修道院を訪問して
1889年1月下旬、マドレ・サグラド・コラソンは修道院の公式訪問を再開した。この度はアンダルシアへ行くことにした。会員の使徒職を自分の目で見たかったからである。コルドバでは、その地方の状況により、望みは制限されたが、小さな黙想の家を始めることが出来た。「家」というと大げさだが、実際には黙想者のために必要な家具もなかった。人が静修に来る度に、修道女たちは自分たちのベッドと布団を提供したが、黙想者たちは、自分たちを受け入れるために修道女たちが払っている犠牲のことは知らなかった。司教は修道女たちが、よくその場所を仕事の必要に順応させたと感心したが、修道女たちがこうむっている困難については頭を痛めていた。しかし修道女たちは喜んでいた。
その前年、へレスで黙想のグループを受け入れる仕事を始めていたのだが、ここでも婦人たちの静修の日々は、共同体を家の最も不便な片隅に追いやることを意味した。「部屋がよく準備されるよう、シスターたちが熱心に最上のものをゆずり、自分たちは床に寝るといった様子には感ずべきものがあった・・・。」(1)
マドレ・サグラド・コラソンは彼女たちの熱心さの行き過ぎを制しなければならないこともあったが、アンダルシアの共同体の使徒的熱意を目の当たりにして非常に喜んだ。2月20日にはマドリードへ帰って来た。訪問についての詳細の幾つかはマドレ・ピラールに宛てた手紙に表れている。「今日2人の志願者といっしょにアンダルシアから帰って来ました。[・・・] プエルトの主任司祭はへレスの共同体とうまくいっています。[・・・] 数日前そこにおられました。あの修道院は非常に評判が良く、良い友人に恵まれています。黙想をする人に良い感化を与えています。修道女はみな血色が良く[・・・] 学校は生徒でいっぱいです。コルドバでも同じです。シスターたちの健康を除いては。」(2)
アンダルシアの望ましい進歩――その目的という観点からのみの望ましさではあるが――を思う時、総長にはサラゴサの状況は耐え難いように思われた。「サラゴサの家のために何かしなければなりません――マドレ・ピラールへの手紙で言っている――修道会の中で最もなおざりにされています。それはよいことではありません。ラ・コルーニャのために4、5千ドゥロの出費がありましたが、それを後悔してはいません。でも、サラゴサの家はもっと古いのです。そのためにどんな犠牲を払ったのでしょうか。少なくとも同額を費やして、もう少し惨めでないようにしなければなりません。」(3)
サン・ベルナルド街にある聖ヨゼフに捧げられた修道院は既に豊かな実を結びつつあった。しかし土台までも揺るがす、終わりのない問題が既に始まっていた。
マドリードでもあるグループの迫害が苦しみの種となっていた。もっともそれは ラ・コルーニャでのそれよりはましだったが。当時、この状況はスペインじゅうで見られた。これは、時に暴力沙汰となった、反聖職者的考えの普及のためであった。一例を挙げるなら、マルティネス・イスキエルド司教が1886年、枝の主日の荘厳な典礼を司式するために大聖堂に入る際に殺されたことを想起しなければならない。修道院内の生活についてのさまざまなうわさが、教養のない、あるいは悪い意向を持っている人々の間にひろまった。ペレス・ガルドス (4) の演劇“Electra”の封切りは、マドレ・サグラド・コラソンが姉に話した一つの出来事にその前兆が見られた。「ピラールの家族が彼女を修道院から出すことが出来なかったので、彼女の着衣のとき、新聞で醜聞を広めることによって仕返しをしました。(5) 最近、これらの新聞は、(マドリードの)修道院の受付係が、一人の子どもを、教会に入ったという理由で殴って半殺しにしたと報じています。」(6)
サン・ホセの修道院についての困難は、まさにその創立と密接に結びついている。準備交渉さえもが、司教とオベリスコ街の修練院の間の食い違いの記憶に纏いつかれていた。しかしマドレ・サグラド・コラソンは、その事業に大きな希望を持っていた。マドリードの中心に新しい聖堂を開く喜びに比べれば、どんな試練も彼女には取るに足りないものに思えた。しかし、まさにその聖堂こそが、彼女の全ての希望の挫折の原因となるのである。
その前年の12月6日、私的祈祷所でミサを行う許可を与えるという承認書が司教の秘書から届いた。その承認書は、祝別されたばかりの聖堂を指していた。聖堂が私的祈祷所
と考えられていることに気づいた時、マドレは信者が赦しの秘跡と聖体の秘跡を受けられないことを恐れた。彼女は光を与えてくれるであろう人々に尋ねてみた。その一人は、教区長代理フェルナンデス・モンターニャ師であった。1889年1月、司教は不在だったので、フェルナンデス・モンターニャ師が総長に、他の修道会に属している祈祷所に与えられている恵みや特典を、ここの聖堂に適用しても良いと報せた。
マドレ・サグラド・コラソンと共同体はとりあえずほっとした。聖堂献堂の日から聖体が一日中顕示され、絶えず人々が聖体訪問に来ていた。聖堂――公開されるものだと思っていた聖堂――が開かれる前からも、私的祈祷所は真の祈りの中心であった。修道女の不足も、使徒活動も、修道院がかかえていた悪条件も、礼拝に対する熱心さを冷ますどころか、共同体と接触する全ての人の間に広まっていった。
3月、丁度修院の特別の保護者である聖ヨゼフの祝日の前晩に、司教は、マドレ・サグラド・コラソンを唖然とさせる教書を送った。数ヶ月前に与えた許可の条件と、聖堂の敷地の状態についてのコメントに続いて、司教は決定を下した。「この教区の司教代理が1月17日に出した教書全体を完全に無効にする。その趣旨は次の通りである・・・。」ここで彼は、その聖堂で信徒が秘蹟を受けることが出来ると考えたフェルナンデス・モンターニャ師の決定の全てを引用した。
その教書を受け取った翌日、その修道院の院長であり、総長秘書であったマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは語っている。「聖堂の扉は閉められ、公の行為は全て中止されました。聖体はまだ顕示されていましたが、修道会員以外は、訪問も礼拝も出来ませんでした。」(7) マドレ・サグラド・コラソンとしては司教を訪ね、定めた司教に従順を示す方が良いと思った。マドレ・マリア・デル・カルメンは報告を続ける。「彼は少し機嫌が悪いようでしたが、マドレが、この聖堂は全く私的なものとして外部の人には閉ざされるべきなのか、ここでの礼拝についての彼の考えをはっきりさせていただきたいと願ったとき、彼の答えはこうでした。一般の人々の聖体訪問は修道院の玄関の戸口から入り、直接通りに面している戸口は閉めておくように。また、赦しと聖体の秘蹟は授けないように、ということでした。そのようにしましたが、その戸口は隠れていたにもかかわらず、多くの人がそこから主を訪問するために入りました。しかし、貧しい子どもたちを、子どもたちだけで赦しの秘蹟や聖体拝領に近づけること、あるいは、掟を守ることにさほど忠実でない母親たちに子供たちを任せることは、非常に困難でした。」(8)
この最後の点が最も総長の関心を引いた。子供たちのための学校はその年の1月7日に四十名の生徒で始まったが、月ごとに増えていった。教育の仕事は特に宗教的養成を目的としていた。この分野ではほとんど無知の状態であったが、学校は宗教教育の真のセンターとなっていた。使徒活動は聖堂で行われる典礼と緊密に関係付けられていた。
その町の中心に位置していたにもかかわらず、サン・ベルナルド通りの学校は、すぐに、社会的に最も低い人々の貧しい子供たちでいっぱいになった。彼らの厳しい生活条件は今日では想像し難い。この貧しい人々はその上反聖職主義者だった。これは彼らの当然の反応だった。彼らを無視した社会には教会も含まれていたからである。一方彼らは自分たちに関心を示されると大いに感謝を表した。「学校に来る子供たちの大部分はキリスト教の教義を知らず、赦しの秘蹟を受けたこともなく、宗教について何も知らなかった。十三、四歳の子供たちが、読み書きは出来るのに、宗教については何も知らないのは残念である。[・・・] 教師たちは子供たちがどうやってそんなに悪いことを覚えるのかと驚いている。教師たちがこのことに気付くのは、主として子供たちが、赦しの秘蹟を受ける前に良心の糾明をする時である。ある日一人の子供が、その叔父か、家族の他のメンバーがその子に、司祭の手に接吻する時にはそこに唾を吐くようにと言ったという。他にも、繰り返すこともはばかれるような多くのことを言っていた。」(9)
聖心侍女にとって、これは福音宣教とカテケシス(要理教育)の真の分野であった。人々から忘れ去られているような地域でイエス・キリストを伝えることや、単純な人々に聖体を礼拝させることにマドレ・サグラド・コラソンが非常に熱心だったのは当然のことではなかったか。聖堂が一般の人々に開放されてから数ヶ月も経たないうちに、学校の生徒たちだけでなく、彼らの親、親族ら大人もそこで秘蹟を受けるようになった。「2月3日、十二人の少女が初告解をした・・・。」「3月18日、十五歳の少女が、それまで長い間秘蹟から遠ざかっていた母親といっしょに、初めて赦しの秘蹟と初聖体を受けた・・・。」(10)
これら全ての活動は、司教の決定後、非常に難しくなった。しかし、問題――彼女たちはそれを一時的な誤解だと思っていた――の解決に対する希望のうちに、彼女たちは熱心に働き続けた。シスターズは、秘蹟を受けさせるために近隣の教会に少女たちを連れて行っていた婦人たちの協力を求めた。(1889年には、修道女が度々出かけるのはよく思われず、普通のことでさえもなかったことを考慮に入れなければならない。)
4月25日、マドレ・サグラド・コラソン は再びサラゴサとビルバオへ出かけた。「26日、ある用件の決着をつけるために来られた総長を迎える喜びを持った。」(11) その前年にテルエル街にある一軒の家に移った共同体の住まいを改良するためであった。その家には修道女たちの部屋は乏しく、子供たちの授業の場はもっと悪い状態だった。地続きに小さな建物を造る期待はあったが、教育と要理教育の仕事の手を寸時も休めることは出来なかった。その家の院長はあまり健康ではなかったが、広い心の持ち主であった。その家の日誌には次のようにある。「愛する院長は救霊熱に燃えており、無償のクラスの無いことに耐えられず、この熱に動かされて、その土地にあった粗末な小屋を利用しようと思いつかれた。この仕事を第一に始めたのは彼女だった。彼女は私たちを励まし、熱意で満たしてくれたものの、彼女が非常に疲れるのを見るのは辛かった。」(12) そして事実、学校は10月に開かれ、かなりの困難にも拘わらずうまくいっていた。
サラゴサの共同体の清貧は、常に喜びと修道者的熱心さで満ち溢れていた。日誌は記している。「この家の貧しさは並外れており、度々、マドリードから頂くまでは家にお金が全然なかった。けれども神のみ摂理がどれほど私たちを助けて下さるか、これを証しするために次の事例を話すこととする。」ここで日誌の筆者はフランシスコ的単純さで次の話しを記している。ある日、マドリードから送られて来た油の袋が駅留めされていた。門番はそれを引き取るために三ドウロ払うように言われた――当時、一レアルさえも持っていなかった者にとって三ドウロは巨額だった――。その物語は、中世の黄金の伝説のように終わる。すなわち、ある恩人が現れ、シスターズが施しを願う恥を忍ばなくてすむよう、門番にこう言った。「マドレスはお忙しいでしょうから(実際彼女らはお金を探すのに忙しかった)、君は油の袋の番をしなさい。私が行って支払うからと言っておきなさい。」(13)
共同体は礼拝に対する愛によっても際立っていた。「この家は人数が少ないので、総長様からのご命令で、四旬節前の三日間の第一日目の夜だけ聖体顕示をするようにということでした。(14) 残念でしたが従いました。しかし、聖心は私たちを慰めたいとお思いになりました。それは次のような事でした。この日修院付き司祭は病気で来られなくなったので、代わりに他の司祭が来ました。この司祭が応接間に入り、副院長は彼に手順を説明しました。彼は分かったようでした。香部屋に行き、続いて祭壇に行きました。彼は私たちを祝福し、その後聖体を聖櫃に納めるかわりに祭壇の上に置こうとしたので、香部屋係りは聖櫃に納めるようにと言いました。それには注意を払わず、彼は顕示台をもう一度元の場所に置くのに必要な小さな踏み台を求め、誰もそれに応じなかったので、自分でそれを取って聖体を顕示しました。私たちは大喜びでした。」(15)
これらの詳細はサラゴサの共同体の雰囲気を物語っている。私たちが賞賛すべきなのは、摂理に対する彼女たちの信頼――非常に無邪気なものであったが――というよりは、その喜びや悲しみの質、とりわけ「私たちの一致の主たる目的である聖体の秘蹟のうちにおられるイエス」(16) に対する深い愛である。
総長は1889年4月、このサラゴサの家に行った。エルマナスの熱心さを和らげ、多くの窮乏から救い出す方法を見つけるためであった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがお供した。
サラゴサからビルバオへ行った。聖心侍女は既にカンポ・ボラティンの家にいた。その前年から庭の中に小さな聖堂を建て始めていた。マドレ・サグラド・コラソン はまたこの共同体に会の精神が息を吹き返すのを見て喜んだ。その数年前に書き記しているとおりである。「聖体の秘蹟のうちにおられるイエスへの真の愛」「魂の救いに対する神のみ心のお望み」(17) 学校には子どもたちが、質素な黙想の家には少女たちや婦人たちが、そして共同体の聖堂で聖体の前で祈っている多くの人々がみられた。
5月の下旬、マドレ・サグラド・コラソンは、ラ・コルーニャへの旅を始めた。手紙では処理するのが難しい多くの用件を姉と扱うためであった。その頃彼女たちはハバナでの創立の可能性を考えていた。それは主として以前ラ・コルーニャで知り合った婦人ドニャ・カリダ・ヘネールの願いによるものであった。その町の司教は前年からそれを知らされており、その計画を喜んでいた。「・・・ 急いで申し上げますが、あなたのご依頼は私にとって大きな慰めでした。ここでは償いの絶え間ない礼拝がどこよりも必要ですから。皆様を喜んで歓迎致します。出来るだけ皆様のお手伝いを致します。」(18) 1889年の春、マドレ・サグラド・コラソン がラ・コルーニャに向けて出かける直前、マドレ・ピラールは旅行についての困難が生じたので、他の解決法を提案した。「この件についてはアメリカで話し合いましょう。み旨なら近いうちに。私たちが行けなくなるといけないので、それについては何もおっしゃらないで下さい。そうでないと、私たちはあまり当てにならないと言われるでしょうから。私は(マドリードへ)行くつもりです。6月の初めに行きたいと思っています。」(19) マドレ・サグラド・コラソン は手紙でラ・コルーニャに着くことを知らせた。しかしマドレ・ピラールは、休暇の前に公式訪問に出かけるよう頼んでいた。「公式訪問をなさらなければならないのでしたら、学校のある期間のほうがよろしいでしょう。それをご覧になるために。」(20)
マドレ・サグラド・コラソン は30日にマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダとともにマドリードを発った。総長顧問の一人であるマドレ・マリア・デル・サン・ハビエルを連れて行きたかったが、マドレ・ピラールはそれに反対した。「サン・ハビエルは両腕を広げてお迎えします。ここでは彼女の才能と上品な教養がとても学校のためになるでしょう。彼女は水を得た魚のように感じるでしょう。けれども私たちがとても緊密に一致しているので敵は面倒を引き起こすでしょう。そして私たちが排他的な徒党を組んでいると他人に思わせるでしょう。そんなことになってほしくありません。誰かを味方に引き込むくらいなら、私は千度でも退会するでしょう。これを悪く取らないで下さい。将来の論争を避けるために、物事ははっきりさせる方がずっと良いかと思います。その方が、そして毎日ありのままに誠実であることの方がもっと好ましく思われます。」(21)
公式訪問は好ましい結果をもたらした。マドリードに帰った時、彼女は総長顧問らに、その家の良い印象について話した。顧問らはマドレ・ピラールに報せた。「総長様からそちらでは何もかもがすばらしいとお聞きしました。修道院についてもマドレスについても、彼女に会いに行った人々についてもとても喜んでおいでになりました。[・・・]」(22) 「マドレはその修院についても学校についても大変満足してお帰りになりました・・・。」(23) 修道会における学校事業に対する重要な証明であり、激励でもある。(「聖体の秘蹟が弱められることがないよう」)聖体礼拝を損なわずに学校事業を継続していくことが可能であるだけでなく、子供たちや若い人たちのためにもっと時間を割くことは、会の使命を深めることを意味した。その後のある手紙にマドレ・ピラールが表現していることがラ・コルーニャで起こっていた。
「・・・ 顕示されたイエズスへの礼拝と教育事業とを一つにすることで、私たちは
何とよく私たちの主に倣っていることでしょう!聖体礼拝と学校の仕事が何と見事に結びついているかがお分かりになるでしょう。それは二つの目的を交互に行うことです。王様との謁見に私たちの疲れや、小さな天使たちに対する同情を持って行き、[・・・]、そして、子供たちのレッスンに王様との謁見で受けた祝福と光を持ち帰り、彼らを育むのです。」(24)
訪問の間は創立者姉妹に意見の相違はみられないように思われた。しかし、多くの重要な事柄に於いて二人の考えは一致しなかった。マドレ・サグラド・コラソンは学校で子供たちと関わることに多くの時間を割いた。現地の学生寮にいるイエズス会士や、共同体と関わりのある人々と親しくしていた。[・・・] この全てのために、二人のマドレスは、少なくとも外面的に一致し、完全な調和を保っていることが必要だった。マドレ・ピラールは6月13日に書いている。「あなたとマリア・デル・カルメンがそちらにお着きになったとの知らせを待っております。旅行は楽しかったと思いますが。こちらでは皆、特に子供たちがあなたを思い出しております。」マドレ・サグラド・コラソンは16日に返事を出している。「子供たちを思い出しております。忘れません。」子どもたちと過ごしたことが嬉しく、ラ・コルーニャの学校で満足していた。
マドリードの中心にある家の困難な状況
サン・ホセの家は威勢よく前進していた。しかしいつもマドリードの司教が聖堂に課した規制によって制限されていたし、またこの先、もっと規制が増すのではないかと恐れていた。マドレ・サグラド・コラソンは、学校と黙想の家の発展におけるこの問題の影響を意識し、司教に、少なくとも生徒たちと黙想をする婦人たちが秘蹟を受けられるよう、許可を頂きたいとお願いした。
「サン・ベルナルド街にある私どもの家の聖堂で黙想する婦人たちと学校の貧し
い子供たちがミサに参加し、赦しの秘蹟と聖体の秘蹟を受けることが出来るよう、教皇聖下に請願書を送りました。今、その写しを閣下に同封いたします。数ヶ月前にローマから許可がおりました。それは事務局に記録してあります。上述の婦人たちと生徒たちの霊的善のために、先に言及した使徒的特権を与えて下さるよう、今謹んでお願い申し上げます。神様が閣下をいつもお守り下さいますように。1889年6月26日。マドリードにて。」
マドレ・サグラド・コラソンの嘆願に対して口頭で返事をしていた司教の指示に従って、許可願いがローマから出されていた。「私の権限を越えていることですから、この許可を与えることは出来ません。ローマに申請なさい。許可が来るまで婦人方と生徒たちを聖堂に入れてもよろしい。」(25)
同時にマドレ・サグラド・コラソンは、アグスティノ会の会計であるエンリケ・ペレス師に相談した。他の機会に非常に親切に助けて下さり、よき勧めを与えて下さった方である。彼は9月に返事を下さった。
「生徒たちがミサに与かり、聖体を拝領することが出来るのは何も疑う余地がありません・・・。そのために、それを書いた書類は必要ありません。教会法の本を少し読めば十分です。これを証明するために、最も頼りになる著者がこの点について述べた注意書きを同封します。」
実際彼は教会法学者の文章からの引用と聖省の決まりを同封してきた。
「司教は会の家を創立する許可を拒むことも出来るが、ひとたびある家が教会法的に設立されるなら、教区の司教は、その会が与えられている特典を使うことを妨げることは出来ない。聖省に属している人々は、司教の禁止措置に大変驚いている。あの司教ほど学のある人が、なぜそのような命令を出すことが出来るのか彼らは理解できない。」(26)
聖堂の問題について理解していたマドレ・サグラド・コラソンと他のマドレスは、あまり喜ばずに上記の陳述を受けた。彼女らはそれを受け入れたが、それは司教にはそれほど明確には思われないのではないかと恐れた。マドレ・プリシマはサン・ホセの家の院長であるマドレ・マリア・デル・カルメンに宛てて書いた。「私たちの総長の承諾のもとに今日あなたにお書きします。黙想会参加者と子供たちがその聖堂でミサに預かることを、どの聖省と交渉しているのかおっしゃって下さい。[・・・] エンリケ師にあなたも書いて、司教様がローマには願わず、私たちにお願いなさろうとしたことをお分かりになるようにして下さい。聖省からの返事を証明するものが何もないので、私たちは窮地に陥るでしょう。ですから、認可された修道会として、私たちの公開または私的聖堂では、ミサに預かる義務が果たされ、赦しの秘蹟や聖体の秘蹟を受けられる特典を持っているので、この上許可を願う必要はないという私たちの願いに対する返答を書面で伝えることは重要です。などなど。」(27) マドレ・プリシマ自身、ウラブル師に相談していた。それに対し、彼は返事している。「・・・ 聖堂についてあなたのお望みになる返答を書面で出すことは、会にとって易しいことではないと思います。まして、彼らが書面での返事を、署名入りで封をして送ってくることはまずないと思われます。そしてもしあなたがこれをお持ちにならなければ、おそらく司教は注意を払うことはないでしょう。」(28)
ウラブル師の言ったとおりだった。ローマからの公式の返事は、司教がマドリードの聖心侍女たちに反対したことで、司教の無知、あるいは悪意を責めることとなったであろう。そして、書面での証拠を得ることは不可能だと見て、マドレ・サグラド・コラソンは、ローマに尋ねたことについて司教に簡単な手紙を書き、全てを司教の親切に委ねようと思った。彼女はほどなく返事を受け取った。
「司教様は今月21日付けのあなたからのお手紙を受け取られました。」と司教の個人秘書は10月26日に書いている。「そして、それに返事を書く前に、司教様はあなたに、ローマに送られた嘆願書のコピーと、聖省からの返事のコピーを送るようにと言われます。これらをどのように推し進めて行けばよいかお決めになるためです。」
まさに彼女らが心配していたことが起こった。マドレ・サグラド・コラソンはこのところ体調がすぐれなかった。それで、彼女の返事がやや遅れた。それに、事態は大変難しかった。彼女はエンリケ師の意見をそのまま書くことにした。彼女は以前にはそうしなかった。なぜなら「大変申し訳ないのですが、返事をそのままお送りすることに困難を感じたからです。それで以前お書きした時にはそれを載せませんでした。でも、今、お願いされたからには、本当のことを申し上げねばならないと思います。」(29) 返事の遅れは、個人的な意見の代わりに公式文書を作成することが不可能だったからだと彼女が言っているのではない。どのみち個人的な意見は、いかに権威あるものであっても同じではないからである。マドレ・サグラド・コラソンはこのことが分かっていたので、エンリケ・ペレス師の名さえ出さなかったのである。
明らかに彼女の手紙には弱点があった。司教はそこをついて、急いで返事したのであった。
「敬愛するマドレ、あなたが昨日付けでお送りになった手紙を司教閣下はお読みになりました。そして、次のように書くことを私に依頼されました。1.誰であっても学のある人の意見を、閣下は尊重されます。しかし、もしそれが、しっかりした根拠に基づいていないなら、原則として深入りはされません。2.共同体がオベリスコ街の修道院に所有している公的聖堂で、信者はミサに与る掟を実行することは出来ないなどと、司教は言った覚えはありません。3.サン・ベルナルド通りの祈祷所は公的なものではありません。場所的に必要な条件を満たしていないからです。それで、ローマ典礼における祝別の祈りをここで用いることは出来ません。ただし、司教は、共同体、あるいは、教会法や法令によって与えられた特権を用いて他の誰かが、それを用いることについては反対はしません。等。」
この文書は、司教の秘書であるドナト・ヒメネス氏により作成された。彼はここに個人的な注を書き加えた。「敬愛する司教様から依頼されたことを全て記した後、個人的に付け加えたいと思います。教区内の他の修道会同様、貴修道会も司教の行く手に困難を投げかけることのないようにと願います。」(30)
マドレ・サグラド・コラソンが、エンリケ師の意見を、名前こそ出さなかったが引用し、11月4日付けの手紙を書いた時、彼女は間違っていた。しかし司教の返事、それは彼の断固たる姿勢を示すものであったが――それは間違っていたのだが――彼女を大いに苦しめたに違いない。いや、苦しみ以上のものであった。彼女は自分の間違いにもかかわらず、自分は正しいことが分かっていた。それで彼女が腹立たしさを感じたのももっともなことであった。
マドレ・サグラド・コラソンの統治の最大の困難はサン・ベルナルド街の修道院から始まった。マドレ・ピラールはその創立を決して望んではいなかった。彼女は自分が賛成しなかった事業には協力できないのであった。それで彼女は司教の妨害的な態度には動かされなかった。ラ・コルーニャにいる彼女は地理的に離れていたが、霊的にはもっと遠く離れていた。英雄的な忍耐をもって彼女は融和的な態度を持ち続け、出来る限りラ・コルーニャの学校を助け、修道会で起こっている全てをその修道院にも伝え続け、総長補佐としてのマドレ・ピラールに関心のある全ての事柄に対して彼女の意見を問うのであった。
7月、彼女には大きな喜びがあった。サラマンカの大地主であり、修道会に二人の娘がいるフルヘンシオ・タベルネロ氏が、マドリードの中心に修道会のために一軒の家を購入したいとの望みを表した。実現すれば、修道会は一息つけるのでサン・ベルナルド街の修道院の家賃を払わずにすむだろう。そして公の使用に適した聖堂を建てることも出来るだろう・・・。マドレ・サグラド・コラソンは、ただちにマドレ・ピラールも含めて全ての補佐たちに、このことを報せた。彼女はこう書いている。「ハバナについてお知らせした私の手紙に皆様からは何もお返事がありません・・・。もう一通で、フルヘンシオ様が私たちのために家を購入することについて問い合わせておられることをお知らせしました・・・。それは、コルテス街の向いの小さな通りにあり、サン・ベルナルド街の修道院と同じくらいの大きさのものです。少し辺鄙なところはありますが、悪くはございません。それにエル・ロボのイエズス会のレジデンスに近いです。もっともその家にはあまり大勢住んでいるわけではないのですが。――4人の司祭が住んでいるだけです。――でもサン・ベルナルド街の修道院はイサベル・カトリカの隣で、いつも少なくとも20人はいますし、中心街です。通りは賑やかですが、神父様方が近くにいらっしゃるという利点があります。管区長様は歩いてそこへいらっしゃり、お話しをなさるくらいです。フルヘンシオ氏はとても協力的ですし、お嬢さまたちのためにも喜んでおられます。」(31)
このニュースに対するマドレ・ピラールの返事は、第二の手紙と行き違いになった。「マドリードの中心街に家を買うことは、神様からの恵みであるかのように喜んでおられます。でも、そのことについてお聞きして以来、私はあまり良い気持ちではありません。どんなに努力してもどうしようもないのです。なぜなら、修道会の破滅が近づいているのが分かるからなのです。フルヘンシオ氏は四万ドゥロスだけお出しになろうとしています。その他の費用は誰が支払うのでしょうか?」彼女は誤っていた。この恩人はある一定の金額を払い、それ以上は幾らであれ払うつもりはないと彼女は思っていた。この贈与は、家の工事のために持参金から支払われる出費を埋め合わせるために使われるべきだと彼女は提案した。「・・・ このすばらしい贈与のおかげで事は全てはうまく収まるでしょう。そして、それはこのように用いることによって、主は私どもを保護して下さるのです。他の方法ではないのです・・・。ことを先に進める前に、どうぞ管区長様とご相談なさって下さい。もしあなたが今のまま事を進めるなら、私は預言者ではありませんが、また、そうなるつもりもありませんが、あなたはひどく後悔なさると申し上げます。確信を持って申し上げますが、必ず後悔なさるでしょう。私たちは奇跡を期待すべきではありません。言い換えれば、奇跡を起こして下さるよう神様に強制すべきではありません。」
マドレ・ピラールはこの難解な手紙を7月15日に書き始めている。18日にはまだ投函していなかった。そして追伸を付け加えている。「この手紙の日付から私がこれを投函し遅れていることがお分かりでしょう。皆様を、特に、ますます愛しているように思うあなたを、どれほど苦しめるかと思うと耐えられないほどだからです。あなたがなさっていることを見る時、私をますます清めるために神がそれを許しておられるのか、それとも私の魂が糸にぶら下がって危険のうちにあるためなのか分かりません。これ以上このことについて申し上げないでおきましょう。そして、私が賛成していないことをご存知のこうした事柄について私に話しかけないようにお願いします。もっとも私が間違っていることを心から望みますが・・・。そして今、別のことですが――私をマドリードに行かせないようお願いします。口を滑らしたくないからです。ですからお手紙を書く方がいいです。この世での私の唯一の関心は、主なる私たちの神の前で悪を避けることなのです。」
マドレ・サグラド・コラソンは返事を書いた。「神は祝せられますように!あなたは何事にも心配なさっておられます。」それから彼女はフルヘンシオ氏の申し出の状況を詳しく述べている。「ですから、子どものように心配なさるのはおやめ下さい。神様は私たちの必要とするものを何でも与えて下さいます。どの修道会でも初期の頃には試練や心配を経験するものです・・・。」(32) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスもマドレ・ピラールを安心させるように手紙を書いている。
その頃、タベルネロの家族も修道会も、フルヘンシオ氏の娘たちのためにこうむることとなる大きな試練のことを知らなかった。2番目の娘はその年の5月に入会した。上の娘はその前年に修練期を終え、初誓願を立てていた。彼女は名をロサリアといったが、修道会ではマリア・テレサ・デ・サン・ホセという名をもらった。多くの会の初期の文書がこの二人の姉妹のことを記している。その早死にのためである。マドレ・マリア・カルメン・アランダはその年代記の中で詳細に触れている。「まだ修練女の時、マリア・テレサ・デ・サン・ホセは、両親、二人人の姉妹、そして家付の司祭が修道者になってほしいとよく言っていた。彼女の一番下の妹は結婚したが、他は皆修道者になった。最初に入会したのはマリアで、二番目は着衣の時に総長と同じ名をもらった。彼女がその名で呼ばれたのはほんの短期間であった。なぜなら、イエスの聖心はこの天使を天国にお召しになったからである。わずか九ヶ月の修練期であった。」(33)
病気、そして最終的にタベルネロの二人の姉妹の死はサン・ベルナルドの修道院にとって最も困難な時期にやってきた。言うまでもなくこの一連の苦難はマドレ・サグラド・コラソンにとって大きな信仰の試練であった。マドレ・マリア・デル・カルメンがこれらの出来事を述べた時、そのどれをとってもこの「真に強く、英雄的で、聖なる女性」(34) の魂を地におとしめることはなかったと書いている。
マリア・タベルネロは1889年の初めに病気になった。マドレ・サグラド・コラソンは11日に、彼女の妹に宛てて書いている。「私たちには新たな悲しみがあります。神様の介入がなければ、マリア・タベルネロは天国に行くでしょう。彼女は1週間胃の具合が悪かったのですが、お医者様がきのうおっしゃるには左の肺がだいぶやられていることが分かったとのこと。本当に彼女は天使でした。人間の女性ではなく。それでこの世には属していないのです。」
二日後彼女は付け加えた。「マリアは変わりません。彼女を診ている二人のお医者様は悲しい結末を予想しておられます。彼女はこの病気を長い間持っていたということですが、胃の病が悪化したようです。医師たちは彼女のお父様に何度もこのことを伝えていました・・・。彼女はまるで天使のようです。ですから彼女はこの世に留まらないと私は思います。」(35)
マドレ・ピラールがこれを知ったとき、彼女は書いている。「マリアのことを気の毒に思います。お気の毒なご両親にはもっと・・・。今日は時間がなくてこれ以上書けません。フルヘンシオ氏と奥様に、そしてマリアにも手紙を書きます。皆様のことを心にかけているとお伝え下さい・・・。」(36) 修道会全体は嵐のような祈りを捧げていた。この悲しみは、互いの理解の不足を乗り越えて、二人の創立者を一致させた。
マドレ・ピラールが終生誓願を立てる
この年、総長にとっての最大の心配はマドレ・ピラールの終生誓願のことであった。それは前年、マドレ・ピラールの「耐え難い嫌悪」のために延期されていた。そして数ヶ月がいつ果てるともなく過ぎていった。この頃の手紙で、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女の心配の種と、彼女がその状況の真の根と見ていたことの原因に触れている。
「あなたが変わり、不一致のような状態にならないよう望んでいます。一致の中にこそ力があることを分かって下さい。一致のないところに神はおられません。もしお心を傷つけるようならお赦し下さい。私はそんなつもりではないのですから。皆が一致してお互いに寛容であることこそ私の願うところです。」(37)
7月4日付けの手紙にはもっと厳しい要求が示されていた。「修道会がその家を好意的に助けていることを思えば、あなたは終生誓願を立てることによってそれに応えるべきだと思います。」マドレ・サグラド・コラソンはラ・コルーニャの学校に送られた人員の犠牲のことを指している。「いいですか。たくさんのつまずきがあります。管区長の神父様はそのことについて何度も私にお尋ねになりました。このことはもうこれ以上長引かせるわけにはいきません。お願いですから誓願を立てて下さい。そうしないのは悪魔のいざないです。とにかく今でも後でもどっちみちそうしなければならないのです。多分あなたは私に従うことを望んでおられないからかもしれません。でも私は正しいと思うことをしているだけです。今もいつも、私は神以外の誰をも恐れずに行動します。お世辞とか力ずくでは動かされません。義務だと思うことによってのみ行動します。ご存知の通りです。・・・ たとえ引き裂かれようとも私は良心に背くことによっては動かされません。」(38)
確かにその通りだった。マドレ・ピラールがなぜ終生誓願を遅らせたのか、それについてマドレ・サグラド・コラソンがどう思っていたかを我々は知る由もない。マドレ・ピラールはただマドレ・サグラド・コラソンの統治を妨げるためだけにそうしたかったのだろうか。そう考えるための十分な根拠もない。「終生誓願に関しては、神が私にどうすべきかを報せて下さる必要があります。何故なら、私の知っている限り、私は神に信頼していますし、そのみ旨に反して行動することはないからです。あなたは悪魔だとおっしゃいますが、私はそうは思いません。私が言ったことはお分かりだと思います。」これが先に引用した手紙に対するマドレ・ピラールの返事だった。(39)
ラ・コルーニャの共同体は8月の前半に霊操を行った。その終わりに、その家の院長は総長に、だれもが長い間待っていた決定を告げた。「私は終生誓願を立てる決意をして黙想を終えました。」彼女は言われるままに行動する用意が出来ていた。もっとも学校でのいくらかの難しさについて説明はしたが。「・・・ 私の決心をお知らせします。私が仕事から離れるのを待つようにお望みなら、そうしましょう。でなければ、今日にしましょう。一,二ヶ月の間私の仕事の代理を他の方にお願いするつもりはありません。というのは、この方たちは、この学校を始めた時から、私を知っていますし、人間的に言えば、望ましい結果を得るためには私がするほうがよいのです。」(40)
マドレ・ピラールは自分の決心がもたらした大きな喜びを掴めたのであろうか。それを理解するためには、修道会の中で創立者姉妹の姉の方がどれほど愛されていたかを知る必要があるだろう。
ニュースに対する総長の返事は手元にない。8月27日付けの手紙の最後の部分があるだけである。しかし、確かに言えることは、総長が自分の霊的指導者であるイダルゴ師に喜びを伝えたに違いないということである。彼はヴィとリアから彼女にお祝いの手紙を書いた。「・・・ 終生誓願について、私はこのことをして下さった聖心に感謝を捧げました。
あなたは彼女が皆と一緒に一ヶ月の霊操をし、みなと一緒に終生誓願を立てるべきであると穏やかに強調すべきだと思います。そうすればうまくいくでしょう・・・。」(41)
マドレ・ピラールもマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに自分の決心を伝えた。そしておそらく彼女は総長補佐たちにも伝えたことであろう。次の手紙から彼女の態度を察することが出来る。彼女は終生誓願を立てようとしていたが、いまだにマドレ・サグラド・コラソンの統治に対する否定的な判断を持っていた。彼女はマドレ・マリア・デル・カルメンに書いている。「以前あなたにお書きしましたが、今繰り返して申し上げます。私は何もあなたに反対することはございません。全く何も・・・。もし私が前と違っているなら、私がここのことについて申し上げたことのせいです。――(彼女は総長とその秘書のラ・コルーニャへの訪問のことを指している)――つまり、・・・ あなたは外的に、そして内的にさえも、おそらくある場合には会の統治にあなたの判断を従わせ、私がそれと全く反対なので、どうしようもありませんね。」(42) マドレ・マリア・デル・カルメンの返事は暗黙の同意で、その時は「外的に、そして内的にさえも、総長の側についていた」ことを認めている。「愛するマドレ・ピラール、あなたが長い沈黙を破って下さったことを感謝します。あなたのお手紙には私を喜ばせる段落がありました。(たとえば、あなたが終生誓願をお立てになるというお知らせです。)でも悲しくなるようなところもありました。愛するあなたからのものですから受け入れますが。マドレ、私は心からお祈り申し上げております。実は絶え間なくお祈りしていると申し上げられます。あなたが物事を違った光でご覧になるようにといつも望んでいるからです。もしも私たちの願いが心から出るものであれば、あなたのためにどれほど主にお願いしておりますことか!私はまた、ウラブル師が欠席されませんようにとお祈りしています。神様はたいへんよい方でいらっしゃいますから、そんなことはないでしょう。」(43) 実際ウラブル師は出席された。彼はいつも彼女の疑問に忍耐強く受け答えしていた。彼はまた、彼女の終生誓願の報せを受け取った時、大変喜んだ。「・・・ あなたの決心を神様は大変お喜びになることでしょう。天使たちも喜ぶでしょう。そしてあなたにとっては多くの恵みの源となるでしょう・・・。」(44)
このよいニュースをもってしても、当時、総長の決定あるいは協議事項に続く一連の混乱を好転させることはなかった。終生誓願についての決心を伝えるマドレ・ピラールの手紙と行き違いに届いた手紙で、マドレ・サグラド・コラソンは提案していた。堅固な召命を持つ何人かの会員(院長を含む)は、一ヶ月の霊操以外の前提条件なしに終生誓願を立ててもよい。彼女は会憲により定められている一年間という試行期間を、彼女たちが免除されることを願っていた。それは例外的な措置であった。終生誓願の前の期間を終えたシスターたちはたくさんいた。その会員たちが全員一緒にとなると、複数の修道院が空になることを意味した。マドレ・ピラールは、それ自体大変説得力のある一連の論法をもってその質問に答えた。「マリア・デル・サルバドールについては ・・・ 誰よりも(誓願宣立を)支持します。そして、他の院長様方よりも規制を緩めます。他の理由にもまして、賢明さと真の愛徳こそは会の中で最も重要だからです。他の方々は不信仰のためでなく、単に無知と、思慮深さにかけることによって不適任だと思われます・・・。」(45) 彼女は会憲の厳密な正統性と最大の尊敬を擁護していた。しかし彼女はどの法にも例外があるという事、また、彼女自身、特に反対でなければ、それを容認していたことを忘れていた。この度のマドレ・ピラールの論法の最悪の点は、それがある種の反正統性を表しているからでなく、彼女の調和に欠けた態度を明るみに出したからである。
マドレ・サグラド・コラソンはマリア・デル・カルメン・アランダに言っている。「どうしましょうか。残念ながらマドレ・ピラールはまだ混乱しています。でも私にはどうすることも出来ません。院長様方についての私の考えを伝えたのですが、彼女は賛成しません。そして彼女らには第三修練の期間を延ばすべきだと言うのです。ごらんなさい。いつも反対するのです。穏やかにお祈り下さい。神様は暴力を好まれません。マドレ・ピラールが一ヶ月の霊操をなさるように祈って下さい。その助けなしにあのマドレが終生誓願を立てることなどどうして出来ましょうか。」(46)
カディスの創立に先立って
その同じ年(1889)の9月の中旬に、カディスの新しい創立の準備が始まった。ある敬虔な婦人がその計画を弁護していた。もっとも彼女自身は精神的支援と友人たちからの支援しか差し出せなかったのだが。シエラの未亡人ニエベス・オロノス夫人は、財産は無かったが、説得力という手腕に恵まれており、カディスの聖心侍女の修道院のために数人の裕福な夫人たちを説得した。ニエベス夫人は聖心侍女会に二人の娘を入れていたので、彼女の使徒的熱意は、娘たちの近くにいたいという、道理にかなった、自然な望みと混じっていたのかもしれない。
マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは総長の名前でマドレ・ピラールにその件を提案した。「創立のための手段を提供することについて、あなたのご意見を伺うようにと総長様から依頼されました。・・・ あなたのご意見を伺いたいとおっしゃっておられます・・・。」(47) 「そうですね。はい、とは申しません。私のものの見方からすると、それは私の良心に反するからです。それをどうすることも出来ないのです。いいえ、とも申しません。なぜなら会の進歩を妨げること、もっと言えば、それを害することを恐れるからです。私はそれを神に委ねます。今そうしているように。そして神のみ心にかなうことをなさるための光をお与え下さるように祈ります。」(48) この漠然とした、しかし鋭い返事により、マドレ・ピラールはその計画に反対した。総長は彼女にはっきりと答えねばならないと思った。「そんな風におっしゃらないで下さい。あなたの意見をと言われた時、あなたの考えをおっしゃって下さい。私は創立を切望しているわけではありません。手段が揃っていないならなおさらです。そういう訳でハバナの創立もやめました。私たちが一つとなって働かなければ、霊は死にます。私の霊も死なねばなりません。状況が変わらなければ、全ては消滅するでしょう。なぜならあなたがとても緊張しておられるのを見ると、私たちの霊は死にます。そして私たちに、這って隅っこに入り込むことだけを望ませます。」(49) 「・・・ あなたにこれを申し上げるのは、私がそうしたいからではありません。私は望みません。他の何も望みません。私がこれを申し上げるのは、悪魔も、この世も、ほしいままにしようとしているからだけです。あなたのよそよそしい態度には誰もが驚いています。先ず第一に神父様方です。今ではほとんど何も質問されません。何か不可思議なことがあると思っておられるからです。」手紙の終わりに彼女は統治から退きたいと言っている。「いつも申し上げてきたように、私は、少しでも兆候が得られれば、役目を退く心積もりが出来ています。その日は私の生涯で最良の日となるでしょう。」(50)
マドレ・ピラールは返事を書いて自分の態度を説明した。
「私が緊張しているとあなたはおっしゃいます。あなたが私の考え方や人となり
をお忘れになったのかと驚いています。これは新しいことではありません。私は教会を建てることを望みましたか?それでも修道会はよい状態でした。どうぞおっしゃって下さい。誰かがあなたのように反省することができないなら・・・そして神からの特別な保護を期待できないなら、その人はどうするでしょうか。私もあなたに反対することを望みません。先ず第一に、それが修道会にとって望ましくない結果を生んだなら、私はいつまでも後悔するでしょう。第二に、そしてこれが主たる理由ですが、神に感謝します。もし私が、あなたがとっておられる道を理解できないとしても、それは驚くに値しないことです。神は多くの方法で人々を導かれますから。ですから、私の感情をふくらませないために――私はどんなことがあっても感情を克服したいと思っているのです――物質的なものにも精神的なものにも起こっていることを知らずにすむよう、出来るだけ心を閉ざすようにしています・・・。」(51)
この「心を閉ざす」ことが彼女を孤立させ、それは彼女にとっても他人にとっても不快感を与えたことであろう。しかし修道会の中では、中立の立場は不可能であった。彼女の不干渉は、当然のことながら、反対ととられた。マドレ・ピラールは生まれつき自分の感情を隠すことの出来ない人であった。それで、総長と通常理事会に対して自分が下した不利な判断を、自然と表してしまったのである。
この全ての後、総長と総長補佐たちはカディスの創立を、過半数の投票により受理した。反対票が一つあった。――マドレ・ピラールのものであることは明らかだった――他の人々は、会からどんな害もこうむることは無いだろうとの望みを表した。
同時に起こった二つの戦い
マリア・タベルネロの病状は進んでいた。「・・・ 重症で絶望的でした。ご両親は観念しておられますが、当然のことながら悲しんでおられます。・・・ 昨日病者の秘蹟を受け、誓願を立てました。常に天使のようです。前よりも美しいです。・・・ 彼女のために祈って下さい。私たちの方がもっと祈りが必要かもしれませんが・・・。」それは9月16日のことだった。(52) 「マリアは重症ですが、もしかするともう少しもつかもしれません。もっとも時には、マリアニの言っていること、私は小鳥のようになるでしょう、というのが実現するのではないかと恐れてはいますが・・・。彼女は死ぬとは思っていません、でももう彼女が分かるように周囲で助けています。彼女はそれ以上のことはないと言っています・・・。私はおかげさまで落ち着いています。そして、マリアが死の準備がよく出来るように努めています。出来れば喜んで死ねるように・・・・」(53) 「病人は変わりありません。というよりも、天国に向かって進んでいます。」(54)
彼女は天国に向かって進んでいた。平和な足取りではなく、苦しみながら、そして年には似合わぬ力をふりしぼって闘いながら。彼女は19歳だった。彼女がその無垢な命と病苦を神に捧げていた頃、マドレ・ピラールは終生誓願の前の最後の闘いをまだ続けていた。ウラブル師が次の言葉で彼女を力づけた。「・・・ あなたはいつも神の恵みと共に闘い、神の助けで勝利を得ています。・・・ 天国はそうやって勝ち得るものです。怠け者でらくらくとしている人々のためにあるのではなく、勇気のある人々、苦しみを捧げ、十字架に付けられたイエスの後を歩む人々のためにあるのです・・・。」(55) 彼女の最大の疑い、というよりは、最大の抵抗は、一ヶ月の黙想のためにマドリードへ行くようにとの総長からの招きに集中していた。マドレ・ピラールはこの点についてもウラブル師と相談したことであろう。学校にもたらされる難しさを説明してのことであった。彼は答えた。「終生誓願と黙想について私に言えることはこれだけです。あなたはマドリードに行かずにそこ(ラ・コルーニャ)に留まる理由を全て表明すべきだと思われます。・・・ そして、あなたが全てを誠実に説明した後、総長が決定することは、最も神をお喜ばせすることだと信じて総長の決定を受け入れることです。良心の静けさと魂の平和のために、信仰生活を保ち、それについて長上に何もかも話し、それから命じられることは神のみ手から来るものとして受け入れることが、これらの事柄において賢明なことであります。」(56)
マドレ・ピラールはこれらの助言を受け入れた。その結果、数日後マドリードに書いている。「私は終生誓願を立てることを主に約束しましたので、それを延期すべきか迷っています。そんなことはあってほしくありません。ですから、私の理由をお読み下さり、お決め下さい。私の心の平安のために。」(57) 彼女は以前と同じ主張をしていたが、その口調がもっと穏やかになっているという点が違っていた。最後に彼女は一ヶ月の黙想をラ・コルーニャで行ってはどうかと提案している。そこでは平和が保てると彼女は思ったし、休みの日には学校の仕事も出来ると考えた。「でも、そうでなければ、つまり1月か今かに私がこの家を離れるべきだとあなたがお考えになるなら、お知らせ下さい。もし今なら、誰と一緒に行くべきかおっしゃって下さい。」
マドレ・サグラド・コラソンは彼女にマドリードへ行くようにと言った。「来月の始めにここで黙想会があります。マドレスと私はあなたがここで黙想を行うことを望んでいます。皆さんもあなたに会いたがっています。もしあなたがそちらでなされば、全てから離れることはできず、休日には大変な思いをされることでしょう。ここで私にも同じことが起こっていますから。」(58) 早速マドレ・ピラールは、11月4日か5日に到着すると言ってきた。彼女はウラブル師に話すため、数時間バリャドリードに滞在するとも言ってきた。
黙想会は7日にサン・ベルナルド街の修道院で始まった。指導者はイダルゴ師だった。これはマドレ・ピラールにとって困難なことだったろう。彼女はこれまで彼との折り合いがよくなかったことを思えばそれは理解できる。彼女は管区長のフランシスコ・デ・サレス・ムルサバル師と話したいと願い、総長はそれを許可した。――彼女の願いは特別なものではなかった――。「・・・ 私は彼女に何も申しません。黙想に関しても全く彼女の望み通りにしています。望みのままの場所で。どなたのご指導であっても。これ以上彼女を満足させることがあるかどうか見ましょう。」とマドレ・サグラド・コラソンはマリア・デル・カルメン・アランダに書いている。(59) 「望みの場所で」と言うのは、マドリードの二つの家のどちらかを指している。
マドレ・ピラールの霊的手記も、黙想に関する明白な記録は何も保存されていない。唯一、マドレ・プリシマに宛てられたウラブル師からの一通の手紙だけが、その黙想が実り多いものであったことを示している。「一年以上も離れ離れになっておられた後、マドレ・ピラールにお会いになってお喜びのことでしょう。黙想を終えられた今、あなたによい感化をお与えになるでしょう。一ヶ月の黙想で得られた聖なる、堅固な教えからの豊かな実りをもって、彼女は神に潜心して生きられるでしょう。」(60) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・ピラールとともに霊操に参加した。彼女はウラブル師ほどの楽観的な記録を残していない。「もし私の間違いでなければ、マドレ・ピラールは、12月8日までサン・ホセの家に留まり、その日に修練院の聖堂で独り終生誓願を立てました。そして彼女は、自分がしようとしていることをする前に、喜んで死ぬだろうとさえ私に言いました。」(61)
マドリードの家の日誌は、事実の短い記録を残している。「12月8日、マドレ・マリア・デル・ピラール終生誓願宣立。司式はロデレス師。」この短い記録からは何も推し測ることは出来ない。というのは、その同じページに、同様な簡潔さで、共同体を深く悲しませた一つの出来事が記されているからである。12月2日、エルマナ・マリア・デル・サグラド・コラソンすなわちマリア・タベルネロが午後3時に死亡。葬儀は4日に行われた。と。
彼女はわずか三ヶ月患った後、ゆっくりと死に近づいていた。当時の他の多くの若いシスターたちと同様、肺結核で亡くなった。しかし彼女の場合は、天国への渇望が死期を早めた。患者はそれを隠そうとしなかった。「最後の日々、彼女は死について話すのを喜び、最後に彼女は無原罪の聖母に対する九日間の祈りをしたいと言いました。彼女は祈るために彼女を訪問したシスターたちや神父たちに、無原罪の聖母の祝日に天国に行くことを主がお許し下さるよう祈りを乞いました。三日目の朝、容態が悪化しました。神とシスターたちの間に何か約束事があるのかと恐れた修練長は、彼女に尋ねました。『九日間の祈りで願っているのは、死についての恵みですか?』秘密が知れたかのように彼女は顔を赤らめ、そうですと言いました。でも何か違う恵みをお願いすることをお望みならそうします、と言いました。修練長は彼女の選択に任せました。12時30分、彼女の重態が知らされました。彼女を見に行くと、臨終の苦しみにありました。彼女は総長に報せ、総長は、病人の枕元で死ぬまで付き添いました。このことは大いに病人を喜ばせました。午後3時半総長の腕の中で息を引き取りました。」(62)
マリア・タベルネロの葬儀の日、その姉妹のマリア・テレサ・デ・サン・ホセが病気になった。昼夜病人の世話をしていたので無理も無かった。しかし、すぐにその病気は治らないと分かった。それは家族の中にあった。フルヘンシオ氏の娘たちは誰かから結核をもらっていた。マリア・テレサはもっと暖かい気候が必要だと医者たちは言った。それで総長は彼女をアンダルシアに移した。そこの日差しの下で彼女が元気になることを望んだのであろうか。彼女は12月4日にコルドバから書いている。「マリア・テレサはある時はよくなります。でも他の時には同じか、もっと悪くなります。」(63)
神のみ旨に信頼しきった献身も、終わりない幸福への生き生きした信仰も、マドレ・サグラド・コラソンの、別離と死を前にした強い愛と苦しみに打ち震えるあの優しさを取り除きはしなかった。 マリア・タベルネロの病気と死がこのことを示していた。マリアの死はとても悲しい出来事であったが、落ち着いてごく自然に受け入れられた。というのは、彼女が天使であったこと、そしてこの世では長く生きないだろうということを皆は確信していたからであった。「マリア・テレサ・デ・サン・ホセは会とマドレ・サグラド・コラソンを心から愛した。彼女の両親は特別に彼女を愛した。総長はこれらのことから大きな期待を抱いていた。」とマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・サグラド・コラソンのこの新たな特別な悲しみの原因を要約している。それが悲しみであったのか愛であったのか問いかけることが出来る。(64) 総長はコルドバからマドレ・ピラールに書いている。「今夜、聖体降福式の後、マリア・テレサのために私は大変な思いをしました。私は彼女のもとに行きました。寒いと申しました。実際、触ってみると、鼻は死のように冷たかったのです。青ざめてきて、彼女は疲れていると申しました・・・。彼女も院長も、それは強い火の所為だと言います。主なる神が私の怖れを受け入れて下さいますように・・・。彼女が回復しますように。私は神に信頼しております。ホセ・イバラ師とラモンがよろしくとのことです。お二人のほかにはどなたにもお会いしておりません。私の注意はこの病人だけに向けられておりますので。」(65) 数日後、彼女は再び書いている。「愛するお姉さま、マリア・テレサをヘレスへ連れて行かねばなりませんでした。ここにいると死んでしまいますから。この家(コルドバ)とここのひどい寒さは彼女を怯えさせました。あちらではとても喜んでおります。食欲もあり、よく食べられますのでずっと良くなったようです。み旨ならば神が彼女を回復させて下さいますように。」(66)
快方に向かったのは偽りだった。しかし、心配していた人々は希望を持ってクリスマスを迎えることが出来た。そして疑いも無く、病人自身も、彼女たちの希望を引き伸ばすために、出来る限りのことを全て行った。彼女は総長を喜ばせ、会のために役立つなら、命さえも差し出したであろう。そして今、彼女は皆への愛のために、彼女は命を保つべく闘おうとしていた。
マドレ・サグラド・コラソンは、悲しみのうちにも、彼女の回復を喜んでマドリードへ帰った。二人はこの世では二度と会うことは無かった。
「・・・ 全てに於いて私たちを導いておられる御方が、この全てをお許しになる・・・」
マドリードの司教からは長い間連絡が無かった。サン・ベルナルド街の聖堂では外に
面した戸は閉めてあったが、顕示された主を訪問するために修道院の玄関から信者たちが出入りしていた。1890年1月20日、オベリスコ街の家に司教秘書から公式の手紙が届いた。司教は総長に、聖体顕示は「死者の霊魂のため、あるいは、ある人の意向のために」捧げられる、と新聞に出ていたのを知っていたかどうか、また、その知らせは、彼女の承諾のもとに出されたのかを問い合わせてきた。「この教区では、個人の必要のために荘厳な聖体顕示を行うことは禁じられているので・・・このことが繰り返されるなら、そちらの教会で毎日行われている荘厳な聖体顕示は取りやめなければならない。教会の権威の定めたことに害を及ぼさないためである。」
この手紙の内容は、さらに厳しいことを口頭で付け加えて結ばれていた。司教は修練院付き司祭に電話をかけ、サン・ベルナルド街の聖堂を閉めるように、修道院の出入り口から入る人々に対してさえもそうするように、との命令を総長に伝えるようにと言った。マドレ・サグラド・コラソンは返事をした。その手紙に関して彼女は述べた。「・・・ 主は私どもの会憲に従って毎日顕示されているのであり、個人的な必要のためではありません。でも、ローソクのためだけに献金を受け取っております。これが司教様のご命令に反するとは思われませんでした。司教さまのご命令は私にとって尊敬すべきものですから。お知らせは私の知らないうちに出されました。この意向のために受け取った献金はお返ししましょう。知らないでしたこととはいえ、司教様のお望みに反して行動したことを申し訳なく思い、謙って従うことをお約束いたします。」(67)
別の手紙で総長は、もっと親しい調子で付け加えている。
「・・・ 聖ヨゼフ修道院付き聖堂に信徒が入るのを中止するようにとのこと、また、司教様のご命令が守られているかどうかを監視する方をお置きになるというご通達を、本日午後、私どもの聖堂付き司祭マヌエル・サンチェス・カプチノ師を通して頂きました。このお知らせに私は大変驚いております。何故なら、司教様からのほのめかしは、私にとって命令であることはご存知のとおりです。昨年同じ件について司教様にお話させていただきました折、この聖堂に関して私にお与えになった命令によってご存知のとおりです。ご命令には文字通り従って参りました。道路に面した戸を開かず、ミサに参加させず、赦しの秘蹟も受けさせず、聖体拝領もさせません。司教様が口頭で私にお与え下さった特免を行使し、修道院入口から信徒を出入りさせております。聖堂の鐘はならしません。敬愛申し上げる司教様、どれほどご恩をこうむっているかを知っておりますので、過去も現在もお愛し申し上げている者に対して、これほど厳しく当たられますので、私は大層悲しく思っております。主なる神がこの痛ましい現状を一変させて下さり、私どもに面目を与えて下さった貴師を尊敬申し上げることに於いて他に劣らない、謙遜で従順な娘たちとして、私どもの現状をありのままにご覧下さいますように。あの不幸な日々はこのような状態でございました。なぜなら、この修道会は、神に次いで貴師にその存在を負うており、私どもはこの事を決して忘れません・・・。」
総長は、1877年にマドリードで会が設立されたときにして頂いた事を、感謝をもって思い出していただくことにより、司教の心に触れたいと思った。すぐに届いた返事に見られる司教の反応は、確かに彼女の期待したものではなかった。「マリア・デル・サグラド・コラソン様: 昨日付けのお手紙により、あなたが遵守なさるという従順の決心は分かりましたが、理論的な、あるいは口約束の従順よりはむしろ、従順が実行されるほうを私は望みます。あなたのなさり方はそこからは程遠いです。そして、あなたの会が最初からそうだったように独立の精神によって動かされている限り、変わる可能性は無いでしょう。・・・ もしもその会が、横柄さと独立心をもって行動し続けるなら、――私はその証拠を持っておりますが――私はあなたがこの教区に持っている二つの家を出て行っていただきたいと思います。このことを、最初の機会に教皇聖下に申し上げましょう。」これは1月22日のことであった。
私たちの見方からすれば、サン・ベルナルド街の家に起こった一連の出来事は信じられないように思われる。司教の言葉の前例の無い厳しさについて見解を述べる必要は無い。それは疑いも無く、彼が有害、あるいは危険にさらされていると思った権威を擁護するために述べられたものだからである。マドレ・サグラド・コラソンがその家の院長(マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ)にその命令の事を知らせた時、彼女は付け加えている。「・・・ 神は賛美せられますように。私たちは急いでローマへ行かなければなりません。この件は話し合いに値することですから・・・。」(68) 翌日彼女はサン・ベルナルド街に行った。そしてそこから1月23日に、彼女は司教の最近の返事についてマドレ・プリシマに手紙を書いた。その手紙のことを彼女は「恐ろしい」と言っている。「このことについてあなたと話し合うためにそちらへ行きたいと思います。でもこの家を離れかねております。というのはマドレ・マリア・デル・カルメンには経験と熱情が欠けているからです。とてもひどい状況ですから、どんな間違いもひどいことに繋がりかねません。司教様の手紙はとてもひどいので状況は重大なものになってきているのが分かります。ですから考えなければなりません。私はすぐにマドレ・ピラールとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに電報を打ちました。み旨ならば、二人のうちの一人が明日、そしてもう一人があさって来ると期待しています。あとは神のみ旨が行われますように。」
1月25日、総長と、補佐のマリア・デル・ピラール、プリシマ、それにサン・ハビエルがマドリードの、大いに問題となっている聖ヨゼフの家に集まった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはコルドバで病気であったため参加出来なかった。
マドレ・サグラド・コラソンは家の状況と、司教の態度によって引き起こされた問題を説明した。「彼女はまた、管区長神父の助言に基づいて行動したことを説明し、ローマ教皇使節の監査役であるビコ師に起こったことを全て告げた。事実彼女は皆に何もかも告げ、秘書に彼女が言及し引用した手紙を読み上げるようにと言った。最後に彼女はどうすればよいかについて皆の意見を求めた。」 マドレ・プリシマは完全に従うことを勧めた。マドレ・サン・ハビエルも同じ考えだった。「私たちには闘う力がないとみて。」(69)
そこでマドレ・サグラド・コラソンは、ローマの創立がどれほど有益であるかを皆に分からせようとした。彼女は、マドレ・ピラールの態度を考慮し、普通には彼女の反対しか望めないが、マドリードの司教から出た問題は、摂理的に自分の考えに道を開くだろうと思った。事実、23日に彼女がマドレ・プリシマに書いた手紙に、彼女は次の言葉で自分の考えを知らせていた。「もしも思ったとおりになるなら試練と思われるこのことから、私は多くの栄光を期待しております。お会いした時に、全ては私どもを、いえ、修道会を、全てを導いておられるお方のお許しのもとに起こっているのだということをお話ししましょう。」
今皆が集まっているので、彼女は自分の考えを説明した。彼女が想像もしなかったことは、マドレ・ピラールがこのような特別な状況においてさえも、その敵意をさておくだろうということだった。「総長は、三人のマドレが創立のためにローマに赴くとよいだろうと注意深くそれとなく言った。マドレ・ピラールの返事は、修道会は弁護しきれないと思うとのことだった。隠蔽の必要がある、というのは、財産管理が明るみに出たなら、私たちは窮地に陥るだろうから、と。」補佐たちは彼女の意見に反対した。会の中に相当な財産を相続する会員がいる、そして、それまでどんな場合にも会は、どんな財産も抵当に入れたことはない、と。「マドレ・ピラールは意見を変えずに言った。この場合には、ローマに行くのは間違いであると思うと。長い間、彼女は後悔し、会が取ろうとしている道を嘆いた・・・。」(70) 彼女は自分もまたその家、聖ヨゼフ、の創立は、誤った決定の結果であったと思うと付け加えた。総長はただ、今、皆が集まっているので、その家を閉鎖するのが賢明なことかどうかを考えることが出来るだろうとだけ答えた。
その会合は何ら特別な結論を得ないまま終了した。翌日、マドレ・ピラールは秘書に、その状況から救い出されるための自分の意見を書いたものを渡した。秘書は述べている。「マドレスが読まれた後、これを持っているように、と彼女は私に言われました。」彼女は二つの解決法を提案した。一つ目は、彼女は総長と他の補佐たちと一緒にいる心積もりがある。「もし、彼女たちが管区長師を呼ぶなら、会の経済状態を正直に、そして真実に、見ていただく。そして、今の問題を、神からの試練、あるいは罰として受け入れるべきかどうか彼に尋ねる・・・。」 もう一つの選択肢は、実は、この件に対する彼女自身の意見であった。すなわち、司教の決定は、その創立を閉じ、フルヘンシオ師に、一軒の家を買うために彼が望む金額を、現金で彼女たちに与えるように説得するための機会として使われるべきである。そのお金で彼女たちは「会の刷新をはかり・・・、ローマに行って創立をすることが出来る」というものであった。その時彼女は「もし彼女たちが・・・有能な人々と相談せずに、再び愚かなことを始めないなら」「決心して一生懸命仕事を始める」 最初の人となるだろうというものであった。マドレ・ピラールは、この「自ら買って出たことをイエズス会の師たちに伝える」ことによって、修道会はそのために失うどころか、そのために潤うと思った。彼女は次の言葉で終えている。「あなたのために大きな犠牲を提供していることは分かっています。でも、私はあなたと一致しようとしている時、そうせずにはいられないのです。賛成できない他の多くの考えにもかかわらず、です。私が真実を語っていることを神は承認して下さいます。」(71)
総長秘書は付け加える。この記述を受け取った会員のうち、「マドレ・サン・ハビエルだけが、マドレ・ピラールによって提案された手段を適当だとは思わなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスも同様な返事を書面で提出した。」と記している。(72)
マドレ・ピラールは孤立し続けた。対立を解消することは不可能だった。何故なら彼女が望んだことは、イエズス会の管区長のムルサバル師との単なる相談ではなく、むしろ「告白」であった。すなわち、会の統治は「道理にかなっていない」 処理を行ったきらいがあることを、前もって宣言すべきであるということだった。そして、たとえ彼女たちがこのことを認めたとしても、彼女たちは、彼女が賛成できない他の点は何かを推測しなければならなかった。結論に達しないままに会合は終わった。マドレ・ピラールはラ・コルーニャに帰っていった。彼女はそこで、学校と子供たちとその家族のために最善を尽くして働き続けた。日増しに彼女はその人々から高く評価され、概して共同体からもそうであった。しかし、彼女の人生におけるその年月の中心的な問題は残った。妹の統治を受け入れることが出来なくした、あの盲目さである。
マドレ・サグラド・コラソンはマドリードに留まった。彼女が心を痛めていたことは言うまでもない。この場合に彼女が示した落ち着きと忍耐は、言葉では表すことが出来ない。あの二日間の会合の動乱を平和に耐えたことは、既に勝利であった。単なる受動的な態度を乗り越え、能動的に解決を求めたことは、それ以上のことを意味した。冷たい、鈍重な人物なら、敵対心や無関心と立ち向かうことが出来たであろう。しかし彼女はとても感じやすい人だった。そして彼女は姉の態度によって深く傷つけられた。このことは時々彼女も認めている。前進しようとの彼女の決意は、彼女の超人的な不変性によった。それは彼女の神への信頼によって与えられた力であった。この超自然的信仰が、彼女の人間性から最良の資質を最大限まで引き出した。彼女は生まれつき内気であった。それで彼女は謙遜な人々の堅固さを有していた。そして、反対の意見に対する恐れにもかかわらず、自分が正しいと思った態度を、断固として弁護する偉大な力を持っていた。
1月26日、マドレ・サグラド・コラソンは司教に会いに行った。補佐たちとの会合でなされた決心を実行するためであった。彼女は彼との和解を達成しようと試みた。しかし不可能であった。疑いもなくサンチャ師は、自分の立場に立つ有効な理由を持っていた。しかし、一世紀を経た今、彼の不快を理解することは明らかに不可能である。たとえ聖心侍女たちが最初に彼に何らかの原因を与えたとしても、――このことは我々に伝えられている全ての文書からも明らかではない――総長がサン・ベルナルド街の家に戻った時に彼に書いた手紙によっても彼の怒りがなだめられなかったことは、いまだに信じられない。
「キリストに於いて尊敬申し上げます司教様、今朝大きな悲しみのうちに戻りました。それは、私の訪問中に期待していたことが得られなかったからです。それは司教様をなだめ、私がお気に触りましたことをお忘れになることです・・・。今、謙遜の限りを尽くしてお願い申し上げます。司教様が喜んでおられないと思うことに私の心は耐えられないからです。司教様、何卒私をお赦し下さいますように。私のために全ての血を流されたお方に私が何度も赦していただいたように。これから私が行う償いが、最も説得力のある証拠となりますように・・・。」(73)
「困難な時期には、あなたは長生きするのだと思わないことです。力を落とさないためです。ただその瞬間に神があなたにお望みになることだけを考えなさい。そうすれば、それに伴ってくる恵みを一つも無駄にすることはないでしょう。」(74) 彼女はその頃この勧めを一人の姉妹に与えている。彼女の言葉は真に彼女自身の経験から出たものである。彼女もマドリードの司教との困難を乗り切っていた。しかしほどなく彼女は解決を見出さねばならなかった。彼女は再びローマのことを思った。彼女はムルサバル師と相談した。そしてフルヘンシオ師の精神を基準とした。彼らから前向きの答えを得て、彼女は補佐たちの意見を求めた。彼女はイエズス会管区長の勧めに、問いかけの仕方で従った。「・・・ 管区長様は私たちが全ての家で九日間の祈りをするようにとおっしゃいます。評議員と私自身に光をお与え下さるよう、主に願うのです。その後各自は賛成、反対の意見を別々の欄に書いて私に送って下さい。彼がお決めになるでしょう。それから、それについて祈らねばなりません・・・ 今、お分かりでしょう。――彼女はマドレ・ピラールに書いた。「片方の面に書いて下さい:・・・や・・・のためにローマに創立されることは良いことです。もう片方の面には、もしこれが行われるなら、有害でしょう。・・・や・・・のためです。お分かりにならないことがあれば、私にお聞き下さい。」 (75)
「出来ることなら、もうこれ以上死者が出ないように、祈りましょう・・・。」
この頃マリア・テレサ・タベルネロは生涯の最後のコースに入ろうとしていた。彼女はヘレスにいた。アンダルシアでしばらく小康を得た後、激しい病の発作に襲われた。彼女は生きたいと願っていたが、主の平和のうちに死を受け入れた。「・・・ 2月の初金曜日に、聖心への完全な信頼のうちに、彼女は奇跡的回復を願っていた。そして主がその慰めを彼女にお与えになることを望まれないと分った時、彼女は死が近づいていると思うと院長に言った。そして、苦しむため、また、主に仕えて神の栄光のために働くために回復することを願った。しかし彼女の意思は神のみ旨と全く一致していた・・・。彼女は、多くの理由で大変お世話になっている会のために、何もせずに、悲しみのうちに死んでいくと言った。」(76)
2月9日、マドレ・サグラド・コラソンは言った。「マリア・テレサは消えて行くともし火のようです。毎日少しずつか細くなってまいります。」(77) 21日、病人は病者の秘蹟を受け、三日間生き延びた。総長は病状がかなり重いことが分り、マドリードを発ってヘレスへ向かった。修道院に着いた時、玄関に出迎えた皆の顔から、マリア・テレサがたった今亡くなったことが分った。彼女の悲しみを少しでも分かるために、その生涯の大きな試練に当たってアントニオ・オルティス師がよく捧げていた感謝の祈りを繰り返した。「テ・デウムを唱えましょう。」と彼女は言った。疑いもなく、それは彼女の信仰の深みから出てきたものであった。
マドレ・ピラールがその知らせを受けた時、彼女はただマリア・テレサの死を悼んだだけでなく、マドレ・サグラド・コラソンの深い悲しみにも触れた。「今のような時期にあっても、あなたのいつもの平静を保てますように、神がお助け下さいますように・・・。彼女は今全く何の後悔もなく幸福です。そして今彼女は皆のため、特にご両親のために多くのことが出来る所にいます。」(78) 昔からの経験により、マドレ・ピラールは姉の強さを知っていた。マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デル・カルメンに書いている。「神に感謝。私はこの痛手を大きな悲しみのうちに受けましたが、それは神のもとから参りますので、大きなお捧げとして受け取りましたとマドレ・ピラールにお伝え下さい。私は葬儀に出席しました。そのための力さえ主からいただきました。それほど多くの恵みを私にお与え下さる主は賛美せられますように。」(79) 死の神秘に光を与える信仰は、彼女の苦しみを和らげはしなかった。「マリア・テレサのための悲しみを想像出来ますでしょう。でも、彼女の思い出はいつも私から離れることはありませんので、どれほど私が悲しみを感じたか、そして事実感じているか、私は言い表すことは出来ませんが、私たちからこの大きな犠牲を要求なさった神のご意思に、私はすっかりお捧げしております。」(80) 「・・・ マリア・テレサのための私の悲しみは言葉には尽くせません。でもそれは神から来るので、神がご自分のものを取り返されたからといって、どうして私たちはそれほど悲しむことが出来ましょうか。神はご自分のものを取り戻されるのではないでしょうか。それに、この悲しみによって動転するのは、謙遜や霊的貧しさに反するのではないでしょうか。」(81) 「神がこの全ての悲しみを、私の罪のため、そして、多くの仕方で試されてきた修道会のための感謝のうちに受け入れて下さいますように。そして、出来ることなら、もうこれ以上死者が出ないように。祈りましょう。」(82)
「・・・ 霊魂を清めるために・・・」
「困難な時には、長く生きると思わないように」とマドレ・サグラド・コラソンは言った。折にふれて彼女は、死による全てのもののはかなさを思った。しかし生にはその要求があり、それはさまざまな、そして逃れられない義務へと彼女を差し向けた。
どれほど「変わらないもの」へまなざしを向けても、彼女はあきらめの危険、あるいはどんな種類の霊的疎外感に陥ることからは程遠かった。彼女は、ときに真に愛する人々からの別離を要求される神の意思を愛をもって受け入れた。しかし彼女は健康と生命を保つことにも大いに関心を示した。それらは神に仕えるために用いられる、神からの貴重な贈り物だとみなしたからである。マドレ・サグラド・コラソンは、驚くほど多くの機会に、非常に「霊的」な助言とともに、よい十分な食物のような平凡なものをも勧めている。「神への愛のために、素直でありなさい。たとえ食欲がなくても十分に召し上がれ・・・。」この助言は、違った表現で彼女の手紙に何度も書かれている。「神が私たちにお捧げするよう望まれるのは、体ではなく霊魂だということを、あなたはいつ確信されるのですか?でも平和と喜びをもってです。」(83) 「神は私たちが体の病気をひきずることをお望みになりません。でも、普通の生活を送るとき、心では殉教者でありましょう。他人に徳を実践するよう教えながら。偉大であればあるほど、そして、隠れたものであればあるほど、よりよいのです。あなた自身が今引きずっている道は好きではありません。前のほうが良かったです。丸々としており、エネルギーに溢れ、働き者でした。そうです。もっともっとそうであって下さい。」(84)
「心では殉教者」 愛する能力を滅ぼすためではない、それを増すためである。全ての人のために、全てに超えてそれを実り豊かなものとするためである。「外的な苦行よりも、これらは魂を、神が私たちをご自分と一致させるために、神の望まれるよう磨きをかけるために重要なものです。」彼女はある機会に、共同体の中で生活することに困難を感じていた一人の会員に書いている。(85) 次の数行に見られるように、繊細な人間的感情が、非常に「清められ」、神と人々への愛に精通していた魂に秘められていた。「私は先日大急ぎで書きました。それで、なぜあなたが泣きたかったのか尋ねませんでした。私は知りたいです・・・。落ち込んでいるのですか?どうしてかおっしゃって下さい。」(86)
マリア・テレサ・タベルネロの死の頃、マドレ・マリア・デル・サルバドールはカディスの創立のことで交渉していた。総長はマドリードから助言を与えた。また、彼女がその業務のため依頼していた人物に大きな行動の自由を与えていた。「その家については最も適当なものをみて下さい。私たちにとっては、場所が一番大事です。でも助言を求め、全てをよく考えて下さい。それから自由に行動なさって下さい。もしそれがドブローネスの家なら、聖堂が地下にならないように注意して下さい。場違いですから。師のご助言をお願いするようあなたに頼みますが、会のために何が最も適しているかをあなたに考えていただきたいです・・・。聖堂の位置については司教様にお知らせしていただきたいです。後で不愉快なことにならないためです・・・。後悔しないために彼とはっきりお話しなさい・・・。私が申し上げていること全てについて心配なさらないで下さい。出来る時にはそれに対し慎重に従って下さい。何事も早急に行わないように。神の前に全てをよく考え、ゆっくり行動なさって下さい。」(87)
数日後、彼女は再びマドレ・マリア・デル・サルバドールに書き、カディスの創立に関係する困難やためらいに於いて彼女を励ましている。前の手紙はその仕事の係りのシスターに、総長はそれに関心がないかのような印象を与えたように思われる。彼女はこの考えを払拭するために次の手紙を書いた。
「私はカディスの創立についてがっかりしたことなどありません。その逆です・・・私たちの主がどこでも礼拝されることをどれほど私が見たいと思っているかはご存知のとおりです。でも私があなたのお手紙を受け取り、司教様が私どもに反感を持っておられることが分った時、ここでの問題と同様のものを恐れたのです。それで私は電報を打ち、同様のことについての手紙を書きました。あなたはそこで物事の只中にいらっしゃいますので何でもお聞こえになります。神のみ前で最上と思われることをなさって下さい。あなたは私に何でもお知らせ下さいますから、行動する前に私の返事を待たないで下さい。なぜなら、手紙は日にちがかかりますから。私が返信をする頃には、場面は全く変わってしまっています。そして私の意見は役に立たないものになっています。ですから、お分かりでしょう。恐れず、しっかりとお始め下さい。まるであなたが私の声を聞こえるかのように、そして私が全てを承認しているかのように・・・。繰り返します。この件でも、あなたのプエルトへの訪問や旅行においても、あなたがなすべきだと勧められること、あるいは思うことを全て、全くの自由のうちに行って下さい・・・。」(88)
彼女が、総長として、使命を委ねた会員に与えた自由の半分でさえも享受出来たなら・・・。
マリア・デル・サルバドールに対する彼女の話し方は、違った気性の人々と付き合う彼女の如才なさを表している。マリア・デル・サルバドールは、少しでも信頼されないことが分かると、とても恥ずかしがり、内気になった。しかし、彼女は、自分の才能が他人に認められることが分かると、とても役に立つ人物だった。
カディスの創立は暫く後に落ち着いた。前掲の手紙のわずか一ヶ月後であった。マドレ・サグラド・コラソンは、2月の終わり頃、アンダルシアへの旅に出かけた。そして、マリア・テレサ・タベルネロの葬儀の後、カディスへ行き、その家の聖堂の落成式の準備を手伝って活発に活動していた。「私たちは皆埃をはらい、掃き掃除をしています。たくさんすることがあります。――くもの巣から床まで――。でも何もかもがピカピカして、きれいで美しくなってきています・・・。」(89) 「・・・ この地方は大変いいです。ここにはとても魅力的な人々がいます・・・。」(90) 疑いもなく彼女はカディスが気に入った。大洋に面してとても広々と開けたその小さな町全体が。実際、数ヶ月後、彼女は海に関する彼女の最も美しい文章の一つを書いている。
「海の景色を見て、あなたがどれほどお喜びになったか想像がつきます。(91) 全能の神の何とすばらしいこと!こんなに偉大な神を持っていることは何という喜びでしょう!そして私たちは、この無限の神を永遠に所有することになります。そして今はそのお方をご聖体のうちに所有しています。彼は毎日私たちの心に来て下さるのです。これこそ底なしの海です。」(92)
第3部 第2章 注
(1) ヘレス・で・フロンテラ修道院の日誌 13-14ページ。
(2) 1889年2月20日と27日、マドレ・ピラール宛の マドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(3) 1889年2月27日の手紙。
(4) 1901年に封切られた演劇エレクトラは、マドリードの聖心侍女会の修練院に入った若い少女アデラ・ウバオに言及している。
(5) その修練女は成人していたので、自分の生涯の方向を決める自由があった。
(6) 1889年2月27日の手紙。
(7) サン・ホセの修道院についての報告書。
(8) 同上。
(9) サン・ベルナルド修道院の日誌。
(10) 同上。
(11) サラゴサの修道院の日誌 80ページ。
(12) 同上 8ページ。
(13) 同上 82ページ。
(14) 通常、カーニバルの間の三晩、聖体が顕示された。修道女たちは交替で礼拝した。(15) 日誌 5-6ページ。
(16) Cf.[参照] マドレ・サグラド・コラソン、本会の聖堂に聖体を安置することを願っての教皇への請願書、1877年9月26日。
(17) ベナビデス枢機卿への手紙、1881年12月30日。
(18) 姉宛の手紙にマドレ・サグラド・コラソンによって引用された手紙。1888年10月30日。
(19) 「私が行く」というのは、マドリードについて話している。その手紙は日付が無い
が、5月26日か27日に書かれている筈である。
(20) 1889年4月26日の手紙。
(21) 1889年5月29日の手紙。
(22) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスのマドレ・ピラール宛の手紙、6月18日。
(23) マドレ・プリシマのマドレ・ピラール宛の手紙、1889年6月18日。
(24) マドレ・ピラールのマドレ・プレセンタシオン・アローラ宛の手紙、1897年7月6日。
(25) かっこ内のこれらの言葉は、1890年、その問題が最悪の事態となっていた時エンリケ・ペレス神父からマゼラ枢機卿に宛てた報告書に見出される。
(26) マドレ・サグラド・コラソンに宛てた手紙、1889年10月11日。
(27) 日付なしの手紙、しかし10月に書かれたことは確かである。
(28) 1889年10月18日の手紙。
(29) 1889年11月4日の手紙。
(30) 1889年11月6日の手紙。
(31) 1889年7月16日の手紙。
(32) 1889年7月20日の手紙。
(33) マドレ・サグラド・コラソンの歴史Ⅰ 55ページ。
(34) 同上。
(35) マドレ・ピラールへの手紙、1889年9月13日。
(36) マドレ・サグラド・コラソンへの手紙、1889年9月15日。
(37) 1889年9月に始まる手紙。
(38) 1889年7月4日の手紙。
(39) 1889年7月11日。
(40) マドレ・サグラド・コラソンへの手紙、1889年8月22日。
(41) 1889年8月27日の手紙。
(42) 1889年8月26日の手紙。
(43) 1889年8月29日の手紙。
(44) 1889年8月28日の手紙。
(45) 1889年8月25日の手紙。
(46) 日付なしの手紙。しかし疑いもなく、1889年8月25日にマドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンに宛てて書かれたもののすぐ後であろう。
(47) 1889年9月10日の手紙。
(48) マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。1889年9月20日。
(49) 1889年9月末の手紙。
(50) 同上。
(51) 1889年9月26日の手紙。
(52) マドレ・ピラール宛の手紙。
(53) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙。9月18日以前。おそらく16日以前だろう。
(54) マドレ・ピラールへの手紙、1889年10月11日。
(55) 1889年10月5日の手紙。
(56) 1889年10月10日の手紙。
(57) マドレ・サグラド・コラソンへの手紙、1889年10月14日。
(58) 日付なしの手紙、10月の後半。
(59) 1889年11 月5日の手紙。
(60) 1889年11月25日の手紙。
(61) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅰ、54ページ。
(62) 彼女の死の頃に書かれた回報。cf. Fidelidad diviona Ⅰ、9番。
(63) マドレ・ピラールへの手紙。
(64) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅰ、57ページ。
(65) 1889年12月14日の手紙。
(66) 1889年12月20日の手紙。
(67) 1890年1月21日の手紙。
(68) 同上。
(69) 総長顧問会議事録、31ページ。
(70) 同上、31ページ以下を見よ。
(71) 原本は1月25日の会議の最後に、議事録とともに入れられた。(?)
(72) 顧問会議事録、33ページ。
(73) 1890年1月26日の手紙。
(74) マドレ・マリア・デ・ラ・パス宛の日付のない手紙。おそらく1890年と1892年の間に書かれたものであろう。
(75) 1890年2月9日の手紙。
(76) 彼女の死に際して書かれた回状。Cf. Fidelidad Divina Ⅰ、10番。
(77) マドレ・ピラール宛の手紙。
(78) マドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙、1890年2月27日。
(79) 日付なしの手紙、おそらく3月の初旬に書かれた。
(80) 1890年3月15日、マドレ・ピラールへの手紙。
(81) 1890年3月8日、マドレ・プリシマ宛の手紙。
(82) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙、1890年2月25-26日。
(83) マドレ・コンソラシオン宛の手紙、1887年10月。
(84) マリア・デル・サルバドール宛の手紙、1888年4月。
(85) マドレ・インベンシオン・デ・ラ・サンタクルス宛の手紙、1889年秋。
(86) マドレ・マリア・デル・サルバドール宛の手紙、1890年3月28日。
(87) 1890年2月15日の手紙。
(88) 1890年2月20日の手紙。
(89) マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙、1890年3月6日。
(90) 同上。1890年3月10日。
(91) 原本では確かにマドレ・サグラド・コラソンは間違えて ‘gratamente‘と書いた。
(92) マドレ・マリア・デ・ラ・パスへの手紙、 1890年11月。