第4部 第5章 困難な世紀の変わり目

「・・・ 気の毒な前任者に対する私の行為を償うために・・・」

1900年2月、マドレ・ピラールは再びローマへ行った。今回は秘書を伴っていた。彼女は、この旅行の目的は、もう一度家の購入を試すためだと補佐たちに言っていた。補佐たちは、彼女には他の目的があることを察していた。事実、そうであった。一つには、ローマの共同体とその院長の状態を、自分の目で見たかった。(マドレ・サグラド・コラソンに話していたことによれば。)しかし、とりわけ彼女は、統治における自分の状態について、保護枢機卿と内々に話したかったのである。
会見は到着の数日後に行われた。枢機卿は、共同体がもっと健康的な地に移るべきであると強く主張した。これに対し、総長は、これまでの創立体験に基づき、補佐たちが事前に知るのでない限り、あえて行動を起こすことは出来ない、と率直に述べた。マゼラは驚いたが、すぐに事実調査を開始することにした。2月25日付の手紙で、彼はマドレ・プリシマに、内情に通じている彼女から事の次第を説明するように、また、彼女や補佐たちがどのように感じているのかを報告するようにと書き送った。(1) その手紙を受け取った後、マドレ・プリシマは、その意味について、また、どの程度まで返事をすべきかについてウラブル師に意見を求めた。はっきりと状況を説明すべきだ、というのが、彼の意見だった。「事はこのまま続いていくべきではありません」と彼は述べ、自分はこの件に関して助言を与え続けることはもう出来ないと感じている、と付け加えている。(2)
マドレ・プリシマが枢機卿に対する報告をスペインで準備している間に、彼はマドレ・ピラールから情報を受けていた。ブルゴスとサラマンカの創立で何が起こっていたのだろう。実は新しいことは何も無かった。にもかかわらず、統治の難しさ全体にうずいていた根本問題は、これらのケースに於いて極度に深刻化していた。家をサラマンカからラ・コルーニャに移すという補佐たちの考えは、ひどく反対されていた。ブルゴスの創立に対しては、彼女が学校に重きを置きすぎている、との見方がなされていた。この恐れは、顧問会の討議の中でも明らかであった。(3) ブルゴスに創立したいとのマドレ・ピラールの希望を、補佐たちは、第三修練に充てられている家をマドリードから移すための口実とみた。さらに補佐たちは、これがマドレ・プリシマを多くの職務からはずすための第一段階ではないかと見ていた。
補佐たちの疑惑に根拠があったことは間違いない。マドレ・ピラールは非常に現実的な――しかし非常にもっともな――不安を示していた。そして、もし顧問たちが、統治の初めから非常に関心のある地位に執着していなかったとすれば、総長も、目的、必要と考えているのに、絶えず行く手を阻まれている目的に達するための道を探すには及ばなかったことであろう。
ブルゴスとサラマンカの創立に先立つ一連の会合は、これまでの行動を考え直す機会をマドレ・ピラールに与えていた。彼女はウラブル師に書いている。「主のみ前に私は心を沈め、へりくだります。主に対しても、神父様に対しても、今、私の心には何の不満もございません。気の毒な前任者に対する私の行為を償うために、私はこれだけでなく、私を苦しめる全てのことを受けるに値するからです。どれほど辛くあたったか、また、彼女のことをどれほど軽率に判断したか、私には分かりました。」(4) これらの言葉の調子には、マドレ・ピラールの誠実な謙遜がうかがえる。
別の手紙で彼女はウラブル師に劇的な情景を描いている。それは、ブルゴスの創立計画についての討論の間の出来事だった。1899年12月1日に開かれた会合に於いて、総長は秘書に紙切れを渡し、それを読み上げるようにと言った。皆は跪いてそれを聞いた。 「思っていることを申し上げるだけの強さがございませんので、紙に書いて秘書に読んでいただきます。はっきりと表明された意見は票決と同じだ、と私は信じて疑いませんでした。でも、今、そうではないと分かりましたので、この事業を企て、実行したことに対して、皆様の赦しをお願いしたいと思います。他に何かあれば、それもお赦し下さい。そして、今申しましたように、票決が必要ですが、皆様は今のところ、ブルゴスの創立に賛成していらっしゃいませんので、これ以上事を進めることはやめます。」
ウラブル師への手紙にマドレ・ピラールはさらに続けている。「神父様、私は(そして他の皆もそうでしたが)謙遜の行為として跪きました。このような外面的な行為に私はとても抵抗を感じます。判断するために光を主から頂くために、また、かつて私が気の毒な妹に与えたひどい扱い――事実、妹に対して、不尊敬にもそのように振舞ったのですから――これを償うために、昨日からこの嫌悪に打ち勝とうと努めて参りました。何と悲しいことでしょう!今、主が喜んでおられるか、そして、このことに終止符を打たれるかみてみましょう。長上は目下の前で、こんな風にへりくだるべきではない、と神父様がおっしゃったことを思い出しましたが、これは彼女たちの非難のために起こったことなので、[・・・]私は恐れずにそうしました。」(5)
言うまでもなく、補佐たちのマドレ・ピラールに対する非難は、顧問会に背を向けて行動したことに対してであった。

マゼラの死とラ・トレ師の介入

マドレ・プリシマはマゼラ枢機卿への返事の中で、自分はほとんど統治から退いている、なぜなら、マドレ・ピラールにとって自分は邪魔者だから、と書いている。そこで枢機卿は、彼女たちがローマで会い、食い違いを解決すべきだと判断した。保護枢機卿の決定を知らされた時、総長は補佐たちを招集した。(6) ところが枢機卿は重病に係り、その月の26日に亡くなった。補佐たちがまさにマドリードを発とうとしていた時のことであった。
そこでマドレ・ピラールは、イエズス会のスペイン地区の総長補佐であるラ・トレ師の助言を求めた。そして、統治に関して皆が指示を仰ぐことが出来るよう、マドリードの顧問たちに、ローマへ来て総長と会うように指示した。5月の初め、補佐たちは一人ひとりラ・トレ師と会い、各自の考えを話すことが出来た。この話し合いの後、イエズス会士は、全員が集まっているところで話した。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。「師が一人ひとりの弱点を見ておられたことは明白です。適切な方法で優しくそれを明らかにされたからです。」(7) マリア・デル・カルメン・アランダは彼の説明を書き留めた。それは、総長と補佐たちの役割について、また、顧問たちの諮問票決、および、審議票決による行動の仕方についての指示であったと要約できよう。
「・・・ アンシアニートさん(8) から昨日いただいた助言に感謝しています。――マドレ・ピラールは書いている―― それは純金の塊でした。しかし、目的のために十分だったとは思いません。でも、そうでしょうか。[・・・] 最後の手段として、神は生きておられます。神は全能で、正義そのものでいらっしゃいます。そして神は、私たちを愛していて下さいます。そして、マドレは?分かりません・・・。もし、主の御脇腹から生まれたのなら!」(9)
6月1日、補佐たちはスペインへ戻ったが、マドレ・ピラールはもう暫くローマに残った。6月にラ・トレ師は、口頭で与えた助言を書き物にして与えた。最初に一般的な指針が与えられ、続いてそれらが個別的に明らかにされた。 「総長は統治する。補佐たちは助言をもって総長の統治を助ける。総長は補佐たちからの助言をを尊重し、望み、求めるべきである。[・・・] 補佐たちは、与えるべき助言を神の前で熟考すべきである。彼女たちは互いに影響を与え合うべきではない。また、自分と同じ考えを相手が持つよう働きかけるべきではない・・・。審議票決であれば、総長は多数意見に従うべきである。[・・・] 第三修練長の任命は、補佐たちの助言のもとで総長が行う。しかし、補佐たちは、その任務にふさわしいと自分たちが考える人物を総長が選ぶように主張してはならない。はっきり言っておくが、私の意見では、修練長が第三修練長を兼ねることを補佐たちが望むのは適切ではない。あるいは、修練長が第三修練長を指導するために、自分のもとに置くこともよくない・・・。」
おそらくラ・トレ師は、自分がどれほど傷の近くまで指を持ってきたかに気付かなかったであろう。事実、補佐たちが、マドレ・プリシマを会の唯一の柱として保持していたいという過度な望みを持っていたことは、目の不自由な人でも見通せたことであろう。

「変わらない限り、この家は・・・」

ローマにいる間に、補佐たちとマドレ・ピラールは、院長であるマドレ・パトロシニオ・ディアスを観察する時間があった。マドレ・サグラド・コラソンは、このテーマについて前に書き送ったことを、思い切って彼女らに口頭で話しただろうか。「変わらない限り、この家は存続することは出来ないでしょう。私の考えでは、マドレ・パトロシニオもマドレ・フリアも、一人では出来ないでしょう・・・。この家は初期のオベリスコの家に似ています。会の精神に精通し、経験豊かで、その家に、望ましい精神を吹き込もうとの熱意に満ちた会員が、責任者としていなければなりません。オベリスコの家がスペインでそうであったように、この家は、ここイタリアで修道会に生命を与えるという任務を帯びています・・・。」 (10) マドレ・サグラド・コラソンは、院長が大変良い女性であることは認めていたし、他の機会にも総長にそう言っていた。しかし他方、彼女には幾らか小心なところがあり、そのため、物事を企画したり、問題を克服するといった仕事には不向きであると見ていた。
この頃、マドレ・パトロシニオはローマで、悪化したリューマチのため、ほとんど体が利かなくなっていた。四六時中続く痛みのため、イタリアで会の道を切り開くはずの、また、全ての聖心侍女にとって教会的生活の焦点ともなるべき家にふさわしい仕事に対する彼女の取り組みは、ますます後退してきた。永遠の都は長年にわたって二人の創立者の憧れの的であった。マドレ・サグラド・コラソンは、最初の訪問の印象を鮮明に覚えていた。「狭い道路」を歩き、「黒ずんだ塀をじっと見つめた」 時の喜びや、数知れない殉教者の血で洗われた「聖なる都」 が吹き込んだ、生き生きとした信心を、彼女はいまだに感じていた。マドレ・パトロシニオは非常に信仰心の篤い女性であったが、彼女の信心にはどこか希薄さがあった。マドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている。「彼女は信心にちなんだ場所を見ることを望みません。」(11) これは誇張ではなかった。マドレ・パトロシニオ自身が数年前にマドレ・ピラールに送った手紙からも分かるように、彼女は、教皇に会ったことのないローマの会員たちが教皇謁見に行くことを許可しなかった。(12)
カシアの聖リタの列聖式 (1900年3月24日) の時、マドレ・ピラールと補佐たちはローマにいた。前晩、マドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンが修練女たちと一緒に聖ペトロ大聖堂へ行く手筈を整えた。マドレ・パトロシニオは、不必要な外出は修道院の規則遵守を促進するためにならないと思う、と補佐たちの一人に述べている。そして、その補佐は、院長の言葉を聞いて、「私たちが教えられた、祈り、世間から退くこと、潜心の精神に大いに反する」マドレ・ピラールのやり方の、もう一つの証明として、それを心に留めた。この言葉は、総長についてマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが記したものから引用されたものである。(13)
前述したように、マドレ・ピラールと補佐たちはマドレ・パトロシニオを観察した。マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンの彼女に対する意見が正しいことを確信し始めていた。院長が、世間から退くことを好み、会則遵守を重んじる点に、また、特に、禁域の生活を熱心に擁護する点に目を留め、補佐たちはますます彼女に有利な見方を固めてきた。それで、彼女らは、院長の健康状態の悪化は否定出来ないまでも、更迭されるべきではないと考えた。一方、共同体は院長を愛し、その長所を評価していた。更に、姉妹たちは皆、家の雰囲気に影響されていたので、院長の意気地なさといったものを欠点とは見なしていなかった。
このような状況の下では、マドレ・パトロシニオの更迭の可能性はほとんど夢想に近かった。マドレ・プリシマに種々の務めを与えることによって支持した時と似たようなやりかたで、補佐たちは、院長を支持することに決めていた。「精神」が危険にさらされていた。このような問題に対して彼女らは頑固だった。紛争にまつわる人々の性格そのものに問題があった。多分マドレ・パトロシニオは、自分の賜物を高く評価し過ぎることはしなかっただろう。そしてもちろん彼女は、個人的にマドレ・ピラールに反対することはしなかっただろう。(14)
マドレ・ピラールは6月半ばにローマを発った。秘書のほかに院長も一緒だった。数日前に彼女は補佐たちに書いている。「パトロシニオを連れて行くことを考えています。先ず第一に、彼女のために何かしてあげられないかということ。第二に、彼女は院長職を続けられない、と私が思っているから。というのは、二人のシスターに助けられてやっと歩けるのですから。[・・・] 第三に、彼女を温泉に連れて行かなかった、との非難をそのままにしておくべきではないと思うから・・・。」(15)
ローマでマドレ・サグラド・コラソンは、院長の旅行に対する共同体のある者たちの反応を見て、強い印象を受けた。彼女はマドレ・マルガリータ・バロへの手紙に書いている。

  「マドレ・パトロシニオがスペインへ出かけるにあたって、ここでは従順に反する一種反乱のようなものが見られました。呟き、批判、そして、彼女を動かすことについての総長の権利を調べる試みがなされました。最終的には、彼女は修練長でもあるため、総長は彼女を移動させることは出来ない、特に、あなたが彼女を支持しており、あなたの票決なしには彼女は移動させられない、ということで治まりました。私は悲しく思いました。そして、最初私は、血肉に影響されることを恐れて注意を払いませんでしたが、第二の点について何か言うべきだと思いました。それで私は、最も興奮しており、一番騒ぎを起こしているシスターに、聖イグナチオの手紙の一部と、会憲綱要の規則二十一を、個人的に見せました。少なくとも外面的には成功でした。彼女たちは静まったからです。今日はもう、彼女たちは不安を感じてはいません。」(16)

その手紙には、会の全てのエルマナスを気遣う一人の人物の、理解と深い愛を示す後書きがついている。

  「この全ての中に悪意は無いと思います。あるのは無知だけです。この中であなたが正しいと思う点から学んで下さい。でも、誰があなたに言ったのかはおっしゃらないで下さい。出来ればこの問題が癒されることを望んでいますが、私は害を及ぼしたくはありません。皆を目の瞳のように愛しておりますから。」

マドレ・ピラールはその統治の最後の任期を完成させるため、スペインに戻ろうとしていた。その頃までにマドレ・サグラド・コラソンには、事件が十年前と似通った課程を辿っていることが分かった。彼女はこれまで以上に祈り、励まさなければならなかった。自分の置かれた状況の苦悩の中で、マドレ・ピラールは最初の総長よりも有利な立場にあったことだろう。少なくとも彼女は、以前自分の故に大変苦しんだ、あの高潔な人物の理解と、絶対的な忠実さに縋(すが)ることが出来たからである。
少し経ってからマドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに書いている。「これはあなたにだけ申し上げます。マドレ・パトロシニオは快方に向かっているようです。もしよくなれば、彼女は復帰するでしょう。何故なら、ご存知の通り、私だけにかかっていることではなく、彼女の第二の職務のためです。(17) 主がそれをお望みにならないのでしたらお止め下さるようお祈り下さい。そして、主があなたと私を早く成熟させ、御許にお召し下さるよう、いつもお祈り下さい。 [・・・] いつかアストレイン師がお説教の中で言われましたが、聖人たちは、うまくいった仕事の中の困難や労苦よりも、自分たちの計画が挫折し、努力が水の泡であったことを見ることによって、もっと功徳を積んだということです。これは慰めです。そして、誰かを辱め、圧迫するよりも、辱められ、打ちのめされることもまた慰めです・・・。」(18)
ここでもマドレ・ピラールは、心の中で、かつて自分が妹を辱め、圧迫した時の過ちを思い出していた。しかし、痛悔の喘ぎは、今では、自分が憐れみの対象であると感じる甘美な痛みとなっていた。

「もし私が聖人になれたら・・・」

マドレ・ピラールが、かつての妹の場合とそっくりの――おそらくそれより大きな――信じ難いほどの不一致を苦しんでいた時、マドレ・サグラド・コラソンはローマでの生活を続け、平凡な仕事に従事していた。四年、六年、八年・・・会は成長し続けていた。十九世紀の終わりまでには、マドレ・サグラド・コラソンが総長職を退いた頃よりも家の数が幾つか増えていたし、何よりも聖心侍女の数が大いに増えていたからである。今ではマドレ・サグラド・コラソンの知らない、そして、彼女のことを知らなくなってきている新しい世代の会員もいた。ほとんどの会員は、統治者たちの困難も、創立者姉妹の苦しみも知らずに、いろいろなところで、会の精神に従い、「聖体にましますキリストへの愛」のために、そして「その聖心に燃える、人類救済のお望み」に添って働くことに努めていた。ローマに引退した創立者は、いろいろなところから来る断片的なニュースを通して、各地の修道院の状況を推測することが出来た。困難の上に築かれたカディスの学校の繁栄を、ヘレスあるいはビルバオの学校の発展ぶりを、バスク地方での召命の動きを、「全ての人が神を知り、愛するように」イエス・キリストを告げ知らせようと、聖心侍女がいろいろな家で、さまざまな方法で行っている信仰の教育について、などを彼女は知った。
この種のニュースを耳にした時、マドレ・サグラド・コラソンは、大家族を収容するために新しい家が開かれて行くにつれて、会が成長し続けることを喜んだ。しかし、それは、もし建物の土台に感情というものがあれば、上の階で空気と光を受ける部分の美しさを見ることが出来ないなら経験するであろう悲しみ、そういう一種の悲しみの混じった喜びであった。土台は、見たところでは建物の一部でさえないのである。
この時期のマドレ・サグラド・コラソンの個人的な手記は全て、活動出来ないことから来る苦しみを暗示している。活動出来ないということは、当然、役に立たないことであると思われる。しかし、神の恵みによって、彼女はそれを、会のあらゆる活動の原動力となる隠れた力とみなすのである。

  「・・・ 何もしないことは、私の最大の殉教である。神は私に聖人になることを望んでおられる。神のみ旨を退けることなしに、これを拒むことは出来ない。もし私が聖人になれば、もっと効果的な活動に従事するよりも、会のため、会員のため、そして、隣人のために多くのことを成し得るであろう。
私の魂はうめいている。しかし、微笑みながらよりも、うめきながらイエスをお喜ばせするほうがよい。楽しみは天国で待っている。イエスは私を愛していて下さる。この思いでいつも私は力付けられねばならない。私は経験によりそのことが分かる。彼は私を特別な愛で愛して下さる。彼は私に一番良いことを望んで下さる。彼がお望みになるのは、私がすっかり自分をお任せすることである。他のことは全て彼がなさって下さる。彼は私がそのことだけに役立つことを知っておられるからである。」(19)

これらの考えはマドレ・サグラド・コラソンにとって絶え間ない呼びかけであり、彼女が生涯さまざまな方法で体験した完全な自己奉献に対する絶え間ない要請であった。彼女はそのことを全く確信していた。しかし、神のみ旨をはっきり見通すことも、それを自分のものとして寛大に受け入れることも、彼女の苦しみを取り去りはしなかった。

  「今私はとても平和ですから、神のために働きたいというこの望みは悪魔から来るということがはっきり分かります。我が主は、どんな犠牲を払っても、良いことに於いてさえ、私が自分の意志を打ち砕き、彼がお与えになった人に導かれるままになること、そして、地下牢に入れることであれ、女王の服を着せ、そのように扱うことであれ、直接間接に彼が私に望まれることに、盲目的に従うことを望まれます。[・・・] 神のみ旨に反して私の身に起こること、又、私がすることは何でも、悪魔からの誘いです。私にはそのことがはっきり分かります。」 (20)
「主なる神は、全ての出来事に於いて私がそのみ旨に従うことを望まれる [・・・] だから、たとえそれらがどんなに私の自愛心にとって辛いものであっても、私は判断すべきではない。神は、私の働きではなく、どんなことでもそのご計画に盲目的に従うことをお望みになる。もし私がこれを肝に銘じなければ、気の狂った人のように生きて自分自身を失う危険を冒すことになる。」(21)

マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールと補佐たちがローマにいてラ・トレ師と話し合っている頃にこれらの手記を書いている。顧問会の中で増してきている困難について彼女は幾らか知ってはいたが、全てを知っているわけではなかった。マドレ・ピラールは秘密の一部を明らかにしてくれてはいた。全く当然のことながら、総長や補佐たちの動きや表現に対する彼女の直感や観察によって、姉から与えられる情報は完全なものとなった。会は再び危険に遭遇しているように見えた。そして、そのために何もすることが出来ないと感じることは、特に辛いことであった。平穏でいるためには、単純に神の恩恵に忠実でなかったならば、超人的とも言うべき努力を要したことであろう。
霊的手記に見られる考えは、この時期のマドレ・サグラド・コラソンの他の書き物にも見られる。マドレ・パトロシニオの留守の間ローマの家の責任者であったマドレ・フリア・エルナンデスに送られた短い手紙は、信仰によって自分が呼ばれていると信じた生活を、信仰によって放棄した人の悲しみを印象深く表している。

  「・・・ 昨晩、神父様の最後の要点をうかがってとても嬉しゅうございました。あれが、神から与えられた、私の心の傾きです。どうやってそれを引っこ抜けはよいのでしょう。今の私の生活を、ちょうど病気を我慢するように、死ぬまで我慢強く耐えましょう。しかし、神の栄光のために働きたいとの望みを私の魂から根絶やしにすることは、私の力では出来ません。この種の混合生活のために私をお選びになったのは、主なる神であり、私自身ではないからです。マドレ・パトロシニオとあなたは、おそらくマンシーニ師の影響でしょうが、私を観想の道によってだけお導きになりたいようです。はっきり申しますが、あなた方は、ちょうど、私に後ろを向かせておいて、私の顔になさるだろうことを、私の魂に対してなさっているのです・・・。」(22)

神のみ旨を信じて受け入れることによってマドレ・サグラド・コラソンが再び克服した強い嫌悪と戦いは、1900年12月20日に書かれ、彼女の血でサインされた奉献文にはっきりと表明されている。

  「我が主なる神よ。私はあなたがまるで厳しい裁判官であり、私の愛すべき父ではないかのように、あなたの聖なるみ旨に私自身を委ねることを恐れます。このことは、私が生涯を通じてずっとそのしるしを受けてきた、あなたの無限の慈しみを損なうものです。今、それは終わりました。私は今、この瞬間に、甘美なものであれ苦いものであれ、あなたのご計画に私自身をすっかりお捧げいたします。私のイエスよ、あなたのお望みのままになさって下さるように。私は多くの称号の下にあなたのものであり、あなたはあらゆる権利をお持ちだからです。
あなたの恵みによって、私は自分の望みをきっぱりと殺し、全てに満足し、全てに『はい』と言い、絶えずあなたを大いに信頼し、全ての出来事を、たとえ非常に自己卑下となる痛いものでも、あなたのみ心に燃えている私への愛の尊い贈り物として受け入れたいと思います・・・。
ただ一つの決心:神のみ手に対する盲目的な信仰と、神の最も賢明にして聖なるみ旨に完全に身を委ねること。」(23)

希望という甘美な喜びを分かち合いながら

その生活に耐えることは大変な努力を要した。彼女は記している。「・・・ ちょうど病気
に耐えるようなものです・・・。」しかし、彼女にとって、忍耐は悲しみに抵抗することだけではなかった。それは、親切、微笑み、理解、落ち着きでもあった。いつでも行動に移す用意のある優しさ、そして単純さが、マドレ・サグラド・コラソンの平和な表情から輝き出ており、彼女を見る全ての人がそれを認めていた。この頃彼女について書かれた証言は、主として、苦しみにおける彼女の並外れた我慢強さに関するものである。その苦しみは、彼女の胸のうちを明かされた人々(ローマの家の院長、または、副院長)から来るものであった。列福、列聖調査の過程において、証人たちは、マドレが、忘れられた生活の真っ只中で、いつも明るく、落ち着いており、親切で、単純であったと、さまざまな方法で証言した。(24)
マドレ・サグラド・コラソンの柔和と愛情に満ちた優しさは、この時代に書かれた彼女の多くの手紙に反映されている。

  「あなたの悲しみについて聞きました。何も悪いことはなさらないお方のみ旨に委ねていらっしゃるとはいえ、悲しいのは当然でしょう。また、何とすばらしい日にお召しになったことでしょう!他の可能性は考えられないでしょう。何故なら、彼女は大変寛大に心を神に捧げ、とても愛していらっしゃいましたから。この全てをなさったのは神です。被造物にどんな良いことが出来るでしょうか。でも、神は、ご自分に対する贈り物には必ずお報いになります。それで、あなたの亡きお母様に対しても大変寛大でいらっしゃったのです。(彼女が安らかに憩われますように)
・・・ この手紙はマリア・デル・サン・ホセのためでもあります。どうぞ彼女にお送り下さい。出来なければ、そう、私が彼女に書きましょう・・・。」(25)

「お手紙を書かなくても、そちらの家のあなたや他の誰をも忘れたわけではありません。また、院長様があなた方のお一人お一人のことをお話なさる時、私は喜んで耳を傾け、お話します。あなた方を目の前に思い浮かべることなしには決してお祈りしないことを、確信して下さい。年を重ねるにつれて、私の記憶力は増してくるようです。反対に、視力は弱ってきました。でも、眼鏡をかけると大丈夫です。こちらでは、今、大勢が四つの目を持っています・・・。」(26)

「二、三行お書きする時間が参りました。でも、もう少し書けるでしょう。お手紙を書かないからといって、私があなた方を忘れてしまったとお思いですか。いいえ、私はあなた方のことをたびたび思っています。あなた方のために少しは良いことが出来る場所にいるのでなおさらのことです。私はここで、私のすることは何でも、私と主の二人のものであるという契約を、主との間で結びます。それであなた方は両手にたっぷり頂くのです。手をいっぱいに広げ、こぼれないようにしっかり指をくっつけて下さい。私がお送りするものは全て、極上のものであり、すぐに逃げてしまいます。もしあなたが、小さいことに忠実であるという、あの聖なる習慣をまだ保っていて、出来るだけ実行していらっしゃるなら、私があなたのために主にお願いしている宝物を保ち、増やすために、これが一番良い方法なのです。この二つの徳を、私のためにもお願いして下さい。もし、主が私たちの大きな罪にもかかわらず天国に招いて下さるなら、そこでお会いする時、お互いに喜びをともにすることでしょう・・・。」(24)

この数年間にマドレ・サグラド・コラソンと顧問のマドレ・マリア・デ・ラ・クルスの間に交わされた手紙は特に数多く残っている。(28)

  「きれいなカードを何枚か頂きました。とてもかわいい御子が私たちに、自愛心 を受け入れるのはとても難しいことを、また、そのご一生において完全に実行なさったことを教えて下さいます。机の上の目に付くところに御子のご絵を置いています。それをじっと見つめることで、私のかたい心が和らぐかどうか見てみましょう。もっとも、真の回心はあり得ないでしょうが。
お手紙を早くお書きしなかったのは、ひどい風邪を引いていたからです。まだ治っていません。その前には、親知らずのそばのひどい潰瘍でてこずっていました。私は病気になる術を知りませんので、何でも長引きますし、次々と現れます。痛みが来る時、主が我慢することを私に教えて下さいますように。私の年になりますと、痛みが来るのはそう先のことではありませんから。その時には、克己心のある修道女のように痛みに耐えられれば、と願います。そうでないと、人間の前でふさわしくないばかりか、もっと、そして何よりも主なる神の前で似つかわしくないでしょう・・・。」(29)
「あちらではどんなにたくさん仕事があることでしょう!(30) もし私がもっと近くにいれば、どんなにお手伝いできることでしょう!創立の時はいつも人手不足なものです・・・。あなたもお書きになっているように、あの町、いえ、むしろ人々は、とてもいい人たちだと思われます。でも、コルドバの時のように、どちらかと言えば後ろ向きではないでしょうか。」(31)

「・・・ もうすぐクリスマスです。御子の洗練された好みに合った、色あせしない、美味な贈り物を、私のために愛すべき御子にお願いして下さい。[・・・] ここで起こっている全てのことについて、マルティレスからお聞きになったことと思います。彼女と会って、そちらからのニュースを聞きましたが、まだ飢えています。[・・・] そちらの家々のことは私たちにはほとんど分かりませんが、今は、おしゃべりのマルガリータが私たちを満足させてくれています。あなたや彼女から、そちらの皆様が進歩しておられる様子をお聞きして、私はどんなに嬉しいことでしょう!・・・」(32)

マドレ・サグラド・コラソンとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、二人の間で幼子イエスのご絵を送ったり送り返したりしてクリスマスの挨拶を交わすという、昔ながらの習慣を持っていた。ベツレヘムの神秘、キリストの幼年時代に対する二人の信心は、1895年のロレットへの巡礼によって深められた。毎年の御子イエスの往来は、その当時の印象をよみがえらせるものであった。

  「天からの幼い羊飼いよ、この谷へようこそ。あなたの御子が私の部屋に入って来られるのを見た時、私はこう申し上げました。どうかあなたが約束されているものを、私が手に入れることが出来ますように。その逆ではありませんように。なぜなら、私ときたら、御子を苦しませ、涙を流させることはとてもよく出来ますし、御子の涙を見て私が泣いてしまう始末ですから!
御子は祝せられますように。そして、その小さな御手で私たちにたくさんの祝福を与えて下さいますように。[・・・] イエスは手一杯与えて下さることをお止(や)めになりません。悪いのは私たちです。私たちは恵みの時をよく利用しないのです。さらに悪いことに、私たちは恵みの時に気付かないのです。多くの場合、すばらしい恵みを罰だと思ってしまうのです・・・。
御子を見る時、私はこのことを考えます。そして、自分に申します。もし、御子が、今の時期、そしていつも、永遠の御父が御子をお扱いになるのと同じように私たちをお扱いになるなら、私たちの嘆きはどこまで達するでしょうか。[・・・] マドレ、私たちは、神が尊重され評価される全てのものが、どれほど良いもの、すばらしいものであるかということについて、何も知りません。私が学びたい学問はこれです。でも、私はまだ始めてさえいないのです。今年は私のためにこのことだけお祈り下さい。あなたのためにもこれをお祈りします。クリスマスの前夜に、そして、いつも。少しでも主が聞き入れて下さいますように!」(33)

「・・・ ご絵を受け取りました。でも、私の魂はどなたから養われることを望んでいるかご存知ですか。十字架につけられたキリストです。どうしてそのことが分かるのでしょうか。おそらく老年の不思議なことの一つでしょう。私の飢えが増すようにお祈り下さい。たぶん、後に私の大好きなもう一つの飢え、あなたもご存知のように、私が主から授けていただきたいと望んでいる、あの知恵の愚かさに対する飢えがやってくるでしょう・・・。」(34)

「あなたがコルドバにいらっしゃることは存じております。[・・・] 神のみ栄えのためにお働きになり、善良なマドレス、エルマナスや他の人々の熱心さを燃え立たせることがお出来になると思うと嬉しゅうござきます。誰のことをすぐ頭に思い浮かべたかお分かりになりますか。イサベリータです。(35) 彼女のことをお忘れにならないで下さい。かわいそうに。彼女に関心を示し、あなたを信頼するように仕向けて下さい・・・。」(36)

「あなたが生きていらっしゃるのか、死んでいらっしゃるのか分かりません。あなたについて、また、あのマドレ・エンカルナシオンについてお便りをいただいてから、いったいどのくらい経つでしょうか。(37)
クリスマスの前に彼女からの手紙を受け取りました。言葉で表す以上に感謝しています。その時以来、彼女からもあなたからも、音沙汰なしです。
もう御子を送らないことによってあなたにお返しをしようかと思いましたが、冗談にでもそのようなことはしたくありません。だから御子を無事にお返しします。御子は喜んでおられるでしょうか。御子だけがご存知です。御子は、あなたが毎年お与えになるような悪い仲間と一緒には、そう遠くまでいらっしゃらないでしょう。いつも彼に背いている人は、何を彼に与えることが出来るでしょうか。いずれにせよ、彼は祝せられますように。そして御子にこんな長旅の危険を冒させないで下さい。いつか御子は、十二歳の時エルサレムでなさったように、お留まりになるでしょうから。
この聖なる時期に、私どもはお互いのために、十字架に付けられたイエスに対する大きな愛をお願いしましょう・・・。」(38)

「あなたの心を広げて下さるよう神にお願いします・・・」

マドレ・サグラド・コラソンの統治において歴史に残る事件となったあの顧問会からちょうど十年後にあたる1900年9月、歴史は繰り返した。ローマ滞在の後、困難はさらに急速に増し、ついには耐え難い緊張に達した。
「神があなたの心を広げて下さるようにお祈りします。私の見るところでは、あなたの心は大変臆病で、恐れで一杯です。初期の私の状態と同じです。私の場合はそれでよかったのです。私は創られたままの私でしたから。でも、あなたは世に立ち向かうことが出来るのに、あなたの精神はどこへ行ってしまったのですか。」このような言葉でマドレ・サグラド・コラソンは姉を励まそうとした。(39) 1890年のあの有名な会議で、統治のプログラムとして彼女が示したのとよく似た行動計画を、彼女が姉に示唆しているのは奇妙に思われる。「あなたの荷は重過ぎると思います。仕事を分担し、会を導く仕事だけをお持ちになれば、もっと多くのことがお出来になるでしょうし、もっと自由が得られるでしょう。おそらく狂気の沙汰でしょう。でもこの考えが私に思い浮かびましたので申し上げます。たとえば、マドレ・マリア・デル・カルメンがマドリード以北の、そして、プリシマがマドリード以南の管区長という風にすれば、彼女たちは納まるでしょう。そして、彼女たちが物事を直接に見るなら、変わるでしょう・・・。」(40)
これらの言葉は、現実のある面に触れている。しかし、確かに、あの場合には解決にならなかった。それにひきかえ、マドレ・ピラールの大変な苦しみについて述べる時、マドレ・サグラド・コラソンは正しかった。事実、その頃までには、マドレ・ピラールは、五年あるいは十年前とはだいぶ違った女性になっていたのである。
違った、そして、疑いもなく、より良い女性になっていた。彼女の人格の宝石は、ほとんど残忍と言ってもよい過程を経て磨きをかけられた。もっとお手柔らかな方法であれば、このような好結果が得られなかっただろう。書き物で自分のことを書く仕方さえ変化した。彼女は、複雑な構文と豊かな語彙とともに、いつもうまい言い回しを使っていた。今、彼女の言葉は少なくなり、もっと重みのあるものとなった。それらは、彼女の頭にあるだけでなく、心に深く根ざしている、ある種の確信を反映しているようであった。
少し前に引用したマドレ・サグラド・コラソンからの手紙は、どちらかと言えば元気のないマドレ・ピラールを描いているが、その夏彼女が行った全てのことを考慮すると、その印象を和らげざるを得ない。彼女の性格の鋭い角はだいぶ取れたが、困難に直面した時強くなるという、いつもの能力は保持していた。彼女は、マドレ・プリシマがマドリードからいろいろな役職を遂行する時に及ぼす強い影響力を、長年の間耐えてきた。そして、自分の統治に対する補佐たちの反対が強まってきた今、マドレ・ピラールは、有力な家(修練院、第三修練院、終生誓願者の家として、全部で百人ほどがマドレ・プリシマの権威と直接の影響力の下に置かれている)マドリードの家を取り壊すことに決めた。

危険な決定

マドレ・プリシマの移動を支持したマドリードの家では、いくつかの出来事が起こった。1899年12月には、ビルバオの非常に裕福な家庭から来たエルビラ・アレンデが修練を終えて初誓願を立てた。アレンデ家はマドリードに多くの友人を持っていた。そこで彼らは娘の誓願式のために大きなお祝いをすることにした。1900年頃のスペインの状況下では、そのような企ては挑発となった。それはマドレ・プリシマによって準備されたものでもなければ、オベリスコのエルマナスによるものでもなかった。しかしそれは、修道院の中で行われ、現実とは程遠い裕福さの印象を与えた。修練長はそれを避けることが出来なかった。彼女はあまり大きな関心を示さなかった。マドレ・ピラールは彼女に手紙を書いた。その書かれた日付から考えると、それは大きな社会的関心を示すものである。

  「プリシマへ。そこで行われたお祝いのことについて残念に思います。あまり気が進まなかったけれど、神の栄光のためだけにそれを許可した――というような意味のことをそれとなく――お書きになっていました。それで、お尋ねしますが、どこに神の栄光があるというのでしょうか。本当にそれは私たちに、また、テーブルが運び込まれたり、ウエイターが出入りするのを見た人々に、悪い感化を及ぼしただけだと思います。あの地域の貧しい人々に嫌な思いをさせ、新聞で私たちのことを悪しざまに言い続ける、ひどい隣人たちに、攻撃の根拠を与えたのです。
ゴンドマール家の時に、レストランからウエイターを呼んだりする、世俗的で贅沢なもてなしは許しません、と申し上げたことを覚えていらっしゃらないのですか。私の耳に入っているあの時の様子と、今回の様子によると、前回のは、この度許可されたものとは違いました。プリシマ、私からのこの矯正を良く受け入れて下さい。世俗的な精神が私どもの家に入り込まないよう、お互いに助け合わなければならないからです。そのペストが入り込むのと、神が出て行くのとは表裏一体だと思うからです。」(42)

8月、顧問たちに相談した後、マドレ・ピラールは第三修練院をバリャドリードに移し、徳と良識に秀でたマドレ・フィロメナ・ゴイリを第三修練長に任命することに決めた。彼女はバスク人であり――頭脳明晰というほどではないが――、真面目で堅固な人物であった。彼女が第三修練を終えた時、マドレ・プリシマは彼女について非常に好意的な報告をしていた。(43) 補佐たちは、このことに関するラ・トレ師の鋭い意見を思い出し、この変更に非常な難色を示したが、拒否はしなかった。そして9月8日、その新しい場所で第三修練が始まった。
20日に総長は顧問会を開いた。非常に緊迫した空気の中で、補佐たちは総長に、マドレ・パトロシニオがローマから出かけたことに対する不満を表した。(彼女は病気という口実で、修練院と修道院の長上職を辞めさせられたのだと彼女たちは思った。) (44)
この顧問会の中心的なテーマは財産管理の問題であった。マドレ・ピラールにとっては大きな困難と抵抗を伴ったのであるが、財産は分割され、会の各修道院に配分された。これは三年前から行われており、その時から、会計の二重記載制度が用いられていた。(これは1897年の大きな進歩のしるしであった。)今、ローマから帰って、マドレ・ピラールは、ラ・トレ師の助言に基づき、ある方法で状況を逆転させたいと思った。補佐たちは自分たちの意見を固持した。そして、この場合は、一見彼女たちは正しかった。とにかく総長は、ラ・トレ師に対する彼女の質問と、彼の答えを、補佐たちに書面で与え、この件に関してはどんな権威者にでも自由に相談してよいと言った。マリア・デル・カルメン・アランダは、本会の会憲を良く知っているビヌエサ師を訪ねた。注意深く調べた後、彼は詳細な報告を出した。ビヌエサ師はウラブル師にもこの報告に目を通してもらうことを提案した。ウラブル師は報告を承認した。彼はまた、統治の責任者たちに最後の警告を発すべきだと思った。彼の手紙はマドレ・プリシマ宛になっていたが、マドレ・ピラールを含む全員宛のつもりであった。「まるでバベルの塔のようです――管理運営のことではなく、顧問会の状況のことを指していた――成聖を目指す人々がこのような状況にいるのを見て心が痛みます。[・・・] これは神からのものではありません。神はこれを祝福することは出来ません・・・。」(45) 彼は特別な祈りを唱えるよう、彼女たちに強く勧めた。それは、嘆願のように、全ての家で唱えられねばならない。彼は、彼女たちに、過去の全ての混乱を忘れ、全てに於いて会憲に従い、批判的精神から逃れ、顧問会では一切口論せず、審議票決を要する事柄に於いては皆が多数の意見を受け入れるよう要請した。彼はこの手紙を勧告で結んでいるが、補佐たちがマドレ・プリシマの意見に根拠を置いた、あの良い精神の独占とでもいうものに彼が言及していることは明らかである。

  「誰も自分自身の光を信用してはなりません。あるいは、自分だけが神の照らし
を受けているとか、神の霊に動かされているとか思ってはなりません。神のなさり方は、貧しい人に意思を伝え、真実の見えない人、傲慢な人を狼狽させます・・・。
この通達は、建物を支える支柱のようなものです。少なくとも主なる神が会議の日をもたらして下さるまで。その日には、統治に当たる人々の人事に法的な変更を施すことが出来ます。」(46)

近く起こると見られる破局への言及は非常にはっきりしていた。皆は大変強い印象を受けた。まさにその10月、年の黙想の後、マドレ・プリシマはマドレ・ピラールに手紙を書き、当時彼女を苦しめた全てのことについて赦しを乞うている。総長は心のあらゆる謙遜を傾けて返事を書いた。

  「・・・ 私の性格、また、わたしの所為(せい)で、不快なことが起こるのを恐れていますので、あなたにお願いすること、また、他のマドレスに申し上げたいことは、私をあたかも回復期の病人、あるいは、確かな足取りで回復期を始めたいと思っている人間であるかのようにみなし、忍耐していただきたいということです。このような人々から多くを期待することは出来ません。でも [・・・] ゆっくり進ませてください。そして、自然の成すがままにさせて下さい。(この場合には恩寵ですが・・・。)」(47)

「主が戦いのための力をあなたにお与え下さいますように・・・」

「毎日仕事が増えてまいります。それで、前よりもお手紙が書けなくなりました。
――1901年1月、マドレ・ピラールは妹に書いている――でも、他の人より先にこのことをあなたにお知らせしたいのです。パトロシニオが出来るだけ早くもとの仕事に戻ることについて、補佐たちは満場一致で賛成の返事をしました。修練長のことについては、彼女たちは審議票決を持っています。それで私はこの決定を神のみ旨として受け入れます。だから今は旅行のことしか考えておりません。み旨ならば2月になるでしょう。」(48)
このニュースを受け取ってマドレ・サグラド・コラソンはとても残念に思った。「マドレ・パトロシニオよりもフリアのほうがもっと手際よく、賢く行動し、機転も利きます。彼女が続けられれば大変いいと思います。でも、もし主が違った方法で物事を処理なさるなら、それが一番いいことです。主は悪からも善を引き出されます。奇跡だけが状況を食い止められると思います。[・・・] でも、主はとこしえに祝せられますように。そして、私たち皆を大いに謙遜にして下さいますように。彼女に関する私の意見を述べる手紙を、何度か補佐たち宛に書きましたが、[・・・] あえて送りませんでした。恐れのためです。私はただ祈ってきました。でも、神はそれをお望みにならなかったようです。このほうがもっと良かったでしょうから・・・。」(49)
この頃までにはマドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールの困難の一部を推測し、あるいは、その幾つかを積極的に知ってはいたが、顧問会で事がどこまで進んだかは知らなかった。1月22日の会合で、補佐たちがマドレ・パトロシニオのことを聞かれたとき、言葉では応えようとしなかったが、続く票決では、出来るだけ早くローマへ帰るべきだときっぱり述べたことなど、彼女には想像もつかなかったことであろう。彼女がその会合、あるいはその時の顧問会のどの集まりであっても、出席していたとすれば、会憲の文面を厳しく守ろうとして良心と喜びが犠牲にされている緊迫した雰囲気の中で、歴史が繰り返されているのを目のあたりにしたことであろう。
正確に言うと、状況は過去をそのまま繰り返したのではなかった。過去よりも目だって悪くなっていた。
マドレ・サグラド・コラソンは多くのことを知らされずにいた。にもかかわらず、彼女は非常に理解力があったので、マドレ・ピラールの気持ちを理解するために全部を知らされる必要はなかった。「戦いのために主があなたに力を与えて下さいますように。あなたの姉妹はこのために心を尽くして祈っております。」 院長が帰ってくるとのニュースに対してマドレ・ピラールに書いた返事の最後を、彼女は次のように結んでいる。それはあきらめの手紙だった。次の日、多分もっと広い心で受け容れることが必要だと思ったのか、再びペンを取った。

  「親愛なる姉上、昨日は急いでお書きしましたので、私の言葉にはいくらか、ニュースに対する私の悲しみに影響されるところがあったのではないかと思います。それで、私がそのためにあまりにも苦しんでいる、とあなたには思われるかもしれません。[・・・] ご心配なさらないで下さい。私はいつも神のみ旨に委ねております。私は、神の恵みにより、出来る限りの寛大さを尽くして、神が望まれる全ての事に、自分の意志を合わせたいと思います。[・・・] 主なる神は、ご自分がなさろうとしていることをご存知です。そして、これをお許しになる時、その理由もご存知です。私たちが成聖のためにこれを利用することを、神がお許し下さいますように。あなたがなさるべきだと思うことは、マドレ・パトロシニオをよく受け入れ、彼女があなたと密接に一致し、直接あなたに依存するようにして下さい。[・・・] 主が私に忍耐、分別、賢明さ、そして謙遜を与えて下さいますように。あなたも覚えていらっしゃるように、何もかもが私たちに反対し、私たちの力を殺(そ)ぎ、溺れさせようと企んでいるかのように思われた、あの家での最後の日々と同じくらい、今、これらを必要としています。もし、あの時と同様、神の恵みが私たちを支えて下さるなら、主の栄光のために私たちは溺れないでしょう。あの時も溺れなかったのですから。でも私たちは神と非常に近く一致していなければならないと思います。」(50)

「ウバオ訴訟事件」の影響

一連の外的な問題が状況を複雑にした。1901年までには反聖職者主義の波が、ある種
の政治宣伝による知的領域から、一般大衆まで進んでいた。大通りでの叫びや、マスコミの風刺にもなっていた。」(51)
マドリードで、そして実際スペイン中で大いに話題に上ったケースは、若いアデラ・ ウバオのそれだった。家族の強い反対と戦った後、彼女は1900年3月12日、マドリードのオベリスコの修練院に入った。二十三歳だった。彼女は、自分は成人に達しており、母の意志に反してまでも、自由に自分の生涯について決めることが出来ると考えた。未亡人であった母と、兄弟たちは、訴訟を開始した。今日ではそれは驚くべきこと、ある点では、滑稽にさえ見えることであろう。しかし当時は政治家の手に大きな波紋を引き起こした。未亡人は先ず審議裁判所判事のところへ事件を持っていった。入会は全く自分自身の個人的な、自由な決断によるものだと娘は申し立てた。これはちょうどマドレ・ピラールと四人の補佐たちがローマにいた1900年の春に起きたことだった。裁判官はアデラに有利な判決を下した。そこで家族は高等裁判所に上告した。
ウバオ家はニコラス・サルメロンに弁護を依頼した。そこで、それ自体は重要性のないこの事件が、当時のあらゆる反聖職者的偏見の的となり、十九世紀独特の混乱と激情に取り囲まれることとなった。ウバオ家とその友人たち、また自らを一般信徒と称していたサルメロンやその他の人々の論法は我々の笑いを誘う。なせなら、アデラ・ウバオとその弁護者たちと同じくらい、あるいはそれ以上に、彼らは神や教会の法律を持ち出したからである。
10月、スペイン中の新聞がいろいろな見出しと長さで事件を公表した。El Liberal紙(マドリード 10月19日)は「重要な審問 神に一つの魂、悪魔に百」との見出しで報じた。その記事の中にこうあった。「とにかく、平和のために言っておくが、これは民法の一つの解釈以上の何物でもない。」 (52)
この事件はスペインの新聞で大きく騒がれた。(53) ウバオ夫人は莫大な財産を持っていたので、あらゆる手立てに頼り、訴訟に勝つことが出来た。アデラは「家庭の安楽さと家族の寵愛」によって甘やかされていた女性であったにもかかわらず、「召命に逆らうべきだ」(54) ということを彼女に分からせたい「まともな人々の悲願や忠告」の全てに抵抗したのであった。
10月19日のEl Liberal紙が信じていたように思われる、あの有名な審問に対し、聖心侍女たちは何の関与もしなかった。なぜならマドレ・ピラールがその考えに強く反対したからであった。ローマにいた間に彼女はマドレ・プリシマに書いている。「・・・ 会は訴訟に対し何の関わりも持つべきではありません。それを支持することさえ私は好みません。何故ならそれは、娘の母に対する問題だからです。でもこの件は正しいと私は確信しています。アデリータはひどい苦痛に耐えなければならず、同情とともに賞賛に値します。」(55) 総長は自分の立場を強く保持した。それは修練長(マドレ・プリシマ)のそれとはかなり違っていた。それで、補佐たちの中には総長を咎めた者もいた。このことからマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはアデラが出たことをマドレ・ピラールの所為(せい)にした。弁護士を頼むことを総長がいつも拒否していたというのであった。「彼女はこの件に関してはいつも同じ返事でした。しかもたびたびのことでした。さらに彼女はアデラには母親と和解するまで着衣させるべきではないと命じました。」(56)
10月20日の裁判では法の問題が討議された。民法第三百二十一条の解釈であった。「身分を選ぶ」とはどういう意味だろうか。(57)
マドリードの法廷は判決を承認し、次のように述べた。ウバオ嬢が修道院を出て、母親の元に戻るのに「正当な理由はない。」「なぜなら、身分を選ぶことと、それを生きることとは、別々の考えである。この二つは非常にはっきりしており、誰にでも理解出来、皆が同じ光でそれを見ることが出来ると言える。前者の意味は、結婚生活であれ、修道生活の完徳の身分であれ、人が一生の身分としての生き方を選ぶことである。後者の意味は、選んだものを実行に移すことである・・・。」
「前文」は非常に長かった。裁判の判決は、この前文と、アデラ・ウバオが、裁判から送られた公証人の前で、自分は自由意志で修道院に入ったのだと宣言したことに基づいていた。裁判官たちは、サルメロンの、公会議文書や教会関係作家からの引用でいっぱいの演説という、まるで滝のような雄弁にもかかわらず、この結論に達したのであった。
ウバオ家は次に最高裁判所に訴えた。その間アデラは自分の望みどおり修道院に留まった。しかし彼女は、マドレ・ピラールの断固とした決定により、修道服の着衣は許されなかった。
1901年2月の初めに、この件は再び世論の前面に踊り出た。最高裁における審理は7日に行われた。ペレス・ガルドスの作品Electraが初演されたのは、1月30日のことであった。それはどちらかというと平凡な作品であった。しかし、反聖職者的気風が高まっていたあの時代には時宜を得たものであり、目覚しい成功を収めた。その筋書きの中に民衆は、アデラ・ウバオの事件との類似性を見出した。しかし不思議なことに家族はこのように同一視されることを遺憾に思わなかった。
このようなごたごたから全く離れていたマドレ・サグラド・コラソンは、この頃、マドレ・パトロシニオがローマに戻ったら、修練長の職だけを与えるようにと姉に示唆している。彼女は共同体の状態を非常に心配していた。一つには院長の健康が優れないことにもよるが、あらゆる面で無気力になっていた。「勇気を出して試してみて下さい。補佐たちの意見を聞かずにお出来になるでしょう。そして、あなたはきっと主の御眼にかなうことをなさるでしょう。」(60)  十年前ならマドレ・ピラールは非常につっけんどんな返事をしたことであろう。しかし、絶えず困難に出会ったことで、彼女は大きく変わっていたのである。
数日後マドレ・ピラールは書いている。「マドレ・パトロシニオがそこへ行くことについては神にお任せし、み旨に合わせることをやめないで下さい。今のように困難な状況の下では、それは、神の計らいに全てお委ねするという私たちの目指していることに反するからです。一粒の麦が死ななければ、それは実を結ぶことはない、ということを私はたびたび考えます。私たちのうちの誰かが死ななければなりません。この聖なる行いの実が修道家族の中に実りますように。多分、そのことが行われるまで、主は私たちをこの困難や危険に満ちた生活の中に留めて置かれるのでしょう。[・・・] 人間的な見方からしても、補佐たちは、彼女が戻るべきだと口をそろえて言ったのですから。私が制限を加えることで、もっと苛立つと思いませんか。このことはさらに、私を信頼しない理由をマドレ・パトロシニオに与えるでしょう。このことは避けられねばならないと思います・・・」(61)
この場合はマドレ・ピラールの言うとおりだった。補佐たちの精神状態のために、彼女はローマの院長のことに関して、マドレ・サグラド・コラソンを喜ばせることも、自分自身の判断で行動することさえも出来なかったのである。

「主は全てのことから栄光を引き出されます。これは慰めです。」

この若者――マドレ・ピラールはアデラ・ウバオのことを指している――についての手紙の中で言っている。「ここで私たちはアデラの事件の判決を待っております。彼女には不利になるだろうとの噂です。結果がどうであろうと、主が私たちをお助け下さいますように。原告と弁護人双方の家族の階級からすると、これは醜い揉め事ですから。」(62)
最高裁の審理は、非常に修辞の華麗な弁舌で見物(みもの)だった。サルメロンは聖イシドロ、テルトリアヌス、マグントおよびトレントの公会議、聖フランシスコ修道会の年代記、真福八端、王立アカデミー、七部法典などから取った新しい論法で、論述を補強していた。彼の口調は時に終末論的であり、時に悲壮であった。そして、高いお金を払ってまでも、何とか傍聴席を取ろうと押し入ってきた人々の便宜を常に図っていた。少し引用してみよう。アデラの召命物語についてサルメロンは言う。「この母は娘と非常に密着して生きてきたので、二人の祈りは混ざり合うほどでした。二人は同じ霊的指導者を持っていました。二年前にイエズス会のセルメーニョ師が伝道に来た時、サンタ・マリア教会で説教し、人々に赦しの秘蹟を受けるようにと促しました。この娘は、母の助言を求めずに、行って総告白をしました・・・。」 (64) 総告白をしようと自分で決めたことが不服従とみなされるほど母親の支配下にいる二十三歳の「子ども」のイメージは、現代の見地からじっくり眺めるなら、あまりにも牧歌的――この表現を使っても良ければ――ではないか。しかし当時、記念すべき2月7日には、それが裁判官や傍聴者の頭に異常な影響を及ぼしたのであった。(65) 民衆が最高裁判所を出る時、サルメロンに対する拍手はますます大きくなり、いろいろな人や団体に対する拍手ややじと重なり合ったのである。(66)
マドレ・ピラールは2月11日に書いている。「アデラ・ウバオに関する判決が今日出されます。大騒ぎになるのではないかと恐れています。昨晩マドリードの町には戒厳令が布かれたのですから。」実を言うと、戒厳状態は、近々執り行われることになっていたアストゥリアスの王女マリア・デ・ラス・メルセデスの結婚式に備えたものであった。「いずれにせよ、私たちは平静さを失ったとは思いません。[・・・] ただ、当事者だけが、無理やり家に帰らされるのではないかと震えています。[・・・] 今まで一番自由なのは私たちでした。もう人々は私たちに石を投げたり、罵声を浴びせたりしなくなりましたから。将来どんなことが起ころうとも、私は主のみ手にお委ね致しました。そのために、また、私たちの上に垂れ込めている雲を家から取り払うことは出来ないので、私は平和です。いつもどおり仕事を続けていくつもりです。私に何が出来るというのでしょうか。これが私の義務だと思います。違う見方が出てくるまで私は変えないでしょう。まだニュースは入りません。でも、全ては正義と理性に背くものらしいです。こんなに長引くことも、何か悪いことが起こっているしるしでしょう。主はこと全てから栄光を引き出されるでしょう。それが慰めです。」 (67)
判決は2月24日に出た。その同じ日に、裁判官はアデラを母親の許へ連れ戻すためにオベリスコの家に行った。修道院を去る前に、この若い女性は、自分が無理やり出されるのだということ、そして、二十五歳になったらすぐに戻ってくるということを皆に知らせた。後数ヶ月待つだけのことだった。彼女の宣言は書き残された。

「院長としてブルゴスへきていただけないでしょうか。」

アデラが去った後彼女のためにロザリオを唱えに集まった人々に、この出来事は強い印象を与えた。当然のことながら、人々は、この件に関するマドレ・ピラールとマドレ・プリシマの見解の相違を知らなかったし、関心もなかった。修練長は、蹂躙に抵抗する側だった。結果が出る前のある時、彼女は有能な人々に相談し、アデラのための弁護士を探すようにとの助言を得た。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。「彼女が相談した人の一人であるマウラによると、アデラは成年に達しようとしているので、正義が彼女の側にあることは明らかであり、彼女に有利な判決が与えられることはほとんど間違いなく、これ以上続けるのは意味がないということです。」(68) もしもマウラの助言とマドレ・プリシマの考えが取り入れられていたなら、サルメロンほど大げさな調子でないにしても、反対の論理で、もっと根拠のある弁護になっていたことであろう。しかしこのことは、アデラがイエズス会士や修道女の側から受けていると思われていた無理強いや圧力というものの、もう一つの証明であると、たやすく解釈されたかもしれない。
マドレ・ピラールの姿勢は、こういう誤った意見に対して何の弁明も与えなかった。修道会に入会するか退会するかはこの女性にとって全く自由であると分かってはいたが、母と娘に対面するところまで彼女の弁護を推し進めることを拒否した。アデラが家に帰ってからは、総長はマドレ・プリシマに、あるいは他のどの会員にも、彼女と接触したり、文通することを禁じた。

  「・・・ アデラ・ウバオが二十五歳になるまでは、訪問客としてさえ客間に入れてはなりません。その間、み旨ならば、神の栄光のために何が最上であるかを見定め、問い続けましょう。そして、神の恵みによってそうし続けましょう。
そしてこのことを疑ってはなりません。どんな口実の下にも、どんな助言によっても、それ以外のことはするべきではありません。同様に、この気の毒な人とは決して連絡を取ってはなりません。ただ、彼女のために神に祈りましょう。」(69)

まるでオベリスコの家の周囲に世間の注目が足りなかったかのように、もう一つの出来事が7月に起こった。アストゥリアスの王女が結婚した後も通りの混乱は続いていた。今度の動機は、結社の法を修道会に適用することについての、法廷での議論であった。知事は院長に、二人の衛兵を送って家を守らせようと言った。院長のマドレ・プリシマは、最悪の事態を恐れ、急遽、修道女たちを友人関係の家へ私服で送った。その夜は何も起こらなかった。ひそかに出かけた会員たちは、翌朝、戻り始めた。新聞はいつもの仕方でその件を取り上げた。すなわち、彼らは、これを恥ずべき逃避と称し、その行為の些細な詳細までも誇張して、共同体の恐れをあざ笑ったのである。
マリア・デル・カルメン・アランダはビルバオにいた。彼女は新聞でこのことを知った。「世俗的な新聞の中傷に過ぎないと思い、私は何一つ信じませんでした。でも、ああ、今度は彼らの言っていることは正しかったのです。」 (70) 修道女たちの大慌ての出発、根拠のない不安は、さまざまな批判を生んだ。マドレ・プリシマはその事件にはあまり重要性を与えずに、それをマドレ・ピラールに報告した。今では確かに関心に値しないことである。しかしその当時は、そして、あの状況下では、事は大変違っていた。マドレ・ピラールはこの件を、これまでに起こったウバオ事件や、その少し前のアリェンデの祝いのそれと結びつけた。この頃までには、総長はマドレ・プリシマを院内の職務に復職させることを考えていた。しかし、補佐たちの反対にあって妨げられていた。1901年の聖イグナチオの祝日に彼女は書いている。「愛するアマリア (71) :もうなす術(すべ)がないことについて、私は何を言おうとしているのでしょうか。昨日あなたのお手紙を読んでこのことを考えました。そして今日、誰があなたの代わりを務めるべきかを、あなたが私に決めさせて下さったということを付け加えましょう。というのは、もし私があの家に対して責任があるのなら、出来るだけ早くそれを受け入れたいと思いますから・・・。」
マドレ・プリシマの優越意識と非常に激しい性格は、マドレ・ピラールにとって大変困難な状況を生み出したので、彼女はマドリードの家に出来るだけ短く滞在することにした。会員の中には、無知のためか、マドレ・プリシマの反応を恐れてか、総長の権威を剥ぎ取る手助けをする者もいた。1891年7月21日に書かれたマドレ・ピラールからマドレ・プリシマに宛てた手紙は、この状態に対する返事である。「・・・ 私たちの行ないを、少なくとも完全に意識していないので、あなたと私は同じ家で権威のある職務について一緒に住むことは出来ません。ですから [・・・] ある意味で太祖アブラハムと甥のロトに倣い、次のことを提案致します。院長としてブルゴスの家に来ていただけないでしょうか。」(72)
この手紙の中でマドレ・ピラールは、修練長の人選についてしばらく前に補佐たちにした質問に答えるようマドレ・プリシマを促した。マドレ・プリシマは、自分と一緒に抵抗するためマドレ・マリア・デ・ラ・クルスを引き込んだ。その結果、計画は遅れた。
あらゆる困難にもかかわらず、マドレ・ピラールは1901年の夏、計画に成功した。9月6日、マドレ・ルトガルド・バケダノが修練長に任命された。マドレ・プリシマはその前年に創立されたブルゴスの家の院長に任命された。6月に開かれた顧問会で、ローマの院長兼修練長であるマドレ・パトロシニオは、ローマで第三修練をしなければならない会員のための第三修練長も兼ねることが決定された。
この新しい状況は長くは続かないだろう。新しい修練長も、1900年に任命された第三修練長――マドレ・フィロメナ・ゴイリ――も、知らないうちに、マドレ・ピラールに反する補佐たちの反応に巻き込まれていることが分かった。この数年間に彼女らの反対は激しさの頂点に達しており、総長が完全に屈することなく抵抗することが出来たのは、ひとえにその活力ある性格のおかげであった。
その夏、マドレ・ピラールが職務の変更を練っている間に、補佐たちは自分たちの不満について保護枢機卿に手紙を書き始めた。ホセ・デ・カラサンス・ビベス・イ・トゥト枢機卿は、フィロメナあるいはルトガルダのように、修道会の役目を引き受けたばかりであった。彼は出来るだけ良くその務めを実行したが、明らかに一方的な情報に頼っていた。(73)

「神の愛のために一致して下さい」

マドレ・サグラド・コラソンはローマから事件の経過をたどり、ますますマドレ・ピラールと心を合わせていた。しかし、情報不足のため、時々、有益な助言を与えることが出来なかった。マドレ・パトロシニオが第三修練長として新たに任命されたことを聞いた時、彼女は書いている。「このシスターたちが第三修練をなさることを喜んでおります。私たちに対する神のみ旨である会憲を果たすことになるからです。そして、神はそれを祝福して下さるに違いありません。でも私は、それがバリャドリードで行われるのであったなら、もっと嬉しかったでしょう。少しの犠牲は伴ったでしょうが・・・。」 (74) この示唆は実際的ではなかった。しかし、一致の力について話す時には、良い助言を与えた。信仰のうちに生き、捧げられた、長年にわたる、喜びと悲しみの混ざり合った、彼女自身の経験は、最大の宝としての一致に対する望みを彼女に与えた。長い間の孤独と、自分を取り巻く不信により、彼女は人一倍沈黙と賢明さの真価が分かるようになっていた。

  「愛する姉妹へ。[・・・] マドレ・パトロシニオ宛の手紙を送り返します。あのように重大な任命が書いてあるのに、封をしないで参りましたので、そんなに気軽に渡すことは賢明ではないと思いますので・・・。
他のことについても申し上げたいと思います。補佐たちのことについて、どなたにも内密に話さないよう、充分注意して下さい。補佐たちがみんなであの病人を帰らせたとマドレ・マティルデにお書きになったと聞いて、どれほど残念に思ったかお分かりにならないでしょう。あなたが彼女を送りたがっていないのだ、と思わせる結果になったからです。あの姉妹は、彼女を戻したいと強く主張していた一人だったのです。・・・
祈り?私は修道会のため、また、あなた方五人の一致のために、全てをお捧げしています。もし主がこの全てに終止符を打って下さらないのなら、修道会は前進することなく、神は私たちを祝福して下さらないでしょう。神の愛のために一致して下さい。今のままの状態で生きるのは不可能です [・・・] そのために私は何をすればよいのか分かりません・・・。」(76)

手紙のこの箇所でマドレ・サグラド・コラソンは、再び不可能な解決を示唆している。不一致の主な温床は顧問会の集まりだと彼女は思った。「・・・ 顧問会のたびに不一致が増して行きます。皆がますます頭(かしら)に信頼しなくなってきているからです。」討議の間に事が複雑になったのは事実である。しかし、マドレ・ピラールも他の誰も、合法的にそれを避けることは出来なかった。
6月14日、バリャドリードの家の院長であるマドレ・レデンシオンが亡くなった。聖性に秀で、真に有徳で賢明な女性で、創立者姉妹は大変尊敬していた。マドレ・サグラド・コラソンは、彼女が「聖性に秀で、賢明」であるが、そっけない性格の人だと言っていた。マドレ・ピラールは彼女が大変好きだった。それは当然だった。彼女が生活していた不信頼の雰囲気の中で、総長は、あらゆる試練の中でも忠実な、こういう真正直な人々の中に、修道会の救いを見ていたのである。

  「愛する姉妹へ。たった今電報が届きました。私は驚きませんでした。それを予期していました。主があなたにその辛い犠牲をお頼みになろうとしていることが分かっていましたのでなおさらです。主はあなたから全ての望みを、最も聖なるものでさえも、剥ぎ取ることを [・・・] また、完全な霊的貧しさの道へあなたをすっかり導き入れるために、悲しみによって霊化することをお望みです。心の準備をしていて下さい。それはあらゆる自然的なことに逆らうことだからです。とてもとても苦しいことに違いありません。さて、アマリアのことですが(77) 、それも、神のお仕事です。神は尖った道具をお使いにならなければならないからです。長い間、あなたのために大きな力をお願いして祈って参りました。あなたの時が来たことが分かるからです。
亡くなったシスターについて言えば、彼女は幸いです。今では安全な場所にいます・・・。あなたにとってもこれは慰めでしょう。後は一番いいと思うようになさって下さい。いつものように、十字架を苦い気持ちでなく受け入れて下さい。全ては私たちをこの上なく愛して下さる神から来るものとみなして下さい。」(78)

二日後マドレ・ピラールはいつものように、バリャドリードの院長が亡くなったお知らせを全ての修道院に送った。病人の生涯の最後の日ともなった聖心の祝日に、彼女が次のように言ったことを彼女は記している。「マドレ、あなたは私が死ぬことをお望みになりません。でも、マドレは私の命を犠牲として神様にお捧げすることがお出来になります。私は死ぬことを切に望んでおります。主がこのお恵みを今日私にお与え下さるかどうか見ましょう。」マドレ・ピラールは同じ手紙の中で続けている。「彼女は私が彼女の健康を祈り、また、人にも祈りをお願いしていることを知っていました。神が彼女の死を計画しておられるのに、私たちがむりやり彼女を引き止めて下さるよう神に祈っているとでも思って、先の言葉を言ったのでしょう。」(79)
しかしマドレ・ピラールは、彼女の秘書が数年後に物語った一つの詳細に触れていない。それは、このシスターの死がもたらした悲しみを、彼女自身寛大に受け入れたことを表すものである。「マドレ・ピラールがある家に着いたとき、あるいは去る時、彼女がスシペ(Suscipe)(80)を歌うまで共同体の気が済まなかったことは周知の事実でした。 [・・・] 彼女がサラマンカの家を公式訪問していた時、バリャドリードの院長、マドレ・レデンシオンが重病だとの知らせを受けました・・・。」総長と秘書はバリャドリードへ出かけた。初めマドレ・レデンシオンは快方に向かっているように見えた。そこで、共同体はSuscipeの習慣を思い出した。「マドレスはミサの中でSuscipeが入るように用意した。しかし、主が言葉どおりにお取りになり、マドレ・レデンシオンをお召しになるのではないかと恐れて、マドレ・ピラールはそれを望まなかった。しかし、聖心の祝日にはそれを歌うことにした。ミサの後、マドレ・ピラールは言った。「主は院長様をお呼びになると思います。心から歌い、もしみ旨ならば彼女を神にお捧げするという、大きな促しを感じましたので。彼女は天国へ行くと思います。」そして、そうなった。マドレ・レデンシオンはその日の午後三時から四時の間に亡くなった。」(81)

苦しみが二人の創立者を近づけた。しかし二人はまだお互いを完全に信頼するところまでは行っていなかった。マドレ・サグラド・コラソンは姉を大変愛していたので、自分を忘れ、総長と補佐たちの間の一致を何よりも優先した。ここでもまた、若い頃からずっと彼女のものであった霊的孤独を受け入れるのであった。彼女は書いている。「・・・ コンチャに来たあなたのお手紙を送り返しました。あなたが私を信頼して接することを皆が分かるのはよくないと思いますので。彼女たちにだけそうして下さい。(83) 私についての神のなさり方が、今、少しは分かってきましたから、今、私は全てを耐え忍びます。そのように見ていますから、より易しく耐えられます。」(84)
1901年の夏に行ったマドレ・ピラールの決断についてマドレ・サグラド・コラソンが述べたことは、彼女を大変力づけるものであった。彼女は姉に書いている。「当事者たちの霊魂に益となりますので、私は全ての変更を、とても、とても喜んでおります。あなたを照らして下さり、あなたが続いて物事を覆されるよう、神にお願いします。これは大変主に喜ばれることです。神は謙遜を非常に愛されるからです。名誉は全くその反対の方へ向かうものです。悪い習慣はこれらの変更によって癒されます。」(85)  マドレ・サグラド・コラソンからのその同じ手紙によると、そのニュースを知ったローマの家は大騒動になった。(このことでマドレ・プリシマが指一本触れられない存在であるとの思いが、当時、どれほど深く染み込んでいたかが分かる。)マドレ・ピラールは述べている。「これらの変更、特にアマリアをここから移すことは、ただ神である主から来たものです。とても困難でしたが、愛する主に、このお仕事を続けて下さるようにお祈り致しましょう。彼女は予期されたとおり、自分の性格、そして、その並外れた才能のために、私たち皆が手伝って生じさせた傲慢と戦っているのです・・・。彼女は21日まで黙想をしています。彼女の本当の回心、長続きのする回心のために祈らなければなりません。」(86)

マドレ・ピラールはマドリードから妹に手紙を書き、嫌でも毎日通りで目撃する、また、修道院の囲いの中でさえも耐えなければならない光景について話している。「今日、国会が開かれました。その同じ時刻に、闘牛場で社会主義者たちが集会を開きました。[・・・] 後で教会などに投石があると予想されています。これらの悲劇に興を添えるものとなるでしょうから。[・・・] おそらくこのために、新しい家の創立は延期しなければならないでしょう。――彼女はアスペイティアのことを指していた――。新聞は八日か九日前からこのことについて書き始めました。明らかに意図的に、恩人は誰か、とか、その人々の職業などとか、名前とか地位とかを、また、小さな白い羊 (87) の囲いがそこに移されるとか書きたてています。[・・・] これは悪魔的です。このことで人々は大変心配し、マドリードからも他からも、私たちは質問攻めに会っています。何も打つ手はありません。なぜなら、あの人々はそれを阻止するために手を尽くすでしょうから・・・。」(88)
最も大きい外的困難でさえ、顧問会の反対に比べれば物の数でもなかった。1902年1月、マドレ・ピラールは妹に書いている。「・・・ 私たちはここで、出来る限りのことをしていますが、なすべきことを尽くしてはいません。四人の女性 (89) は寄ってたかって反対します。とても残念です。でもこのまま続けなければなりません。これは事実です。主が私たちを守って下さるでしょう。一致の不足は、スペインで私たちが期待していることに何の役にも立ちません。追放された場合の用意は何もしていないからです。」(90) マドレ・サグラド・コラソンは悲しい思いでその手紙を受け取った。「その女性たちの問題について憂えております。そして、彼女たちのために真剣に祈っております。ひどいです。しかし、私が驚き、理解できないことは、レアンドラ嬢が、以前は彼女たちと非常に馬が合っていて、いつもいっしょにいたのに、今はすっかり変わったことです。」(91) 手紙全体の調子から、また、それがマドレ・ピラールに受け取られた様子から見て、彼女たちに言葉には何の遠慮も無かった。今では二人とも苦々しさを覚えないで過去のことを話すことができた。

  「主が助けて下さらなければ、私には前のと同じくらい外聞の悪いもう一つの反対が見えます。それは二番目ですからもっと悪いでしょう。あなたには経験がおありです。そしてあなたは人々をご存知です。平和のためにあなた自身を犠牲にして下さい。穏やかに彼女たちに屈し、彼女たちの心を勝ち取って下さい。キリストの愛のうちに一致して生きるためです。無理やり他のどんな方法を取っても、何も得るところはないでしょう。私たちのうちの誰も十分謙遜ではありませんし、状況は毎日もっと困難になってきているからです。また、外からもはっきり見えます。こんなに多くの重荷からあなたが解放されるのを見るために、私はどんなものでも犠牲にしましょう。でも、何もかも自分でやりたがり、誰をも信じないのは、私たちの家族の欠点です。私はほとんど訳も分からずに話しています。もし私があなたを傷つけるなら、そんなふうにお取りにならないで下さい。姉妹としての関心からなのです。マドレ.マリア・デル・サグラド・コラソン,E.C.J.」(92)

マドレ・ピラールはこの警告によって気を悪くすることはなかった。多分このことは、こうした警告をあまり必要としていなかったことのはっきりした証明であろう。事態は、マドレ・ピラールがもう補佐たちの心を勝ち得ることは出来ない、というところまで来ていた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダはその書き物の中で、マドレ・ピラールに対する補佐たちの反対について、また、彼女がいつも思いやりとまっすぐな心をもって補佐たちと接したことについて、しばしば証言している。

第4部 第5章 注

(1) 枢機卿はマドレ・ピラールへの手紙に書いている “Con mia sorpresa mi dice che depo ciò che le è accaduto nella fondazione di Salamannca e di Burgos, essa non può far nulla・・・”
(2) 1900年3月1日の手紙。
(3) 1899年6月19日、顧問会議事録より
(4) 1899年3月26日の手紙。
(5) 1899年12月1日の手紙:ブルゴスの創立は、これらの出来事の翌年1900年6月に行われた。
(6) 1900年3月7日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(7) 年代記 Ⅲ 439ページ。
(8) ラ・トレ師を指す仮名。
(9) 1900年5月24日、マドレ・マリア・デ・ロス・サントス宛の手紙。「マドレ」というのは、「家族」ということばのように、マドレ・ピラールが「修道会」のことを暗に指して使っていた言葉。
(10) 1899年11月、マドレ・マルガリータ・バロへの手紙。
(11) Cimientosスペイン語原本618ページに引用されている手紙参照。
(12) 1894年12月27日の手紙。マドレ・パトロシニオはマドレ・サグラド・コラソンの頼みを拒否した。それは謁見を申し込みであった。
(13) ウラブル師宛の手紙の一部。「私たちを養成する祈りの精神、黙想や潜心に反する幾つかの点が会憲に見出されることで残念に思う気持ちをマドレに申し上げずにはいられません。ローマで、修練女たちに、聖リタの列聖の前夜にマドレ・サグラド・コラソンと聖ペトロへ行くようにとマドレ.が指示したことを知って、あの院長が泣いて、どうしたものでしょうかと私に言っておりました。どうすればよいのか、規則遵守や沈黙は、どうやって始めればよいのでしょうか、と。総長が、休憩時間や、おやつや、おしゃべりを、惜しみなく与えるとは、等と。(1900年6月2日)
(14) マドレ・パトロシニオは持病を持っており、ずっと体調が悪かったが、常に忍耐と不屈の精神を示した。非常に苦しい病状を経て、1927年3月30日、ボローニャで死去。ローマで二度院長を務めた。(1895年〜1904年と1916年〜18年)
(15) 1900年7月8日の手紙。
(16) 1900年10月に書かれた手紙。
(17) マドレ・ピラールは、マドレ・パトロシニオが院長でもあり修練長でもあったこと、そして、会憲により、この役職の任命に当たって、補佐たちは審議権を持っていたことを指している。
(18) 1900年10月22日の手紙。
(19) 1898年の霊操、霊的手記 43。
(20) 1900年、霊的手記 44。
(21) 1900年、霊的手記 45。
(22) 1900年11月に書かれたが日付なし。
(23) 霊的手記 47。
(24) 「そんなに苦しんでおられるとは思いませんでした。喜んで、そしてごく自然に、全てを耐えておられましたので。ご自分を抑制しておられるようには見えませんでした。」(マドレ・テレサ・デ・ヘスス・カスタニサ、Proc. Rog. Cor. Summarium Ⅸ 220): 「しばしば私は、彼女には苦しみがおありにならないとの印象を持っていました。でも、表面は柔和で微笑を浮かべてはおられるものの、その陰に苦しみを味わっておられるのが分かりました。」(エルマナ・ブリジダ・アギレ, Proc. Ord. Summ. XV 259).
(25) 1901年8月20日、マドレ・マリア・デ・ヘスス・グラシア・イ・アラゴンへの手紙。彼女の母の死を悼んで書かれた。マドレ・マリア・デ・ヘスス、マドレ・マリア・デ・サン・ホセ、イマクラダ・グラシアという3人の聖心侍女姉妹の母親、ドニャ・アングスティアス・マラゴンのことを指している。彼女たちには、他の修道会の修道女である姉妹がいた。
(26) 1901年8月25日、マドレ・イマクラダ・グラシアへの手紙。
(27) 1903年1月、マドレ・マリア・デル・アンパロへの手紙。彼女は修道会の初期の核を形成していた修道女の一人であり、マドレ・サグラド・コラソンは彼女に多くの手紙を書いている。それらは、この本に引用されている。
(28) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは奇妙な人格の持ち主であった。会の統治が迷宮入りした時――その狭い判断力のため、彼女がこれに大いに責任があったのであるが
――彼女の現実感が、気分を保つ上で役立った。マドレ・サグラド・コラソンとは常に愛情に満ちた関係を保っていた――彼女のやり方によるが――そして、1892年から1915年の間に、少なくとも七十二通の手紙をマドレ・サグラド・コラソンから受け取っている。(これは保存されている手紙の数である。)
(29) 1897年1月に書かれた手紙。
(30) バリャドリードの家の創立のことを指している。
(31) 1897年7月15日の手紙。
(32) 1897年12月12日の手紙。
(33) 1898年から1899年の12月と1月の間に書かれた手紙。
(34) 1899年6月24日の手紙。マドレ・サグラド・コラソンは度々老齢に言及していたにもかかわらず、この時四十九歳であった。彼女の言う「正気の愚かさ」というのは、十字架の愚かさのことである。「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリントの信徒への手紙、一、1, 23-24)。
(35) 彼女の姪、イサベル・ポラス・モリーナのこと。修練院にいたが、1895年9月末に退会し、難しい危機に直面していた。
(36) 1899年7月30日の手紙。
(37) 以前から癌にかかっており、この頃は非常に危ない状態になっていた、コルドバの共同体の一修道女のことについてである。
(38) 1901年2月10日の手紙。
(39) 1900年10月26日の手紙。
(40) 同上。
(41) マリア・デル・カルメン・アランダもマリア・デ・ラ・クルスもその書き物の中でその出来事に言及している。「・・・ ラーディー家の晩餐はとても世俗的でふさわしくなかった。女中による給仕なども [・・・] 総長は、マドレ・プリシマがそれを許可したということで、大変遺憾に思われた。[・・・] マドレ・プリシマのこのおもねりは、彼女のあやまちの項目をいや増すこととなった。おそらく彼女は自分ではそれを避けることは出来なかったのであろう・・・」(マドレ・ピラール史 Ⅷ 217ページおよび218ページ)。
(42) 1899年12月18日の手紙。
(43) 彼女の死に際して書かれた感化の手紙は、大変意味深い詳細を含んでいる。「誰よりも賢明でした。言葉を選び、話していました。文字までも・・・。時々私に言っておりました:『だめです。その言葉は強すぎるように思います [・・・] 。書き物には細心の注意を払い、じっくり考えなければなりません。』と。」(聖なる忠実さ Ⅲ 487ページ。)
(44) 何年か後にマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダがこの出来事について述べた見解を見てみよう。「・・・ マドレ・パトロシニオは院長であり修練長でもあった。痛みのため大変苦しんでいた。彼女をスペインに連れてくることについて総長が出した理由は正しかった。白状せざるを得ないことだが・・・彼女たちではなく、他の院長たちが、彼女を連れてくるようにと動かしていたのであった。とにかく、多分総長は、健康のためとはいえ、一人の会員を移動させることは出来ないのだろうか。修練長を移動させるのに、総長が、補佐たちの審議権を要するとしている会憲に対する違反と見なされたのでなければ、この権利も与えられなかった。(マドレ・ピラール史 Ⅸ 215)
(45) 1900年10月7日の手紙。
(46) 同上。
(47) 1900年10月25日の手紙。
(48) 1901年1月27日の手紙。
(49) 1901年1月30日、マドレ・ピラールへの手紙。Cimientosスペイン語原本625ページに、部分的に転写された、マドレ・マルガリータ・バロ宛の手紙は、おそらくその宛先に届かなかった。
(50) 1901年1月31日の手紙。
(51) 「マスコミは、ある場合に宗教的な事柄や人物に反対する犯罪行為を犯した群衆をそそのかすためもあって、教会と大多数の信徒たちに対する敵意を示すために、統治形態の自由化をうまく利用した。また、1880年の法律により、隣国から追放された修道会に、スペインが与えた受け入れを、『聖職者至上主義』に敵対して利用し始めた。しかし、何年か後、特に、1900年以降、そのキャンペーンは決定的に強化され、また、『公的な』ものとなる。新しい世紀が始まるとともに、暴動の波がスペイン中に押し寄せる。群衆は絶えず騒ぎ立て、至る所で暴動を起こした。とりわけ大都市――マドリード、バルセロナ、バリャドリード――で。地域の聖年の行事もまた、無秩序と、通りの暴動で、特に激しい様相を呈した。マスコミでは、組織的な反宗教的キャンペーンの爆発に注目する。そして、格好の『ケース』を選び、群衆をもっとも刺激するところに達するように、それらを公表する。論争会議において続けられ、あるいは公の論争の火を燃え上がらせることになる、このマスコミのキャンペーンは、カトリック界で注目される一致団結への動きに対して、自由主義的な警報の反応のようになる。既に示したように、1881年来無益な内的戦いに乗船したカトリック信者たちは、カトリックムーブメント紙の発行に伴い、全員一致で結束した行動の前兆となる一連の会議を、1889年以来、段階的に行ってきた。他の目的に加え、会議は、キリスト教的生活の刷新と、カトリック的見地からみた社会問題に対する解決の模索を提案した。」(マドレ・ドロレス・ゴメス・モリェダ、現代スペインの改革者たち [C.S.I.C., マドリード 1966] 429-30ページ)。
(52) 同新聞は翌日説明している:「出来事。ウバオの未亡人は、莫大な財産の持ち主であるが [・・・]、二年前、娘のアデラが、家庭の裕福さと家族の寵愛を、神への熱烈な愛のために捧げ、聖心侍女修道会に入会するという苦しみを味わった。
神秘的な生活へのこの娘の突然の移行は、大いに母親の魂を苦しめた。一人で病に苦しむ娘を見て、母親は娘を取り戻すために、宗教上の、また正義のあらゆる手段に頼った。
全ては無駄だった。祈りも、尊敬に値する人々の助言も、アデラ・ウバオ嬢に、修道召命は断念する必要があると説得することは出来なかった。
それから、ウバオ家方は、サルメロン氏の指導で、この件を法廷に提出した。そして、審理に着手した人々に、第一審で敗れ、法廷に上告した。」
(53) El Liberal, El Imparcial, Heraldo de Madrid, El Siglo Futuro, El Pais等が記事を出した。
(54) El Liberal、1900年10月20日。我々はこれらの詳細を強調する。なぜなら、後に最高裁判所に上告するにあたり、アデラは修道院に「誘拐された」、あるいは少なくとも、そこに自由に留まらないであろうとの見方が強調された。この見方は、これといった理由もなく、現代の歴史書の幾つかに今なお取り上げられている。たとえば、トゥニョン・デ・ララ、19世紀のスペイン、第2巻、113ページ参照。
(55) 1900年7月3日の手紙。「辛い戦い」という表現は、単なる比喩ではなかった。なぜなら、アデラの兄弟たちは、彼女が母の家に帰るよう「説得する」ために、肉体的暴力をふるいさえしたからである。
(56) 年代記 Ⅲ 515ページ。
(57) 「ウバオ嬢が二十三歳以上か二十五歳以下でなければ、聖心侍女による拘留権を論ずることはないだろう。また、民法はその三百二十一条で、娘は結婚するのでない限り、二十五歳になる前に親元を離れることを禁じている。
・・・身分を固定するということが、女性に於いて、ただ結婚という事実だけを指すのであれば、聖心侍女の修練女は母親の家に帰らねばならないだろう。逆に、誓願を立てた修道女であることが身分を固定し、男性が叙階の秘蹟によって得る場合と同様であれば、アデラ嬢の場合は、家族から逃げ出して入会した修道院で続けることになろう。(El Liberal, 1900年10月19日).
(58) ガルドスのElectraの初演。その同じ年1901年の1月30日。――全ての新聞に反響があった。それはスペイン中で上映されたし、暴動、修道院への投石、破壊的な叫びが盛り込まれていたから――マドリードや地方でも“知識人”らの支持を得た。バロハは、進歩的な作家の間の緊張と支持の空気を描写し、中でもドン・ベニトの作品を代表として挙げている。「ベニト氏とマエツは、初演が届いた時、スペイン映画館のホールの友人たちの間にうまく分配する上で働きかけた人物であった。私はアソリンの近くに一階席の券を持っていた。マエツは‘天井桟敷’に行くのだと言っていた。大きな期待のうちにドラマが始まった。観衆は何かが起こるのではないかと心配していた。亡霊が現れるある瞬間に、アソリンが私の腕をつかんだ。感激しているようだった。若い技師がパントハを打ち壊すとき、‘天井桟敷’からマエツが、雷のような声で「イエズス会士をやっつけろ!」と叫んだ。・・・群衆は叫び声や拍手とともに、通りでガルドスに付き従った。我々記者たちは、El Paísの執筆に戻り、ドラマについてそれぞれの記事を書いた。私のは論説のようなもので、第一面に出ている。(ピオ・バフォハ, Memorias, Final del siglo XIX y principios del XX, o.c., VII [マドリード 1949] 741-42ページ). ゴメス・モリェダ, o.c., への引用。431ページ。
(59) Electraについての論法は次のようなものである。愛の過ちのゆえに名を知られている一女性の娘Electraは、その母親と同じ道を娘もたどるのではないかと自分を取り巻く人物らが案じていると思う。この心配は、その父親だと信じている男性の中で狂乱にまで至る。彼は、その生涯によって両親の過ちを償うために、彼女が俗世間から離れることを望んでいる。この解決は、恐ろしくカトリック的であると、ペレス・ガルドスは指摘している。しかし、Electraを愛しており、彼女にも愛されている一人の若い技師が、Electraが修道院に入るよう尽力した人々の陰謀を打ち砕くべく働きかけている。
(60) 1901年2月の手紙。
(61) 1901年2月19日の手紙。
(62) 1901年2月19日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(63) Heraldoによると、その引用は次のような風変わりな肯定で終わっていた。「教会の勢力が修道会と妥協するのは常のことではなかった。というのは、聖クレメンスのように、イエズス会士の追放を容認した教皇もいたからである。」 年代記編者は、法廷で起こったことに触れ、括弧に入れて続けている。「衝撃だ」と。我々の場合も小さくはない。というのも、クレメンスの名を持っていた教皇の中では、一世紀に生きていた聖クレメンス一世だけが聖人であった。1773年にイエズス会を廃止させたのは、クレメンス十四世であった。彼は列聖されなかった。
(64) 1901年2月7日、Heraldo de Madrid、夕刊。
(65) 「サルメロン氏の報告は、司法裁判所で宣告されたものよりもっと名調子で、もっと司法上の重要性を持つものであった――とHeraldo de Madridの時事解説者は書いていた――。結びに、裁判所に対して敬意を払うためだけに、皆の手から割れるような拍手は控えられた。」
(66) 少し前に引用した新聞は付け加えている。「精神の高揚の意味深い詳細として付け加えるが、アルカラ通りで、デモ隊がけたたましく口笛を吹く中に二人の修道士がいたが、彼らは『出て行け!』との叫びや口笛の中で、プエルタ・デル・ソルに向かっていた路面電車に逃げ込んだ。」もう少し下の方の記事に、記者は記している。メソネロ・ロマノス通りに二人の修道士が現れたとき、「自由、万歳!」とか「イエズス会士打倒!」などの叫び声の中で、彼らの一人が「群衆に押し倒されたが、それ以上のことには至らなかった。」事の詳細は、このエピソードの全てを包んでいる絶対自由主義の空気にとり、非常に意味深いものがある。
(67) 1901年2月16日、マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(68) 年代記 Ⅲ 634ページ。アデラ・ウバオは1876年9月25日に生まれた。それで、1901年9月には二十五歳になるところだった。
(69) 1901年3月17日付け、マドレ・ピラールからマドレ・プリシマへの手紙。アデラ・ウバオは、1905年、アスペイティアの聖心侍女修道会の修練院に再入会した。1906年6月25日、急病で亡くなった。最初は流感に罹ったとの診断であった。意識のある間は次のように祈っていた。「主よ、私があなたのみ旨の一点たりとも退けることがありませんように。」彼女の家族は、聖心侍女会に迷惑をかけたことを何度も謝った。1900年10月と1901年2月にウバオのケースについてマドリードの新聞に載った詳細は既に引用済み。
(70) マドレ・ピラール史 Ⅹ 113ページ。
(71) マドレ・プリシマの洗礼名。
(72) 大筋に於いて、マドレ・プリシマとの関係におけるマドレ・ピラールの側の責任を認めるものと解釈できるこの手紙は、実際は、その行動における彼女の単純さの一つの証拠となっている。外面的には、彼女は、高いところから人々を咎めるのが常だった。前の手紙と同じ意味で、総長はマリア・デル・カルメン・アランダに、自分の決定を知らせ、説明する手紙を書いている。(1901年8月1日)。
(73) 枢機卿は会の保護枢機卿としての役目を、1901年3月に承諾していた。「悲しい運命のそれは、そう呼んでもよいと私は思います!」とマリア・デル・カルメン・アランダは書いている。(マドレ・ピラール史 Ⅹ 120ページ)。
(74) 1901年6月12日の手紙。
(75) マドレ・パトロシニオのことを指している。これに対し、数日後、マドレ・ピラールは返事をしている。「私がマドレ・マティルデだけでなくパトロシニオ自身にも下したあの宣言について、私はそうあるようにと表明しました。というのは、あの状態では彼女をあの任務に戻すことは、私には良心的に出来ないと間違いなく思われるからです。思慮不足だったとすれば、主なる神は私により良い理解をお与えになりません。そして、実際私は、この方策のために得意げに歩き回るよりは、むしろ、外交官でないことのために苦しむ方を望みます。(1901年6月16日の手紙)
(76) 1901年6月12日の手紙。
(77) マドレ・プリシマ
(78) 1901年6月15日の手紙。
(79) 1901年6月17日、院長と共同体への手紙。
(80) ロヨラの聖イグナチオの有名な祈り。「主よ、取ってお受け下さい・・・」のことを言っている。
(81) 総長秘書、マドレ・マリア・デ・ラ・ルス・カスタニーサ、報告書 (日付なし)、1937年に書かれた。
(82) マドレ・パトロシニオの洗礼名。
(83) 補佐たちを指している。
(84) 1901年6月15日の手紙。
(85) 1901年8月の終わりごろ書かれた手紙。
(86) 1901年10月15-16日、マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(87) 修練院を指している。
(88) 前掲の手紙。
(89) 総長補佐たちを指している。
(90) 1902年1月7日の手紙。
(91) マドレ・ピラール自身を指している。
(92) 同上。