第2部 第1章 「会の揺籃の地、マドリード」

マドリードの片隅で

1877年4月3日午前三時、アンドゥーハルの病院の聖堂に、十四人の若い女性達は集まった。復活の週のある夜のことである。特に出かける人たちのために病院付の司祭が立ててくれたミサ聖祭はキリストの復活の喜びで特別に輝いていた。その旅行とは、ラファエラ・マリアと修練女たちが早朝マドリードに出かけることである。
この典礼の集いは、祝祭の時期であるのに、カタコンベの様な雰囲気だった。心では勝利の近いことを予感していたが、表情には過去の苦しみの名残をとどめている。「キリストの光、キリストの光」。マドレ・サグラド・コラソン(1)は、深い信仰の中に生きて来た苦しみの多い過去を振り返り、信頼の眼を持って将来を眺め、深い感謝の念に満たされていた。
聖堂から出るとすぐ出発した。篠突く雨だったので、駅に着いた時は皆ずぶ濡れだった。しかしそれはたいしたことではない。彼女らの衣裳は雨で駄目になるようなものではなかった。大急ぎでまとめた少しの荷物しか持っていない、恵まれない変な身なりをした奇妙な行列だった。しかしよく見れば、この女性のグループは何かを感じさせる。身なりを通して、皆は他の人とは異なった輝きを見せている。皆の落ち着き、喜びと若さ。確かに皆が三等車に乗り込み、席を探している姿は目立った。列車は数時間遅れて朝の7時に、汽笛を鳴らし煙を吐きながらアンドゥーハルを出発した。
何千年も前にアブラハムは、「自分の国を離れなさい・・・。」(創12, 1参照)という声を聞いた。マドレ・サグラド・コラソンの心に再びその声が響く。実際にはマドリードまでの旅行は、普通の状態だったなら、別に感動的なものではなかったろう。小さい時から、スペインの色々の町にしばらくの間住んだことがあったが、いつも彼女を待っている家庭とか、両親の家があり、そこには慣れた仕事や、中庭の噴水の音が彼女を待っていた・・・。しかし今の旅行はそうではなく、ペドロ・アバドを後にした時、――「パカパカ」と馬車の馬の蹄の音が思い出と心臓の鼓動のリズムを奏でた時と、――アンドゥーハルに向けてコルドバを11時に出た時とだけに少し似ていた。列車のリズミカルな音は、あの時と同じ思いを抱かせた。しかし今は新しい期待に胸をときめかせながらの旅である。
彼女らより少し先に3月27日に、マドレ・マリア・デル・ピラールと一人の修練女がマドリードに向けて出かけた。皆が泊まれる家をみつけて共同体を迎えるためである。マリア・デル・ピラール はアンドゥーハルを出た時は、まだ風邪が治っていなかったので、マドリードに着いた時は疲れきって全く声がかすれ、熱が高かった。一緒に行った修練女が、3月28日に書いた手紙には、心配そうな事は何も書いてなかった。本当の事を言えば、そのような楽観主義は、初めてマドリードに来て手紙を書いたマリア・デ・サン・イグナシオ自身と同じようにあどけない。「愛するマドレ、道中はおかげさまで無事でした。ここに着いたのは朝の6時頃でしたが、降りる時マリア・デル・ピラールが『歩いて行きましょうか、儉約できますから・・・』とおっしゃったので私は『足が冷たくなるでしょうね・・・?』と答えました。車はいかがですかと勧められると、目を伏せて歩き続けました。ここには素晴らしいものが沢山あるので目が廻りそうです。’百聞は一見にしかず’です。一時間位歩いて、サン・ヒネスに着き、サント・クリストの聖堂でミサに与り、聖体を拝領しました。そこの修道女方は、非常に喜んで私たちを迎えて下さいました。詳しいことはマリア・デル・ピラールがお書きになるでしょう。」
その手紙には追伸があり、院長にコタニーリャ師によってなされた手続きが書いてある。「マドレ、今コタニーリャ師がいらして、マリア・デル・ピラールと話していらっしゃいます。それでマリア・デル・ピラールはお書きになれませんが、伺っていることを書きましょう。家を見に行くように、そしてよかったら鍵を頼みましょう。そうすれば勿論私たちのものになるというのです・・・。」
復活の火曜日の早朝、院長はこの手紙とその後に来た手紙の細かいことを思い出していた。最初は二組に分かれて出かけるつもりであったが、列車が遅れたので出かけるのが遅くなって、結局みな一緒になった。マドリードで家を手に入れるのはそんなに易しくなかった。それにマリア・デル・ピラールの病気によってもっとはかどらなかった。
列車の音は続いており、マドレ・サグラド・コラソンの思いもそれに合わせて動いていた。アンドゥーハルの友人たちとの別れ、出て行くことが分かった時の彼らの怒り ・・・ 二人の修練女はサン・ロケ街の古い修道院に残して来た物を取りに、コルドバへ行った。
郷愁に浸って居る時間はそんなになかった。この旅行の条件があまりにも悪いので、誰でも早く降りなければならない程だった。天井の隙間から雨がどんどん降り込んで来て、車内は水浸しだった。駅長は彼女らを他の車両に移そうと出来るだけのことをしてくれたが、アンドゥーハルを出るとすぐ望ましくない人々に囲まれてしまった。14人の若い人たちは彼らの目の中に、からかうだけでなく、軽蔑または憎しみさえ読み取ったのである。この探検隊員の一人は、後にあの旅行について詳しく書いている。絵の様だったのは確かだが、その場に居合わせた人たちにとっては、恐ろしかったに違いない。「列車は外側はきれいだったし、三台の車両はすいていたので、人が乗って来ない駅はなかった。ある駅で四、五人乗って来たが下層階級の下品な無遠慮な人たちで、ブドウ酒の大きな瓶を傾けては、から騒ぎをしていた・・・。」修練女たちは怖かったであろう。その人たちは彼女らを嘲笑したばかりでなく、脅した。酔いつぶれてしまったので、その脅しが本当になるかも知れなかった。今から考えれば、また年代記記者が説明する通りならば、その場面は喜劇的である。「院長はこのような状況を見て、誰かがそばに行かなければならないので、目立たないように、自然的に余り恵まれていない者、真面目な者を彼等の前に座らせた」と。共同体の中には十七、八歳の若い人たちが数人いたことを考えれば、その方法は先ず賢明だったと言える。院長は外面は冷静に装っていたが、心の中では、この旅行が早く終わるようにと祈っていたに違いない。彼女らに「ベアタ」から「ろば」にいたるまでのあらゆるあだ名を付けた。記者は続ける。「デスペナペロス山脈中にある多くのトンネルの一つに入ると、車内は生き地獄の様になった。彼らの一人は手に大きなナイフを持ち、それを投げる良い機会を探していた。もう一人は、そのためにはあまり遠すぎることに気づいていたので「それよりも頭を殴って脳を放り出す方が易しいよ」と言った。神は彼女らの祈りを聞き入れ、一番騒いでいた者が眠るようにされた。少したつと狩猟家が乗って来たので彼らは静かになり、修道女たちの車両には、小さな子供を二人連れた、人の良さそうな女の人と、見かけのよい二人の男の人が来たので、院長はそばの席を薦め、連れがあるようにした」(2) 恐ろしい時が過ぎたので、一日分の食糧として持って来た、茹でた馬鈴薯を食べた。夜に入ってから、列車はアトーチャの駅に停った。マリア・デル・ピラールと一緒にいたマリア・デ・サン・イグナシオが迎えに来ていた。プリンセサ病院まで歩いて大分かかった。疲れきっている上に、まだ雨が降っていたので、ずぶ濡れになり、その上空腹で倒れそうだった。しかし、暖かい火と愛徳姉妹会のその名に相応しいソル・フランシスカの抱擁が、彼女たちを待っていた。
聖心侍女はこの修道女達の寛大さを、今でも感謝のうちに思い出している。あの同じ記者は書いている。「創立したいと思っていたこの小さな修道会の会員となる者は、創立者の前に全ての扉が閉ざされていた時、愛徳姉妹会は彼女らを受け入れ、創立者らに反対しようとしていた世間にもかかわらず、彼女らに非常に親切にしたことを忘れてはならない。」(3) と。
6日の夜、ボラ街十二番地にある賃借の階に移った。普通でない状態でも、決しておろそかにしなかった修道生活を何事も無かったかのようにし始めた。「昼夜の礼拝も [・・・]聖務日祷も、また病院から病院へと巡礼のように移っていた時でも、家もなく、部屋もなく教会認可もなかったので義務でもなかったが、主なる神が私たちの心にそれを義務付けられたかのように思えたのです。」(4)
翌日二人の創立者は家に招待するために司教の所に出かけた。人を、まして高貴な方を招待するような家ではなかった。「司教様は親切に迎えて下さり、本当の父親の様な愛情を示して事を進めて行くように励まして下さいました。そしてその時から院内では修道服を着けてもよいが、外出の時だけ私服を着るようにとおっしゃいました。私用祈祷所でミサをする許可と、創立の許可を枢機卿に願うようにとおっしゃいました。親愛の情をこめて祝福し、お別れの際に、家にいらして下さると約束して下さいました。」(5)
コタニーリャ師は共同体の指導に真剣にとりかかり、彼のおかげで適法化するに必要な手続きを早く完了することが出来た。ある日彼は院長と話し、

「あなたがたの会にどういう名前をつけたいですか?」と尋ねた。

 院長は、名前については全然考えていなかった。彼女らの召し出しに関わるあらゆることで沢山苦しんだので、他のことをする暇はなかった。コタニーリャ師に贖罪会を出た時からコルドバ で使っていた名前を教えた。

「考えましたが、Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者)というのはいかがでしょう?よろしいですか?」と神父様は言われた。
「はい、よろしいと思います。」

 皆それが気に入った。「彼の思いつきに皆の意見が一致したので、神に心からの感謝を献げた。」(6)
それで、その新しい名前はマドリードに創立する許可を願うためにトレドの枢機卿ホアン・デ・ラ・クルス・イグナシオ・モレノ師宛に出された嘆願書に書かれた。その嘆願書はコタニーリャ師によって書かれたのである。出来上がった時に、ある朝、共同体全員を集め、「その計画を皆が理解し、それで良いかどうかを確かめるために」読まれた。

「Reparatrices (贖罪者)という名で呼ばれ、聖座から認可された規則の下にコルドバで生活していた家の創立者が、下に署名する自己の名と姉妹らの名をもってマドリードに創立することが出来る恵を願い、それが頂けるよう閣下にお願い致します・・・。
その上フランスに起源を持つ「María Reparatriz(マリア贖罪)修道会」から、生まれたばかりの私たちの会は、正しい動機によって分かれましたのと、同じ名前で存続することはよくないと思いますので、私どもの会は今後「Instituto de Hermanas Reparadoras del Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者の姉妹会)」という名で呼ばれるよう、許可と認可とを謙って閣下にお願い致します・・・。」

 その嘆願書の日付は4月13日であった。それは院長によって署名されたが、その時にはもう人々から知られ、その心の深い望みを最もよく表したマリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘススと書かれた。
翌日その書類の余白に、次のような注を付して戻された。

「依頼のとおりに許可する。マドリード, 1877年4月14日 トレドの枢機卿大司教」(7)

 遂に4月14日は、ボラ街の家にとって、大きな祝日となった。その時からあの若い人達は、二重の喜びで安堵した。一つは神の声に忠実に応えた喜び、他は初めて教会から励ましの言葉を受けた喜びである。やがては荘厳に与えられる聖座の認可の先取り、またはそれを約束するものであった。
この創立の歴史には、み摂理が作られた決まりがあり、その要求するところを果たすために、まだまだ労苦の年月が続くのである。それは、その創立に介入した人たちの誰も、自分の計画が完全に全うされたのを見た人はいない。コタニーリャ師もこの歴史の決まりから逃れられなかった。「Reparadoras del Sagrado Corazón(聖心の贖罪者)」は、聖座の許可を得る前に、「Esclavas del Sagrado Corazón(聖心の侍女)」と変えなければならなかった。「計画をくつがえすことによってイエズスの聖心が確かにそのご計画を実現される。というのは、その名の下に私たちの会は認可されたのであるから」とマドレ・ピラールが言ったのは当を得たことである。

1877年、王政復古のスペインにあって

1877年4月3日にマドリードに着いて、6日の夜には新しい家に移った。アンダルシアから着いたばかりの若い人たちの、あの目立たないグループを、その時は殆ど誰も知らなかった。ボラ街12番地の門の前に、諸道具を背負った彼女達を、もの珍しげに見た人もいるだろう。マドリードにはありがちのことだが、からかう人があれば、哀れな修練女の衣装を笑わずにはいられなかったであろう。首都に新しい修道院、否、新しい一つの共同体ができたことは、ごく少数の人しか知らなかった。
数日後、コタニーリャ師は、その階の一番良い部屋を急ごしらえの聖堂にして、ミサ聖祭を執り行った。4月20日である。それには愛徳姉妹会の数人の修道女と、司祭の知人である何人かの婦人が参加した。しかし聖心侍女修道会の小さな歴史は、大いなる歴史のふところに記されることになるので、その時代の出来事は関係がないとは言えない。地球上の人間の生活が流れていく多くの情勢に影響されるであろう。聖心侍女はスペインの首都に1877年に存在し始めた。会は時間空間のある地点に誕生した。
二人の創立者とその一行をその時代環境の中に描かなければならない。ボラ街の家の窓から、外からの騒音、走る馬車の音、――「いい匂いのバラ、綺麗なバラはいかがですか」――という物売りの声、子供たちのゲーム、流行歌、アルフォンソ王の「恵まれない人のように、愛のために結婚したい」というロマンス、マドリードを通る男性、女性、子供たちの足音、ラファエラ・マリア・ポラスの世界もそれら政治家、哲学者、芸術家、詩人とも関わりがある。彼女のメンタリティーは彼女が生きていた時代のさまざまな生活と環境が跡を残している。彼女とその仲間たちの中には、彼女の世界から出てくる様々の潜在的な現実の複合体――思い出、イメージ、期待、傾き――が宿っている。多くの相反する理想が戦っているこの美しい世紀末の世界。多くの平凡なリアリズムが戦い乱れているこの哀れな世界。善を求めつつも、しばしば悪の中に生きているこの世界。
彼女らはこのスペインに、争いの世に会を創立することとなった。無関心で利己主義なブルジョアの世界、富める博愛家の世界、心の恵まれない人と、みじめな恨みがましい人々の世界、真の正義に飢え乾く人の世界と、正義感の強い残酷な人々の世界。罪人と聖人の世界に。
その頃、ラファエラ・マリアと姉は旧マドリード――アトーチャ、アントン・マルティン、サン・ベルナルド、クチリェロス、ヌンシオ―― などの街路を歩き回っていた。それらの落ち着いた広場と、首都の中心地には大きな丸い電球の照明が始まっていた。(8) 彼女らが生活することになっていた世界の一部、その時代の全スペインを長い間へめぐるであろう。
教会に行くためにエンカルナシオンの広場を通る時とか、ある正式な文書の手続きのために教皇庁大使館に行くためにヌンシオ街を通る時などには、彼女らのまわりにいる人々を見ることができた。彼女らの急ぎ足や落ち着いた足取り、衣裳の着け方、話し方、歌い方で、心配ごとがあるかないかが分かる。多くの人々はこの世の終わりに、災難が来る時まで、期待に満ちたこの時期に生きる喜びに浸っていた。金に装われたと見えるこの十年間に、輝く全てが、金ではなかった。復興はスペインに秩序と平和を守らせることは出来たかも知れないが、大きな年来の問題を根こそぎにすることは出来なかった。正式に宗教を保護したが、同時にあらゆる所に台頭していた教権反対主義の多くの兆しが見えていた。
聖心侍女会の年代記の作者は、これについての表現豊かな逸話を収めている。マドレ・サグラド・コラソンとその一行は、度々サン・ベルナルド街の教会に行っていたが、そのためには大学と兵営の入口を通らなければならなかった。「どうしてか分からないが、一つの入口か他の入口の所には、いつも機嫌のいい学生か兵隊がいた。私たち姉妹はコタニーリャ師から赦しの秘蹟を受けるために前述の教会に行く時、その入口をどうしても通らなければならなかった。あまり目立たないように毎日四人か六人ずつ行くことにしていたが、先の見物人は、彼女らが通るのを気がつかないということはなかった。そして毎日何かひやかす材料を見つけた [・・・] 。そして彼女らが見え始めると指さしながら、「こっちに三人、あっちに三人」と言った。他の日にはわざと感嘆と驚きの声を出して「仮装行列にしては早過ぎるね」と言うと、他の人が乱暴に「じゃあ、このご信心家はねぼすけだな。」(9) と言った。
1876年の憲法は、カトリックを公に守ることをはっきりと認めたが、中産階級のスペイン人は、修道院や修道士虐待時代の五十年間を記憶に留めていた。(10) 他方、憲法は宗教の自由を保障しようとはしたが、公道を通るかわいそうな修道女を嘲笑した人たちも、宗教に対して持っている気持ちを表す権利があると思ったのであろう・・・。「公の保護」があるにもかかわらず、修道身分を選ぶことは理解できず、ましてやうら若い人がそれを選ぶことなど考えられもしなかった。
聖心侍女会の創立についてここまで述べてきたことで、上述のことは十分に解明されるだろう。二人の創立者に対する家族の反対や、旅行ごとの悲劇などを思い出せば足りる。1877年の春、マドリードで起こったエピソードには、特別にそれがよく現れている。少し長いがそのままをここに載せる。
家捜しに歩いていたある日、マリア・デル・ピラールは、上流社会のある婦人の持っている管理事務所に入った。彼女を見るとすぐ、管理人は、待つようにと合図した。

 「長く待たせてからその管理人は、彼女らに向かって、無作法に、何の御用ですかと尋ねた。マリア・デル・ピラールは、ある建物を買うことについてお話したいのですがと話し始めた。彼女らの様子をあまり好ましく思わなかった主人は、施しをもらいに来たのかと思って、早く出て行ってもらいたいとばかりに、これ以上話させまいとして、施しは出来ないと、もっと乱暴に答えた。
あまり遠くの方にいたので大きな声を出しているのだと思って、外の人が喧嘩をしているのだと思わないように、マリア・デル・ピラールは椅子を取って近くに行こうとした。するとその人はもっと軽蔑的に言った。
――奥さん、聞こえないのですか?
――いいえ、――とピラールは答えた―― あまり離れていて、おっしゃることが良く聞こえませんでしたので、近くに行こうと思いました。
――奥さん、もう言うべきことは終わったので、このことについて話すのは時間がもったいない。もう結論は出ているのです。
マリア・デル・ピラールはこの管理人が考えていることを察して、
――何か頂きに来たのではありません。あなたはこの家の持ち主ではなく管理人ですから、何も処理することは出来ないでしょう。もし何かを頂きたいなら、ご主人にお願いしたでしょう。
彼女はきっぱりとこう言った。その時彼女は、お連れが管理人の最後の言葉を聞いてその部屋から出ていったことに気付いた。そこで彼女は自分のそばに彼女を呼び戻して言った。
――ドロレス、どうしてお出になるのですか。ここにいらして下さい。私が出るまで出ないで下さい。これは公の事務所ですから、誰でもその用件を処理するために来られるところです。
管理人は彼女の固い決意を見て、身を低くして言った。
――奥さん、それは出来ないのです。土地は遺言書の中に書かれてあり、訴訟を起こさなければならず、長くかかるでしょう。それに値段が大変高いのです。
――その理由を話して下さい。気を悪くなさらないで。
その管理人はもう少し穏やかになって、どうして修道者になったのかと言いながら、彼女にその考えを止めさせようとして話し続けた。ほんの少しの間に三十三の修道院(または後援会)が破産するのに立ち会ったので、あなたがたにも同じ事が起こるだろうとか、色々話し、修道女に対する反対のことばかり言っていた。ピラールは、その方たちを知っているのかと聞くと、知らないと答えたので、彼女は言った。
――知らないことについてそのように話してはいけませんね。
――やあ、――と管理人は言って―― 皆があなたのようでしたら・・・。
このように長く話していた。ついにその人は親しくなってさよならを言いに出てきて、援助を申し出て言った。
――あなたは全ての修道女の面目を施しましたね。」と。(11)

 革命の数年間はスペインの社会に跡を残した。司祭を直接に攻撃しても世は沈んでしまわないと見て取った人々は、おおっぴらにそうするのに慣れてしまった。このような中にあって、修道生活の道を選ぶのは容易なことではなかった。
他方、同じ革命はスペインに論争の態度を植え付た。それはそういう状態の結果である。どんな党派の人でも自分のイデオロギーを言行をもって守る必要と、存在を表す自分の方法の必要性を感じた。――教会の政(まつりごと)もこの影響を免れなかった。人権高揚の自由社会の軽蔑、時には憎しみさえも己が身に受けた時に、彼らも修道者であるという条件を、心の自由を持って守るために同じ権利に頼った。聖心侍女会の創立者らの行動はこのようなことを示している。具体的に言えば上述のマドレ・ピラールと無名の管理人の会話は良い例である。
それは唯一つの例ではない。1875年にコルドバにReparadoras(贖罪会)の共同体を招こうとしていた時、ドン・アントニオ・ウルエラは嘆願書に1869年の憲法の基本的考え方を自分たちのために役立たせた。「スペイン国内で集会を結成することを規制し条件付けていた新法令集に含まれていた古い法律が廃止され、忘却されることによって、全てのスペイン人は、人間生活のあらゆる目的を達成するための集会を、前もって許可を受けずに、妨害されることもなく、自由に結成する合法的道が開かれている。」(12) と。オルティス・ウルエラ師は次のように理由付けている。現行憲法は、満場一致で承認され、発効しているから、プロテスタント信者に強要されていないことをカトリック信者に強要するのは不条理である。このことは同憲法が宣言している万人の良心の自由を想起する時、一層明白になる。従って今日修道女の共同体を作ることは教会当局の権限のみに属する用件であるという、論争の余地のない確実な原則から出発しなければならない。」(13)
歴史は移り変わる。時間の中における人間の進歩として考える時、この事は明らかである。そして歴史を学問として話すときも同様である。「生活の師」という呼び名は、その力強い弟子、すなわち生徒の生活そのもののリズムを受け入れる程度に応じて、有効な教えを与え続ける。その最も確かな教えの一つは、次のものである。人間は誰もそれぞれの時代の種々の影響を逃れられない。誰でも生活と関わることに於いて彼らを決定的に変え発展する種を自分の中に持っている。これは変化の主人公がそれに気付く前に起こることがたびたびある。過ぎ行く時の波を前にして、揺るがない岩と考えている人々の場合にでもである。
これらの考えを聖心侍女修道会設立に介入した人々に当てはめることは正しい。あのグループが夜の旅行を急に思い立ったとき、自分たちの事柄に市当局が干渉した理由について断固として質問したとき――ドロレス・ポラスが市の役人に「捕らえられたのですって?何の権利で?」と聞いたのを思い出すことが出来るだろう。――他の時にも、自分の考え方を静かな権威を持って守り通した時、人間の良心を強調した自由主義時代の積極面を有していることを示している。実際に旧政体の社会は自由を謳歌した新しい社会に多くの場所を譲った。
1880年、エミリア・パルド・バサンはメネンデス・ペラヨに、「あなたはカトリック信者です。今日カトリック信者は雑誌、新聞、その他の批評界を支配している反聖職者的精神の大海を泳ぎきるために非常に努力しなければなりません。」(14) と書いた。他の時期に劣らず、1880年には、――1877年にも――あるスペイン人のように、正式にカトリシズムを公言するのはずっと易しくても、真髄までキリスト者であることは難しかった。反対する両陣営の指導者たち、つまり、教会を熱狂的に擁護する人々と、また熱狂的に攻撃する人々の眼前に、広大な活動分野が開かれていた。それは伝統的にカトリックであ利、またおそらく伝統によって殆ど啓発されていないスペインの「カトリック大衆」であった。王政復古は国を政治的平和と宗教的寛大さによって導こうとした。しかし平和と経済的発展から生じた楽天主義によって速やかに幻滅を味わったであろう。
多くの人々の浅薄な宗教性は、ある人々のずば抜けた英雄的な聖性の土台となった。スペインのカトリックについて一般的に言えることは、十九世紀の修道者についても、もっと具体的に言って修道女についても言える。この世紀における婦女子の養成の不足は、修道女に於いては、世間から孤立していること、文化刷新の風との健全な接触に欠けるところから、その不正はもっとひどかった。既に述べた幾つかのエピソードを思い出せば十分である。コルドバの司教は善意に満ちていたが、新しい会のために完全な囲いを付けるほうが良いと思った。そして多くのコルドバの市民は司教と同じように考えたのである。これらの事柄によって修道女は皆にとってあまり魅力的ではなかった。彼女らを表面的にしか知らない人々にとっては、修道女とは信心深い人とすぐ考えるが、同時にある場合には、恵まれない物貰いか、欲張りか、ある時は威張った人と思っていた。しかし多数の中途半端な修道士や修道女の上に、優れた見方を持った修道者が抜きん出ていたのである。19世紀には修道生活全体が、明らかな刷新を経験したであろう。長年月の間攻撃の対象となったことは、真の召命を見極めるのに役立った。その世紀の後半には、修道院には家族や社会からの強制で修道者になった男性や女性が沢山いたということは本当ではない。初期に色々の事件のあった聖心侍女会も、この点においてそれを明らかにしている。最初の聖心侍女たちのように、心から、自身で決心した婦人たちのグループを見つけることは困難である。自分の生命を懸けて強められ、事ある毎に全く荘厳に口頭をもって再確認された決心であった。
修道生活が時代遅れにならないようにさせた他の要因がある。それはブルジョア階級の変容に伴ったあらゆる型の騒乱で、その当然の結果として、多くの人々が徐々に除かれていった。聖霊は教会の中で、物質的精神的惨めさを和らげることに当たる修道女会の創立を促した。十九世紀に創立された多くの修道会は、世の再建に一役買ったのである。これらの会の会員はこのことによって益をこうむった。というのは、その使徒職の要請は同時代の人々との接触をもたらし、その使徒活動はその修道院内に刷新の新鮮な空気を送り込んだのである。聖心侍女会の創立者らも、その生涯に於いて、歴史的変遷を経験することが出来た。きっとそれを余り意識せずに過ごしていただろう。彼女らの書き物はその時代の政治には殆ど触れていない。革命の六十年代(1868-74)は余り大きなこともなく過ぎ去った。丁度それは彼女らの青春時代の大切な時期と軌を一(いつ)にしていた。復興の最初の頃に修道生活を始めたが、彼女らの書き物には、その時代の政治に興味を持った痕跡もない。ある修道生活または保守的雰囲気にありがちの、君主制的な感じも反映されていない。二つの世界にまたがっている時代の婦人として、常に威厳を持ち、質朴、自由に行動していた。政治の細かいことや、変わりやすい流行を超えた、高い召命をいつでも示していた。その時代の最も輝かしい人々の性質をはっきりと思い出させるパーソナルスタイルをもってその時代を生きていた。
いつかマドレ・ピラールと話したあの管理人は、会話の最後に「皆があなたのようだったら・・・」と称賛」の言葉を浴びせた。これはどの時代にもありふれた決まり文句であろう。しかしこの決まり文句の中に、必ず真理が含まれている。もちろんこの場合にそれは殆どなかったかもしれないが、1877年にはかなり無学な修道女が多く、皆は慌て者とか無知な者というイメージを与えていた。管理人のように、修道院を建てることなどは無益だと多くの人は考えたであろう。しかしラファエラ・マリア・ポラスとその一行が意図したところは、ただ、聖であり、讃えられるべきだけでなく、社会に役立つものであった。この意味で、教育を推進しようとしたコルドバの教会当局者たちの仕事は、創立者らにまず健全なメンタリティーを与えるのに役立った。人々の興味の対立していたあの社会、たびたび概念が漠然としている社会にあっては、「人々の知情意」が共に福音によって導かれることが必要だった。それでコルドバの司教座聖堂聖職者たちはサン・ロケ街の修練女たちが修道生活を続けながら、アンダルシアの町が非常に必要としていた教育事業に当たるための許可を司教に願う時に、そのように書いたのである。(15)
ボラ街の小さな聖堂で1877年の4月のある日、マドレ・サグラド・コラソンは静かに祈っている。半ば開いている窓からは、いつもの音が聞こえてくる。――コツコツと響く人々の足音、「いい匂いのするきれいなバラの花はいかがですか!」との呼び声、研ぎ屋の口笛――心の中で世を深く愛している人にとっては、非常に意味深い音である。マドレ・サグラド・コラソンは、家の前を誰が歩いているかを知らないであろう。マドリードに住んでいる重要人物を全然知らなかったであろうし、またボラ街を丁度その時誰が通っているかも知らなかったであろう。彼女は速やかに世俗化していくこの世界にあって、理性と信仰の一致の再建をある知識階級のカトリック者が試みようとしていることを知っていたであろうか。多分知らなかったであろう。聖人にとっては真の仕事はもっとずっと単純で、同時に更に難しい。それは学問のある人にも、層でない人にも、全ての人に、信仰し希望する理由があることを知らせることである。すなわち生きるための理由である。ラファエラ・マリア・デル・サグラド・コラソンは、祭壇で祭られるとは夢にも想像していなかったが、聖人の道を歩む、そしてこのすばらしい使命に身を献げていたのである。
コツコツという足音も物売りの呼び声も余韻を残して遠ざかって行く――「きれいな・・・」――ラファエラ・マリアはこの静けさの中に沈潜し、神の無限の愛への応えに生きる。「紙がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4, 16)。生命は友情のように、愛し合う二人の人の間の親しい関係のように美しいものであることを、彼女は言行をもって説き明かしたかったであろう。生命は感謝するための贈り物、献げるべき答えである。特に信頼すること、信じる機会である。ラファエラ・マリアは信仰と信頼の絶えざる行為を生きることになる。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。」(Ⅰヨハネ4, 16)。この愛は具体的なもの、震えおののくほど人間的なものである。死に至るまで、死の彼方までのキリストの自己奉献であり、限りないその愛に耐えず留まることである。ラファエラ・マリア・デル・サグラド・コラソンは聖体に現存される御者を探し求め、熱情的にそれに生きる。目には見えないが、その死と復活と栄光とを私たちのうちに現存化するキリストの秘義を生きる。それで彼女が好んだ表現「謙遜な愛に燃えた心」(16) をもって静かな礼拝の時を過ごしているのである。また兄弟に対する愛、全ての人間に対する無制限の愛。主よ、あなたの十字架と復活によって贖われたこの世、それはあなたの苦しみと勝利をこのように忘れており、この世は知りませんが、あなたを何と必要としていることでしょう!
ボラ街の聖堂における祈りの時、その部屋は家の中と道路の音とに囲まれ過ぎている。しかしそれは構わない。皆にとってこの音と声はこの十九世紀に、またどんな時にも、新しい世を作るために助けを求めている全ての人の叫びの、具体的な小さなこだまとして、もっと意識する助けになるからである。世はそれに気付かずに、また意識的にはそれを望んでいないかも知れない。が、その努力、戦い、苦しみは先ずある御者がそのために戦い、苦しみ、勝利を得られたから、意味があることを彼らは知らなければならない。
道から、「いい匂いのするきれいなバラの花はいかがですか!」という物売りの静かな声が、またもや聞こえてくる。

会の大胆な時期

楽しい、または余り嬉しくないさまざまな事柄と共に、最初の聖心侍女たちはボラ街で過ごした日々を、一生涯なつかしく思い出していた。二ヶ月もいなかったであろうが、その頃の逸話は一冊の本を埋め尽くすほどである。時がたってみるとあの家で起こった出来事は、特別な色合いを持っている。その時に生きていたなら叙事詩のようだったろう。
一人の修練女が発狂した。アンドゥーハルの時からその兆候があったが、ボラ街に来てから病気はひどくなった。幸いにも彼女たちの修道生活の困難な歴史には前例がなかったが、皆この災いで心配していた時、院長が重病になった。風邪を引いたか単にこの時代の年代記者が言うように、「過去の多くの心配に彼女の本姓が耐えられなかった」のだ (17) 。
ある朝、マドレ・サグラド・コラソンは目覚めた時、気分が悪かった。起きようと思ったが高熱のため休んでいなければならなかった。隣の部屋にいた病気の修練女は全く狂乱状態を呈した。最も勇敢な者たちが鎮めよう、少なくとも抑えようとした。苦しみは皆のものだった。あの若い人たちは全てに耐えた。マドレ・サグラド・コラソンがいないこと以外どんなことにも慣れていた。彼女の落ち着いた強さは、どんな時にも彼女らに明らかに見える模範であ利、確固不動の真の基盤であった。今この人間的支えがないので、修練女たちは院長の信頼と平静の態度にどの程度まであやかることが出来ていたかを示すことになる。
数日経ったが「マドレは楽になるどころか悪くなっていった。毎日だんだん熱が高くなって医者は健康になるかどうか分らないと言った。コタニーリャ師は毎日彼女を訪れ、院長から頼まれると赦しの秘蹟を授けた。」(18) 5月3日に大変具合が悪かったのでマドレ・ピラールは兄のラモンに知らせるほうが良いかどうかを尋ねたら、医者は安心するようには言わずに、出来るだけ早く知らせるようにと言った。
コタニーリャ師は修練女たちを出来るだけ慰めようとしたが、その慰めは余り有難いものではなかった。修練女の一人が語る。「私たちの院長様が重態なので皆とても心配していました。神父様がいらした時に「心配しなくても大丈夫、パパ様が亡くなられれば、すぐ次の方が任命されるから」(19) とおっしゃいました。その比較は余り嬉しいものではなく、慰めにもならなかった。マドレ・ピラールも皆を励まそうとして、「姉妹たちを元気付けて下さいましたが、本当に苦しみながらおっしゃったので、涙にそれが現れていました。」(20) 皆一生懸命に祈った。神は熱烈な嘆願を聞き入れられ、5月の中旬には病気は快方に向かい、希望が持てるようになった。普通の声音の会話が聞かれるようになり、休憩時間には笑い声がまたもや家に響くようになった。全き喜びに満たされて、何でもおかしくて笑ってばかりいたので、回復に向かっていたがまだ休んでいた院長は、何か必要なときには皆に聞こえるように、小さな鐘をそばに置くほどだった。
隣の人々が近くにいるということは、喜劇的な状況を醸し出し、修練女の最高のユーモアでそれを利用した。上の階には役者と聖器係が住んでいて、二人ともそれぞれの役目を練習する。――一人はドラマを、他の一人は死者ミサを――窓が開いているのと、家の作りで、その建物全体がその練習に与ることになる。ある日、中庭での珍しい会話が聞こえた。「誰がこの階に住んでいるの?」――彼女らの階のことである――相手の人が「知らないよ、いつも閉まっているから」と答えた。もう一人の人が「ここにはね、十七羽のカナリアのような十七人の修道女が住んでいるんだよ。」(21) 彼女らの喜びは、外部の人の目にはこのように映っていた。
彼女らをよりよく知っている人々はもっと感嘆した。モレノ枢機卿の秘書は、ある日の夕方彼女らを訪れた。マドレ・ピラールともう一人が応対したが、彼は皆に挨拶したいと言った。「会員は自然に淡白に振る舞い、訪問客に心にもないことを装えなかったので、皆最高に明るく楽しそうだった。その秘書は皆が悲しいプロセスを通り、今も通っていることを知っているので、これほど嬉しそうなのを見て感心した。夜遅くまでいたので、前に聞いていたことが本当だということが分った。院長は自分の部屋からその訪問のコースを辿っていたが、余り長いのと、笑い声ばかり聞こえていたのでびっくりした。何が話されているのかも分からなかったので訪問客が「彼女たちを軽率で考えなしだと非難されるのではないかと心配していた。しかし正反対で、その秘書は非常に好感を持ち、彼女らの心根を感嘆し、枢機卿に彼女らのことを誉めそやした。」(22)
「5月20日に、創立の事柄に関わっていた三人の志願者が着衣した。「この日全員がどんなに喜んだかは想像に難くない。その上マドレの健康も回復し、他の人たちももう元気になっていた。会則遵守も完全だった。この創立の仕事のために非常に苦しんだが、その仕事は保護され、完全に堅固なものになる根拠のある希望があったので喜びも完全だった。」(23)
「会則遵守は完全だった。」共同体の深い喜びは、休憩時間の笑いや話にだけ表れていたのではない。穏やかな顔つき、他人の仕事を手伝う誠意、「偽りのない愛」(Ⅱコリント6, 6)を持ち、「不平や理屈を言わずに」(フィリッピ2, 14)全てを行ない、「初代のキリスト者について書かれている兄弟愛」(24) に生きることに表れていた。
修道会を創立するために神は「この地上の最も弱い道具」(25) をお選びになったことを皆よくわきまえていた。しかし自分の無能を最もよく納得していたマドレ・サグラド・コラソンこそ、建物の最も堅固な土台であることを誰もがはっきりと知っていた。
あの質素な階に出来ていた共同体は、その近所の家と同じような状況に囲まれていたが、隠棲修道院風の大きな建物に住んでいたと同じように、彼女らの召命の基本的な点をよく守っていた。初期の聖心侍女の一人は後になって書いているが、マドレ・サグラド・コラソンは、本会の共同体の特徴である聖体礼拝を保つために、特別な関心を示していた。

 「彼女らの最も目立っていた熱意の一つは、礼拝を欠かさないことだった。それで聖体顕示がない時には義務ではないのに、出来る限りのことをした。それは神に出し渋るようなことにならず、この事におもにかかっている。――そして今もかかっている――。私たちの召命の促しに、愛の内的法が従うように命じたのである。木の根のように、それがなければ枯れてしまう会の生命である。神の御憐れみによってこの事が起こらないように、植えた方が新しい召命の増加によって、今もこれからも導いて下さるであろう。」(26)

 上の文を書いた人は、病院から病院へと巡っていた頃でさえ夜の礼拝を欠かさなかったと書いている。最も良いことはそういう細かいことではなく、前に述べたように、全てのキリスト教的共同体の「源泉と中心」である聖体(PO 6参照)に、ますますしっかりと留まるように、彼らを導いた心底からの衝動を皆が感じたのである。
マドレ・サグラド・コラソンの病気は、その共同体の殆どの人がもっと軽かったがかかった。コタニーリャ師も、彼女らを訪れた司教も、住居が狭いことがこの流行病の原因の一つであると思った。他方極端な貧しさも健康状態が不安定になる原因であった。
家を探さなければならなかったが、院長はそのためにはまだ弱すぎた。5月21日にはまだ書くのにも力をこめなければ出来なかった。「私は良くなったのですが、まだとても力がありません。ペンは鉛のように重く感じられます」と書いているが、前日の着衣式のことを細かく書くことが出来た。「新しい修練女たちは喜びに溢れ、私たち皆もそうでした。」(27)
幸いなことにマドレ・ピラールはこの時には病気にかからず、どんな用件でも果たせる状態であった。一人のエルマナと市内のここかしこを歩き回り、やっと一軒の売り物に出ている適当な家が見つかった。「マドリードのよく知らない道を歩き回って、無愛想に扱われた」あげく、チャンベリー(28) の町内にやっと家を見つけました。十九世紀の狭いマドリードの家が建ちこんでいるところから1/4レグア離れているでしょうか。」書いている人にとって「1/4レグア」が特別に遠いと言っているのはおかしく思われるが、彼女らの大部分はコルドバの距離に慣れていることを思い出さなければならない。「その家は共同体の全ての必要品を前以て買っておくために、鉄道がすぐ敷かれなければならない」(29) と確かに大げさに書いている。鉄道ではなく電車がまもなく通るようになるとはおよそ考えなかったであろう。(30)
もっと遠くまで歩き回るのに慣れているマドリードの住民自身にとっても、その家は郊外にある。それを取り巻く土地も殆ど開墾されていなかった。それに夜は灯りが少なく――ガス燈が少なく、それも度々消えてしまうが――共同体が移るのは冒険だと思ったのもよく分かる。しかし家は広く、立派な畑があった。マドレ・ピラールは大天使聖ミカエルの日まで貸してもらうことにした。マドレ・サグラド・コラソンは少し良くなっていたので、ある日の午後馬車で見に行った。「マリア・デル・ピラールはがっかりしたが、院長もそれに劣らなかった。しかし必要に迫られて同意せざるを得なかった。」(31)
引越しは5月26日と決まり、叙事詩的に行われた。年代記者は陽気なので、どんなエピソードの中にも劇的な華やかさを見出してこと細かく語る。何年語って主人公たちは正確に思い出していた。荷馬車の馬方とのやり取り、「全然同情してくれず、こちらが沢山働かなければならなかった。」オルガンは四人のガリシア人が運んでくれたが、「抱えると大きな声を出し、うなり始めた。」大部分の修練女の旅について言えば、「それぞれ違った荷物を背負って行ったが、一日の働きで疲れていた彼女らには重すぎる荷物だった。それに家が遠かったので、二度も三度も道に座って休まなければならなかった。」遂に皆が一緒に集まれて、「遠いけれども良い家に入れて元気付いた。」(32) 少したってマドリードの暑さが厳しくなってきた時、引っ越して良かったと思った。その頃の院長の手紙には、家の中にいれば「どこも風通しがよく、そのために殆ど暑さを感じません。マドリードの中心地は焼け付くようです。」(33)

 「この家で、1877年6月8日、イエスの聖心の祝日の午前七時に、私たち創立者はイエズス会士コタニーリャ師司式により初誓願を立てた。教会によって定められている全ての儀式と娘たちの喜びのうちに、いしずえ(礎)を据えるために多くの苦しみを忍んだ。その会の出来上がっていくのを見て、皆の心は感謝に溢れた。」(34)

 本会の中で、二人の創立者を指す「いしずえ」という言葉が使われたのは初めてである。後になってからマドレ・サグラド・コラソンは自分のためと姉のためにこの名を使っている。「このいしずえは人から見えませんし、粉々にされ、踏み付けられた石」(35) と言っている。そうなるのはまだ先のことだったが。彼女たち創立者は、英明な建築家の手の中にある道具であったと言えよう。最初の石の据えられるのが深ければ深いほど、建物は高く建てられるのである。
翌月、他の五人の修練女が誓願を立てた。共同体は七人の立誓願者を得て荘厳な雰囲気を有し始めた。

「私たちの集まりの主要な目的である、秘蹟に在(ましま)すイエス」

この新しい家に着いた翌日、最初のミサが行われた。しかし、聖体を安置する許可を得るまでにはかなりの時間がかかった。彼女たちにとっては大いなる空虚であり、聖体の在(ましま)さない生活は考えられなかった。「私たちの集まりの目的である秘蹟に現存されるイエス」は、彼女らの共同生活の存在理由とも言えるであろう。マドレ・サグラド・コラソンはそのように見ていたので、聖体を安置する許可を教皇に願う嘆願書にそのように書いた。(36) 彼女らの召命を手短にまとめてその書類に、聖心侍女は――当時はまだReparadoras del Sagrado Corazón(聖心の贖罪者)と呼ばれていた――秘蹟に現存される神なる主に礼拝を献げることを最も主要な義務とし、神に永久に身を献げ、また、恵まれない少女たちにキリスト教的教育を施し、また、十日か十五日間霊操を望む人々に宿舎を提供する」(37) と書いている。
「私たちの集まりの目的である、秘蹟に現存されるイエス」という考えを深く抱いていた者は「聖体の現存は、本会の各聖堂の生ける中心」(38) であると深く感じていた。この納得は彼女のうちに深い礼拝の姿勢と、それを外的具体的態度に表すという抑え難い望みを抱かせた。「・・・ 私たちの目が見る聖なるホスチアの中に、私たちの同じ目が見ることの出来ない受肉されたみことばを賛美し礼拝することは、私たちにとっての最も甘美な務めである。」(39) 「甘美な務め」は同時に彼女たちにとっての「助けと慰め」(PO 5 e参照)であった。創立を通して、この助けの必要性を非常に深く体験した。当時にあっては、聖体を安置するか顕示するための許可を得るには長い手続きが必要だった。しかし会の年代記者は、キリストは全ての手続きを超えて、数回にわたり彼女らと共に留まられたと語っている。1877年5月26日、新しい家に移った。しかし

 「・・・ 聖体を有していないという悲しさの中に過ごしていた。枢機卿にはこの許しを与えることが出来なかった。もし出来ればもう許可は得ていたであろうに。もう既に願ったか、その頃願ったのか分からないが、ともかく普通にはローマからは長くかかると彼女らは感じていた。主はそれを知られ、対策を施して下さった。それは次のとおりである。ある日、香部屋係りがミサ後カリスとパテナを片づけようとした時、パテナの上に二つ三つの聖体の破片を見つけ、院長の部屋に知らせに走った。院長は降りてきてそれを確認したので、聖体を聖櫃の中に安置し、二本のローソクを灯して翌朝まで二人ずつ交代して礼拝をした。この事は院長とマリア・デル・ピラールが誓願を立てた時に初めて起こった。その時から度々起こり、週に三回か四回パテナかコポンに残られた。[・・・] 外面的には小さい事であるが、主は彼女らと共に留まることを望まれ、彼女らも昼夜お傍に留まった。」(40)

 マドレ・サグラド・コラソンは大喜びだったが、それを知らせる義務があると思い、コタニーリャ師に知らせた。彼は、今度そういうことが起こったら主任司祭に知らせて、出来ればその聖体の破片を運ぶために立ち寄ってもらうようにと言った。その機会はまたすぐにあった。「院長は主任司祭に前以て知らせるために手紙を書いた。その手紙はその司祭の妹が受け取ったが、すぐ渡すのを忘れた。お昼になって帰ってきたので彼に渡した時、「病人に聖体を授けるために、今その前を通ったばかりなのに」と叫んだ・・・。」(41)
これらの出来事のもう一人の目撃証人は、非常に生き生きとした描写を残している。主任司祭に運んでもらうように知らせた後、共同体は聖堂に集まった。道を通るビアティコの鐘の音(聖体が運ばれるときに鳴らしたもの―訳者注)が聞こえた。ある修練女たちは声を出して福音の「一緒にお泊まり下さい」(ルカ24, 29)と殆ど同じ意味の「主よ、行ってしまわないで下さい」という言葉で祈った。鐘の音と足音はだんだんに遠くなっていった・・・。
あの若い人たちは、自分たちの中に神の御業、生活の大小の事柄の中に隠れている御働きを体験するのに慣れていた。何でも奇跡にしたがるというのではない。というのは、感嘆の目を持って見たが、同時に、落ち着いた信仰の目でみたのである。この時には、驚いたというより、彼女たちと共に留まろうとの主のお望みに心から感謝したのである。聖体を安置する特典を与えるために「ローマからは時間がかかる」というローマのゆっくりとしたプロセスを、神は早めたいと思われたようである。「このことは偶然なのか、または、司祭の視力が足りないから起こったのだろうか。というのは、本当に近視だったから――と年代記者は語る――。その原因は主のみぞ知る。」その司祭はミサの侍者をしている丸得るに、「マヌエル、どうしてこんなことになるのか分からない。気をつけるのだが、気をつければつけるほど聖体が残る」(42) と言った。
マドレ・サグラド・コラソンとその共同体の会員は、司祭の努力と、「助けと慰め」になろうと望まれた神のその意思とが反対であったということが分かっていた。
聖体を安置する許可は、10月19日、マドリードに届いた。許可書の日付は十九日だった。院長はそれを読むとすぐ、そこにいた二、三人に知らせた。家じゅうに伝わった時、皆集まって、この待ち望んでいた特別の恵みを感謝した。」(43) しかしその許しを確認してもらうために枢機卿に送らなければならず、「その返事は、彼が自分で始めに安置したいからそのように準備しなさい。行く時は追って知らせる」ということだった。ついに24日、大天使ラファエルの日に来ることが決まった。「実際、全ては整っていた。祭壇は新しく百合とバラとローソクで趣味よく飾られ、午前7時に枢機卿が着いた。ミサの聖なるいけにえを献げ、共同体の全員に聖体を授け、聖体を顕示し安置した。応接間に降りていって、それから家中を見て周り、朝食を取り、大変喜び、満足していると言われた。そして、日曜日と木曜日と祭日に聖体顕示をする許可が与えられた。この日、私たちの共同体の幸せは絶頂に達した。」(44)
初期の聖心侍女の他の一人は感情をこめて書いている。

「10月19日、ついに聖体を安置する許可が届いた。長い間私たちの家の生命と喜びであるものが欠けていたので、大きな喜びに満たされた。」(45)

 修道院は市の中心地から離れていたにも関わらず、マドレ・サグラド・コラソンと共同体全員は、恵まれない子供たちに教理を教えるという声を広めるために出来るだけのことをした。毎日午後、子供たちは集まった。また、小教区よりも修道院に近いところに住んでいる人々がいるので、院長はすぐに、聖堂は小さいが、全ての人に開かれた公的なものになるように努めた。「公開聖堂を建てる許可を枢機卿に願うことに決めた。それと共にミサを週に1回以上献げることと、教理を学びに来る少女や若い女性たちが、赦しの秘蹟と聖体の秘蹟を受けることが出来る許可も願った。」(46) マドレ・サグラド・コラソンは、修練院に入りたいある希望者に、「今日、こちらでは大変美しいミサがありました。教理の勉強に通ってくる若い女性と少女が何人か聖体拝領をし、その後、まだ主を拝領することの出来ない方たちが大勢赦しの秘蹟を受けました。聖母が母らしいご保護の下に彼女たちを受けいれて下さるよう、私どもは聖母に彼女たちを奉献しました。」(47) と書いた。
マドレ・サグラド・コラソンは共同体の聖堂で献げられる聖体祭儀と密着した教理教育使徒職を常に望んでいた。この最初の頃からそれを望み、後に、「キリストを諸民族に礼拝させる」、また、全ての人が「キリストを知り愛するように」(48) 出来る限りを尽くすことを、この二つの簡潔な文で表した。その後、ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラの考えを、「聖体の秘蹟から全てが出る、とアントニオ神父様はよくおっしゃいました。」(49) と単純な言葉で引用している。彼女はおよそ一世紀後に第二バチカン公会議がこの同じ考えを繰り返すなどとは知らなかった。いわく、聖体が中心である典礼から「教会のあらゆる力が流れ出る」、更に、それは「教会の活動が目指す頂点」(50) である。
チャンベリーの家には他の不都合があったが、マドレ・サグラド・コラソンにとっては、聖堂を聖体の魅力の真の焦点とするための困難と比べられるものは無かった。彼女はキリストが全ての人から愛され、礼拝されるのと見たいという大きな望みを持っていた。そして、「諸民族の礼拝」に聖体を顕示するより大いなる業はないと思っていたので、この家が他の面ではよく、広いものであったが、中心地から遠いということを嘆かざるを得なかった。

 「家が引っ込んだところにあるのは確かですが、エルマナスは今までこのようなところにいたことがなかったので非常に喜んでいました。庭で楽しい休憩時間を過ごしましたし、家中快活で、もし多くの悩みがあれば解消してしまうと言っていました。娘たちにとってはそうでしたが、マドレにとってはそうではありませんでした。マリア・デ・サン・イグナシオに「マドレ、教会を造っても、礼拝の二人の会員とアブしかいないでしょう」と言っていたように、日ごとにますます不快に思うようになりました。会則にあるように常に聖体顕示をしても、誰も訪問しないことは、マドレにとって苦しみでした。」(51)

 これは聖体への崇敬の使徒的意味を彼女ほど明らかに認めていた人は共同体の中に誰もいなかったことを示しているようである。年代記者は、エルマナスはチャンベリーの家で、「今までこのような所にいたことがなかったので」幸福だったが、マドレ・サグラド・コラソンは「日ごとにますます不快に思うようになった」と言っている。マドレ・ピラールでさえ、聖体を通して人々に開かれる必要性を、そんなに強く感じていなかった。
チャンベリーに留まっていた間、信者たちを惹きつけるよう出来る限り尽くした。その計画には細々とした事が入っている。先ず一階の部屋を公開聖堂にするために、枢機卿に許可を願った。枢機卿は9月4日にこの許可を与えた。

 「・・・ 上述の嘆願書で願っている恩恵を使用する許可を前述の院長に与える。聖堂の扉の上に、信者たちにミサやその他の聖なる秘蹟が行われる時に知らせるため鐘をつけるように勧める。」

 枢機卿によって命じられた条件を果たすのは、簡単そうに思えた。幸いなる鐘にも劇的な物語がある。

 「許しを得た翌日、ミサの時間になると、かなり年取った、その役目には格好の一人の農民が、鐘を手にして扉から出て、出来るだけ強く鳴らしながら歩き回った。[・・・] 毎朝それを熱心に繰り返し、家の周りで草を食(は)んでいたヤギたちに呼びかけた。というのは、近所に住んでいる人は殆どいなかったから。それでも祝日には7,8人が集まり、その後はもう少し増えた。」(52)

 数日後、色々試した挙句、むしろ家畜の首につるした鈴に近い鐘を付けた。家の前を通りがかり、下からは殆ど見えない速成の鐘楼に気がついた人々は、共同体のこのユーモアに富む思い付きを楽しんだ。
しかし、事実は、もし院長が心の奥底に持っている理想を実現したいと思ったなら、その家は発展できないであろう。聖堂とそこに安置されている聖体は、真に共同体の「生命と喜び」であった。しかし現在の状況からすれば、家も聖堂も、より大きな共同体の「生きている心」として知られるようになることはないであろう。そしてこのことはマドレ・サグラド・コラソンにとっては死活問題であった。

「和解の旅」

秋が訪れた。それと共に、契約した義務を果たす必要も近づいてきた。それは家の第一期の支払いである。お金がない。それでマドレ・ピラールは農地を売却する手続きのために急遽ちょっとコルドバに行こうと決心する。
一人の姉妹――共同体がコルドバからアンドゥーハルに移った時彼女と共にいた同じ姉妹――と共にマドレ・ピラールは、9月の初旬にアンドゥーハルに向けて出発した。この度はしのつく雨ではなかったが、天候に立ち向かうよりももっと大きな難しさについて考えていたに違いない。共同体の経済状態は容易なものではなかった。コルドバに所有地を持っていたは確かだが、それをお金に換えるには色々な障害があった。列車がデスペナペロスを走っている間、マドレ・ピラールは買ってくれそうな人々を想像し、利益がどれくらいあるかを考えながら心でいろいろ計画を巡らしていた。余り楽しくない役目を仰せつかったのは事実である。
マドリードを出る前に、補佐司教もコタニーリャ師も、コルドバ脱出のエピソードに色々な形で介入した全ての人々を訪ねるように、熱心に彼女に勧めた。もちろん最初に司教、次に教区の聖職者に。これらの訪問についても心配していた。あの事件を思い出し、もうこれらの方々に手紙で申し上げたことを再確認せざるを得なかった。すなわち、二人は「嫌な思いと苦しみ」を与えたことを残念に思っているが、その全てに於いて「主なる神のみ前で何の悪意もなく行ったこと」、祈りのうちに彼らのことを考えていること、各自は自己の召命に最も適う道を選ぶ権利があるという考えを今でも持ってはいるが、彼らにとって益になると思われることで彼らの役に立つために何でもしようと・・・。(53)
マドレ・ピラールは旅行中色々な事を考えていた。デスペナペロスに着くまでに8,9時間かかった。峠の印象的な景色を過ぎるとアンダルシアに再会した。潅木であるオリーブは地面に向かって傾いている。アンダルシアの「腐植土」に根を下ろした背の低い「謙虚な」木。緑の木々、輝いているというよりも灰色がかった銀色。野原、平地。左右つりあっているオリーブの畑でいれずみされた丸い丘。花は咲いていないが物の色を浮き立たせ、光彩を添える熱っぽい明るさ。秋、アンダルシアのすばらしい秋、マドレ・ピラールとその同伴者と共に、聖心侍女の共同体は、その両親の土地にまたもや入り、あの時外的に破損された友情を回復した。
コルドバに着くと、共同体の二人の立誓願者(54) の母親であるドニャ・アングスティアス・マラゴンの家に泊まった。翌日マドレ・ピラールは、このに携えてきた最も重い任務、セフェリーノ司教との面会を、出来るだけ早く果たそうと思った。

 「午前中、彼女はマリア・デル・ブエン・コンセホと一緒に、司教館に赴いた。エルマナスは慎み深い質素な黒い私服で行った。初めに出会ったのは秘書で、彼女らが誰だか分からなかったので、何事ですかと尋ねた。マリア・デル・ピラールは、ポラス家の令嬢を思い出すかと言うと、首をかしげながらノーと答えた。これは誰だか知ろうとしないからではないかと思って、更に力を入れてマリア・デル・ピラールは『サン・ロケ街のReparatrices(贖罪会)を思い出しませんか』と言うと、驚いて叫び、共同体について質問を浴びせた。彼女らの話を喜んで聞いてから、すぐ司教と面接出来るように計らってくれた。もしかして迷惑になるといけないので、マリア・デル・ピラールは、まずお知らせして下さるようにといった。しかし中に入るとすぐ戻ってきて、入るようにと言ったので、司教の部屋に入ると、マリア・デル・ピラールは、彼の足許に跪くや、涙が溢れて、一言も話すことが出来なかった。」(55)

 司教は親切にして下さったが、マドレ・マリア・デル・ピラールは、旅行中、正確に、慎重に用意してきた落ち着いた弁明も言い表すことが出来なかった。セフェリーノ師は出来る限りの愛を込めて彼女らに別れを告げた。この時の年代記者は、「彼は性格的に厳しいが、努めて優しく振舞われた。」(56) と書いている。当時聖心侍女がコルドバの司教に対して持っていた畏敬の念についての非常に意味深長な語句である。
嫌な思いは一度で済ませるほうがよいと思ったのであろう。マドレ・ピラールとそのお連れは、司教総代理の事務室を始めとして、司教館の事務所を次々と訪れた。そして全ての場所で彼女の心を涙をもって表した。ほんの少ししか、または何も話さなかったが、2月のあの事件の時より気持ちはずっと変わり、教区事務所は彼女らと同じように和解を望んでいた。
教会当局者だけがそう望んでいたのではなかった。

 「コルドバに私たちのエルマナスが着いたことが分かると、私たちの共同体のメンバーの家族たち――これは当然だが――だけでなく、あらゆる人々が急いで彼女らに会いに来た。[・・・] 最も驚くべきことはこの事でなく、前に見てきたように、3年前には兄のラモンを除いて全ての親族が私たち会員に対して不快な思いを持っていたし、全ての人から今まで非難されていたのに、今、貧しい質素な身なりで自分の資産の大部分を売る願い書を持って来た時に、皆彼女たちに会いに来て仲直りをした。これは本当に奇跡的なことだと思われたのだろう。マリア・デル・ピラールは後になって、これは和解の旅であったとよく言っていた。そしてその旅行では、それだけしか得られなかった。」(57)

 「貧しい質素な身なりで」コルドバに着いた。マドレ・ピラールに往年の輝かしい若い女性を見ることは難しかったに違いない。彼女に会った人は誰も、彼女がその村の主な家庭に属していたとは言えなかったであろう。貧しさは創立者らと切り離せないお連れだった。二人は前に属していた社会から拒絶されたこともある。大きな建物には、貧乏人の入口と、権力者の入口があるという事を自分自身で体験した。

 「・・・ 身なりで分からなかったし、彼女(マドレ・ピラール)も表さなかったので、奉公人たちは(彼女の意向を知らずに)自分たちの主人にうるさいことを上手に言いに来た貧乏人だと思って無作法に侮って帰そうとした。兄のドン・ラモンの義理の父の家に行こうと思い、在宅の時にその家に着いた。取り次いでくれたが会えないということだった。もう一度願ったがだめだった。いつも一緒にいたマリア・デル・ブエン・コンセホが『エルマナ、誰だかおっしゃれば』と言ったので名前を告げた。召使いが『ドロレス・ポラス』と言うのを聞くと驚いて、何を聞いているのか分からないほどだった。居間に入ってそれを告げるや否や、玄関にはもう侯爵とその夫人。子供たちと殆ど家中の人が出てきた。」(58)

 マドレ・ピラールが自分の名前をなかなか言わなかったのを驚いたが、それは身振りや態度によって、富みと安楽の世界には属さず、度々外見だけで軽蔑される貧しい人々の階級に属していることを示すという彼女らの望みを聞いて初めて理解できた。創立者のその後の生活は、優れた教養――人間的な見地からしても放棄出来ない――と、貧しい人たちの質素とこれらの社会的階級の人たちへの愛のこもった関心と好みとをどのように一致させていたかを私たちに教えてくれる。
マドレ・ピラールの身なりの貧しさは非常に目立ったので――ということが出来れば――コルドバで過ごしていたある日、教会のドン・カミロ・デ・パラウは、長靴を買うために五ドゥロをくれた。まさに喜劇である。
約一ヶ月余りコルドバにいて、マドリードに帰ることにした。土地を買う人を見つけられなかったので借金の返済は迫ってくる。マドレ・ピラールは少しの金を集めたので、それで共同体の急の必要には対処することが出来ると思った。その上、摂理に対する信頼によって、創立者らは、前から入会を望んでいたヴェレスーマラガの二人の妹たちを、持参金なしで入会を許可することにした。そしてマドレ・ピラールと一緒にマドリードに行くことになった。ドニャ・アングスティア・マラゴンは創立者らにその娘アンパロの教育を依頼した。まだコルドバにいた時、サン・ロケ街でマドレ・サグラド・コラソンから初聖体の準備をしてもらった十歳の女の子である。(59) ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラの病気と死去に際してマドレ・ピラールに付き添っていた夫人カルメン・ゴメスも、マドリードで教育してもらうように娘を彼女らに託した。
帰りの旅には二人の若い女性と二人の少女とがマドレ・ピラールとエルマナ・マリア・デル・ブエン・コンセホと同行した。皆喜んでいたが懐は寒かった。「お金はほんの少ししか持っていかれませんので、神のために霊魂を携えて行きたいと思います。」と創立者たちの姉の方は妹に書き送った。(60)
会の地平線は明るくなってきた。ある借金は返済しなくてもよくなり、昔の友情は回復され、二人の志願者を修練院に・・・。マドリードへの帰途の旅は嬉しかっただろうと思うのは空想ではない。マドレ・ピラールの華やかな文章を知っているので、コルドバで過ごした数日間に体験した事件の糸をたぐって、真の物語を心の中で綴っていただろうと考えるのは大げさではない。すなわち、セフェリーノ師の顔、カミロ・デ・パラウ師のもてなし、「貧乏人」だと思って受け入れなかった歩ラス家の驚き・・・本当の貧しさ、教会の聖職者が新しい靴を買うために五ドゥロスを与えようとした敗れた長靴!
コルドバ―マドリード間の旅は、マドリードコルドバの旅よりずっと短かった。列車は汽笛を鳴らし、煙を吐いて、もうアトーチャに入った。あとチャンベリまで行けばよい。その後マドレ・サグラド・コラソンと修練女たちの抱擁に迎えられ、話しは尽きなかった。

最初の規約

マドレ・ピラールがコルドバにいた間、マドレ・サグラド・コラソンは、会の長上として、また共同体の霊的指導者としての役目を完全に果たしていた。その頃彼女がしなければならなかった仕事の一つは、規約の認可を得ることだった。それは修道生活の様式を教会から承認されることで、今の場合は、モレノ枢機卿から認められることである。
深く、しかし全く素朴に生きていることを言葉で説明することはたびたび困難である。それはコルドバ時代から共同体が生きてきた召命の内容を幾つかの条項にまとめる時にそうだった。生きていることを表すだけでなく、教会法的に書かなければならないからである。マドレ・サグラド・コラソンはいつものように、コタニーリャ師のところへ行く。ゼロから始めるのではなかった。Reparadorasの規約があったし、イエズス会の会憲の要約も持っていた。修練女の共同体がマドリードに受け入れられるとすぐ、コタニーリャ師は会の計画の要約を書いた。コタニーリャは言語学者ではなかったが、言いたいことをはっきり言うことは出来た。修辞学を重んじたあの時代にあって、ものを簡潔に言えることは非常に称賛すべき歳能である。彼が「Reparadoras de Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者)」と呼んだ会の性質について、八項目で述べている。文学的修飾を用いず、普通の文章で、あの共同体が果たしたいと思っていた使命の具体的手段をはっきりと記したのである。その書類は、会の決定的創立と考えていた4月14日の八日後の、1877年4月22日の日付で、マドリードに於いて、となっている。(61)
その後数ヶ月間、二人の創立者は、コタニーリャ師と共に、もっと広範囲の規約を草する仕事に当たっていた。実際にはこのイエズス会員の働きだった。創立者たちの役目はそのテキストに、彼女らが実際に生きたいと望んでいたことが何も欠けていないかどうかを確かめることにあった。数ヶ月前に、何人かの入会希望者にマドレ・サグラド・コラソンが書いた手紙に、マドレ・ピラールは次のことを付加えた。「・・・ マリア・マヌエラ、主は私たちの会をご自分のお好きなとおりになさりたいようです。枢機卿様は規則の中に、聖体顕示とともに、恵まれない子女たちの無償の教育をお入れになりたいのです・・・。」(62)
8月の下旬に規約は出来上がった。

 「コタニーリャ師は、認可を受けるために枢機卿にそれを送るように指示した。送付すると枢機卿はそれを見て、修正するために誰かを遣わそうと言って規約を返し、修正後もう一度彼に送るようにと言った。枢機卿は非常に忙しかったので、言ったことを忘れてしまった。院長はその延期が非常に長く感じられたので、ある日秘書のところへ行って、枢機卿に思い出させて、早く事が運ばれるようにと頼んだ。すると秘書は彼女を非常に高く評価していたので、喜んでそれをしてくれた。」(63)

 数日後、枢機卿はビセンテ・マンテロラ師を検査のために送られた。彼はその書類を検討して、非常に好意的な報告をした。その結果トレドの枢機卿は、あの記念すべき、1877年の9月21日に、認可の教令に署名した。

 「Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者)会のこれらの規約を審査した結果、表明された意見に基づけば、修道的完徳に達し、その目指す聖なる目的を獲得するためにふさわしからぬものがないので、前期の規約を2年間の期限付きで是認する。なお、この期間が経過した時点において、決定的認可を得る実際の経験を通して得られた適宜の意見に対し、再度提出することを要請する。」

 ようやくホッとした!これで過去の種々の事件がマドレ・サグラド・コラソンのうちに実ったのである。

 「院長がその書類と二年間の是認とを受け取った時に驚いて秘書に言った。
――でも、たった二年ですか?
あたかも、「もう決定的だと思っていましたのに、これだけですか?」と言わんばかりに。」(64)

 枢機卿の秘書は、これは通常のやり方で、この二年間を通して、適当でないことがあれば修正する利点もあると説明した。「これを聞いて納得し、全ての娘たちはこれを知って大喜びをし、認可されるようにと願って献げた祈りと同様に感謝の祈りを沢山繰り返した。」(65)
この規約の中に彼女らの召命が確認された。具体的に言えばその年の2月から特に戦ってきた全てのことが認められたのを知って納得した。本会は一つの偉大な使命に特に献げられたものであり、その使命とは何よりも、「祭壇上の拝すべき聖なる秘蹟」のうちに表されたキリストの「限りない愛」に応え、聖心が人々から受ける侮辱を償い、同時に「気の毒な罪びとたち」が改心し、神と親しく交わり、恩恵を受けることが出来るために、彼らを憐れむよう聖心を動かすことである。」マドレ・サグラド・コラソンはコタニーリャ師に、本会固有の使命を果たす具体的手段を非常に詳しくはっきりと説明した。そしてコタニーリャはReparadorasの規則から取った文に自身の文を加えて、規約に法的形を与えた。聖体崇敬と使徒活動は、聖心侍女の歴史を通じてずっと表されるであろう固有の特徴を持って、明らかに決定されたのである。
モレノ枢機卿によって認可された文書には、創立者たちを深く安堵させる注がついていた。すなわち、「霊的統治と徳の実践のために、会はロヨラの聖イグナチオの規則を持っている」(66) と。認可はこの最後の注にも及んだのである。

「見よ、兄弟たちが一致して生きるのは何と美しいことか」

11月の初旬にコルドバから、農地の買い手が現れたという報せを受け取った。遂に売ることが出来ると期待してマドレ・ピラールと同伴者エルマナ・マリア・デル・ブエン・コンセホはまたもや出発した。
コルドバに着くと、全ての推定していた買い手は、煙の如く消えてしまうかに見えた。マドレ・ピラールは二ヶ月以上もコルドバに留まった。しかし「全ての伯爵と侯爵とあらゆる人に農地の買収を頼んだが、誰も買おうとはしなかった。」この旅行は二人の創立者の間の美しい手紙のやり取りの機会となった。その中には、その頃の困難が述べられ、また皆がそれらを耐えるのに慣れた元気の良さが表れている。単純な手紙で、たびたび重要でないこまごましたことが沢山書かれている。しかしそれによって、離れていても疎(うと)くならない親しみを示している。マドレ・サグラド・コラソンは修練女について語る。「プレシオサ・サングレは少し良くなりました。他は皆良い人たちで、喜んで生活しています。」「カルメンはひどい咳が出ました。少なくはなりましたがまだ続いていて心配させられました。」「かなり寒いので、ある人たちはひどく寒さを感じます。私はおかげさまで余り感じませんので、怠惰を追い払うのに好都合です。」「修練女は皆善い人たちでとても喜んでいます。」・・・
マドレ・ピラールの方はコルドバでの全ての事柄について報告し、絶えず共同体のことを思い出している。「皆様のことを決して忘れません。皆様は私にとって目の瞳のようです。」「私は一方ではそちらに帰りたい望みと戦います。そちらは世界中で一番良い憩いの場です。精神的に低くなることを恐れ、また私の不忍耐で、問題をよく解決出来ないのではないかと恐れます。」(67)
たびたびコルドバから郵便が遅れるのでマドレ・サグラド・コラソンに次のような注意をした。「あなた方はお亡くなりになったようですね。文字は殺し精神は生かすと常に言われています。余りお手紙が来ないと言ったのは全然来ないという意味ではありません。もう八日前からお手紙をいただいておりません。[・・・] あなたがお亡くなりになっても、コンセホが生きているなら手紙を下さい。もしコンセホも生きていないなら、この手紙を受け取った方がお手紙を下さい。」(68)
実際に保管されている手紙は豊富で、深い心の一致と共同体のメンバーの兄弟的な親しい生活、特に二人の創立者姉妹の親しさがよく表れている。マドレ・ピラールは財産管理の問題について責任を持ち、全てのことを決めるために、「妹である院長」とコタニーリャ師に勧めを仰ぎ、許可を願っている。「この仕事が終わるまでこちらに居るべきでしょうか。それとも事がよく運んでいてもやめて帰りましょうか。私はどちらでも構いません。私の長上が待つようにというのでなければ、明日出発しようと思います。」(69)
マドレ・ピラールは姉であるということを非常に意識し、マドレ・サグラド・コラソンが、人手不足で、物質的なことで悩むであろうと考えて、度々苦しみ、院長として物事を決定するためには服従するが、妹に勧めを与える義務があると思う。

 「神は全能で、私たちを無限に愛しておられ、いろいろな事が起こるのもご存知です。何を恐れましょうか?皆どうでもよいことです。喜びをもって出来るだけよくお仕えしましょう。神が事柄を処理なさるのです。これらの事柄が私たちにとってとても重要であっても、非常に私たちの益になり、たとえ死によらなければこの重荷が片付かないとしても、神は私たちが考えてもいない時に終わらせることがお出来になります。皆に深い信仰をしっかりと植え付て下さい。信仰は私たちの神父様のテーマだったことをご存知でしょう。神様がお与えにならないなら、必要なものさえ軽視する強い信仰を願いましょう。神だけで十分です。私たちの心にこの偉大な真理を深く根付かせるよう努力すれば、この世で本当に幸せに暮らすことが出来るでしょう。」(70)

 マドレ・サグラド・コラソンはその頃、前述の手紙で推し量れるように、勇気を失っていたのではなかった。それより前に書いた彼女の手紙は、多くの用件に触れている。
――あるものは愉快で、あるものは不愉快であるが――そのいずれにも、マドレ・ピラールが憂えたような心配は表れていない。マドレ・ピラールを安心させるために院長は簡単に答えた。

 「お蔭様で、私の弱さにもかかわらず、信仰と勇気と信頼はなくなりません。これこそ私を支えてくれるもので、もしそうでなければ私は今頃どうなっているでしょうか?」(71)

 マドレ・サグラド・コラソンの信頼は、その時も、そして生涯を通じて、神の恵みによって最大限に強められ、徹底的な貧しさを納得することにあった。なぜなら、神の力は弱さのうちに完成されるからである。(Ⅱコリント12, 9参照)彼女の言葉と行動には、忍耐と信仰がにじみ出ている。
マドレ・サグラド・コラソンの言葉は非常に簡単である。それは性格の多くの面に於けると同じく、彼女の姉とは違っていた。基本的な考え方の内容ではなく、その面では大事な点で二人とも一致している。この頃に書かれたマドレ・ピラールの手紙には(コルドバ滞在中)、創立者の役目は、特に神のみ旨への従順とすなおさにあると思っていることが表されている。つまるところ、神の召し出しへの答えは、大事業を実現することではなく、受け入れる態度なのである。

 「私たちの信仰は深くなければなりません。お思い出しになるように、神の私たちへの呼びかけがそれを求めています。正式な長上に従うことは、家を出た時から私たちを導いていた考えです。私にとってこの事と、神に仕える事、すなわち私の信仰はたとえ完全ではなくても、全てにおいて私の霊的喜びを日ごとに深めていくのです。
今、ベナメヒの侯爵の家を探しながら、道に迷って、寒さに震えながら沢山歩いた挙句、やっとサンタクルスの向こう側にたどり着きました。玄関番からそっけなく扱われた後、奥様は休んでいて会えないということです。こんなことで私は勇気を失うでしょうか?いいえ、もう一度水曜日に行ってみようと思います。お金を頂かなければ辱めをいただくでしょう。神は全てをご覧になります。全てのことに全然執着しないようにしなければなりません。神が一人ひとりの上に持っておられるご計画を果たすこと以外、神にとってはたいしたことではないのです。その事のために働きましょう。そして神がお望みになれば――それを期待すべきですが――冷淡な苦しい試みに服しましょう。百年と続きませんから。[・・・] コルドバにいる事と、それに伴う全てのことは、私にとっては辱めです。しかし私を幼いイエス様の手まりのように考えます。それで従順による以外には、どんな事の為にもイエス様が手まりでお遊びになるのを妨げたくはありません。全てが徐々に進んで行くのは興味深いものです。物事が停滞しているように見えても、イエスの聖心のために進んで行きましょう。聖心のうちに皆様と一致しているマリア・デル・ピラール。」(72)

 マドレ・ピラールの手紙はいつも長いが、この長文の手紙はマドレ・サグラド・コラソンの手紙と行き違いになった。姉のよりは簡潔な彼女独特のスタイルで、いろいろな事、――病気、司教の来訪、志願者の着衣についてなど――これらの小さな事柄の中に彼女の落ち着いた単純な信頼の態度がうかがわれる。

 「今私は非常に勇気と力を感じています。主は必要な時に私を助けて下さいます。今日は多分家には千レアルもないでしょう。でも私は本当に喜んでいます。」(73)

 住んでいた家には広い畑があったが、水不足で荒れ果てていた。井戸があったが水がずっと底の方にあるので、動物でも非常に気をつけなければ落ちてしまいそうだった。本当に「塀は古くて何年たっているか分からない。[・・・] あらゆる心配のもとになる」(74) 家を買ったものである。共同体は困難にぶつかってすぐ引き下がるようではなかったので、
六、七人の力のあるエルマナスが毎日必要な水を汲んでいた。
その後、綱の物語が起こった。買った古い塀と同じように使い古したものだったらしく、すぐ切れてしまった。
水の消費を最大限に切り詰めなければならなかった。それはマドリードの夏にとっては大変なことだった。しかしマドレ・サグラド・コラソンは別に不愉快ではなかった。家の持ち主との契約を破棄する真面目な理由になると思って、内心喜んでいた。彼女にとっては、師の中心地から離れていることは、信者たちが礼拝に参加することが難しく、積極的使徒職を果たすことが出来なかったので、それはどんな苦しみよりも大きかったのである。しかし軽率には行動しなかった。彼女もマドレ・ピラールも、賢明な方たちの意見を仰いだ。たとえは兄のラモンは「私の理解するところでは、今住んでいる家の持ち主との間の契約を破棄するには時間をかけたほうが良いでしょう。ご存知のように、私にはこの家はいつも高いと思われたのですが、もっと都合のよい家を探すのは易しいことではありません・・・。」(75)と言った。
水の物語はちょうどモレノ枢機卿が修道服を変更するように勧めた頃であった。まだマリア贖罪会の修道服を着ていたので、それと混同する恐れがあった。創立者らは何も不都合を表さなかったし、他の姉妹たちに伝えた時も、何も問題にならなかった。これほど若く、修道生活の経験も浅い女性たちが、本質的なことと第二義的なこととの区別がはっきり付られたことは驚くべきことである。本質的な召命の内容についてならば、生命をかけたであろう。しかし服の形などについては議論することさえ思いつかなかった。
真夏の酷暑の中で、しかも少量の水しかない時に、発った数日間で、使っていた修道服を変えるという特別の仕事が加わったのは事実である。大至急で仕立て、8月22日に白と空色の修道服を脱いで、黒に変えた。その時、皆少し陰気な(葬式のような)感じがしたが、「彼女らの幸福と喜びは、修道服の色にはなかったので、変わったことを非常に喜んでいた。」(76) この時にもラモン・ポラスは、よい勧めを与えた。「修道服が修道者を作るのではなく、理由があって白を黒に変えるべきだと考えた長上たちの意見に従って行動することも、誤りではない。必要なのは、規則の精神を守ることで、それ以外のことは、必要ならば犠牲にしても構わない。それらは多かれ少なかれ偶有的なものだから・・・。」(77)
修道生活のことについて兄がこのように明るいので、創立者たちは、ペドロ・アバドを出た時のこと、家族の者たちとの緊張などを思い出さざるを得なかった。ラモンがすっかり変わったのは、本当に不思議なことだった。創立時代を通して、彼の精神的支えは非常に貴重なものだった。
8月29日、マドレ・ピラールは三度目の旅に出た。コルドバの一人の婦人が、非常に売却が難しかったあの農地についてある人が関心を示したことを知らせてきたのである。ラモン・ポラスはその土地に関係があったが、それを譲渡したくなかった。妹たちと修道会とを深く愛していたにも拘らず、手放すことに反対した。彼はペドロ・アバド゙にいたので、マドレ・ピラールと会うためにコルドバまで行かなければならなかった。二人の姉妹は考えて、その用件がもっと難しくならないために、マドレ・ピラールがペドロ・アバドまで行くことにした。
ペドロ・アバドを訪れたことは大騒ぎのもととなった。その村の全ての人に知られ愛されていた「ドロレス嬢」が帰ってくるのははじめてだった。――ラファエラ嬢は一度も帰ることはなかった――。そして彼女と共に昔の思い出がよみがえってきた。二人の姉妹の愛徳、全ての恵まれない人たちのための心労、注ぎ尽くされた優しさと憐れみ、全てはペドロ・アバドの住民の心に深く刻み込まれていた。滞在は短かったが、非常に味わいのある事柄があちこちにあった。彼女の報告文は、年代記の数ページを占めている。

 「旅行することに決め、8月29日、マリア・デル・ピラールと忠実な伴侶マリア・デ・ロス・ドロレスは修道服のまま家を出た。黒なので白ほど目立たないと思ったからである。30日、兄ラモンの祝日に、ペドロ・アバドに着いた。駅には知人が何人かいた。誰にも知らせないように頼んだので、彼らは承知した。駅は村から1/4レグア(約千四百メートル-訳者注)ほど離れていたが、歩いて行った。8月の午前時、アンダルシア南部の陽はじりじりと照りつけていた。村の入口の隠遁所に、多くの奇跡が行われるので有名なペドロ・アバドの聖なるキリストの像があった。墓地はその隠遁所の中にあった。彼女らは両親兄弟が眠っているのでそこを最初に訪れた。礼拝堂の掃除をしていた女性はマリア・デル・ピラールを知っていた。彼女らが兄の家に行こうとした時、その女性はもう既に人々が気づいているのが分かった。だが彼らは窓から覗いて見るだけにして、「お嬢さま」と何度か叫び声をあげていた。二人が家に着いた時、まだ報せは届いていなかった。一人の召使いが出てきてびっくりし、大声で、「ドロレス様だ、ドロレス様だ!」と言いながら中に入った。家中がざわめき始めた。まだ兄に挨拶する間もなく、家中は身内の者や知人で一杯になった。変わった事が起こるとすぐかぎつける子供たちも沢山出て来た。村には丸一日しかいないので、旅行の目的を兄に告げる暇さえないほどだった。その日の午後には、老いも若きも一人残らず彼女たちに愛に来た。家の入口を閉めて休もうとした時やっと彼に話すことが出来た。ドン・ラモンはどの土地を売る必要が無かったので、その申し出を余り喜ばなかったが、マリア・デル・ピラールは説得する術を心得ていたので、全く納得させるところまでは行かなかったが、最も重要な承諾を得ることは出来た。翌31日は日曜日だった。どのようにしてミサに出かけようか。ドニャ・ドロレス夫人が車を出そうと申し出てくれた。ピラールは、車で行かなければ道を歩くことが出来ないだろうし、どんな事が起こるか分かっていたので、それを承諾した。教会に着いて、落ち着いて聖体拝領が出来るように聖櫃の聖堂に隠れたが、それでも彼女らを見つけた人たちが、突然背後から強く抱きしめた。ある婦人は、聖なる場所への畏れと愛の板ばさみになって、抱きしめながら次のように言ってしまった。――神様、ごめんなさい。もうどうしようもないのです。私の愛するお嬢様!――他の人はそれほどではなかったが、彼女らが聖体拝領台に近づくと、後ろから二人の間に割り込んで来て――せめて二人の間で拝領させて下さい。それだけでいいのですから――というのだった。マリア・デル・ピラールに対してなら分かるが、何も知らないマリア・デ・ロス・ドロレスにするのは不思議だった。(78) こういう騒ぎの中でミサに与り、家に帰った。家に入ろうとすると、皆が押しかけてきて入れないほどだった。それはまあ良いとして、その日のうちにコルドバに帰るのだと言い出した時、皆は、特に兄弟とその夫人たちと親戚の者は大騒ぎをして反対した。車は入口に用意されていたが、大勢の人から離れるのが大変で、泣き声と叫び声の中を手を振り切って車に乗り込んだ。車は駅まで一緒に行く甥や姪や家の者で一杯になった。マリア・デル・ピラールは、あの日彼らの手から逃れられたのは奇跡だったと後でよく言っていた。(79)

 コルドバでは、手続きに手間取ったが、やっとその土地は売れた。
その間、マドレ・サグラド・コラソンは、新しい家を探す必要を日増しに感じていた。水不足の上に他の支障をもきたした。その頃姉に宛てた手紙にその事が書かれている。

 「今日ついに井戸の綱が切れてしまいました。他のを買いましょうか。それは綱を作るスパルト(植物)を買いましょうかということです。馬に水を運んでもらうのと綱をつけるのと、どちらが得になるでしょうか。家や土地を見つけるとなると、どうしても一年は罹るでしょう・・・。」 (80)

 「・・・ 3日、火曜日にクバスが来ましたが、まだ何もしていませんでした。聖母訪問会の裏にある土地はとても高いのです・・・。
井戸のことを書いたあなた宛の手紙をペドロ・アバドに出しました。綱はつけましたが必要なだけしか水を汲まないようにと言っておきました・・・。」(81)
「・・・ クバスはまだ懸命に働きかています。今週の火曜日か水曜日に図面を持って帰ってきました。――あなたに写しを同封します――。同時に他の土地のことも知らせてくれましたが、遠すぎて不便だと思います。彼はなお探し続けています。この図面にある土地を見に行きました。正面はルチャナ街にあり、両側にも広い通りがあります。裏側にも細い道があって家が並んでいます。彼が記しをつけているように、裏側にかなり大きな粉挽き場があります。クバスの手紙をお送りします。彼がどんな風に思っているかがお分かりになるように。場所は大変良いのですが、私が不都合に思うのは、非常に低地なので基礎造りに費用がかかると思います。井戸があり、近くにロソヤの水があります。フエンカラール通りの非常に近くです。神父様はご覧になってお気に召したのですが、ご覧のように高いのです。あなたがいらっしゃるまで何も決めないようにとクバスに申しましたら、別に急がないということでした。」(82)
「・・・ その後クバスは来ません。何も彼に言わなかったのは、コタニーリャ師とあなたがここにいらっしゃるまでは、決めたり承認したりすべきではないと思うからです・・・。」(83)
「井戸の調子は最悪です。今日車輪が三つか四つに割れてしまいました。幸いなことにフランシスコは、もうその車輪が役に立たないということが分かりました。」(84)

前述のいくつかの手紙で分かるように、二人の姉妹はそれぞれの場にあって大いに活躍していた。マドレ・サグラド・コラソンは、修練女とまだ養成期にある若い誓願者との共同体の責任を持っていた。家の中の仕事は山ほどあったが、物質的なものも含めて、会の指導をなおざりにはしなかった。彼女は院長でありながら、姉の意見を非常に尊重しただけでなく、彼女の側としては、起こり得る全ての事を予見していながら、決定する時に、姉の意見に譲っていたのは、感嘆すべき事である。
9月下旬にシスネ通りに一軒の家が見付かった。高価だが非常に広々としていた。
マドレ・サグラド・コラソン としては気に入ったが、いつもの様にその家の全ての特色を姉に詳細に正確に書き送っている。

 「この前お送りした図面の土地は私には気に入りませんでした。あなたもきっとそうでしょうと思います。というのは土地が低いので、周囲の全ての家から見下ろされるからです。けれども私はまだ何も申しませんでした。今日同じ値段の素晴らしい家を見つけました。立派な庭が表にも裏にもあり、裏のほうがかなり広いのです。他の土地と反対に高所にあるので、周囲の家を見おろせます。その土地の中に泉があり、持ち主は数軒の家に使わせて、年に二千レアレス集めています。屋内には噴水が地下と一階と二階にあり、水は豊富です。流しは大理石で、それぞれに蛇口がついています。外の小屋に水槽があります。結論を言えば非常によく考えられた家で、私は好きです。部屋は沢山あり、特に風通しがよいのです。鉄のついた二つと三つの窓がある部屋がありますが、多分バルコニーでしょう。
シスネ通り五番地にあります。チャンベリの古い広場から入って、確か二番目の家です。その場所は将来性があり、今でもよい場所です。三万五千ドゥロスかかりますが、人の良さそうな庭師の言うには、三万二千かそれよりも安くなるでしょうと・・・。
神父様とあなたがその家を見てお考えをおっしゃるまでは何もいたしません。」(85)

マドレ・ピラールは折り返し返事を出した。

「・・・ 私がそちらに行くまで何もなさらないのを喜んでいます。それまでまず家や土地を見に行くことを止めないで下さい。第二に(これは私の感じでは第一にすべきことですが)沢山祈って、主が建てることが出来るようにして下さるようお願いして下さい。優先する聖堂も、私たちの部屋も、修道者の清貧に相応しい場所であるように・・・。」(86)

私たちは、マドレ・サグラド・コラソンがこの家に興味を持っていたことを知っているので、この返事は期待はずれであり、既に帰って来ていたコタニーリャ師も買うほうがよいと思っていたので、なおさらであることはよく理解できる。もう一度姉に手紙を書いたがその手紙はマドレ・ピラールの手紙と行き違いになった。その手紙にもマドレ・ピラールがその家を見るまでは何もしないと言っていた。「素晴らしい家ですが、高価で、その上将来もっと広くすることも出来ないでしょう。とてもよい場所にあり、Las Siervas de Maria修道会が一方にあり、他方は畑で良い環境です。」(87)
10月の初旬、マドレ・ピラールはコルドバの帰りにマドリードに着いた。家を見に行ったが全然満足出来なかった。その上「コタニーリャ師とマドレがこの家を良いと思った時は、盲目だったに違いない。」(88)と不愉快な言葉を漏らしてしまった。どうしてそんなに悪く思ったのか具体的には分からない。10月1日に書いた手紙の中でマドレ・サグラド・コラソンに述べた理由以外には、確かに特別な理由はなかったと思う。創立者の姉の方は新築する計画を抱いていたので、この考えのもとには、出来上がっているどんな家も不都合で一杯だったのである。

オベリスコ街にて。「諸民族にキリストを礼拝させる」喜び

秋も深まったが水不足はまだ続いていた。気温はひどく下がって、「水汲み仕事は天国を勝ち得るためと、肺炎になるために役立つ」(89)ほどになった。10月12日にチャンベリの主任司祭が訪ねて来たが、院長を始め共同体は霊操中だった。マドレ・ピラールは黙想をしていなかったので応対に出た。主任司祭はオベリスコ街に広い良い家があると彼女に知らせた。その家は遺言書があるので手に入れるのが難しいということだった。マドレ・ピラールはこの時は非常に目下らしく行動し、司祭の説明をよく聞いて、妹に話すためには黙想が終わるのを待たねばならないと言った。このようにして修道会が所有した最初の家の購入の手続きが始まったのである。入手は複雑極まるものだった。1879年(90)の6月11日に売却書類に署名して貰うまで8ヶ月もかかり、またそのためにマドリード市内を訪ねた歩数を合計すれば、何キロ歩いた事になるだろう。持ち主が手放すまでに6月一杯かかった。

 「7月1日に持ち主の弟が訪ねて来て、家はもうからっぽになったが、鍵は翌朝まで渡せない。早朝持って来ると言った。その夜の休憩時間は鍵の話で持ちきりだった。翌朝聖堂で黙想中家はしんと静まりかえっていた時、戸を叩く音がした。玄関番のマヌエルが戸を開けると「家の鍵です」というのが聞こえた。皆一斉に吹き出した。すぐにマドレ・ピラールが入って来て、鍵をガチャガチャさせながら祭壇のもとに置いた時はもっとひどく笑ってしまった。」(91)

 あの鍵を手に入れるのは、キリスト教の王たちがグラナダの鍵をボアブディルの手から奪い取るほど難しかった。
その日すぐに家の掃除をして翌7月2日に移転した。今まで度々した様な方法でなされた。即ち、時間も労働の限度も構わず、喜びとユーモアのうちに行われたのである。

 「ミサのあと、みな食堂に行ったが、まだ朝食が終らないうちに、
― 車が荷を積み、皆さんが用意出来れば出発します。と言われた。
食堂から出て見るとどこもかしこも戸が開いていて、馬方は大急ぎで荷物を載せていた。
マリア・デル・ピラールは、今もいつものように落ち着かず、朝食から出てくる人の腕を捉まえて言った。
― あなた行って下さい、あなたも、あなたも
瞬く間に彼女は私たちを通りに押し出していた。
一人が言った。
― エルマナ、私、十字架を忘れて来ました。
他の一人も言った。
― エルマナ、前掛けを持って来ませんでした。
マドレ・ピラールは大急ぎで彼女らに言った。
― 早く持っていらっしゃい!
一番愉快だった事は、歩き出した人たちの中には、前日その家に行った人がいなかったので、道を知らなかった事である。一人が帰ってきて「道が分からないのです」と言うと「あっちです」とだけ答えた。そして今は誰も手ぶらで行かないように気を配って皆に言った。
― あなたはこれをもって行って、あなたはそれを・・・。
それで皆持てるだけのものを携えて行った。
まもなく新しい家に七、八人着き、少しして車が着いて、最後に院長が残りの人たちと共に到着した。」(92)

 7月4日に祈祷所に指定された部屋で、始めて聖体祭儀が献げられた。この時の重要性を意識して年代記者は、「・・・ 7月4日、初金曜日、午前七時に会が最初に所有した新しい家でコタニーリャ師が初めてのミサを献げ、その後聖体が聖櫃に安置された。ミサの間、イエスの聖心に美しい歌を歌い、終ってから司祭はテ・デウムを先唱し、会員たちはオルガンの伴奏で左右交互に歌い続けた。」(93)
家の入手に関わった全ての人たちがその家を見たいと言っていたので、数日、囲いを閉じなかった。やはり物見高い人が多く、「会員が廊下や階段で度々知らない人に出会わない日はなく、最も身なりに気をつけていない時に、シルクハットの紳士に出会ったり、貴婦人の裾を引きずる音を聞いたりした。」(94)
或る日の午後、創立者姉妹と親しいインディアスの総大司教枢機卿、創立者姉妹の旧友である、サンタンデールの司教、二人の修練女の親戚である一人の判事とその家族、家の購入に介入していた何人かの人がたまたま一緒になった。総司教は、「彼に別れを告げるために集まって来た人たちも含めて玄関ホールに人が一杯なのを見て、集まった全ての人がアンダルシアの人であるのに気付き、興味深く思った。多分マドリードでは今までこんなに大勢のアンダルシアの人の集まりが見られたことはないだろう。司教も修院付司祭もアンダルシア出身だったし、私たちの玄関番も含めると三十五人以上の人が集まっていたのだった。」(95)
このように人が出入りすることは、一階を公開聖堂と学校と応接間に割り当てるまで続いた。「間仕切りを付たり外したりするだけの事だった。彼女たちは、ロヨラの聖イグナチオの祝日である7月31日に聖堂の落成式を挙行できるよう仕事を急いだ。」(96)「間仕切りを付たり外したりするだけの事」とごく自然に記録されているのは興味深い。創立史の全てにわたる、障害物競走にも似た大変さに比べると、今はどんな事でもたいした事ではなかったのである。マドレ・ピラールは「お金がなかったので、いつもの様に、お金を余り使わないで済む確かなプランを立てた上で職人たちを呼んだ。」と年代記者は付加えている。(97)

 「聖イグナチオの祝日の前日になってもまだ職人たちは仕事をしていた。夕方になってやっと職人たちを帰すことが出来たので掃除を始めた。暗くなってからコタニーリャ師が聖堂を祝別するために来られた。まだいろいろな道具が散らばっている中でストラをつけ、小教区の主任司祭と一緒に祝別して廻った。まだある者は掃除をしたり、カーテンを付たり、他の者はじゅうたんを敷いたり、ベンチを下ろしたり、祭壇を飾ったりしていた。朝になってからやっと全てが整えられた。1879年7月31日、聖イグナチオの祝日の午前七時、Reparadoras del Sagrado Corazón de Jesús(イエスの聖心の贖罪者)が所有した最初の家の最初の公開聖堂で最初のミサがイエズス会士コタニーリャ師によって首都マドリードで献げられた。」(98)

 今までずっと実行して来たので、この女性たちはどんなことでもやりとおせた。最初のミサを聖イグナチオの日に決めてあったので、オベリスコ街の家において、あの夜は誰も休まなかったが、ミサの準備の出来た聖堂に、曙のほのかな光が差し込んで来た。
会の年代記には記念すべき日として細心の注意を払って描かれている。コタニーリャ師も自分の日記に次のように記している。「・・・ 7月30日、司教の命令によってReparadoras(贖罪者)の新しい公開聖堂を荘厳に祝別した。7月31日にその聖堂で最初のミサを献げた。主は聖櫃に残られ、顕示台に一日中顕示された。」(99)
その時から、祝日と木曜日と日曜日に、一日中聖体が顕示された。毎日の聖体顕示を許可するには、もっと大きな教会が必要だと枢機卿は言われた。マドレ・サグラド・コラソンはこの処置に服さなければならなかったが、彼女の手紙や修道院日誌に書かれているように、この最初の許可が、もっと広範囲にわたるように、種々の機会を捉えて願っていた。
1881年、姉への手紙にこう書いている。「月曜日に枢機卿がお見えになり、今までになく優しく振舞われました。こちらからお願いしなかったのに、聖体の祝日の八日間と6月の毎金曜日と5月のこれから来る土曜日に聖体を有する許可を下さいました。」(100)「聖体を有する許可を下さった」というのは聖体顕示のことを指す。聖櫃に聖体を安置する許可は共同体の祈祷所で最初のミサが行われた時から得ていたのである。翌年同じような許可を無原罪の八日間にも得ることが出来た。ミサは定刻どおりに行われ、聖体顕示にも事欠きませんでした。」(101)
聖体顕示をすることが出来ないときは、聖櫃の前で主を礼拝した。この頃からマドレ・サグラド・コラソンは皆の心に、夜の礼拝への熱望を燃え立たせた。夜の静寂と孤独は、いつも彼女にとっても、他の会員にとっても聖体においてご自分を与えられたキリストの愛、あく事なき絶えざる愛、私たちから愛の答えを要求しておられるキリストの無限の愛に感謝するのに、特に適した雰囲気であった。そしてこの火をどんなに皆の心に点じた事だろう!「私たちの集まりの主要な目的」を指す主の現存について語る時、最も無口な人に至るまで、適切な言葉を残している。ある者は、聖体は聖心侍女の家の「生命と喜び」であると書いている。他の者は、聖体の現存とそれを礼拝する聖なる務めは「大いなる贈り物」であると言っている。最も明らかな光を頂いたと思われる他の者は、その書き物の中に、「聖体は、木にとってその根の如く、会の生命である」という素晴らしい考えを表している。このような希望に満ちた言葉に続けて、重大な説明を付ている。即ち根がなければ木は枯れる。「神の御憐れみによって、そのような事は起こらず、むしろその木を植えられた方が、今もしていて下さるように、新しい会員を増やして会を前進させて下さるだろう。」(102)
実際神はこれまでそうして下さった。本当に聖心侍女のあの最初の共同体にとって、礼拝の「聖なる務め」は、実際に務め以上のものであり、彼女たちの愛の謙虚な信頼に満ちた表現であり、真のお祭りの喜びであった。(103)
聖体の礼拝は、会の規約に書かれているようには行われていなかった。マドレ・サグラド・コラソンはそれを実行したいと熱烈に望んでいた。規約通りになされていなかったにも拘わらず、聖堂は、慎ましいながらも祈りの中心となり始めた。そこには[諸民族の礼拝]のために顕示されてキリストが現存される。マドレ・サグラド・コラソンは、全ての人を聖体に導き、秘蹟の外観のもとにキリストが現存されることに愛を持って応えるよう、人々の心に働きかけたいという熱い望みを、後日この言葉で表したのであろう。
「諸民族の礼拝」。彼女は、この地球は大いなる祭壇となり、人類は唯一つの家族のメンバーとなる世界的拡がりをもつ礼拝を夢見ていた。この夢はちょうど最も慎ましい人を通して実現し始めた。「諸民族の礼拝」は、マドリードでは貧しい者の内々の謙虚な「民の礼拝」で始まった。

 「婦人たちの礼拝はこの聖堂で始まった。パカという玄関番の信心によるものである。玄関番マヌエルはパカが数人の婦人たちを集めて一日中交代して聖体礼拝をしていることを院長に知らせた。院長はその思いつきを非常に喜び、もっとよく事情を聞こうとしてパカを呼んだ。」(104)

 この文の作者が、他の人たちのように細かい事を書こうとしなかったのは惜しいことである。マドレ・サグラド・コラソンと玄関番のパカとの間のどんな会話がなされたかを私たちに語ることが出来たであろうに。パカが聖体の前で過ごした長時間の祈りの様子を、どんな風に説明したであろうか?もう一人の玄関番マヌエルが、彼女の熱心さについてどのように考えたかも知る事が出来ない。残念なことである。神は度々知恵のある人、賢い人に隠して、小さな人々にお現わしになる(マタイ11, 25参照)ことを深く納得するために興味深い資料となったであろうに。
聖体のみ前における礼拝という自然に起こって来たあの運動は、後に組織化された。聖体礼拝の会は瞬く間に多くの会員を数えるようになった。それは聖体に対する熱い愛を持ったマドリードの貧しい玄関番と「諸民族に礼拝させる」(105) 事以上に偉大な業をキリストに献げ得ないということを悟っていた一人の非常に謙虚な創立者のイニシアティブに誘われた、あらゆる社会層の婦人たちである。

オベリスコ街の家に移るとすぐ、一階の一つの部屋で学校を始めた。生徒の机や教卓を始めとした教具、教材が非常に不足していたが、数年後に場所を広げるまではクラスは続いていた。この事業に興味が無かったからではなく、必要欠くべからざる物まで全く無かったからである。家は立派だったがそれを手に入れるために、あてにしていたお金は全部使ってしまったからである。当時の年代記者は状況を非常に生き生きと描いている。それは公開するためのものではなかった。もしそうだとすれば、援助を求めて、貧しいということを現わしたと考えることも出来るだろうが、これは会の内部の歴史である。

 「・・・ 8月23日には、当時住んでいた二十四人の衣食のために、家には一レアルしか無かった。パンは付けで買っていたし、庭の葡萄の蔓は熟した実をいっぱい付けていて、それが朝食であった。そら豆とレンズ豆と鱈が少しあって、それがかわるがわる昼食と夕食に出された。始めのうちは誰も気が付かなかったが、ある日院長が、パン屋はもう付けでは売ってくれないので、ますます経済状態が悪くなるから、パン屋が続けてくれる様に、神が必要を充たして下さるように祈って下さいと言ったので分かった。非常に困っていたのに、会員たちはいつもの喜びと楽しさを失わなかった。そしてもっと極貧になることさえ望んでいた。これは数日では終らず、主が助けて下さるまで殆んど一ヶ月も続いた。主の助けは彼女たちがほっとするためではなく、必要なものを手に入れるためであった。主はいつも無限の御憐れみのうちに彼女たちのことを配慮して下さったのである。」(106)

 1879年9月にモレノ枢機卿から受けた規約の二年間の認可が切れる。その頃はもう経験によって分かっていたので、コタニーリャ師と二人の創立者は決定的認可を受けるために提出する書類の下書きを調べていた。

1879年の降誕祭。 一時期のしめくくり。

大小様々の事件があった1879年も終わりに近付いていた。会はトレドの枢機卿の助けで、しっかりと創設された。かの記念すべき1877年の2月5日にコルドバを脱出した全ての修練女と、サン・ロケ街の家に数日留まった四人は、もう修道誓願を立て、各自がなした約束によって、会はますます堅固な物となった。過去を振り返ってマドレ・サグラド・コラソンは深い感謝の念に充たされた。「たとえ常にひれ伏して感謝するとしても、決して神に相応しい感謝を献げることは出来ない。」この句は数年後に書かれたものだが、主の御憐れみを賛美するために心から、そして度々発せられた言葉である。(107)
会の生命力は、特に聖体に基を置く共同体生活の深さと一致のうちに現れていた。姉妹の一致は非常に密であり、あの若い人たちのグループの喜びは伝わっていくので、大きな困難に見舞われても、新しい志願者をひきつける事が出来た。外的にはまだ確立されていないのに、愛に根ざしたあの共同体は、長い旅を通して決して希望を失わなかったのである。「彼女たちにとっては、全ては待つ事である。」当時も今も同様に、世というものは、どんな状況にあっても、信仰と信頼の道を見つけ、他人のためにそれを献げることを知っている人たちのものである。その年は今までの様に、喜びのうちに暮れて行った。ご降誕の秘義は若い人たちの心に人間的に超自然的に響く。というのは遂に教会の認可が得られたので安堵しただけでなく、もう本当に自分たちのものとなった家で、修道奉献を生きる事が出来る幸福を味わっていたからである。
ご降誕はキリストの生涯の喜びの神秘である。キリストの貧しさと質朴さ。私たちのところに来られる神を向かえ入れること。年代記には、深い祈りの雰囲気、まったき喜びが現れている。

 「12月8日、無原罪の祝日にロデレス師の司式のもとに会員たちは誓願を更新した。彼はその年のご降誕には、真夜中のミサを献げに来られた。修院とは離れた場所にある応接間にベッドを用意し、11:30にお起こししてミサを献げて頂き、そのミサで皆聖体拝領をした。祭壇はいつもの様に繊細な趣きで飾られ、聖櫃の上に可愛い幼子イエスが、飼い葉桶に居られる。[・・・] ミサ後みなは食堂でチョコレートとクッキーを頂き、それから休みに行った。」

 眠る時間は少ししかなかった。「聖夜には寝ていられない」と古くからのクリスマスキャロルにある。

 「5時15分、Benedicamus Domino(主を讃えましょう)の呼び声は皆を起こし、第二のミサを献げて頂くために神父様をも起こしに行った。皆はオルガンと共にタンバリンとカスタネットなどを用意し栄光の賛歌の時に、楽しいキャロルを歌って皆を驚かせようと思っていた。聖体奉挙のあたりまで、夢中になって歌ったり奏でたりした。
奉挙後、奏楽を続けようとオルガニスタが弾き始めようとしたが、一つの鍵盤を押すとそれが上がらなくなって、他のキーと一緒に鳴って不調和な音を出し、他のキーもみな同じようになってしまった。歌手たちも歌えなくなり、オルガニスタは幾度も試したが、オルガンは不調和な音さえも出さずとうとう動かなくなってしまった。
どういう訳でこんな惨めな事になったのか、調べてみたら、タンバリンを鳴らすエルマナが、水が必要だったので、小さな茶碗に水を入れて、すぐ使える様にオルガンの上に置いた。一度手を濡らした後、不注意で鍵盤の上に水をこぼした。その時何ともなかったので、そのためだとは思わなかったが、水が滲みて行った時オルガンは弾けなくなってしまったのである。」

 このような椿事は一度で済まず、後を引くのである。いつもの様に年代記者は事細かに描く。その日は枢機卿が来られることになっていた。どうしてもオルガンが必要だったので、一人のオルガニスタが貸しオルガンを心配してくれた。しかし「音が非常に高くて声が出ず、息が詰まりそうだったが、不幸にも変調が出来ないオルガンだった。」聖体を納めるのに、歌うというよりも金切り声を張り上げた。そしてこの種の歌はクリスマスにも繰りかえされた。
年代記者はこの事件について、「こんなことでエルマナスの楽しい気持ちはそがれなかった。12月25日の夜、オルガンの水をテーマにして詩を作り、賑やかなパストレーラ(牧人歌)を歌った。「神を愛するものにとっては全てが善になる」ということが、全くそのとおりになった。」(108)

この頃共同体は十七人の立誓願者を数え、修練女が何人かいた。
その年の大晦日に、プエンテ・ヘニルから二人の志願者が入会した。ホセファ・バロとアマリア・バホで、後者は後にマリア・デ・ラ・プリシママリア・デ・ラ・プリシマと呼ばれるようになり、年数を経てから、この歴史において重要な役割を演ずることになる。あまりにも重要な人物になったので、ある人たちは創立者らと取り違えたほどだった。1879年のクリスマスを大いなる喜びのうちに祝った人たちにとっては、勿論この様な危険は毛頭なかった。「ポラス姉妹はどうなさるおつもりでしょう?」とあの非常に難しい時に彼女らは尋ねた。マドリードに本会を創設するために旅立つ前に「あなたがたが、いらっしゃるところに私たちも参ります。」(109)と全員が決心したのである。約三年間あちこち歩き回っていたあの頃に、このグループは創立者たちを中心にしてしっかりまとまり、心は深く一致していたのだ。教会から与えられた全ての認可は、会が実生活をもって短時日の間に強固に築き上げていったものを正式に固めたに過ぎない。
特に院長とその姉は深く喜んでいた。彼女らの生活を導いていた規約は検討して枢機卿に送ってあった。確かな情報によれば彼は決定的に認可しても良いと思っていた。共同体が規約以上に厳しく守るつもりであった事は、いろいろな機会に立証することが出来る。
「見よ、兄弟が睦みあって共に住むのは何と麗しく、何と快い事か。」(詩編133, 1).
最初の聖心侍女たちの生活は真に美しく快いものであった。時々は庭の葡萄蔓の間をあちこちと歩き回って少量の食事しかとれない時もあったのに。朝、一レアルしかないほど困ったことも度々あった。

第2部 第1章 注
(1)  これからラファエラ・マリアを、いつも会の中で普通に使っていた名前で呼ぶ。
(2)  マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 I 256-60ページ。
(3)  プレシオサ・サングレ、年代記 I 230ページ。マドレ・ピラールは特にプリンセサ病院の院長ソル・フランシスカのことを思い出していたに違いない。ずっと後で他の修道女たちについて話していた時に彼女を誉めて「ヴィクトリアの院長は美しく上品で応庸な点はソル・フランシスカに似ている・・・」といっている。(1885年2月25日付のマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。)1904年にソル・フランシスカが亡くなった時、二人の創立者は会の統治から引退していた。マドレ・サグラド・コラソン宛の手紙の中でマドレ・ピラールはその事を知らせている。「・・・ プリンセサ病院の院長ソル・フランチェスカ・サラが亡くなられたという知らせを昨日受取りましてので今日あなたにお便りをしたいと思いました。彼女はウルエラ師に対しては会の揺籃期に真の母の様に振舞われた大の恩人です。彼女が万一必要ならば、今こそお報いすべき時です。」(1908年2月24日付の手紙)。
(4) マドレ・マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス、マドリードの修道院創立についての覚え書き fol. 10.
(5) プレシオサ・サングレ、年代記 I 275ページ。
(6) プレシオサ・サングレ、年代記 I 278ページ。
(7) プレシオサ・サングレ、年代記 I 279-81ページ。
(8) アルフォンソ十二世とマリア・デ・ラス・メルセデスとのご婚儀に際してマドリードに始めて電灯が点けられたのは1878年である。プエルタ・デル・ソルと、ネプトゥノとシベレスの噴水と、プラド通りの街灯に付られた。
(9) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 I 282-83ページ。
(10) 憲法によれば、国家は「祭儀とその役務者を維持する」ことを約したが、この同じ条文は、1851年の和親条約と、前記の教会永代財産の解放とを忘れてしまったあるスペイン人にとっては非常に厄介なものとなった。
(11) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 312-15ページ。
(12) 1875年1月5日にマリア・ドロレスとラファエラ・ポラスがコルドバの司教に宛てた嘆願書に添付された報告書。
(13) 同上。
(14) メネンデス・ペラヨ、スペイン異端者史(BAC, Madrid 1956)Ⅱ 1201ページに引用された同年8月3日付の手紙。
(15) 報告書、 1876年12月15日、fo1. 4v.。
(16) 1894年1月7日付のマドレ・プリシマ宛の手紙。
(17) プレシオサ・サングレ、 年代記 I 288ページ。
(18) 年代記 Ⅰ 288-89ページ。
(19) M. María del Amparo、報告書 49ページ。
(20) 年代記 I 301ページ。
(21) 年代記 I 303ページ。
(22) 年代記 I 303-304ページ。
(23) 年代記 I 306ページ。
(24) Cf. マリア・ドロレス・ロドリゲス・カレテロ、報告書 20ページ。
(25) マドレ・マルティレス、 Madridの修院創立についての覚書 fo1. 2。
(26) マドレ・マルティレス、マドレ・マリア・デル・サグラド・コラソン (ラファエラ・ポラス・アイリョン) の伝記風覚書 41ページ。
(27) 1877年5月21日付の、入会希望者アナ・マリア・デ・バエサ宛の手紙。
(28) 年代記者はチャンベリ地区について語っているが、その家は後にクラトロ・カミノスと名付られた場所にあった。
(29) 年代記 Ⅱ 316ページ。
(30) その頃マドリードには、1871年から使われていた、らばの引く車だけしかなかった。
(31) 年代記 Ⅱ 316ページ。
(32) 年代記 Ⅱ 318-20ページ。
(33) 1877年7月7日付、アナ・マリア・バエサ宛の手紙。
(34) 年代記 Ⅱ 329ページ。
(35) 1908年7月5日付のマドレ・ピラール宛の手紙。
(36) 1877年9月26日。
(37) 同上。
(38) パウロ六世、Credo del Pueblo de Dios(神の民の信条)。
(39) 同上。
(40) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 333-34ページ。
(41) 同上。
(41) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 334-35ページ。
(42) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 335ページ。
(43) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 381ページ。
(44) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 382ページ。
(45) マドレ・マルティレス、 マドリードの修院創立についての覚え書 fol. 13v.。
(46) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 349ページ。
(47) 1877年9月付のアナ・マリア・デ・バエサ宛の手紙。
(48) 1890年の霊操の時の霊的手記 14。
(49) 1884年4月12日付M. マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(50) 典礼憲章 第一章10番。
(51) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 341-42ページ。
(52) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 353ページ。
(53) 聖職者たちに宛てられたこれらの手紙は、マドリードの修院の門番が5月にコルドバに行った時に持参した。
(54) マドレ・マリア・デ・ヘススとマリア・デ・サン・ホセ・グラシア・イ・マラゴン。
(55) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 355-56ページ。
(56) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 356ページ。
(57) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 357-58ページ。
(58) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 358-59ページ。
(59) 数年後の1883年にアンパロ・グラシア・イ・マラゴンは入会した。会の中ではマリア・デ・ラ・イマクラダと呼ばれた。1943年まで生存していたので、聖女の列福と列聖調査の時の証人となった。
(60) 1877年9月25日付の手紙。
(61) この文書は、当時ローマの国務省にいたシメオニ枢機卿に宛てられた。彼は以前マドリードの教皇使節だったので、コタニーリャ師は彼を知っていたのである。この二人が非常に親しかったことがマドレ・ピラールあてのマドレ・サグラド・コラソンの何通かの手紙の中に出て来る。その文書のある条項で次のように願っている。「ピオ9世教皇聖下が、会に下記の恩恵と恩典を附与し給うよう、仲介の労を取られん事を閣下にお願い致します。それらは先ず当然会の認可であり、次に「2年間修練期を終了する時に、2年間の初誓願を立てる」許可であります。
(62) 1877年5月21日付のマリア・マヌエラとアナ・マリア・バエサ 姉妹に宛てた手紙。
(63) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 370ページ。記者はこれらの規約を会憲と呼んでいるので「Las devolvió」「Las viera」というように女性形を使っている。
(64) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 372ページ。
(65) 同上。
(66) Reparadoras del Sagrado Corazón(聖心の贖罪者)修道会の規約。原本は聖心侍女会の総文書課に保存されている。
(67) 1877年9月15日付と1878年1月1日付の手紙。
(68) 1877年12月22日付の手紙。
(69) 1877年10月3日付の手紙。
(70) 1878年1月4日付の手紙。
(71) 1878年1月6日付の手紙。
(72) 1878年1月11日付の手紙。
(73) 1878年1月7日付の手紙。
(74) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 342ページ。
(75) 1878年8月28日付の手紙。
(76) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 426ページ。
(77) 1878年8月28日付の二人の創立者に宛てた手紙。
(78) 洗礼名と修道名の使い方がここで混同している。修道院で前に、マリア・デル・ブエン・コンセホと呼ばれていたカルメン・ロドリゲス・カレテロは、有期誓願の時から会の中ではマリア・デ・ロス・ドロレスと呼ばれていた。よく知っている通りドロレス・ポラスのことを会の中では普通にマリア・デル・ピラールまたは単にピラールと呼んでいた。勿論家族にとっては、いつもドロレスであった。
(79) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 429-32ページ。
(80) 1878年9月2日付の手紙。
(81) 1878年9月7日付の手紙。
(82) 1878年9月16日付の手紙。
(83) 1878年9月20日付の手紙。
(84) 1878年9月25日付の手紙。
(85) 1878年9月28日付の手紙。
(86) 1878年10月1日付の手紙。
(87) 1878年9月30日付の手紙。
(88) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 440ページ。
(89) 同上。
(90) 非常にこんがらがった状態だった。というのは一つの遺言書のものであり、他は担保に入っていて、その中の一つはスペイン銀行が貸し方であった。他の一つは相続人の支払い不能で競売に付せられていた。それを買った人の側からのその人への譲渡の約束があった。(彼も値段に反対することが出来なかった。)第二の競売の計画は、法廷の介入が必要だった、など。これら全ての事のために、弁護士、裁判官、公証人、銀行の高職者などを訪問しなければならなかったし、書類を手に入れるだけでなく、「持ち主が家を開け渡すのが、本人の意に反して売却がなされたため、どうしても立ち退かなかったのである。」(マドレ・マルティレス、マドリードの修院創立に関する覚書 fol. 17v)
(91) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 465ページ。
(92) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 469-70ページ。
(93) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 477ページ。
(94) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 478ページ。
(95) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 480ページ。
總司教枢機卿は、フランシスコ・デ・パウラ・ベナビデスであった。1818年ハエンのバエサに生まれ、1857年にシグエサの司教になった。王政復古期にはインディアスの総司教に任命される。1877年に枢機卿になり、4年後にサラゴサの大司教になる。サンタンデールの司教はビセンテ・カルボ・イ・バレリオ師である。創立者たちはカディスで彼を知ったのであろう。彼女らの母の生存中、彼女たちはカディスの司教座聖堂を尊敬していたが、その頃彼はそこの参事会員だった。
(96) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 484ページ。
(97) 同上。
(98) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 486-87ページ。
(99) 日誌。自筆原簿のタイプライターの写し、11ページ。
(100) 1881年5月20日付の手紙。
(101) 1882年12月11日付の姉への手紙。
(102) マドレ・マルティレス、自叙伝風の覚書 41ページ。
(103) この考えをマドレ・メルセデス・アグアドは美しく表現している。会憲の「全ての会員は顕示された聖体を礼拝することを主要な義務とみなす」ということは、愛の相互性によって「祭りの喜び」に変化する。「聖体顕示によって私どもはいつも祭りです・・・。」(サンタ・ラファエラ・マリア・デル・サグラド・コラソンの霊性の覚書 115ページ。)最後の章句は聖女の書き物からの引用文である。
(104) マドレ・マルティレス、マドリードの修院創立の覚え書き 29ページ。
(105) マドレ・マリア・デル・サグラド・コラソン、霊的手記 1890年の霊操。
(106) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 490ページ。
(107) その句は1890年5月18日付のマドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛の手紙の中にある。
(108) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅱ 494ページ以下。
(109) 無名の同時代の人の報告書 2ページ。