「長い間仕えていただきました・・・」
母の死は、二人の創立者姉妹の生涯に新時期を画した。ラファエラ・マリアが前に終生の貞潔の誓願という断固たる行為によって神に身を捧げたことは事実である。あれから4年経過した。この4年間、まだうら若かった彼女は、家族の望みによって、姉と共に上流社会の振舞い方に従った。そして喜んで生活していた。実際に彼女らを取り囲んでいた「世」は、恐ろしい「霊魂の敵」とは映らず、むしろ美しく良いものであった。彼女は親切で大らかな態度で、彼女の母と兄弟たちを喜ばせていた。
そのように振舞いながら、ラファエラ・マリアは心の中で何を考えていたのだろうか。全く清らかな心の中に、ある時には生活や娯楽の魅力を感じたとしても不思議ではない。しかし、何物にも何人にも束縛はされなかった。かの1865年3月25日に立てた貞潔の誓願は、単なる思い出ではなく、現実に守っていくべき生活であり、神の愛に応えるよう絶えず呼びかけるものであった。家族が計画した祝祭に、姉と共に加わった。しかし初期の聖心侍女が言ったように、「何物も彼女の心を寛(くつろ)がせることは出来なかった。」(1)
1869年の2月10日の夜、母の遺骸を見守りながら、ラファエラ・マリアは幼年時代の楽しい年月を思い出していた。彼女自身が語るところによると、母の眼を閉じた時、彼女の眼が開かれ、全てのものを新たな光で見るようになった。15歳で既に自分を全く献げてキリスト教的成熟に達していた彼女に、この苦しみの経験が何を与えたであろうかは想像に難くない。このような時、「世の空しさがますます」悟れるように神が眼前に絶えず種々のことを置かれると彼女が語る時、私たちは何を考えるべきであろうか。神に向けられた生活の徹底的姿勢がそれまでの生活の喜びで、幾分でも崩されるようなあったろうか。彼女には「砂漠のように思われた」世が、キリスト教の宝でありキリスト教の求める根本的な喜びを奪い去ったであろうか。ラファエラ・マリアが母の死によって得た深い経験は、前述の二つの問いかけからははるかに隔たっていた。その後の生活によってそれが明らかに分かる。心の中の道は切断されることはなく、既に始められた奉献の道に、ますます固く踏み留まるのであった。信仰と死によってさえも消えない希望によって変えられなければ、この世には長続きする喜びはないということを、数時間のうちに悟ったのである。その夜、彼女は詩編89を繰り返していたであろう。「人を塵に帰らせ」、人生のたそがれに刈り入れる主は、同じく、私たちが「萌え出る草のように」なるため、年々種まく御者である。また、「世々に私たちの逃れ場」である彼は、私たちの死ではなく、永遠に終わることのない生命を望まれる主である。この信頼と信仰は、常にその後の生涯の土台となっていった。
15歳の時に立てた貞潔の誓願は、幼な心の期待に溢れた真心からの奉献であった。子供たちや若人は、そのような喜び方が出来る。己が身体と、血が激しく流れる若い血管のうちに、生命の喜びを感じる。子供たちの喜びを音楽で表すなら、いつも長音で作曲されているだろう。何にでも感嘆する天真爛漫な楽天家である。19歳からラファエラ・マリアは思慮ある生活を始めた。母の死という厳粛な事実は、歓喜と落ち着き、すなわちキリスト教的希望という喜びの他の一面を彼女に教えた。音楽のたとえを借りれば、その後の長い年月を通して、彼女の生活のシンフォニーは、度々短音へと転じていった。人間の慎ましい喜びの調べは、非常に深くなり得るが、この地上の全ての事物と同じ限界を持っている。
ポラス家の生活は、外的には色々なことが変わっていった。最初は、社会のしきたりによって――私たちの祖先の時代は、心の悲しみは厳しい習慣によって外に表された――1869年頃、喪は非常に厳しく、祝祭も、旅行も、派手な集まりなどは影を潜めた。二人の姉妹は、広い旧家に三人の兄弟と共に居残った。兄弟のうちの一人アントニオは、その後暫くして結婚したようである。(2) それでラモンとエンリケが彼女たちと一緒に住んでいた。エンリケは家族の末っ子であったが、間もなくみんなにとって新たな悲しみのもととなる。母の死の二年後、エンリケは馬から落ちて、それがもとで結核を患う。かわいそうに「世紀の災難」が23歳の男の子の生命を襲った。彼はひどく苦しんだが、遂に1872年5月4日に亡くなった。エンリケは渾身の力をこめて生きたいと思い、数ヶ月間、死に対して絶望的に反抗した。しかし二人の姉妹の努力と祈りに、後に語る新しく来た主任司祭の助けが加わって、彼は神から静かな幸いな死を恵まれたのである。
彼女らと共に住んでいたたった一人の兄弟ラモンが数ヶ月後に結婚したので、三年間全く彼女たちだけになった。それで少し前から心の中に抱いていた生活をもっと自由にすることが出来るようになった。1869年から1873年までのドロレスとラファエラ・マリア・ ポラスの生活の、様々な些細な事柄を今になって振り返ると、驚嘆を禁じえない。世間とはy全く縁を切り、神と、貧しい人々に献身し、教会の多くの列聖された聖人と比べられるような、充実した生活をしていた。しかしそういう生活は実際には全く初めてではなかった。母の死から徐々に熟していったのであるが、それ以前から始められていた。色々な事件は、彼女の決意を固めこそすれ、その方向を根底から覆しはしなかった。ドニャ・ラファエラが種を蒔いたのは事実だが、彼女が想像もしなかったほど特殊な形で実っていった。
しかし家族の人々はうろたえた。いわゆる家をつぶすようなことがなければ、施しをすることは許されていた。もちろん教会に出入りすることもある程度までは良かった。しかし社交界の集まりに出かけることは拒んだ。つまり、家柄に相当する生活をしようとはしなかった。これは酷なことで、多くの兄弟たちは夭折したが、まだ残っていた三人の兄弟はそれを承知しようとはしなかった。
二人の姉妹はしたいことが自由にできたと思うであろう。ラファエラ・マリアは他の機会と同様に、その時代の生活について日記のようなものを書く必要を認めなかった。ずっと経ってから、ドロレスはその頃の思い出を短い文に綴っている。
「妹と私はもう親がないので、近親者からうるさく監視されていました・・・。4年間ひどく闘ってから、二人はコルドバの跣足カルメル会に入ろうと決心しました。」(3)
1869年から1873年までの間を、ドロレスは「ひどく闘い」という言葉で表している。彼女は他の手紙の中に、その闘いがどんなものであったかを説いている。
フランシスコ、アントニオ、ラモン・ポラスにとって腹立たしく耐え難く思われた二人の姉妹の活動とはどんなものだったろうか。それについては色々な話があるが、どんな賢明な人にももっともだと思われる程度を、ドロレスとラファエラ・マリアは越していたことを認めざるを得ない・・・。
二人の姉妹の日々を簡潔に言い表そうと思えば、全く他人のために充てられた時であったと言えよう。それは前からしていた家の中での仕事をもっと熱心にしたからだけではなく、その活動範囲をあまねく広げたからである。
非常に早く、薄暗いうちに起床した。近しい人々の注意を惹かないように、二人の姉妹は交代して祈りと活動の時間をやりくりしていた。家の奉公人たちを非常に減らしたが、まだ召使いたちが残っており、彼らと一緒に色々な事をして良い手本を与えていた。二人の姉妹は病人訪問をする時に、各々一人の召使いと共に行った。二人は昔からいる年取った召使いの助けを借りて、広い中庭の裏木戸と鉄の扉を開けてもらった。時々この人は昔からの召使い独特のなれなれしさをもって、彼女たちにぶつぶつ言ったり叱ったりした。というのは、病人の看護をするため夜家に帰らないことがあるのを、兄弟たちに分かったら大変だということで、彼女たちを脅したのである・・・。
このような活動が真に突飛なことであったということを理解するためには、1970年代に身を置かねばならない。この二人の姉妹の振舞い方は、その時代の社会に深く浸透していた習慣と合わなかったのである。婦女子はその家庭内に狭められた活動しか出来なかったのである。
面白いことに、スペイン社会の急激な変化の時期と、彼女らが福音と福音的貧しさとに特別に献身したことが、時を同じくしていることである。1868年からスペインは、ある人々に言わせれば「光栄ある」、他の人に言わせれば「不幸な」革命状態にあった。歴史的な見方からすれば、1868年から74年にかけての6年間は、スペインに自由な近代的な組織を与えることを目指した最も長い時期の一つであった。たとえ理論的に建設を目指しても、部分的な破壊をもたらすのは常である。ラファエラ・マリアとドロレス・ポラスは、そのような見方には疎かったから、確かに革命の否定的な面のみを見たであろう。しかし全ての人のために純粋に捧げ尽くした生活をもって、革命の荒海のここかしこに表れていた正義と人間開発の理想のある点を生きていたことは確かである。
ペドロ・アバドは2000人近くの人口しかない小さな村で、大きな首都の政治的動揺にはあまり関係がなかった。ポラス家は動揺には殆ど傾かない階級に属していた。(土地を所有することは、人間を束縛する。地主はその職種上保守主義者で、オリーブの樹と同様に根を下ろして身を支える。それを利己主義によると決め付けてしまうのはあまりにも安易なことである。・・・ 実業的ブルジョアの考え方と農業従事者のそれとはひどく異なっていて、それを構成する込み入った原因が無数にある。安易な、度々簡略化された判断をすることは、歴史を全く知らない人のすることだろう。)二人の姉妹は祖先たちの地に深く頑丈な根を下ろした枝葉の茂った木の枝であった。しかし「保存」に傾いてはいなかった。むしろ家をつぶすつもりのように見えたし、また上流社会のある考え方や偏見に反することを恐れなかった。もしそれらに従っていたなら、20歳ごろには思慮深い、針仕事に余念のない、何かの楽器を好む少女、また祝祭の時に人の賞賛を勝ち得ることに馴れた愉快な少女、或いは当時の社会のプログラムの中に入っていた信心深い少女になっていたであろう。
二人は完全に型を破った。彼女らの家庭では、常にかなりはっきりと福音を解釈していたが、決してあれほど極端にではなかった。20歳、25歳の頃には、聖人たちの生涯の基盤にあるコペルニクス的革命を自らの生活に実現した。すなわち、世間は彼女らの周りを巡ることをやめ、彼女らももう一般に世間の周りではなく、彼女らを必要としていた貧しさの世界を中心として巡ることになる。働くこと、失った時間を取り戻すことに専念した。
当然のことではあるが、既にその頃ある人々が世に言いふらしていた「所有は盗みである」ということを考えることさえ、思いつかなかったであろう。しかし生活に対するその態度によって、恵まれた家庭に生まれたことを罪悪と思って、貧しい人たちに許しを願い、詫びるかのようであった。
彼女らは型を破ったともう一度言おう。前には家の中にたくさんの奉公人がいたが、まだその時でも信頼出来る数人のお手伝いさんと二人の下男がいた。しかし令嬢である彼女らは、奉公人たちと大体同じ仕事をした。それによって家事は非常に簡素化されたが、こういうことは人々の注意を引いた。先ず奉公人たち自身に迷惑がられた。長く仕えていると、度々その人たちの中に、一定の習慣が身についてしまうことがある。きっと反対の声が聞かれたであろうし、それに対し、更に思いがけない返事が戻ってきたであろう。「ずいぶん長い間仕えていただいたので、今私たちが人に仕えるのは神のためにするのです。」(4) と。ペドロ・アバドにはたくさんいたと思われる最も困っている人々に特に仕えた。どのように二人の姉妹が伝染を恐れずに病人の世話をしていたかをその村では長い間思い出していた。ラファエラ・マリアの列聖調査には、非常に具体的な事柄が表れた。宗教的な勤めから遠ざかっていた結核患者を、忍耐と優しさをこめて世話をした。油の圧搾機でやけどをした女子労働者が、その家族の者もまともに見られないほどの大怪我をした時、姉妹はねんごろに介抱した。ある時は、宗教に対して頑固な人たちが回心するという、特別な恵みをも神はお与えになった。
「貧しい人が表している主は、仕えられることを望んでおられるので、決して拒むべきではありません。」(5) とは、数年間のラファエラ・マリアとドロレスの生活、純粋な福音的スタイルを簡潔に表現した言葉である。
実に革命の「スローガン」を知らずに、二人の姉妹は自分たちの生活に、革命の非常に進歩的な考え方を取り入れる決心をしていた。この事と、その頃の尊敬すべき婦人の振る舞いを規定していたものに対して持っていた限りない心の自由を合わせれば、自由を基盤として作られる、より正しい社会を求めていた全ての人たちにとって、知らずに模範となっていたのである。しかしもちろん政治家や革命家は、彼らの活動名簿に聖人たちを載せはしない。その当時は、ペドロ・アバドのような小さな村々に至るまで、スペインの諸所にこのような人々がたくさん散らばっていたことには気付かなかった。(6)
将来の二人の創立者の若い時の出来事について考える時、彼女らの生活の他の面を見過ごしてはならない。困っている人たちへの愛徳にどんなに献身していたとはいえ、家族や前の友人たちとの普通の交際に欠けはしなかった。しかし福音に深く献身すれば時には対立も避けられない。ラファエラ・マリアとドロレスの場合は、近親者たちとの間にこの対立が起こったのである。「恐ろしい闘いの4年間」であったが、その間には平和な時もあった。兄弟たちは様々な理由で二人の姉妹なしにはいられなかった。一番上の兄の子供たちは殆ど一日中叔母たちと一緒にいたので、子供たちはそのつもりではないが、難しさに介入した。
1873年8月付けのラファエラ・マリアの手紙があり、それにはドロレスが「恐ろしい戦い」と呼んでいたのとはだいぶ隔たりがある懐かしい思い出を楽しそうに書いている。長い間家にいた一人の友達に宛てたものだが、文中至る所に、穏やかな友情の雰囲気が漂っている。「日曜日にお便りをしたいと思いましたのに出来ませんでした。私にはたくさんの仕事があるのを、いいえ、私がそれをさばくのが下手なのを、良くご存知でしょう。けれども今夜は全てを捨て、私の愛情をこめて、最近いただいたお手紙にお返事を書くことに致しました。あのお手紙はとても嬉しかったのですが、短すぎると思いました。」彼女のことを良く思い出しながら「度々あなたとお話ししているような気になって、あなたのお名前を呼んでいます。」続いて近しい人々との集まりについて語っている。「前もって知らせてあったように、昨晩はルイス叔父様が、ご自分のお誕生祝いに招待なさった盛大な晩餐会でした。・・・ 何とたくさんのケーキやお菓子があったことでしょう。そのすばらしさは想像お出来にならないほどです。どなたがいらしたかご存知になりたいでしょう。六人のいとこ達、兄のラモンと兄嫁と子供、私の姪のラファエリータと私たちです。全てはとてもうまくいき、皆満足し、喜んでおりました。・・・ 皆が嬉しそうな顔をして笑っていた時、このように小さなことでもこんなに喜んでいるなら、永遠の宴に列なる時はどんなでしょうと考えておりました・・・。」
このような親しい人々のお祝いの席上で、既に天国のことを考えることが出来たとは、何とすばらしいラファエラ・マリアであろう。彼女の信仰生活は美しく、キリスト教的直感は確かである。人間的であると同時に超自然的で、日常生活の現実から逃避することなく、生活のどんなはかないエピソードの中にも隠れている大切なことに気付いていたのである。
ドン・ホセ・マリア・イバラの霊的指導
同時代の人々よりも非常に抜きん出ており、周囲の人とはかけ離れて優れていたこの二人の姉妹の、キリスト者としての生活を誰が導いたのかと尋ねたくなるだろう。ラファエラ・マリアとドロレスは、常に信心深かったが、母の死後その信心はさらに深まっていった。二年後の1871年にペドロ・アバドには、ドン・ホセ・マリア・イバラが新しい主任司祭として赴任してきた。彼はかなり若く、素朴で、正直で、自分の司祭的役務をはっきりとわきまえていた。ドン・ホセ・マリアは、村に来るとすぐポラス家を訪れた。その頃エンリケは死に至る病を患っていた。最初病人は司祭を近づけたがらなかったが、この司祭の慎ましい愛情と、忍耐と謙遜が、全ての壁を打ち壊した。エンリケは1872年3月4日に、羨ましいほど安らかに息を引き取った。ペドロ・アバドの主任司祭はこの事を、この村の使徒職の最初の大きな実りの一つとして数えることが出来たのである。
その頃、ラファエラ・マリアとドロレスは、ドン・ホセ・マリアの霊的指導を十分に受け入れた。彼女らが既に始めていた完全な献身の道に拍車をかける必要は無かったが、その熱意をそぐ必要も認めなかった。彼女らを指導したことはしたが、その霊的生活に最も堅固な土台、すなわち秘蹟に近づく生活と、神の言葉への信仰を植えつけた。カトリック界では聖書が普通に読まれていなかった時代に、ペドロ・アバドの素朴な主任司祭がそれを熱心に勧めていたことが、ポラス姉妹に宛てたある手紙によっても証明出来る。
「聖書があるならば、あなたのお姉さまと一緒に旧約と新約聖書の序文を、一日に何回かお読みなさい。第一巻の創世記の初めの4ページくらいです。そして読んだならば、感想を聞かせてください。この神の本を毎日読み、そこに含まれている宝について考察するのは、どんなに私どもの霊魂にとって益になるかがお分かりになるでしょう。」(7)
「聖書は創世記からお始めなさい。そこにはすばらしい出来事が、簡潔に、素朴に描かれています。ある事柄に留まったり、省いたりせず、問題にしないで読んで下さい。特に注を抜かさないように。そしていつも、好奇心やその他のつまらない動機で読まないように、始める前に準備をなさい。そして終わりには、心の中で少しの間神に感謝し、深い尊敬の念をもって本に接吻して、み言葉を尊びなさい。」(8)
ドロレスとラファエラ・マリアは、司祭イバラのこの勧めに従った。二人の書き物には、聖書の引用がよく出てくるし、自由自在に用いていることから、度々読んで内省していたことが分かる。
1873年ごろ、この二人の姉妹のキリスト者としての生活は、ある頂に到達しようとしていた。しかしそのような完全さには、最もひどい無理解が伴うものである。家族にはそれを熱心すぎるとか、大げさな信心といって、主任司祭のせいにした。ポラス家は影響力が強かったので、ドン・ホセ・マリアを村から追放することに成功した。コルドバの司教は彼らと対抗する気がなく、かといって根拠の無い陰口――本当の讒言(ざんげん)――で司祭を罰しようともしなかったが、彼の信用を無くした。司教ドン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケは、イバラ師を首都のある小教区の会計に任命することによって解決した。ペドロ・アバドの気の毒な住民たちは、外交は分からなかった。彼らの主任司祭への侮辱を避けるこのような巧妙なやり方には思いも及ばなかった。彼らがどうしても反対したかったのは、彼が村から出て行くことであった。そのような時、ドン・ホセ・マリアは、彼のことを迫害される聖人と思っていた素朴な人たちの考えをあおって、人気のある英雄と成りすますことも出来たであろう。しかし彼はそういう人物ではなかった。騒ぎを起こさせまいとして、夜、徒歩でペドロ・アバドを抜け出した。歩きながらきっとオリーブの木々の間に眠っている村、庵の塔、小教区、自分の住んでいた司祭館を振り返って見たことであろう ・・・ 最後に、無理解の苦しい一場面があったにもかかわらず、多くの懐かしい思い出、主から受けた多くの恵みがある。多分彼は、小教区で過ごした2年足らずの間の彼の務めが、どんなに重要であったか考えられなかったであろう。(9)
太陽は再びペドロ・アバドの住人の生活を照らし、その光の中にドロレスとラファエラ・マリアの福音に基づく活動も続けられていった。主任司祭を除くことによってあの情況を変えようとしたなら、ポラス家は、全く失敗したことを残念に思ったに違いない。
ドン・ホセ・マリアが遠くに行ってしまったことは、彼と二人の姉妹の間に文通が始まる機会となる。もしこのようにならなかったならば、知る由も無かった多くの細かいことを、その手紙が伝えてくれるのである。それらの手紙を通して、ラファエラ・マリアが弱さに打ち勝って歩みながら、絶えず進歩していったことが分かる。「イエス・キリストのためにあのように決然として捨て去った事物に、もう一度愛着させようとして、悪魔が過去の生活を思い出させるのを不思議に思ってはなりません・・・。」(11) 誘惑も戦いも知り、「選びの器」となるべきラファエラ・マリアも、私たち皆と同じ土で作られているのである。ある時ドン・ホセ・マリアは彼女を、聖パウロに委ねる。「ローマ人への手紙の第七章を、出来るだけ深い信心と潜心をもってお読みなさい [・・・] そうすれば、読み終った時、勇気と信頼に満たされて、その章の最後の二節に言われているように、『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』と繰り返さずにいられないでしょう。」(11)
「主は多くの方法を整えられ、数多くの道を備えられました」
1873年は、二人の姉妹の生涯にとって重要な時となる。何故なら修道生活に入ろうと決心するからである。ずっと前から召命を感じてはいたが、今その道を探し始める。道を見出し、それに踏み留まるために、どんなに多くの時を費やし、努力を払わなければならないかを、全然知らなかったのは事実である。
歩む、歩む・・・ その年の8月、ドン・ホセ・マリアは、ラファエラ・マリアに手紙を書いて言う。「主は多くの方法を整えられ、数多くの道を備えられました。どの道を通っても天国に行かれますが、全ての道が全ての人のためにあるのではないのですから、慈しみ深いおん父に、どの道を行くことを望まれるかを知らせて下さるようにお願いなさい・・・。」(12)
いよいよ勇気を持って長い巡礼に旅立つ。主は数多くの道を備えられたので、人はその道によって神と出会うために、生涯歩み続けるのである。彼女らは、その道がどんなであるか、またその道を通る人が誰であるかを考えるべきではない。「全ての道を通っても天国に行かれる。」しかし「全ての道が全ての人のためにあるのではない。」その巡礼で辿っていく道がどんなであっても、謙遜に歩んで行かなければならない。ラファエラ・マリアとドロレスは、ドン・ホセ・マリアのこの言葉が確かであったことを、自分たちの生涯で理解することが出来た。愛徳の業に献身して数年が過ぎていった。人間の眼にも神のみ前にも、英雄的であり、村人たちもそのように考えていた。真に狭い嶮しい道を選んだ・・・ けれどもまだそれは彼女らのものでも、少なくとも最終的なものでもなかった。
二人の姉妹は同じ仕事にあたり、外的には同じ家庭と社会の環境の中にいたが、生活の深いところを相互に話し合う心の交わりはなかった。二人ともずっと前から修道召命を持っていたが、二人の間でこのことについて話し合ったことは一度も無かった。ラファエラ・マリアは、この点においてはもっとずっと早熟であったことを私たちは知っている。神に全く奉献する決意は、若い時から芽生えていた。後になってからドロレスも決心して、遂に二人はその秘密を互いに打ち明けた。話し合う前から、各自は相手の意向を良く知っていたに違いない。(13)
異なった気質、共通の召命
1873年の秋、この二人は召命について打ち明けた。「お姉さまに書いた手紙であなたに関することもお分かりでしょう。二度書かなくてもよいためです。」とドン・ホセ・マリア・イバラはある機会にラファエラ・マリアに言っている。(14) 家を離れようとする際、二人の姉妹は困っている人たちのため極端に寛大になる。彼女らの財産の管理をしていた従兄弟のセバスチャンに知られないように金銭を使うのが難しい時には、貴重品を売ることにした。その年の12月のある手紙でイバラ師は、施しをするために銀の食器を売らないように、売る時に非常に損をするからと言った。(15)
多くの年月がたってから、ペドロ・アバドの住民が「あのお嬢さま方がここに居られた時には、貧しい人はいませんでした。」(16) と、愛情をこめて語ったのは、確かに誇張だったろうが、もっともなことである。
1874年の冬、色々の人に相談した挙句、(17) ラファエラ・マリアとドロレス・ポラスがペドロ・アバドを去るに際して、全てのこまごました準備をなし終えた。ドン・ホセ・マリアともう一人の司祭は、二人の姉妹が教区の聖職者に宛てて書く手紙の文を作った。
「・・・ ずっと以前から私どもは修道生活に傾き、入会したいと真剣に望んでおり ました。特にカルメル会に惹かれ、コルドバの聖アンナ修道院に入りたいと思っております。」
「司教の多忙と威厳に敬意を表して」その書き物は、ドン・リカルド・ミゲスに宛てられているが、「私どもの決心を実現するために実行しなければならないこと」(18) を彼女らに教えてもらうためであった
。
許可はすぐには出なかった。司教と聖アンナ修道院は、第一級の二人の修道女を失ったと言いたくなる。しかし、実際には何も失わなかった。それは二人の姉妹が行くべき道ではなかったから。聖アンナ修道院の修道女の数は一杯で、今は彼女たちのために場所が無いと言われた。コルドバの聖職者と司教事務局は、その上、ポラス家とイバラ師について言われた陰口のことを考慮したのだろうか。ともかくカルメル会に入る前にしばらくサンタ・クルスのクララ会の修道院で静かな時を過ごすようにとドン・リカルド・ミゲス師が決めたことは確かである。
陽の光よりも明らかな召命を試すために、何という警戒と予防策が取られたことだろう!この話しを知っている私たちには、この二人の姉妹の決意が細心の調査に服さなければならなかったことを――常にこのように語られた――自然のように思ってしまう。しかし、色々の相談と準備と不安とは・・・、彼女たちにとって特に辛かっただろう。
1874年の2月初旬、ドン・ホセ・マリア・イバラは手紙を書いてこまごましたことを完了した。
「ドン・マヌエル・ヘレスが言われることによって、これ以上待つ必要が無いことがお分かりでしょう。彼にお目にかかった時に、次の事柄を行うようにとだけおっしゃいました。第一、あなた方がすべきだと思う方にお別れをしなければなりませんが、こちらに用事のために来るといっても、その目的を誰にも説明しないほうが良いでしょう。第二、出来ればためになる書類や物を持っていらっしゃい。第三、もし疑われて難しくなることがなければ、そしてもしあなた方がその代わりに何か他のものをお考えつきにならなければ必要かもしれないので、2通の財産目録をお作りなさい。第四、もし時間が許せば、いつ来るか、どこで降りるのかを知らせて下さい。第五、この町に来てから修道院に入るまで、少なくとも一日はあったほうがよいでしょう。第六、司教様にお目にかかれるのは午前11時です。」(19)
全てをこの通りに行った。聖職者たちは、このように、一度決心したことに対して大胆で忍耐強い人々に決して出会ったことはないであろう。誰にも目立たないように、「ためになる書類や物」を、依頼されたとおりコルドバに持っていくことが出来るように荷物をまとめた。
サンタ・クルス・・・「家を出た時から私たちは、正当な長上に従うようにしています。」
1874年の2月13日、二人は決然としてペドロ・アバドを後にした。ラファエラ・マリアは生涯中、再びその村に帰ることはなかった。旅行の目的を全然知らなかったいとこのセバスチャンとその妻と一緒に目立たないように出かけた。サンタ・クルスの修道院までいとことその友達も一緒に来たが、最後の瞬間まで上手に訪問に来たかのように装っていた。「ちょっとここで待っていて下さい」と彼らに言ったので、彼らはその言葉を信用して応接間の隣の部屋で待っていた。「何という短時間、なのに重大な瞬間だったことだろう。」もう彼女らがそこから帰らないということを知った時、いとこはどんなにがっかりしたことであろう。その気持ちはよく分かる。三人の兄弟たち――フランシスコ、 アントニオ、ラモン・ポラス――に、この事件と、何も知らないで手伝ったことを何と知らせたらよいものかと心配のあまり震えたに違いない。
ドロレスはもう少しでこの過激な状態を緩和しようとした。そしてラファエラ・マリアに、その日はとにかく彼らと一緒に帰宅し、翌日二人だけで来ようと言い出した。しかし、母の亡くなったあの記念すべき日と同じように、若い方がその強さ、その性格の強靭さを示した。彼女は言葉少なに話した。しかし、その言葉は成熟した大人のような経験に満ちていた。「もう出発したのですから前進しましょう。この騒ぎはすぐに過ぎ去ってしまいます。」(20)
二人はそのまま居残った。そして二人にとって完全な離脱の生活が始まった。この生活がまだ彼女らのものでなく、召命が確かかどうかを調べるための試しであることを知っているだけに、もっと難しく感じられた。あの司祭は、二人の姉妹を良く見て、その意向が正しいものであるかどうか調べるようにと、一人の修道女に頼んだ。彼女らは当然それに気付き、このような監視は、修道院のいかなる厳しさよりも、彼女らにとっては辛いものであった。ずっと後でドロレスはそのことを記している。
「二人の姉妹にとって新しい苦しみが始まった。院内に入ることは非常に丁寧に親切に許したが、厳しい辱めの試みに遭わせた。内部の人がこの姉妹を全てに於いて監視し、その振舞い方を外部の人に知らせていた。彼女らは全てを知って、心には感じていたが、修道女の広い人気(ひとけ)のない静かな歌隊席の暗い片隅で、神の尊前に悩みを打ち明けていた。その時、神にこれらの犠牲を捧げ、全ての助けを願い、神のみ旨を果たしたいという望みを表していた。」(21)
試みの結果は予想を全て上回った。ドロレスとラファエラの評判は、全修道女の中に広まり、サンタ・クルスの修道院では、今日までも語り継がれている。それは世々に語り継がれることだろう。「お二人はとても良い方でした。しかしラファエラは聖人でした」と、数年後にクララ会の一修道女が言っている。
それらの修道女の中に、この二人の姉妹は、愛徳の行ないを実践する場所を見つけた。今まで数年間も実行してきたことなので、最も自然に、卑しい仕事、病人の看護に当たった。一人の修道女が亡くなった時、二人は亡骸の処置をしようと申し出た。完全な静けさのうちに、このような仕事と祈りの日々が過ぎていった。修道女たちは、この二人の姉妹の振舞い方の優しさ、共同体のレクレーションに与った時等の明るさと、楽しそうな様子を懐かしく思い出していた。
彼女たちは、心中何を考えていたのだろうか。司教座聖堂付の聖職者の手に、将来を委ねていたのである。彼らの中に、神のみ旨が表れているのを見ていた。非常に明らかに超自然的であると同時に、深い人間的な召命は稀である。
会の起源について初期の一人の聖心侍女が書き記すに当たり、二人の姉妹の態度を次のように解釈している。「司教私的秘書であり、後に司教の死によって司教総代理となったドン・リカルド・ミゲスの指導の下に身を置いて後、二人は神の代わりに導き手として選んだこの司祭の判断に、自分の傾きや考えを全て任せていた。それゆえ私たちの会は、その最初の頃より、――会の起こりは二人の召命であったが――神の摂理の特別な業であり、道具となった者が、それに気付かないうちにその計画は次第に発展していった、と言うことが出来る。」(22)
第1部 第2章 注
(1) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 3ページ。
(2) 長男のフランシスコは、母の帰天前に結婚していた。
(3) この文は、1898年から1899年の間に、ドロレスが総長であった時に、聖心侍女修道会の起源について最初に書かれたものである。さまざまの形のばらの紙に自筆で書いて、大判の紙に数枚のコピーをとらせた。その文は二部に分かれ、部は文節に分かれ、番号がついている。(Ⅰ:1-47;Ⅱ:1-269)。第一部の数枚のコピーは、彼女自身によって認証されている。すなわち一つはカディスで、1898年11月7日に、「この叙述は私が書き、コピーを取らせた」という書式で、他は1898年11月20日にコルドバで、「これは私が書いて与えた陳述のコピーである。」と。両方ともドロレスが会の中で用いていた名前マリア・デル・ピラールで署名されている。コルドバでは署名のあとに、総長と付け加えてある。
第二部は、最後の文節の挿入句で推定されるところによれば、1899年3月31日に終わっている。すなわち、「私は今これを聖金曜日に、現在私がいるヘレスの家の共同体と共に、七つのみことばの勤めに与った後書いている・・・。」聖金曜日は、その年の3月31日であった。これからこの源泉を覚え書きと呼び、ローマ数字は部を示し、続いて文節の数を記す。
(4) この言葉は、ソル・ブラサ・トリビオ (ナザレのイエス会の修道女)の証言の中にある。彼女はポラス家で縫い仕事をしていて、二人の創立者がペドロ・アバドでしていた生活について、いくつかの資料を書いた(その文の3ページ)。
(5) 同上、7ページ。
(6) 徹底的な報告書ではないが、せめて何人かの名前をあげてみよう。
Santa María Soledad Torres Acosta、Siervas de María Visitadores de Enfermosの創立者(1826-87)。Santa Vicenta María Lopez y Vicuña、家事の手伝いをする女子のキリスト教的養成に捧げられた会の創立者(1847-90)。Santa María Teresa Jornet、身寄りのない老人の世話をする修道会の創立者(1843-99)。Beata Rosa Molas、Hermanas de la Consolaciónの創立者(1815-76)。今研究している年に非常に近いが、もう少し前に、San Antonio María Claretと、Santa Joaquina Vedrunaが生きていた。19世紀のスペインのキリスト教化の仕事に、信仰に促されて協力した全ての男女をここに挙げようとすれば、リストは尽きることがないであろう。
(7) 1873年6月10日の手紙。
(8) 1873年7月21日の手紙。
(9) 彼は1871年3月14日にその村に入った。1873年4月21日に、コルドバのエスピリトゥ・サントの小教区に就任した。
(10) 1873年6月10日。
(11) 1874年1月19日。
(12) 1873年8月20日。
(13) ある伝記的な文で、ドロレスは始め愛徳修道会に入りたいと思ったと言っている。この考えが脳裏を掠めたことは想像し得る。しかしそれは、ほんの少しの間だったことは確かである。実際には二人とも跣足カルメル会に入りたかったと、彼女自身がその後の書き物で語っている。
(14) 1874年1月19日。
(15) 1873年2月22日。
(16) 1935年頃、マドレ・エンリケタ・ロイジュ, A.C.I.が、資料収集のためにペドロ・アバドに行った時に得た口頭の証明である。
(17) ドン・ホセ・マリア・イバラは、このように重大なことを一人で決めたくなかった。(二人の姉妹がどんなことを決めても、家族がオーケストラを演じるから、それは理解出来る。)最初の教区のドン・マヌエル・ヘレスと相談し、後に、ドン・リカルド・ミゲスと相談した。
(18) これは、1873年12月初旬に書かれたものであろう。
(19) 1874年2月10日の手紙。
(20) マドレ・マリア・デ・ロス・サントス・マルティレスの「伝記的手記」の18ページ参照。
(21) マドレ・マリア・デル・ピラールの、Hermanas Reparadoras del Corazón de Jesúsの起源と創立の短い要約。10-11ページ。1877年8月にマドリードで書き終わらなかった報告書の初めである。
(22) マリア・で・ロス・サントス・マルティレスの「伝記的手記」の19ページ。