第4部 第2章 会憲の最終認可(1894年)

マドレ・サグラド・コラソンは、辞任の一年後、本会の歴史の中で最も重要な出来事の一つを体験することとなる。1894年、聖座は会憲を認可した。これは盛大に祝われ、以来、毎年9月25日、聖心侍女たちによって記念されてきている。これに先立ち、あるいは、その認可をめぐって、同じくらい重要な一連の状況があった。ここでそれらを要約し、同時に、それらが創立者姉妹の生涯にどのような影響を及ぼしたかをみてみよう。
会憲の編纂は、当然の事ながら、マドレ・サグラド・コラソンの大きな関心事の一つであった。会の認可以前の1886年にマドレ・ピラールとマドレ・プリシマがローマに滞在していた時、マドレ・サグラド・コラソンは仕事が山積していたにもかかわらず、最重要と判断したことは一瞬たりとも疎かにしなかった。「会憲は簡単な仕事ではないから、大急ぎで仕上げることは出来ない・・・。」 と彼女は考え、他のどんな仕事よりも (1) 二人の創立者姉妹は力を合わせて会則を作成し、その根本的な条項を起草すべきであると、同じ手紙に述べている。しかし、このことは不可能に終わった。マドレ・サグラド・コラソンは、イエズス会や他の修道会の会憲を探し、コピーを作成し、学識あるイエズス会士の助けを得るなど、出来る限りのことをした。1886年、聖座が修道会の最終認可を与えた時、それから七年以内に会憲を書き直す必要を指摘していた。1894年にはその期限は満期に達していた。マドレ・サグラド・コラソンはそれを熟知していた。しかし、彼女は積極的に事に携わることは出来なかった。彼女は、もう一人の創立者である姉も、これほど重要な事柄にほとんど関与することが出来ないということを考えること、あるいは想像することが出来たであろうか。それは困難であっただろう。マドレ・ピラールが丁度この1894年に、自分の道と同じカルワリオで終わる十字架の道を歩み始めていたことは、マドレ・サグラド・コラソンは知る由もなかった。

選挙の「過ち」

事実、聖心侍女会の第二回総会が、マドレ・マリア・デル・ピラールを総長に選出した時、それは同時に、彼女の長年にわたる殉教の宣告となった。信じられないかもしれないが、このことはあらゆる資料が証明している。マドレ・ピラールは、「修練期に置かれた状況から、修道生活、あるいはその実践に於いて」(2) ほとんど養成を受けられなかったとの判断にもかかわらず、総長に選出されている。マドレ・ピラールと妹は、マリア贖罪会に入会したが、数ヶ月後、思いがけないことに、先の見えない決定のうちに、彼女達について来る若者のグループの指導者になってしまっていた。いや、姉妹はまだ修練女にさえなっていなかった。コルドバに滞在していた間、マドレ・サグラド・コラソンは完全に目下の立場を取っていた。経済的な問題には全く立ち入ろうとしなかった。誰かがこのような問題について彼女と話したいと言えば、「マリア・デル・ピラールにうかがってごらんなさい。」と言うのが常であった。全てを捨てて (ルカ5, 11参照)、神に身を捧げることを決心した時以来示してきた無私の心で、二人は資産を使い、修道院のための費用を調達していた。当時の出来事を回想し、当時のことについて、姉ピラールは「修練女としての私の素行には何の落ち度もなかったことを [・・・] 嬉しく思い出します」(3) と書いている。彼女の証言は、会の初期のメンバーによって確証されている。(4) しかしこのことから、マドレ・ピラールが、従順によって多くのことに携わっている間に、従順の規則遵守の詳細に怠りが無かったと言うことにはならない。たぶん「怠り」というのは正確な言葉ではないかもしれない。おそらく彼女は、これらの詳細に全く気づいていなかったと言えるのではないだろうか。
1877年から1894年に至る年月は、会のある部分に於いて、マドレ・ピラールの生き方から受ける印象を強める以外の何物でもなかった。全ての規則の細部までの正確な遵守が異常なまでに高く評価された一時期に於いて、姉創立者はある視野の広さを持っており、それは、ある人々には大変心地よく映る一方で、他の人々には疑念を抱かせていた。一般的には、ポラス姉妹と会の誕生の悲しみと喜びを分かち合った初期の聖心侍女たちは、二人を深く愛していた。どちらがよりすぐれた精神を持っているかを判断するのに困ったとは思えない。もっとも、自分たちが受けた養成の基礎を、院長に見出していたのは事実であるが。マドレ・サグラド・コラソン自身、姉についてはいつも賞賛に満ちた言葉で話し、姉の高い評価を促していた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは、自分が修練女で、マドレ・ピラールがヘレスの院長であった時、マドレ・ピラールのマドリードの修道院訪問は、いつもお祭りのような出来事であったと述べている。マドレ・マリア・デル・カルメンはまた、自分がヘレスへ送られた時、マドレ・ピラールから受けた印象について次のように述べている。「誓願を立てた時、私はマドレ・ピラールが院長であるヘレスへ送られました。私が修練を終えたばかりだったためか、マドレ・ピラールが、小さいことへの忠実さよりも、堅固な徳の実行をもっと重視されたためか分かりませんが、私は失望しました・・・。」(5)
マドレ・ピラールが会の精神にあまり養成されていないことについてマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが意味したことを理解するためには、これらの言葉を、他のところでの彼女の発言と比較することが必要である。「このことから、彼女が徳に欠けていたと判断すべきではありません。私の貧しい理解によれば、彼女は自分自身の性格上の欠点、および自分が置かれている状況の中で聖性への道を歩み始めました。神が自分を招いておられる聖性の高みに達するのに必要な土台を深く掘り下げながら・・・。それは活発で、熱心で、情熱的なマドレ・ピラールでした。彼女はまた、謙遜で、克己心に富み、強く、まっすぐな方でした。自分の好みに大変敏感で、時にはこの傾向にひきずられてしまうこともありました。」 (6)
マドレ・ピラールについてのマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダの判断は、全体として否定的に見えるかもしれないが、心温まる逸話によって和らげられている。これらの逸話の全ては、マドレ・ピラールの外向的な人柄を浮き彫りにする。複雑であり、時として矛盾があり、それでいて、いつも大変人間的な人柄を。また、これらの逸話から見えてくることは、彼女の「修道精神の欠如」を認める人々の意見は取るに足らない理由に基づくものであるということである。姉創立者に関して、重大で非難すべきと考えられてしかるべき一つの事実、すなわち、妹に対する反抗を、マドレ・マリア・デル・カルメンも、総長補佐の誰も、マドレ・ピラールが会の総長に選出されるための妨げと判断しなかったのは不思議である。(しかし、誰もがマドレ・サグラド・コラソンを排斥する雰囲気にすっかり飲み込まれていた時期だったことを思えば、それは理解できる。)
後年、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダのマドレ・ピラールに対する見方を和らげた愛情にもかかわらず、1893年の時点では、彼女はマドレ・ピラールの会則遵守に関しては、あまり信用していなかった。マドレ・サグラド・コラソンはその前の時点で、マドレ・ピラールに対する総長顧問たちの考えを周知していた。会の統治から退きたいとの望みについて、1891年にムルサバル師宛てた手紙の中で書いている。「・・・ 私は総長職を退くことを提案しましたが、受け入れられませんでした。でも、そうすべきだと思いましたので、私は重ねて願いました [・・・] ついに、何人かは私の意見に傾いてきましたので、ことがスムーズに運ぶよう、姉が私の任務を引き継ぎ、私は管区長に、と提案しました。なぜなら、今日、会全体に及んでいる良い精神を、マドレ・ピラールは保てないのではないかと皆が心配していたからです・・・。」(7)
もしも以上がマドレ・マリア・デル・カルメンの意見であるとするならば、他の顧問たちの意見は、もっとずっと悲観的なものであった。このことは、ほどなく明らかになる。

「・・ここに重大な争いが開始された」

マドレ・ピラールが総長に選ばれた時、彼女と顧問たちは、1886年に提出された会憲の見直しを始めることにした。この仕事にはマドレ・プリシマ があたることとなった。それはスペインで、ある経験豊かなイエズス会士の援助のもとに行われることになっていた。その計画は、第2回修道会総会の会期中になされた。
1893年の夏、マドレ・プリシマは会憲を改訂した。彼女はその仕事に当たり、ウラブル師の助言を受けていたにもかかわらず、総長と顧問たちは、もっと身近な人からの指導が必要だと思った。彼女たちはアストレイン師に目をつけたが、彼が出来ないということであったので、ビヌエサ師の援助を求めた。彼はラ・コルーニャに住んでいたので、マドレ・プリシマは出向いていった。それは1893年10月の初めのことであった。その年の終わり、12月31日に、彼女はマドリードに戻ってきた。彼女はかなりの量の文書を携えて行った。それは彼女自身の仕事ではなく、真面目なビヌエサ師のものであった。彼は、この少し前の手紙の中で、改訂に於いて彼が参考にした基準を、マドレ・ピラールに説明していた。(8)  翻訳、時に説明、引用にあたり、彼は、聖心侍女会の会憲に、イエズス会の会憲の根本的な内容を、また、それらの文字通りの表現の大部分さえも入れようとした。彼は非常に立派なものを作り出していた。それは、一見、長すぎるように見えたが、首尾一貫し、まとまりを持つ会則を含んでいた。(9)
1893年の夏と秋は、特に苦しい時期であった。その二ヶ月の間中、ほとんど毎日のようにマドレ・ピラールは、会の中での彼女の権威、というよりはむしろ、総会の中でのそれが、マドレ・プリシマの権力と実際の行為を隠す暗幕となってきていることに気づいていた。
1894年1月10日、総長と顧問たちは、会憲の読み合わせのために集まった。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはそれらの会議を、後に増大する多くの困難の始まりとして回想し、詳細にわたって記録している。

  「ついに私たちは集会を持ちました。マドレ・プリシマが会憲を朗読しました。総長は深い物思いに沈んだ人のように、いや、大変心配そうな様子で耳を傾けてい
ました。最後に彼女は、マドレ・プリシマではなく、自分が会憲を提出すべきであると言いました。顧問たちはこれに反対しました。私たちは、愚かにもマドレ・プリシマに賛成しました。そして、マドレ・プリシマも自分の主張を擁護しました。私たちの態度を見て、総長は、問題を投票で解決することに決めました。私たちには総長の意見が分かっていたため、総長は投票を棄権しました。マドレ・プリシマは自分も同様にすべきであると考えました。それで、私たち3人は、権威上総長(マドレ・ピラール)以外の誰にも属すべきでない使命に彼女(プリシマ)を選出しました。」(10)

マドレ・マリア・デ・ラ・クルスもこの出来事について述べ、事件を説明すると彼女が考える一連の理由を付け加えている。彼女によれば、投票の前に、顧問たちは自分たちの間で話し合った。「物事をはっきりさせるために。というのは、その時まで私どもの間では、誰も他の人と異なる考えを持つことはありませんでした。けれども、ここで大きな争いが始まりました。三人の総長顧問は以下のように考えました。[・・・] すなわち、ローマでは、会憲の記述の大部分が省略されるでしょう。イエズス会の会則に似ているものであれば、なおさらでしょう [・・・]。そこで、彼女たちは、会員の養成に関することは全てを残しておきたいと望んでいました [・・・]。三人の顧問は、マドレ・プリシマは何年も修練長を務め、これらの難しさを扱っているので、修練女の養成に必要な事柄の詳細に気づいているであろうと考えたのです。しかし、総長は修練院を受け持ったことがないので、これらのことは考えられないでしょう。そして、彼女の行動様式からは、彼女が何の訓練もないことはすぐ分かることでした・・・。」(11) 顧問たちの考えでは、総長のための行動分野には非常に僅かなものしか残されていなかったことは明らかである。二人の創立者姉妹が、会の統治から引き離されて行く事態の第二段階が、ここに明白に見えてくる。当時、その数年前の時期と同様に、ポラス姉妹を不当に区別する、度を越した単純な見方が横行していた。それによると、マドレ・サグラド・コラソンは、経済的な事柄に関しては全く才能がなく、そして今、マドレ・ピラールには、霊的本能が完全に欠けているので、それを必要とする仕事を首尾よく行うことは不可能であるというものであった。マドレ・ピラールには、事の成り行きに関して心配するのに十分な理由があった。ウラブル師への手紙の中で、次のように書いている。「・・・ 私が思いますには、修道家族の二度目の崩壊が始まっています。それは、アマリアを通してです・・・。」(12) 後に起こってくる出来事は、この印象を確証する以外の何物でもないことになる。
ビヌエサ師によって書かれた会憲の草稿を持ってローマに着いた時、マドレ・ピラールは当然のこととして、保護枢機卿を訪ねた。彼もイエズス会士ブチェロニ師――司教律修者聖省の顧問――も、ラ・コルーニャの草稿はたいへんよくできているが、要約の必要があると判断した。マドレ・プリシマはマドリードに手紙を書き送った。「私たちの文書はもうブチェロニ師がお持ちです。でも、先日来られた時、私はとてもがっかりしました。私に新たに会憲を書き直すようにとおっしゃらんばかりでした。とんでもないことです!でも、いくらか読まれてから意見をお変えになり、会憲には不適当で、指針の方に残しておくべきだとご自身とカミロ師がお考えになるものを整理するなら、大変良い出来ばえであると言われました。要するに、長すぎるのが認可には難点であるとのことでした。」(13) マドレ・ピラールは既に旅行に不本意であるだけでなく、会憲の新たな編纂が、総長、かつ創立者としての自分の干渉を全く受けないものになるであろうことを理解し、さらに危惧の念を深めたのであった。彼女の目には、会憲の重要性もさることながら、この事実の方がずっと大きな問題であった。本当の問題の深みはどこにあったのだろうか。おそらく、会憲の再編纂が、創立者(姉妹)の影響を何ら受けずに遂行されるということは、ある意味で、修道会が、その生来の指導者たちから逃れ始めていたと言えるであろう。こうした出来事に光をあててみると、マドレ・ピラールは、顧問たちが、修道会の統治の上で、多少とも意識的に自分に割り当てた控えめな役割を、確かに理解していた。もっとも、彼女は、将来に関する予言的ビジョンから生じる全ての恐れの一つひとつを詳細に取り上げることはしなかったと思われるが。
実に、この時になって初めて彼女は、以前の自分の過ちに気づき始めたのであった。

「私の役目は、沈黙すること、祈ること、そして、苦しむこと」

マドレ・プリシマのローマへの旅行に先立つ出来事を知らず、また、疑うことさえせずに、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・プリシマが、会憲認可の交渉取り決めの全権を持ってローマに到着したのを見た。マドレ・マリア・デル・サルバドールはマドレ・ピラールに書いている。「マドレ・サグラド・コラソンは、私たちの手中にある問題に関して、アマリアにお話になってはいらっしゃいませんのでご心配なく・・・。」(14) マドレ・プリシマの滞在とその用心深い態度は、前総長にとって大変辛いものだった。マドリードからマドレ・ピラールはそれに気づいていたに違いない。院長は彼女に書いている。「先日私は、マドレ・サグラド・コラソンについて何もお書きしませんでした。それは、忘れていたからに他なりません。実際私は、マドレ・サグラド・コラソンがある事柄に於いて英雄的であるとあなたがおっしゃったことに関してお書きしたいと思ったのです。私も時折、特に、あの方が大変な努力をしなければならないような機会に、彼女に感嘆します。会憲の問題に関しては、彼女はいつも私に良いお手本を示して下さいます。というのは、彼女は自分自身を忘れ、いつも最も完全なことだけを望んでおられるからです・・・。」(15) 彼女が心の中で自分自身と完全に一体であると思っている問題から彼女を排除するために、異常なまでの注意が払われていた。
マドレ・プリシマはまた、イタリアに修練院を創る仕事を背負っていた。マドレ・ピラールと顧問たちは、マドレ・パトロシニオ・ディアス・カルモナを修練長に任命していた。このことは、マドレ・マリア・デル・サルバドールを高く評価し、修練長の任につくべきだと考えていた保護枢機卿の不興を買っていた。総長と顧問たちはまた、マドレ・サグラド・コラソンも彼女たちによるマドレ・パトロシニオの選択が良くないと思うのではないかと恐れていた。このような理由から、それ自体は簡単な事柄である修練院の創設は、マドレ・プリシマがローマでひた隠しにしていたもう一つの機密事項となった。任命がついに公に発表された時、前総長は何の問題も起こさなかった。「・・・ 私は彼女に誰が修練長かをお話しました。それは悪くないと彼女は思ったようです――マドレ・プリシマはマドレ・ピラールに書いている――。ただ、適任者としては、より霊的知識に富み、判断力も勝る、等々で、マリア・マグダレナが相応しいのではないかとのことでした。」(16) もちろんここでマドレ・プリシマは、マドレ・サグラド・コラソンが彼女に語った意見を述べている。

ローマの聖心侍女会の修道院は、書物、書類の扱い、頻度の高い訪問客の受け入れ、修道院への出入りといった仕事の活動を、秘密にしておけるようなサイズではなかった・・・。七ヶ月の間、マドレ・プリシマはマドレ・サグラド・コラソンの目の前で、絶え間なく仕事を続けていた。マドレ・サグラド・コラソンはこうした密かな動き、あるいは警戒の理由を見ないわけにはいかなかった。この間ずっとマドレ・サグラド・コラソンは、会憲のことは神に委ね、このことについては一言も口にしなかった。自分の会憲。会憲は自分のものであると彼女は考えずにはいられなかった。長い間心に抱き慈しんできたもの、自分自身のものとして、彼女は会憲に関心を寄せていた。「私の仕事は沈黙すること、祈ること、そして、苦しむこと」と彼女は以前に書いている。(17) そして、「働くこと」と付け加えることが出来ただろう。前総長は修道院内の平凡な仕事に全力を注いでいた。マドレ・サルバドールからマドレ・ピラールに宛てた手紙が、マドレ・プリシマの行動と、マドレ・サグラド・コラソンの「情熱」を明らかにしてくれる。「マドレ・プリシマとともに生活することを、彼女がどう思っていたかついて、私の思うところをお話しました。というのは、ご自分をとても抑えねばならなかったに違いないからです。実際、彼女は感情を抑え、彼女に心を配り、親切に話しかけておられますから・・・。」(18) 「マドレ・サグラド・コラソンはこの頃大変落ち着いておられます。神様がいつも彼女をこのまま保たれますように。 [・・・] 私は大変彼女に同情しています。というのは、お気の毒に彼女は、マドレ・プリシマがここにいることで、苦しんでおられるに違いないからです。いろいろなことを感じ、抑えなければならなくていらっしゃるのです。」(19) 「・・・ 彼女は、以前からずっと自分の全ての祈りをこの意向のために捧げている、と言っておられます・・・。」と、マドレ・パトロシニオもマドレ・ピラールに書いている。(20)

会憲は「聖イグナチオのそれに出来るだけ似たものであるように」

会憲認可に至るまでのことだけではなく、マドレ・ピラールの総長職終了の1903年に至るまでの間の出来事を全て理解するためには、総長と顧問たちが望んでいた会の統治についてのいくつかの点の説明が必要であると同時に、聖座がどのようにそれを承認したかの説明が必要である。総長と顧問たちは、会の統治が、イエズス会のそれと類似したものであり、総長に特別かつカリスマティックな権能が備わっているものであることを望んでいた。(21) このようなタイプの統治では、顧問の役割は単なる相談役として制限されていた。(22)
単式誓願の修道会の統治に関しては、司教律修者聖省は非常に異なった考えを持っていた。ローマ教皇庁はいつも、総長に絶対的な権威を与えることには反対していた。新しい修道会を認可する時には、総長が顧問の同意(議決投票)を必要とする重要な事柄を決定していた。(23) 1887年にローマ教皇庁が聖心侍女修道会を認可した際には、会憲についてのコメントの中に、総長の終身制と、相談役としての顧問の役割に対する拒否が記されていた。(24)
その時以来ずっと、修道会の最大の望みは、イエズス会と類似の統治の特権を手に入れることであった。この望みは、第二回総会(1893年)の議事録に記された。「会憲が聖イグナチオのそれと出来るだけ似たものとなるようにすることと、最終認可が一日も早く下りることを目指すために、編纂のし直しを進めることで、大多数は意見が一致した。顧問の議決投票権を廃止することに努め、単に参考投票権を持たせることが、全員一致で可決された。それは、全てに於いて似たものとなりたいと願っているイエズス会に倣うためであり、全員が同じ事を明言した。」(25)

もう一度改めて書き直しを?

「ブチェロニ師によれば、」と、マドレ・プリシマはローマからマドレ・マリア・デル・カルメンに書き送っている。「私たちは、議決投票権、あるいは、総長の終身制を願うべきではありません。ですから、私たちは、皆が賛成することに固執すべきではなく、言われていることに注意を払うべきです。私は皆様に今起こっていることをお知らせするように致しましょう。」(26)  また、数日後、マドレ・ピラールに次のように書いている。「先日申し上げましたように、私のここでの滞在は長くなるでしょう。これまでに書かれたものの全てを要約しなければなりません。ブチェロニ師の指導のもとで、私がそれをしなければならないのです。」(27) この知らせに一同は心配した。その時までとは様相が一変していた。そして、交渉の基礎が変更になったため、その過程も変更しなくてはならないことに、会憲を提出するよう委任されていた顧問が気づかなかったことは、信じられないことのように思われる。少なくとも、会の総長と新たに相談することが必要であった・・・。特に、彼女たちが本当にイエズス会の会憲と同じようなものを求めていたとすれば、それは必要であった。それに続く数日間の知らせはもう心を安らげるものではなかった。「私がブチェロニ師との辛かった会談に言及してお書きした手紙をお受けになったことと思います。この辛さの原因は、ブチェロニ師が、私どもの持っておりましたものを何もお望みにならなかったことによります。聖心の聖務日祷ではなく、聖母の小聖務に変更するように。夜の礼拝は不要である。一ヶ月の霊操は長すぎる。第三修練も長すぎる・・・。聖イグナチオの教えは女性のためのものではない。とこのように延々と続くのでした。」(28)  手紙の終わりにマドレ・プリシマは、マドリードの姉妹たちを安心させようとして、保護枢機卿が何とか事情を好転させることに成功したことを書き添えた。「・・・ 文書は書き直さなければなりません。それはそうです。ずっと要約して。でも重要な点はそのまま残るでしょう。枢機卿様がお導き下さり、私が仕事を続けます。今日、私は第一章を届けました。彼はとてもよく出来ているとおっしゃり、このように続けて行けばよい・・・。と。(29) マドレ・ピラールはあまり安心しなかった。
5月の初め、マドレ・プリシマは仕事の完了を告げた。(30) その同じ手紙の中で、彼女は会憲をその場で提出すべきか、それとも「摂政王妃」の指示を待たねばならないかを尋ねている。三日後、マドレ・ピラールは大変慎ましい返事を書いている。

  「あなたが会憲を提出なさるべきかどうか少し考えました。他の顧問たちと私とが見られるように、提出前に送って下さるようあなたにお願いすべきだと思われます。私はいつも、このことはそうであるべきだと考えてきました。けれどもあなたは、ご自分が会憲を提出するとお書きになったので、私はそのままにしておりました・・・。あなたに会憲を送って下さるようお願いするのは、私には辛いことです。というのは、あなたのご苦労とお仕事を増やすことはしないと決心しておりましたから。でもそれを神様にお捧げします・・・。」(31)

この手紙はマヌエル・モリナ師がマドリードの修道院を訪ねた時には既に書かれていた。マドレ・プリシマは非常に高い評価を得ていたので、このイエズス会士がマドレ・ピラールに、会憲の提出を一刻も遅らせないよう忠告したのは不思議ではない。マドレ・マリア・デル・カルメンはこのことを、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスに宛てた非常に興味深い手紙の中で詳しく述べている。「会憲がほとんど出来上がったと知らされた時の総長様の最初のお考えは、それを手元にということであったことをあなたはご存知ですね。彼女は会憲を見る責任があると考えておられましたし、私もそう思っておりました。けれども、Mモリナ神父が来られ、そのようにしては事が遅れると仰せになり、また、原文からは何も省かれておりませんでしたし、アマリア (32) は仕事を良く仕上げていたことにおおむね間違いなかったので、どうしても会憲を見なくてはならないということはありませんでした。総長様は納得され、私も納得いたしました。それ以上のことはそこには書いてありませんでした。」(33)
マドレ・ピラールは本当に納得したのであろうか。初めは彼女は譲った。しかし、
マドレ・マルティレスが彼女らしいやり方で介入してきた。(34) 彼女の考えは、上に引用した手紙の続きで明らかに表現されている。

  「昨日、総長様はこの問題についてマドレ・マルティレスと話しておられました。
マルティレスは、自分ならこのようなことは許さない、なぜなら大変重大な問題だから。そして、忠実さについて疑う人は誰もいないけれども、肝心な点を見落とすことはごくた易いことであるし、いろいろなものが混ざり合い、混乱している時にはなおさらであると言われました。そして、ブチェロニ師の助言のもとに行われたと言っても、それは彼女の管理下でなされたものではないし、物事は忘れられ易いものであるとも言われました。大体以上がマルティレスと総長様がおっしゃったことです。そして、総長様は私に話しにこられ、(深い悲しみをこめて)次のように付け加えられました。『マリア、私はこれを神のみ手に置きました。ご自分たちの意志でなさったあなたがたはそのうちお分かりになるでしょう。』『私たちですって?』と私は申しました。『ええ、あなたがたです。あなたがたはお分かりになるでしょう。』ちょっとご想像下さい。マドレ。私がどのように感じたか!私はマルティレスを呼び、忠告を頼みました。また、私の立場を理解させました。私は、このように重大な点について孤独を感じました。修道会全体が、総長様の傍らにいた一人の顧問、私を、非難するようになるでしょう。マルティレスはあなたにお書きするようにと私に助言してくれました。そして、会憲が提出される前に、私ども三人がそれに目を通すべきか否か決定すべきであると申しました。でも、よろしいでしょうか、もし会憲がスペインに持ってこられたら、総長様はここにいらっしゃらなくてはなりません。そして総長様と私たち三人は、もう一度会わなくてはなりません。また、仕事のこの遅れがアマリアに及ぼす影響をお考えになって下さい。また、私たちが目を通さずに会憲が提出された場合に起こり得ることと合わせてお考え下さい・・・。後になって総長様は私に心配しないようにとおっしゃいました。彼女は私におっしゃったことを大変後悔しておられました。私は、総長様はほとんど何もおっしゃらなかった、また、口を開こうとなさらなかったとしても心配ご無用だと申し上げました。本当です。あの方は聖人です。彼女は苦しんでおられます [・・・]。ひどく。それなのに、彼女は、言葉に表せないほどご自分を抑えておられます。主は彼女の嘆きが外に現れるのをお許しになりました。それは、私が、彼女の心の中にあることを全て知ることが出来るようになるためでした。昨日の朝、総長様は私にある恐ろしいことをおっしゃいました。それで私は申しました。『総長様、あなたは私に怖れを抱かせます。マリアは会が危険に陥っているとお考えのようです。』彼女は答えました。『切迫した危険に。』それで私は総長様に、『もしあなたがローマにいらっしゃらなければならないとしたら?』と尋ねました。すると、『今となってはもうどうすることも出来ません。私は何もすることは出来ないでしょう。』と言われました。・・・。」(35)

マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダの手紙は、どんな説明よりも状況を明らかにしてくれる。以下のものから何をもっとも賞賛すべきかを知ることは困難である。マドレ・ピラールの、現状を受け入れての痛々しい辞職か、マドレ・マリア・デル・カルメンの思慮深い理解か、マルティネスの透徹な考え方か、マドレ・プリシマの行動の敏速さか・・・。しかし、それは違う。最も異常な事実を選ぶのはそれほど難しいことではない。おそらくそれは、ローマで会憲の認可のために働いていたあの顧問(マドレ・プリシマ)への、異常なまでの配慮、また、彼女に不快な思いをさせてはならないとの恐れであった。
この後まもなくマドレ・ピラールはマドレ・プリシマにきっぱりと書いている。

  「・・・ この数日間、顧問たちは、会憲が提出される前に自分たちは目を通すべきであると考え続けています。私はそうすることを断念しましたが。けれども今日、私が後で述べようとしておりますことを考え、私は彼女たちに会憲を見させる義務があると考えます。イエズス会がその会憲の最終校正を終えた後、総会が開かれ、皆がそれを見るまで、出版には手をつけなかったことを思い出しました。そのように私は理解しています。私たちが皆、早く結果がほしいとしても、義務を遂行するためには犠牲を払わなくてはなりません。神は、事を急いでなさることもお出来になり、また、ご自分の高い目的のために、遅らせることもお出来になるのです。」(36)

マドレ・ピラールは正しかった。厳密に言えば、総長顧問会だけでなく、総会もまた、会憲のテキストを見て認可することは正当であったであろう。当時の状況がそれを許さなかったので、別のやり方が取られた。しかし、少なくとも総長と顧問たちが、マドレ・プリシマの仕事を見直すべきであった。顧問たちでさえ、マドレ・ピラールがある意味で正しいことが分かっていた。しかし、彼女たちはマドレ・ピラールではなく、マドレ・プリシマを支持する方に傾きがちだったにもかかわらず、会憲は聖省に提出する前に顧問会で見直されるべきであるという意見に、顧問たちは賛成票を投じていた。
原稿は5月半ばにマドリードに到着した。5月22日に総長は書いている。「新しい会憲はもっと分かり易く、具体的であると思います。気に入りました。本当にそう思います。[・・・] けれども、プリシマ、私たちは修正しなければならない点があることに気づいています・・・。」この手紙の調子は、ローマに滞在する顧問の感情を傷つけはしないかとの恐れをうかがわせる――十分に根拠のあることであった――。後になってからの手紙で、マドレ・プリシマは原稿を送ってよかったと書いている。しかし、彼女が見かけよりも実際はずっと心を乱していたことは、誰の目にも明らかであっただろう。「毎日ローマから届く手紙は――マドレ・マリア・デル・カルメンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書いている(37)――会憲を送ってほしいとの私たちの求めに対する結果を明らかにしています。というのは、アマリアは私たちが会憲を見るまでは提出しないと言っておりましたが、彼女はこれを忘れたに違いありません。自分が反対されたと知った時に動揺したのと同じ気分ではなくなっておりました。」
この当時、総長と顧問たちの間に交わされた手紙から、顧問たちは、程度の差こそあれ、マドレ・ピラールに関して否定的な考えをずっと抱いていたことが分かる。マドレ・マリア・デル・カルメンは以下のように要約している。「・・・ 顧問たちは全てに於いてマドレ・プリシマを支持したいと願っていました。総長に関しては、その徳や英雄的資質を見落としていたばかりか、自分たちが認めるべき義務のある彼女の権利さえも分かっていなかったのです。このようにお話しますと、私が顧問たちと同意見でないように聞こえるかもしれません)。いいえ、私もそれを認めます。総長様はマドレ・プリシマに偏見を持っておられると私は思っていました。けれども、それにも関わらず、私には次の三点が分かっておりました。第一に、総長様の徳、特に、その温和さと忍耐です。第二に、新しい仕事、すなわち、より短く修正された会憲を見ることを望んだことに於いて彼女は正しかったこと。第三に、マドレ・プリシマが大変独立して行動していたということです・・・。」(38)

「彼女には何も告げられていません。それなのに、何が言えるというのでしょうか?」

1894年の聖週間前夜、マドレ・サグラド・コラソンはマンシーニ師に書いている。「私は相変わらず、聖人になることを熱望しております。そして、み主に、聖人方の精神を下さるようにと熱心に祈っております。私は日ごとにそれから遠ざかっていることを知っております [・・・]。ご助言とお祈りとでどうぞお助け下さいませ。私の貧しい力にとってはたいそう困難な仕事でございますので・・・。」(39) 「魂の平和と真の謙遜」(40) を保つために、マドレ・プリシマが会憲の仕事に多忙であることを知りながら、マドレ・サグラド・コラソンは、並外れて超自然的なリアリズムを表す決心の一つを繰り返している。「時に私を打ち負かしそうになるこれらの望みを抑えるために、大いに節欲すること。自分には無関係な事柄を知りたいと思い、心配で心を悩ます、といった類のことである。Nに対しては、警戒心を持って話すこと。この警戒心は強ければ強いほど良い。これはみ主を大変お喜ばせする節欲である。」(41) 十中八九、「N」とはマドレ・プリシマである。マドレ・プリシマは、総長に話したい様子を見せることはほとんど無かったし、何事も総長に報告したいという素振りを示さなかったと言えるからである。会憲の仕事が終わりに近づき、会憲を提出すべきか、前もってそれを読むのを許すか否かに関して、ローマとマドリードの間の手紙のやり取りで争いが続いていた5月に、マドレ・プリシマはマドレ・ピラールに、マドレ・サグラド・コラソンが「大変な日々」を過ごしたと書き送っている。「会憲の問題だと思います――続けて書いている――。誰も彼女に何も言いません。どうして彼女に何か言えるというのでしょうか。ですから、こんなことは早く終わって欲しいです・・・。」(42)
ローマの修道院では、マドレ・サグラド・コラソンの「気を紛らす」必要があるということを皆確信していたようである。そこで皆は、彼女が若い頃から手がけていた刺繍のためのあの大きな枠を与えた。仕事に対する彼女の生来の傾き――若い頃からずっと従事してきたことだが――もっと難しい仕事をこなす力ともなったのである。しかしながら、いつも忙しく働いていたいとの彼女の望みは、一種の甘い同情を持って話題にされるようになってきた。彼女はどんなことでも気を紛らしたり喜んだりする子供のようだと、全く尊敬を欠いた調子で、修道女たちは言った。(43) マドレ・マリア・デル・サルバドール、マドレ・パトロシニオ、マドレ・プリシマの三人は皆、彼女の子供っぽさについて繰り返し語った。子供、しかもバランスを欠いた子供、その彼女の意見を、会憲というような重大な事柄に関して考慮に入れるなどということが可能だろうか?彼女がそれについて何か知らなくてはならないなどということがあるだろうか?
繰り返されるこのような報告に、マドレ・ピラールの妹に対する気持ちは、異なった方向に変化していった。マドレ・サグラド・コラソンはある種の神経障害を患っているという人々を信用する一方、彼女が忍ばなくてはならず、また、ここ数年苦しんできた試練が、その彼女の心の状態を説明するのに十分なものであると考え始めていた。そして、最終的に、マドレ・サグラド・コラソンには、想定されるどのような精神的不均衡をもはるかに超える、英雄的とも言える豊かな徳があると考え始めた。この年に二人の姉妹間で交わされた手紙は僅かしか保存されていない。しかし、総長宛の一通の手紙の中で、マドレ・マリア・デル・サルバドールは書いている。「マドレ・サグラド・コラソンはあなたからのお手紙を感謝しておられます。あなたが大変よくして下さるので嬉しいとおっしゃっています。あなたがお変わりになることを恐れておられますが、この頃は喜んでいらっしゃり、神に感謝しておられます。」(44)

「偶然、私は知りました」

幾つかの具体的な詳細から、修道会の前総長が置かれていた劇的な状況を垣間見ることが出来る。マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙の中で彼女は書いている。「それで、偶然に、私は修道会がファリョンの学校を引き受けたことを知りました。大変結構です。今までのところ。学校を私共の修道院に持って来るにしても、修道院がそちらに行くにしても。修道会にとって一番良いことは何でも。私はそれに反対の一言もありません。」
マドレ・サグラド・コラソンは、丁度始めるところであったカディスの学校のことについて話していた。町には、修道者に手渡したいと願っている、信徒が経営する学校があった。校長のエミリア・ファリョンが1894年2月に帰天し、学校の経営を助けてきた彼女の姪が、聖心侍女たちに学校を引き継ぐチャンスを提供した――聖心侍女たちは1890年からカディスに一軒の家を持っていた――。このようなケースにはつきものであるが、計画に対するイエズス会士の関心が、総長の決定に大きな影響力を持っていた。4月に開かれた顧問会でこの計画は受け入れられた。(45) それに先立つ数日間の会話は、顧問たちと総長の間の意見の興味深い相違を示していた。要するに、マドレ・ピラールは、「顕示されたイエスを礼拝することと教育とを結ぶことで、私たちがいかに完全にみ主に倣っているかを考え」(46) 、 教育の仕事を、会の使徒活動の一つの大切な形であるとみなしていた。顧問たちは、程度の差はあったが、学校については控え目であった。しかし、現状では、学校を引き受けることに同意した。
マドレ・サグラド・コラソンは、この計画については何も知らされていなかった。彼女は初めてこの知らせを、共同体の休憩時間に受け取った。不完全な形で。このような断片的なニュースが、会とのコミュニケーションを絶たれているとの彼女の印象を強めるものであったことは理解に難くない。自分が知らないままに何が起きるだろうと考える時の彼女の苦しみも容易に想像できる。当時、彼女は一つの決定的な恐れを抱いていた。それは、カディスの共同体が、教育のためと、聖体礼拝のための二つに分けられはしないかということであった。

  「私が残念に思いますことは、休憩時間に耳にしたことで、それは、一軒が二つに分かれているということです。カディスでは、ご聖体と二つの共同体を支えていくことは不可能であると考えられているからということで、私が心配しているのはその点です。おそらく彼女たちは、教育のためだけの共同体を持とうとしているのではないでしょうか。どうぞ神がそれをお許しになりませんように!きっとそれはみ摂理なのだと考えて、少し落ち着きました。[・・・]。 誰も修道会の中で、このような形の修道院を持ちたいなどと考えることは出来ませんから。総長様、ご聖体顕示を正式の義務とせずにはいかなる学校も創立することは出来ない [・・・] と、出来るだけ早く会憲に明記するほうがよろしいのではないでしょうか?」(47)

この点については、すぐに心配無用となった。誰一人、会の使命をそのように変えることは考えていなかったからである。(48)
上記の手紙をゆっくり読めば、マドレ・サグラド・コラソンが会の中での自分の責任感に溢れていたことを知って感動させられる。どれほど周囲が彼女からあらゆる情報を奪おうとしても、彼女は、会、すなわち彼女の家族の中の重要な出来事に関して、自分は関係ないなどと考えたことは決してなかった。「どうぞ神がそれをお許しになりませんように!きっとそれはみ摂理なのだと考えて、少し落ち着きました。・・・。」カディスの学校創立に関するこれらの言葉は、彼女がいつでも平和を保てたことを示している。それは非常に単純な言葉で表現された祈りである。自分の子供が危険から救われるようにと願う、村の母親の祈りにも似た祈りである。彼女は修道会を神に委ねていた。そして彼女の仕事は――以前、彼女が表現していたように――「神から目を離さず、絶え間なく祈ること」であった。(49) 「きっとそれはみ摂理なのでしょう・・・。」このような仕方で、彼女は出来る限り平和に過ごし、それを、落ち着いた、姉妹的共同生活の本質的基礎として保つための堅固な意志を示していた。
そして、この場合には、物事の良い面を見ようとする彼女の望みのお陰で、彼女は真実を見出すこととなった。カディスの学校は、最初の共同体が住んでいた家から少し離れた家で開校されたが、それは一時的なことであった。この学校は、会の他の修道院におけると同様、いつもエウカリスチア(聖体)中心の使徒活動のうちに、ほどなく貴重な実を結ぶことになる。

会憲についてのマドレ・ピラールの注意書き

マドレ・ピラールは、マドレ・プリシマがローマから送った会憲のテキストについての注意書きを、5月の終わりまでには書き終えていた。総長は、原稿全体をもう一度ビヌエサ師に見直してほしかったことであろう。しかし、時は過ぎて行っていた。いや、むしろ、この遅れが、自分に対する不信の表れとマドレ・プリシマが思うところからどんな悪影響が及ぶかを恐れ、顧問たちは急いでいた。マドレ・ピラールのコメントの中には重要でないものにも言及していた。しかし、彼女の意見は概して理に適っており、原文を向上させるものであった。(50) それらはほとんど全て受け入れられた。しかしピラールを心配させる一つの問題があり、それは受け入れられなかった。それは、管区会議と総会のあり方であった。不思議なことに、マドレ・ピラールは、既にマドレ・サグラド・コラソンによって提案された考えを繰り返すに至っている。イエズス会の統治のあり方を可能な限り忠実に再現したいとの望みから、真の意味を伝えない直訳となっていることも間々あった。(51) 次に、この点に関するマドレ・ピラールの意見がある。「会憲が出来る限りイエズス会の会憲に準じたものであるべきことが、総会で意見の一致を見たのは事実ですが、今度の場合のように、それが相応しくないと思われることもあります。いわゆる終生誓願の司祭(イエズス会)の中には、大変学問のある方がおられます。けれども、私どもに関しては [・・・]、才能や特別な学問は誰にも要求されていません。ですから、総会のような重要なことに、相応しくない人々も参加することはあり得ます・・・。」(52)  難しさが実際にあったことは否定できない。
会憲についての総長の危惧は、単なる不安であると見なすことはできない。会憲の集大成は大変急いでなされたので、スタイルの一致を欠いていた。――「聖イグナチオの言葉、私の言葉、あなたの言葉、皆ごちゃごちゃに混ざり合っています・・・。」と、それを読んだ時ビヌエサ師は述べている。(53) ―― ビヌエサ師、ムルサバル師、ウラブル師は内容についてさえ意見を述べている。または、彼らはマドレ・ピラールの意見を承認している。(54) 「私に考えられるただ一のことは、もしもこれがローマで提出されていたら、修正を提案することは異常なことと思われるでしょう。[・・・] しかし、繰り返して申します。全体的にみて、あなたが提案された修正を加えたほうが、もとの形よりずっと良いものだと思います・・・。」(55)
ついに会憲はローマに戻された。マドレ・ピラールは顧問たちにも意見を述べるように求め、事実、彼女たちは意見を述べた。(56)
マドレ・プリシマはほとんどの意見に注意を払ったが、助言を求めた後、彼女は、マドレ・ピラールがもっとも難しいと考えていた点を却下した。すなわち、総会、管区会議の構成、および、全会員への第三修練の義務である。(57)
このマドレ・プリシマ反対の理由に対してマドレ・ピラールは次のように述べている。「・・・。古参の会員に関しては、選挙の際に起こりうる混乱には経験がありませんので、頭を下げます・・・。」しかし、彼女は完全には頭を下げなかった。なぜなら、次のように続けているから。「会議出席者にとって肝心なのは、有徳であることよりも、良い資質と、決断における正しい判断力です。」(58) 数知れない恐怖と反感に動かされ、マドレ・ピラールは、マリア・デル・カルメン・アランダとマルガリタ・バロの助言を得て、マドレ・プリシマに、会憲の提出を保留するよう電報を打つことに決めた。アマリア、待つように、との短い電文だった。これに対してマドレ・プリシマは、延期は重大な不都合を招くことになるだろうとの電文を返してきた。(59) マドレ・ピラールは、不都合とは何か分からなかった。「私が察しますように、他の会憲が私たちの前に表れるということをあなたが意味しておられるなら、私たちはどうしましょう?」そして、穏やかな諌めの調子で言っている。「プリシマ、この種のことはこのような仕方ですべきではありません。これらは重要なことです。私たちはどんな犠牲を払っても危険を避けなければなりません。なぜなら、後になって難しさが出て来ても、もう何も出来ないからです [・・・]。良心に関する問題を取り扱う場合には、時間を考えるべきではありません。もっとも、もし私たちが公正さを持って行動するなら、神は時を縮めて下さり、そうしないなら、主は、物事に時間がかかり、不成功に終わるよう、事を複雑にすることがお出来になるのですが・・・。」(60)
「良心に関する問題」は、彼女自身が告白したように、ビヌエサ師によって書かれた会憲の中にあった。「・・・ マドレ・マルガリータは、それがここで討議され、年配のシスター方に関しては反対があったと言っています。(61) これがずっと残るのかと思う時 [・・・] 私たちは間違っているかもしれない、私たちの集まりの大多数の人は、扱われている問題を理解していない、また、話し合いの仕方の分からない人はさらに多い、と昨日よりずっと強く私は思います。それで [・・・]、そちらで他の人々がこのことについてどう考えるか知ることがお出来になると思うのですが。たとえば、聖心会やマリア贖罪会の方々とか、ブチェロニ師にさえ伺えるでしょうし、他にも賢明な神父様方の何人かでも・・・。」(62)
その翌日、マドレ・ピラールは、率直に自分の心配をマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに打ち明けている。(ここで総長は大変認識が甘いように見える。なぜなら、顧問たちは総長の考えにはあまり重きを置いていなかったから。)

  「アマリアが気の毒です。私は修道家族が一致して生き始めることを望んでいますし、ここではほとんどそうなっていると思いますので、私はアマリアを動揺させないようにしています [・・・]。それで、私は大変気をつけて、いつも手短に、弁解をつけ加えたり、愛情深い言葉さえ付けて、説明を行うようにしています・・・。」(63) 「私が思いますのに、アマリアは変わらなければ物事を仕損じるでしょう。というのは、彼女は自分の意見をあまりはっきりと、また、偏らずに述ベることはせず、どうかするといらいらし、他人を攻めるからです [・・・]。悪意からではなく、性格と、自分の都合の良いように全てを変える想像力のためなのです。けれども私は、どんな害も起こらないようにして下さいますようにと、神に信頼しています・・・。」(64)

マドレ・ピラールは、ビヌエサ師が6月10日、総長にも読んでもらうことを意図してマドレ・プリシマに書いた手紙の中で挙げているのと同様な理由で自分の考えを支持している。(65) ビヌエサ師はその手紙の中で、非常に強い文章を書いている。例えば以下のくだりである。「私がお送りする説明は、盲目的に採用すべきものではなく、公平に考慮されるべきものであり、それらを却下する時には、その前に、ウラブル師、または、イエズス会を統治したことがあるか、研究したことのある誰かに相談すべきです。そして、もしその方たちが、それは却下すべきだとお考えになるなら、その時はそうしましょう。そうでなければ、あなたがたは急いで事を行っておられると私は申しましょう。愚かに行動する人には、神がその説明をお求めになるでしょう。[・・・] 新しい本を製本しなければならない、または、認可は秋まで延期されるだろうという事実は、受け入れ可能な修正を放棄する理由にはなりません。というのは、適当でない『何か』付きで、今、認可を受けるよりは、適当である全てを備えて三ヶ月後に認可されるほうが良いからです。」

「ビヌエサ師のお手紙は――マドレ・ピラールはマドレ・プリシマに書いている

  ――、こちらの二人の顧問と私に深い印象を与えました。私はより強い印象を受けました。というのは、私もずっと同様に考えていたからです。[・・・]。私たちは皆、現在のところ決断すべきではなく、私たちが書くまで会憲は提出されるべきではないと考えています。お手紙は書留にしておきましょう。
このことがあなたを狼狽させることが分かっていますので申し訳なく思います。修道家族全体、特に私たちの善のために、主が、私ども皆の苦しみをお受け下さいますように。それで私は、私のところに来る全てを引き受けようとしています [・・・]。プリシマ、あなたにご迷惑をおかけしていることを申し訳なく思いながら、私は急いでお書きしています。でも、この事態を避けることが出来ましょうか?」(66)

この手紙の中でマドレ・ピラールはマドレ・プリシマに電報を打ったと書いている。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダによれば、「電報がイタリア語に訳された時に意味が変わらないよう、電文は明瞭であるように、彼女は望んでおられました。以下が彼女の電文です。「カイケンハテイシュツシナイヨウニ イサイフミ」(67)
それからマドリードでは待機の日々が続いた。6月25日、彼女は21日と同じことを再びマドレ・プリシマに書いている。説明し、おそらく電報が引き起こしたかもしれない悪い印象を和らげながら。「これがあなたにはたいそうお辛いことと良く分かっています。口では言い表せないほど、私にとっても辛いことなのです。でも、聖テレサの言葉を思い出して下さい。人は、行動するよりも、苦しむことによって多くのことをなし遂げます。とりわけ、正しいことのためならなおさらです。昨日あなたからお手紙をいただきました。でも、今日は頂いておりません。あなたが電報を受け取られてからのお手紙をお待ちしていました。多分、聖アロイジオの祝日には頂けるでしょう・・・。」
その同じ日、マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに、マドレ・プリシマのやりかたに強く非難をこめて書いている。

  「・・・ ここには言葉では言い表せない性急さがあります。[・・・] 私はアマリアの行いを認めるわけにはいきません。第一に、どうして彼女は私たちに見せずに会憲を提出することに着手出来たというのでしょうか。また、彼女は会憲を見せようとした時に、そうするように要求されたからと気を悪くしました。そのために提出が遅れたのでしょうか?第二に、意見が述べられた時、彼女はそれらを受け入れるかどうかはっきり言いませんでした。そして、彼女の書いた数語からは、彼女が必要な時間をとっている、または、出すべき報告をしているという兆しは見られません。最後に、ビヌエサ師が見直された部分にお見つけになった欠点に注目して下さい。彼女はそれが完全だと思っていたのです [・・・]。私は重ねて申し上げます。会憲の中に残されることに関して責任があるのは、私たち、私たちだけなのです。なぜなら、総長様は、仕事が不首尾に終わることを私たちにお許しにもお認めにもなりませんでした。そうなる可能性を警告しておられたのですが。[・・・] この点に関しては、私は総長様に全く賛成です。悲しいことですが、もし、ものごとが彼女の望みどおり行われていたなら、全てが違った結果を招いていたことでしょう・・・。アマリアのまっすぐなところ、意向の良さは確信していると私は申し上げなければなりません。私たちの望みを達成するために、黙って,絶え間なく働き続けたことは確かです。でも、彼女には、ひとりよがりなところがあり、行動に自信があり過ぎると思います・・・。」(68)

6月25日、ぎりぎりの時点で遅延の結果に立ち向かうことを決断し、マドレ・ピラールはマゼラ枢機卿に書いた。

  「会憲をお読み下さった神父様方のお一人は私どもに、それは文体の欠点だけでなく、分かりにくい文章を含んでいるとおっしゃって下さいました。数人の方にご相談申し上げましたが、会の生命にとってそれほど重大な欠陥を持つ仕事は提出すべきでないと、皆様が助言して下さいました。この点を考慮して、総長顧問と私が考えますには、ブチェロニ神父様のご意見に従い、文体と意味とを出来るだけ完全にし、その他の欠点も取り去るために、ここにもう一度作業を戻すべきであると思います。遅延は本当に残念ですが、これほど重要なことを省略することは出来ません。この決定によって起こります難しさをどうぞお許し下さいませ。お喜ばせすることのみを望んでおりますので、私どもは皆とても残念に思っております。でも、どうすることも出来ません。」(69)

マドレ・ピラールも、マドリードにいた顧問たちも、会憲はその頃までには既に調査のために聖省に提出されていたことは夢にも知らなかった。

「私は会憲を見たいと申し上げました・・・。」

上記の出来事を全く知らないままにマドレ・サグラド・コラソンは生活し、そして苦しんでいた――苦しむ、それがこのドラマにおける彼女の役割であった。どちらがより辛
いことであったのか私たちには分からない。マドレ・ピラールの苦しみに気づき、ともに苦しむことか、それとも、総長とマドレ・プリシマがこの問題に関して全く一致していると信じることか?いずれにしても、マドレ・サグラド・コラソンは選ぶことは出来なかった。彼女の役割は、「黙すること、祈ること、そして苦しむこと」 (70) 赦すこと、そして、姉を、プリシマを、ローマの院長を、修道会全体を、差別なく愛することであった・・・。「私から目を離さずに絶え間なく祈ること、これがあなたの仕事です。あなたの善は全てこれに懸かってっています。」(71)
1894年6月、マドレ・サグラド・コラソンは会憲に関する二通の手紙を書いている。第一のものはマドレ・ピラールに宛てられている。「私どもの家では、子どもたちは、たとえ私どものクラスに属していなくても、初聖体を受けることが出来る、と書き記されるべきだと私は思います。[・・・] このことを聖体拝領に関して申し上げます。なぜなら、ある場合には難しさがあったからです。」(72)  マドレ・ピラールは、当時彼女に出来る限りの範囲で、その望みに同意した。すなわち、それをマドレ・プリシマに回したのである。「・・・もし時間があれば、私は彼女のその願いを叶えてあげたい。もし無ければ、少なくとも、私が耳を傾け、彼女の願いに注意を向けたことを知って満足したいと思います。」(73)
マドレ・サグラド・コラソンがマリア・デル・カルメン・アランダに書き送った手紙から、ローマでの事件に関する状況を彼女がどのように見ていたかを知ることが出来る。

  「ずっと以前に、私は、会憲が提出される前にそれを拝見したいと申しました。経験不足のために必要になるかもしれない細部にわたることも取り上げることが出来るためでした。彼女たちが私の意見を受け入れてくれるかどうか分かりません。おそらく受け入れられないのではないかと思います。信頼の不足には気づいておりますから。私は神のお望みを行いました。それで、今、私の心は平和です。総長様とマドレ・プリシマに私は二、三の事を申し上げました。」
「私の小さな恐れについてあなたにはお話し致しました――他の箇所で彼女は述べている――。けれどもマドレ・プリシマには話しませんでした。一言がそれに続く言葉を呼び出すことになってしまい、それは避けたいのです。マドレ・プリシマのためにも私自身のためにも。日ごとに私は沈黙の徳をよりよく理解しています。そして、沈黙の徳をそれほど絶えず実行していることを神に感謝しています。というのは、人は多弁になると、口に入ったもの以上を口から出すものだからです。」(74)

6月の前半、マドレ・プリシマは会憲を提出する直前にマドレ・サグラド・コラソンにそれを見せた。このように長い間沈黙のうちに耐えた不安の後、マドレ・サグラド・コラソンは、草案に満足すべき理由があるに違いないと考えた。彼女は会の重要な点を全てその中に見出した。改善されるべき点も、危険を孕んでいるかもしれない点も思いつかなかった。彼女は安堵の吐息をついた。会憲のテキストが同様の割合で、ブチェロニ師の助けと、マドレ・プリシマの――働きと独立精神――によるものであったことなど、マドレ・サグラド・コラソンには思いもよらなかったことであろう。また、会憲に起因する苦しみを通して、マドレ・ピラールが、自分自身の以前の反抗とうぬぼれの強さを考え直し始めていたことなど、気づくすべもなかったのではないだろうか?
そう、彼女は知らなかった。もしも彼女の心に一点の疑いでもあったならば、疑心、大げさな警戒、彼女が帰ってきた時には中断されたひそひそ話し、鍵をかけられた扉や戸棚・・・。といったことが何ヶ月も続いた後、ついにある日、マドレ・プリシマが読むようにと彼女に会憲を手渡した時、喜ぶことは出来なかったであろう。
「・・・ マドレ・サグラド・コラソンは会憲に満足しておられるとあなたに申し上げませんでしたか?私も喜んでいます。なぜなら彼女が、そして私たちが皆喜んでいるからです・・・。」(75)  「マドレ・サグラド・コラソンは会憲を読まれ、とても満足しておられます・・・。」(76)

「決して提出しないように・・・。」

最後の電報とマドレ・ピラールの説明の手紙のために必要であった待ち時間は、6月27日、マドレ・プリシマからのニュースが届いた日に、終わりを告げた。そのニュースは人々をアッと言わせるものであった。

  「今日あなたのお手紙を受け取ってからどれほど私が苦しんでいるか、主のみがご存知です。会憲の提出についての反対のためではありません。それは取るに足りない苦しみだったでしょう。私があなたのお手紙を受け取った時には会憲は既に提出されていたという、その事のために苦しんでおります。あなたが20日に打たれた最後の電報には、「カイケンヲテイシュツスルヨウニ イサイフミ」とありました。その日から私は、事を進めるように努めました。会憲提出についてはどうすることも出来ませんでした。というのは、私は既に、日曜日に会憲をお持ちすると、枢機卿様に約束してしまっていましたから。けれども私は、それを送るよう、彼と事を処理してきています。昨日私は、電報の中でのお約束の手紙をお待ちしておりましたが届きませんでした。もしかすると、私はあなたのお望みを知っていますので、お手紙をお書きにならなかったのではないかと考えました。今日9時30分にヴェルガ枢機卿様に会憲をお渡しした後で、お昼にお手紙を頂いた時の私の驚きをご想像下さい。(77) 事情を説明することが出来ず、何度お手紙を、そして電文を読み返したか分かりません。それから、何度も何度も見ておりますうちに、私の名前と否定的な語が、あたかも私の名字であるかのように、封筒に書かれていることに気づきました。手紙は署名付きで私に手渡されましたので、私は封筒は見ず、ただ中身だけを見て、今まで封筒を見なかったのです・・・。」

この長い手紙の中でマドレ・プリシマは、それを調査しなければならなかった人々がいかなる訂正も受け入れることを望まなかったので、いずれにしても、会憲をこれ以上変更することは不可能であっただろうと言い続けている。「さて、あなたがたが安心されるよう、皆さんに、このことについてゆっくりお考えになって頂きたいと思います。私は会憲を書きませんでした。アレンジしただけです――マドレ・プリシマは言っている――。しかも、一人でしたのではなく、ブチェロニ師や(マゼラ)枢機卿様のような、賢明で有能な方々に導いていただいたのです・・・。それで、私自身の安心のため、またあなた方の安心のためにも、もしあなたがたが、ブチェロニ師やカミロ師(78)のご意見に完全には満足でいらっしゃらないのでしたら、私がどなたのところに助けを求めればよいか教えていただきたいと思います。でもそれは、ここにいらっしゃる方でなければなりません。遠方の方では、正しい助言を頂くことは不可能ですから・・・。」(79)
これに応えて、マドレ・ピラールは、すぐにローマへ旅立つことに決めた。(「・・・ 私自身の責任に於いて、というのは、私はそのことで誰にも負担をかけたくはないからです。今は私一人でこれを阻止したいのです。会憲はこのようであってはならないとの、それほど多くの、有能な方々の全員一致の意見を聞いた後で、それが認可されてしまう危険を冒すことには同意できません。」)彼女は前もってウラブル師に相談していたが、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスに、そのウラブル師が同意されるなら、サラゴサに行き、そこで彼女の旅に同行するために待つようにと言った。(80) このイエズス会士は28日に返事を書き、いつもの調子で、落ち着きと一致を勧め、(事件の説明の手紙を受け取っていた)マドレ・プリシマの弁解をし、最後に、マドレ・ピラールが求めていた助言を与えた。「もしも会憲が既に提出されたのなら、修正について何をしても役に立たないでしょう。修正は提出以前になされるべきでした。もしも今あなたがそれをなされば、人間的に言えば、あなたは信用を失い、内部の不一致を露出することになるでしょう・・・。」
ウラブル師の理論はマドレ・ピラールを落ち着かせた。

  「今日、マドレ・マリア・デル・カルメンと私は、サンティアゴ師 (81) から大変慰めに満ちたお手紙を頂きました。彼は私たちに、神に信頼するように [・・・]。また、お互いの間で愛徳を持つように [・・・] と諭されます。このお手紙で私の魂は安らぎます。前にはそうではありませんでした。今私は、祈ること以外何もしようとは思いません [・・・]。 昨日アマリアから受け取った手紙は私を心配させ、恐れさせました。彼女の弁明は私に何の平和も与えませんでしたから。今日私は必要な書類を送りましたが、彼女には何も書き送りませんでした。私たちは主に信頼しなければなりません。本当にそうです。神様のおかげです・・・。」(82)

「このことが起こるのを神が許されたからには・・・。」

完全な誠実さをもってマドレ・ピラールは、あの電報の奇妙なエピソードのうちに、神のみ旨を見ようと努めていた。たとえそれが、神がお許しになったことであったにすぎないとしても。「・・・ このことが起こるのを神が許されたからには、結果は神にお委ねするほかありません。そして、私はそうしております・・・。」と彼女はマドレ・プリシマに書いている。(83) しかし総長は、生来の性格を保持していく上で、自分がこの件に関して最初に抱いていた考えを完全に捨てることは出来なかった。自分自身の考えを変えないという、数年前の彼女の頑固さは、今はもっとずっと穏当な形で、また、ある程度の純粋な正義に包まれて現われた。総長補佐たちの願い、あるいは要求に、大きな反対もせずに屈してしまうことは正しいことでないのではないかと彼女は思った。この特別のケースでは、マドレ・ピラールは神のみ旨を受け入れることを望んでいた。しかし、彼女自身さまざまな機会に述べているように、彼女はそれをどのように解釈してよいか分からなかった。「本当に、これは普通のこととは思えません。電報のことも、他のことも。もしも神からのものでありますなら、神は賛美されますように・・・。」(84) この件に関しての総長の態度は、良い望みと恐れが錯綜しての結果であった。このことは、マドレ・プリシマへの手紙の一節に明らかに読み取ることが出来る。「事の解決方法があるかどうか注意を払っているのは良いことでしょう。でも、分かって下さい。その機会を作るようにあなたが何かすべきであると言っているのではありません。神にお任せすべきです。何の偏見もなしに祈りながら。なぜなら、そこには大きな悪か偉大な善のどちらかが存在するように思われるからです・・・。」(85)
外交的手腕は決してマドレ・ピラールの得意とするところではなかった。会憲に関して何らかの合意を得たいとの望みを、彼女は心の奥深くに秘めておくことは出来なかった。多くの機会に、この彼女の望みは、マドレ・プリシマの人物と行動とを確立したいと強く望んでいる総長補佐たちのうちに不信を掻き立てることになり、彼女を敵に回す結果となった。
数年後、これらの出来事を思い巡らし、マドレ・マリア・デル・カルメンは非常に賢明な言葉を書き残している。彼女によれば、マドレ・ピラールは1894年以来、自分の統治における全ての困難を自覚し、彼女の決断および動きを象徴として見、積極的に反対する人物の行動をくいとめるか少なくともその勢いを弱めようと努めた。(86)
書き物の中で何度もマリア・デル・カルメン・アランダは、マドレ・ピラールが決断を下すに際して気配りに欠けていたことを証言している。しかしながら彼女は、ほとんど間違うことのない直感を持っていた。後になっての事件の発展は、マドレ・マリア・デル・カルメンにとって、このことを証明する苦しい証しとなるであろう。総長と総長顧問たちは、自分たちの意図するところを全て明らかにしていくこととなる、きわめて特別な環境を生きていた。しかし、あるケースに関しては、文書化された歴史のみが、当時の詳細の多くを明らかにすることが出来る。
ウラブル師、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、マリア・デル・カルメン・アランダ・・・。その他、1894年6月20日にマドレ・プリシマに送られたあの有名な電報について知る人は誰でも、この事実の摂理的性格を受け入れた。(87)  マドレ・ピラールは少し控えめな態度を表した。神がそれを許されたことは彼女も認めている。しかし、誰かが、何らかの仕方で、神の摂理を操作したのではないかと思っているように見える。マドレ・ピラールが分からなかったこと、そしてまた、このケースについて知っている誰も分からなかったことは、マドレ・プリシマの元に届けられた実際の電報である。たった一枚の紙切れに過ぎないが、証言として価値のあるものである。
実際、このような過ちを不可能にしたいと思ってマドレ・ピラールがあれほど注意深く選んだ電文を、ローマの電報局は誤っていた。「カイケンハテイシュツシナイヨウニ イサイフミ」彼女はマドリードでこれを書いた。
マドレ・プリシマがこの件について初めて詳述した時、彼女は言った。「全てはあなたが私に送って下さった最後の電文にあります・・・。私はそれを開封し、以下のように読みました。『カイケンヲテイシュツスルヨウニ イサイフミ』」(88) 後日彼女が言うには、会憲が既に提出された数日後、電報を見直していると、自分の名前の傍ら、外側に、否定語が、あたかも自分の姓ででもあるかのように書かれているのが見つかった。
しかしながら、電文には、マドレ・プリシマが上記の手紙に書いた以上のことが書かれていた。そこには「Modo presente obra escribo (Modo 会憲を提出せよ、委細文)」外側の宛名には、「アマリア de ningún(アマリア 決して)」一体どうして彼女はこのように不可解な文を解読できたのであろうか。特に、彼女が理解したような方法で。彼女流に文を理解するには、最初の《Modo》という語はあってはならない。この語が無くて初めて、この電文は彼女に提出を止めさせるどころではなく、「事態を進展させるように」(89) 彼女を推し進めることになる。
上記の全てに関わらず、マドレ・プリシマが、自分にトラブルを引き起こし得る、さして重要でもない紙切れをとっておいたことは信じ難いことのように思われる。彼女がなぜそれを破いてしまわなかったのかもまた神秘である。それどころか、彼女はそれを注意深く保存していた。何年もの間、彼女のバージョンのみが知られていた。
もしもマドレ・マリア・デル・カルメンが実際の電報を手に入れていたとしたら、彼女は、その権利がたびたび無視されていた総長の直感の正しさを示すもう一つの証拠をそこに見出したことであろう。しかし、他の人々が見逃し、自分自身でも説明できるわけではない現実の側面を『見ること』は誰にも出来ないであろう。

ひとたび会憲が提出されてしまうと、マドレ・プリシマは、事件の核心にあまり影響の無い幾つかの点について埋め合わせを提供することによってマドレ・ピラールの不興を和らげようとした。6月29日、彼女は、マドレ・ピラールが好まなかった会憲の幾つかの点の解決に向けて努力出来ると提案し、手紙を送っている。彼女はまた、保護枢機卿に渡すようにとマドレ・ピラールが自分に送った手紙に言及し、「この手紙は有難いことに、神が、私を通してお渡しするようにあなたにインスピレーションを与えられました。」と書いている。電報に自分の望む解釈を与え、会憲を急いで提出したのと同様、マドレ・プリシマはまた、マゼラ枢機卿宛の手紙も自分の手元に留めておくことに決めていた。
この事件を取り巻く出来事を組み合わせることにより、この頃までにはマドレ・ピラールは、自分の妹が以前に経験したのと同様の困難を、自分の統治に於いても味わい始めていたことを明らかに推論することが出来る。マドレ・サグラド・コラソンがあの非常に危機的な時期に、「今は暗闇の力が支配する時である」(90) と書いていたのと同様に、会の第二の総長も、これらの出来事の経過の中で自分の苦しみを知らせている。非常に信頼していたラ・コルーニャの院長宛ての手紙に彼女は書いている。「ルトガルダ、祈って下さい。そして、皆にも私の意向のために熱心に祈りを捧げて下さるよう願って下さい。私はとても恐れています。もしも私が間違っていなければ、私たちはモーセのように、腕を下してはならないのです・・・。たとえ私自身の想像であっても、祈って下さい。とても必要ですから・・・。」(91) 彼女は自分の怖れの理由は述べていない。けれどもその必要は無かった。ラ・コルーニャの院長ルトガルダは、好奇心のある女性ではなかった。彼女はさらに質問すること無く、絶えず祈って下さいとのマドレ・ピラールの願いに応じることで満足した。私たちにとっても、彼女の重大な心配の理由を尋ねることは必要ではない。ここに記録されている事実を考慮すれば、それは明らかなことである。

「私はあの殉教者に対して行った悪を償っているのです・・・。」

「・・・ ご心配には及びません――ウラブル師はマドレ・ピラールに勧めた―― [・・・]。アマリアの説明の全てから、彼女は本質的な変更は何も行っていないことは明らかです・・・。」(92) 当時、このイエズス会士はマドレ・プリシマの言葉に全面的信頼を寄せていた。マドレ・ピラールは完全に確信していたわけではなかったが、ウラブル師の忠告を心から受け入れたいと思っていた。それで、彼女を非常に悩ませた変更を、当分の間断念した。(93) 要するに総長はマドレ・プリシマの意見に屈してしまったのだった。マドレ・プリシマの例の電報の件で、会憲に関する争いが激しくなり、「私にとってはあの投票によって会に与えうる限り最大の亀裂を会に与えてしまうことになった。」と言っている。
会憲に関しての摩擦により、以前からのマドレ・ピラールの特質、尊大さにもつながる場合さえある、あの自分自身の行動に対する確信は鈍ってきていた。7月16日、彼女はローマに書いている。(94)

  「・・・ プリシマ、今日、私をお忘れにならないで下さい。もしあなたが今、マドレ・サグラド・コラソンの時のように、役職の終身制を願いたいと思っておられるのなら、決してそうなさらないで下さい。私はどなたの意見も聞かずにそれをお断りするでしょうから。それには私の良心が耐えられないでしょうから・・・。」

確かに彼女はその時妹のことを考えていた。総長職を辞職する途上で、何度妹は彼女に助けを求めたことであろうか!しかし、マドレ・ピラールは、その最後の願いさえ妨げていたのだった。そして今、彼女自身、マドレ・サグラド・コラソンが計り知れない忍耐を持って耐えたあの耐え難い荷を自ら味わっていた。

  「プリシマ、私は率直に告白します。私は以前と同じ立場にはおれません。そのことに反対することも、隠すこともできません。そして、もし主がお助け下さらないのなら、自分ではっきり申しましょう [・・・]。あなたがあのことをお考えになっていてはいけないので、私は申し上げているのです。そして今、もしあなたが私に何の注意も払われないならば、あなたは私の決心をご存知です。私は訴えます。たとえそれが聖省へでなければならないとしても・・・。」

続く文章は、彼女の悲しみを切々と表している。

  「プリシマ、私は主のみ前に我が身をおき、考えています。そちらの殉教者に対する私の良くない振る舞いの報いを、今、受けているのだと。たとえ私が間違っていないとしても、私は自分がそうすべきだと思う仕方で彼女を扱いませんでした。このことは私にとってとても辛いことなので、それを早く償うために、そして、これほど危険に満ちたこの世から、私を救い出して下さるよう、神のために、どんなことでも致しましょう・・・。」

この段落は中途で終わっている。手紙を送る前に、それを削除しさえしている。にもかかわらず、彼女は総長職の初年度の、自分の心の最も深い感情の一つを表現し
ている。彼女は幾つかの点で最近間違っていたことを確信していなかった。しかし、妹を愛さず、あるいは愛情を示さなかったので、妹を理解していなかったことを非常
に後悔していた。そのために、妹が、真に殉教の苦しみを味わったのだということを認めた。そして最後に、彼女は、その点を非常に強く感じたので、偏見や不正の危険
というもののない、別の人生を生きたいと告白している。彼女が死を望んでいたというのではない。そうではなく、偏見に振り回されずに穏やかに生きるよりは、むしろ、平和に死ぬ方がよいということを認めたのである。
数日後、マドレ・プリシマに宛てたもう一通の手紙の中で、彼女は先の手紙の意味をさらにもっと明らかに説明している。

  「議決投票票は人の手足を縛ると思います。ですから、頭になるには、立派な徳と勇気が要ります。ねずみの頭でさえ。そして、長上は、賢明な控えにもさらされます。これは、私がひどく嫌って、使うことが出来ないものです。あるいは、私の言う、英雄的な徳を要するものに。この種の統治の代わりに、修道生活には、一種の共和制を持つほうが良いでしょう・・・。なぜなら、そうすれば全てが皆で行われ、特に誰かが敢然と立ち向かい、あるいは、時に良心に背くかもしれないことに責任を取る必要も無いでしょう。プリシマ、私が大げさに言っているとお思いにならないで下さい。理解するには、経験する必要があります。私はこれを、過日の困難に耐えた時のやり方に対する罰として受け入れます。神がこれを受け容れて下さり、何とか早くお赦し下さいますように。私が苦しみを忍ぶ上で助けとなるのはこれです。」(95)

この手紙の中で、マドレ・ピラールは、統治の組織を批判しているのではない。むしろ彼女は、自分が修道会の総長として置かれていた個人的立場について、やんわりと苦情を表している。他の多くの場合と同様、この場合にも彼女は、自分が取り決めなかった事柄に対して責任を取らねばならなかった。会憲の公的な提出の時が来た時、彼女は、教皇レオ十三世宛ての請願に、その認可を求める署名をするであろう。

「・・・ 神のみ旨でなければ、私は天国さえ望みません・・・。」

「・・・ 私はあなたのためにお祈りする必要はありません。なぜならあなたは、そして皆が、事の全てに関与しておられるからです――この頃マドレ・サグラド・コラソンは、総長補佐の一人に書いている――。」 (96) 「でも、聖ペトロのお祝い日には特別です。皆様が聖化され、修道会も聖化されますように。これこそ大切なことです。」
マドレ・サグラド・コラソンは、このマドレが補佐として再選された日の記念日に自分が書いた言葉を自分自身に当てはめた。彼女は会の外面的な活動には参加出来なかった。しかし彼女はこのために、自分自身を聖化することが出来るし、そうしなければならないだろう。それが「彼女の仕事」だった。それが、彼女の生涯のこの段階で主が彼女に託されたことなのだと、彼女には分かっていた。
彼女はそれを受け容れていた。「あなたが私のためにお捧げ下さる全てのお祈りの中で、私に対する神のご計画に従って、神に最高の栄誉と栄光となることのみを私にお与え下さるよう、いつも私たちの主にお願いして下さい――彼女はマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書いている――。(97) 神のみ旨でなければ、私は天国さえ望みません。また、み旨であれば、私は牢獄でさえ受け容れます。」単調さと薄暗がりの中で、来る日も来る日も完全な忠実さをもって実行される神の意志、これが、当時の、そしていつもの彼女の霊的生活の、根本的なテーマであった。「・・・ もしそれが神のみ旨であれば、あなたはとても喜ばなければなりません――彼女は、視力の障害に苦しんでいる一人のエルマナに書いている――。なぜなら、視力があるか無いかは、天国に到達するのには全く取るに足らないことだからです。そうではありませんか?」(98)
同じころ、彼女はマリア・デル・カルメン・アランダに書いている。

  「・・・ 予定より早くあなたにお書きしています。聖ペトロの祝日であることを思い出し、あなたにお手紙をお書きしなければならないと思ったのです。その日、私の聖体拝領と全てのお祈りを、総長様とあなたがた顧問の皆様のためにお捧げすることをお約束します。主がそのみ栄えのために、皆様に照らしの恵みを与え続け、皆様の五つの心を一つにし、あの日、主が皆様にお与え下さった十字架を、平和と喜びを持って担われるよう、主にお願いします。その十字架を、キリストの十字架と見なして下さい。そうすれば、そのくびきは負い易く、荷は軽いものとなるでしょう。ご存知のとおり、キリストはどこでもあなたがたを助け、片時も見放されることはないからです。主がその荷をお与えになるのですから、それを担う力も必ずお与え下さるに違いないでしょう?全能のお方に信頼なさいませ。
お返事本当にありがとうございました。マヌエルとホセの事を書き忘れましたね。お会いになったらどうぞよろしくお伝え下さい。私はこの二人がとても好きです。
ナティビダがとても喜んでいるのを嬉しく思います。神が彼女にお与えになった数々の素晴らしい賜物を、深い謙遜で飾って下さいますように。
マリア・デル・アモール・エルモソのあの難しい魂に辛抱して下さい(99)。可愛そうに!あれが彼女の十字架です。それは決して小さくはありません。
カルメル山の聖母の祝日にお手紙をお書きしないとしても、不満に思わないで下さい。あなたのことを思い出しましょう。いつものように、そして、皆に対してそうするように。
もし私がスミス師(109)とお知り合いになれば、きっと好きになると思います 何故なら、この方についての噂で耳にすることが気に入っていますので。このようなことは、私にとってほんの限られた方だけですが。
私のためにお祈り下さい。イエスに於いてあなたをお愛し申し上げております。あなたの婢マリア・デル・サグラド・コラソン, A.C.I.」 (101)

マドレ・サグラド・コラソンは、隠れた生活に自己を全く捧げ尽くしていた。かつては彼女を高く評価し、愛していた多くの人々からの忘却を、完全に受け容れていた。しかし、悲しみが伴わないわけではなかった。どんな人間にでもそうであるように、自分が知っていた人々から距離を置かれ、肉体的、霊的に隔離されることは、彼女の記憶を呼び覚ました。マヌエル、ホセ、ナティビダ、マリア・デル・アモール・エルモソ・・・。 彼女はかつての仕事へのノスタルジアは何ら感じていなかった。しかし、愛する人々からの別離は確かに感じていた。彼女は愛する人々の甘美で痛みを伴う思い出の中にある、あの愛の形を経験していた。
彼女は、神中心に、その「いとも聖なるみ旨」に根をおろして生きようと努め、実際そのように生きていた。しかし、マドレ・サグラド・コラソンにとって、時は時に捕らえどころのない同盟者であり、ほとんど敵であった。彼女には自分の追放の身がどれほど続くのか分からなかった。この不確かさがそれをより長く感じさせた。この時期の彼女の手紙の中に、幾つかの非常に人間的な詳細が見られる。例えば、「私のイダルゴ師について何かニュースがありますか?今はとてもお年を召しておられることでしょう。お気の毒に!」といった具合である。彼女がこれを書いた時、ローマに来てまだ二年しかたっていなかった。だから、イダルゴ師はそれほど老けてはいなかったはずだ。(102)
人々に対する記憶と関心を保っていたが、他の全ての心配事はすっかり忘れてしまっていた。以前から彼女は金銭に関してあまり心配しなかったが、今は、もっと大きな理由から、完全に物質的な関心を無視することが出来るのだった。1894年5月、マドレ・ピラールは、以前二人で所有していた幾らかの財産を抵当に入れる承諾を、マドレ・サグラド・コラソンに求めた。(103) 「その財産も、残されているものは何でも、どうぞお望みのままになさって下さい。これまでに私がそういうものをどうにか致しましたでしょうか?」と彼女は返信を認めている。(104) そして、その同じ手紙の中で、彼女がただ「神の国とその義」(マタイ6, 33)だけを真に求めているあの離脱にすぐ続けて、ローマの家について若干のコメントを記している。

「・・・ 彼女たちがご聖体に触れることを、神がお許しになりませんように・・・。」

6月末まで会憲は、聖省の顧問たちの手にあった。彼らはそれを枢機卿と教皇に提出する前に、これについて報告しなければならなかった。彼らの一人、最終版に於いてマドレ・プリシマを助けたイエズス会士、ブチェロニ師は、委員会に保持されていた感想と接触を保っていた。彼の内密の見解が、総長に不安を与えた。マドレ・プリシマは書いている。「ブチェロニ師は、この頃ご覧になっている妨げから、私たちには聖省に敵がいるとお考えです。主は全てに於いてお助け下さるでしょう!」(105) ここで敵というのは、私たちが通常意味しているものとは異なり、顧問の一人が、会憲の幾つかの点を承認するのに難点を見出していたことを意味していた。「二十五章まで、第一部のほとんど全てを可決しました。彼によれば、彼らは、それが美しく、霊的に豊かであると、高く評価しました。このため、彼らはそれが保留されることを恐れています・・・。私の理解したところでは、主なターゲットになっているのはご聖体でした。来週の土曜日(28日)の方がよろしいでしょう。なぜなら、提出者が変更になり、ブチェロニ師となるからです [・・・]。 でも、たくさんお祈りしなければなりません。この後、まだ二つの採決機関があります。それから枢機卿様と教皇様です。ブチェロニ師は、彼がここに来たことを知られないようにと熱心に願われました・・・。」(106) 2日後、マドレ・プリシマは、会憲が検討されているので、会の起源、および、マドレ・サグラド・コラソンの時代の難しさについての質問が、再び問われていると言った。(107)
マドレ・ピラールは、会憲が提出されたことを知った時、避けられないことを不承不承受け容れた。今、彼女は、自分の心配が戻って来るのを感じた。「・・・ ご聖体の件に触れられることを神がお許しになりませんように――彼女はマドレ・プリシマに書いている――。ご聖体は私たちの命です・・・。枢機卿様がそちらにおいでにならないのは残念です。私たち皆が愛していることが会憲から削除されないように守って下さる最強の方だと思うからです。御憐れみと、会の大きな善のために、神のいとも聖なるみ旨が行われますように。そして、神の望みに少しでも反することが起こりませんように・・・。」(108)
これらの新たな怖れを前にして、マドレ・ピラールは、全過程を通して、とりわけ自分が何事にも介入することが出来なかった時に、苦しんだ全てを思い出した。 (108) 「不可能だと思いますので、この上申しませんでしたが――彼女はマドレ・プリシマに書いている(109)――、審議型票には、あなたが今日言っておられるよりもっと難しさを見出します。それらが引き起こす害を経験しているからです。私が見抜いている害について、カミロ師だけでなくベルガ枢機卿にもお話申し上げる機会があればと度々思います。また、神のみ前に、たくさんのお詫びの言葉と悲しみをこめて、ルデシンダ嬢・・・。」(110)
実に、会憲に関する全過程を知っている人なら誰でも、補佐たちが総長よりも優位に立つことを正当化する――もちろん間違っているのだが――統治組織をマドレ・ピラールが好まなかったことが理解できるであろう。もし事態がそのように発展するなら、会の総長は「内密に、そして、一人で」働く誘惑にかられ、ただ英雄的な徳によってのみそれに打ち勝つことができるだろう――とマドレ・ピラールは思った――。この時点で、彼女の思いは再び妹に向けられた。誠実で、強く、聖人であるマドレ・サグラド・コラソンに。会のトップに立つ人について、彼女が次のように一般的に話した時、内心妹のことを考えていた。「・・・ 疑いもなく彼女は殉教者に、そして大聖人になるでしょう。でも、このようなことは未来に譲りましょう。」(111)
イエズス会のそれに類似した統治機関を持つことに対するマドレ・ピラールの配慮、そして、――少なくとも理論における――顧問たちの望みにもかかわらず、聖省は会憲の中で、別の組織を認可した。つまり、総長が期間限定で統治し、同時に顧問たちの審議票も信頼しなければならないというものである。(112)
多少の重要な変更をほのめかすマドレ・プリシマからのニュースは、マドレ・ピラールの気をもませた。「・・・ ああ、ここには何か疑わしいものがあります。すなわち、私の意見では、現在の規則にはいくらか難点があり、それらが、私たちの一番残念に思うところで変化をもたらすことを私は恐れます。[・・・]。 とても愛しているものを助けることからこんなに遠く離れていることを、どれほど残念に思いますことか!私たちの主と聖なる御母が、私の望みと苦悩を償って下さいますように・・・。」(113)

「キリストの杯は何と苦いことでしょう!」

8月19日、マドレ・ピラールは、多くの心配から来る重圧に耐えられず、ローマに向かった。 「私はこのことに反対しませんでした――マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはマリア・デル・カルメン・アランダに書いている(114)――。アマリアの手紙に隠れていることが見えるからです。それに、私は責任を負いたくありません。[・・・] もし彼女がそちらで物事を混乱させないなら、彼女がそちらに行くことは悪いことではありません。落ち着きが得られるかどうかみるためにも。繰り返して申します。おそらく彼女はそちらで全てを見るなら、落ち着きますでしょう。そして何事も起こらないでしょう。彼女が血の中に持っているものが、多くのことを引き起こすでしょう・・・。」この最後のところでマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはマドレ・サグラド・コラソンのことに言及していた。彼女の言うとおりだった。マドレ・ピラールは、妹が置かれた状況と、マドレ・プリシマの、ずっと続く厄介な存在によって引き起こされる苦しみを想像し、良心をさいなまれるほどの、大変な不安を感じていた。
総長もまた、マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。「私たちは昨晩こちらに着きました。明朝、ローマに向けて乗船します――バルセロナから彼女は書いている
――。私はなぜそちらに向かっているのか分かりません。でも、正しい意向でそうしていると思います。私は旅の成果を見積もることも、それについて考えることも出来ません。ただ、神が私を送っておられることは分かります・・・。そして実際、狂気の沙汰であるとさえ思います。でも、事の重要性を考えますと、十分認可されたことだと思います [・・・]。 クルスは、大きな難しさがなければ、認可を遅らせることはしないようにと、私を説得しました [・・・]。 そして私に、行くことを躊躇させました。もし私が、間違っていると思うことを正す何らかの方法を見つけることが出来るなら、それを変更出来るなら、どうして放置出来るか分からないと、率直に彼女に申しました。しばらくそれについて考えました。そして、私は行くことに決めました。それは私の義務だと思って。事態は終わりに近づいているので、私には何も出来ませんが。おそらく主がこの全てをお許しになったのでしょう・・・。」(115)
マドレ・ピラールは、8月24日、ローマに到着した。それから、保護枢機卿に会うため、マドレ・プリシマとナポリに行った。その同じ日、彼女はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。「私の考えは、[・・・] 認可を遅らせることが出来るかどうか見ることです。もっと削除するか、または、私がますます望んでいる、幾つかの誤りを変えるつもりで・・・。」 後にマドレ・プリシマは、マドレ・ピラールが認可の妨げとなるかもしれないことを何か行ったり言ったりすることを防ぐため彼女に同行したと後日語った。(116) ナポリへの旅はあまり楽しいものではなかった。そして、道中、マドレ・ピラールは彼女の旅が無駄であると悟った。彼女は8月28日に書いている。(117) 「昨日、教皇聖下は会憲に署名をなさいました。でも、会憲綱要は、総会が開かれる11月までおそらく出ないでしょう・・・。私は何もしようとはしませんでした。なぜなら、何かを提案する自由がないからです。私がアマリアに話そうとするとすぐ、口をつぐみました。話し合いを終えるほうが二人ともにとってもっと愛徳にかなうことであるとさえ思いました。でも、いっそう大きな霊的苦しみの中に置かれました。主が私の苦しみを、私と修道家族の善のために受け容れて下さいますように。そして、生命の書に、誰のためにもそれらが書かれませんように。キリストの杯は何と苦いことでしょう。」
マドレ・プリシマもスペインに書いている。「・・・ レアンドラ (118) が、認可を遅らせることを考えてやってきました。もう一度最初からやり直すことさえ考えています [・・・]。そのためには遅く来すぎました。一連の不思議なことによって。認可を食い止めるには遅すぎました。他のことについては、神がそれをお許しになりませんように、私が信じているように、それがもし主の栄光のためになるなら。」(119)  顧問たちは、彼女たちが助言して助けるはずの人の中に、神の栄光が会の上に輝くための主たる妨げを見た。彼女たちがその人を総長として選んだ時、彼女たちの心の奥に多少とも無意識のうちに潜んでいたとてつもなく大きな誤りを。マドレ・サグラド・コラソンに対して行われた不正のどれも、これとは比較にならないほどである。誤った熱心さのため盲目となり、顧問たちは、会の存続に関して彼女たちが総長に感じていた深い不信感を、まるでいとも些細なコメントであるかのように、あえて互いに話し合っていたのであった。そしてこのことは、総長がその職に就いた最初の年に起こったのであった!

マドレ・サグラド・コラソンは「聖人です」

マドレ・ピラールは、会憲のことには関与しなかったが、10月の初めまでローマに滞在した。彼女は家の困難を目の当たりにすることが出来た。とりわけ彼女は、それらに直面しての、マドレ・サグラド・コラソンの態度を見ることが出来た。二人の姉妹は話し合った。長く長く話し合った。そして、自分の最近の傷の経験から、姉は妹を理解した。理解しただけでなく、彼女を深く尊敬した。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙の中で次のように書いている。

  「・・・ ルデシンダ様 (120) は聖人になられました [・・・]。先日の午後、彼女の言葉を聞いて、私は神を賛美しました。どんなに彼女は苦しんだことでしょう!無理もないことです。彼女が言うには(そしてそれは本当だと言われています)、会話に於いても、鍵をかけて物をしまいこむなどでも、彼女に向けられた用心は極端なほどでした。彼女はそれに耐えられなかった、そして、大いに誘惑に駆られたと私に言っています。お気の毒に!私は彼女のことがよく理解出来ます。彼女が怒っていると思わないで下さい。でも、どんなに苦しんだことでしょう!彼女の深く堅固な徳だけが、このような状況に耐えることが出来たのです・・・。」(121)

この手紙の幾つかの部分がその伝記に引用されるにあたり、時々ある文が省かれた。――「彼女はそれに耐えられないと、また、あらゆる種類の誘惑にあったと私に話してくれます・・・。」――これはマドレ・サグラド・コラソンの悲しみをありのままに表している。それは「耐えられない」ほどの悲しみであった。次のことを知る時、私たちは感動する。人間なら誰でもそうであるように、彼女は不正義に対して憤りを感じた。しかし、それにも関わらず、彼女は外面的には落ち着きを保っていたので、ある人々は、「彼女は子どものように、どんな小さなことでも面白がる」と思ったほどであった。(ローマの院長からマドレ・ピラールに送られたお知らせのことを考えてみるとよい。)しかし、彼女の外面的な沈着さをはるかに超えて、彼女の内面には、恨みの片鱗も無く、深い平和があった。
さらに不思議なことは、マドレ・ピラールが、妹の我慢強さと高い聖性を認めながら、妹が精神的安定さを欠いていると彼女に告げた人々(マンシーニ師、マドレ・マリア・デル・サルバドール、マドレ・パトロシニオ・・・。)を信じたという事実である。前述の手紙の中で、総長は、その心理的状態の中でこのような試練に耐えることが出来たとコメントしている。
その頃までには、マドレ・ピラールの心の中で、後悔の気持ちが良い方向に働いていた。しかし、彼女の気持ちから全ての種類の過ちを消し去るところまでは行っていなかった。彼女のローマ滞在は、人々を理解するための経験を得る上で、大いに役立った。マドレ・プリシマの傍で、会憲認可のためのあの最後の交渉の最中にマドレ・プリシマが、マドリードにいた時と同じように自由に振舞うのをマドレ・ピラールは黙って見ているしかなかった。「そうです。私のスペイン行きは必要とされています――彼女はマリア・デル・カルメン・アランダに書いている(122)――。でも、アマリアほど必要でも緊急でもありません。でも、私は彼女の同行なしに出かけなければならないのではないかと思います。でも――もし全てが彼女の思う通りになれば――それは今月には終わるでしょう。私もそう思います。でも確信はありません。そして、私は、対外的には別として、対面のためにこのことに立ち入ることはしません。」この強いられた活動停止ほど、マドレ・ピラールの清めとなるものはなかった。彼女の性向の全てに反するこの状況の中で、一つの考えが彼女の心の中で強く根ざしてきていた。人々が自分自身に下す判断は、非常に相対的なものだということである。「私がこれらのことを知るようになり、また、多くの優れた才能に恵まれ、自分の不完全さを指摘されることを望む人々を見る――それでいて何も言えない、なぜなら、それが彼女らの助けにはならず、傷つくだけ――ああ、哀れな私はどんな人間でしょう、そしてどれほど私は他の人々を苦しめていることでしょうか?本当に、私はどういう人間か知りたいと思います。もし知れば、面倒が避けられ、役立つことでしょう [・・・]。私の中にご覧になる欠点を指摘して下さるようあなたにお願い致します・・・。」彼女はこれをマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。(123) 確かにマドレ・マリア・デル・カルメンは、幾つかの機会にこの任務を躊躇なく果たした。

第4部 第2章 注

(1) 1886年3月19日の手紙。
(2) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ マドレ・ピラール史 I、56ページ。
(3) マドレ・ピラール、報告書 I、14ページ。
(4) 例えば マドレ・マリア・ドロレス・ロドリゲス・カレテロ、報告書 6ページ。
(5) マドレ・ピラール史 I、2-3ページ。
(6) マドレ・サグラド・コラソン史 I、27ページ。この続きに、マドレ・ピラールの光と影の部分に光を当ててくれる、一連の逸話が語られる。
「とても気品に満ちた言い方でおっしゃいました。過ちが犯された時には叱らなくてはならないと。[…] そして、事実、彼女はそうしました。もっとも後でそれを悔やまなければなりませんでしたが。ヘレスの修道院に、高徳で辱めを熱望していたエルマナがいました。[…] けれども、マドレ・ピラールを触発する馬鹿げたことを行っていたことは確かです。マドレ・ピラールは彼女を厳しく叱ったものですが、五分もたたないうちにマドレ・ピラールは言いました。『まあ、あなたを苦しめてしまいました。ああ、イエス様!エルマナ、あなたは何故私を挑発されるのですか?どれほどあなたを愛していることか、それなのに、あなたを苦しるなんて!』 ・・・私はエスクエラにおりました――マリア・デル・カルメン・アランダは続けて書いている――ある日のことでした。娘が叱られたからと一人の女性が立腹して来校し、厚顔無恥な言葉を私に浴びせ、立ち去りました。私は混乱し、恥ずかしく、苦しんで、出来事をマドレ・ピラールに告げに行きました。もちろん彼女は私の院長でした。彼女は私に言いました。『マドレ・マリア・デル・カルメン、心配することはありません。あの女性は間違っています。それに、あのようなことは言うべきではありませんでした。でも、結局のところ、“私たちは塵にすぎない”ということではありませんか?厳しい清貧が守られていました。私たちには、貧しい人たちが命の糧としているパンをよくいただくように。肉ではなく。と訓話で話されました。[…] ヘレスでは、お金持ちからも、貧しい人々からも、最も愛されたマドレでした。駅で彼女を見かけると、人々は“マドレ・ピラールだよ、”“マドレ・ピラールだよ”と口々に言っていました。」
(7)  1891年8月31日の手紙。原文では、最後の文には下線が引かれていない。その章句は、マドレ・サグラド・コラソンの他の書き物から演繹されたものである。そこには、
マドレ・ピラールの、従順に欠けた行動にみられる精神性の欠如に重点が置かれている。マドレ・ピラールは、その総長職(1890-93)の最高潮の年月に、その反抗の時期に達していた。「私の姉、マドレ・ピラールは、枢機卿様もご存知のように、類稀なある種の才能に恵まれています。――マドレ・サグラド・コラソンはマゼラ枢機卿宛の良心上親展の手紙の中で書いている――けれども姉には修道生活にとって根本的なことが欠けています。即ち、長上に服従するということです。」(1892年3月) ここでこの章句の説明に入ることは控えよう。マドレ・サグラド・コラソンがよく知り、高く評価していた創立者たちの生活の事実を、私たちはどんなことがあっても忘れてはならないからである。例えば、修道生活への召命を続けるために二人――マドレ・ピラールも含めて――が示した、非常に素晴らしい服従の態度、また、神のみ旨の導き手、それを解釈する立場にあると彼女たちが考えている人々によって示された、神のご意思に従う、あの積極的な普遍心の態度である。マドレ・サグラド・コラソンは、1892年、マゼラ枢機卿に手紙を書くにあたり、これを、マドレ・ピラールの全生涯に広げることは出来ないにしても、その時期には非常に真実な状況と判断した――それは公正な判断であった――。けれども、ここでの話題にとってもっと重要なことは、マドレ・サグラド・コラソンが、外面的にも目につき得る姉の「修道的遵守」の欠如の可能性について、その書き物の中で言及せず、一見、総長顧問たちの評価から漏れているかのように見える、核心的、基本的面に、判断を下していることである。
(8) 1893年12月18日の手紙。
(9) ビヌエサ師S.I.は、非常な関心を持って、また、編纂における自分の役割を明確にわきまえて仕事に従事していた。聡明な人であり、総長や総長顧問が時宜に適っていると信じる提案や修正は何でも、自分に伝えるようにと繰り返し強調していた。「私を煩わせるのではないかと気にかけないで下さい。――彼はマドレ・ピラールに書いている――マドレ・プリシマは、私が自分の文章に惚れ惚れすることはないことをよくご存知です。忍耐深く行わないことは、あなたがたにとって都合の悪いものになるか、または、私を、破壊の恐れから触れさせないビードロ学士(臆病者、小心者のたとえ)であると信じることになるでしょう。」 (1894年1月6日の手紙。)
ビヌエサ師は法学修士であり、著名な説教師でもあった。1848年、サン・セバスチャン生まれ、1871年、イエズス会入会、1903年、サンタンデールにて死去。
(10) マドレ・サグラド・コラソン史 Ⅲ、106ページ。
(11) 年代記 Ⅰ、588ページ。
(12) 1894年1月13日の手紙。アマリアというのはマドレ・プリシマの洗礼名であった。ここでは彼女の身元を隠すために用いられている。
(13) 1894年3月2日、マドレ・マリア・デル・カルメンへの手紙。
(14) 1894年2月12日の手紙。
(15) 1894年7月21日の手紙。
(16) 1894年3月1日の手紙。
(17) 1892年10月、イダルゴ師への手紙。
(18) 1894年4月23日または24日の手紙。
(19) 1894年4月22日または23日の手紙。
(20) 1894年6月15日の手紙。
(21) 「・・・ イエズス会の良い統治のために、総長は、『良き感化』に導くため、全会の上に全権を有することが非常に望ましいと判断される。」 と会憲p.9.a [736] は述べている。「・・・総長任期は終身でなくてはならず、任期を限ってはならない。かくして、イエズス会は全世界に広がる集会に於いて、疲れたり、気を散らしたりすることは少なく、神への奉仕における重要な事柄に共同で携わることができる。」(会憲p.9.a [719])
(22) 「・・・ 彼らと重要な事柄を取り扱わなければならないことがあっても、彼らの意見を聞いた後で、常に、総長が決定しなければならない。」(会憲p.9.a [805])
総長顧問らの役割は、統治の他のレベールに於いて、総長が中央におけると同様な立場に立つ。管区長、上位責任者、院長を扱うにあたり、会憲は、彼らもまたそれぞれの顧問を持つと述べている。「重要な出来事について彼らと相談しなければならない。しかし、聞いた後の決定は、前者が下さねばならない。」[810]
(23) この考え方は、新しい修道会の認可のために聖省が発行した規定にはっきりと反映されている。(1901) BATTANDIER、聖省指針 [ブリューゲス 1933] 325番参照)
(24) 戒告49:「総長は終身職へ選出されてはならず、期限付きであるべきである・・・。」
24:「総長の権限は絶対権ではなく、制限付のものであるべきである・・・。」 28:「過度の権力は総長統治に与えられてはならない・・・。」 51:「総長は、新しい創立のためには、先ず地方司教の同意を得た後、顧問の同意を得なければならない。また、契約のため、着衣、誓願の許可、会の重要な事業のためにも顧問の同意が必要である。」
(25) 第2回総会議事録、 7月2日。
(26) 1894年3月2日の手紙。
(27) 1894年3月9日の手紙。
(28) 1894年3月11日、マドレ・ピラールへの手紙。
(29) 同上。
(30) 1894年5月4日の手紙。
(31) 1894年5月7日の手紙。
(32) マドレ・プリシマ。
(33) 1894年5月9日の手紙。
(34) 非常に頭の良い女性で、風変わりな眠り病にも負けることがなかった。他人に左右されない、しっかりした判断力を持ち、自分の意見を述ベることも、友情を失うことも恐れなかった。このケースでは、マドレ・プリシマは、「誰の言いなりにもならない」、誰にでも自分を主張する癖のある一人の人物の生一本な行動に悩まされていた。
(35) 引用された手紙(1894年5月9日)。
(36) 1894年5月13日の手紙。
(37) 1894年5月23日の手紙。
(38) マドレ・サグラド・コラソン史 Ⅲ、171ページ。マリア・デル・カルメン・アランダは、何年か後になって他の総長顧問たちから離れるというほどではなかったとしても、幾つかの点では彼女たちとは意見を異にしていたことは確かである。マドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールの統治について書いた歴史は、最終時における彼女の考えと判断とに合致している。しかしながら、出来事のあった時代、ずっと昔に取られた態度、言われた言葉を肯定する先例を認識する必要がある。1894年の手紙の断片からそれが分かった。
(39) 3月17日の手紙。
(40) イエズス会会憲 p.3.a [84]。同じ考えと表現が、1894年の聖心侍女修道会会
憲 p.1.a 100番にも見られる。
(41) 霊的手記、35。
(42) 1894年5月11日の手紙。
(43) 「マドレ・サグラド・コラソンはずっと平静でいらっしゃいます。子どものように、どんなことにでも心を紛らわせておられます・・・。」「いつでも同じでいらっしゃい ます。何かおありになるとは全く信じられません。全ては、彼女の子どものようなご性格のためだと思います・・・。」(マドレ・マリア・デル・サルバドールのマドレ・ピラール宛の手紙。1894年4月5日、および1893年10月5日)「彼女が熱望していることは、沢山のことをすることです。次々と仕上げていく刺繍が彼女の心を捉えています。何でも好きなことをなさるようにと私は彼女に申しました。それで、この頃は落ち着いて満足しておられます。」(マドレ・プリシマよりマドレ・ピラール宛の手紙。1894年4月22日付け)
(44) 1894年7月21日の手紙。
(45) 評議委員会議事録 Ⅰ 134ページ。
(46) 1897年7月6日、マドレ・プレセンタシオン・アロラへの手紙。
(47) 1894年6月12日、マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(48) その上、マドレ・プリシマは、学校の設立に於いて「辻褄を合わせる」という自分の望みから、会憲の中に新しい番号を書き込むことさえしていた。事実、マドレ・プリシマは、マドレ・ピラールがあれほど心にかけていた使徒活動を少し軽視し、創立者姉妹が考えていなかった方向に固執したのであろう。
(49) 1893年3月29日、ムルサバル師への手紙。
(50) 全部で21の意見書であった: 志願院の期間、修練院における霊的修練、共同体の通常、および特別聴罪司祭、禁域、黙想の家、などについて。これら全ての注意書きに見られる考え方は、非常に示唆に富んでいる: 「・・・ よく理解するように、――マドレ・ピラールは書いている――目指すことは、事を緩めるというのでなく、合理的に遂行できる方向にもって行くということです。」そして、「普通には、制定されていることは、廃止するものでも、また、辛い思いをしながら遵守すべきものでもありません。」
(51) 言及されているテーマを会憲の中で扱うに当たって起こっていたことであった:「総会では、総長、または、その代理者は、発言権、投票権を持つ。確かに持っている; 総長顧問、全ての管区長、各管区会議で選出された二人の有権者である。一方、管区に分かれていない修道会は、全ての地域の院長と、各修道院の最古参の会員が投票する・・・。(p.2.a c.1,5) 会憲の他の項目に、何らかの意味で難しさが想定される「終生誓願者」についての言及がある。
(52) 会憲に関するコメント p.2.a c.1,5 および p.2.a c.4,41.
(53) 1894年6月10日、マドレ・プリシマへの手紙。
(54) 1894年6月6日、ウラブル師からマドレ・ピラールへの手紙。
(55) 1894年6月6日、ウラブル師からマドレ・ピラールへの手紙。
(56) 1894年6月5日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスから、および、1884年6月16日、マリア・デル・カルメン・アランダから、マドレ・プリシマへの手紙。
(57) 事実、この二点はある意味で相互に関連があった。マドレ・ピラールには、最古参の終生誓願者が管区会議に参加する権利には重大な不都合があるように思われた。養成の不十分な人々が会議に出席する可能性があるのではないかと思われたのである。このような人々については、さらに習得する可能性が無い場合には、第三修練を免除することが出来るのではないか。こうすることによって、このような人々が管区会議に出席することを排除できるのではないか。全ての問題に於いて、イエズス会から文字通り翻訳された「終生誓願者」という言葉、イエズス会士間には与えられている特別な意味が聖心侍女修道会には無いこの言葉の意味を巡って働いていた。この困難を推測して、マドレ・サグラド・コラソンは何年も前に言っていた。「… 他の第三クラスの誓願のような養成を考えることが必要だったのでしょう。第三修練をしますが、イエズス会の第一のようなものです。そして、この人たちには投票権がありません。今、これを取り決めることが出来るでしょう。試験期間として、3年か4年だけのこととして願ってご覧なさい。その後、会憲を提出する時に、経験を通して適当と思われる方向に決めるとよいでしょう・・・。」(ローマ、1890年7月18日、マドレ・ピラール宛ての手紙)
(58) 1894年6月16日の手紙。
(59) マリア・デ・ラ・クルス, 年代記、880ページ参照。
(60) 1894年6月17日の手紙。
(61) 終生誓願を立てた古参の会員が管区会議に参加する権利のことを言っている。
(62) 1894年6月17日の手紙。
(63) さらに幾つかを付記する価値がある。「さて、それらが読まれた時、それを見ませんでしたことを幾重にもお詫び申し上げます。あなたに私の見解をお送り致しました。前と同じ理由から、変更しないことを弁護する手紙を既に出されているとお書きになっている手紙を、土曜にいただきました。[…] そして、後で細かいことをお書きするでしょうからと(これは、私が思い出し続けているからではなく、アマリアの真実を疑わないからです。)そして、私は彼女に、このことについては、最上と考えるよう行うようにと返事するでしょう。彼女は全てを把握しています。そして、申し上げるように、土曜日に私にそれを開陳します。週のうちに会憲は提出されているでしょう。私は電報が届くとは期待できません。[…] 午後2時に電報を打つようにと指示しました・・・。そして、昨日、重大な不都合が無い限り延期してはならないと、もう一通を打電しました。こちらに関しては、私が思い出す限りの賢明さを真似て打ちました。返事が無かったからです。けれども、マルガリータとカルメンは提出を望んでいるように思われました。彼女たちにも、意見は気に入ったと書いて打電しました・・・。土曜日と昨日、重ねて私の意思を書きました。(それは、現在私たちが思っているのと同じです。そして昨日、私は彼女に申しました。アマリアが提案し、ビヌエサ師が反対した、会議出席者の投票が引き起こしうる不都合で、私の魂に重荷を負わせることの無いように)他の修道会がそれをどのように扱っているかを見るようにと・・・。」(1894年6月25日の手紙)
(64) 1894年6月18日、マドレ・ピラールからマリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(65) 「これはあなただけに充てたものではありません、総長様宛でもあります。彼女のために、このように長い手書きを別にお書きすることは出来ません。総長様にあなたからお送りして下さい。」
(66) 1894年6月21日の手紙。
(67) マドレ・ピラール史 Ⅰ 101〜102ページ。当然のこととして、電文はイタリア語には翻訳されなかった。しかし、ローマでは、スペイン語をマスターしていないということで、いくつかの語が誤ってとられる怖れが持たれた。
(68) 1894年6月25日、マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(69) マドレ・ピラールはマドレ・プリシマに、彼女から枢機卿に渡すようにと手紙を送った。「…この手紙の意味を何一つ変更しないことは私にとって大切なことですので、私の意志には全く反することですが、今日はそれをスペイン語で書き、マドレ・プリシマを通して枢機卿閣下にお送りいたします。その目的は、手紙の意味を枢機卿様があらゆる正確さをもって解釈されるのを、プリシマがお助けするためです。」
(70) 1892年10月、イダルゴ師への手紙。
(71) 1893年3月29日、ムルサバル師への手紙。
(72) 1894年6月7日の手紙。
(73) 1894年6月12日の手紙。
(74) 1894年6月12日の手紙。
(75) 1894年6月22日、マドレ・プリシマからマドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(76) 1894年6月15日、マドレ・パトロシニオからマドレ・ピラールへの手紙。
(77) ベルガ枢機卿は、司教律修者聖省の長官であった。
(78) カミロ・マゼラ枢機卿。
(79) 1894年6月24日の手紙。
(80) 1894年6月27日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(81) ウラブル師。
(82) 1894年6月29日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(83) 1894年6月29日の手紙。
(84) 1894年6月29日、マドレ・プリシマへの手紙。
(85) 1894年6月29日。
(86) 「総長は、マドレ・プリシマが既に全てを自分のものにしてしまっているのを見て、彼女に会憲の仕事から手を引かせたいと望んでいた。やっきになってこれを目指し、外目にも分かる怖れを表明していた。おそらく表れるかもしれない怖れを。そして彼女の想像がその怖れを増大していた。そして、率直に、それらを、または口実とすることを、明らかに理に適っていると判断し、提案しようとしていた。それは、本当の目的を達するためで、その目的とは、疑いも無く、既に記した一点、マドレ・プリシマの手から問題を取り上げ、実際に起こったことを避けるためであった。(マリア・デル・カルメン・アランダ, マドレ・サグラド・コラソン 史 Ⅲ 164-65ページ)
(87) 「… 何ということが起こっているのでしょう!きっと主なる神様は何か目的がおありなのでしょう。」6月29日、ウラブル師はマドレ・ピラールに言っていた。マドレ・プリシマから送られた電報のことを彼女に話していた。そして、最後に付け加えた。「急いでお伝えします。彼女がご自分でお話しなさるとは思いますが。あなた方が、神の御手を、神がお許しになることをご覧になるように…。」
(88) 1894年6月24日、マドレ・ピラールへの手紙。
(89) 1894年6月24日、マドレ・ピラールへの手紙。
(90) 1890年12月末、マドレ・マリア・デル・カルメンへの手紙。
(91) 1894年7月1日、マリア・ルトガルダへの手紙。
(92) 1894年7月17日の手紙。
(93) 管区会議および総長事項に関する変更を盛り込む可能性に関して、スペインに 滞在中の総長顧問たちは、総長に諮問され、決定的な回答を与えなかった。
マドレ・マルガリータ・バロは、マドレ・ピラールが提案したものが望ましいとの意見を述べた; 「けれども、これが何か妨げになるなら、他のかたがたがおっしゃるように書いて下さい。」(1894年7月8日、マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙の中で、マドレ・プリシマが上記のように書いていると伝えている。) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはこの問題に関して、何が最上であるか分からないと告白している。そして、決定はマドレ・プリシマの考えに任せていた。「総会のための投票に関しては、良心的に、お任せいたします。このことに関しましては、最善も最悪も、私には判断出来ませんので・・・。」(1894年7月5日の手紙) マリア・デル・カルメン・アランダは、この点に関しては「ビヌエサ師とソットビア師の考えに」 従っていた。(マドレ・プリシマへの手紙。1894年7月4日)「昨日、マドレ・ピラールがあなたにお書きになりました――マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・プリシマに書き送っている――私が拝見したところでは、というのは、私にお読ませになりましたから、会の事に関しては本質的な点では、ソットビア師とビヌエサ師に賛成でいらっしゃるとのことでした。」(1894年7月5日の手紙)
(94) 1894年6月29日付、マドレ・プリシマからマドレ・ピラールへの手紙。実際には、会憲は最初の形式で認可された。1968年以前の管区会議では、――マドレ・ピラールが予見したように――不都合は起こっていたが、最古の終生誓願者参加の制度が引き続き取られていた。(sobre todo al ampliarse el límite medio de vida.) 1968年の管区会議後行われた第11回特別総会(1969年)開催のために、管区会議における発言権者は前もってそれぞれの管区で任命されるようにということを、修道者聖省に許可を求め、認可されていた。この制度は、最近の二回の総会で承認された。(1969年、第十一回特別総会、1977年、第十二回総会)
(95) 1894年7月20日の手紙。
(96) 1894年6月25日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへ。
(97) 前掲の手紙。
(98) 1894年7月8日、マドレ・マグダレナへの手紙。
(99) 彼女の姪のイサベル。修道会に入会し、着衣以降この名で呼ばれていた。
(100) 彼はマドレ・マリア・デル・カルメンの霊的指導者であった。
(101) 1894年6月27日の手紙。
(102) 1894年6月25日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(103) 1894年5月5日の手紙。
(104) 1894年5月9日の手紙。
(105) 1894年7月20日の手紙。
(106) 1894年7月21日、マドレ・プリシマからマドレ・ピラールへの手紙。
(107) 1894年7月23日、マドレ・ピラールへの手紙。
(108) 1894年7月27日の手紙。
(109) 1894年8月1日の手紙。
(110) マドレ・サグラド・コラソン。
(111) 1894年8月1日、マドレ・プリシマへの手紙。
(112) 1887年、修道会が聖省から認可された時、会憲に関してなされた忠告の一つは、総長の終身制およびあまりにも絶対の権利を持たないようにということであった。さて、新しい編纂に於いては、二つの計画を提出していた。第一は「戒告」に従う計画、第二は最初の会憲と、総会で表明された会の希望に添ったものであった。ブチェロニ師は、人家に再生票を投ずるに当たって、第二の方式に傾いていた。それは、他のことに加えて、以下の点を含んでいた。「総長が終身職である統治形態;管区会議で選出された総会計の五年ごとの会議・・・;総長顧問たちの、普通には議決投票権ではなく、参考投票権・・・」8月11日の手紙の中で、マドレ・プリシマはマドレ・ピラールに、統治の第二形式は、両人ともにイエズス会士である保護枢機卿とブチェロニ師の推薦にもかかわらず拒否されたと書いている。1894年8月21日に開かれた聖省の公式会議に於いて、「会員数を考慮して、総長任期は終身ではなく、十二年であるべきでる。より良き時代、すなわち、総長がその居住地を既にローマに確立し、修道院数も増加し、他教区への創立も増加した時代にはこの限りではない・・・。」(聖省書庫に存在する原文をレスメス・フリアス師S.I.が複写したものより。当複写は、聖心侍女修道会の書庫に保存されている。)「より良き時代」のために、第二計画による統治の他の点は保留となった。
(113) 1894年8月18日、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(114) 1894年8月19日の手紙。2月から7月まで、マドレ・マリア・デル・カルメンは、マドリードで、修練院、第三修練院の前に滞在し、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがビルバオの修道院で彼女の代行をしていた。この日付頃までには、二人とも自分の任地に帰っていた。従って、マリア・デ・ラ・クルスは、マドレ・ピラールと同じ修道院で副院長をしていた。
(115) 1894年8月21日の手紙。
(116) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、年代記Ⅰ、1017-18ページ。
(117) マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(118) マドレ・ピラール。
(119) 1894年8月29日、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(120) マドレ・サグラド・コラソン。
(121) 1894年8月の手紙。この日付は疑いもなくマドレ・ピラールの誤りである。23日には既にローマにいたからである。しかし、実際にはこの町には24日まで到着していない。そして、手紙の内容は、数日経ってから書かれたものである。
(122) 1894年9月17日の手紙。
(123) 1894年9月10日の手紙。