第3部 第6章 辞職への道

保護枢機卿への報告書

1892年の3月5日に、マゼラ枢機卿はマドレ・サグラド・コラソンに次の二つの質問に回答するよう依頼した。フルヘンシオ・タベルネロ氏からの寄付は、ローマにおける創立のために、手を触れることなく残されていたのか、そしてその結果、家を購入する契約を結ぶことが出来たのか、という質問である。枢機卿はさらに続けて、「あなた方の修道会には他にも直すべき点があります。もし改善すべきことがあれば、指示通り5月に総会が行われる場合、そこで起こりうることをあらかじめ予想しておく必要があります。」これらの点を総長補佐と取り扱い、その結果を伝えるよう、マゼラ枢機卿はマドレ・サグラド・コラソンに依頼した。
「枢機卿様のお手紙の第一の点について、ご依頼のように今日お返事申し上げます。」とマドレ・サグラド・コラソンは3月11日付の姉宛の手紙に書いている。「第二の点についてもお書き致しますが、この点に関しては総長補佐の皆様も意見を述べるようにとのご指示がありますので、べレス師の訳して下さったものをお送りします。私たちの名前で、あるいは直接個人的に、枢機卿様に返事をお書き下さいませ。」枢機卿の質問は、彼がマドレ・ピラールから受けた情報に従って作られたものであることをマドレ・サグラド・コラソンは当然分かっていた。前年に彼女自ら、総長補佐の助けを得て、状況を分析したいと望んだことを思い出して、マドレ・サグラド・コラソンは書いている。「昨年私が皆様にお願いしたのはまさにこのことなのです。でも、皆様は恐れて、状況についての意見を私におっしゃいませんでした。あの時にしていたほうが良かったのです。もしそうしていたなら、この苦しみの時を取り除くことが出来たでしょう。私は本当に喜んでおります。この黒雲が破れることを主が望んでおられるからです。虹が現れるでしょうか。これを心から願っております。たとえ命を失うことがあっても。一年前からの私たちの生活は、生きていると言えるものではありません・・・。」
修道会の現状についての総長補佐たちの報告書が、何日か後にマドレ・サグラド・コラソンの手元に届き、彼女はこれを枢機卿に送った。他のやり方で意見を送ることは絶対にしないようにと、べレス師は忠告していた。「総長補佐の方々からの返事や意見をお受け取りになられたら、それがどのようなものであるにしても、喜び、満足、感謝を表して下さい。補佐の方々が言わなければならないと良心に感じたことが、たとえあなたが良心に感じ、好まれることと反対であったとしても、彼女たちがあなたにおっしゃられたこと、さらにあなたの上に立つ方におっしゃられたことを喜ぶのは、あなたの地位と仕事にとって当然のことです。」と書いている。(1) べレス師はマドレ・プリシマにも、彼女の返事が、他の総長補佐の返事と同様に、総長に送られるようにと勧告していた。(2)
このようにして、マドレ・サグラド・コラソンは総長補佐たちの報告書を読み、彼女達の意見を知ることが出来た。三報告書には一致点があったが、重要なところで微妙に意味合いが異なっており、三人の人柄を忠実に反映していた。これらの報告書には、その背景として「創立者姉妹の間にあまり一致がなく、このような状態が五年前から日に日に強くなり、この点に関する神のご計画が分からずにいました。お二人とも良い方でありながら、彼女たちの意見を一致させる方法はありませんでした・・・。」(マドレ・プリシマ) しかし、それにもかかわらず、修道会の会員がその時まで創立者姉妹の意見の対立に気付かず、二人を尊敬し心から愛していたと、総長補佐たちが非常に明白に認めているのは驚くべきことである。三人の総長補佐は、総会を開くのは無駄だと考えていた。「事は微妙ですし、二人の創立者姉妹が愛され尊敬されているのですから、明確な判断を下すことは容易ではありません。このような訳で、[・・・] 総会に出席する姉妹たちは同意に達することも、何かを決定することも出来ないでしょう。そして、あらゆる意味でますます混乱状態に陥るでしょう。」(マドレ・サン・ハビエル) 総長補佐全員が、――「統治のために必要な基本的なある才能に欠けているが、そのことを認めようとしない(マドレ・サン・ハビエル)―― 等と総長を非難しているが、それにもかかわらず、二人の補佐は創立者姉妹の優れた資質を明確に評価している。「会への深い愛を持ち、そのために、かつても今も犠牲を捧げ、神の栄光を熱心に求めておられます。」(マドレ・サン・ハビエル) 「愛をもって会憲を遵守しておられ、私たちの精神を低下させないための優れた資質に恵まれていらっしゃいます。」(マドレ・マリア・デ・ラ・クルス)  一般的に、この二人の補佐は創立者姉妹の意向、さらに他の人達の意向の正しさを弁護している。「これら全ての欠点は大きな苦しみの原因となりましたが、私の考えでは、誰のせいでもありません。皆最も完全なことを求めております。この点には疑いがありません。(マドレ・マリア・デ・ラ・クルス) 「・・・ この件に関わりを持っている全ての人達が正しい意向を持ち、修道会の善を非常に愛していたことを、度々明言する義務を感じております。」(マドレ・マリア・デ・サン・ハビエル)。
マドレ・マリア・デ・ラ・クルスと マドレ・サン・ハビエルの報告書を読むのはマドレ・サグラド・コラソンにとって辛いことであったに違いない。しかし、彼女を困惑させることはなかった。二人がマドレ・サグラド・コラソンに取っていた態度と一致していたからである。反対に、マドレ・プリシマの書いたものを読むことは、驚きでなければ――マドレ・プリシマはその頃にはマドレ・サグラド・コラソンに対するかつての信頼を失っていた――、不快さを感じさせるものであった。特に、総長と総長顧問の関係についての供述に関しては。「・・・ 彼女は(3)、彼女たち〔補佐たち〕が理解できないような仕方で行動し始めました。補佐たちは、これは会憲に反すると判断しました。しかし、総長はこのようには考えず、神のために大きなことをするための勇気の欠如、明解な判断力の欠如と解釈しました。熱心さに溢れてイエスの聖心への光栄が減少しないように努め、苦しみを避けようと望まれたためか、様々な用件を扱う際に、不明瞭なやり方で資料を提示し、補佐たちに対しては慎重になり、率直で自然な態度と明解さに欠ける行動を取り始められました。また、総長補佐が、修道会の会員、さらに良い考えを提供してくれる可能性のある修道会外の人達と接触しないようになさいました。補佐たちは、退きたい気持ち、恐れ、不信頼、良心の呵責を感じ始めました。第一に、一方では、自分たちが良く分からないことに貢献していると考えたため、又他方では、物事がはっきりと提示されなかったので、長上を裁いて従順に反しているのではないかと恐れたからです。その上マドレ・ピラールは、ことあるごとに要求を出し、修道会の破産に繋がることには反対して強くご自分の意見を主張なさいました。このような全てのことがお二人の間の戦いを増し、補佐たちは、大きな悪を避けるために、状況に押し流されて行動することを余儀なくされたのです。」
1890 年以前のマドレ・プリシマ、正確にはその年の9月にマドレ・サグラド・コラソンがローマに帰るまでのマドレ・プリシマを知っている人は、この頃の彼女の手紙に現れる考えや言葉と枢機卿宛の報告書の中で修道会の統治に関して述べられていることとの間に大きな違いがあることに気付く。マドレ・プリシマ自らもこのような極端な対立を見逃すはずはなかった。彼女はいつものように巧妙に記している。「・・・ 私は、投票によっても、忠告によっても、確かに文字通り会憲を生き、これに反したことはありません。同時に、偽りの謙遜と誤って解釈した従順によって、物事を調べる代わりに、盲目的に信じるように努めていたことも確かです。良心の促しによって、イエズス会の神父様方とこれらの問題についてお話しすることになるまでは・・・。」 当然のことながら、マドレ・プリシマはここで1890年以前に提案されたあらゆる問題について述べている。マドレ・サグラド・コラソンのイニシャティブへの熱心な協力を説明するために、自分の無知を口実にした人が、マドレ・ピラールのローマへの旅行に同伴し、1886年に会憲の編纂のために働き、あらゆる種類の聖職者や修道者聖省と関わる機会を持った修練長であったことを考えるべきである。マドレ・プリシマは多くの機会に、それらの重要な使命を遂行する経験を積んだはずである。この時になってどうして天真爛漫に、彼女の責任ある仕事に無知であったなどと言うことが出来たのだろうか。
マドレ・プリシマは自分の報告書を提出する前にこれをべレス師に見せた。べレス師は、説明は非常に明瞭であるようにと依頼していたが、この考えに忠実に従い、次のような言葉もってマドレ・プリシマの報告書を承認した。「お書きになったものはとても良いと思います。厳しい、あるいは不愉快だと感じられる言葉をいくつか省きました。必要ないと思いますから。」(4) べレス師のこの文から、枢機卿の元に届いた報告書は、最初に作成されたものよりも穏やかな表現のものであったことが伺える。

主ご自身にお話しするかのように

一方マドレ・サグラド・コラソンは彼女の返事の内容をムルサバル師に相談した。神父は、「起こったことについてあなたが理解しておられる事を、真実にそして聖なる単純さをもって、自分の長上として質問者にお答えになることは、主をお喜ばせします。ご自分を神のみ前に置き、主ご自身にお話しするかのように、ご自分に有利なことも不利なことも、ご覧になるままにお書き下さい。[・・・] このようになさるなら、全く謙虚に〔総長〕職を他の人に譲ることを、このために有効で説得力があると思われる理由を述べて願われても良いと考えます。このようになさった後は、全てを主のみ手に委ね、その摂理に全くお任せ下さい・・・。」(5)
「主ご自身にお話しするかのように。」 マドレ・サグラド・コラソンは、彼女が客観的事実だと思ったこと、統治上の困難の原因だと心で感じたことを、真に誠実に言うべきだと考えていた。一見厳しく思えるマドレ・サグラド・コラソンの幾つかの文を理解するために、このことを考慮する必要がある。枢機卿に最終的に送られた書き物の他に、二種類の下書きが完全に残され、もう一通の下書きはその一部が保存されている。このように何種類もの下書きがあること、及びあらゆるページに訂正や消した跡があることによって、マドレ・サグラド・コラソンがその内容と書き方にいかに注意を払ったかが伺える。
総長職からの辞任を唯一の手段として願いながら、マドレ・サグラド・コラソンの手紙は書き始められている。

  「・・・ 私たちを悩ませているあらゆる苦しみを癒すために。枢機卿様のお望みに従って、本当に真実に率直に、その起源とその後の波及について、主の御前で見るままにご説明申し上げます。誰にも罪を着せることなく、過度の熱心さ及び私と私の姉であるマドレ・ピラールの物事の見方の相違が困難の原因であるとの考えに立って、述べさせていただきます。」

この点においては、マドレ・サグラド・コラソンは総長補佐たちと同じ意見を持っていた。しかし彼女は、物事の見方の相違と性格の不一致は、二人の幼少の頃から明白であったと(「私たちが小さい時から、二人の間にはこのような対立があり・・・」)付け加えることが出来た。青年期になって、共通の召命が両者にもたらされた。修道会の初期の頃について語る際に、マドレ・サグラド・コラソンは、姉と和睦するための努力、一致と平和な共同生活を維持するために払った根気強い努力について述べている。普通、この望みはマドレ・サグラド・コラソンに、彼女の傾きを、そしてさらに多くの場合には、彼女の判断を捨てることを余儀なくさせていたのであるが。

  「私たちは修道会の中で働き始めました。そして、心に苦味を感じながらも前進してまいりました。と申しますのは、私はほとんど常に、姉の意思に従っておりましたから。[・・・] 私が長上であったため、司教様からの権威によって私たちを指導しておられたコタニーリャ神父様は、このことを注意し非難されました。そしていつも私の考えを支持されました。それにもかかわらず私は、姉の性格を知っておりましたので、神父様がお怒りにならないように、彼には多くのことを知らせることを避けておりました・・・。」

マドレ・サグラド・コラソンは修道会の中に起こり、既にこの本の前頁でも述べられている出来事の多くを思い出した。「彼女の意思に反して」、すなわちマドレ・ピラールの意思には反していたが、コタニーリャ神父の忠告によって始められたマドリードの聖堂の建築と修練院の増築工事等を。

  「・・・ 例えば、この頃現金で受けた持参金で支払いをする等、全ては神父様の許可のもとに行われました。姉妹の何人かが寛大に修道会に譲渡した他の地所でこれらの金額を保証し、一銭の借金も残らないようにしながら・・・。」

この後で、会憲認可の後に起こったことにも触れている。

  「・・・ マドリードの中心に家を持つことが議決されました。ある地所といただいた寄付をこの家を買うために使う予定でした。しかし、マドレ 〔ピラール〕はどの地所をこれに宛てるのか等を指示されたにもかかわらず、この家の件を良くは思われませんでした。そのため、私は、その時には実行に移さないほうが賢明だと考えました。この頃には総長統治に関わりのある任命も行われました。全てにおけると同様に、これはマドレにとって大きな苦しみの時でした。このことを知っておりましたので、これほど重要な仕事をする力がないこと、又予感される戦いを恐れていたことを理由に、総長職を辞任することを試みました。」

マドレ・サグラド・コラソンは実に現実味を持って彼女の統治を描写している。ラ・コルニャ とサン・ベルナルドの創立、マドリードの司教との難しさ、ローマにおける創立 ・・・ 彼女の言明は、これらの事実と同時代の歴史的な源泉、さらに彼女を非難しあるいは不利にする可能性のある資料とも厳密に一致している。(6) ローマにおける創立後の出来事について述べる際には、報告書の説明は特に詳しい。

  「私はローマから戻りました。そして、補佐たちにあちらから全てを書き送っていたにもかかわらず、直接話して説明する必要があると考え、顧問会を開きました。補佐たちにあらゆることと、これからすると良いと思われることについて説明致しました。 彼女たちは私が既にそれらのことをしたと解釈して、たいそう気分を損ねられました。補佐たちの意見を聞いて、私はびっくり致しました。特に、今まで私を全くご存じなかったかのように、私の仕事、言葉、考え、行いについて非常に誤った判断をしていらっしゃるのを見て、本当に驚かされました。会の姉妹たちに対する何という非難、何という裁きでしょう。徳と資質において秀でていると私が述べた二人の姉妹について、想像さえしなかったことをおっしゃいました。既に納得されつつあるように、幸いにもそれは当たっていませんでしたが。」

これは、あの記憶すべき1890年9月17日に開かれた顧問会の非常に真実な描写である。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスによれば、この顧問会において、総長に対しては「多くのことが大きな声で」話されたが、彼女の述べる理由はどの顧問によっても無視された。この集まりの後に不信頼が日に日に深まっていったことが、マドレ・サグラド・コラソンの報告に明白に現れている。

  「・・・ 私に対する不信頼が日に日に強くなっていきました・・・。」

そして、修道会の全ての活動が麻痺状態に陥った。

  「・・・ 一方で、本会は助けを必要としておりました。しかし、総長補佐たちは何も解決しようとはされませんでした。他方、私が自由に行動することを許してもくれませんでした・・・。」

会議の数は増大した。

  「顧問会を開くことが決まりました。毎日長時間にわたって集まりが持たれました。しかし、これらの集まりが何の役に立ったのでしょうか。いらだった気持ちになるだけでした・・・。」

議題を取り扱うにあたって、自然で率直な態度が失われた。

  「・・・ 私が、また会が必要としていることを書面で提示し、彼女たちも同様に書面で回答するように〔決めました。〕なぜなら、私が物事を曖昧に提示しているためにそれらのことについて正しい知識を持てず、良く分からない状態で用件を解決あるいは決定しなければならないと、総長補佐たちが申していたからです・・・。」

この後、過剰な熱心さと自らの考えを弁護しようとする頑固さの結果として、対立が深まってゆく。

  「・・・ 総長補佐たちは他の方たちに相談し始めました。しかし、会憲が守られるようにという願いにおいて一致していたのですから、彼女たちに何を助言することが出来たでしょうか。相談を受けた方々はこれを解決することが出来ず、彼女たちに反対なさいました。と言うのは、様々な問題や本会の状況を私が提示しておりましたので。そして、事柄をそれほど厳格に運ばないほうが賢明だとお思いになられたのです・・・。」

統治に関して存在した不満足についてあらゆる原因を分析した後で、マドレ・サグラド・コラソンは報告書の最後に次のように書いている。

  「・・・ 上に述べましたことで、敵が私たちに仕掛けたこの複雑な状況を、枢機卿様にご理解いただけたことと存じます。確かに、これは敵の業です。私たちは喜びのうちに生活しておりましたが、お互いに理解することの出来ない悲しい状態に陥ってしまいました・・・。
主なる神が枢機卿様を照らして下さるようお祈り申し上げます。枢機卿様によって、多くの悪が取り除かれるよう期待しております。全てを枢機卿様にお任せいたします。この報告書の初めに申しましたように、私がこの職を離れれば、あらゆることが即座に解決されると思います。私たちの修道会がこのようになったのですから、これ以上会を統治することは出来ないと心から申し上げます。」

注として次のように書き加えている。

  「・・・ 総会の開催が有益だとは思いませんし、総会で解決出来ることがあるとも考えません。唯一の解決策は、賢明で博学な一人の方に神が光をお与え下さり、この方が、私の姉のマドレ・ピラールをも含めて、私ども全員の話を聞き、なすべきことを教えて下さることだと思います。姉にはあまり責任がないとは言えません。そして、私たちの話を聞く方が後で枢機卿様とお話しになれば良いのではないでしょうか。」

これらの結論は、マドレ・サグラド・コラソンの報告書全体の中で最も一貫性に欠ける部分であろう。「私がこの職を離れれば、あらゆることが即座に解決されると思います。」と書いているが、その時の状況に関しての彼女の現実的な分析を考えると、この結論が客観的なものであるとは思われない。最後の報告と結論には、以前、マドレ・サグラド・コラソンが他の同じような機会に行い、この報告書の下書きにも現れている幾つかの考察が欠如している。ある下書きの中には、「上層部の人達の絶対的な信頼を得た総長を置き、彼女に一定の自由を与えて、他の人達の意見を聞かずに物事を決めることが出来るようにしなければ、このことは解決しないでしょう。本会は非常に新しく、多くの欠けた点がありますので、会の現況のためには、このようなことが本当に必要なのです。」と記している。彼女の姉がこの総長になれると、マドレ・サグラド・コラソンは(姉のうちに重大な欠点を見出していたにもかかわらず)無邪気に信じていた。「枢機卿様も既にご存知のように、私の姉のマドレ・ピラールは非凡な才能を有しております。」と書いている。「無邪気に」と上で言ったが、この頃には、総長補佐は二人の創立者に対して、同じように信頼を失っていたからである。その理由は様々であり、たとえ似たような理由であっても、ニュアンスは異なっていた。
報告書に加えられた注も好奇心を掻き立てる。マドレ・サグラド・コラソンは、総会が必要だというかつての考えを捨て、マドレ・ピラールの数ヶ月前の提案に類似した解決策を受け入れている。総長補佐全員の報告書に、総会は無意味だと書かれているのを読んで、考えるところがあったのだろうか。
マドレ・サグラド・コラソンの報告書は3月27日の日付で書かれている。翌日、枢機卿宛に新たな記述を加えた。

  「・・・ 前の報告書で申し上げるのをためらいましたことを、今日、良心の全き秘密として枢機卿様にお書き致します。このようにするのが義務であると感じますので・・・。」

この手紙の中で、マドレ・ピラールについての現実的な厳しい分析を強調している。

  「全ての不快・苦しみは、私の姉であるマドレ・ピラールの支配的で傲慢な性格に由来しております。彼女は、一般の方であろうが修道者であろうが、誰にも屈することがありません。[・・・] コタニーリャ神父様の生存中は、神父様はマドレ・ピラールを良く知っておられましたので、彼女を抑え、義務に服させていらっしゃり、そのために私どもも前進することが出来ました・・・。
ですから、総長という名前をマドレ・ピラールが私から奪い取ったとは申しません。しかし、その権威を、そして、権威の全てを奪い取ったのです。
マドレ・ピラールに修道精神があり、長上を信仰の精神で見ることが出来ましたら全ては順調であったことでしょう・・・。
べレス師はお分かりになっていらっしゃると思います。でも、真の解決は、あらゆる活動において姉が私と一致すること、活動に関して自分の意見を主張せず、同じ気持ちで活動を行うために、私の心を心とすることだと、おっしゃられたことがあります。枢機卿様、もしこれが達成できましたら!これはとても難しいことです。でも、甘美なイエズスの聖心には全てが可能です!ですから、私は十字架を担いましょう。十字架は常に重いものですが、十字架上で死ぬまで担いましょう。ただ、今これは不可能です。このすごい戦いで、神の業である修道会が破壊されてしまうでしょうから。信じて下さいませ。全ては、総長補佐のことさえも、消え去るでしょう。彼女たちは、気の毒に、統治のことは何も分かっておりません。[・・・] 姉と私が一致しておりましたら、修道会のために本当に役に立つ人達なのです。指導されれば、力を発揮出来るのですから。
私の心の奥底まで開いて枢機卿様にお書き致しました。いまだかつてこのようにしたことはございません。どうぞ、これを愛の欠如としてではなく、修道会のそしてさらに私の愛する姉の善のために申し上げたこととしてお受け取り下さいませ。姉は、近くで彼女に接する全ての人、自分自身に対してまでも耐え難いほどの状態になっております。不安と不快感に満ちて語る姉の話を聞くと、哀れみを感じます。
姉とは、大きな喜びのうちに、仕事を行っております。彼女は、私が最も信頼する人の一人です・・・。」

もし私たちが、二人の創立者の生涯を通しての特別な関係を知らなければ、手紙の最後の文は理解しがたい。共に働き、日常の些細な出来事について手紙の中で語る際に、二人が、その相違を忘れることが出来たと考えると、常に驚きを覚える。信頼と疑念、無理解と尊敬、不和と愛が交じり合ったこの特別な状態が、自然的にも恩恵によっても多くの賜物によって結ばれたこの二人の背景にあった真のドラマを作り上げていた。
マドレ・サグラド・コラソンは、その時の姉の状況が「恵みの奇跡」を真に必要としていることを疑わなかった。マドレ・サグラド・コラソンの姉に対する評価の奥に何があったかをここで判断することはしない。ただ、マドレ・ピラールは早い時期に、確かに素晴らしい心の変容を体験し、これによって、何年間にもわたる悲しむべき紛争の間に維持していた態度を再考するようになると、今から言っておこう。

マドレ・ピラールローマから帰る

今回は、総長補佐全員の考えがマドレ・サグラド・コラソンの考えと一致していた。そのため、マドレ・サグラド・コラソンは聖座に総会延期の許可を申請した。司教律聖者聖省からの回答(4月11日)は、マゼラ枢機卿に、彼の意志と賢明さによって、二年の期限つきで、総会を延期する権限を与えるというものであった。枢機卿は数日後マドレ・サグラド・コラソンに手紙を送り、彼女の辞任は時宜を得たものではない、それが「現在と未来の悪を解決するために」有効な手段だとは思われないと伝えた。「私が存じ上げ、高く評価し、又修道会に敬意を示しておられるべレス師に、あなたがたを賢明に指揮し、今の困難の中で導き手となってくれるよう依頼しました。」(7) 枢機卿は、辞任がもたらし得る様々な不都合をべレス師に述べた後で、彼に次のように書いている。

  「確かに、〔皆〕修道会に対する真の愛を持ち、神の栄光を求めているのですから、考えを一つにし、愛と熱意と犠牲の精神を持って皆で一致されるよう望みます。総長は[・・・]、総長職を辞任なさるおつもりなのですから、ご自身の判断を過信して決めることはしないという強い覚悟でいる必要があります。総長補佐の方々は、総長に尊敬をもって接するべきです。しかし、投票すべき時には、総長を喜ばせようとするのではなく、修道会の善と神の栄光を考えなければなりません。経済状態に関しては、これを正常なものにするために、特別な注意が払われるべきでしょう。会を現在の状況に陥らせたのは誰なのかを探ることにあまり力を注がず、嘆かわしいことであるのは確かなのですから、この状況を解決するためにあらゆる努力をする必要があります。神父様が良いとお思いになれば、総長様が顧問の方々と共にこの手紙を読まれてもよろしいと思います。そして、神の大いなる栄光であるこの業が保たれ、それも良い状態で保たれるように、神父様がこれからもこの修道女たちをお助け下さるよう希望致します。」(8)

べレス師が見せた手紙を読んで、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女の統治に対してなされた非難の多くを、枢機卿が信じたことに気付いた。同時に、慰めを感じる点もあった。例えばマゼラ枢機卿は、「この修道会の会員の中には、熱意にあふれた精神が見られます。」と言っているからである。マドレ・サグラド・コラソンが、この保護枢機卿がウラブル師に書いた手紙を読むことが出来たとしたら、同じような賛辞が繰り返されているのを発見したことであろう。「この修道会の会員たちの間に素晴らしい精神が生きているのを知って慰めを感じています。そして、ここから、イエスの聖心はこの会を決してお見捨てにならないという信頼が沸いてきます。」と枢機卿は述べている。(9)これらの慰めに満ちた言葉は、総長に空しい確信を抱かせるものではなかった。
マドレ・ピラールはローマから戻り、1892年5月11日にマドリードに着いた。経済問題を解決するための枢機卿の指針を携えていた。マドリードに、それもマドレ・サグラド・コラソンと同じ修道院にいながら、マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンと書面で連絡を取るほうが良いと判断した(話すことによって起こりうる論争を避けようと意図したのである)。

  「私はあなたに何も申し上げませんでした。それは、枢機卿様が、彼の名によってべレス師がお決めになられることに、私、そして、私たち五人全員が従うことを望んでおられるからです。べレス師に昨日カードをお送りし、おいで下さるようにお願い致しました。このような状態にいることは本当に大きな苦しみですので。でも、神父様はいらっしゃいませんでした。私が何故話さないのかをあなたに説明せずに、これ以上時間が経つことを望んでおりません。このことをあなたに、言葉ではなく、書面で申し上げることを心苦しく思っております。でも、時々起こるように、言葉にひっかかり、私が度を越して話すと、悪い行いをする時と同様に不安になるのです。命の書には、私たちの行いだけではなく言葉も書き記されていると思います。ですから、言葉による過ちを犯す機会に身をさらしたくないのです。その上今は、主が私達全員を赦して下さり、修道会が救われるために、各自命じられることに服するだけではなく、出来る限り完全に振舞う必要があります・・・。」(10)

マドレ・ピラールは、修道会の救いは彼女の手に委ねられたと考えていたのであろう。マドレ・マリア・クルスの マドレ・マルティレス宛の次の手紙からもこのことが伺える。「マドレ・ピラールと マドレ・マルティレスがここに来ていらっしゃいます。マドレ・ピラールは、解決のために必要なあらゆる権限を持っていると言っておられます。マドレ・サグラド・コラソンの権限を除いての話でしょうが。私には、どのようなことなのか、どのような苦しみを忍ばなければならないのか分かりません。もし生き残っていれば、手紙をお書きします。」(11)
べレス師はオベリスコの修道院を5月12日に訪問すると連絡した。「可能であれば明日会いに行くことを知らせるマドレ・ピラール宛の手紙を同封します。穏やかで、冷静、温和、そして愛に満ちて話すことは、義務であり、神が望まれることでもあるのですから、あなた方がこのように話すことが出来るのでしたら、望むこと、必要なことを全て、恐れも猜疑心も持たずにお話し下さい。」
実際には、べレス師の描いた二人の会話は、素晴らしすぎるものであった。創立者姉妹がこのように穏やかに対話するためには、真の奇跡が必要であった。確かに、難しさはマドレ・サグラド・コラソンの側にはなかった。5月18日に、マドレ・ピラール自ら手紙でウラブル師にこのように言い、べレス師の計画は全く実現不可能だと伝えている。「べレス師は、私の計画を強く非難されます。合法的ではないし、良い結果ももたらされない。マドレ・サグラド・コラソン (12) が総長職を占め、私たちが非常にはっきりと、熱心に、彼女の欠けたところを補うのが解決策だとおっしゃいます。そして、マドレ・サグラド・コラソンが抵抗したなら、べレス師に申し上げ、必要であれば、教会裁判所に知らせることになります・・・。」当然のことながら、上に述べられたべレス師の計画は、マドレ・サグラド・コラソンの権限を総長補佐固有の権限で最大限に制御しながらも、彼女の統治を維持することを考慮に入れたものであった。しかしこれとは反対に、マドレ・ピラールは、理論上はマドレ・サグラド・コラソンの手に総長職を置くように装いながら、経済問題解決のために、会憲に定められた以上の特別な権限が自分に与えられると考えていた。
この頃創立者姉妹の間で交わされた会話に関しては、前の手紙に非常に意味深い文がいくつかある。「マドレ・サグラド・コラソンが部屋に入った時、べレス師は話を終わりかけていらっしゃいました、そして、ここに非常に長い間留まられました。毎日お見えになります。神父様、べレス師は私にとって重荷です。これは、心臓と良心にとって大変な負担です。[・・・] マドレ・サグラド・コラソンは、べレス師と同じようなことを言いました。私たちが一致するようにとか、その他非現実的なことを・・・。」(13)心の一致、あるいは、少なくとも活動における一致が、マドレ・ピラールにとっては不可能なだけではなく、べレス師が考えた最高の失策であったことは明らかである。
これらの試みが失敗に終わり、マドレ・サグラド・コラソンは再び辞任を考え出した。「事柄は、一時しのぎの解決を求めているのではありません。神の栄光と多くの人々の魂の平安を考えると、これ程の悲しみあるいは悪、または両者を、何としても徹底的に解決する必要があります。」(14)「事はいまだに縺れております。そして、日々益々紛糾していきます。誰のせいなのでしょうか。その人が誰なのか時々分かる気が致します。でも、非常に権威のある方々や神から光をいただいていらっしゃると思われる方々が〔マドレ・ピラールを〕支持なさいますので、私が間違えているのだと考えたいと思っております。そして、私は口を閉ざし、神様の判断を尊重し、そのお考えに身を委ねております。神父様、時々本当に辛く感じます。」マドレ・サグラド・コラソンはムルサバル師にこのように書いた。ムルサバル師は、いつもマドレ・サグラド・コラソンを理解してはいたが、その関わりは一定の距離を置いたもので、マドレ・サグラド・コラソンが必要としていた完全な心の安らぎを与えることは出来なかった。前述の文は、一種の下書きの中に書かれていて、終わっておらず、署名もない。同じ日に、再び手紙を書き始めたが、この手紙も終わるに至らなかった。これら二通は、ついにムルサバル師に送られた第三の手紙の下書きであろう。表現は慎重で、微妙なニュアンスが大切にされているが、それは無駄なことではなかった。マドレ・ピラールの提案を前にして、自分の心の奥底、個人的困難の本質をこの手紙の中で表明しているからである。マドレ・サグラド・コラソンは初めに事実を述べている。

  「枢機卿様と私の姉がローマで最後にお決めになったのは、顧問たちと私とがローマに行き、姉が、修道会を救うために、博学な方たちからのみ助言を受けながら、様々なことを自由に行える広範な権限を持ってここスペインに残るということでした。」

続いて、この計画を受け入れるために必要不可欠な唯一の条件を記している。

  「このような決定・意向を前にして、私が既にローマ行きを考えていたことを強調しました。私の辞任の件を持ち出してですが。」

その後で、自分の内的な反応に関して行った糾明について書いている。マドレ・サグラド・コラソンは、客観的でありたいという純粋な望みに駆られ、自愛心に騙されてその犠牲者になることを恐れていた。

  「後で、これは自分が片隅に追いやられていたくないためで、謙遜の欠如ではないかと考え、内心の闘いを感じました。」

彼女は、引退してローマで生活することを意味するこの差別を、謙遜のうちに受け入れることは出来た。しかし、引き続き総長であるとすれば、会との関係はどうなるのだろうか。マドレ・ピラールの行動を、姉妹たちの前でどのように評価すればよいのだろう。

  「後でこのことを考え、主である神の御前で糾明を致しましたが、私が辞任に固執するのは、ローマに行くことだけでは諸悪の解決にならないと考えるからです。大きな権力を持ちあらゆることの責任者でありながら、起こっていることを姉妹たちに知らせず、修道会と関わりを持たないこと、そして、このようにして事を益々紛糾させることなどどうして出来るでしょうか。」

状況の分析は、あらゆる道を通って、総長職を完全に辞任する考えに到達した。

  「このようなわけで、司教律修者聖省のはっきりした命令、それも、これを守らなければ罪になるという命令がなければ何も変わらないことを、ただ [・・・] 強調するに留まらず、このことを付け加えました。」

マドレ・サグラド・コラソンには唯一の解決しかないことがはっきり分かっていた。しかし、信じられないような疑問と苦しみが伴わなかったわけではない。

  「神父様、私には相談できる方がありません。事を知っていらっしゃる博学な方々は少し当惑していらっしゃいます。マゼラ枢機卿様によって選ばれた方は、私のこの決意にいつも賛成して下さいましたが、姉の話を聞くと全くお考えを変え、反対のことを私に承知させようとなさいました。
・・・ 少し心配なことがあります。このように頑固に、傲慢であるかのように反対することによって、悪い行いをしたのでしょうか・・・。」(16)

今までの出来事の展開を追ってきた私たちに、マドレ・サグラド・コラソンを傲慢であると責めることが出来るだろうか。彼女より賢明あるいは巧みに振舞う人、他の異なった道を通って「事のもつれを解く」ことの出来る人があったのだろうか。

「明日ローマに発ちます ・・・ 行くように命じられたのです。でも神のみ旨を果たすことを心から喜んでおります」

6月の初めに保護枢機卿はべレス師に手紙を書き、決定した解決案を彼に報告した。マドレ・ピラールにも手紙を送り、彼女からの5月28日付けの手紙を受け取ったことを伝え、「あなたのお書きになっていらっしゃることからすると、総長様がそちらに残られた場合、活動をやめられ、指導を受け入れられるようにするのは不可能なようです。」と書いている。そして、マドレ・サグラド・コラソンから統治を取り上げて、ある期間他の人にそれを任せることは、彼の権限を越えていたため、次の二つの方法を提案した。

  「第一は、総長様が自発的に、あなたの指名される二人の総長補佐と共にローマにいらっしゃることです。スペインの全ての修道院に手紙を送って、修道会の仕事のためにローマに移らなければならないため、彼女の不在の間その全ての権限をあなたに託する、従って、皆あなたのところに赴くようにと勧めるのです。
この方法は、総長様ご自身の権限を越えたものではありません。これが最も品格あるやり方で、あらゆる不都合を回避することが出来ます。もし、これが不可能であれば、聖座に助けを求めなければなりません。しかし、内密に申し上げますが、どのような形であろうと、聖座に赴くためには、二人の総長補佐がその緊急の理由を書面で説明し、署名する必要があります。これを、私宛にすることもできます。その場合には、私が司教律修者聖省の長官とこの件を取り扱うことになるでしょう。
しかし、繰り返し申し上げますが、第一の方法が望ましいのです。私も再び総長様にお会い出来ます。総長様がローマにいらっしゃるのを誰も妨げることは出来ません。」(17)

べレス師はこれら二つの方法について、自分の考えも加えて総長に知らせた。「・・・ 一番良いのは、少なくとも総長様ご自身のために一番良いのは、枢機卿様の助言をただちに受け入れ、退いてお休みになることです。そして、ご自分のために神にご保護を願い、お姉さまのためにも、この困難の中で的確に行動されるよう祈ることです・・・。」(18)
このような手紙を受け取ると、総長はただちに出発することにした。しかし、総長補佐の同伴は望まず、旅行について彼女たちに知らせることもしなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルス自らが書いているところによれば、「マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはその修道院の補佐役を務めていたため、彼女にはそのことを隠さなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはマドレ・サグラド・コラソンが持ってゆくべきものを準備した。歌隊修道女の中から最も若い修道者を同伴者として選ぼうとしているのを知って、自分と一緒に行ってはどうかと、自らの望みとして総長に申し出たが、彼女はこれを断った。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、マドレ・ピラールの望んでいたことを、このようにして、穏やかに行うために、マドレ・サグラド・コラソンに提案したのである。この日、1892年6月9日の木曜日、聖体降福式の後に聖体の前で姉のマドレ・マリア・デル・ピラールが礼拝をしていた機会を選んで、マドレ・サグラド・コラソンは誰にも別れを告げずにマドリードの修道院を立ち去った。木曜日であったため、その夜聖体は引き続き顕示されていたのである。」(19)この出発は、最初、修道会の諸問題に通じていた人達を動揺させた。礼拝を終えて、妹が既に立ち去ったことを知ったマドレ・マリア・デル・ピラールについて、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは明らかにこのことを記している。総長がこのように去って行ったことは、その後、総長補佐、そしてさらに出来事の経過を追っていたイエズス会士達から様々な形で批判され、枢機卿が決められたことへの不服従、マドレ・サグラド・コラソンを非難していた総長補佐たちに対する冷淡な振る舞いと解釈された。「職を退く苦しみを和らげ、さらに、不都合なことは決してしないように彼女に忠告するために」(20)マドレ・マリア・デル・ピラールは総長に同伴するつもりであったと、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは語っている。総長のために指定されたキレネ人は、その役に相応しい人ではなかった。その上、マドレ・サグラド・コラソンは、いやな思いをせざるをえない人達のいないところで枢機卿と話すことを望んでいた。後に彼女自身語っているように、総長職代行に伴う危険について彼に話す必要があったのである。
マドレ・サグラド・コラソンはサラゴサに立ち寄った。6月10日にサラゴサからマドレ・マリア・デル・カルメンに手紙を書いている。「明日ローマに発ちます。私の歩みを祝福して下さるよう主にお祈り下さいませ。私は自分の意思で行くのではありません。命じられて参ります。でも、神の聖なるみ旨を果たすことをとても嬉しく思っております。他の時にも申し上げましたように、不一致に終止符を打たなければなりません。これこそ私たち皆が、心の底から望んでいることです。」ビルバオにいたために、その頃の出来事から少し遠のいて暮らしていたため、マリア・デル・カルメンはこの知らせに唖然としたようである(21)。その時まで総長秘書を務めていた彼女は、この時、非常に複雑な心境になった。明らかにマドレ・ピラールの考え方に傾いてはいたが、マドレ・サグラド・コラソンへの愛を持ち続けていた。このことは容易に理解出来る。いずれにしても、彼女によって書かれた修道会や総長についての手紙の何通かは、その内容を理解するのが容易ではない。「マドレのお手紙から強い印象を受けました。ですから今日は、泣くための時間とお手紙を書くための時間を取りたいと思っておりました。でも、もう午後四時になりますが、今までペンを取ることが出来ませんでした。」このように自分の気持ちを表現した人が誰であるかをもし私たちが知らないとすれば、涙を流す時間と手紙書きのための時間の配分を面白いと感じるかもしれない。「マドレ、私たちの修道家族に大きな問題があることを知らないほど私は無知ではありません。同時に、このようなニュースを知って、不安と悲しみを感じないほど色々なことが分かっているわけでもありません。総長様が去っていかれることは本当に悲しく、このことを昼も夜も忘れることが出来ません・・・。」(22)
この時におよんで、マドレ・サグラド・コラソンは人々の忠実さに幻想を抱くことは出来なかった。マリア・デル・カルメンも彼女を疑い、その行動を批判したことを知っていた。しかし、マリア・デル・カルメンが彼女を愛していることを信じていた。他の感情が混ざってはいたが、結局は 誠実なその愛を。マリア・デル・カルメンの悲しみと同情は、マドレ・サグラド・コラソンにとって慰めであった。そして特に、責任、マリア・デル・カルメンを慰める責任を感じたのである。ローマから最初に送った何通かの手紙のうちにマリア・デル・カルメン・アランダ宛のものがある。「あなたからの手紙を今受け取りました。あまりお悲しみにならないように、一筆認めたいと思います・・・。」(23)と書かれている。

マドレ・ピラールに委任して

「一昨日ローマにお着きになった総長様は、ただちに私に会いにいらっしゃいました。ご自分の用件のために他のどなたにも会われず、会うことも考えておられません。ですから、総長補佐の方々を安心させて下さい。」べレス師によってマゼラ枢機卿に書かれたこれらの言葉は、問題がどこにあったのかを示している。マドレ・ピラールと他の総長補佐たちは、スペインで、マドレ・サグラド・コラソンの予期しなかった旅行に疑いを懐いていた。ある意味で反撃となるような手続きを彼女がするのではないかと恐れていたのである。マドレ・サグラド・コラソンはそのようなことは考えてもいなかったが。このことを心配しないように総長補佐たちに伝える必要があったことを考えると心が痛む。枢機卿はさらに続けて、「スペインを留守にする間、全ての権限をマドレ・ピラールに委譲したいと望んでおられます。そして私は、この提案を受理します [・・・] しかし、委譲の手紙はあなた宛にお送りしたいと思います。もし委譲に反対する理由があれば、ことを進めないで下さい。マドレ・サグラド・コラソンの代行として統治するにあたり、マドレ・ピラールはその権限を会憲に従って、つまり、総長補佐たちとの協議のうちに行使しなければなりません。総長の権限によっても、私の権限によっても、他の方法で統治する許可を与えることは出来ません。」(24)
6月19日付で署名された権威の委任は、このような意味で書き記され、会員宛の書簡の形で各修道院に送付された。「修道会の用件のために、しばらくスペインを留守にしなければならないため・・・」これらの言葉を書くにあたって、マドレ・サグラド・コラソンは何を感じたのだろうか。「修道会の用件・・・」どのような用件が彼女をローマに行かせたのだろうか。書かれた文は信心深い嘘であったと考えられるかも知れない。しかし、そこにはより深い真実、マドレ・サグラド・コラソンの生涯の偉大な真実が隠されていた。彼女は、決定的に建物の礎、「見えない」あの礎になるためにローマに行ったのである。「私たち皆が望んで入会した」平和を可能にするために立ち去った。「一致のないところに、神はおられない」ので、一致を取り戻すために出かけた。確かに、修道会にはこれ以上緊急な用件はなかった。その時もなかったし、それからもなかった。
委任を伝える総長書簡と交差して、一通の感動的な手紙がローマに向かっていた。「・・・これ以上時間がたたないうちにマドレにもう一度お便りしたいと思います。私はまだ悲しみにくれております [・・・] マドレがローマに行かれた当初のような苦しみではなく、もっとゆっくりとした、心に深く染みとおる苦しみを味わっております。これは夢ではないのでしょうか。今日マドリードから手紙が着きましたが、マドレがローマにいらっしゃったことが書かれていました。マドレが立ち去られ、それとともに喜びが消え去ったと述べられています・・・」とマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは二通目の手紙に書いている。(25) これは一つの現実の他の顔である。修道会の状況が、マドレ・サグラド・コラソンを、一人の人間が苦しみ得る最も深い孤独に追いやった。しかし、そのひどい精神的混乱も、修道会の姉妹たちの善を常に全力を挙げて求め続けた彼女の献身と、信頼に満ちた謙虚な奉仕によって燃えた火を一瞬のうちに消すことは出来なかった。何人かの会員はこのような不安定な時期にもマドレ・サグラド・コラソンに手紙を書き続けた。例えばマドレ・マルティレスは、紛糾状態が続いた間ずっと、他の人々の考えに影響されることなく自立した正しい判断を示した。(マルティレスの手紙は、彼女を苦しめていた不思議な睡眠病にもかかわらず、眠っていない時には、頭がはっきりしていたことを示している。)マドレ・サグラド・コラソンは、彼女に全く忠実であったと考えられる会員(26)との文通とともに、このドラマに関係し、ドラマの責任者であったと言えるにもかかわらず、彼女を慰めようとする人達の手紙も寛大に受け取り、受け入れた。その思い出がいかに二心と不忠実を思い起こさせずにいられないものであったとしても。全く恨みを抱くことなく、修道会とその会員の一人一人への慈しみに溢れて、全ての人に真に優しい言葉で手紙を書いた。

  「あなたのお手紙を読むのは、私にとって大きな喜びです。マドレ、神様はあなたの祈りを聞いていらっしゃいます。私の釘や十字架はとても甘美なものです。快い重荷を支えているわけではなく、私の罪や情熱等の「悪い」(27) 重荷を耐えているにもかかわらず。」(28)

「私たちの主である神様が、私を何にも介入しないようになさって以来、かつて想像出来なかったほどに、全てを全く忘れております。本会のマドレスとエルマナスを益々愛し、聖なる人におなりになるようにと、今までにないほど望んでおります。私が今慰めを受けているのではとお書きになっていらっしゃるのを読んで笑ってしまいました。〔・・・〕私のために慰めはお願いにならないで下さいませ。むしろ、柔和、謙遜、十字架への愛、そして、神のご意志への堅く完全な一致をお祈り下さい。たとえ神のご意志が、棒にかかって死ぬことであるとしても。」(29)

「手紙を書かなくとも、その理由をご存知のことと思います。手紙を書かないから、あなたのことを忘れているのだとお思いにならないで下さい。本会のどなたをも忘れてはおりません。マドリードを去る時に、少なくも小さくもない私の罪の赦しをイエスに願った後で、その脇腹に会員の皆様をお入れ致しました。」(30)

「あなたをお悲しませしてどんなに申し訳なく思っているかお分かりいただければ!でも、マドレ、私への愛をもってではなく、神のみ旨としてご覧下さい。私はこの聖なるみ旨を果たしたいと望んでおります。そして、これを求めて、全力を挙げて働いております。どうぞお祈り下さいませ。」(31)

「皆様のために祈っております。そして、主の心を奪う徳、すなわち、謙遜と愛の道において皆様の師となって下さるよう主にお願いしております。皆様が寛大な人となり、主のお心を奪うようにと望んでおりますので、[・・・] いつもこの祈りをしております。」(32)

寛大さと赦しの絶え間ない実行によって、彼女の心の中では、愛する力、感謝する力が際限なく強く深ものとなっていた。マドレ・サグラド・コラソン以上に感謝の気持ちを持った人を見つけるのは難しい。

  「その意向のためにお祈り下さること感謝しております。これからも同じ祈りをお続け下さればありがたく存じます。そして、いつか感謝の祈りもお捧げいただければ幸いです。主への感謝に関しては非常に大きな借りがありますので・・・。」(33)

普通でない状況

総長による彼女の姉への委任は、6 月19日付で行われた。しかし、このことを公にし、修道会を危険と言えるほど普通でない状況に置くためにはまだ時間が必要であった。この用件は複雑な展開を見せ、この時点ではごく単純な問題も非常に複雑なものとなった。マドレ・サグラド・コラソンの全会員宛の書簡を、枢機卿と彼女の手紙とともに受け取ったと、べレス師は6月23日マドレ・ピラールに連絡した。これらの手紙には、その書簡を会員に送るか否かはべレス師の判断によると書かれていた。べレス師はマドレ・ピラール宛の手紙の中で次のように述べている。「あなたのご意見を聞かずにこのことを決めたくありません。なぜなら、この書簡には、あなたの提案とは異なる重要な内容が含まれているからです〔・・・〕様々な用件を迅速に運ぶため等のために適切と考えられて、あなたは総長補佐の意見を聞かずに決定できることをお望みでしたが、書簡はこれとは反対のこと、すなわち、全てにおいて会憲に従う決意のもとに、あなたがあらゆることにおいて総長補佐に諮問投票権を、場合によっては議決投票権を与えることを定めています。この書簡だけではなく、枢機卿ご自身の手紙の中でも、『総長の代理として統治するにあたり、マドレ・ピラールは、その権限を会憲にしたがって、総長補佐との協力のうちに行使しなければなりません。総長にも私にも、他の方法で統治する許可を与える権限はありません。』と述べられています。」(34)マドレ・ピラールはこの手紙を受け取ると、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス とマドレ・サン・ハビエル (35)がローマに行く必要性を強く述べるよう依頼して、べレス師に手紙を書いた。このように複雑な過程の調停役を務めることに疲れたべレス師は、様々なデータによって疑い得ないマドレ・ピラールの頑固さと不服従を耐えることが出来なかった。彼の決意は非常に断定的な一通の手紙に表れており、その中には次のようなことが書かれている。

  「枢機卿に手紙を書くつもりはありません。あなたが望んでいらっしゃるような内容の手紙を書くのは不従順なことだからです。このような道を通って良い終着点に到達することは不可能です。私は、どのようなことがあっても悪に加担することは出来ません。ですから、他の人を探し、その方の意見を聞き、従い、枢機卿様にこのことをお知らせ下さい。〔・・・〕あなたにその権限を渡されると書かれた総長様の書簡は、郵送して下さった総長秘書に返送致します。あなたが書簡の内容を完全に受け入れていらっしゃらないのですから、書簡を各修道院に送る許可を与えることは出来ません。私は、あなたがたの修道会を心から神にお委ねすることで、満足致します。」(36)

べレス師は彼の決断をただちに枢機卿と総長に知らせた。理由は様々であったが、皆このような結果を残念に感じた。しかし、マドレ・ピラールは事の重大さを意識していなかった。マゼラ枢機卿は べレス師に、「マドレ・ピラールは、彼女の沈黙によってもたらされる悪について良く分かっておられないようです。説明されている形での代理を受け入れないのですから、彼女には何の権威もありません。総長様は、ご自分のなさった権限の委譲が実際に行われたのかどうかをご存じないため、何の行動も取れずにおられます。つまり、修道会は現在統治不在状態にあるのです。」(37)と書いている。同じ日に枢機卿はウラブル師に、「神父様が大きな影響力をもっていらっしゃるマドレ・ピラールへの愛に駆られて」手紙を送った。この手紙の中には、問題に関して、ウラブル師が今まで聞きなれていたのとは異なった見解が示されていた。「総長様は、彼女の姉に一定期間その権限を委譲されることによって、大変なことをなさったのです。しかし、マドレ・ピラールは厳しく事を判断し、服従に非常に反した態度を取っておられます〔・・・〕彼女が危険な道を歩み始められたのではないかと恐れております。ですから、あなたの愛によって、彼女を破滅から救って下さるようお願い致します。マドレ・ピラールは、〔総長は〕子供ですと何度も繰り返して言われました。総長様を長上として見ていただきたいのです・・・。」これは非常に厳しい手紙であるが、枢機卿は最後にその調子を少し和らげて手紙を終わっている。「感じていることをそのまま神父様にお書きしました。修道会とマドレ・ピラールの善のために申し上げお伝えしたことを、愛と賢明さをもって役立たせて下さい。マドレ・ピラールは素晴らしい資質をお持ちです。しかし、今回の彼女の行いを認めるわけにはいきません。」(38)
マドレ・ピラールの行動が間違ったものであることを、非常に明白にかつ愛を持って彼女に伝えることが出来た人は誰もいなかった。しかし、これは、この歴史全般に関する神の摂理の計画の中に入っていたようである。べレス師は自分の考えをはっきりと表明したが、この件に関わることを放棄した。ウラブル師は、枢機卿の判断を誇張されたものと受け取ったようである。枢機卿の考えにはほとんど触れず、彼女を知らない人達から悪く思われるような表現に関しては慎重であるようにとマドレ・ピラールに勧めるに留まった。(39)今回の困難の全てにおいてマドレ・ピラールが嘆くべきは、彼女の欠点である活発で気ままな性格であり、他の点では問題がないと、ウラブル師が考えていたことは明らかである。枢機卿も、ウラブル師に表明した意見にたとえ僅かでも似た訓戒をマドレ・ピラールに向けることはしなかった。7月9日に彼女に宛てて、「前にお書きしましたように、総長様について心配することはここには何もありません。総長様はあなた方の用件を外の人たちに話そうとは考えておられません。もしそうなさるのであれば、その前に私に意見をお聞きになるでしょう。一方、あなたには総長補佐が必要なのです。会憲によれば、彼女たちを除外して統治することはできません。緊急に対策を講じる必要があるとおっしゃっておられますが、神の業を後回しになさらないで下さい。」確かにマドレ・ピラールは、枢機卿の気持ちを充分に察することが出来たであろう。しかし、この手紙と、枢機卿自身によってウラブル師に書かれた手紙とを比較すれば、マドレ・ピラールの目を覚まし、その行動を直す手助けをすることを自分の良心の問題と捉えた人は誰もいなかったことが分かる。
しかし、委任の重要性について、又委任を引き受けるに当たって示した難しさについて、マドレ・ピラールは実際にどのように考えていたのだろうか。この用件から手を引くことを伝えたべレス師の手紙を受け取ると、マドレ・ピラールは「神父様、決して手をお引きになりませんように。神父様のお考え通りに物事をお運び下さいませ。私の手紙によってご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。」と返事をしている。(40)この後には非常に控え目な文、マドレ・ピラールによれば、「とても慎み深く、良い人である」一人のマドレに見てもらった文が続いている。べレス師がこの件から退くという事の重大さを前にして、マドレ・ピラールは強い印象を受けたに違いない。「・・・ 私は悲しみ茫然としており、神父様に手紙を書く気力さえないことを隠さずに申し上げます。べレス師がいらっしゃらなくなるからではなく、神父様の修道家族のことを思うと辛いのです。このことを考えると本当に心が痛みます。」と、ウラブル師に書いている。(41)この手紙の中で、委任を伝える書簡に関して、どのような意味でべレス師に手紙を書いたかを説明している。書簡を受け入れることを拒否したのではなく、総長補佐達がその忠告によってマドレ・サグラド・コラソンを助けるために――監視する、が正確な言葉であろう――ローマに行く必要が確かにあったことを強調している。マドレ・ピラールのべレス師への手紙は保存されていない。従って、その手紙の中に表現された考えと、べレス師によってとられた態度を前にしてマドレ・ピラールがした説明を対照することは出来ない。しかし、総長補佐全員がマドレ・ピラールの説明を納得して受け入れたことは確かであった。このことは、7月12日にマドレ・マルティレスが マドレ・サグラド・コラソンに書いた手紙から推測出来る。

  「・・・ 私が理解したところによれば、このマドレ〔ピラール〕と他のマドレスは、神父様にこのような決意をさせた直接の原因に当惑されたのです。と申しますのは、マドレ・ピラールは問題の書簡を全く非難せず、神父様が全ての修道院にすぐにそれを送られることを期待して、総長補佐たちに喜んで手紙をお書きになりましたから。彼女たちが、べレス師との間で起こったことをマドレ・ピラールに書き送った時、マドレ・ピラールは驚き、神父様への彼女の返事の中には神父様を怒らせるようなことは何も書かれていない、もし写しを取っておいたら、彼女たちにそれを送るのだがと、おっしゃいました。用件に関する許可を得るのに時間がかかり、手が縛られた状態で何も出来ず、これらの用件に取り組むことが不可能であったと嘆いておられます・・・。神父様のおっしゃっておられることと何と矛盾しているのでしょう。どのように解釈したら良いのか私には分かりません。マドレ・ピラールははっきりした方で、何かのふりをされることはなく、たとえ全世界が反対しても、ご自分の意見をおっしゃいますので。」(42)

マドレ・ピラール がマドレ・プリシマに説明したところによれば、マドレ・ピラールは、二人の総長補佐をローマに送ることが、必要な場合における彼女たちの意見や投票を排除することにはならないと理解していた(「・・・ 私は何年間も(いつも)不在で私の職務を果たしてきました。そして、私の考えを明確に提示して意見を述べました・・・」)。
統治の異常な状態は、論議を巻き起こした点を枢機卿とともに明らかにした後で、7月17日、マドレ・ピラールが会員宛の書簡を二十日前に彼女の妹に送るまで続いた。「長いことかかりました。本当に苦しい日々でしたので、問題の大部分が解決したと思われる今日は神に心からの感謝を捧げております。でも、ほとんど喜ぶことが出来ないのです。苦しむことに心が慣れておりますので。」と、総長補佐の一人、マドレ・サン・ハビエルは受けた印象を要約している。(43)

痛ましい沈黙

1892年における修道会の文書を分析すると、その数が驚くほど多いにもかかわらず、非常に重要で意味のある手紙がそこに欠けていることに気付く。二人の創立者が1892年以前の何年間かの間に互いに書きあったあのような手紙はどこにあるのだろう。マドレ・ピラールの長い手紙、様々なことが書かれ、直感的で、考えたことがそのまま表現され、時々は無礼で、心を刺すこともある手紙 ・・・ ある側面においてはあまりにも成長し、他の多くの側面においては成長が不充分であった女性、マドレ・ピラールの手紙。苦しませ、泣かせ、また度々笑わせた彼女の手紙。そして、マドレ・サグラド・コラソンの手紙はどこにあるのだろう。戒めの手紙、涙のにじむ手紙。寛大さと赦しの結晶としての心の広さを表す手紙。非常に重大な幾つかの問題が存在しないかのように、些細なことについて書かれた素朴な手紙、この世で個人的な問題外に属する全てのことに関心を持つことがまだ可能であったことを示す手紙は。
1892年の6月から翌年の夏までの間には、マドレ・ピラールからマドレ・サグラド・コラソンに書かれた手紙は、短い六通が残されているのみである。この沈黙の理由を説明する必要があるだろうか。この時期に書かれた次の文を書き写せば充分であろう。

  「大分前からお便りを差し上げておりませんが、何を書いたら良いのか分からないためです。あなたは私の妹ですし、私の性質としても、作り話をすることは出来ません。ですから、手紙を書かないのです。あなたや他の方たちに言わないことを神様にはお話ししております。」(44)

この同じ時期にマドレ・サグラド・コラソンが マドレ・ピラールに宛てて書いた手紙は五通保存されている。この沈黙についても理由を述べる必要はないであろうが、残された手紙の所々に、上に引用した内容に似た説明が見られる。

  「あなたには手紙をお書きしません。必要ないと思いますので。以前にも増してあなたのことをお愛ししているのは確かです。そして同時に、あなたが、主が私の聖化のために用いられる道具であるとも思っております ・・・ 私の感じていることをありのままに申し上げなければなりません。そうでなければ、作り事か単なる義務になってしまいます。そして、私は作り事も単なる義務も嫌いですので。」(45)

「繰り返し申し上げますが、私は、あなたに対しても補佐のマドレスに対しても嫌な気持ちは持っておりません。私たち五人が一致できるのでしたら、命をも差し出すでしょう。今の状態、つまり、私たちが理解できない状態が、私にとっては大変な苦痛なのです。」(46)

この手紙の追伸として、マドレ・サグラド・コラソンは寛大に次のように書いている。

  「・・・ 私たち二人は愛し合い、〔神の〕聖なるご意志を果たしたいと望んでいるのですから。主が私たちの意向を祝福し、意向が実現するように導いて下さいますように。」

本会の修道院に送られた総長書簡

代行についての書簡は、7月19日頃本会の修道院で受け取られた。この裏に何か普通ではないことが隠されていると感じた会員が何人かいたとは言うものの、共同体は冷静にこの手紙を受け入れた。一修道院の日誌にその理由が書き残されているが、全体的にはそのような理由で受け入れられたと思われる。「総長書簡が届いた。書簡の中で総長様は、ある期間スペインを留守にしなければならないため、その権威を、総長補佐のマドレ・マリア・デル・ピラールに譲渡すると述べておられる。マドレ・ピラールは丁度私たちとともにいらした。[・・・] マドレに敬意を表し、お祝い申し上げた。私たちが敬愛するご立派な総長様がその職を退かれるからではなく、正当な理由によって、これに値するマドレに委任されたからである。」(47)
「こちらでは今日、実際には非常に辛い出来事をお祝いしています。このことを修道院外の人に話すことに私は反対しました。噂を断つために必要だと思うのです。ですから、聖堂の修理をすることには反対しました・・・。」(48)と、マドレ・ピラールはマドレ・プリシマへの手紙に書いている。
修道院の日誌に書き記されたニュースを読むと、へレスにおいてはその当時の状況がより知られていたことが分かるが、基本的には同じように受け取られたと考えられる。「マドレ・ピラールを見て皆喜びを表した。そして同時に、大きな悲しみをも味わった。総長様に再びお会いすることはないであろうと皆が言っていたからである。」(49)
事実、予定より前に統治の交替が行われるという異常事態が、大部分の会員にほとんど気付かれることなく過ぎ去ったのは、マドレ・サグラド・コラソンの英雄的な沈黙による。総長顧問会に一致と平和をもたらすために彼女が払った全ての努力は実を結んでいなかった。このような状況を受け入れて、マドレ・サグラド・コラソンは、特に、修道会内の一致を守ることを目指して歩んでいた。もし彼女が望めば、純真で、マドレ・サグラド・コラソンを真に愛していた会員の心に蒔かれた一言が、多くの姉妹の従順を総長補佐への反発に変えたに違いない。マドレ・サグラド・コラソンがマドレ・ピラールについての疑問をどこかで表わしたとしたら、何が起こりえたかを想像することはほぼ不可能であるが、会の分裂を考えることが非常に大胆であるとも思われない。しかし、総長であり、創立者であったマドレ・サグラド・コラソンは、この家族の家の礎、一致と平和を築くための親石であった。彼女は論争を巻き起こさなかった。この時、会の責任者たちは、この点に関して安心していられたのである。
6月の終わりには、枢機卿も心安らかであった。「あなたのお手紙が、真の煉獄から私を救い出してくれました。あなたたちの会が統治不在状態であることを非常に残念に思っていましたので。神に感謝!今は熱心に仕事に励み、出来るだけ早く損失、特に金銭問題を改善する必要があります。他のことに関しては、会員が実に素晴らしい精神を持っているのですから、ゆっくりと事を運び、色々なことを変えないほうが良いでしょう。[・・・]はっきり申し上げますが、総長様は貴会の用件を他の人のところに持っていくことをお考えになったことは一度もありません。むしろ、彼女の唯一の恐れは、あなたたちの家族の中にそのような人達が留まることでした。」と、マドレ・ピラールに書いている。(50)

「主はあなたをそのような道に導いておられる・・・」

マドレ・ピラールが会の修道院に対してその活動を開始する一方、マドレ・サグラド・コラソンは決然と無為の生活を抱きしめていた。「神が彼女に、行動すること、諸事業を行うことを望まれた時代は、1892年に終わった ・・・ 今は神によってなされるまま、形作られるままにお任せする時であった。時のしるしのうちに神の意志を見出す必要はもうない。時は、身を隠すというしるし以外のしるしをもたらさなかった。識別は既に行われ、残されたのは受容のみであった・・・。」(51)
ムルサバル師は一通の手紙の中で、人生の新しい道を寛大に受け入れるようマドレ・サグラド・コラソンを励ましている。

  「・・・ 主があなたをそのような道に導いておられるのですから、これを甘受し、深い信頼のうちに歩まれますように。偉大なる神がそこから素晴らしい善をもたらして下さるでしょう。枢機卿様が指示なさる全てのことにお従い下さい。相応しい所、相応しいやり方で、主が全てを導かれます。主との交わりのうちに自分を全く捧げて隠れた生活をする聖なる望みを、主があなたにお与えになったのですから。他のことは徐々にやって来るでしょう。それが私たちの望むものでなくとも、主がお望みになることであって、あなたに関わることを神のご意志のままに行われるなら、神と天国に確実に真直ぐにお着きになることでしょう。」(52)

マドレ・サグラド・コラソンは既に真直ぐに神と天国に向かっていたのである!彼女にとって他の道がないことを、より大きなしるしを持って明らかにするために、8月の初旬にイダルゴ師から一通の手紙が届いた。私たちは既に、モリナ師の考えられないような冷酷さ、セルメニョ師の厳格な考察、ホセ・マリア・イバラ師の心を傷つける優しさの現れた手紙を読んだ。しかし、これも、マドレ・サグラド・コラソンが「彼女の魂の父」からの手紙を読んで感じたであろうこととは比較にならない。

  「沈黙のうちに行われたあなたの旅行について、私に弁解しようとしておられますが、マドレ、偽りより悪いことはありません。[・・・] 何の恨みも持たずにこのことを申し上げます。私はいつも誠実にあなたに助言しましたが(助言したのであって、指導したのではありません)、全ての人がこのように誠実に話し、指導するわけではありません。私がそうしたのは、あなたがあまり信頼を示されず、ご自分の判断を保障する人を必要としておられると感じたからです。このことは、あなたの統治に関して何も助言しなかった時に、もっと明らかになってきました。実を言えば、あなたの明瞭さの欠如、あるいは全てがよく行っているとお考えになりたい望みの故に、私にははっきりと分からなかったのです。全てが神のお望みのままに進んでいる現在でさえ・・・」

手紙は明らかに非難の手紙であり、次のような言葉で終わっている。

  「返事が遅れ、それもこのような形になったことをお赦し下さい。このようであるべきだと、神のみ前で判断しました。」(53)

皆がそう信じていた。倒れた木を打ちたたく時に、「このようであるべきだ。」と皆が考えた。しかし、この木は倒れていたにもかかわらず、苦しみ、感嘆し、赦す力を完全に保っていた。特に、赦す力を。心のリズムに従いながら、まだ若い彼女の身体の全ての力が、生き、変身し、働く望みを感じていた。そして、三十年以上続くであろう仕事、人を手伝う仕事、がその時に始まった。「ここでは仕事に欠けることがありませんので、手伝いに没頭しております。日々の仕事のためにいつも時間が足りません。」(54)心理的には、仕事が、隠れた生活を送った年月の彼女の最良の治療法であった。修道会統治における人間関係によってもたらされた混乱状態の中にあって、マドレ・サグラド・コラソンは、仕事のお陰で、常に明晰冷静な頭を保ち、理解と識別に並外れた力を示した。

疑いと恐れ

ローマは遠かった。マドレ・サグラド・コラソンは全く孤立して生活していた。しかし、彼女が去った後も、総長補佐の疑念は消えなかった。マドレ・サグラド・コラソンが行い、語り得る全てのことを信用せずに疑うことをやめるのは、彼女たちにとって不可能であった。これは恐るべきことに思われるが、理由がある。マドレ・ピラールと総長補佐たちは、修道会内の悪について一種の公式分析を枢機卿に提出していた。一方の側のみから聞く話が全てそうであるように、この話も片側からの情報を基にした場合にのみ成り立つものであった。マドレ・サグラド・コラソンの個人的報告が、保護枢機卿に他の資料を提供し得るという単なる可能性が危険をはらんでいた。枢機卿がこれらの新しい説明を受け入れるか否かは、二つの要因にかかっていた。表現された言葉を通して、真実を探索する聡明さと、それを説明する人物の信用度である。ローマにおけるマドレ・サグラド・コラソンの行動に関してマドレ・ピラールと他の補佐たちが抱いていた恐れは、彼女たちの心の奥で静止することなく、その言葉と行いに表れていた。この時期の多くの手紙には、マドレ・サグラド・コラソンのローマ滞在によってもたらされる結果を考えて、彼女への不信頼が明らかに記されている。「私は恐れを感じ、深い悲しみに沈んでおります。私の想像が大げさなのかもしれませんが ・・・ 彼女がマゼラ枢機卿に良い影響を与えないはずはありません(枢機卿様を騙すのは本当に簡単なことです) ・・・ そして、あることに関しては子供である(このことは消え去っていません)と今も思っておられたとしても、同時に、聖人で、慎み深く、正しい人だと考えられて、彼女を批判したり、評判を落としたりはなさらないでしょう・・・」とマドレ・ピラールは書いている。(55)これは厳しい言い方であるが、このような傾向はあらゆる時代の人間に根付いている。人々を二つの対立するグループに素早く分類しようとする時、反対グループに属する人たちの一人が、自分たちのグループが独占すると考える資質を示すと、不快感を味わう。他の人々がこの人を評価し、なされた分類の有効性を危険に陥れ、疑問を投げ掛ける時、不快感はより大きくなる。マドレ・サグラド・コラソンは以前「慎みに欠け、夢想的な人達」のグループに分類されていたが、彼女のローマでの行動が枢機卿に反対の印象を与えたとすれば、修道会の状況に関する全ての報告に疑問が投げ掛けられる。修道会の状態について非常に閉鎖的で断定的な判断をした総長補佐たちにとって、この可能性は大破局を意味していた。
この時マドレ・ピラールが自分の妹にどの程度までレッテルを貼り、彼女についての判断をどれほど厳しいものにしていったのかを考えると心が痛む。妹に反対するよう彼女を動かした全てのこと、妹に関する最も不愉快な全ての表現は、年月を経て形作られた妹への最低の評価を無意識のうちに正当化する欲求から湧き出ていた。1892年から1893年の間に、小さな不一致が深刻な紛争へと発展した。不和状態の中にあって、マドレ・ピラールはマドレ・サグラド・コラソンに打撃を与えていたが、この意識は、その時の情熱によってかなり弱められていた。他の総長補佐たちにおいては、責任感が一種の自己保存能力と奇妙に混じり合っていた。マドレ・サグラド・コラソンの統治・諮問能力に疑いを持ち、自分たちの過ちに掛けられる嫌疑から身を守ることが修道会を守ることだと信じていた。修道会内外の人々の前で自分たちの意見の正しさを保つために、かつてそして今も尚自分たちの修道会の長上である人に当然抱くべき愛情を忘れたのである。
「主よ、お救い下さい。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。」(詩篇12, 2)正に、忠実さは難船し、時々極端に嘆かわしい状態に達していた。この悲惨な1892年の8月に、マドレ・ピラールと総長補佐たちは、総長の過去の行動についての報告を書き、それに署名するようマドレ・カルメン・アランダに執拗に頼んだ。
この時期に時々秘書を務めたマドレ・サン・ハビエルは、次のような言葉でマドレ・カルメン・アランダに手紙を書いている。

  「枢機卿様に本会の現状を説明するために、二名の総長補佐がナポリへの旅行を計画していることを、マドレ・ピラールからお聞きになられたと思います。この目的のために、そして、起こったことについて正確な資料を枢機卿様に提出するために、マドレ・ピラールは二人が議事録を持って行くことを考えられたようです。しかし、ご存知のように、[・・・] 昨年アンダルシアへの旅行から帰った頃に、ばら色の部屋で行われたあの顧問会あるいは集まりの間に起こったことなど、記録されなかったこともあります。あのことについては何も書き残されておりません。その方が賢明だと思われたからです。その他全てのことは、枢機卿様に、事柄や人について光を与えるはずです。あらゆる角度から充分に情報を得られれば、私たちの会の歩みを一気に解決されるでしょう。この報告は全て、勿論、スペイン語で書き、秘書として署名なさって下さいませ。あなたが当時の秘書だったのですから。お分かりになると思いますが、全てのことを自由におっしゃってよろしいのです。この報告は、既に申し上げましたように、枢機卿様に報告するためにだけ使われますので。そして、マドレ・プリシマがそちらに行かれますから、彼女がそれを訳されます。マドレ・プリシマは、覚えている資料や状況を提供してあなたの記憶を助けるために、明日あなたに手紙を書くと言っておられます・・・。」(56)

確かに、マドレ・プリシマは助けを申し出た。

  「神の御前でお考えになり、総長様に統治能力がないことを証明するために役立つと思われることを全て、その文書にお書きにならなければなりません。統治能力の無さは、良心に反することを提案なさるほどで、人をごまかし、用件を提案する相手にこれを強要し・・・」(57)

「いつもなさるように、意向を大切にして下さいませ〔・・・〕、これは愛徳のためです。〔・・・〕常に総長様の聖性を守り、能力の無さや能力の無さを知らないことを神が許されておられることを理由として下さい・・・」とマドレ・プリシマは書いている。この告発が「意向を大切にする」ための手段であると考えたとしても、これ以上の恥ずべき行為はない。
今回二人の間にはあまりにも距離があった。特にマドレ・プリシマの側からは。マリア・デル・カルメンの返事を受け取ると、彼女自身このことを悟った。「・・・ その文書をお送り出来ず残念に思っております。幾つか疑問が湧いてきましたし、私の記憶も確かではありませんので。お話しすることをためらっているわけではないのです。〔・・・〕たとえどんなに私の心が痛んでも、そうではなく、心が動揺し、何と言うか・・・」(58) マドレ・プリシマは再度依頼することはせず、穏やかな調子で返事を出した。「・・・ あなたからのお手紙を受け取りました。もっと早くお返事しなかったのは、私がお願いしたことに対して受けられた印象を知って、今はこのままにしておくほうが良いと判断したからです。神様におまかせ致します。」(59)
マリア・デル・カルメンの抵抗は誠実なものであったため、貴重な貢献をした。見かけは遠慮がちな対決であったが、実際には大きな効果をもたらした。かつての秘書が、マドレ・ピラールの望み、さらに当時最も高く評価していたマドレ・プリシマの望みにあえて逆らったのだから価値がある。何年か後に、マリア・デル・カルメンはその時のことを次のように語る。

  「そのような文書をつくることを、私はきっぱりとお断りし、その理由をマドレ・ピラールに申し上げました。理由の一つは、私の考えでは、マドレ・プリシマは、問題の進行に(公式にでなければ非公式に)非常に寄与した方で、手を引くべきではないと思ったからです。〔・・・〕総長様に統治する力がなく、良心に反することを提案される程になった等、そして事柄を提案した私にそのことを強要した等、等、とマドレ・プリシマがおっしゃるように表明することなど決して出来ませんでした。それは偽りでしたから・・・。」(60)

マドレ・ピラールは、彼女の妹によって行われ、7月17日に修道会内で公にされた権威の委任を受理していた。しかし、マドレ・サグラド・コラソンの言動を監視するために、総長補佐を二人ローマに送る考えを捨ててはいなかった。夏の間ずっとこの旅行を計画し、特に、枢機卿の反対なしに旅行が出来るように努力した。この時の助言者は、総長に対立する総長補佐達によって厚い信頼を得た、より具体的に言えば、マドレ・ピラールが彼に絶えず提示し続けた理由に強く影響され、それを信じきっていたウラブル師であった。「もし枢機卿様がこの旅行を良くないとお思いにならなければ、実現可能でしょう。彼に許可を願って、手紙をお書き下さい。」と、8月15日に書いている。他のことには慎重であった彼が、マドレ・サグラド・コラソンに向けられた批判を全面的に受け入れる過ちに陥ったことは明らかである。告発と有罪宣告の輪にひとたび入ると、総長の無能さを確証する文書資料探しを助けるほどになった。「・・・ 書簡や文書を持っていらっしゃるのは悪くないと思います。〔・・・〕しかし、もしそれらを使われたら、取り戻して自ら持ち帰るようにして下さい。いずれにしても、これらの書類は、枢機卿に対してでさえも、慎重に提示し、物事を明らかにするために用いるのです・・・。」この問題におけるウラブル師の盲目さを否定することは出来ないが、これらの悲しい介入において、彼が同じイエズス会の他の神父達(モリナ、セルメニョ、イダルゴ…)よりはるかに優れていたことは疑うことが出来ない。ウラブル師の行動は、節度が、多くの間違いをある程度減らし、救いさえすることを示すひとつの例である。
枢機卿は、ローマあるいはナポリで総長補佐を迎える考えを喜ばなかった。彼が言っているように、保護枢機卿の使命は、修道会の用件・問題が順調に運ばれるように助けることで、統治を引き受けることではなかったからである。「様々な理由で、総長補佐の方々をローマにお呼びすることが適当であるとは考えません。貴会のために出来るだけのことをするつもりでおりますが、私が統治を担当することは出来ないのです・・・。」(61) 総長補佐の旅行が実現されるためには、まだ数ヶ月が必要であった。

第3部 第6章 注

(1)  1892年3月14日の手紙。
(2)  同じ日付の手紙。
(3) 総長を指す
(4) 1892年3月20日以前に書かれた絵葉書。
(5) 1892年3月13日の手紙。
(6) 例えば、持参金として与えられたお金の使い道について、単純に説明し、サン・ベルナルドの家を借りる際に、総長補佐の一人に、借り賃の四分の一を隠したが、それは、悪気があったからではなく、彼女がとても心配していたからである、と言っている。そして、「後で、この過失によって、高い代償を支払うことになりました。お二人のイエズス会の神父様にこのことについて相談しましたところ、その時の私の意向の故に、過失ではなかったとおっしゃいましたが。」と解釈を加えている。この総長補佐はマドレ・マリア・デ・ラ・クルスであった。マドレ・サグラド・コラソンは、「彼女は非常に心配していた。」と言っているが、そこには少しの誇張もない。マリア・デ・ラ・クルスは多くの面において、視野の狭さと理解力の低さを示していた。具体的に、経済問題については理解能力に欠けていた。通常を超える出費について話されるのを聞くと、めまいがするかのような印象を受けた。
(7) 1892年4月18日の手紙。
(8) 1892年5月6日の手紙。
(9) 1892年5月10日。
(10) 1892年5月15日の注。
(11) 「Señora」という呼び名によって、皮肉なしに、総長に言及している。重要な人物のアイデンティティーを覆い隠すこれらの名称は、当時のあらゆる手紙に非常に頻繁に出ている。例を挙げれば、べレス師は「Sr. Vélez」あるいは「眼鏡の人」、ウラブル神父は「D. Santiago」又は「Oñaの紳士」、マドレ・サグラド・コラソンと マドレ・ピラールは、それぞれ「Rudesinda」「Leandra」等と呼ばれていた。
(13) 1892年5月18日の手紙。
(14) 1892年5月16日付け、べレス師への手紙。
(15) 1892年5月17日の手紙。
(16) 1892年5月17日の手紙。
(17) 1892年6月1日の手紙。
(18) 1892年6月8日の手紙。
(19) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、年代記、I、360-61ページ。
(20) 年代記、I、358ページ。
(21) 1891年の冬。マリア・デル・カルメン・アランダはビルバオの院長に任命されていた。
(22) 1892年6月13日の手紙。
(23) 1892年6月17日。
(24) 1892年6月17日の手紙。
(25) 1892年6月25日付け、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの手紙。
(26) マドレ・サグラド・コラソンが最も期待していた修道女の一人であるヘレスの院長
マドレ・マグダレナ・ロマンや マドレ・エレナ・メネンデス、また、マリア・デル・カルメン・アランダによれば「崇拝するほど総長様を愛していた」マドレ・マリア・マヌエラ・デル・サンティシモ・サクラメントは、この時期に、ローマに退いていた総長に、まったき信頼と深い悲しみの中で手紙を書いている。他の何人かの姉妹は、それ程頻繁ではないが、同様の愛を持って、手紙を送っていた。
(27) 悪い。
(28) 1892年6月25日付け、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの手紙。
(29) 1892年7月4日付け、マリア・デル・カルメン・アランダ宛。
(30) 1892年7月10日付け、マリア・デル・カルメン・アランダ宛。
(31) 1892年7月17日付け、マリア・デル・カルメン・アランダ宛。
(32) 1892年11月2日付け、マドレ・プリシマ宛。
(33) 1892年11月2日付け、マリア・デ・ラ・クルス宛。
(34) 「総長様の代わりに統治なさるにあたって、マドレ・ピラールは、会憲の定めに従って、つまり、総長補佐との協力の下に、権能を行使なさらなければなりません。他の方法での統治を許可することは、総長の権限内にはなく、私もその権限を持っておりません。」(べレス師のマドレ・ピラールへの手紙。1892年6月23日)。
(35) 1892年6月26日の手紙。
(36) 1892年6月28日の手紙。
(37) 1892年6月7日の手紙。
(38) 1892年7月7日の手紙。
(39) 6月12日付けでウラブル師がマドレ・プリシマに書いた手紙は、確かに枢機卿の
手紙に触れている。枢機卿についてのニュースは何もなかった、と言っているに もかかわらず。ウラブル師の手紙には次のように書かれている。「私は噂の全てを知ろうと耳を澄ましております。それで、善を成しえる方、もしあなた方に親しみを感じていなければ害をも与えうる方が、マドレ・ピラールは自分の判断で支配することを望み、助言を受け入れず、不服従の精神を表明し、さらに、総長補佐の助けなしに一人で統治したいのだ、と考えておられることを知りました。何ということが話されているのでしょう!神が私たちをお助け下さいますように!確かにこれは嘘です、私が全く間違っていなければ。しかし、あなたとマドレ・ピラールは、慎重謙虚に、慎み深く行動し、その行いによって、このような噂を消し去らなければなりません。〔・・・〕このようなことを聞くのは私にとって辛いことでした。私の心は悲しみに沈んでいます。」そして、もし可能なら、マドレ・ピラールに、「自分の考えを話し、提案する際に、皆から悪く解釈されることのないよう、益々慎重に、熟慮の後に行うように」何らかの方法で忠告するようにと手紙を続けている。
(40) 1892年6月29日の手紙。
(41) 1892年6月30日の手紙。
(42) 1892年7月12日の手紙。
(43) 1892年7月17日付け、マリア・デル・カルメン・アランダの手紙、
(44) 1893年4月20日の手紙。
(45) 1893年1月18日の手紙。
(46) 1893年1月20日の手紙。
(47) コルドバの修道院の日誌、38ページ。
(48) 1892年7月19日の手紙。
(49) ヘレス修道院の日誌、116ページ。
(50) 1892年7月24日の手紙。
(51) マドレ・アグアド、霊性の覚え書き、53ページ。
(52) 1892年7月25日の手紙。
(53) 1892年8月4日の手紙。
(54) 1893年1月20日付け、姉宛の手紙。
(55) 1892年7月13日付け、マドレ・プリシマ宛の手紙。
(56) 1892年8月19日付け、マリア・デル・カルメン・アランダ宛のマドレ・サン・ハビエルの手紙、
(57) 1892年8月21日。
(58) 1892年8月23日あるいは24日の手紙。
(59) 1892年8月26日付け、マリア・デル・カルメン宛のマドレ・プリシマの手紙、
(60)  マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅱ、70-71ページ。
(61)  1892年8月21日付のマドレ・ピラール宛の手紙。