第1部 第1章 最初の招き

ペドロ・アバド。 日差しを浴びる名もない村・・・

1850年3月1日。
太陽が燦燦(さんさん)と輝くかの地では、冬は急ぎ足で春に向かっていた。そこでは早くも日差しは照りつけ、ヒナゲシのつぼみはほころび始めていた。野も山も、全てが金色の光に包まれ、まばゆく映える午後のことであった。仕事を終えた人々は、口笛を吹きながら帰り仕度を始め、畦(あぜ)で疲れを休めていた。畑は畦立てをされたばかりだった。
家路を辿る小作人たちの目に村が映った。何と小さな、何と白い村だろう。こざっぱりとした家並み、しっくいの、真っ白の壁、オリーブの樹の緑、最初にやってきたコウノトリが巣作りをしたと言われる隠遁所の塔。
村の中ほどに領主の館、村長の家が見える。今日はどうしたことなのだろう。いつになく人の出入りが激しく、玄関の入口辺りがざわめいている。そう、女の子、可愛らしい女の子が生まれたのだ。ラファエラ・マリア・ポラス・アイリョンがこの世にやって来たのである。彼女は10番目の子供だった。もっともその中の三人は、既に幼くして亡くなってはいたが。それにしても大人数の幸せな家族だった。上の三人の兄たち、15歳のフランシスコ、もうすぐ14歳になるホアン・セレスティノ、そして12歳になるアントニオ、それにやがて彼女の遊び相手となる三人の幼い兄弟、まだ6歳にならないラモン、間もなく4歳の誕生日を迎えるドロレスと、丁度その日2歳になるエンリケたちは、幼い兄弟たちが持つあの特有の好奇心と、愛情の入り混じった面持ちで、赤ん坊に見入っていた。この子の前に、世は楽しそうに繰り広げられた。
ペドロ・アバドでは、1850年3月1日の午後に生まれたラファエラ・マリアの生涯のどんな些細な事柄も、今では誰一人知らぬ者はない。彼女の生家、ポラス家の建物は、つい暫く前まではマドリードに通じていた村の大通りに面している。(1)
その頃もその家は、建物と共に人々に広く知られ、親しまれていた。今日私たちが見るように、地味でがっしりとした門構えを持ち、もしも花で色取りが添えられていなかったとすれば、地味すぎるとさえ思われるであろう。二階建ての家であったが、入口の玄関には広いバルコニーが取り付けられていた。それ以外の窓という窓は一階も二階も、全て格子がはめ込まれており、その地味な色合いの格子に、ゼラニウムの華やかな明るさが目立っていた。
やわらかい春の光に包まれ、或いは明るい夏の日差しに輝いたその家に近づくことは快いことであった。鉄柵の扉越しに、玄関から居間にかけて、睦みあう家庭の楽しそうなざわめきが、ほのかにうかがわれる。日中玄関の表扉は開け放されたままで、時折は中庭が覗いて見えるあの頑丈な鉄柵の扉も、半ば開かれたままになっていることがあった。建物の中心部に小さな庭をはめこんだ地方の家の中庭を囲んで繰り広げられる団居(まどい)の日々は、どんなに楽しいことだろう。この地の他の家庭でもそうであったように、ポラス家の子供たちも、それぞれの家庭が分に応じて作った美しい自然――鮮やかに色づく花、中庭の噴水の踊る水滴――と戯れながら育っていった。
その頃、ポラス家は単に村の有力者、資産家であるばかりではなかった。ある時代に世界の一隅に、地方豪族の族長のような人々が存在していたのは普通のことだったが、ペドロ・アバド一帯の殆どを所有するポラス家の主(あるじ)も、あたかも領主のようであった。地方のことであるから素朴な旧家であったが、社交界の中心を占めていたのである。ラファエラ・マリアの父ドン・イルデフォンソは、死の時まで村長の職にあり、彼が遺産として子供たちに残すはずであったあの廉直さと、ことのほか深い責任感を持ってその職を果たした。
母のドニャ・ラファエラは、アンダルシアの片隅の人にしては不釣合いなほど、偉大な女性であった。諸徳を備え、半ば貴族的、半ばブルジョア的であったその魅力は、今日私たちに、当時の幾つかの物語を思い起こさせる。例えば召使いに対して優しく、しかし威厳を持って接し、家事を切り回し、夫と子供を愛し、貧しい人たちに情け深い・・・。女性にとってはかなり閉鎖された社会ではあったが、同じような社会的地位にある他の婦人たちと同様に、ドニャ・ラファエラにとって己(おの)が家庭こそは、約(つづ)められた宇宙の全てであったのである。

1850年、日ごと年ごと世間を騒がしていたニュースが、ペドロ・アバドにも密かに伝わり始めた。大地から春が萌え出るように、そして生命が春と共に、私たちの知り得ない密やかな道を通ってやってくるように、自由主義の時代が生み落とした新たな不安が、社会に広がっていった。あちらでもこちらでもそれが噴出し、たびたび過激な方法で突発したが、それらは、他の機会に抑圧されていたものが爆発したのであった。しかし歴史は歩みを続け、絶え間なく生存し、発育し、成長する大自然の抑えきれない衝動と同じ力で進んでいく。
19世紀の半ば、スペインでは人々の生活のリズムを狂わせてしまうような一触即発の事態がまさに起きようとしていた。「悲しい運命の人」イサベル二世が王位にあった。無知によるとしか言いようのない軽薄さによって、君主政治は責任の重みに耐えかねるかのごとく衰退していった。ラファエラ・マリア・ポラスの幼少から少女期に至る年月は、丁度スペインの政治が革新と保守的な反動を引き起こした時であり、不安と平穏な時期の交錯した時代であった。やがては聖人になる、かの少女の身に、極めて意味深い出来事が起こったのと時を同じくして、スペインに革命が勃発したのである。1868年、それはイルデフォンソ・ ポラス未亡人の生涯の終わりの年であった。にわかに女王がフランスの国境を越えたことについて多くの人々は喜んだ。それを残念に思ったのはごく一部の人だけであった。そしてこの1868年、19世紀の政治を根底から覆した6年間にわたる革命の反乱が始まったのである。
これらの出来事は密かに、しかし遂にペドロ・アバドにも及んできた。村で最も有力であったポラス家も、政治の変転と当時の社会情勢の変動による影響をしばしば被ったのである。

覚えるよりもむしろ生き抜かれた祈り:「主の祈り」

ラファエラ・マリアの幼い頃の思い出、彼女の幼少期の淡い映像は、恐らく父の死という重大な出来事のほのかな影絵のようなものだったであろう。それは1854年9月11日のことであった。幼い少女の心の想いに、それは何を意味しただろうか。病状を案じる緊張した不安、臨終を見守る苦しいひと時、それらは幼い彼女には到底理解し得ない出来事であった。事実、あの日々の苦しみについてラファエラ・マリアは一度も語ったことはない。当時4歳半だった彼女にとって――大人たちがするように――当時の、或いは後日になって味わった悲しみや寂寞感を、一時(いちどき)にまとめるなどということは、およそ不可能であった。彼女の場合、その日以降幼少期を通じて父のひざに抱かれることもなく、玄関の敷石に響く靴音も、野山からの帰りに口ずさむ父の歌声も耳にすることはなかったのである。
ラファエラ・マリアは父を良くは知らなかった。が、母が抱いていた亡き夫への愛と思い出を通じて彼女は父を愛し、鮮やかに父を思い出していた。月日と共に彼女の心の中に誠実で情け深い人間像が形作られていく。何にもまして父であった人。ポラス家の父であり、ペドロ・アバドの若い――47歳で亡くなった――族長であった。節度ある愛をもって、しかも徹底して愛することを知っていた人、その愛は言葉だけのものではなく、たびたび英雄的なまでの献身のうちに示された。というのもドン・イルデフォンソは誠実に生きたその生涯を英雄的な死をもって閉じたからである。1854年、無残にもコレラがペドロ・アバドを襲った時、彼は文字通り貧しい人々のために献身したのである。(2)
時折、その社会的地位から来る制約にもかかわらず、それを乗り越えた生き方をする人たちがある。今日の私たちにとってはまことに腹立たしく、憤慨に堪えぬ貧富の差の激しい当時にあってイルデフォンソ・ ポラスは正義を貫いた。しかも単に正義に生きたばかりでなく、19世紀にあって、そしていつの時代にもそうであるが、為しうる唯一の方法である愛をもって正義をも乗り越えたのであった。彼について誰もがその人となりを公正で単純な、かつ、寛大な人と証言している。常に良きキリスト者であった。彼自身並びに家庭の社会的地位からすれば、19世紀のとりわけ小さな村落における豪族たちがその地位を利用したように彼もそうなり得たであろう。ペドロ・アバド村の広範囲にわたる地所の持ち主であったが、ちょっとした封建領主で満足した。後に村長に選ばれ、政治的にも人々を代表する地位にあり、それらによって村人に対しては絶対的な力を持っていた。しかし彼の特権的な地位は全ての人々の善のためにのみ役立てられたのである。豪族としてはドン・イルデフォンソは一風変わった人物であった。(3)
この義人の生涯についての幾つかのエピソードは、特に家族の記憶のうちに刻まれている。(4) ドン・イルデフォンソは、土地の管理をするばかりでなく、ペドロ・アバドに自分の村の人々および近隣の村の人々のための大きな卸市場を持っていた。当時の報告によれば、小地主たちの経済を大いに潤したかの卸売り制度の目的は納得出来る。貧しい人たちの多くは農夫であったが、彼らはドン・イルデフォンソによる殆ど無制限の、無利息による貸付という信用貸しによって生活を持ちこたえていた。誰かが未払いのままで死ぬと彼はいち早く遺族に対して、未返済の金額を帳消しにするのであった。
ポラス家のイルデフォンソとラファエラは、常に模範的な夫婦であった。年貢だけで十分に生活出来る身であったが、そのようなことは夢にも思わなかった。「手をこまねいていることは決してしなかった」とある人は彼について証言している。ドン・イルデフォンソは疲れを知らぬ働き者であった。激しい一日の働きを終えて帰途についていたある日のこと、突発的な出来事が生じた。ある男が彼の命を狙って背後から襲ったのである。こんなに誠実な人を敵対視する人間があるものだろうか。私たちには思いもよらない。とにかく、犯人は反抗をしくじり、恐れて逃走した。村では大騒ぎとなり、事の次第を知った人々はいっせいにこの哀れな男を非難した。ドン・イルデフォンソはそれほど動揺した素振りも見せなかった。彼に逆らって殺そうと企んだ男の妻が病床に臥せっていることを思い出すほどのゆとりさえ持っていたのである。その夜、彼は病人の家に赴き、彼女を慰め、自らの手でその世話をしたのであった・・・。
彼と同じように勤勉な当時の人々が、日々の糧を得るために汗水流して働いている時、一方ポラス家がいかにしてこれほどの財を蓄えるに至ったかということをイルデフォンソ・ ポラスが自問したことがあったかどうか定かではない。度々私たち自身にさえも欠けている今日的な観点による洞察力を、果たして彼に求むべきであろうか。とにかく彼の生き方は、不幸な人々に向かって何の苦もなしに運の無さをあきらめるように勧めながらも、自らはどっかりと日常の暮らしにあぐらをかいているような人たちのそれではなかった。この意味で次のエピソードは多くを物語っている。「私の父はポラス家の仕立屋でしたが、製パン所も持っていて、ご一家と農園で働く人たちのパンをお納めしていました。父にとってドン・イルデフォンソは、例えば商売がうまくいかなくて税金のことで頭を痛めている時の助け船であり、慰め手でした。私の兄は息子さんと一緒に兵役のくじを引きましたが、兄は低い番号を、坊ちゃんは高い番号を引きあてました。悲嘆にくれた父はドン・イルデフォンソのところへ愚痴をこぼしに行き、いくらかの土地を手放したほうがいいかどうかと相談しましたところ、氏はいつものように親切に、土地は手放さぬようにと勧めて下さいました。というのも、大勢の子供がいることであれば、そのいずれにも同じようにしなければならないからです。そしてそれとなく私の父から兄の引いたくじの番号を差し出させ、ご自分の息子さんの分と取り替えて下さったのです。こうして兄は兵役を免除されました。」(5)
1854年村にコレラが流行した時、ドン・イルデフォンソは色々の人から勧められた。ある人たちはコルドバへ移るのが賢明だと勧告した。 ペドロ・アバドには最新式の物はないので――当然のことではあるが――そこではもっと医学的な診療を受けることが出来るのである。他の人たちはコルドバ平原の真っ只中の、人里離れた農園に逃れるが良いと勧告したりした。確かにそこは伝染の危険は少なかった。しかしペドロ・アバドではコレラをそれほど恐ろしいものとは考えていなかった。コレラはとりわけ貧しい人たちの間に蔓延していった。村長であるドン・イルデフォンソは村に残った。(小作人から取り立てることしか知らない不在地主とは、何と大きな違いであろう。)危険のさ中に留まり、しかも単に留まるばかりでなく、精力的に働き、疫病と闘い、その撲滅に力の限りを尽くした。そして遂に彼自身も病に倒れたのである。後には悲嘆にくれる妻、胎内に幼い生命を宿した妻を残し、20歳を頭とする九人の子供を残した。そして、それと共に彼は家庭に於ける諸徳のシンボルである父、天のおん父の限りない愛のかすかな表れである父親の、身に染みるような深い慈しみの思い出を残したのであった。
ドン・イルデフォンソの死によってドニャ・ラファエラは、とりわけ彼の妻としての風格を持つに至った。日頃彼女の際立った面である穏やかな行動力を発揮して一家を治めた。ポラス家については、父親に関することが多く語られ、それも確かに尤もなことではあるが、僅かに残された母親についての資料からも私たちは、十分に彼女が子供たちを優しさと、しっとりとした喜びで満たす術を知った類まれな女性として描くことが出来る。しかしその為には、彼女自らの悲痛を乗り越えねばならなかった。夫の死と共に、地所の管理は大きくなった上の息子たちと、同じ屋敷に住んでいた甥のセバスチャンに任せた。他の息子たちにはコルドバで勉学を続けさせ、彼女は二人の娘の教育に専念したのである。彼女は適当な家庭教師をそのために捜し求めた。ドロレスとラファエラ・マリア・ポラスは、優しいながらもどこか謹厳だったマヌエル・フラド先生のことを、いつまでも懐かしく思い出していた。このマヌエル先生が、二人の生徒を叱って時折泣かせたことがあるという一見取るに足らぬようなことが証言の中に取り上げられていて興味深い。というのは、この二人も他の子供たちと何ら変わることなく、勉強が嫌で怠けたい日もあり、恐らくわがままを言ったこともしばしばあったのではないかと推測されるからである。
後年に至って二人の姉妹のうちに開花するであろう基礎的な教養を、ドン・マヌエル・フラドはまず身に付けさせた。それは当時の女性に求められた教養であり、それほど多方面にわたるものではなかった。しかし文体が人となりを示し、語る言葉が内心の真の姿を表すように、ドロレスとラファエラの書き物は、彼女たちの深い教養を反映していた。それは彼女たちにあのような観察力と、知性の磨かれた人だけが持つ物事への洞察力を与えたのである。二人の姉妹は筆が立った。たとえばラファエラ・マリアの書き物には、語彙の豊富さ、生き生きとした比較、文章の軽妙さが見られ、見事に調和した心理の持ち主であり、感受性に富み、しかもバランスの取れた実際家である女性像、未来の聖女の姿を描き出している。
7歳の時ラファエラ・マリアは初聖体を受けた。当時1850年頃には、年端の行かぬ子供には許されていなかったので、いずれの伝記作者も当時の習慣とはかけ離れたこの出来事に注目し、その重要性を強調している。ある人たちはこのラファエラ・マリアに対してなされた特例的な措置について、その理由を「快活な、はつらつとした子供であったが、教理を学ぶためにかなりの遊びの時間を割いていた」(6) ことによるとしている。この言葉は、時折私たちが見かける特別な子供を連想させる。しかし元となる資料には7歳の子供が遊びの時間にそれらを勉強したという記録はどこにも見出せない。ラファエラ・マリアのような子供が庭のイチジクの木陰で教理についての問答を繰り返しそらんじているなどとは、何とも想像し難いことである。むしろ反対に先生の言葉に目を輝かせ、胸を時めかせながら聞き入っている姿なら容易に思い浮かべることが出来る。姉のドロレスより4歳も年下ではあったが、彼女はどうしても姉のクラスについていきたかった。知性のひらめきとすぐれた記憶力を持ち、わけても偉大なものを称揚する力を持っていたのであった。ドン・マヌエルのクラスは恐らくそれほど高尚なものではなかったであろう。しかしそれはキリストに対する情愛と思いを養い育てる当時の教育の特徴を持った、確信に満ちたものであったと思われる。
初聖体の準備のための教理の勉強をしている折、ラファエラ・マリアはそれまでの短い生涯に於いて既に経験していた幾つかの教えを見出した。彼女にとって天のおん父は決して遠い存在ではなかった。何故なら家族にとってはこの上なく優しく、村の人たちにとっては寛大な保護者であった父を、かつて肌に触れて経験していたからである。幾つかの映像が幼い彼女の宗教的な生活体験のうちに入り混じっていた。母に伴われて姉のドロレスと共に幾たびか訪れた隠遁所の、両腕を大きく広げたキリスト像は、幼い彼女の心に何らかの印象を与えたようであった。日ごとのロザリオの祈り、父の腕の中でまどろみつつ耳にした、繰り返されるアヴェ・マリアの祈り、「・・・ 今も、死を迎える時も、お祈り下さい。アーメン。」(たびたび突如として一家に死が訪れたが、この世のはかなさと、神秘に包まれた永遠の生命についての考えは、ラファエラ・マリアにとっては既に何となくなじみのあるものであった。7歳にして彼女は既に三人の兄弟の帰天を経験していたのである。)
彼女は優しさとしつけの厳しさ、勤勉さと憩い、喜びと悲しみを経験しつつ育った。与えることを学んだが、それと共に心ゆくまで皆から愛されたのであった。彼女にとって祈るとは、あたかも花のつぼみが春の陽に向かって自ずと開くように、至って簡単なことであった。教会が兄弟的な共同体であるということを理解するのも、家庭において兄弟たち、両親たちと共に睦み合う彼女にとっては、少しも難しいことではなかった。いずれにしても、彼女がキリスト教の信仰についていささか四角ばった説明を受けた時には、既に彼女の中にはその素地が出来上がっていたのである。従って問答形式で繰り返されるそのような準備は、彼女にとっては必要でもなかった。――事実彼女にとっては何の役にも立たなかったのである――。ラファエラ・マリアはわずか7歳ではあったが、年に似合わぬ感受性の持ち主であり、神の恵みを知り、愛をこめてこれを受けることについては、並外れた器であった。
1857年3月1日、7歳の誕生日に彼女は初聖体を受けた。彼女の姉ドロレス――幾らか背丈も高く、性格も異なっていたが、恐らく彼女ほどには早熟ではなかったであろう――と一緒だった。以後それからの長い人生の旅路を共にし、労苦を分かち合いつつ東奔西走する二人は、並んで初聖体を受けたのであった。その日喪中であったポラス家にも喜びがみなぎった。打ち続く不幸に打ちひしがれ――お祭りの日には更に――別離の悲しみに、その母は沈んでいたのであったが。彼女は前年の1856年に三人も子供を亡くしたのであった。3歳になるルイサ・マリア、20歳になるホアン・セレスティーノ、そして家の主(あるじ)が亡くなった時にはまだ生まれていなかったアルフォンソ,やっと1歳半を過ぎ、片言を話し始めた可愛い盛りであったが ・・・ この三人の子供を次々に失ったのである。

ラファエラ・マリアの幼少時代についてのエピソードは、そんなに多く残されているわけではない。幾つかの語り伝えによれば、ひきこもって手仕事に熱中する早熟な少女を思い浮かばせるが、聖人伝にはおあつらえ向きのこの種の表現は、事実とはいささかかけ離れているようである。大勢の子供と接する機会のあった時、時折私たちはその中に、年端も往かぬ幼い子供が、あどけない面差しのうちに早くも思慮分別の兆しを見せているのに出くわすことがある。しかし知的な早熟は子供らしさを失わせるものではない。それは大きくなるにつれて、年月によってのみ容赦なく取り去られていくものである。それに、子供にとっては生きていくための、或いは周りの世界と自身を変えていくための最も自然な形である遊びへの望みを失わせるものでもないのである。これらを考え合わせるなら、記録されたものには詳細は述べられていなくても、ラファエラ・マリアが春の野原で花摘みにたわむれ、幼い体を風にあおられて吹き飛ばされそうになるのを面白がっただろうとは、容易に想像出来るのである。自然とのふれあいは絶え間なく新たにされる生命の不可思議さを肌に感じさせてくれた。戸外でよく遊び、彼女は日焼けした、真っ赤な少女だった。幼いアルフォンソが死んでからは、文字通りの末っ子となり、家中の者から可愛がられ、特別に愛される喜びを味わった。しかし兄たちからからかわれ、べそをかくこともあった。大家族で育った人であれば誰でも、兄弟たちが知らずして何かの辛い思いをさせることがあったのを覚えているであろうが、それは小さい弟や妹にとってはいささか残酷なことにもなり得たのである。もちろん、月日と共にそれらはあたかも麻疹(はしか)のように誰もが経験するものであることを知り、懐かしみつつ思い出しさえするのである。大人になっても尚そのような幼い頃の心の痛手を忘れない人は珍しい。従ってラファエラ・マリアの少女期について、彼女が兄たちから「監視されて」苦しんだということを大げさに重要視するのはおかしい。
もちろん性格の違いと種々の情況から、確かに未来の聖女は、既に幼少の頃から他に譲ることを学び、一歩引き下がることに慣れていた。姉のドロレスは彼女とは正反対の性格の持ち主であった上に、四つ年上であった。遊びの折には彼女は自分の好きなように率先してやったであろうし、恐らく自分のやりたいことを妹に押し付けたことであろう。およそけんかにもならなかった。ラファエラ・マリアは大きい人を尊敬する兄や姉の言うとおりにし、彼らの後にいつもくっついていた。彼女はドロレスのした通りにし、その道を歩みつつ大きくなっていったのである。幼少期を共に過ごし、いたいけな年頃にとってはあまりにも大きな出来事であった父の死、、(それぞれ4歳と8歳)と三人の兄弟の死(6歳と10歳)に直面し、初聖体(7歳と11歳)をも二人は共にしたのであった。それらの高潮した出来事のはざ間には、日々の小さな数え切れないほどの出来事が、ぎっしりと詰まっている。居間で同じ机に並んで受けたドン・マヌエル・フラドの授業、中庭での楽しい遊び、裏庭に続く果樹園の植え込みでひそかに試みた冒険の数々――兄たちに倣ってやった生まれて始めての木登りや、へまをやったこと、――日差しを一杯に浴びた野原での散策、それらは同時に二人の姉妹たちが、その小さな可愛らしい足取りで果てしなく広がる大地への歩みを記し始める第一歩であったとも言えるものである。
ラファエラ・マリアとその姉の幼少時の写真は残されていない。しかし創立者については、何でも知りたいし、聖女に少しでも関係のあったことには特別の関心を抱く私たちにとっては、次のような好奇心も許されるであろう。7歳頃の彼女はどんなであったろう?10歳の時は?12歳の頃は・・・?最も古い記録の助けを借りながら彼女の姿を描いてみよう。創立時代の一人の聖心侍女が記した伝記風の資料によれば、幼いラファエラ・マリアは「とても愛くるしく美しい」(7) 子供で、地味な色合いのアルパカ織りの洋服を着た、お行儀よく気立ての良い子として描かれている。前世紀後半の絵画に描かれる子供たちの服装、襟と袖口にレース飾りをつけ、恐ろしくたくさんのボタンを並べたビロードの服に、これもまた裾周りにフリル飾りをつけたペチコートを下に重ねた子供の絵を眺めていると、ラファエラ・マリアのおぼろげな面影が、もう少しはっきりと輪郭を持ってくるであろう。髪を後ろに長くたらし、両手に輪回しの輪を持ち、或いはブランコのそばにたたずむ、ルノワールの描いた少女たち・・・。しかし彼女の姿を描き出そうとするなら、むしろ私たちの身辺にいる子供たちのうちにそれを求めたほうがいいのではなかろうか。彼女独自の人となりの神秘は――人はそれぞれがかけがえのない存在であって、一人として同じ人間はない――今日私たちが目にし得るような、彼女とはおよそかけ離れた、別人と思われる面差しのうちに隠されているのである。他の子供たちと同じく夢中になって遊びはするが、時折、驚くばかりの無邪気さの中に早熟さがきらりと光ることを言ったりして私たちを驚かせる、そのような子供のうちにである。その瞳はあどけないながらも不思議なほどの深みをたたえている。そこには全てのものを驚嘆のまなざしで眺める純粋さがそのままにとどめられているが、折にふれて、人生についてのほのかな先触れを捉えるある種の直観力、ただならぬ知性の輝きをひらめかすことがある。

孤独ではあったが満ち足りた青春時代

ラファエラ・マリアの青春時代は、避けようのない孤独感にくまどられたものではなかったであろうか。遊び相手であった姉は、その頃はもう華やかな青春を楽しんでいた。既に述べたように、4歳年上であって、成人した大人にとっては何ほどでもない年の違いも、この年齢にあっては天と地ほどにも開きがあるのである。従って妹の方は一人で寂しく家に残り、母の元で過ごさねばならない時期があった。
ある聖人たちは、自分の経験したことを細かに物語るべきだと考えた。例えば幼いイエズスの聖テレジアは、そのようにすることが自分の使命だと確信し、ごく些細な出来事についても丹念に考察し、特に早熟だった少女期の心理的な成長の過程について述べている。ラファエラ・マリアはそうしようとは思わなかった。ごく僅かに書き残されたものは、もっと大きくなってからのことで、突然やってきた深い苦しみに直面した時のものである。
記録されたものだけに頼るとするなら、私たちは彼女の青春時代については大まかな一般的な資料しか持っていないことになる。人々に行き渡った聖女の伝記の、ごく僅かな資料を解釈するなら「12歳になったばかりの頃、彼女は既に友人たちの賑やかに騒ぐ遊びよりも、手仕事と祈りを好み、仲間たちが騒々しく走り回っている時に、レース編に熱中していた。」(8) 中世の後光に包まれた聖人伝の一つである「聖人の華」にはぴったりの絵であろう。しかし私たちの観点から言えば、それは実に突飛なことであり、ラファエラ・マリアがその姉からかなり子供扱いされていたことを考え合わせる必要があろう。この頃のドロレスにとっては、家の中庭で騒いだり走り回っているよりも、もっと楽しいことがあったはずである。兄や従兄たち、それに友達による若い人たちの仲間グループは出来ていたであろうし、16歳のドロレスは恐らくグループの花形になっていたことであろう。この陽気な連中は、自分たちのくちばしの黄色いことは棚に上げて、末っ子のラファエラ・マリアを子供扱いにした。兄や姉たちは度々彼女に閉め出しをくわせたであろうし、彼女自身も自分に合った気晴らしを探したことであろう。恐らく、一度ならず、退屈することがあったであろうし、大人の間にいなければならないことによって、おのずとレース編みや刺しゅうをさえ覚えたことであろう。
このような状態はあまり長くは続かなかった。というのは、家の事情によってラファエラ・マリアは早くも若い人たちの仲間入りをするようになったからである。母は二人の娘が異なった状態に置かれることに納得できず、いつも二人を一緒にしておきたいばかりに、やっと14歳になった娘を早くも社交界へと引き出したのである。姉の方は既に18歳で夢多き年頃であった。
晩年になってドロレスは若き時代を思い出しながら次のように語っている。他の資料でも確かめられていることであるが、彼女は暫くの間は結婚しようと思っていて、一度ならず申し込みもあったのである。(9) 華やかで楽しく贅沢な世間での生活は、伸びやかで人好きのするあの魅力的な娘にとっては、一つの誘惑ともなったのである。それに比べるとラファエラ・マリアはかなり幼く見えた。彼女が好んだのはとりわけ物静かな控えめであどけない事柄のようであった。
1864年以降、二人の姉妹はコルドバの、或いはカディスやマドリードの社交界へ代わるがわる顔を出した。何れの証言も、彼女らの慎み深さと趣味の良さ、真の優雅さが持つ得がたい単純さを立証している。当時の習慣として二人の行く所にはどこにでも身内の者が人垣を作って彼女たちを守っていた。彼らはポラス家の伝統時リスト教的な感覚によって、熱心に二人の娘たちのよき名と、慎みとかぐわしさを培うことを深く肝に命じていたのである。兄たちや独り者の叔父や従兄達は、誰も彼も二人のことを誇らしく思い、あちらこちらへ連れて歩いた。ドロレスは当時のことを語って、それらを捨てるためには大変な努力が必要であったと告白している。若い頃の思い出を少しも表そうとしなかったラファエラ・マリアは、全く一言も語らず、何も書き留めていない。しかし眼前に繰り広げられる輝かしい世間の魅惑は何らかの形で感じたはずである。何年かを経て、指導司祭は一通の手紙の中で「過ぎ去った日々の思い出」、今またもう一度後戻りさせようと密かに誘う「かのイエス・キリストのために捨て去った事柄」について言及している。(10)

ラファエラ・マリアが半ば否応なしにさせられた「世俗的な生活の経験」について、僅かな手がかりでも見つけ出すためには、目を皿のようにし、あらゆる資料をかき集めて探さねばならないであろう。しかし事実は、これらの乏しい情報やそれに基づいて私たちが想像して作り上げた幻をはるかに超えたところに存在する。それはたった一つではあるが、計り知れないほどの重要さを持っているのである。後年になって主人公は当時を回想し、簡潔な文章の中にその思い出を綴っている。

「・・・ この日、1865年、(3月25日)に、コルドバの、今日では私どもの会の聖堂になっている聖ヨハネ教会で、私は生涯貞潔を守る誓いを立てました。」(11)

それは1865年3月25日のことであった。ラファエラ・マリアは15歳になったばかりであったが、生涯全てを神に捧げるとはどういうことであるかを十分に理解していた。だが、コルドバで過ごした陽気でいささか軽薄な上流階級の人々の中での春が始まっていた。いつもの年と同じく生命そのものは再び新たにされ、オレンジの樹や草花は芽吹き、アンダルシアの町々に漂いわたっていた。それら全ての美しさ、この世の全ての魅力をもってしても、ラファエラ・マリアのように神の恵みに無条件に開かれ、神に愛によって全く占められた心にとっては、それらは無に等しいものであった。

ラファエラ・マリアの青春期の最初の頃について、もし社交界における人付き合いの良さや、良い面だけを述べるとするなら、十分ではないし、真実ではないとさえ言えるであろう。彼女の母は世の中の現実の姿である人生の裏側についても知るように気を配った。二人の娘はドニャ・ラファエラから色々のことを学んだ。施しの際の鷹揚さと気立ての良さ、助けを必要とする人々の為に献身する際の完全な自己放棄と寛大さ。既に幼少の頃より母によって貧しさ、苦しみというものとの関わりを持ち始めていた。少し大きくなるとドニャ・ラファエラは二人の娘を伴って村の貧しい人たちを見舞った。言葉と生きた模範によって、真の慈悲とは、自分たちのうちにある余分なものを分かち与えることではなく、自分たちを必要とする人々に向かって、寛大に心を開くことであるということを二人の娘に教えたのである。
ポラス家にとって父の影響は極めて大きかった。事実、彼は地中に深く根を下ろした強大な幹であった。しかし二人の姉妹にとってドン・イルデフォンソの生き方を踏襲した母の存在がなければ、その思い出はそれほどに大切なものとはならなかったであろう。彼女の志操の堅さ、内に秘めた勇気は、あれほどの不幸に見舞われたにもかかわらず、家庭の生活を快いものとさせた。ラファエラ・マリアとその姉が幼少期から少女期にかけて味わった悲しい出来事を思い出し、それについて述べるということを一度もしなかったことは、きわめて意味深い。彼女たちがそのようにのどかに家庭で過ごすことが出来たのは、その母によるものであって、既にこの地上において彼女に与えられた栄誉は母であること、与え、育てる人である、ということであった。何故なら彼女の愛は常に苦しみを超えるものであったからである。

母の死

1869年2月10日、ドニャ・ラファエラは不慮の死を遂げた。夜半の12時過ぎ、心臓発作によるあっという間の出来事であったが、臨終の苦しみは3時間余り続いた。心臓病で亡くなったが、よく考えるなら別に驚くに値することでもない。49年の生涯であったが、神の目にも人の目にも充実した実りある一生であった。
1869年、それはスペインにとっても不穏の年であった。革命ののろしが上がったばかりで、間もなく新憲法が施行されようとしていた。それからの幾年月、どれほどの大きな変革がもたらされることだろうか。しかしそれほどの事柄も、あの2月10日の夜、母の亡骸のそばで祈りつつ通夜をした二人の姉妹にとっては何ほどのことでもなかった。衝撃は人生の方向を変えさせる曲がり角ともなる。ラファエラ・マリアにとっても、それはきわめて大きなものであって、自叙伝には寡黙であった彼女をしてその記録を書き残させるほどであったのである。短い言葉ではあったが――彼女はいつも簡潔に記し、表現には慎重であった――味わった苦しみと希望について記している。彼女は非常に繊細な感受性の持ち主であって、いまだかつて経験したことのないかのショックに打ちのめされた思いだった。一方既に見事に成熟し、並々ならぬ力量を持っていた彼女は、苦しみに抗(あらが)う心を抑え、苦しみを苦しみのままに自らのうちに受け入れたのであった。
後年ラファエラ・マリアは、あの夜の不安な思いを述べている。末っ子で内気な彼女が、人生の最も厳粛な出来事である死と、それとはおよそ矛盾するような数多くのこまごまとした事柄を処理しなければならなかった。神経的に参ってしまったドロレスは、無言のうちに妹の力量とその際立った確実性を持つ性格を初めて認めるに至ったのである。
若き日のあらゆる出来事のうち、ラファエラ・マリアはわずか二つを書き残している。神への奉献生活を自ら望み選ぶ第一歩であった15歳の折の貞潔の誓願と、母の死についてである。ここに述べられていることは、聖女の生涯について幾らかでも知っている人にとっては、既になじみ深いものではあるが、敢えて記すこともあながち無駄ではないであろう。

「私の生涯における幾つかの出来事のうちに、私は父なる神の慈しみと計らいを知りました。母の死、あの時、たった一人で母のまぶたを閉じた時、私の魂の眼は開き、迷いから覚めて、この世の生活はあたかも島流しのもののように思われました。私は母の手をとり、み主に、この地上のいかなるものにも私の愛情を注ぐことは致しませんとお約束しました。主は私の捧げ物をお受け入れになったようです。というのも、その日一日中、地上のものはいかにはかなく空しいものであるか、永遠のことを熱望することだけが必要であるという非常に崇高な思いに占められていて、母を失った悲しみは殆どどこかへ飛んでいってしまっていたのです。『私は何のために生まれたのか。救われるために・・・。』との思い、内なる叫びが私の心の奥に深く刻み付けられたので、その日ばかりでなく、以後、私の生涯を通じて、徳を求めるための励みとなりました。この思いは日ごとにより深く私の中にしみこみ、神の摂理は私についての計画を次第に固めていかれましたが、いっそう世間の空しさを悟るようにと、殆ど絶え間なく眼前の目標としてお置きになりました。」(12)

第1部 第1章 注
1) 引用した街道の村の入口にあたるところにラファエラ・マリアの生家への案内板があり、そこから100メートルほど入ったところにその屋敷がある。
(2) 最初の聖心侍女たちの一人、マドレ・マリア・デ・ラ・プレシオサ・サングレ (マリアナ・バカス)は、本修道会の創立史を書くにあたって、ラファエラ・マリアとドロレス ポラスの二人の創立者姉妹の幼少時の思い出についても書き記した。マドレ・プレシオサ・サングレは幼少時をペドロ・アバドで過ごし、聖女よりも一つ年下であった。彼女が共にした当時の出来事、折々に二人の姉妹の遊び仲間として過ごした時のこと、或いはまた、ドロレスかラファエラ・マリアが話して聞かせたことをも記している。とにかく、彼女が書き残したもの、及びそれを補足して書かれた他の記録のおかげで、聖心侍女会の二人の創立者の若き日々のことを私たちは知ることが出来た。年代記という名称のもとに引用されるであろう。
(3) 歴史関係の書物であれば、どれでもほぼ同じように述べられている「豪族」について参照のこと。「豪族は、広大な農地を所有する地方にのみ存在しうるもので、自身が地主であるか、或いは議会を主宰する地主一門の代表である。農夫たちが働くことが出来、或いは飢え死にするのも、小作人たちが耕地を取り上げられ、或いは耕作に従事出来るのも、はたまた半農家が信用貸しを受けることが出来るのも、全ては彼の一存によるのであった。村の警察は、彼のすることについては全て黙認し、教師たちは――惨めな生活をしていた――彼に従わねばならなかった。村の教会の主任司祭も一般に彼に協力することを好み、一言で言うなら、それはもう一つの封建領主であり、絶対君主である。」(トゥニョン・デ・ララ著「19世紀のスペイン」[バルセローナ, 1977] t.2 44-45ページ。この叙述のうちに、当時の社会制度による全てのひずみ、諸悪が窺い知れる。普通一般の封建領主の姿からするとドン・イルデフォンソの姿はきわだって対照的である。
(4) ドン・イルデフォンソの生涯についての詳細は、聖心侍女によって書かれた同会の創立に関する記事のうちに散見される。既に引用したマドレ・プレシオサ・サングレの年代記のほかにマドレ・マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘススの生涯についての覚え書き(ガンディア 1925) も興味深い。聖女の死去の年に編集されたが、既にそれよりはるか以前に集められた資料を基にして書かれたものである。マドレ・マリア・デ・ロス・サントス・マルティレスは創立当時のメンバーの一人であった。ドロレス ポラス自身、彼女の若い日のこと、およびその家庭についての思い出を記している。これらの陳述は、当時のことを研究している今日、主要な源泉資料となっている。括弧で囲んだ引用文は、原文通りに引用したものである。
(5) エルマナ・フランシスカ・デ・イエロニモ, A.C.I.、「創立者についての報告資料」。ここに述べられるエピソードは、簡単な説明を付け加えないと、今日の私たちには分かりにくいことであろう。19世紀の殆どを通じて見られた種々の差別の中の一つとして、この「徴兵制度の免除の方法としてとられた、かなりの金額の納入があげられる。請戻しという手段によって、憲法によって命じられたことに反する全国的な習慣が定着化していったが――徴兵制度に対する国民の平等性を侵害するので――国庫のために資金を蓄える必要があるというもっともらしい名目のもとに行われていた。」(マルティネス・クアドラド著、 La burguesia conservadora [マドリード 1976] Historia de España Alfaguara, VI, dirigido por M. ARTORA, p. 230)。差別を思わせるこの習慣は地方でも行われていて、請戻しを受けた人の数は裕福な地方では一層多かったのである。
(6) E. ロイジュ著「聖心侍女修道会の創立者」3版 24ページ。
(7) マドレ・マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス著「伝記に関する覚え書き」13ページ。
(8) 前述のE. ロイジュ著 25ページ。
(9) これら詳述の大部分はイエズス会員レスメス・フリアス師の書かれたものからとられている。師は当事者自身の口述による調査書を集められた。この話しは1906年の日付がついているが、それはドロレスが、つまりマドレ・マリア・デル・ピラールが既に60歳の時のことであった。
(10) この手紙は当時ペドロ・アバドの主任司祭で、二人の姉妹の指導に当たっていたドン・ホセ・マリア・イバラ師のものである。そこにはこう書いてある。「イエス・キリストのため、あのように決然として捨て去ったものに再び熱中させようと、悪魔が過ぎた日のことを記憶のうちに呼び覚まそうとすることに驚いてはいけません。」1873年6月10日の日付がついている。
(11) 1907年3月1日マドリードでたてた会則遵守、謙遜、および節欲の永遠の誓願文の末尾に付け加えられて記されているもの。
(12) 霊的手記 25(1892)