第3部 第5章 失敗した試み

長い断末魔の苦しみ

マドリードにおける第二の修道院の断末魔の苦しみは、1891年を通して一年中続いた。1月のある顧問会で、「マドレ・プリシマは、サン・ホセの修道院を閉鎖することについて徐々に考えていく必要があると何げなく言った。総長は、その時が来ているのであれば、閉鎖するように、と答えた。」(1) 議事録の短い文の中に、この問題の進展において目立つ曖昧さと不明確さが反映している。そして、同時に、これが、マドレ・サグラド・コラソンの総長時代の最後の数年間における修道会統治の例でもある。
この間、サン・ホセ修道院にはあらゆる種類の苦しみが絶えなかった。頻繁に病人が出、それもかなりの場合には、重病人であった。二人の会員が帰天し、さらに何人かは病者の秘蹟を受けなければならなかった。継続した看護を必要とする病人が、長期にわたって何人かいた。全てのことが、その雰囲気を悲観的なものにしていた。しかし、マドレ・サグラド・コラソンが皆の心に刻んだ精神がサン・ベルナルド街の修道院において活き活きと保たれるように、共同体は最後まで努力した。最後まで働いた。躓きの石であり、多くの困難の源であったその聖堂で主を礼拝した。修道院の日誌は、共同体の気力がどのようなものであったかを想像させる事柄を詳細に語っている。総長は1891年の2月に、姉妹の数が非常に少なくなったため――病人も含めて七名のみが残っていた――、聖体の顕示は午前11時30分まで行われることを決定した。

  「私たちはこの決定が実行に移されないように、仕事と礼拝をきちんと果たすことが出来ることを提示して、聖体顕示を取り上げないで下さいと、度々総長様にお願いした [・・・] 。私たちの嘆願にもかかわらず、姉妹の数が非常に少ないため、全てを果たすことは不可能で、皆が過度の仕事を背負うことになるとお考えになり、顕示の時間を短縮することが賢明と判断されて、その姿勢を保たれた。それで私たちは、祈りをもって神のもとに馳せよった [・・・] 。そして、聖マリアは優しい母として私たちの願いを聞き入れないことは出来ない方なので、聖母にこの祈りを神に取り次いで下さるように祈った。結果はそのようになった。聖母は、総長様の心に触れて私たちの願いをかなえ、聖体顕示なしに一日も過ごすことのない喜びを得させて下さった。」(2)

はっきりした決定は4月にはまだ取られていなかった。「大分前から修道院の例の件が話されていますが、あなたは、私の名前で、何をすべきかをマドレ方に示すか、質問するかすべきだったと思います。私がこの問題に関心がないと言われないために。」(3) この頃、マドリードにあるカルメル会の修道女の聖堂が、サン・ホセ修道院と同じような状態にあった。ある日、一人のイエズス会士がマドレ・サグラド・コラソンに、「結局聖堂を開けるのですか」と質問した。「分かりません、神父様。」「確かな筋からの情報で知っています。というのは、教皇大使がカルメル会の聖堂の件に介入なさったからです。あなた方も同じ状況にあるそうですね。」総長は総長秘書への手紙の中でこの会話のことを語り、最後に、「沈黙し、祈りましょう。神のみ旨が行われますように。」と書いている。
「あの修道院を閉鎖しなければならないのでしたら、聖堂を開けておくのは確かに相応しいことではありません。むしろ逆に、修道院の閉鎖が良く思われることを覆い隠しさえするこのような手段には公然と反対しなければなりません・・・。」マドレ・ピラール はマドレ・プリシマにこのように書いているが、マドレ・プリシマはその頃彼女の活動の全てを挙げてこの問題と取り組んでいた。問題を抱えたこの修道院に関して、マドレ・プリシマはマドレ・ピラールと全く同じ考えを持ちながら、同時に総長とマドレ・マリア・デル・カルメンを喜ばせようと望んでいた。マドレ・サグラド・コラソンによって最も高く評価されていたこの総長補佐が、当時曖昧な態度を取っていたという一般的状況の中で分析しないなら、これは全くの謎である。
マドリードの司教が聖堂を公のものとして認めなかった理由の一つは、その建物が聖心侍女の所有でないということであった。4月の半ばに、一軒の家を買う希望が出てきた。この時代の全ての用件と同様に、総長補佐たちは様々な意見を述べたが、その中にははっきりしない意見もあった。「マドレ・プリシマはマドリードに家を買うことに大変賛成で、夢中になっていらっしゃり、非常に良い結果になると予言しておられます。もしこれが神のお望みでしたら、そうなりますように ・・・ 彼女を見ていると、夢ではないかと思います。ほんの少し前には ・・・ 。」このような言葉と、さらに最後に付けられた点・点・点によって、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・プリシマの驚くべき変化をマリア・デル・カルメン・アランダへの手紙の中で表現豊かに語っている。1月にマドレ・プリシマはサン・ホセの修道院に力を入れる必要があると言っていた。しかし今は新しい建物を手に入れる喜びに促されて、総長とその秘書がラ・コルーニャとビルバオの修道院を訪問中に、マドレ・サン・ハビエルとマドリードで家探しをしていた。(5)
このような意見の極端な変わり方を前にして、マドレ・サグラド・コラソンは「その家に関して、いつものように、積極的に介入しないのは、そうしないほうが良いからです。祈りましょう。そうすれば、私たちの希望は弱まりません。神に希望をかけているのですから。これは本当に大きな慰めです!(6) 「平和のうちに祈って下さい。もし神がその家をお望みでないなら、その家が消え失せますように、といつものように申します。一番大切なのは私たちの魂です。今マドレたちは急に急ぎ出しました。この件は三年間取り扱われず、最後には没にされたにもかかわらず。神が忍耐の恵みを下さいますように。もしもストッキングを裏返えすように簡単に考えを変えず、マリア・デル・ピラールの気持ちを静めていたならば、家の件は今良い結果に終わり、私たちの誇りももっと保たれていることでしょう。私がローマで行ったことはあまり褒められず、軽率で騙しやだとされたのですから・・・。」(7)
サン・ホセ修道院のゆっくりとした死は、総長とその秘書との一致を助けるのに役立った。秘書は同時にこの修道院の院長でもあった。「あなたと私だけが確かにこの修道院のことを思い出すでしょう。」と総長はある機会に述べていた。(8) 他の時には、「主のご受難を黙想なさるべきです。主のお苦しみが私たちの悲しみを和らげて下さるでしょう・・・。」と言っている。顧問会の真っ只中で体験された不信頼は二人の関係にも及ぶようになる。しかし、マドレ・マリア・デル・カルメンマドレ・マリア・デル・カルメン は少し疑念を抱いてはいたが、荒みの中の不十分な慰めのように、1891にはまだ総長の側に立っていた。
春と夏の間に、同じサン・ベルナルド街に一軒の家を手に入れる可能性が打診された。家の持ち主は八万ドゥロを要求していた。マドレ・サグラド・コラソンはフルヘンシオ タベルネロ氏の助けを得られると考えていた。確かに、フルヘンシオ氏の気前のよさは不確定なものではあったが、彼の寛大さを疑うことは出来ない。「フルヘンシオ氏は、ご親切な時と、冷ややか時とがおありです。ある時は張り切っていらっしゃり、他の時は内気な感じです。でもいつも私たちを思いやり、良くして下さいます。」(10) フルヘンシオ氏は既に相当額の援助を聖心侍女に渡しており、これはローマにおける創立のために使われた。彼にさらに期待することが出来るのだろうか。
サン・ホセ修道院は三年契約で借りられていたため、夏にはその期限が切れるところであった。速やかな決定が待たれていた。総長は9 月5日に顧問と共に集まった(当然、ローマ滞在中の マドレ・ピラールを除いて)。この件に関する顧問たちの考えを明確にすることは非常に困難であったと、マリア・デル・カルメン・アランダは語っている。彼女の考えは前もって送られていたが。「提案に変更を加えるに当たって、あるものは受け入れられ、他のものは反対されましたが、幸いなことに、同数票にも過半数にもなりませんでした。」(11) この時期全体に特有な不決断によって特徴付けられた混乱状態。このようなバベルの塔の最中で、最後に、総長がフルヘンシオ氏に再び手紙を書き、援助を依頼することが決められた。この手紙は確かに郵送された。しかし、「援助を得られると誰も期待せずに」。その結果、「修道院の工事をしなければならないので、今年学校は開かれないと言って、9日に無償学校の子供たちに別れを告げなければならなかった。」(12) マドレ・サグラド・コラソンの最後の努力は失敗に終わった。9月19日、新たに招集された顧問会で、修道院の閉鎖が決定された。「10月4日にこの修道院の賃貸契約が切れる。修道院の歴史は今まさに終わろうとしている。この修道院について書かれたものを読めば、どれ程の苦しみがあったかが分かる。」この覚え書きはマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダのもので、この時期に書かれたものである。共同体の苦しみは、たとえどれ程考慮に価したとしても、無償学校廃止に心を痛めた貧しい人々のそれに比べれば僅かであった。修道院の『日誌』は、「・・・ 今年は学校はないと言って、残念に思いつつ子供たちを見送った。子供たちの母親たちはこのことを知ると、これは政府のせいだ、司教様がこのように良い学校を閉鎖するはずはないと言って、非常に悲しみながら立ち去った。」(13) この貧しい女性たちは、国の政治担当者を信頼していなかったのである。彼女たちの聖なる無邪気さ。司教もこの修道院の破滅に関与していたことは知らなかった。もう一つの統治機関、すなわち修道会の統治によってこの修道院が閉鎖されたことなど疑うよしもなかった。「全てにおいて皆が一致していれば ・・・ 望むことが全て得られるでしょう」と、マドレ・サグラド・コラソンは何年も前に言っていた。しかし今は一致の圧倒的な力に頼ることは出来なかった。これがあったら確かに司教の反対と経済的欠乏を克服出来たであろうが。「神のみ旨が行われますように」と、総長は9月28日に彼女の秘書に書いている。しかし、この修道院を救う彼女の望みはあまりにも大きかったため、翌日には「私は今もまだ強い信仰をもって祈っております。神はある時急に全てを変えることがお出来になりますから。」と言っている。
マドレ・マリア・デル・カルメンはその歴史報告の中で次のように書いている。

  「神は、ご自分が望みお許しになった全てのことについてどのような計画をもっていたかを知っておられる。聖堂が開かれ修道会の目的が果たされるために総長がローマで行った全ての手続き、結果としてあの修道院の創立に勝利をもたらすはずであった手続きは、息を断たれ、無力化し、無駄な努力に終わった。修道院は閉鎖された [・・・]。この試み及びそれに続く多くの試みにおける総長の謙遜、信仰、諦め、優しさを、正にそれらの事実が証している。殉教者、いけにえ、聖人としての彼女の生涯には、英雄的な行いが鎖のように続いていた。」(14)

これ程の評価に値する女性、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・マリア・デル・カルメンがこの歴史報告を作成した時期にはまだ生存していた。彼女の聖性の鎖に新しい環を繋ぎ合わせていたのである。このことを言う必要があると思う。書かれた文には高度の称賛が表れているが、誰もこの称賛の度合いを下げようと試みないためである。これらの文は、故人の略歴の一部ではない。単に人々の一番すぐれた点を思い出し、その人たちの過去を称えて言及する時に書かれたものではない。
マドレ・サグラド・コラソンの大きな夢の一つが、サン・ホセ修道院と共に葬られた。「この苦しみに比例するほどの偉大で素晴らしいことを期待しております。これが神のなさりかたなのです。私への罰でないとすれば。と言うのは、全ての原因は私だけにあったのですから。父であり、本当に慈しみ深い方でいらっしゃる神に感謝。ですから、私は不安にならず、残念にも思っておりません。」とマドレ・マリア・デル・カルメンに書いている。(15) 閉鎖された修道院と共に、総長にとって重要な体験となった苦悩に満ちた長い一章も終了した。「主が用意しておられたことを知っていたなら、その修道院も、カディスやローマの修道院も創立されなかったことでしょう。でも、もう仕方がありませんから、得た教えを忘れないようにしております。学んだことを私の魂に深く刻み込んでおります。」(16) 不成功に終わった過去を僅かに回想した後で、修道院の閉鎖によってもたらされた肯定的結果を考え始め、「ある意味では、私たちは喜ばなければなりません。閉鎖されれば、姉妹の数も増えますし、色々な仕事の係りを補うことも出来ます。」と当時のある手紙の中でマドレ・マリア・デル・カルメンに言っている。(17) 常に寛大であったマドレ・サグラド・コラソンは、彼女の秘書、心配と希望を分かち合い、今は修道院の喪失によって同じ苦しみを味わっているマリア・デル・カルメンに感じていた愛情の全てを表現する一文を加えた。「・・・ あなたは近くにいらっしゃることになるでしょう。いやな思いをなさったり苦しまれたりしないようにするつもりでおります。」

マドレ・ピラールの努力にもかかわらず、1891年にはローマの用件は成功のうちに終わらなかった。度々、良い条件でまさに家が手に入いるところまで行ったが、その度に交渉は失敗した。皆から待たれたこの家の購入に際して、マドレ・ピラールはある日フルヘンシオ・タベルネロ氏に手紙を書き、漠然とではあるが、修道会の経済状態に関しての不平を彼にもらしている。6月2日姉に手紙を書いた折に、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールのこの種の手紙の一通に触れて述べている。

  「フルヘンシオ氏は [・・・] 私にあなたからの手紙を読まれました。その手紙の書き方に私は心を痛めました。その不快感と緊迫感を取り去らないかぎり、私たちは成功するよりもむしろ失敗するでしょう。神様をお喜ばせしていないのです。お姉さまがどのように私たちの修道会を壊していらっしゃるかを明らかに見たように思います。神への愛によって、どうぞこのように振舞わないで下さいませ。善を行うことによって、これが意向なのですが、世間の方々は悪い感化をお受けになります。私は悲しんでおりません。喜んでおります。でも、お姉さまがそのようになるために、何をしたら良いのか・・・。」

受け入れられない提案

サン・ホセ修道院と同様に、マドレ・サグラド・コラソンの統治も1891年を通して一種の死の苦しみを味わっていたが、1892年までその結末には達しなかった。これほど難しい様々な問題があったにもかかわらず、マドレが引き続き修道院を訪問する力を持っており、姉妹を励まし、彼女たちのことを心配し、会の重要な用件に関わることが出来たのは、真に驚くべきことである。彼女が優先して心を配ったのは、会憲の精神に基づいた養成及び会憲の編纂であった。何人かのイエズス会士に助言を求めた後、夏の初めにホセ・マリア・ベレス師の助けを得られる望みが出て来た。べレス師は、ムルサバル師とウラブル師から推薦されるという、聖心侍女にとっては折り紙つきの人であった。総長統治によって生じた困難を解決するために、初めには彼自身の介入があったと思われる。
前述のように、総長統治の危機は刻々と悪化していった。主な段階を短く、年代を追って記してみよう。
マドレ・サグラド・コラソンがマドレ・ピラールに辞職の望みを伝えて書いた手紙(3月28日)、及びマドレ・ピラールが彼女の計画に従うことに反対して、総長と総長補佐たちがムルサバル、ウラブル両神父に相談することを提案した返事(1891年4月7日)の後に、雰囲気は徐々に妙なものになっていった。この本の中に今までに書かれたこと全てがそのことを示している。夏には新たに不愉快なことが起こった。マドレ・サグラド・コラソンは7月の終わりにカディスに行った。この修道院は前年に創立されたため、まだ正式に決められていないことが幾つかあった。修道院はクリストバル・コロン通りに面しており、聖堂の工事は計画中で、修道院が開かれて以来使用されていたのは臨時の聖堂であった。1891年7月にこの共同体を訪問した際に、マドレ・サグラド・コラソンは、修道院をサン・フランシスコ街に移転する可能性を調べた。移転には利があるように思われたが、一人で決めることはしなかった。総長補佐たちに相談した。この計画に関して予想された彼女たちの不信頼が、統治職からの辞任を取り扱うよう今再びマドレ・サグラド・コラソンを駆り立てた。辞任の決意を正当化する特に重大な理由が、今回の孤立した事柄にあったわけではない。しかし、起こったことは、一連の無理解と猜疑心の一部であった。他の時代にはマドレ・サグラド・コラソンに対して尊敬を抱いていたが今はそうではない補佐たちによって、総長の威信は傷つけられていた。このような状況の中で体験していた苦しみを、マドレ・サグラド・コラソンが表現したとしても、それは当然のことである。
家を見、転居の是非を判断するために、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスと マドレ・サン・ハビエルはカディスに赴いた。マドリードに戻り、マドレ・プリシマと共に集まった二人は、聖座による修道会の認可以前と同様に創立者姉妹だけで会を統治するよう、二人の創立者を説得することを試みた。マドレ・サグラド・コラソンにはアンダルシアで言葉をもってこのことを伝え、ローマにいたマドレ・ピラールには手紙を書いた。

  「あのように平和と喜びが感じられ、同時に神に大いなる栄光を期していた初期の頃のやり方を再び取り戻してはいかがでしょうか。私たちは、自由率直に、本当に喜んで、このことを希望しております。三人の総長補佐が統治における全権限をお二人に五分五分に譲る取り決めを内々に結び、署名することが出来るでしょう [・・・] お二人が着手あるいは同意される全ての用件や措置に、全く介入することなしに、そうしたものとみなすのです。教会は修道会に独裁統治を認めないことを私たちは知っております。でも、私たちの意図は、教会に従わないことではなく、お二人に創立者としての例外を認めることなのです。神が以前のような光をお二人に与え、以前と同じ善が再び生まれることを望んで・・・。」(18)

三人の総長補佐は、このような一歩を踏み出すことに心から同意していたのだろうか。当時三人が創立者姉妹について持っていた見方からすると、これは信じがたい。マドレ・ピラールがこの書かれた内容を受け入れると、他の総長補佐たちが考えていたと想像するのは全く不可能である。統治が創立者姉妹の手にある間に、修道会統治が不可能であることを示すもう一つの証拠を手に入れる望みを、少なくともある一人の補佐が抱いていたと仮定することが出来るだろうか。「教会は修道会のために独裁統治を認めないことを私たちは知っております・・・」というマドレ・プリシマの文体からすると、手紙を覆いの被された忠告と解釈することも可能である。
マドレ・ピラールはこのような望みをきっぱりと拒絶した。「お望みになっていらっしゃる調整をなさる権威は、皆様にはないと思います。そして又、たとえ他に多くの立派な理由がないとしても、私が皆様をお喜ばせしようとは考えていないということなのです。」(19)マドレ・サグラド・コラソンは今回も、そして、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスが同様の提案をした何年か前も、このような望みを受け入れなかった。

無駄な旅

このように緊張した状況から脱け出す手段として、総長顧問の中で最後に勝利を得たのは、他の多くの場合と同様に、マドレ・ピラールの意見であった。マドレ・ピラールによれば、総長とその顧問たちは、ムルサバル師あるいはウラブル師と内密に話す必要があった。 ウラブル師はオニャに住んでいたため、9月の前半に全員そこに出掛けた。
このような一歩を踏み出す決定をすることは、マドレ・サグラド・コラソンには辛いことであった。ウラブル師を信頼していなかったわけではない。彼の徳と賢明さは良く知っていた。しかし、彼と話しに行っても無駄だと確信していた。出発の日に自分の秘書に「・・・ もう一つお願いがあります。期待される良い結果がオニャで得られるようお祈り下さい。私にとって本当に大きな犠牲です。」(20)と書いている。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの書き物の中に、この訪問の時の様子が最も詳しく語られている。「総長は、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス・ガルベスを伴われて最初に出発された。ブルゴスで他の二人の総長補佐を待ち [・・・] 、この二人、すなわち、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマ・バホと マドレ・サン・ハビエル・ボレゴが到着すると、全員オニャに向かった。しばらく後にマドレ・マリア・デル・ピラールもお着きになった。[・・・] 1891年9月 9日か10日のことである。皆ウラブル師と話し、その後、宿泊先でも集まりを持った。余りにも窮迫し、困窮状態にある修道会を救うために、マドレ・ピラールは、彼女が一人で、会憲上の定めに一切従わずに、財産管理の全てを担当することを提案した。そうなれば、マドレ・ピラールが総長以上の存在になることを理由に、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマはこれに反対した。全ては厳しい雰囲気のうちに終り、何の結果も得られなかった。皆は宿泊先で非常に悲しい一夜を過ごした・・・。」(21) 『年代記』の中に後に挿入された覚え書きによって、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス特有の生々しい書き方が一段と強まる。この付加された文によれば、顧問たちと前もって交わした会話において、意見の一致がないのを見た二人の創立者は、「あえてウラブル師に会うことはせず、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマと マドレ・マリア・デ・ラ・クルスを彼と話すために送った。ウラブル師に意見の不一致を知らせるのがその唯一の目的であった。同じ覚え書きによれば、総長は翌日告解場でウラブル師と話をした。「彼はこの旅行が無駄であったことを充分に理解した。いつもマドレ・マリア・デル・ピラールの考えを支持していたにもかかわらず。」(22)
総長と三人の補佐はマドリードに帰った。マドレ・マリア・デル・ピラールは一日後にオニャを去り、再びローマに向かった。

和解の手段は尽きつつあった。困難が増し始めて以来マドレ・サグラド・コラソンによって提案されていた手段以外に解決は残っていなかった。辞任である。良く調べれば、総長に選出されたあの1887年5月13日からマドレ・サグラド・コラソンが既にこのような終局を予想していたことが分かる。1887年5月13日、それは非常に近い過去、しかし、悲しい出来事と苦悩からなる雲の中で、はるか遠くに消え失せる過去であった。
マドレ・ピラールが妹に書いた手紙が、二人の間にどのような困難があったかをかなり良く示している。

  「あなたと意見が合わず、これによってお苦しませしていることを、私がどんなに悲しんでいるかお分かりにならないでしょう。でも、神様が物事を分かるようにして下さる時には、自分の良心に逆らうことは出来ないのです。[・・・] 事が善意でなされたことを、あなたは否定されませんが。家にいた時、私たちの家族は善意をもって行動しておりました。家族の人達を悲しませることが私にとってどんなに辛かったか、神様は良くご存知です。私は石の心をもっておりません。後に、贖罪会の方々やセフェリノ師等に対して反論し、行ったことに関しても、心が痛んだり、悪いことをしたと思ったりすることは決してありませんでした。幸いなことに、私を苦しめることは何もないのです。反対に、私が主張した全てのことは神の栄光と私の魂の益のために役立ったと思っております。」(23)

マドレ・ピラールが、統治上の困難を、修道会創立の際に起こった様々な出来事と同様に神の摂理と捉えたならば、あのような柔軟性に欠けた態度は取らなかっただろうか。

べレス師の介入

秋には、マドリードの修道院でべレス師による会憲の説明が始まった。「週に三回べレス師が会則を説明して下さいます。素晴らしいお話しです。今は会憲を準備していらっしゃいます。」と、マドレ・サグラド・コラソンは姉に10月の終わりに書いている。(24)マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは『年代記』に、「神父様は本当に良くして下さる。定期的にいらしていただくだけではなく、一人のマドレが神父様の会則の説明を書き取っている。後に神父様がこれを注意深く訂正なさる。これによって、現在と未来の会員のために、素晴らしい説明が残されている。説明は書き写され、修練院や第三修練院では時々読まれている・・・。」(25)このようにして、べレス師は、本会における卓越した人物(オルティス・ウルエラ、コタニーリャ、ウラブル…)の列に名を連ねるかのように思われた。「彼の教義は非常に評判が良く、賢明で良い神父であるところから、主なマドレ方が彼を高く評価し始めた。マドレ・ピラールも滞在先のローマからこのことを喜び、修道会内にある全ての不快がうまく導かれるようにベレス師がその助言によって助けてくれると感じて僅かの希望を持ったのであろう。このようにホアン・ホセ・ウラブル師に言ったようである。」(26)と、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。ウラブル師は、マドレ・プリシマへの手紙の中で、べレス師のように学識があり寛大なイエズス会士に出会った幸運の故に聖心侍女修道会にお祝いを述べ、「もし私の間違いでなければ、神の大いなる栄光とあなたがたの善になるに違いありません。既にベレス師に手紙を書き、彼と話したいと望む全ての姉妹の話を熱心に忍耐強く聞くように勧めました。そして、彼が全てを良く知って、機会が来た時により良く忠告することが出来るように、あなた方も、慎み深く謙虚に、必要なことを彼に話すべきです。勿論、常に善意を信じ、本当に良い人達である他の人達を弁護しながら。」(27)マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの語るところによれば、確かにべレス師は会員の話を聴き始めた。具体的に彼女には「大きな心を持つように。狭い心では大きなことをすることは出来ないと言い、彼女は、大きな心を持っていたが、事はどうしようもない状態になっていると思う。神父様もお疲れになれば、私たちを見放されるのではないかと、考えていると答えた。これに対して、べレス師は、彼の言うことを受け入れないようであれば、もう再び私たちと係わらないことを知っていて欲しいと、おっしゃった。」(28)後の事実が示すところによると、べレス師は他の何人かのイエズス会士の疲れを知らぬ忍耐を持っていなかったようである。

「私が計画しているのは、私の辞任です」

修道会統治に関する意見が書かれた何通かの手紙が――実際には、今まで見て来た内容に何か新しいことを加えるものではないが――二人の創立者の間で交わされた後で、11月に、マドレ・サグラド・コラソンは辞任の件を進める時が来たのを感じた。修道会の歩みを導くために総会の時期を早めることを提案した。「総会が開かれるべき最後の年ももう半ばですから [・・・] 、クリスマスに開催することが出来るでしょう。とても重要な幾つかの用件の解決のためにも必要です。総会を誰が司会するのか等の点をはっきりとさせ、参加者を選出する等のために各修道院に知らせなければなりません。」と、22日に、姉宛の手紙で言っている。
返事はすぐに来た。「総会を開催なさりたいとのこと、誰が総会を司会するかについて私の意見を言うようにとのことですが、あなたも、私も、会員全員が一緒になっても、これを決めることは出来ません。決めるのは司教律修者聖省で、総会の結果もそこに行かなければならないのです。考慮しなければならないこのような理由があるのですから、なさることを良くお考え下さい。そうでなければ、この可愛そうな修道会の最後になるでしょう。本会の経済状態が分かれば、私たちから聖体顕示を取り上げ、生活維持のためにお金を得る目的で何か慈善事業をすることが義務付けられるでしょう。 [・・・] あなたは私が申し上げることを一度も聞いては下さいませんでした。聞いて下さったように思えた時には、物事はより悪い状態になりました。[・・・] でも、あなたに助言と光を与える機会を今回も失わないように、既に何回も申し上げたことを繰り返して申します。少なくとも、本会の経済状態をある有能な方に全く明白にお見せすることです。(現在、他の方たちに関しては希望が失われていますので、私はべレス師を考えています。この神父様は関心を持っていらっしゃいます。これは神の非常に特別な恵みです。)ただ、総長職を取っていただきたいと願っていらっしゃるならば、いつものことが起こるでしょう。このことだけをおっしゃるなら、誰もあなたに耳を傾けず、解決にならないのです。」(30)「あなたの推測は当たりました。」とマドレ・サグラド・コラソンは12月2日に書いている。「私が計画しているのは、辞任です。ですから、こちらに来て下さるようにお願いし、嘆願致します。総会ですから、教皇代理が司会をしなければならず、ローマへは何の報告もされません。全てはその場で決まります。このような手段を講じることによって、全てがすぐに治まると思います。[・・・] 正式な資格のある方によって、私には、このような手段を取る権威が与えられています。[・・・] 主な理由を言わずに総会を開くことをあなたが良いとお考えになれば [・・・] 確かに皆喜んで同意するでしょう。もしあなたが反対すれば、マドレ方も反対するでしょう。」(31)
マドレ・ピラールは、辞任の考えを受け入れ始めたように思われる。しかし、総会を開くことには断固として反対した。ウラブル師に相談するために顧問会のメンバーが集まったオニャでの体験の後でも、博学なイエズス会士の指導に従うことによって、全てを解決出来ると考え続けていた。「べレス師の手に、あなたと事柄とを委ねれば、彼が上手に導き、あなたが願っていらっしゃることさえも(もしそれを神がお許しになれば)なさるでしょう。でも、もし総会の開催に固執なさるのなら、私は総会に出席しませんし、ここでも何も致しません。そのようなことは良心にかけて出来ません。これは本当です。」(32)
共同生活に生じたこれ程深い亀裂を解決する力が、べレス師あるいは誰か他の人にあると考えることが出来るのだろうか。マドレ・ピラールの非常に短い手紙にこの望みのむなしさが表れている。「私の愛する妹へ、ラ・コルーニャの人事異動を知りました。心の底から、深い悲しみに満ちて申し上げます。ラ・コルーニャの可愛そうな事業、さらに私たちの全家族にルデシンダ (33) は何をしようというのですか。(他の家の移動も知っていますので。)ああ、崩壊するのを見るのは本当に残念なことです。このような叫びをあげるのをお許し下さい。口から出てしまうのです。そして、神とあなたにだけこのような叫びをあげますが、他の人達にはしたくありません。あなたは秘密を厳重に守られますから。これ以上我慢できません。あなたの姉 マリア・デル・ピラール, E.C.J.」(34)

これが主の十字架でしたら、私から遠ざけたくはありません

この当時、マドレ・サグラド・コラソンはムルサバル師に次のように書いている。

  「神父様もお分かりのように、これは解決出来るものではありません。私は一年半前からこのような不快な状態を経験しております。この状態が修道会内に伝わり、非常に自然的な精神が入りつつあるため、様々な噂話のもつれを解き、苦情や忠告を聞いて毎日を過ごしております。祈りのお陰で、神が私を支えて下さいますので、このような激しい苦しみを乗り越えることが出来ます。でも、誰がこのような悪から救って下さるのでしょうか。これが私たちの主の十字架でしたら、私から遠ざけたくはありません。」(35)

「父よ、出来ることなら・・・しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに・・・。」(マタイ26,39)。「祈りのお陰で」、マドレ・サグラド・コラソンは彼女のオリーブの園における死の苦しみを耐え忍ぶことが出来た。1891年の終わりに、非常に寛大な心で、再び霊操を行った。あの状態が「私たちの主の十字架」であることを真に納得し、力を得て霊操を終わった。イダルゴ師に宛てて書いた霊的報告の中でそのように書いている。

  「どの黙想においても、観想の光に欠けることはありませんでした。しばらく前からこの光は私を離れることなく、霊魂を照らし続けております。[・・・] この光によって、神が私にこれらの苦悩や労苦を(このように呼ぶのは恥ずかしいことですが)お送りになるのは、神が私を特別にお愛し下さるからで、それに対して充分には感謝出来ないであろうし、いつの日か、自分がもっと寛大でなかったことを悔やむ日が来るであろうと悟りました。主をお喜ばせするには、この道場において巨人の足取りで、しかも人目を引かずに、歩み前進して行かなければなりません。侮辱や辱め、誤解などを私の魂の糧とすべきです。キリストもこれらを糧とされましたし、そのように鍛えられた魂の中で、神の純粋な愛で魂を満たされ、親密な一致の中に一体化されるからです。これらは全て、二年前に聖三位が私の魂を所有なさりたいとお望みになった時に心に感じたことの実現のように思われます。しかしその前に、私の魂はキリストの十字架となっていなければならなかったのです。その日のことであったかそれとも他の日だったか覚えていないのですが、この十字架は、英雄的な諸徳によって作られるであろうということが分かりました。既に、全てが成就しつつあるように思われます。」(36)

マドレ・サグラド・コラソンが「英雄的な諸徳」をどのように理解したかは、霊操を終わる際に書かれた決心の中にはっきりと現れている。現実的な聖性、共同生活の些細な事柄、日々の単調な生活の中に受肉した聖性を生きる彼女の望みを、再び実行に移すことである。これらの決心には、「係わる全ての人のうちに神のみ姿を見る」という根本的な一つの願いがあった。この光のもとに、後に来る全てのことを理解していた。「言葉遣いによく注意し、どんなことにも決してあわてて答えないこと・・・穏やかに平和な心で真実を示し、決して感情的にならないこと・・・私に述べてくれた意見に注意を払って、姉妹と話すこと・・・空想に決して重きを置かないこと・・・いつも、言葉で力づけること・・・内的な愛の精神、他の人の外面に表れる短所よりも、長所に注目すること・・・」(37)

  「私は、修道会とその一人ひとりが落ち込んできても、決していっぱいにならない底なしの井戸にならなければならないし、各自のこと、また全体のことを聞く時には、この上なく泰然自若としていなければならない。私を助けて下さる神に信頼し、神が全てを解決して下さることを信じて。この神は、理解しがたい英知と、人間の知恵にはすっかり隠されているが、とりわけ摂理の糸を導く者には見える方法で、いつものように全てを取り計らって下さる。神は私にこのような堅固な徳の実行を求めておられる。そのために、これを実際に生きられる機会に私をお置きになる。」(38)

このような暗闇状態の中で、益々無理解が進み、自分を取り囲む人々があらゆるところで不安を感じていることを知りつつ、マドレ・サグラド・コラソンは、新たな決意をもって彼女の生涯の根本的な奉献を確認した。

  「1892年。永遠の誓い(1月1日、聖体拝領後)
・・・愛すべきみ心の大いなる栄光のために、完全な規則遵守、深い謙遜、および出来る限りの最大の節欲をもって全てを行うことを誓います・・・
愛する母マリアよ。この誓いの証人となり、わが生涯の日々これを忠実に守ることが出来るよう、どうぞ私をお助け下さい。」(39)

「永遠の王、万軍の主へのあらゆる奉仕の道において特に熱心であり、殊勲を立てたいと思う人ならば、その仕事のために自分を捧げるだけではなく、自分の感覚、及び肉体的、世俗的愛と戦いながら、より尊い立派な奉献をし・・・」(40)
あのような状況において、これ以上の奉献は不可能であった。

完全な孤独

マドレ・サグラド・コラソンの一番大きな十字架は完全な孤独であった。総長補佐たちが初めに彼女を見捨てた。後に、修道会で知られていたイエズス会士のほとんど全員が、彼女の行動を非難する義務を意識的に感じるようになった。次の短い幾つかの例が、総長の孤立状態をよく示している。

  「・・・ 善意がないからではなく、判断の際の公正さに欠けているために、私はあなたのやり方を良いと思っておりません。たとえ反対意見が確かさに欠けていない場合でも、あなたの考えを変えるのは容易ではありません。あなたの頑固さのために、修道会は大いに苦しむでしょう。もう既にその結果を経験していると思います。そこにいた時に、あなたが考えるように他の人が考えないことを、誤りであり不和の源であると判断しておられました[・・・] このような取り違えは、もし神がこれを解決なさらないならば、修道会を崩すのに充分です。辛くお感じになると思うので心配なのですが、もう一つ申し上げなければならないことがあります。総長をやめたいと望んでいると錯覚していらっしゃいますが、実際に辞任する望みをいささかも持っていらっしゃらないように見えたのは残念でした。長上であった全ての聖人は、このような職から解かれることを望んだだけではなく、それを願い、うるさいほどに頼みました。あなたにはこのようなことは見られません。ですから、このことだけでも、総長職に向いていないことが分かります。そのように思っていらっしゃらなければですが。」(41)

「私はあなたをよく知っているつもりです。だからこそ、あなたに一番欠けているのは自己認識と謙遜だと分かっています [・・・] 外面的な見せかけのものではなく、心からの本当の謙遜です。神様を騙すことは出来ません。騙そうとする人がいるとすれば、騙されるのは神ではなく、その人です。私がこのようにお話しすることによって、あなたが苦しめられ傷つけられるとすれば、私が正しく事を確信するために、これ以上何も必要ではありません。」(42)

「ご自分については非常に低く評価していただきたいのです。言葉でではなく、心から。そして、反対に、他の人々を高く評価し、姉妹たち皆があなたよりもっと徳があり、より賢明で、神からより多くの光を受けていることをよく理解し、心から確信するのです。神が、顧問としてあなたにお与えになった方たちに対しては、特にそうなさって下さい。」(43)

このような一連の非難には、ホセ・マリア・イバラ師の穏やかな声すら欠けることがなかった。本来賢明で控え目な人からこのような手紙を受け取ることは、マドレ・サグラド・コラソンにとって非常に辛いものであったに違いない。統治上の誤りに関してマドレ・サグラド・コラソンに向けられていた非難を彼が信じたことは、これらの非難がいかに執拗に繰り返されていたかを示している。主としてマドレ・マリア・デ・ラ・クルスを通してモリナ師が形作った意見を、ホセ・マリア師がひとたび信じてからは、マドレ・サグラド・コラソンが彼に打ち明けたことさえ、総長補佐とマドレ・ピラールに向けられた反抗という観点から捉えられた。

  「主においてあなたのことを真にお愛ししていますので、率直に申し上げます。[・・・] ここにいらっしゃった時に、問題点について話そうと思っていましたが、話し始めたところで終わってしまいました。あなたがおいでになる前に、尊敬に価しかつ物事を知る権利のある方たちから [・・・]、現在修道会が以前のようではないことを知らされました [・・・] その人達は、あなたがご自分を高く評価するのがその原因だと言っておられます。これは、修道会が長い間生きたあの素晴らしい調和を崩すのに充分です。[・・・] あなたがここにいらっしゃり、話し始められるとすぐに、その人達から聞いたことが正しかったことが分かりました [・・・] 総長補佐の方々のうちに見出される障害についてお話しになった時に [・・・] 、あなたは彼女たちについて好意的には語られませんでした。ですから、あなたは感情的に話しておられると、私は判断しました・・・そのうえ、思い上がりも少しあるように見受けました。[・・・] この手紙を読んで、他の機会にそして私の前でよくなさるように、『この手紙はここで終わり。これからは私と何の関係もない。』と言って、極端に走らないで下さい。会則に親しみ、会則が示す道を歩んで下さい。天の助けに欠けることがないように、熱心に祈って下さい。そして、結局のところ、通常の必要な支えが不足しないように、顧問の方たちを大切になさって下さい。」(44)

マドレ・サグラド・コラソンを理解し、このような状況にあって彼女を助けることが出来たのは、イダルゴ師であった。彼はマドレ・サグラド・コラソンの良い霊的指導者で、信心深い人物であったが、修道会の様々な問題については知らないのが常であった。「このことについては、霊的指導者には相談致しませんでした。私たちの状況を良く知ろうと何度か試みたのですが、理解するには至りませんでした。と申しますのは、私が質問し、お願いした方たちは、心を開いて話そうとはされなかったからです。」とマドレ・サグラド・コラソンはムルサバル師への手紙に書いている。(45)
皆から見放されたこのような状況の中で、マドレ・サグラド・コラソン に残されたのはムルサバル師の精神的な支えであった。しかしその支えは過度に控え目なものであった。非常に忠実なこのイエズス会士はマドレ・サグラド・コラソンを助ける意向は持っていたが、遠くにいたために、実際にそれは不可能であった。彼の与える慰めもあまりにも霊的すぎて、心と身体を苦しみと不信頼で刺し貫かれていたマドレ・サグラド・コラソンを励ますことは出来なかった。

  「マドレ、どのような忠告を差し上げたら良いのか分かりません。忠告が浮かんで来ないのです。私が申し上げることは全て、私よりも良くご存知です。神があなたにお送りになるものを、全てにおいて探し、受け入れられますように [・・・] 私たちの主イエス・キリストと共に十字架に付けられるのです。これが全ての完全さの象徴です。このように生きられれば、事はうまく行くでしょう。忠実にここに留まれば留まるほど、良い結果が生まれるのです。」(46)

第3部 第5章 注

(1) 顧問会議事録、1891年1月28日。
(2) サン・ホセ修道院の日誌、28-30ページ。
(3) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダの手紙、1891年4月17日。
(4) 1891年4月18日の手紙。
(5) マドレ・サグラド・コラソンのマリア・デル・カルメンの宛の手紙、1891年4月24日。
(6) 1891年5月8日の手紙。
(7) マドレ・サグラド・コラソンのマドレ・マリア・デル・カルメン宛の手紙、1891年5月25日。
(8) 1891年 1月1日の手紙。
(9) 1891 年8月24-25日の手紙。
(10) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史、I、89ページ。
(11) マリア・デル・カルメン・アランダ、サン・ホセ修道院の予備日誌 53ページ。
(12) 同上、54ページ。
(13) 学校日誌、27ページ。
(14) マドレ・サグラド・コラソンの歴史、I、204-205ページ。
(15) 1891年9月終わりの手紙。
(16) 同上。
(17) 1891 年9月28日。
(18) 1891年8月20日頃書かれた手紙。
(19) 1891 年8月24日の手紙。
(20) マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙、1891 年9月9日。
(21) 年代記、I、309-310ページ。
(22) 同上。
(23) マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙、1891年10月6日。
(24) 1891年10月28日の手紙。
(25) 年代記、I、333-34ページ。
(26) 同上、I 、396-97ページ。
(27) マリア・デ・ラ・クルスの手紙に写しが見られる。年代記、I、397-98ページ。
(28) 年代記、I、339ページ。
(29) “junta” あるいは“Congregación General”という言葉は、いずれも総会(Capítulo General)を意味していた。会憲によれば、総会は修道会において5年ごとに定期的に開かれるはずであった。
(30) 1891年11月28日の手紙。
(31) 1891年12月2日の手紙。
(32) 1891年12月8日の手紙。
(33) “Rudesinda”はマドレ・サグラド・コラソンの洗礼名の一つで、マドレ・ピラールの洗礼名の一つがLeandraであったのと同様である。二人はこれらの名前を時にニックネームとして親密な手紙の中で用いていた。
(34) 1891 年12月14日。
(35) 1891 年11月14日。
(36) 1891 年11月終わりに書かれたイダルゴ師への報告(霊的手記 20)
(37) 霊的手記 21
(38) 霊的手記 12。日付が記されていないが、多分同時代のものである。
(39) 霊的手記 23。
(40) ロヨラのイグナチオ、霊操 [97]。
(41) フェルナンド・セルメニョ師、1891年10月26日。
(42) マヌエル・モリナ師、1892 年1月14日。
(43) マヌエル・モリナ師、1892年1月20日。
(44) ホセ・マリア・イバラ師のマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙、1892年1月7日。
(45) 1891年8月31日の手紙。
(46) 1892年1月9日の手紙。