうちに選挙の前日がやって来た。
5月13日の前の数日間、マドレ・サグラド・コラソンにも苦しみがあった。彼女は総長として選ばれる心配があった。マドレ・ピラールがその妹の統治に於いて補佐として選ばれたなら、会の初めからマドレ・ピラールの決定によって事が運ばれてきたそのやり方をこの時から続けることは不可能であることは、はっきりと分かっていた。そして今のままならどうやら続けられることだった。つまりマドレ・ピラールが単なる顧問として他の三人の終生誓願者と同じになり、総長に服さなければならないということが難しいことを、マドレ・サグラド・コラソンは分かっていた。他方マドレ・ピラールは同様に妹が会の長上と選ばれることは不可避である、また、マドレ・サグラド・コラソンにとっても、マドレ・ピラールがその能力と特に創立者であるという条件から、総長の顧問になることは疑いないことだった。
二人ともその苦しみの性質が非常に異なっているとはいえ、ひどく苦しんだ。こういう状態から逃げ出したいとは思ったが同時に、どう見ても逃避は不可能だった。
マドレ・サグラド・コラソンは、まだ溺れるものは藁をもつかむ気持ちだった。会憲には、総長が持つべき個人としての条件の中に、少なくとも四十歳になっていなければならないとある。彼女は三十七歳になったばかりである。妨げと考えられるであろうか?一抹の期待をもって相談したが、それはごまかしに過ぎないと言われた。「この年齢のことを発見した喜びは完全ではなかったのです。というのは、他の修道会にも同じことが書かれており、不可能な時には規則を解釈し、その年齢に達していない者を選びました。もちろんそのことは司教様に申し上げる明らかな理由ですが [・・・] 『み心が天に行われるとおり、地にも行われますように』とよく祈りなさい。たとえ天が崩れてきても構わないでしょう。」(12)
マドレ・サグラド・コラソンがその姉に勝る強みは、どんな事が起こっても、それを彼女の生涯の大きな捧げ物として冷静に受け入れることであった。「どんな小さい妨げも置かず、み旨に全くお任せすること」とのたった一つの望みを持ち、それを全き誠実さをもって日ごとに実現していく女性だった。マドレ・ピラールは自分の全存在を平和な一致のうちに捧げるようになるまでには、辛い道のりを歩まなければならなかった。
全員一致の投票と悲痛な時
5月13日前の数日間の内的緊張は、選挙の当日に起こったことで最高潮に達した。マドレ・サグラド・コラソンは皆の目が自分の上に注がれているのを感じ、プリシマに言った。
――私は総長に選ばれることを心配しています。マドレ・ピラールはそれを望みません。私は彼女が選ばれると良いと思っています。
――いいえ、マドレ、あなたが選ばれるでしょう。それを公に言わないのは聖省がまだ認めていないからです。・・・ なぜならあなたは皆の心の中にありますから。
これらの短い会話はプリシマが話したか、または多分マドレ・サグラド・コラソンがカルメン・アランダに話したか、その後の歴史的叙述の中に出てくる。(13) その当時の会の他の年代記の編集者であるマリア・クルスが、表現は異なっているが正確に同じ事を述べている。「その同じ日に、マドレ・サグラド・コラソンはプリシマに、総会が彼女を選ぶと思って、マドレ・ピラールが非常に不愉快に感じている [・・・] そのため、マドレ・サグラド・コラソンはプリシマに、姉のマドレ・ピラールが選ばれるよう [・・・] 他の姉妹たちに調停するようにと嘆願した。というのは総会の全員はマドレ・サグラド・コラソン自身が言うことに合意するでしょうから。」(14)
マドレ・サグラド・コラソンはプリシマと話してからそれを自身で話したとマリア・クルスは付け加えている。すなわち「・・・ マリア・クルスに秘密に、また非常に心配そうに告げたところでは、もし彼女が総長に選ばれれば会にとってとても害になることなので、プリシマとマリア・クルスが、姉のマドレ・ピラールが総長に選ばれるように他の姉妹たちに働きかけて欲しいと彼女が言った」と。
マリア・クルスの文体はそんなに優れていないが、事柄に疑いが生じないように全ての文の主語にそれぞれの名前を繰り返して明らかにしている。この後の記述は、その問題における彼女の行動を表し、その頃会の内部の難しさについては、彼女は少ししか知っていないことが分かる。「このことにはマリア・クルスは反対し、そのような事には介入しないことと、主が票を通してなさりたいことを語られるでしょうと言った。マドレ・サグラド・コラソンは物事をよく見るように、自分の言ったことがためになること、今のうちなら対策を施すことが出来、多くのことを避けることが出来ると言われた。自分の心配が何であるかは話されなかったが、とても心配しておられることと、マドレ・ピラールが総長に選出されるようにという熱望は分かった。マリア・クルスは二人の創立者姉妹の間の難しさは知らなかったし全然分からなかったので、その心配は選挙の大切な日に顧問を悩ますために悪魔が起こしている仕業だと簡単に思って、その選挙を曲げるようなことはしないと語った。」(15)
プリシマ自身がこのことについて自分としての見方を述べている。それには、前の二つの記述に述べられている資料とは大分異なっている。マドレ・ピラールの態度の最も否定的な面には、もっと色付けがしてあり、マドレ・サグラド・コラソンが特別のおおらかさをあっさりと処理している。プリシマによれば、マドレ・サグラド・コラソンが自分も姉も選出されない方がよいと言ったことになっている。(16)
選挙の時が来た。二十人ほどの人が会議室に集まっていた。皆票読みから出る結果を知っていた。しかし彼女たちの中には非常に悩み苦しんでいる者があった。自分が統治の仕事、少なくとも最高の責任から逃れるように解決策を探した後、マドレ・サグラド・コラソンは諦めながらも、苦しんでいた。マドレ・ピラールは最後の瞬間まで、誰を選ぼうかという心の戦いがあったので、もっと激しい状態にあった。感情を抑える訓練が出来た人ではなかった。彼女の顔を見れば何か真剣なことが起こっているということは誰にも分かった。特にマドレ・サグラド・コラソンから打ち明け話を聞いていた人は見込みがついたであろう。
問題の結末はマリア・クルスとカルメン・アランダとプリシマがその書き物のうちに語っている。「その時が来る、マドレ・ピラールはどういう心配があったのか二枚の紙を持っていた。一枚には総長としてのマドレ・サグラド・コラソンを書き、もう一枚には他の人を書いておいた。投票箱に紙を入れる瞬間に帯の間に入れておいた紙の中から、成り行きに任せて一枚を投じたが、それはマドレ・サグラド・コラソンを総長に撰ぶ方の紙であった。」(17)
皆が予想していた通り、選出された者として、マドレ・サグラド・コラソンの名が次々に出てきた。当然マドレ・サグラド・コラソンの投じた票は別の名前であった。その選挙を主宰していたマドリード・アルカラの司教が、彼女が会の総長として選ばれたことを宣言した。従順の儀式の間、マドレは「動かず、心の悩みを表す諦めと苦しみの表情であった。」 (18) すぐに総長補佐の選挙に移った。マドレ・ピラール、プリシマ、マリア・クルスとマリア・デ・サン・ハビエルが選ばれた。
選挙とそれに関わる細かいことが終わったのは、夕方7時近くであったろう。抱擁、総会員たちの溢れる熱情、その情報が知らされた時の共同体のそれ以外の人たちの喜びは、マドレ・サグラド・コラソンの生涯にとって最も苦痛な時の一つに、周りで奏でられた伴奏であった。たそがれの色と、日が落ちる時の限りない郷愁が真に彼女の気持ちと合っていた。
共同体の喜びは心からほとばしり出たもので、この時の全会の満足を代表していた。その日の夕食は最初の家族的な集いで全く祝宴であった。けれどもそこには苦味もあった。「夕食の前に――とマリア・クルスは語る――マドレ・ピラールがひどく泣いているのを見た。総長の任命が皆の望みであったと思ったし、特に会憲が無くても、同じ仕事を持っていた二人の創立者姉妹の中から選ばれるのも皆の望みであると思っていたので不思議に感じられた。しかしマドレ・ピラールはそうではないと答え、不機嫌は直らず、それを隠さなかったので、他の姉妹たちにも分かってしまった。」 (19)
食堂で、選ばれたばかりの総長に敬意を表して詩を読んでいたカルメン・アランダをマドレ・ピラールがさえぎった時に、状況の激しさは極度に達した。この事件に関する二つの記事は、一人の乱暴さ不愉快さと、他の一人の柔和と賢明さをほのめかしている。その唐突さが、マドレ・ピラールの不思議な退出だけに留まるためには、マドレ・サグラド・コラソンの全ての忍耐力が必要だった。殆ど誰もなぜ退出したのかよく分からなかったが、本当の意味が分かっていた人にはそうではなかった。総長は、「エルマナ、お続け下さい」と優しく言ってその場をつくろった。(20)
「誰も選挙の準備をしたわけではない。全ての人の心に、全ての人に勝ってマドレ・サグラド・コラソンに対する愛と尊敬とをお置きになったのは神である。」 (21) そして疑いもなく非常に苦しい身内の反対の中で統治を務める総長にとって、姉妹たちの愛情の表現は励ましになったに違いない。マドレ・ピラールの態度をよく知らなかった人たちにとっては、他の感情の混ざらない完全な喜びだった。会員がこのことについて書いた手紙には真心がこもり、本当のお祝いの喜びを表している。マドリードでは夕食の時にエルマナスは乾杯した。余り夢中になってコップを割るほどだった。会の他の修道院には報せが着くのが遅くなったが、手紙が着くと大喜びで、その後、皆多かれ少なかれ愛情をこめて手紙を書いた。「一人のエルマナがその手紙を読み始め、マドレが総長に選ばれたところを読むと皆大騒ぎでした。私は『マドレ、万歳』と叫び、他の人は『わあ、嬉しい・・・』・・・ マドレ、どんなに申し上げても、この家にみなぎった喜びがお分かりにならないでしょう・・・ 主に感謝するのに私の口は小さすぎました。」 (22) マドレ・サグラド・コラソンに書く時殆ど全員は、おめでとうは自分たちに言うべき言葉だと言っていた。
会員たちの率直な熱情の溢れに、会の友人たちからの心のこもった祝詞が加わった。「あなたの上に降りかかってきた重要な任務の選挙は不思議に思いません――とウラブル師は書いている――あなたのお気持ちを考えてお悔やみを申し上げます。神様がその選挙をご自分の大いなる光栄のためと、生まれたばかりの会のためと、あなたの霊魂の益のためにさえ、お用いになることを固く信じています。神様に従い、これほど明らかに表されたそのみ旨を抱きながら、お勤めを果たすことにおいて愛徳と節欲と謙遜、その他の徳を実行する絶えざる機会を見出し、天国のための大きな功徳を共にお積みになるでしょう。あなたの肩に十字架をお負わせになった主が、それを担うことが出来るように力を増し加えて下さり、片手で傷つけもう一方の手で薬を付けて下さるのが神様の普通のなさり方です。ご自分に仕える者を試し、それを担う恵みを豊かに与えて下さるのです。」 (23)
統治の選挙の後、総会は、より重要でない問題を扱うため、数日間会合を開いていた。遂に総会員はそれぞれの家へ帰っていった。マドレ・ピラールとマリア・クルスは総長補佐の新しい勤めの上にヘレスとコルドバのそれぞれの院長職も続けていた。それで総会が終わった後、自分の共同体に帰って行き、その他の補佐はマドリードに残った。マドレ・サグラド・コラソンにとって外的称賛と大きな内的苦しみの日々は過ぎ去った。他の時と同様、マドレ・ピラールが自分の態度でその妹を苦しめた感情の表現はどこにも書いていない。反抗の誘惑はこの時にマドレ・ピラールの中に非常に強かった。その嫌悪に打ち勝つのに彼女の全ての力は枯れてしまった。戦いは彼女に不快な思いを起こさせ、もちろん客観性を全く欠いていたので、従順と冷静に振舞う努力をする必要がないとさえ思ってしまったようである。
マドレ・ピラールのあの不快、気分の悪さ、不安を隠すのは、マドレ・サグラド・コラソンの冷静さと賢明さの功徳であった。選ばれたばかりの補佐たちとカルメン・アランダだけが、この二人の創立者の心の状態を知っていた。マドリードの共同体とその他の共同体では、この新しい統治の喜びを祝っていたが、会の生活の初めから皆の心の中にこの二人のマドレスは特別の地位を占めていた。会員の殆ど全ては総長補佐に定められた役目について無知であった。教会法の問題に余り長(た)けていなかったし、また5月13日の選挙の後、マドレ・ピラールは他の補佐たちと同様に総長に非常に従属する状態となったことについて皆は気がついていなかった。(24)
総長としてのマドレ・サグラド・コラソンの統治が始まると同時に、創意と実行に満ち、また苦しみと放棄の生活の時期が始まった。
第2部 第6章 注
(1) 1887年1月31日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(2) 1890年2月8日付けのカルメン・アランダ宛の手紙。
(3) 1877年、枢機卿であるトレドの大司教は、マドレ・サグラド・コラソンを6年間院長に任命した。1883年にこの期間が切れる前に彼女は、かの枢機卿に対し「前述の任務を遂行して行く上で、より適当と思われる人を指名されるよう」願い出た。この願い書の欄外に、同大司教が、院長委任の六年間延長を明記したこの書類は、今尚聖心侍女会の総本部文書室に保存されている。
(4) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 33ページ参照。
(5) 1884年6月5日付け、マドレ・サグラド・コラソンの姉宛の手紙。
(6) 霊的手記 24、1892年。
(7) マドレ・ピラールについての歴史 Ⅰ 5-7ページ。
(8) 二人の姉妹と、プリシマとカルメン・アランダは会の内部の難しさを良く知っていた。彼女らの間にはそれぞれ異なった交わりがあったが、それは後の事件に強い影響を与えた。カルメン・アランダは愛情のあやは異なってはいたが、三人から非常に好かれた人だった。マドレ・サグラド・コラソンから見れば激しすぎ熱烈だった。有望な人ではあるが、まだ養成が必要だった。マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンのように、彼女の良い資質を高く評価していた。マドレ・ピラールは自分の性格が最も良く似ていると思ってその激しさをよりたやすく弁解した。プリシマは修練院で彼女を養成したので、カルメン・アランダの考え方を利用することが出来ると全く思っていた。プリシマは1882年に、最初はマドレ・サグラド・コラソンの助手として修練院のことをし始め、1884年の5月からは正式に修練長となって多くの修練女から愛され、その中にこのカルメン・アランダがいた。
(9) この確信はカルメン・アランダの心に深くしみこんだ。その後の書き物にそれを指して「あの埃が、これらの泥をもたらしたと思う」と述べている。(マドレ・サグラド・コラソンについての歴史 Ⅰ、26-27ページ)。」
(10) 1887年3月16日付けの手紙。
(11) 1887年4月27日付けの手紙。
(12) イエズス会士フリオ・アラルコン師の1887年4月〜5月の間に書かれたマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(13) マドレ・サグラド・コラソンについての歴史 Ⅰ、37ページ。
(14) マリア・クルス、年代記 Ⅰ、137ページ。
(15) 年代記 Ⅰ、137-38ページ。マリア・クルスはこの文では常に自分のことを三人称で話している。
(16) プリシマはマドレ・ピラールについて、もし妹が選出されたならば会を出て外国に
行くように決めていたと書いている。その事件直後の発展を考えれば、その意向は現実には当てはまらない。その前の事柄について書かれた文書を考えれば全くありそうもないことである。例えば、ウラブル師宛のマドレ・ピラールによって書かれた手紙とその神父の返事にはこのような考えをほのめかしてもいない。他方では、この両人の間の文通はいつも霊的信頼の深い次元を保っている。
(17) カルメン・アランダ、マドレ・ピラールについての歴史 Ⅰ、9-10ページ。
(18) マリア・クルス、年代記 Ⅰ、140ページ。
(19) 年代記 Ⅰ、142ページ。
(20) カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンについての歴史 Ⅰ、40ページ。
(21) カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンについての歴史 Ⅰ、140ページ。
(22) マリア・イネスの手紙、1887年5月、ビルバオ。
(23) 1885年5月28日付けの手紙。
(24) これは確かなことである。マリア・クルス自身(総長補佐の一人!)が選挙の当日、マドレ・ピラールが泣いているのを見て「でも、マドレ、今までと全く同じではありませんか?」と言ったのに対して、よく分かっていたマドレ・ピラールは、そうではないと返事をしたことを思い出そう。