第3部 第1章 終生誓願宣立の背景にあった雰囲気

新たな段階の背景

1887年から1893年までの間に修道会内に起こった事柄を分析して見ると、あれ程目立った葛藤の最中にあって、非常に豊かな命が会の中に発展していったのは不可能のように見えると結論せざるを得ない。マドレ・サグラド・コラソンが総長職にあった間に、マドリードの中心に一軒の修道院が開設された。その間、会の創立当初にセフェリノ師との間にあったのとほとんど同じくらい深刻な争議が、教区の司教との間にあった。創立者姉妹の大きな努力の結果、ラ・コルーニャに最初の寄宿学校が創立された。二人の個人的な相違にもかかわらず新しい事業は進展した。カディスにも新しい修道院が開設された。そして何よりも、マドレ・サグラド・コラソンは、その最大の望みの一つであったローマにおける創立をも達成した。
さらに顕著な出来事があった。創立者と最初の仲間たちが会において終生誓願を立てたことであった。後に、この出来事に伴う困難を見ることになろう。その最たるものはポラス姉妹が住居を異にすることになったということである。修道会に入会し、初誓願、そして、有期誓願を立てる聖心侍女が大いに増えた。マドレ・サグラド・コラソンが特別に霊的成熟の域に達していることが、その豊かな勧めのうちに開花していく。そして、総長として、全ての家を廻り、種を蒔き、励まし、諭していった。
疑いもなく、これらの年月においてもその後も、彼女が神のためになし得る「最も大きな業」は、神のみ旨に全てを委ねることであった。(1) この神の望みは、彼女が探していたのではない状況に彼女を置いていた。総長職を、そして困難を望んだのでもなかった。神のみ旨に任せることは、神がその業をなされるがままにすることである。しかし、それはまた、み旨に従うことでもある。神は彼女を総長にすることを望まれ、彼女は全身全霊をあげて会の統治に献身した。しかし、神は困難を望まれるのではない。ただ、各人の個人的反応を尊重しながら、それを許されるのである。マドレ・サグラド・コラソンは皆の心の一致を保ち、それが破壊されたところでは、回復するよう、努力を惜しまなかった。「一致のないところに神はおられない」からである。(2) キリストのために苦しむ決意が出来ていたが、十字架に対する愛にもまして、皆の心の一致を望むのであった。彼女を置いては、絆を生み出し、共同体を作り、宇宙的な愛の力のうちに盲目的に信頼する覚悟のある人物を見出すのは難しいだろう。躓きの石ではなく、神が彼女を選ばれた時に望まれたような一致のしるしとなる、そのような、幸福で姉妹的な共同生活のために万策尽きた時、彼女は、愛が受容以外の何物も要求しない辱めと忘却とを受け入れたのであった。

マドレ・ピラールにとって不本意であった選挙の不都合は、すぐに現れてきた。妹の統治の全ての決定に対して、創立者の姉は、自分の否定的な態度の影響を十分意識した上で、妹の決定にことごとく反対したと言えよう。財政面および管理面における彼女の展望は、ことごとくマドレ・サグラド・コラソンのそれとは対立していた。しかし、もし財力が会の生命に影響を及ぼさなかったとすれば、敵意を生み出すだけに留まらなかったであろう。マドレ・ピラールは、事を大げさに見なし、会が倒産の一歩手前にあると考え、それは妹の責任であると思っていた。彼女の全ての批判がこの面に向けられていたが、会の将来に対する深刻な予感への警告を発することで正当化されると感じていた。しかしながら、最大の経済的困難は、落ち着きと、一致を保つための責任感があれば、避けられたことであろう。(3) しかしマドレ・ピラールはこの時には落ち着いて考えることが出来なかった――ひどい個人的な危機を通過していたので――。それで 自分の評価を正しいと思い込み、他人の立場を擁護することは考えられなかった。もし経済的な心配がなかったとしても、マドレ・ピラールは、おそらく会の統治の任にあった他のどの会員に対するよりも自分を苦しめるもととなった敵対心の根拠として、他の困難を見出していたことであろう。
マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンのように心の底から会を愛していた。会は二人の骨折りと苦難と愛の結実であった。本能的な反応によって無意識のうちにではあったが、彼女は、個人的な責任感を反抗と混合し、自分自身の考えを執拗に守りながら、会の善のために行動していると思っていた。このように、自己の考え方に閉じこもり、妹に反対することによって――どんなに苦しくても――会の善のために自分は賞賛に値する道を進んでいると思うようになった。彼女の手紙と個人的な手記を読んでも、彼女の盲目さと責任感の境界を定めるのは難しい。彼女は、自分がマドレ・サグラド・コラソンに与えたのと同様な苦しみを自分の身に経験するまでは、この混乱から自由になることは出来なかった。
しかし単純な判断を下すことは避けなければならない。マドレ・ピラールの言動を正当化しようとするのも道理に合わないことであり、またここ数年間の彼女の中に、かたくなで、激しい、理解力に欠けた頑固な人を見るのも正しくはないであろう。彼女は強い感情と闘う女性であった。しかし寛容な努力と切り離すことは出来なかった。もしそう考えないならば、総長選挙が終るや否やマドレ・ピラールは会のために総長の終身制を獲得するように努力したことが理解出来なくなる。それは妹の統治における確立を考えていたからであろう。(4) 当時、自分の内的戦いにおいて、彼女は勝利よりも敗北、光よりも闇の中を歩んでいた。しかし完全な闇の中にあったわけではなかった。勝利もあった。妹宛の手紙に総長に任命されたことを述べ、励ましている。「・・・ 全ては神からのことです。私たちは皆喜んでいますし、お助けしようと思っています。あなたがご自分でその荷を選んだわけでもなく、一人で担わなければならないわけでもありません。びくびくなさらず、内的外的な全ての困難に打ち勝ち、その中を水の上のコルク板に乗って泳いでいるかのようになさって下さい。」(5) その少し前に彼女はウラブル師からの手紙を受け取っていた。「・・・ 任命は神からのものです。神のより大いなる栄光と会の善のためになることを望みます。」(6)
この基本的な確信――二人の創立者姉妹に於いて度合いは異なるが、超自然的な信仰と人間的条件の上に立てられている――の上に立って、会は新たな歩み、困難な歩みを始めたのである。
彼女の寛大な反応にもかかわらず、マドレ・ピラールにとっては、従うことだけでなく、妹のいろいろな問題に対しての導きに協力するのは辛かった。
マドレ・サグラド・コラソンにとっては、深い信仰と寛大さと、平和を求め、神のみ旨に全てを捧げるという固い決意にもかかわらず、殆んどいつも反対する姉妹を顧問として持ちつつ会を統治していくことは、ひどい苦しみだったに違いない!

選挙の後

総会が終るや否や、マラガとグラナダのような町に創立する可能性が持ち出された。マドレ・サグラド・コラソンが総長顧問らにそれを提案すると、すぐにマドレ・ピラールから否定的な返事を受けた。「今私たちが創立するのを神がお喜びになるとは思いません。人員も方法も足りないだけでなく、特にコルドバのような家を助けるのは不可能です。[・・・] また会則の完全な遵守のために必要なエルマナスを見つけるのは難しいでしょう。二年間静かにしているほうが霊的にも物質的にも発展して行くでしょう。ローマも同様に、主も今は助けて下さらないでしょう。会が非常に必要なこととしている立て直しのために。」(7)
ビトリアの創立にもマドレ・ピラールは似たような理由で反対した。その創立はイダルゴ師が非常に熱心にその話を持ち出し、それが容易に進むようにしたのである。このような問題のために何と悪い保護者が付いたことだろう。このイエズス会士は商談には機転が利かないとマドレ・ピラールは思ったからであった。その上、彼がマドレ・サグラド・コラソンの霊的指導者であるということで、彼についてのこの二人の意見に対する確信が強められた。(8)

7月20日に総長はアンダルシアの各家の訪問のためにマドリードを出発した。この旅行はマドレ・ピラールにとって非常に不愉快だった。その数日前に、あることに夢中で反対した時に自分の盲目を認めたのであったが――「私のように情熱的な性質を持っている者は、望まなくても盲目になるのです。」(9) ――しかし、妹がその訪問を知らせた時に、全ての決心を忘れ、妹に反対意見を述べた。「あなたがいらっしゃるなら、あなた自身の家に来られるのです。けれども私はそれをお願いしません。それにはいつも憶測と陰口が飛びますから。あなたがご存知のように、そこから私たちは潜心を守らないと言われます。特に会の発展を妨げることはどんなことでも避けなければなりませんが、役に立たない、あるいは妨げとなり得る行為には注意を払わなければなりません。私たちの旅、特に人々に注目されている私たちの外出は、熟慮の上でなければなりません。即ち、重要な目的を持ったものでなければなりません。目的もなく列車で旅をすることは軽率だということになります。」(10) 事実、マドレ・サグラド・コラソンが旅行を計画した時はいつも、マドレ・ピラールには稀にしかそれが十分な理由があるとは思われなかった。
マドレ・サグラド・コラソンは、顧問たちにこの状況を説明することを自分の務めと考えた。彼女は7月28日にヘレスからマドレ・プリシマに書いている。「マドレ[マドレ・ピラール]の状態は最悪です。あなたが想像出来るような状態で私を迎え、いまだにマドリードにいた時と殆んど同じような振る舞いです。(11) ・・・ この状態は終わらせなければなりません。このまま続けることは出来ません。これをあなたに平和な心で申し上げます。この方の益と会の善のために、この方かあなたに任務が与えられれば、彼女は治ると思います。それが彼女の望むことであり、他の人がなるのを望みません。私の考えはもうお分かりでしょう。この状態を終わらせなければ、何か大きなトラブルが起こるのは目に見えています。サン・ハビエルとご相談なさって下さい。このことについて祈り、あなたのお考えをおっしゃって下さい。[・・・] マリア・デ・ラ・クルスにも相談いたします。繰り返して申し上げます。深刻な問題です。私と彼女とは能力の点で非常に違っていますから、ある点で皆が私に対してこのように振舞うのには理由があります。」マドレ・プリシマは折り返しマドレ・サグラド・コラソンに返事を書いた。「・・・ そのマドレにつきあなたが言っておられることについて、任命の日にあなたに申し上げたことを申します。神様がお呼びになったのはあなただと思います。」(12) 他の二人の顧問たちも再確認の手紙を書いている。「… 大変残念ですが心配は致しません。大きな恵みの後に苦悩が来るのは当然だからです・・・。」マドレ・マリア・デ・ラ・クルス は困難の説明として、悪魔のせい (彼女は度々この考えを使っているが) にせず、神のご計画に帰している。「・・・ 私たちの敵よりも、私たちを非常に愛して下さる方が、私たちがその許に行くようにして下さるのです。」(13) 今回、サン・ハビエルは、その問題を本当に理解することが出来た。「マドレ・プリシマは選挙の日までの出来事、また、今へレスで起こっていること、そして、あなたが提案なさったことについて、話してくれました。私は神のみ前で熟考した結果、[・・・] 全ては神が、会の全体的な善のためになさったとしか申せません・・・。」(14)
マドレ・サグラド・コラソンのへレス訪問の間に何が実際に起こったのであろうか。もし彼女が辞任の申し出について真面目に考えることを強要されたなら、総長は重要な問題に直面したに違いないと思われるだろう。しかし、事件の最悪の部分は、まさにマドレ・ピラールが妹の訪問を良く受けなかったことに対して挙げられた理由のくだらなさにあった。彼女の態度はそれまでの何年かと同じであった。しかし今はもっと公然と表現された。ちょうど修道会総会において行われた選挙の後、一人ひとりの適性が明確に限定されねばならなかったように。会憲は修道院への訪問を総長の義務の一つとしてあげている。マドレ・ピラールがマドレ・サグラド・コラソンの動向に難しさを設けることは、その認可のために非常に苦労したその会憲に反することを無意識にしていたのである。彼女の激しい反応と無作法な返事と表面に現れている内心の不愉快さとを共同体に説明するのは難しかった。これは事実である。しかし、二人の姉妹の関係に生来備わっている親しさを考慮に入れれば、姉の感情の噴出のひどさも幾らか差し引いて考えられても良いかもしれない。
マドレ・ピラールの態度を憂い、それに傷ついたマドレ・サグラド・コラソンは8月6日にマドリードに帰って来た。顧問たちの勧め、即ち選出された任務に留まるようにとの勧めを受け入れ、それにも増してイダルゴ師の勧めを受け入れるべきであった。数日後何もなかったかのように姉に共同体が移ることの出来る家を探すためにビルバオに行くようにと強く頼んで書いている。マドレ・ピラールがこのような用件にはもっとよく通じていると思ったので頼んだ。疑いもなくそう信じていた。しかしこの役割を頼むことによって、姉との和解が総長顧問会の平和と、顧問たちの姉妹的生活を通して会全体の一致を保つことが出来ると思ったからである。その頃、各共同体ではこの問題とは全く無関係であった。
こういう種類の仕事はマドレ・ピラールの積極的な性格にはもってこいであったのに、彼女は旅行を延ばし延ばしにしていた。全然急ごうともしなかった。マドレ・サグラド・コラソンは、その家の院長であるマドレ・マリア・デル・サルバドールの催促に強いられて8月の下旬にその用件を整理するためにビルバオに旅立った。「私が来たことを不愉快に思わないで下さい。必要でしたから――彼女は姉に書いている――いつもあなたが不愉快でいらっしゃるのを主は喜んでおられないと思います。」(15) マドレ・ピラールはへレスの家のために特別に多忙であった時に旅行の知らせを受けた。共同体はスイス人のプロテスタントの女性がカトリックに改宗するために準備をしているところだった。丁度その受洗の直前で大きな家庭的な祝いを準備していたので院長が不在になることは出来なかった。マドレ・サグラド・コラソンはスイス人の受洗のことに言及している手紙の中で、姉に一致するように穏やかに呼びかけている。「ウラブル師は9月の半ばまで来られないということです。そして彼女が受洗すれば、マドリードにいらした時と同様に、どこへと言わずに来られればよいと思います。そしてここにいらして師にお目にかかり、同時にこの問題を解決なされば良いと思います。私一人でしたいとは思いませんし、そのままにしておくことも出来ません。」
平和を得るためにそれ以上のことは出来なかった。マドレ・ピラールを待つ間、総長はいろいろなことをした。何軒かの家を見、それについての意見を求め、長短を検討した。そういうことがよく分かる全ての人たちにとって一つの家が最も良いと思われた。しかし借家ではなく売り家である。マドレは土地を見積もり、妥当な金額の可能性を試してみた。勿論このことを補佐に相談した。彼女らが反対するとすぐにそのことを断念した。
そうこうしているうちに、マドレ・ピラールは妹が家を借りることを考えているのを耳にすると、その時まで急を要していた全ての事を置いて、ビルバオに行く途中マドリードに立ち寄った。マドレ・サグラド・コラソンは彼女に全ての権力を与えてサラゴサに向けてマドリードを発った。マドリードの修道院の日誌は会の一般的な事柄を記しているが、この総長の来院を記している。「サラゴサにお着きになった時に大喜びでした。12日の夜の11時でしたが、駅で修院付き司祭がそのお母様と共に待っておられ、馬車に乗せて家まで連れて来て下さいました。夜遅かったのにシスターズは皆起きておられマドレのお着きをとても喜びました。この家の霊的状態は非常に良好でした。シスターズは規則遵守に努め、働き者で、その家のいろいろな不都合を極端に忍んでいました。」(16) マドレ・サグラド・コラソンは多くの不都合を出来るだけ癒そうとし、特に困難に際して挫けないように勇気づけた。
9月21日、総長はマドリードに帰って来た。修院の初めての訪問のまとめとして会員の熱心さ、度々英雄的な程の熱心な精神に満足し、同時に物質的に非常に不足している事は心配の種であった。しかし全てに超えて将来の統治の問題が不確かなのには心が重かった。大きな困難も皆が一致しているならば、打ち勝つことが出来たであろう。「・・・ 主が私たちと共にいて下さいますから、望むように事が運ぶでしょう。」と数年前には言っていた。今、一致についてそう言えるだろうか?彼女にとっては少なくとも、そうは言えなかった。その年の夏、旅行の混乱と姉の仄めかしによる不愉快さの中でマドレ・サグラド・コラソンはイダルゴ師にちょっとしたショックについて話している。この師の答えは、神のみ旨への信頼にみちた道を走るようにとの励ましであった。「その誘惑はあなたの自愛心によるのです。会を統治するのに神は才能とか人間的素質を必要とされると思っていますか?神は大きな業のために愚かな者を選ばれるのです。ですから神に素直になり、神の前に透明な良心を持って、謙虚に願い求め、その恵みと助けに信頼して前進しなさい、神は全能ですから・・・。」(17) 二日後に彼女は返事をしている。「師は私の傷に手をお触れになりました。全ての戦いは自愛心に基づいています。失敗したくないからです。それがなすべきことよりも心を占領しています。私が治るのは難しく見えますが、始めましょう。その他のことは主に信頼しましょう。」
マドレ・サグラド・コラソンの素晴らしい謙遜!自分の限界を実際に知れば知るほど、もっと謙遜になる。謙遜はその上、常に愛に向けられ、心の一致を得るために臆せずに働く。もしマドレ・ピラールが、神が望まれる同じ透明さを持って物事を見、特に神が心の一致だけを望んでおられることを知ったならば・・・。
マドレ・サグラド・コラソンのイダルゴ師に宛てた手紙は、戦いの最中にあってもユーモアを失わないことを表す小さな事柄で終っている。「八回か十回“総長”と署名しました。もう自分に打ち克つことを始めました。」(18)

新しい創立の計画

11月にマドレ・ピラールはカタルーニャにいた。マドレ・サグラド・コラソンはマンレサに於ける一つの創立を扱うように彼女を送り、いろいろ試みて見たが実現はしなかった。それにもかかわらず、タラゴナで司教代理をしていたコルドバ教区の昔の司教代理のホアン・コメス師と再び関わり持つ機会となった。特にマドレ・ピラールがその特質を発揮する良い機会であった。二人の姉妹のこの期間における文通には無理解の問題は現れていない。
1888年に会の総長統治に既にあった困難に新しい問題が加わった。よく考えれば創立者姉妹が計画を実現に運んで行くために十分な霊的沈黙を守っていたことは特別なことであった。特にそれはマドレ・サグラド・コラソンにおいては感嘆すべきことであった。彼女に最も近い者から来る反対に拘束されていれば、その働きが止まってしまうのが当然であろう。彼女は常に姉の反対の態度に出会っていたのに、総長として行動することを一瞬も止めなかった。神のみが、どんな努力をしたかをご存知である。
1月11日に長い間暖めてきた問題を提案した。それはマドリードの中心に家を創立することであった。それを始めるためには不動産購入とか、有益な支払い方法を考えるとかお金が足りるかどうかを心配するとか・・・。普通の状態においても多くの困難が伴う筈。総長顧問の全てのメンバーの熱意が基本的には必要なのに、それがなければ決定するのは難しかった。
それを提案する前にマドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールの反対をはっきり予想していた。その時が来るとマドレ・ピラールは「その問題には全然賛成出来ない。会に深刻な害をもたらすと思う。」と言って多くの理由を提示した。マドレ・プリシマはマドレ・ピラールが多くの人の意見に従うようにと、彼女の意見を退けた。しかしマドレ・ピラールは、「その問題をよく分かる人が確認しなければ聖座が命じたことに反対すると言って譲らなかった。」(19) 聖座のことを持ちだしたのは、その頃マドレ・ピラールは会の経済が、絶えず経常費が危険な状態にあり、通常の財産管理にそぐわないという疑いがあったからである。(例えば修練女の財産を充てるとか、危険な借金を負いこむとか)それら全ては可能である、しかし勿論、即刻にでも確実にでもなく、マドレ・ピラールには避けることの出来ないものとして提示された。その上、既に始められていたのである。
1月11日の集まりは、提案された問題についてのちゃんとした投票がなされないままに終わった。しかしそれに続く議事録には、はっきりと言及されている。「2月に度々総長とその顧問らは、次の用件について扱い、以下のように決めた。1.既に投票されたマドリードの創立は放棄しないこと。また、ヒホンで家を手に入れることが出来るのか、適当ならばそこに創立するために調べに行くこと・・・。」(20)
マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、その年代記の中で、自分はその創立に賛成であるが、経済的手段に欠けているから今ではなく、と書いている。(21) このことは、その問題について1月11日の議事録に書いてある暗黙の支持に反するように思われる。いろいろな形での不一致があり、そのどれにも総長顧問の中の誰かの考え方の気まぐれさが見られる。(マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはマドレ・ピラールが強硬に述べた理由に影響されたのであろうか?その集まりでマドレ・サグラド・コラソンに反対する勇気がなかったのか?それとも総長秘書は議事録に全ての意見を忠実に記録しなかったのかも知れない。)
「私は主が良い方法を示して下さるようにと望んでいます。そしてそうお願いしました。それが得られるためには私の全てをお献げします。このような意見の相違、しかし主がそうなさらない時にはその理由があるのでしょう。これを心配の種とはしません。それよりも非難とこの問題について私に言われることを、私の十字架がもっと重くなることとして取ります。」とこの頃マドレ・ピラールは妹に書いている。(22) この言葉の内容はマドレ・ピラールが立てた二人の間を隔てた無理解の壁を壊すのが難しいことを示している。彼女自身の言葉によれば、考え方の相違は今に始まったことではない。しかし会憲によって作られている統治によって今はもっと鋭く現れていた。「神様は状況を変えられました。私はあなたの様には見ません。(そして結果のない研究)やくだらない口論をするつもりはありません。どうしたら良いのでしょうか?私には出来るだけ私を隠すことしか出来ません。私は地下に埋もれたい、苦しまないためではなく、神の恵みによって、苦しむためには私の心の準備は出来ています。そうではなく、誰をも苦しませないために・・・。」(23)
マドレ・ピラールが自分の考えに閉じこもっていたのは実に驚くべきことである。彼女の姿勢がどんなに頑固であるか、その誤りの限度をはっきりと決めることは出来ないであろう。この頃彼女の見方の主観的傾向は、はたから受ける良い勧めの意向を根本から曲がってとるようになっていた。「マドレ(総長)には、もし相談されたら、はっきりと単純にあなたの考えを述べなさい。それ以外には観察をしに彼女の所に行く必要はありません。」これはマドレ・ピラールにウラブル師が勧めたことである。(24) 疑いもなく何でも自分の意見を言い、自分が総長であるかのような印象を与えたのであろう。しかしこのような勧めから(“出来るだけ隠れるように”)という引きこもる結論を導き出したと言える。
1月の総長補佐との集まりと、その前のマドレ・ピラールの言葉はマドレ・サグラド・コラソンを非常に苦しめたので総長職の辞任を再び申し出た程であった。顧問らの誰もこの対策を実現可能とは思わなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの一つの手紙が統治の問題への無知と同じ位に総長支持の感情を豊かに表現している。彼女に総長顧問らが定められる以前と同じに行動するようにと提案している。即ちマドレ・ピラールと全てを相談するだけでなく、彼女に対して財産管理について、ある自治を与えるように「あなたが会と神の栄光のために、ご自身を犠牲になさる心構えが出来ておられるのを知りながら、またサレジオの聖フランシスコが言われたように“偉い人に真実をはっきり言ってくれる人はない”ということを考慮しながら私としては、もしあなたが認可の以前のようにマドレ・ピラールの勧めによって命令なさり、彼女に物質的なことについて少しの自由を与えれば平和があり、会は何も失うことはないでしょう。それはあの時のように舵はあなたが取っているのですし、お二人でなさればうまく行くと思います。その反対にあなたが放棄なさり、その一歩を踏み出されれば大きな躓きとなり、全ての善い方々から悪く解釈され、会は倒れるでしょう。それは十分な理由によってです。なぜなら、ずっと正しくその任務を果たしていた院長が、今、教会法に従って任命され、定められた期間さえもその任務を続けることが出来ないならば、これは大変みっともない事です。[・・・] その上、誰が新しい選挙に同意するでしょうか?[・・・] これら全ての事を、もっとゆっくりご覧になり、どうすれば一番良いかお考え下さい。会を初期のようにするか、マドレ・ピラールの意見に少し従って以前のように続けるか、そして会が出来るために困難があったように、いつも会の将来をご覧になって下さい・・・。」(25) 法的に言えば、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはでたらめな解決法を述べている。―― 総長の権威の唯一の性質と顧問らの役目を地に落とすことになるのである。―― しかし実際には同じマドレ・マリア・デ・ラ・クルスが言っているように、この十年間会が歩んで来た道であった。しかしマドレ・サグラド・コラソンにはこの解決法を良いとは思えなかったし、不快に感じるのは当然であった。

「私たちが教育に当たるのを神が良いと思われるように」

マドレ・サグラド・コラソンがアンダルシアから帰ると、上述の顧問会があった。そして既に決めたマドリードの創立と、家がみつかったかどうかを見るためにヒホンへ行くことを止めないようにということで意見が一致した。マドレ・マリア・デル・カルメンは、実際には投票しなかったが、(26) 「黙認され」とその年代記に書いてある。(27)
3月の上旬にスペインの北に創立することを決定した。(28) 「・・・ 総長と顧問たちはヒホンで家が手に入ったかどうか、そこに創立することが適当かどうかを見るために行くことに決めた。そのためにマドレ・ピラールが他の一人のエルマナとその町を見、エスクエラとして人々を引きつけ、援助があるかどうかを見るために行くことになった。というのは、エルマナスは持参金を持って来たが、その生活を支えることしか出来なかったからである。」(29)
さしあたり、統治における緊張はいくらか和らいだ。3月の半ばに。マドレ・ピラールは一人のエルマナと共に、その役目を果たすために出かけた。ヒホンへ行くつもりであったが、修道会の中でその助言が大変高く評価されていた二人のイエズス会士、ウラブル師とビセンテ・ゴメス師の居住する町バリャドリードに立ち寄った。マドレ・ピラールは自分の霊的なことについてウラブル師と話したかったが、ゴメス師の方がこの度の創立の交渉を進行させるのにより効果的であろうと思った。マドレ・ピラールはヒホンでこれを計画し、今までの修道院と同じような構造の家を考えていた。しかし計画はかなり変わり、種々の事情によってラ・コルーニャに最初の全寮制学校が創立されることになった。創立者姉妹が、引き裂かれるような内的な戦いにあったその時期に、それとは逆説的に、修道会にそれまで存在していたものよりも大規模な使徒職の要請に開かれたタイプの共同体が設立されようとしていた。
バリャドリードにおいて、ゴメス師との話し合いでマドレ・ピラールは、創立に最も適した場所としてラ・コルーニャを選ぶことに傾いた。町に着くともう何の疑いもなかった。もう一人のイエズス会士、イグナシオ・サントス師は、北スペインの他のどこよりも、この町を望ましくさせる全ての条件をマドレ・ピラールに知らせた。住民の数によって確かに重要な町で、その新しい地域には修道院がないこと、堅固なキリスト教的教育が緊急に必要であること、特に富裕な階級にそれを感じるなど。マドレ・ピラールは感動に震える一通の手紙でマドレ・サグラド・コラソンに、これらの理由を直ちに伝えた。「短期間に知ることの出来たことを今申し上げます。あなたはそれを神にお任せして私にお答え下さい。それは修道会に身を捧げているので私だけが行うことではありません・・・。」(30) マドレ・ピラールは会の精神の中にあっても、その使徒的活動の領域がかなり拡げられる一つの事業を提案していることを知っていた。それでその計画は単に彼女だけのものではなく、妹と総長顧問らの賛成が不可欠だということも分かっていた。この土台に立って、単なる宗教教育に限定されず、またある社会層のためだけに限られない教育事業の良い機会であると後に説明していた。
その手紙のある部分は特に表現が豊かである。

「もしこれが出来れば本当に必要に迫られながらも、その手段がないこれらの人々のためになり、神の栄誉と光栄になるのは確かだと思います。[・・・] 冷淡で無関心なこの町が回心するかも知れないとは誰が知っているでしょうか。」
「この称賛に値する町の必要性を充たさないのは同情に堪えません。それはもし聖イグナチオが生きてここに来られれば、きっと必要であることを理解されるでしょう。[・・・] イエズス会のために有益であると思われなくても、それらの人々の為に働き、神の栄誉と栄光になるだけでも、イエズス会のため非常に益をもたらす所から引き抜いてでも司祭を連れてくることが出来るでしょう・・・。」
「・・・ この町はカディスに非常に似ています。教育の会がここに、どうして殺到しなかったのかと驚いています。ガリシアの守護者が聖体であるので私たちのために取っておかれたのでしょうか?」 (31)

マドレ・ピラールが心を奪われる新しい仕事にどんなに乗り出していたかを知ることが出来る。マドリードに居たマドレ・サグラド・コラソンは、企画されている学校が、大きい犠牲と、充たすのが難しい要求のあることが想像出来ても、それと同時にほっと息をついたに違いない。総長はその提案に驚きもせず、また修道会にあまり関係がないと思ったのでもなかった。その学校を創立する良い機会であることを理解しつつ、彼女がその時考えることが出来た全ての結果を含めて、その新しい事業を承諾した。 姉によって自分の提案が退けられたのに、すぐ姉の計画を歓迎したその度量の広さをどんなに称賛してもし過ぎることはないであろう。彼女自身の気性によって、非常に冷静に、熟慮と、きっとあると思える困難の賢明な予測のうちに、落ち着きと喜びをもって心からその計画を承認した。マドレ・ピラールの述べる全ての理由は正当である。しかしマドレ・サグラド・コラソンにとっては正当である以上に、マドレ・ピラールが彼女らしい熱烈さをもって弁護する理由は、彼女に特有のものであることを思いつかない筈はなかった。いつも一致して生活し、かくも深く知るようになっていたあの姉には客観性が力を持つことは全然なかった。
彼女はマドレ・ピラールの手紙に折り返し返事をした。そして数日後、ラ・コルーニャに修道院と学校を創立する確信を深めながら、同時にある心配を仄めかしている。「私たちが教育に従事するのを神が良いと思われるように、そしてご聖体を粗末にしてしまわないように、両立することが出来るように・・・。」(32) と。それは慎重な考察であった。というのは学校そのものには困難が付き物だが、聖心侍女はこの事業には伝統を持たず、その上会の人員が十分でないので聖体礼拝に実際に手ぬかりが生じかねないからである。マドレ・サグラド・コラソンが、もし姉がある計画に反対するのと同じ論法を使おうと思えば、方法も準備もない事業に乗り出すのは正しいとはしなかったであろう。ラ・コルーニャに於ける宗教教育が「他の何にも勝って必要である」が、手段も準備もない事業に乗り出すのは正しくないということが出来たであろう。しかし彼女の基本的な態度は、その論法を知らなかった。直観的に、しかしよく考えた上での決定により、平和を求めた。
前進するための困難は始めから推測された。それは実際的だったが、その創立を言い張るマドレ・ピラールには、その困難をそのまま受け入れる心理状態ではなかった。よく準備された多くの教育修道女が必要だったが、会には確かに余ってはいなかった。二人の創立者の間になされた文通には、その問題の現実性と両人の観点の相違が反映されている。マドレ・ピラールはいつももっと会員を送って来るようにと要求している。マドレ・サグラド・コラソンは出来るだけその望みに譲っている。しかし善意にも限度があり、常に喜ばせることは出来ない。マドレ・ピラールはラ・コルーニャに配分される人員が「全て役に立つわけでもなく十分でもない」(33) と言っている。それには理由がある。しかし他の家では「よいエルマナスを持っているがそれを駄目にするだけだ」(34) と言うのは客観的ではない。
「必要なメンバーを使うことが出来ずに事業を始めることは実に軽率」とマドレ・ピラールは、学校を始めることに伴う多くの困難を日ごとに経験して行くにつれて言っていた。(35) しかし若し最初の熱心さから無経験による過ちを犯したとしても、ラ・コルーニャで経験した多くの困難は、彼女の意志を和らげるためには役に立たなかった。あの事業は彼女の洞察力の実りであった。彼女は、二年前に会の認可の問題を扱うためローマへ行った予期しない旅と同様の無謀さをもって――しかし同様の手際よさをもって――これに着手したのであった。
1888年の春と夏はマドレ・ピラールにとって非常に多忙であった。

終生誓願の準備

ラ・コルーニャの計画に非常な寛大さをもって当たり、その他の共同体の必要にも応じて多忙であった間に、マドレ・サグラド・コラソンは終生誓願の準備をする時が近づいていることを考えていた。この目的で5月に聖イグナチオの霊想をすることを提案した。「霊魂の夏休み」――彼女は8日間の年の黙想をこう呼んでいた――を今年は一ヶ月に延ばそうと思っていた。彼女にとって大きな力を得ることが必要だった。昨年から彼女の生涯にとって重要であるこの大きな経験をしたいと思っていた。しかし修練院の仕事は休むことが出来ないので黙想を止めなければならなかった。その上違う家に引きこもって会の全ての心配事から遠ざかることについてはマドレ・ピラールに相談した。しかしマドレ・ピラールはそれを余り喜ばなかった。(36)
マドリードの修練院のある家で5月1日から霊想に入った。いずれにしても彼女は神との交わりに入るために少しばかりの雰囲気が必要だった。
彼女はその祈りの体験に関することを余り多くは書かなかった。最初の数日は書き始めたが、その後書くのを止めた。私どもに残された書き物は僅かだが、勿論神への奉献と、人々の中での神のみ業の程度に応じて聖イグナチオの言うあの「寛大さ」をもって大きな静けさに入ったことを確認するために十分である。この機会にいつものように彼女の生活を、大きなことではなく、彼女自身の完全な捧げを望まれる主への答えとして向けようと努めた。「私が神のために出来る一番素晴らしいことは、主の聖なるお望みにどんな小さな妨げも置くことなく、私自身を全くお渡しすること」(37) であった。四十年近くもそのように生活して来たし、特に最後の十年間は特別にそのように努めて来た。「最も偉大な業」と、「小さな妨げ」というのが、どのようなものであるかについては深い経験を持っていた。無限に愛されているというのは目的なのだが、被造物としての限界を感じていて、マドレ・サグラド・コラソンは霊想に入り、誠心誠意をもって、聖イグナチオの時から今まで多くの人が、「キリストのために何をしたか?キリストのために何をするか?何をなすべきか?」(38) と問いただして来た事を自分にも問いかけた。
この頃のマドレ・サグラド・コラソンの手記の最初にはこう書かれている。

「1888年5月2日 [・・・] 夜半。臆病な心で、しかし勇気を持って霊想に入った。たとえ一ヶ月中今のように石みたいに硬くても出来るだけ熱心にしようと思っている・・・。」

マドレ・サグラド・コラソンは彼女の生涯の他の時期のように、その自然性の弱さを今感じていた。最近の反対、補佐たちの限界とあいまいさ、そして統治の難しさ、毎日の重荷と多くの仕事の疲れとが、その戦慄と、願うよりも無限に多く与えて下さるが、時には恐ろしい犠牲を要求なさる神のみ前に人間的な動揺を感じていた。恐れの状態は長く続かなかった。

「・・・ 突然イエスのみ心の愛が私の霊魂と体を覆い、・・・ 戦いがどんなに激しくても常に強めて下さると分かった。イエスのみ心のうちに常に慰めと助けと力を一ヶ月中見出すことが出来るという確信があった。私の気落ちは深い平和と、決して疲れず、初めと同じく熱心に終えることが出来るであろうという確かさに変わった。」

彼女はこの数日「激しい頭痛」があったと記している。そしてあるシスターは彼女がいろいろな不調で苦しんだと記している。彼女自身が姉宛の手紙に書いているように、この数年、まだ仕事をしているうちに明け方の時計の音を聞いたというのは度々であった。
また他の機会に言っているように、度々食事をする暇もなかった。しかし善意はそれらの条件を乗り越え、神のみ手に無条件にお委せしている彼女に神は誠実であられた。マドレ・サグラド・コラソンの精神のすみずみまで無限の感謝が満ち満ちていた。忙しい生活を通して受けた多くの恵みだけでなく、巨人の歩みをもって、感ずべき方法で引き上げられ、全人類の一員であることを自覚して人類のために感謝した。

「人間に与えて下さった尊厳について、神に対して深い感謝を覚えた。」(39)

この明るい光の中に、毎日の生活に起こってくる小さなことが、どんなにつまらないものに思えたか、自分の限界、統治の非常な困難 ・・・ しかしそれらは目の前にあった。霊操の第三日に記している。

「ずっと前から恐ろしく苦しんでいる霊の戦いに注目した。不偏心でいることは不可能のように見えた。私の霊魂のためにとても必要だと思っている不偏心が得られなくても、それとよく戦い、もっと良く苦しむことが出来、これから先のために光と力を頂いた。」

常に現実主義者であった彼女は付け加えている。「いつかこの戦いが終るとは考えていない。本当に辛いが、それに確かに負けないと励まされて、祈りを終えた。」
努力の時と、喜びと平和の時が交互にやって来た。そして戦いの最中にあってもその生涯の歩みを導いて下さった神の御手の中にあるとの確信を失わなかった。「・・・ 私の霊魂を訪れて下さるイエスを感じた。」単純な言葉で表された素晴らしい体験、それは彼女にとって、イエスの愛は友情のようなものであることを表している。
霊操の中頃5月13日は、総長に選ばれてから一年が経っていた。姉妹たちはこの日を祝いたいと言った。マドレ・サグラド・コラソンは霊操中でこの任務を受け入れるための努力で最も苦しんいた瞬間であったことを彼女らは想像したであろうか?全然気付かなかったし、彼女の立場を非常に難しくしているその状況も分からなかった。
マドレ・サグラド・コラソンの指導者であったイダルゴ師は、霊操中も彼女を指導していた。そして1周年の祝いに同意した。それはオべリスコ街の家の人々の心を喜びで充たし、皆が幸福で微笑んでいる顔に現れていた。本人にとっては、その記念は当時の苦しみを絶えず思い出させるが、周囲に居た者達の喜びが、苦しみを希望に変えるきっかけになるかも知れないと思われた。数ヶ月前コルドバを訪れた機会にイダルゴ師は「規則の何かを省かなければならなくても、姉妹たちが必要だと思ったら譲るように」と勧めた。「その共同体の会員一人ひとりのために、全てとなりなさい。その望むところを聞き入れ、自分の勧めによって助け、特に規則遵守と忍耐と優しさと柔和の模範となりなさい。」(40)
13日は過ぎた、そしてその次の日々も。5月が終ろうとしており、霊操も終ろうとしていた。マドレ・サグラド・コラソンにとっては彼女の生涯の具体的な状況と関係のない霊的憩いの週はなかった。「イエスは私の霊魂を訪れて」即ちキリストの現存は休みについては語られなかった。「あなたの寛容さによって―― そう言っておられるかのようだった
―― 私はここに居る。あなたの戦いを知らないのではない。私と私の代理者に従うために、どんなに苦しまなければならないかを知っている。」(41)
「主を仰ぎ見て力を得る。多くの力を!」この言葉は姉への手紙の中に出て来る。(42)しかしそれはおそらく観想の日々に起こった事実を現している。彼女の個人的選択――イグナチオ的意味における「選択」、即ち受諾、人生の特定の瞬間に関してそのご意思を表される神の恵みに対する応答――は、その瞬間におけるはっきりした十字架をしっかりと寛大に抱擁するところまで導いた。

「御身の聖なる十字架のもとで、私たちの救い主イエスよ、今日1888年5月26日夜の6時18分に、聖なる御母と聖ヨハネと聖なる婦人たちの前で、任務において御身のみ旨に、考えだけによっても、たとえ誓わなければならなくても反対しないように、善意によって心から御身に約束致します。その上、その任務を果たす上に起こってくる名誉と不名誉の機会を逃げないように致します。私には欠けることのない、あなたの愛と恵みによって果したいと思います。私の霊魂の内における、あなたの恵みの明らかな堤防を今日はっきりと見ます。あなたの、はしたない侍女として、従順によって出来た聖なる御傷を尊敬と愛をもって接吻致します。マリア・デル・サグラド・コラソン。」(43)

それは「自己の状態と和解すること」(44) であった。自己の根本的捧げ物の絶対的な具体化であり、その状況において神のために成し得る「最も偉大な業」であった。

ラ・コルーニャの学校の難しさ

普通の生活に戻ると、統治の仕事と心配とが待ち受けていた。マドレ・サグラド・コラソンは同じような状況にあるマリア・デル・カルメン・アランダに書いた考えを自分に当てはめた。「霊操が済んだら大きな心をもって、神は要求なさることに対して多くの助けと力を下さるから、それに答えることが出来ればあなたは幸いです。」(45) マドリードのその家は彼女の注意を必要としていた。「・・・ 頭痛がしますが、今日あなたに二、三行であっても手紙を書かずに過ごさないように致します。以前には書くことが出来ませんでした。というのは霊操が終ってからずっと、歪んでいたことを直すのに一分も無駄にせずに働きましたので。」家の全ての小さいことについてマドレ・ピラールに手紙を書いている。(46) 手紙の最後に付記として加えている。「あなたは私に誰よりも信頼を持って下さい、悪魔が邪魔をしないように。」意味ありげな忠告である。それは、姉に対する愛情と、会の生活の中での二人の一致の重要性を示していた。それはまた、危機に直面している姉妹としての感情を強めるために新たな力をもって熱心に取り組みたいという望みを明らかに示している。
マドレ・ピラールは学校の創立のための雑用に追われていた。最初の瞬間からラ・コルーニャの必要性は会の他の家よりもずっと大きいことが分かっていた。技術的な準備と、教育事業に全面的に当たらなければならないことである。「・・・ 学校で教える人は他の仕事をすることは出来ないと思います。ただ規則を守るだけで、その他の義務は、もし良くしようと思えば出来ません。[・・・] もしこの義務とそれに付随する仕事に専念していないならば、それを良く果たせないでしょうし、教育に害を及ぼす結果となるでしょう。そして会に良い名をもたらすことが出来なくなるでしょう。会員が大いに必要です。それをよく分かって頂きたい。もしそうでなければ始めない方が良いでしょう。」とマドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに言っている。(47)
これら全ての要求に応えるためには非常な努力を要する。しかし、それが人間的努力の及ぶ範囲で総長は努力した。「・・・ 折り返し、全てにお返事致します。手紙が紛失するようです。あなたが良いとお思いになること、その創立に利益になると思うことをなさって下さい。家を借りる等のこと。会員については望むことをよく決めて下さい。そして、それらの会員についておっしゃって下さる時、送りましょう・・・。」(48)
これ以上寛大な態度はあり得ないし、自分の権限を委任するのにこれ以上は為し得ないと思われる。しかし、それでもなお教育に当たる共同体を作るのは難しかった。会員の中には、教職に当たるのに十分な教育を受けている人は非常に少なかった。彼女らの大部分はクラスの成り行きを見、数日後に生徒に説明する箇所を勉強しなければならなかった。(49) 二人の創立者の間でこの問題を理解していたのは感嘆すべきことであり、彼女らが今までに学校での教育事業の経験がなかったから、なおさらである。マドレ・ピラールがその使徒職の養成に当たっていたのは確かであるが、離れていても自分を忘れて興味を持っていた。マドレ・サグラド・コラソンも、その新しい仕事は会員を学問的にも人間的にももっと良く準備しなければならないことが分かっていた。「教養のあるしっかりした人が入るように神様にお願いなさい。修練院に有用な人が足りないのを見て心配になります。[・・・] せめて音楽と言語を勉強するように [・・・] 励まざるを得ません。」(50) しかし会の召命の使徒的意義を深めることがもっと重要だと思われた。確かに彼女にとっては新しい心配ではなかった。「その悲しみは悪魔からのものであり、乾燥と闇の源です。」と前年、教育者の使命について混乱していた若い修道女に書いている。「神様のお望みに非常に満足しているようになさい。そうすれば平和と喜びが戻って来るでしょう。喜んでいれば何でも好きになり、特に子供たちを生意気な者ではなく、自然にはそうなのですが、非常に尊い者として見、一人ひとりは神の御血によって贖われたものであり、主が創られたものとしてお受けなさい。み心によく祈り、その同じ肢体のように関心を持ちなさい。」(51)
ラ・コルーニャからの最初の頃の手紙は感動的、楽観的であり、マドレ・サグラド・コラソンからの計画が好意的に受け入れられ、修練院にまで伝えられる程の興奮だった。養成期にあった会員たちは教育のために準備しようとの望みを感じた。総長の催促に応えて、或る者はフランス語を、或る者は英語を、他の者はピアノを習い始めた。「マドレ、その創立に関してのこの修練女たちの熱心さは想像がつかない程です」とマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・ピラールに書いている。(52) イエズス会の賛成もあった。ウラブル師の貴重な意見はその創立のために助けとなった。「・・・ 子供たちの教育で神の栄光のために働くためのよく準備された広大な地域が見つかったことを神に大いに感謝しなければなりません・・・。」(53) 「・・・ あなたの良い養成は全ての家庭とその街を少しずつ道徳的に高めるのに有力な要素でしょう。主があなたに神の知恵の塩と徳と健全な実りを与えて下さいますように・・・。」(54) ラ・コルーニャのイエズス会士たちも大喜びだった。その創立を摂理的だと思ったし、(「素晴らしい効果をもたらし、その街の再生が始まるでしょう。」)もっと広大な司牧計画の重要な部分となるだろうと思った。(55)
その頃のマドレ・ピラールの熱意は実に誰をも屈服させる程だった――あるいは、その創立にあれ程大きな興味を持っていなかったならば、彼女自身も――。 十分に知りながら会の最初の学校の場所としてラ・コルーニャを選んだ。その街は信心深くなく、宗教的なことに無知であった。(56) 「不信心でこの世の事に没頭していた。」(57) 「道徳的にも敬虔さにも欠けていた。」(58) ラ・コルーニャの中で最も見捨てられていた場所、修道院が最も必要な場所だった。(59)
共同体を作り、学校を開くには、大きな困難と真の危険もあったが、共同体は悲観しなかった。街には彼女らにひどく反対する敵があった。「あなたを不安にさせないために、夜も昼も分かたず特に私を苦しめることについて、あなたに書きませんでした。」とマドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに書いている。そして彼女独特の込み入った書き方で加えている。「安心して眠れません。ほんのちょっとだけ眠って、度々起きます。というのは三晩、泥棒か悪魔が私たちの休息を妨げました。誰だか分かりません。これは想像ではなく事実で恐ろしい事態です。」(60) 名前は分からないが、彼女らを脅かし、出版物に不名誉になることを聖堂で騒ぎ、遂に生活出来なくなるように一所懸命だった。「・・・ 多分誰かがあなたに言うでしょう。誰もこの人々から逃れることは出来ません。残念ながらこの人たちは私たちの名誉を汚すことになるでしょう。でも今のところそれはありません。この事態を避けるために手が打たれています。」(61)
マドレ・ピラールは彼女の中に深く入っていた考えによって、これらの出来事を「神に帰されるべき光栄の、または悪魔が将来を恐れていることの前兆」と解している。(62) これに対して共同体は機嫌を損ねることがなかったと彼女は言っている。幾人かは夜間の恐怖に健康を損ねることはあったとしても。誰もその仕事を止める誘惑にはかからなかった。

マドリードの中心に創立することと司教との衝突

「マドリードの家について何かお知らせしたでしょうか?素晴らしい家で、広い庭もあります。貸家です。よく手入れしてあり、十八メートルの奥行きのある立派な聖堂が出来ます。街に面して入り口があり、若し望めば漆喰の扉です。イエズス会に近く、サン・ベルナルド街でサント・ドミンゴ広場の側にあります。ご存知のように教会はありません。売り家について話された家はあとで改築して立派になりました。地階は私たちの望むとおりに改築し、そこに聖堂と香部屋と応接間と二つの立派な教室、広い食堂、台所と玄関番の部屋でそれぞれ離れていてよく配置されています。[…] 誰も知りませんが、というのはこれらの改造は気が付かないうちに為されました。何も費用をかけるつもりはありませんし、古い聖堂の物を祭壇も[・・・] 全部持って行くつもりです。青年たちによって隅に置かれていた家具その他は傷んできています・・・。」
前節に言われている消息は、マドレ・サグラド・コラソンが1888年6月6日に姉に書いたものである。マドリードの中心に創立することは、最初バルキリョ街に計画されたが、サン・ベルナルド街19番地の家に具体化された。二人の創立者の間に前もってあまり説明されていないが、それは不思議なことではない、マドレ・ピラールが反対したのは、不動産を探すための交渉を拒んだからである。(63)
この手紙を書いた同じ日に新しい貸家の契約書に署名した。「私はマドリードの家に多く期待しています (64) ――マドレ・サグラド・コラソンは姉に言っている――。今まで殆んど誰も知らなかった修道会を人々が知ることになるでしょうから。」(65) 7月17日に総長は司教に、不在中に教会の統治者によってサン・ベルナルド街に一軒の家を借りて、そこに創立する許可を願っているという事を知らせた。二日後にこの返事を受けたマドレは非常に驚いた。「聖心侍女修道会の母院と修練院の司教訪問がまだ不完全なので、今は許可を与えられない」と。(66)
司教の返事は過去の不快を思い出させた。昨年、司教が教区内の修道院を訪問する時にオベリスコ街の家の訪問をするつもりであった。「聖堂と香部屋を訪問し、共同体の全員に迎えられ、玄関でなすべき歓迎を受け、彼の指示により共同体の広間に移り、・・・ そこで訪問の目的について私たちに話された。禁域生活の修道女と分かっていても、司教にとっては規則遵守も知りたいし、何か矯正しなければならないことがあれば、その対策を施さなければならないから、一人ひとりと別々に話したい・・・。」(67)  最初の訪問では、それ以上にはならなかった。総長と話しながら司教は市の中央に創立するほうが良いと言われ、無償の学校の指導をする或る人を受け入れることに言及された。マドレ・サグラド・コラソンもそのことを聞いたが、人々は皆臨時のことだと思った。
その頃マドレ・ピラールはビルバオから帰って来た――ビルバオで彼女は、共同体が他の所に移る件で忙しくしていた――。司教の訪問が始まっていたことを知ると、「彼女はそれが行われないように司教と親しく話しをしたいとの望みを表した。私たちはそれに該当しないので、私たちの修道院では、それが習慣ではなかったから、司教に理由を説明するためであった。それから、出来るだけ丁寧に、司教と相談の形で、私たちがこの訪問を免除されているかを尋ねた。私たちは常にそう理解していたので。その場合には[・・・] 私たちは司教を信頼し、いつも娘のような愛情を持っているが、この度の訪問は公的なものでなく、父親の訪問のようなものであるから、今後習慣とならないように。しかしもちろん実際私たちにあてはまるので、これ以上何も申し上げることはございません・・・。」(68) しかし、マドレ・ピラールが「相談の形で」非常に丁寧に話したにもかかわらず、司教を怒らせてしまった。しかし、司教は質問者よりもっとすばやく彼女の言わんとするところを理解した。「マドレは出来るだけ司教の怒りを和らげようと努め、事態は当分の間そのままになった。」(69)
マドレ・ピラールのやり方が司教との争いのもととなったのはこれが二度目であった。サンチャ・イ・ヘルバス博士は、建築技師のクバスが聖心侍女との間に引き起こしたいざこざを思い出した。それは彼の側の誤解であった。しかし、他の技師に相談しながら、彼の設計を利用したのは、確かに修道者側に賢明さが欠けていた。この相談はマドレ・サグラド・コラソンによってなされたが、それをせきたてたのはマドレ・ピラールであった。司教の訪問に関する介入についても賢明さに欠けていたが、それは理解できる。というのは、司教たちが自分たちの権限にない事柄に関心を示すことに対する彼女の経験から、彼女はそれを避けたいと思ったからであった。
ともあれ司教は傷ついた。そして十ヶ月後にその出来事を思い出した。(70) 総長は彼の訪問を受ける用意が出来ていると返事した。(71) 司教はマドリードの司教座聖堂の参事会員ホアキン・トレス・アセンシオに委任した。20日にこの人はオベリスコ街の修院に現れ、会憲と、会憲の最終版のために聖省によってなされた「コメント」あるいは所見といった会の全ての公式の文書を要求した。(72)
事の重大性をみてマドレ・サグラド・コラソンは、予定を全てキャンセルした。「・・・ この件は牛の歩みで進んでいますから、落成式には行かれません、たとえ6日であってもだめです。」とマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。(73) それはその年1888年の7月31日に公開するつもりであったビルバオの聖堂のことであった。「私は行けないと思います。事は醜い、とても醜いです。[・・・] 悪魔がここに留まり、皆様と、ラ・コルーニャのお祝いが平和のうちに行われますように。」(74)  マドレ・サグラド・コラソンはこのことについて姉に書いている。「・・・ 私たちの司教様は訪問について短い話をされました。どうしてもするとおっしゃいます。話せば長くて今は時間がありません。ただ私に報せるために参事会員を送られたことだけお知らせします。次の日に彼は公式の手紙を送るつもりでした。でももう6時になるのですが、まだ、誰も参りません。[・・・] 私は参事会員に、いついらしても構いません、そして何でも、会計簿でさえもご覧下さいと申し上げました。それをお願いなさったのですから。[・・・] ご心配なさらないで下さい。聖イグナチオの祝日までには全て終るでしょう。またご連絡します・・・。」これは7月29日の手紙である。二日後、彼女はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。「こちらは変わりありません。でも私たちは、もしこれが正しければ変化をもたらすために、主が教えて下さる全ての賢明な手段を使っております。誰も間違っていないので私はとても平和です。このことが私に、主に対する深い信頼を与えてくれます。他の幾つかの事では、いくらか暗い点があり、それが気落ちさせ、恐れを抱かせます。でも、誰のせいでもありません。この点に関しては、全てのことは正しく運ばれ、私たちを動揺させることは小さな陰さえありません。」聖イグナチオの祝日が来たが、この件は解決されずに続いていた。
その状況を知った時のマドレ・ピラールの反応はかなり平静であった。7月下旬のマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙に次のように書いている。「その問題についての私の意見は、強い嵐が来た時のように黙って逃げる事です。にわか雨は過ぎ去り、静けさが戻ってくるでしょう。[・・・] 今は司教様にこれ以上反対せず、全てを柔和に受け入れることです。そうすれば司教様は譲歩されるでしょう。」むしろ彼女は、司教との会見についての彼女の報告が、司教館で曲解されていた事実に動揺していた。「私は跪いて司教様にお願いしませんでした。それは本当ではありません。訪問なさるのをお断りもしませんでした。ただ、ローマで言われたこと、また、このことから起こりうる害について申し上げました・・・。」
遂に司教は、1888年の8月14日から19日の間に参事官を遣わしてオベリスコ街の家の訪問を行った。彼は「非常に良い報告をしている。」(75)  マドレ・ピラールへの手紙の中でマドレ・プリッシマは書いている。イエズス会の管区長によると、司教は自己の権限内で行動し、以前にも聖心会の修道女たちを訪問したことがあったと。(76) だから、当時、事はあまりはっきりしていなかった、と。(77) マドレ・ピラールは、マドリードの総長と補佐たちが、司教に従ったことを咎めた。「・・・ 訪問においてどのように振舞うべきかを師に相談する代わりに、私だったら、どこまでそれを免除されるかを分かろうとしたことでしょう。[・・・] 私はイエズス会がそのような時にどうするかを説明いたしました。そして、私ならば、命にかけても、同様に行動するでしょう。抵抗を示すのでもなければ、承諾して書類に署名することもしません。たとえ手を折られても […]。というのは人間は行ったり来たりしますが、責任は残ります。」(78) その批判は、前の手紙で彼女がマドリードの会員たちに、「ナイフの前に置かれた肉のように」身を差し出して服従するようにと勧めたこととつり合っていなかった。いすれにせよ、それは重要ではなかった。というのはウラブル師――全会員にとって、特にマドレ・ピラールにとって神託の与え主のような人物――が、この件に関して大いに賢明であるように勧めたからである。「司教の訪問に関してあなたに出来る一番良いことは、マソッティ枢機卿があなたにおっしゃったことを総長様にお話しすることです。そしてもし必要ならば、このケースを明らかにするためローマに依頼することです。もし何か書面で頂くことが出来ればもっと良いと思います。」(79)
創立に対する司教の反対は無くなったので、マドレ・サグラド・コラソンは再び要望を表す請願書を提出した。その頃――9月の上旬――サンチャ師はその教区を留守にしていた。それでその申請は教会の長官であるフェルナンデス・モンタニャ師に提出することになった。「申請を受け、ドン・ホアキン・トレス・アセンシオ師にこの件を委嘱しました。[・・・] その場所を訪問し、彼の意見を報告した後、請願書が戻され、事を推し進めるためです。」(80)
トレス・アセンシオ師は9月15日にその報告書を送ってきた。「依頼された任務を果たすため、昨日の午後、この市のサン・ベルナルド大通り十九番地の家を訪問しました。聖心侍女修道会の共同体のために非常に念入りに準備されていて、聖堂の修理を終了することだけが残っています。その家には多くの良い部屋があり、心地よい中庭と広い庭があります。十分な水があり、日当たりも風通しも良く、共同体の必要のために適しています・・・。」参事会員は司教委員会のいかなる忠告も院長たちが「その場」で受け入れたことに注目した。経験により彼女らは慎重になっていたのだった!参事会員は次の言葉で終っている。「家には20人の会員のために十分なきちんとした部屋があり、20人の外部の人々の黙想をする部屋と、この敬虔な会の目的の一つである、若い生徒たちのための教育のための、よく整えられた教室があります。」こうしたことから、彼はその場所を「計画された創立のための目的によくかなっている場所」と判断した。
教区と会との間にまだ必要な手続きがあったが、9月19日、司教代理は書面による創立許可を与えた。10月8日に最初の会員たちが新しい家に着いた。「この家の創立における聖ヨゼフの特別な保護と、会員のこの聖人に対する愛と信頼に基づき、この家は聖ヨゼフの家と呼ばれることとなった。」(81) 公の祈祷所となる予定の部屋はまだ工事中だったので、会員たちは私的祈祷所を出来るだけ良く準備し、聖体を安置し、ミサが捧げられるようにした。
総長顧問の一人であるマドレ・サン・ハビエルはマドレ・ピラールに書いている。「こちらには可愛い、静かな祈祷所があります。街の騒音は大変ですが、窓が閉まっているので遠くに聞こえ、潜心の助けにさえなります。ガルソン師が毎日ミサを捧げて下さり、聖堂が出来たらそこに告解場が設けられます。[・・・] 神がこの全てを祝福し、全てが神の栄光となりますように・・・。」(82) その祈祷所でミサを捧げる許可は15日に届いた。しかし、司教の許可書には13日となっていた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはラ・コルーニャの院長にも家とオラトリオの落成のことを話している。典礼について詳しく述べた後、その司式をしたムルサバル師の言葉を引用している。「神のために何かする時は、思い切って取り掛かり、成り行きは神に任せるのです。私たちはみ摂理という財力を手に入れました。それは無尽蔵です。神の栄光のためになす仕事は何でも大変ですが、結局は出来てしまいます。」(83) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダの意向とは全く反対であったマドレ・ピラールに、これらの言葉がどのような影響を与えたかは想像に難くない。
それから少し後、司教代理は聖堂を祝別した。12月2日に公開できるようになっていた。彼はそれが典礼法規に従っていると述べた。
マドレ・サグラド・コラソンはその時、その家が 初めの計画の時からずっと夢見ていた真の生活を始めるのを見る喜びを味わった。多分他のどの家よりも、聖体はこの共同体にとって真の中心であり、全ての行動を動かしている力、修道女たちの日々の歩みを照らす光であった。
しかし、この素晴らしい夢は少ししか続かないものであった!その夢から覚める前に、その新しい家による喜びの中で、マドレ・サグラド・コラソンは、他の辛い経験をし、また深い喜びをも味合うのである。

マドレ・ピラールは終生誓願宣立を延期する

1888年の夏は、マドレ・サグラド・コラソンが終生誓願の式について考えるのを妨げるあらゆる問題とともに過ぎて行った。勿論、彼女はマドレ・ピラールを抜きにしてこの件に直面せざるを得ないなどとは一瞬たりとも考えなかった。この事柄を無理にはしなかった。マドレ・ピラールはラ・コルーニャにいて学校の学年初めの準備で忙しかった。それを知り、マドレ・サグラド・コラソンは9月中旬に書いている。「ピラールの祝日か聖テレサの祝日に終生誓願をお立てになれば良いと思います。一ヶ月の霊操は今はお出来になりませんから、後になさったらいかがでしょう。」(84) マドレ・ピラールは折り返し返事をしている。「終生誓願については、ここでは何をするにも全然落ち着きませんし、神父様方がまだ定住しておられないような場所で立てたくはありません。」(85) 返事は単なる言い訳の調子である。言い訳と弁解のうちに、9月は過ぎて行った。
10月の初めにマドレ・サグラド・コラソンは簡潔な手紙を書き、はっきりした返事を要求している。「昨日、(イエズス会の)管区長様に終生誓願のことについて話しました。何か事を始めないと、何も進みません。人々はどうしてでしょうといぶかるでしょう。出来るだけ早く始めるようにとおっしゃいました。貴女がいらっしゃるのが難しいと申し上げました。皆は誓願を立てる前に貴女がここへいらっしゃることを望んでいます。彼の返事は、一ヶ月の間、誰か一人信頼の置けるシスターにそちらに行ってもらい、あなたがこちらへいらっしゃるようにとのことでした。[・・・] 黙っていないで、お返事を下さい。これ以上延期することは出来ません。敵は終生誓願を望まないのだと思います。敵の思い通りにならないよう、私たちは少し犠牲を捧げなければなりません。[・・・] 九人が一ヶ月の霊操をします。そちらの家を離れるのを恐れないで下さい。抱擁を送ります。あなたの妹、イエスのみ心のマリア。」(86)
数日前にマドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに書いていた。自分がその時ラ・コルーニャから出かければ、「大きな将来性のある全ての仕事を瓦解させることになる」と断言し、無償の学校を開くために二人の会員を送ってくれるようにと願っている。
総長は、その共同体には、授業料を払う学校のためには十分な仕事があると考えていた。しかしマドレ・ピラールの考えに譲歩した。そして終生誓願のことについてはっきりした返事を望む手紙の中で、頼まれた二人の会員を送ることを約束した。この全ては和解を打ち立てたいとの彼女の大きな望みを表している。そして、それ以上だった。マドレ・ピラールから、このように重大な聖なる事について否定的な返事が来ないかとの、言葉にならない恐れであった。
このことを念頭に置くと、二日後にマドレ・サグラド・コラソンが受けた苦しい印象を理解することが出来る。10月4日付のマドレ・ピラールの手紙である。

「私は終生誓願を立てることに乗り気ではありません。これが、私がこの問題を
避けるための本当の理由です。あなたや他の方々に、このことをお伝えしたくはありませんでしたので、おだやかに言い訳をしてきました。私の決心は修道会の中で出来る限り働き、会の中に平和がある間に死ぬことです。そして特に私が皆様の妨げにならないようにすることです。もしそんなことにでもなれば、どうしてよいか分かりません。
この私の決心は、たやすく隠すことが出来ます。そして私が真っ先にそうするでしょう。もう既に、私がこの事や他の事でそうして来たように。今、この家を離れない本当の理由があります。[・・・] 私に懇願したり、私が公平に行動することを妨げたりすることによって私を苦しめないよう、あなたと他の顧問たちにお願いします。私は神様が良心に方向転換を与えて下さらない限り変わるつもりはありません。私が決心したことを曲げるのは難しいことを貴女はよくご存知です。このことについて、何度も何度も推し進めようとなさらないで下さい。私には全てが見えます。このことは主なる神のいとも聖にして愛すべき摂理によって命じられていると思います。ですから、私たち一人ひとりにとって最良のことは、自分の十字架を受け入れることです。
これ以上続けられません。技師が請求書を持って来ていますので。これも私の心にのしかかる重荷です。でも一番の重荷は、この手紙を書くために私が払わなければならない努力なのです・・・。」

この手紙がマドレ・サグラド・コラソンに深い悲しみを与えたことは驚くに値しない。しかしながら、これは、慎重で注意深い表現を用いて書かれている。この手紙が比較的短いことは――それがマドレ・ピラールからの手紙だと思えば―― この機会に、ラ・コルーニャの院長は、書く前に全ての事をよく考えたことを示している。また、ひどく苦しんでいたことも。
1887年からの年月に書かれた一連の手紙は、この問題に先立つ歴史を示してくれる。2月の上旬、まだマドレ・プリシマとともにローマに滞在していた時、マドレ・ピラールは妹にかなり変わった計画を持ちかける手紙を書いている。「私はずっと前から聖イグナチオの部屋で終生誓願を立てたいと思っていました。でもその考えを後回しにし、忘れてさえいました。しかしもっと強い望みとなって戻ってきました。それで少なくともそれを提案したいと思います。私が直面しなければならない戦いのために必要な力を私の魂に与えていただくだけでなく、私たち皆(今私はマドレ・プリシマもこの恵みを得るように望みます)に与えていただいて、会全体の益となるでしょう。私は模範を示すことからはるかにかけ離れてはいますが、聖なる父が規則を書き、帰天したまさにその場所で、そこに込められている大いなる精神、それを私は何にもまして私たちの会のために望みます。」(87) マドレ・ピラールは自分の考えが普通でないことを認めるには十分な良識を持っていた。それはほとんど乗り越えることが出来ないほどの困難を伴っていた。何と言ってもそれは、修道生活のもっとも重大な行為において、自分の妹であり、長上の先を越すことを意味したからである。マドレ・ピラールがその後二度にわたって自分の考えを繰り返したという事実にもかかわらず、この提案に対してのマドレ・サグラド・コラソンの返事は保存されていない。彼女が長上から拒否されて動揺したとの記録も残されていない。
スペインへ帰るとマドレ・ピラールは、選挙にまつわる出来事を、非常に混乱した状態で経験し、その状態を彼女はほとんど隠すことが出来なかった。妹の統治に協力することに非常な困難を感じているので、終生誓願を立てたくないということを、手紙でウラブル師に告げたのは7月のことだった。このイエズス会士はマドレ・ピラールの手紙を殆んど保存していないが、マドレ・ピラールは彼のほとんどの手紙を保存しているので、その内容は推論することが出来る。マドレ・ピラールは一度も退会の誘惑にはかからなかったようである ――後にマドレ・プリシマが言っているように――。 ただ、会の統治の状態に対しての反抗が彼女を気落ちさせ、終生誓願宣立への嫌悪感を味わっていたのである。このことは、それ自体、霊的にかなり深刻な状態であるが、マドレ・プリシマの述べたところからはまだ非常にかけ離れていた。
マドレ・ピラールの手紙に対し、ウラブル師は次のように返事している。「・・・ 終生誓願に関してですが、今あなたが置かれている状況は神のみ旨だと思います。あなたの霊魂の嫌悪と内的嵐は全て、あなたの燃えるように熱心な心を危険な淵に投げ込もうとする悪魔の誘惑です。私を信じて下さい。あなたの心を満たすことがお出来になるのは神だけです。そして、神をもっとお喜ばせするため、そして、愛の祭壇で焼き尽くされるために、神のみ旨を果たすことです。[・・・] いかがですか、あなたは今、修道生活をやめるつもりですか?そうは思いません。そのことは考えるだけでもぞっとするでしょう。ですから、あなたが召命を確信しているのなら、なぜ終生誓願を立てることをためらうのですか。神があなたの期待に応えられないとでも思うのですか。それとも、私たちのためにキリストを十字架に釘付けたほどの神の愛に自ら進んで近づけば近づくほど、貴女の意志は弱くなってしまうのですか?勇気をお出しなさい。」(88)
ウラブル師からのその後の手紙はマドレ・ピラールに、熟考の後謙虚に自分の意見を述べること、統治の務めについて祈ること、自分の好む方向でなく事が決定される場合は自分の意志に逆らい、自分自身の判断を従えることを彼女に勧めている。概してこの霊的指導者は、従順のイグナチオ的意味において彼女に勧告を与えるにとどまった。彼の勧告は、事の成り行きに対するマドレ・ピラールの反応を反映していた。
1888年9月、ウラブル師の手紙に終生誓願の問題がまた現れて来る。「・・・ 霊操と終生誓願の件についての私の考えはあなたもご存知のとおりです。もしあなたが終生誓願をローマかロヨラかマンレサでなさるつもりでしたら、マドリードでなさっても差し支えないと私は思います。もしも長上がそれを望むならばです。私はそのほうがもっと完全だと思いますが、私はそうなさるようあなたに申し上げる立場にはおりません。神が私の立場を守って下さいますように!」(89) 霊的指導者のこのはっきりとした言葉に続いて、マドレ・ピラールは総長から、終生誓願の時を今度こそ決めるようにとの手紙を受け取った。この手紙に対する返事に、マドレ・ピラールは「打ち克てない嫌悪」を述べている。当然彼女はその前に、ウラブル師に自分の葛藤について書いている。その態度を取ったことで自分の良心の呵責を感じたからである。10月4日にこの司祭は無愛想に短く返事をしている。「・・・ 今日はただ、あなたが悩んでおられることについてだけ書きます。もしもあなたがある仕事から、そしてそれに伴う困難から解放されるために終生誓願を遅らせたいのなら、今は誓願を立てるべきでないと長上に提言することが出来ると思います。特にあなたの地域の状況から、あなたが非常に必要とされているからです。あなたがた皆にとって非常に危険な状況だからです。[・・・] 私が非常にはっきり話しているので、問題を避けているとおっしゃらないで下さい。私はあなたのようにアンダルシア的でなく、また雄弁でもありません・・・。」(90)  マドレ・ピラールの妹への第二の手紙は、大体同じ線に沿って書かれている。

「私の良心上のある事柄を書くには困難を感じますので、先日あなたは私を驚かせました。それで私は動揺し、断固とした表現のお返事を書きました。でも今私は申し上げます。終生誓願を立てる事に気が進まないのは、それなりの考えがあってのことです。神の代理者と私が考えている方から言われたことに従いたいのです。そして、主がそれを実現させる恵みを私にお与え下さるように願っています。これが私の申し上げたいことで、私は決意しています。私は一つの困難を乗り越えるまで暫くの間誓願を延期したいのです。どうかお願いします。私の願いを退けないで下さい。そして、あなたの誓願を延ばすことによって私を苦しめないで下さい。私が欠席することに対しては十分な理由があります。私は今のようなひどい状況の中でこの家を離れるべきではないと思うからです。物質的な意味ではありません。その点ではどちらかと言えば恵まれていますから。そうではなく、この家に対して地獄が意のままに振舞うのを防ぐためです。」(91)

マドレ・ピラールの拒否はマドレ・サグラド・コラソンをひどく苦しめた。いつものようにすぐに返事を書くことはしなかった。しかし、二番目の手紙を受け取った時に、10月8日か9日にマドレ・ピラールに書いている。それによると、その印象で肉体的にも参ったと述べている。「・・・ あなたの最後の二通の手紙で私はひどく苦しみました。病気にならなかったのは奇跡のようです。」
疑いもなくマドレ・ピラールもこの反応を感じ、その前の沈黙の数日は、自分の態度の影響であることに気付いた。「そちらから、ちっともお手紙を頂きません。とても淋しいです。[・・・] お手紙を下さい。私は変わりありません。死ぬまで同じです。神に信頼しています。」(92)
可哀そうなマドレ・ピラール! ある意味で彼女は死ぬまで変わらなかった。しかし全く同じというわけでもなかった。まだ生きる時間はたくさん残されていた。生涯を通じて彼女はつまずいたり倒れたりした。しかし、彼女は常に立ち上がり、歩みを続け、最後には並々ならぬ謙遜の域にまで到達するのである。
この機会に顧問たちはラ・コルーニャの長上にその終生誓願の問題について総長の提案に譲るように勧めている。(93) 「終生誓願を立てないことについての決心は[…] (私の出来る限りにおいて)神の御前で致しました。ですから神のみが今私を変えることがお出来になります。[…] もうこれ以上そのことについてお話ししません。そうしたくないからです。私が今どのように感じているかを、マドレ・プリシマの最後のお手紙に対する返事としてお伝え下さい。皆様にお願いします。このことについてはこれ以上何も私におっしゃらないで下さい。このことについて触れられていると分かれば、もうお手紙はいっさい読まないことに決心しました。」(94)
マドレ・ピラールを除いて総長と最も古参の九人が終生誓願を立てることが出来るよう、準備を整えることが必須だった。会に対しての言い訳――ラ・コルーニャの家の難しさ――はあまり説得力のあるものではなかった。しかし全会員は、創立者姉妹を非常に高く評価しているので、他の考えに対するのと同じように、この説明を受け入れた。この偉大な日に二人のシスターの姿がそろって見られないのは残念だったが、彼女たちの思いはそれ以上のことには及ばなかった。
しかし、ラ・コルーニャの状況は特別だった。そこで起こっていることについて聞けば誰でも非常に驚くことだろう。町の知られざる地域で、聖心侍女に対する奇妙な迫害、非常に盛んな反対運動が勃発した。民衆はこうした人々を熱狂的に受け入れた。そして修道院特に聖堂を訪問した。しかし不可思議な人々が、夜、共同体の部屋に忍び込むようになった。これらの夜の訪問者について語る人は、彼らの真の意向については語っていない。何かを盗むということは全然なかったが、シスターズは何回も見たし、ドアをたたくこともあったし、中庭を走ったり、奇抜なことをしたが、彼らの行為の説明はここまでであり、そこから得られる具体的な効果は何もなかった。ラ・コルーニャの一人のシスターがマドレ・サグラド・コラソンに書いている。「先日あなたに手紙をお書きした時、ここでの出来事についてお知らせしようと思いましたが、マドレ・ピラールは何も言わないようにとおっしゃいました。私たちは遠く離れているので、彼女はこのニュースを報せたくなかったのです。でも今日私は彼女にお話しています。[・・・] ここで私たちの上に起こっていることについてマドレにお知らせしたいと彼女に申し上げました。この家の騒ぎを隠してはおけません。昼も夜も静けさがないのです。マドレも私も、もう二晩も三晩も床に就くことが出来ません。というのは、それらの人々が何をするか分からないからです。良いことのためでないことは確かです。」(95) その夜の訪問者についてはいろいろの意見があった。最も一般的なのは、その街のフリーメーソンのボイコットに対する非難であろう。夜家で抗議が行われただけでなく、真昼間から聖堂で行われたからである。「聖堂でも私たちはスパイに見張りされています。もう数日も一人の人がいます。紳士のように見えます。[…] でもその人は受付係りに二度も質問しました。何か良いことを目指しているのではないと私は思います。先日もその人が受付係りに話した後、受付係りは私のところに来て言いました。『私がここにいない時は、誰にも戸を開けないで下さい[・・・] 』 そして彼は起こったことを話してくれました。私はそれをマドレ・ピラールに報告し、それ以来私たちは警戒しています。」(96) 共同体の大多数は、学校に対して起こったこの奇妙な敵対について話す材料を持っていた。奇妙なことが起こった。夜中に音もなく戸が開いたり、明かりが灯されたり、叫び声がしたり等であった。 それらは皆シスターたちを怖がらせるためのように思われた。それらはシスターたちの想像による作り話ではなかった。他の証人がいたからであった。門番、地域の夜回りの警備員、そして近所の人々であった。いつも勇敢であると自負していたマドレ・ピラールは次のように述べている。「鍵などのおよそ考え得る警戒は全て無駄でした。[…] でも幸いな事に私たちの髪の毛一本にも触れさせず、もう恐れもなく、びくびくすることもありません。」(97) 共同体のメンバーには、「勇敢な人」と「臆病な人」がいた。後者も忍耐をもって悪夢に耐えてはいたのだが。マドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの一通の手紙に面白い事が書いてある。「昨晩シスターたちはお礼拝に行こうとしていました。怖がりは起きないようにと言ってあったのですが、非常に神経質で怖がりのカルロタは、起きてまたすぐに休んだのです。昨晩また同じようなことがありました。彼女は自室の戸のところに立っていました。すると戸がそこら中の床と同じようにべたべたしていて大きな音をたてました。フェルナンダは私を起こし、そのことを話しました。私たちは今問題が起きている中庭の小さな台所に眠っている門番を起こしました。門番は起きて、私たちが彼に買い与えた拳銃を取り上げ、音のした方に向かって撃ちました。彼はガラスを割り、近所の人は眼を覚まし、何事が起こったのかと出たり入ったりしていました。その間私たちは、いつものように、静かに隠れていました――私たちは決して大騒ぎをしませんでした。近所の人々はここへは来ませんでしたし、私たちを呼びもしませんでした。それぞれの家にいたのです。一階では工事をしていましたので、怪しいことは何でもそこで起こります。人々はそう思っています。それで私たち以上に怖がっているのです・・・。」(98)
騒動を起こした者たちは決して逮捕されなかったし、いったいどういう者たちであったかも分かっていない。「泥棒だったはずはありません。きっと馬鹿者だったのでしょう。何も盗む価値のあるものがないと分かっているところであえて盗みを働いたのですから。」と、マドレ・ピラールの知り合いの一人のイエズス会員は言っている。(99) フリーメーソンの人達が関わっていたとも思えないと彼は言う。「普通フリーメーソンの人たちは、男子の修道士たちを相手に騒動を起こす前に、修道女たちを苦しめることはないのです。ご安心なさい。神父たちが追い出されるまで、フリーメーソンたちはあなた方に注意を払うことはないでしょう・・・。」この慰めの言葉はあまり喜ばしいものではなかったが、真実に近いものであった。彼によれば、ラ・コルーニャには、海沿いの都市にいたと考えられているほど多くのフリーメーソンはいなかったとのことである。
その事件にフリーメーソンが関わっていたかどうかは別として、この件は共同体にとって迷惑千万なものであった。健康を損なわれたシスターもいた。マドレ・ピラールの言葉によれば、「恐怖が内面までも苦しめた。」彼女によれば、会員は皆この件を笑いものにし、自分たちの弱さから力を得たが、「あまりにも度を越してきて、たびたび起こるので、回復する暇もなかったほどであった。」(100)
「鐘でさえこれらの人々と報道関係者から守ってくれないと誰かが言ったのだと思います。彼らがおしまいには私たちの評判を落としてしまうのではないかと心配しています。
う。今までは大丈夫だったのですが、名誉を落とすことにならないかと恐れています。今のところは大丈夫ですが。この家ではそういうことにならないようにあらゆる手段がとられています。」(101) しかし警戒も計画も、彼らが家の中に忍び込むのを防ぐことは出来なかった。共同体に非常に身近なイエズス会員の一人が次のような提案をした。修道女はそれぞれ自室に鍵をかけて身を隠し、あの「気の毒な連中」が「階段を上り下りすること。」恐れを克服するこの方法は、そうした粗野で荒々しい人々に、格好の笑い種(ぐさ)となったのは事実である。(102)
眠れない夜を禁欲的に耐えているその同じシスターたちが、学期始めの準備で休みなく働いていたことを念頭に置けば、丸一ヶ月もラ・コルーニャを不在にすることは、マドレ・ピラールにとって非常に頭の痛いことであったことは理解できる。このような重大な危機の最中で彼女が共同体を励まし、その活動を推し進めさせたことは信じがたいことのように思われる。創立の初めにマドレ・カルロタ・スピノラは総長に書いている。「マドレ・ピラールは学校に出た経験はありませんでしたが、彼女が提案することは、私が後に聖心会のシスターたちの経営する学校で用いられているものだと分かった色々な事でした。」(103) 「彼女は私が寄宿学校の校長になり、エルマナ・ベルクマンスが勉強の係になることを望んでいると、あなたに伝えてほしいとのことです。言い換えれば、私が、勉強のことも含めて全部の責任を取り、ベルクマンスは、勉強に関する全てのことがきちんと行われているかどうか気を配るとともに、他の教師たちを取り仕切るということです。」マドレ・ピラールは学校を経営する経験は全く無かったが、良識に導かれて教育機関を組織する方法を編み出した。彼女はまた、教師たちが適切に訓練されることが必要であると考えた。より熟練した修道女らを活用し、彼女らのアイディアを尊重した。彼女らとともに学校の案内書を作り、(104) それが1888年にラ・コルーニャの家族に送られた。「聖心侍女修道会は、託された少女たちに堅固な教えを授け、真心を込めて教育し、躾の行き届いた有徳の人間が身に付けるべき全てを習得させることを目指します。」パンフレットには習得課目が載っていた。「宗教、読み、書き、文法、算数、地理、歴史、文学、フランス語、それに家庭科基礎。宗教的義務の知識は重要視される。それは有徳な生活にとって必須であるから。」その上「付属」として、英語、美術さえもあった。
1888年の聖心侍女会のメンバーを知っている人には、上記の約束を実現させるためにはどれほどの努力を要するかが分かったことであろう。にも拘わらず彼女たちは達成した。その成功はマドレ・ピラールの粘り強い働きと、学校で少人数の生徒たちと働くシスターたちの働きによるものであった。しかしラ・コルーニャの学校は、一握りのグループの不屈の働きの実りによるものだけではなかった。それ以上のものがあった。それは、二人の創立者姉妹の人間的養成の深さを明らかに示す成果の一つであった。それなしには、会員たちは、どれほど善意と使徒的関心に満ちていたとしても、教育修道会を創り、続けていくことは出来なかったことであろう。真の人間的養成があってはじめて彼女たちは教育の問題を理解することが出来たのであった。さらに、聖心侍女たちの中には、良く教育された会員がいて、その中から真の意味で「教養ある」教員のチームを選ぶことが出来たことを付け加えなければならない。そして、彼女たちに当てはまることは、さらに大きな理由によって二人の創立者姉妹に当てはまるのである。彼女たちは、あらゆる種類の困難のさ中で、学校を開くという困難な企画に敢然と着手したのであった。
当時聖心侍女たちが授けた教育、また、教育者としての彼女たちの可能性を正当に評価するには、ラ・コルーニャだけでなく、全国的な文化的水準の低さ、とくに女性の文化の遅れに注目する必要がある。過去の世紀においては、女子教育についての政府の関心は低かった。この点に関しては、進歩的な政治家は保守的な人よりも、広い視野に立ってみていた。しかし女性の地位を向上させるために何ら決定的なことはしなかった。1868年、フェルナンド・デ・カストロ教授は、マドリード大学学長の地位を利用して、女性教育の推進に尽くした。その年、彼は女性のための芸術と文学の科学アカデミーを創設した。それは現在のコースと類似したもので、講演とある形の教育が授けられる協会であった。しかしその時代にしては非常に進歩的であったそのアカデミーにおいてさえ、提供される課目は音楽、絵画、言語の域を出なかった。一年後には、フェルナンド・デ・カストロ教授の同じ関心に応えて、教員養成の学校が創設された。しかし、中でも最も重要なものは、1871年に創立された女性教育協議会であった。その目的は、「若い女性に、知的、道徳的、社会的文化の基本的概念を与え[・・・] 教育に携わろうとしている人々を準備することであった。」(105) 後に、いわゆる自由教育施設を浸透させることとなる、俗世間的精神を吹き込まれたこれら全ての教育機関は、野望と、将来に対するビジョンの点では、一般的に修道女たちの学校に勝っていた。[教会の中に存在し、それぞれ孤立してなされていた努力が、一つにまとまっていれば良かったのに!] しかし、文化的水準は、一般的に、修道者の学校やスペインの教会の学校での最もすぐれたものであっても、それを上回っていたのであった。(106)

「どんな犠牲を払っても」

総長の終生誓願は11月4日に決まった。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは10月31日にそれをマドレ・ピラールに知らせた。諸聖人の祝日にしたかったが、司式をしたかった司教の都合がつかなかった。彼はマドレ・マリア・デル・カルメン宛の手紙に書いていた。「28日のあなたのお手紙にお返事致します。11月4日午前10時30分に院長様の終生誓願の司式をすることが出来るでしょう。修院付き司祭でも他の司祭でも歌ミサを捧げることが出来るでしょう、私はその儀式が荘厳であるように望みますから。私は終生誓願式の司式を致しましょう。」(107) 良い知らせに添えて、総長秘書は、マドリードで盛大に祝うつもりであると述べた。「私たちは全員出かけるつもりです。霊操をした人は皆総長と一緒に誓願を立てるでしょう。もし許されればパスも。」数日後、マドレ・マリア・デル・カルメンは式についてマドレ・ピラールに書いている。「式は非常に荘厳に行われ、一時に終りました。司教様は司教冠と杖をお持ちになり、司式をなさいました。マテオ・デ・ラ・プリダ師が歌ミサを捧げられ、モロテ師、イダルゴ師、ガルソン師、そして彼と一緒に来たフランス人の司祭〔S.J.〕が一緒でした。イエズス会の管区長は非常に優しく注意深く進められました。終生誓願を立てたのは、マリア・デ・ラ・プリシマ、マリア・デ・ラ・クルス、マルティレス、マリア・デ・ヘスス、プレシオサ(サングレ)、パス、マリア・デル・ロサリオ、アヌンシアシオン、サン・カミロ(この方は名をナティビダ)に変更)でした。司教様は長いお説教をなさり[・・・] 慈父のようでした。」(108)
数年後マドレ・マリア・デル・カルメン が会の歴史を書いた時、更に詳しく述べている。「聖堂内陣におられた司教様は総長に段をのぼってご自分の前にひざまずかせ、他のシスターズは拝領席にひざまずいていました。その状態で説教をなさり、次いで、本会最初の終生誓願者となった会員たちは、会憲に従って終生誓願を誓いました。二人の総長補佐を除いて、マドレ・プリシマ、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、マリア・デ・ラ・ナティビダは全員、創立者姉妹の最初のグループに属していました。」(109) 種々の理由で、彼女たちは厳密に古い順に従って誓願を立てることは出来なかった。
マドレ・ピラールの欠席は痛手だった。それは祝いの雰囲気に悲しみの陰を投げかけた。皆が彼女のことを思い出していた。皆の心にある名誉の席に総長と同席しなかったことで、単純な悲しみにくれる者もいれば、もっと事情が分かっている者は、その不在の理由を知っていて、とりわけマドレ・サグラド・コラソンの悲しみに深く同情していた。「マドレ・ピラールが断ったことは総長に深い悲しみを与えた。」(110)
祝いが近づくにつれてマドレ・ピラールがどのように感じていたかは、妹宛の手紙に記されている。「あなたがたの終生誓願についてとても喜んでおります。特にマドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスについてです。勿論他の方々についてもそうですが。こちらでも皆が盛大に祝うように努めました。もっともその必要は無かったのですが。残念なことに、こちらはその日は平日でしたので、仕事に追われていました。私の喜びについてはこれ以上申しません。おそらく黙っているほうが良いでしょうから。」(111)
「おそらく黙っているほうが良いでしょうから・・・」その状況を分かっている人は、そ
れについて話すことを暗黙のうちに避けていたように思われる。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダがマドレ・ピラールに祝いのことについて手紙を書いた時、非常に慎重に述べている。「総長様と他のシスターズのことで大騒ぎをしたかどうか分かりません。分かっていることは、マドレをお苦しめすることはどんなに小さなことでも避けるように努めたことです。自分で何をしたかは分かりませんが・・・。」(112)
「全てのシスター方のお手紙をありがたく拝見しました。そして皆様のためにたく
さんお祈りすることで感謝を表したいと思います。」祝日の数日後、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに書いている。彼女も沈黙を選んでいた。「ただ来世においてのみ全ては完全になるでしょう。」とある機会にマドレ・マリア・デル・アンパロに書いている。この短い言葉の中に、彼女はこの世において楽しむことの出来る幸福についての彼女の広大な知恵をまとめている。終生誓願の祝いもこの自然の法則から逃れることは出来なかった。人間の幸せには全て、悲しみの片鱗がある。あの喜びの日に、司教は典礼の中で尋ねた。「どんな犠牲を払っても、主なる神と結ばれることを望みますか?」「どんなことがあってもそれを望みます。」との彼女の答えは、彼女の全存在、その生涯の全ての道、喜びとともに苦渋に満ちた道のりを一瞬のうちに要約している。一瞥のうちに彼女は、無償の賜物、神の愛と恵みを「心の目で」(エフェソ1, 18参照)見て取った。「私は神のみ旨を心からお愛しします。もし全被造物のための全ての道から選ばせていただくならば、一瞬もためらわずに、眼をつぶって、私の道に入るでしょう。そして心からその道を歩んでいきます・・・。」(113)
「どんなことがあってもそれを望みます。」確かにそれを望んでいた。声の調子で彼女
の決心を宣言しようとしただけでなく――その声は謙遜で、同時に力強いものであったが
――その生涯の長い年月を通して、日々それを証明しようとした。「どんな犠牲を払っても」
彼女は神が自分のために選ばれた道を歩み続けることであろう。「与えられるとげは私の過
失の償いのためには小さいものであるが、天国へ通じる坂道を登るための助けとして使い
ながら、しかも、いつまでも終わりなく、終わりなく、終わりなく、神とともにあるため
に。」(114)
「完全なこと」、完全な幸福、「終わりなく、終わりなく、終わりなく、神とともにあ
るために。」

第3部 第1章 注
(1) 霊的手記 30。1893年の霊操。
(2) 1889年 9月、マドレ・ピラールへの手紙。
(3) ここで会の経済状態について論じることはやめよう。それが危機にあったかどうかは、会の問題に影響を及ぼした人々を判断する上で何の関係もないからである。
(4) マドレ・ピラールとマドレ・プリシマがその問題を処理した。彼女たちはイエズス会と同じタイプの統治を望んでいたので、それを会憲に記し、聖省に提出していた。聖省は統治の終身制は許可していなかった。このことは、会憲の最終的な起草の際になされた「批評」あるいは注意書きの一つに明記された。修道会が認可されると、総長職の終身制を獲得するために続けて尽力した。この場合は、総長が同時に創立者であるという事実に基づいてのことであった。
(5) 1887年6月24日の手紙。
(6) 1887年5月31日の手紙。
(7) 1887年6月22日、マドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(8) マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙の一つでマドレ・ピラールは言っている。「・・・ この司祭は私たちの事柄とは何の関わりもおありにならないことを神に感謝します。師は徳と神学的知識に秀でておられますが、[・・・] ビジネスのことには全く疎くていらっしゃいます・・・。」(1887年7月9日)マドレ・サグラド・コラソン自身も同感だった。「・・・ あなたに申し上げたとおりです。霊的な事柄では彼の右に出る方はおられません。私はアラルコン師の指導を受けていますが、この点では大きな違いがおありになります・・・。」(1887年7月12日、マドレ・ピラールへの手紙)。
(9) 1887年7月19日の手紙。
(10) 1887年7月24日の手紙。
(11) マドレ・ピラールは通常へレスに滞在していた。この共同体の院長であった。マドレ・サグラド・コラソンが「彼女はマドリードにいた時とほとんど変わりありません。」と言った時、総会の日々について述べていた。
(12) 1887年7月30日の手紙。
(13) 1887年7月30日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(14) 1887年7月30日の手紙。
(15) 1887年8月29日から31日の間に書かれた手紙。
(16) マドリードの修道院の日誌、タイプライターで打ったもの、89ページ。
(17) 1887年9月7日の手紙。
(18) 1887年9月9日の手紙。
(19) 顧問会議事録、8〜9ページ。
(20) 議事録、13ページ。
(21) 年代記 Ⅰ 152ページ。
(22) 1888年2月10日の手紙。
(23) 同上。
(24) 1888年1月15日の手紙。
(25) 1888年2月18日の手紙。
(26) 顧問会議事録11で既に見たのと同様のことが言われている。
(27) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅰ 50ページ。
(28) 秘書のマリア・デル・カルメン・アランダは、この創立について、後に記している。彼女によれば、マドレ・サグラド・コラソンにはこの北部の創立は、緊迫した状態からの解放と映った。それでマドリードの家の計画は、一時的に中断された。(同上46ページ)
(29) 顧問会議事録 13ページ。
(30) 1888年4月3日の手紙。
(31) 1888年4月3日、前掲の手紙。
(32) 1888年4月12-13日の手紙。
(33) 1888年4月17日、マドレ・マリア・デル・サルバドールへの手紙。
(34) 1889年3月19日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(35) 1889年8月25日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(36) 「ある時思いつきました。[・・・] 一ヶ月の黙想を、一人の聖心会のシスターと一緒に
行うことを。」(1887年7月12日の手紙)これに対しマドレ・ピラールは7月15日に返事している。「・・・ 聖心会へ行くことについては、神父様方さえご承知くだされば、差し支えないと思います。でも、良くお考え下さい。」
(37) これらの言葉は後の書き物に現れる(1893年)が、個人的な態度は彼女の生涯を通
じて見られるものだった。
(38) ロヨラの聖イグナチオ、霊操 [53]。
(39) 霊的手記 10。1888年の霊操、第2日。
(40) 1888年1月24日の手紙。
(41) 霊的手記 10、霊操第3日。
(42) 1903年6月17日。
(43) 霊的手記 11。
(44) カルロ・マルティーニ著、聖ヨハネの光に照らした聖イグナチオの霊想 (ローマ 1977) 182ページ。
(45) 1889年12月。
(46) 1888年6月2日の手紙。
(47) 1888年6月18日の手紙。“cargos”という言葉は院内の仕事を意味する。
(48) 1888年6月19日、マドレ・サグラド・コラソンのマドレ・ピラール宛の手紙。
(49) 8月2日の手紙でマドレ・ピラールは妹に書いている。「・・・ ベルクマンス、カルロタ、ヴァレとサンタは昨日から院内の仕事は何もしないで脇目もふらず勉強し、準備しています。神に栄光を帰す大切なお仕事のためです・・・。」
(50) 1888年6月6日、マドレ・サグラド・コラソンの姉宛の手紙。
(51) 1887年6月12日、マドレ・フェリサ・デ・ヘススへの手紙。
(52) 1888年4月23日の手紙。
(53) 1888年4月14日、マドレ・ピラールへの手紙。
(54) 1888年7月8日、同師からマドレ・ピラール宛の手紙。
(55) 1888年8月2日、イグナシオ・サントス師からマドレ・ピラールへの手紙;1889年9月22日、ホセ・エルナンデス師からマドレ・ピラールへの手紙。
(56) 1888年4月3日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙と1888年4月5日、マリア・デル・サルバドールへの手紙。
(57) 1888年6月15日、イエズス会ホセ・ガルシアレナ師からマドレ・ピラールへの手紙。
(58) 1888年7月8日、ウラブル師からマドレ・ピラールへの手紙。
(59) 1888年6月15日、ホセ・ガルシアレナ師からマドレ・ピラールへの手紙;1888年4月3日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(60) 1888年9月4日の手紙。
(61) 1888年10月15日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(62) 1889年1月2日、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(63) マドレ・プリシマからの一通の手紙が、その頃アンダルシアにいたマドレ・サグラド・コラソンに報せている。「マドレ・ピラールはこの件について何ら関わりがありません。もし神が創立をお望みなら――私はそう思うのですが――それはあなたがなさることなのです。」(1888年2月2日の手紙)「マドレ・ピラールは、この件について何も言えません、何の意見も言えませんといっておられます。もし事が実現するとすれば、彼女抜きでなければなりません [・・・] もし一年借家をしたいなら、侯爵と話し合うことです。 [・・・] 私は他の家についても尋ねましょう。でも決めなければならないのはあなたですが。マドリードの創立は他の何よりも先にしなければならないと思います・・・。」(1888年1月30日、マドレ・プリシマからの手紙。)
(64) オベリスコの家は、その当時、市の中心から遠くてマドリードにあるとは思われない程だった。
(65) 1888年7月16日、マドレ・ピラールへの手紙。
(66) 1888年7月19日。
(67) 10月24日、マドリード修道院の日誌。
(68) 1887年10月30日、マドリード修道院の日誌。
(69) 1887年10月30日、マドリード修道院の日誌。
(70) そのトラブルは数年後もまだに尾を引いていた。1889年4月、マドレ・マリア・デル・カルメンはマドレ・ピラールに言っている。「訪問で受けた傷、貴女の否定、それは忘れません。」と。1890年マドレ・プリシマがマドレ・ピラールに書いた一つの手紙に他の暗示が見られる。司教は記憶力の良い方だった・・・。
(71) 1888年7月19日または20日の手紙。
(72) 1890年6月にローマに送られたホセ・ガルシアレナのサン・ホセの家についての報告書 6ページ。1888年7月25日付マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙にも同様の記述がある。
(73) 1888年7月25日の手紙。
(74) 1888年7月28日、マドレ・サグラド・コラソンのホセ・ガルシアレナへの手紙。”Amico”という通称は悪魔を指していた。その他にもさまざまな呼び名があった。興味深い軽蔑的な親しさを表しているいろいろの名称で呼んでいる。
(75) ホセ・ガルシアレナ著、サン・ホセの家についての報告書、7ページ。
(76) 1888年9月15日の手紙。
(77) 広い視野に立ってみれば、マドリードの司教との関係の難しさは、以前にあったセフェリノ師とのそれと同様、教区の司教たちとの関係で、19世紀に生まれた修道会の歴史の典型的なエピソードである。それら全ての修道会は、一致と世界性を確立するため、聖座に直属しがちである。聖座自身その傾向を援助する。
(78) 1888年8月11日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(79) 1888年8月31日、ウラブル師からマドレ・ピラールへの手紙。
(80) 該当する文書は1888年9月14日付である。
(81) ホセ・ガルシアレナ、報告書 19ページ。同様の考えは、1888年12月28日付のマドレ・サグラド・コラソンの年の回状に、ほとんど同じ言葉で表れる。
(82) 1888年10月18日、マドレ・マリア・デ・サン・ハビエルのマドレ・ピラールへの手紙。
(83) 1888年10月14日、マドレ・ピラールへの手紙。
(84) 1888年9月13日-15日の手紙。
(85) 1888年9月17日の手紙。
(86) 1888年10月2日の手紙。
(87) 1887年2月2日の手紙。
(88) 1887年7月17日の手紙。イタリック体の文章はウラブル師の原文を目立たせるためではない。表明してきた考えを際立たせるためである。このイエズス会士は、マドレ・ピラールが退会するつもりであることを知らなかった。この世で、彼女が盲目的に信頼している一人の人、それはウラブル師であった。このように重大な誘惑を、彼に隠しているとは考えられない事だ。
(89) カリオン・デ・ロス・コンデス発、1888年9月28日の手紙。
(90) イタリック体の文章は原文では強調されていない。
(91) 1888年10月6日の手紙。
(92) 1888年10月10日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(93) 1888年10月16日、マドレ・プリシマとマドレ・サン・ハビエルからの手紙。
(94) 1888年10月22日、マドレ・ピラールからマドレ・サン・ハビエルへの手紙。
(95) 1888年9月5日、マドレ・ビジタシオンから総長への手紙。
(96) 同上。
(97) 1888年9月4日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(98) 1888年10月6日の手紙。
(99) 1888年10月9日、イグナシオ・サントス師のマドレ・ピラールへの手紙。
(100) 1888年10月6日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(101) 1888年10月15日、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(102) 1888年10月8日、フェリックス・ゲル師から マドレ・ピラールへの手紙。「家の中にいるシスターズは全員よく確かめることです。こうすれば、あの不幸な人々は、せいぜい階段のあたりを歩き、あなた方は驚く心配もなく、安心して眠れるでしょう。」
(103) 1888年4月15日の手紙。
(104) 若い女性のための聖心侍女修道会の学校、との見出しが付けられていた。
(105) V.Cacho Viu, La Institución Libre de Enseñanza (Ed. Rialp, Madrid 1962) 277ページ。
(106) 前世紀中葉のスペインに於ける教育の現状についての真剣な検討はまだなされていない。貧困層の文化的向上に対する教会の貢献、具体的には修道会のそれを評価できるのは非常に興味深いことであろう。おそらく教育に従事する多くの女子修道会の働きは、正当な評価を得ていないであろう。
(107) 1888年10月31日、サンチャ・イ・ヘルバス師からマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(108) 1888年11月初旬 (4日以降であることは疑いない) に書かれた手紙。
(109) アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 I 48-49ページ。
(110) アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 I 49ページ。
(111) 1888年11月4日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(112) 1888年11月の初めの手紙。
(113) 1893年8月15日、マドレ・サグラド・コラソンからマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(114) 同上。