第3部 第4章 「決定的年(1891)におけるドラマの主人公たち」

全ての手段が尽きて

1891年は聖心侍女修道会の歴史およびマドレ・サグラド・コラソンの個人的歴史にと
って決定的な年であったと言えよう。外見上は豊かな時期ではなかったが、この時期に統治における緊張が頂点に達し、解決策を見出せずに、初代総長の決定的な離別へと発展していくのである。次の二年間に起こった全てのことは、この年の単なる結果に過ぎない。問題の悪化に伴って態度が硬化したことを別にすれば、1891年には新しいことは何も起こらなかったと言うことも出来る。相互理解の欠如の結果として活動が麻痺状態にあったため、修道院や共同体では、普通の状況の下では容易に処理出来る様々な用件が数ヶ月にわたって滞っていた。ローマでは一軒の家を探して一年が経過し、サン・ホセ(マドリード)修道院廃止の決定にもほぼ一年が費やされた。時が経つにつれてマドレ・サグラド・コラソンは、総長職を辞任する決意を固めていったと思われる。状況を表面的に調べて得られる見解とは異なり、マドレ・サグラド・コラソンの計画に最も反対したのは、今度も彼女の姉であった。
1891年にマドレ・サグラド・コラソンには一連の「立派な外観の事業」があった。「立派な外観の事業」とは、彼女が、自分の努力および姉妹たちが自分の指導のもとで行った努力によって修道会内で達成された目標を総括して使った表現である。しかし、特に、マドレ・サグラド・コラソンは、評価したり認めたりすることの出来る事柄ではなく、心の深い内的な姿勢、彼女の一生に影響を与えたその姿勢に関して、神が自分に実際に何を望んでおられるのかについて明白な考えを持っていた。1890年に霊操を行った際に、それがはっきりと表れる文を霊的手記に記している。マドレ・サグラド・コラソンは、司令官イエスのために何かすることが出来る、「特にイエスを諸民族が礼拝するように顕示する」ことが出来ることを考えて「熱心さに溢れ、明るい気持ちで」霊操を終えた。彼女はこの霊操の間に、キリストが人びとに知られ愛されるように「出来る方法で、そして、もしそれが不可能であれば、祈りをもって」(1) 働きたいという大きな望みが自分のうちに増していくのを感じた。
霊操の終わりに神への奉献を更新した。「聖心の栄光に無条件に自分を捧げただけではなく、たとえ栄誉や命を失うことがあっても、主の聖なる恵みに助けられて、出来る限りより大いなる栄光を主に帰すことを申し出でお約束しました。」何時もと同様に、彼女の素晴らしい言葉は、日々の現実の中で勇敢に生きられていた。マドレ・サグラド・コラソンの栄誉と命は、様々な出来事がどのように展開するかにかかっていた。肉体的な死の危険があったわけではないが、物事の進み具合から、彼女の生涯に深く苦しみに満ちた方向転換があることが予想された。「キリストは死に際して、心臓は停まってもその愛は死ななかった〔・・・〕、私の望みである救霊熱を広めるために実際に何もすることが出来ない時は、主が私に教えて下さるように、祈ることと私に出来ることをそっと行うことで満足しよう・・・。」(2) これは私たちを驚かせる直感であり、やがて彼女を無活動へと導く出来事を前もって心静かに見つめ、予知している。
この年に起こった出来事は僅かであった。そのため、この章ではドラマ、マドレ・サグラド・コラソンの高貴な姿に常に包まれたドラマの主な登場人物がどのように変わっていくかを分析することにする。このドラマの中でマドレ・サグラド・コラソンは、修道会の平和と一致を切に望んでいる。しかし、このドラマには、マドレ・ピラール、総長補佐たちと総長秘書が重要な役割をもって登場し、友人である全てのイエズス会士も、人によって頻度に差はあるが、ドラマに介入する。もしある機会に、人間のあらゆる予測を超えた神の摂理、人間には理解出来ない神の考えについて話すべき時があるとすれば、これはまさにその時である。可能なあらゆる手段を用いても平和を回復し和解を実現することが出来ず、多くの人の誤りと無分別の故に生じたが、ほとんど誰もその主な責任者ではない混乱状態に光をあてることが出来なかった一人の人の苦悩を見て、私たちは圧倒される。このドラマには何人かの主人公と端役がいる。彼らの態度や行動を調べるにあたって、私たちは特別な憐れみを身にまとうべきである。彼らの誤りは――大きくとも、小さくとも――私たち人間が今も日々犯し苦しむ誤りと同じものであり、意識的な悪意によってよりもむしろ他者の考えや望みを直感的に理解出来ない私たち人間の果てしない限界によって生じたものである。たとえ常に可能ではないにしても、このように解釈しようと努める時にのみ、真の正義をもってこの人たちの行動を判断出来る。
このような考えは、途方もなく難しいと思われる多くの事実を冷静に見つめるための助けである。自分に対するあらゆる無理解を超えて常に理解しようと試みた女性を最高に評価することを可能にする。人間として彼女が自分の限界を体験し、たとえその限界によってある時他の人々が苦しめられたことがあったとしても。

「今は闇が力を振るっている時」

マドレ・ピラールが家を探してローマの町を歩き回っている間に、スペインではマドレ・サグラド・コラソンが総長を辞任する考えを日々固めていた。統治から全面的に身を引きたいという望みは彼女にとって新しいものではなかった。しかし、あらゆる種類の困難を体験した今、辞任するより他に解決はないと確信するに至ったのである。しかし、総長職に留まっている間、彼女は、自分の出来る限りをつくして修道会のために働き続けた。「僅かの望みさえない時でも病人のために祈るではありませんか。今この修道院はこのような状態にあります。でもまだ存在しているのです。閉鎖されるまでは望みがあります。祈らないわけがありません。」サン・ベルナルドの修道院についてマリア・デル・カルメン・アランダ にこのように言っていた。(3) この言葉のうちに見られる信頼の態度を、修道会におけるマドレ・サグラド・コラソンの状況にあてはめることが出来る。何故希望を持たないのか?何故戦い続けないのか?そして特に、何故祈らないのか?と、彼女は考えた。
総長を辞任する必要がますます明らかになった原因は、彼女の姉の反対だけではなかった。1890年の秋に行われた何回かの集まりで取られたあの攻撃的な態度が、再び総長補佐たちに戻って来たように思われた。その優柔不断なふるまいはマドレ・サグラド・コラソンに彼女たちに対する信頼を失わせた。「マリア・デル・カルメン、今は闇が力を振るっている時です。」と12月の終わりに書いている。不安と不確実さに満ちたこの痛々しい表現は、特に、総長補佐の精神的な混乱と感情的な不安定さに由来していた。マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・プリシマのことを非常に心配していた。「本当に神経質になっていらっしゃいます。いらいらされて [・・・]。もし神様が治して下さらなかったら、正気を失うか、いのちを失うかのどちらかでしょう。彼女の意向は本当に正しいのです、でも、そのためにこそ、自分と他の人たちに害を与えているのです。私と同様、このことに気付いている人はあるようですが。」(4) この手紙は何を言わんとしていたのだろうか。この時、マドレ・プリシマの精神的動揺の原因は、具体的には、イダルゴ師のある言葉の誤った解釈にあった。一般的に言えば、統治に責任を持つ人たちの間で信頼関係が失われたいために、疑いの目で見、中傷することが日々たやすく起こっていたのである。そして、多弁で、想像力豊かで、情緒があまり安定していない人たちがいた故に、この状態は極度に複雑なものとなった。マドレ・サグラド・コラソンがマドレ・マリア・デル・カルメンへの手紙の中ではっきり書いているように、マドレ・プリシマのこのような欠点は知られ始めてはいたものの、彼女の言うことは多くの人にとっては神託であり、その時の状況に解釈を加えることによって悪い影響を与えていた。この手紙の中で総長は、マドレ・プリシマの意向は非常に正しいものであったと言っている。しかし、彼女の中にどの程度まで意向の正しさがあったのか、どの点から情熱によって行動し始めたのかを識別することは、常に不可能であろう。
マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・プリシマを理解し、弁解しようと努めていた。しかし、その当時は既に、自分の行いや言葉についてのマドレ・プリシマの誤った解釈を防ぐ責任を感じていた。修道会をそのような状態に導いた様々な悪い行いを食い止めたいと願って、マドレ・マリア・デル・カルメンに次のような手紙を書いている。「マドレ、感情の激しい人、大げさな人、情熱的な人にならないようにして下さい。このような性格は良いものではありません。熱心で志操堅固な人になって下さい。でも柔和、謙遜で、物事の外見や言葉の美しさに惑わされることなくその本質を見つめ、見かけを捨てて、常にあらゆることを堅実に確実に行うことが大切です。」(5) マドレ・サグラド・コラソンは、自分の心配を統治に携わっていない人たちには決して話さなかった。しかし、マドレ・マリア・デル・カルメンの場合は別である。彼女は総長秘書であり、従って、顧問会の雰囲気をよく知っていた。サン・ベルナルド修道院の院長として、この修道院の問題を切実に感じており、それ故に、度々総長から内密な説明を受け取った。「この修道院の救いについて希望を失わないで下さい。心配せず、信仰をもって祈り続け、他の方たちにも、意向を言わずに、お祈りをお願いして下さい。この手紙のことやサン・ベルナルド修道院のことを、総長補佐の方たちには何もおっしゃらないでいただきたいのです〔・・・〕沈黙のうちに、私たちだけで祈りましょう[・・・] マドレ、審判の日にはどうなるでしょうか。訴訟に負ければ負けるほど、私は心の中に喜びと信頼を感じています。このことは内緒にして下さい。どうしてだか分りませんが、心配になる代わりに、心が広がるのを感じるのです。イエスへの愛によってお願い致します。〔・・・〕どうぞあなたの信仰を弱めないで下さい。もし何も獲得出来ないとしても、私たちが忍耐深いという証拠を神様にお見せすることになるのです。マドレ・プリシマが近いうちにそちらの修道院にいらっしゃいます。たぶん明日になるでしょう。彼女とは様々な問題に触れないで下さい。もし彼女の方から話したら、妥協して下さい・・・。」(6)
総長は、会員を一層養成することが急務であると感じ始めた。養成が足りないために、修道会に重大な誤りが生じたと考えたのである。しかし、霊的・人間的側面において、会員の一般的な養成について嘆く理由は実際にはなかった。その当時の宗教的雰囲気のレベルと比べれば、本会のレベルは高かった(この本の中でここまでに見た多くのテキストの文学的表現や内容が、このことを示している)。しかし、統治に関する事柄において、今まさに劇的と言えるほど問題になっている無知が、マドレ・サグラド・コラソンには心配だった。具体的には、院長も姉妹も皆が一緒になって協力するにあたって、自分たち固有の義務は何なのかを各会員が知る必要があると考えた。そして、これはもっともなことであった。このテーマについては、同じ頃、マドレ・マリア・デル・カルメンに話し、若い姉妹たちに出来るだけ教えるようにと依頼している。

  「・・・ 顧問や勧告役の義務を彼女たちの心に刻み、全ての係りについて説明して下さい。姉妹皆の中に堅固な礎を築くことが出来ると良いのですが。過ちが犯されたのは、このような土台に欠けており、これを教えることの出来る人がいないためです。院長や姉妹に対する尊敬について良く説明して下さい。院長や姉妹の中に過ちを見出すのは悪いことではありませんが、だからと言って、その方たちに対する尊敬を失ってはなりません。又、尊敬によってそれらの欠点が見えなくなるべきでもありません。修道会および過ちを犯した方たちを愛し、心からの愛徳をもって欠点を勧告役に注意し、もし過ちが直らないならば、上級上長者におしゃって下さい。恨みや嫌悪によってではなく、その方たちへの愛と修道会の善のためになさって下さい。」(7)

ある問題について顧問会のメンバーの間に困難が生じると、マドレ・サグラド・コラソンは、それが自分の無能さのためではないかと考えた。彼女は非常に謙遜な人であった。しかし、総長補佐がこれほど疑い深いのは、彼女たちの心の中にたくみに入り込んだうぬぼれのためではないかと信じざるを得なかった。当時の混乱の中にあって、非常に悲しいことではあったが、ある種の思い上がりの罪が雰囲気の中に感じ取られた。マドレ・サグラド・コラソンは、自分は無力だと感じていた。これは彼女にとって新しいことではなかった。自分を高く評価したことも、思い上がることも決してなかった。しかし、自分でも驚いたことに、姉妹たちが彼女を信頼し、非常に尊敬しているは、時の経過とともに明らかになっていた。彼女に対する修道会の素朴な姉妹の愛はまだ失われていなかったが、総長補佐の不信頼は他の人々の間にも広がっているようであった。マドレ・サグラド・コラソンにはそう思われた。筋の通った彼女の推論が、その行動や統治に関連した出来事についてのコメントに現れている。例えば、その年の12月26日に家庭奉仕修道会の創立者マドレ・ビセンタ・マリア・ロペス・ビクニャが亡くなった。その会の姉妹に囲まれ、皆の崇敬に包まれての帰天であった。このことをマドレ・マリア・デル・カルメンに伝えるにあたってマドレ・サグラド・コラソンは、「・・・ 昨日2時にマドレ・ビセンタがお亡くなりになりました。マドレ・マリア・テレサに手紙をお書き下さい。もし私のような者があちらの会の創立者でしたら、本当にお気の毒ですが。彼女たちを忘れることは出来ません。」(8) この同じ手紙の中で自分の修道会についてのコメントを伝えながら次のように書いている。「・・・ 不安は感じていませんが、つらく悲しい気持ちになっております[・・・] 本会の上層部の人たちの中には傲慢な精神が多分にあります。神様以外にこれを解決出来る方はいらっしゃいません。 [・・・] 将来いつか私たち皆がはっきりと分かる日が来るよう願っております。このこと全ての責任者である悪魔、特有な精神のマントを身に着け、神の栄光を妬む悪魔を本当に遠くに追い払いましょう。」

「残念なのは、何を望んでいらっしゃるのか分からず、お喜ばせすることが出来ないことです。」

1891年の最初の何ヶ月かの間に、マドレ・サグラド・コラソンは姉の信頼を得るために非常な努力をした。姉の全ての苦情は経済的状況に関するものであったため、2月には次のように手紙に書いている。「修道会の経済状況についての目録がすぐにお姉様のお手元に着くと思います。ヘスサのあの残ったお金と今日以後入るお金で、既に使った持参金を埋め合わせ、何年かは収入が支出に見合うかどうか調べて見て下さい。お姉様のお考えを知るまでは、このことはまだどのマドレにもお話し致しません。これを実現するためには、入会許可を行うにあたって注意深くする必要があるでしょう。」(9) マドレ・ピラールを喜ばせる意向であったことは明らかである。しかし、この意向がもっと明らかに表れている文もある。この文を書いた人の深い謙遜に裏付けられていなければ、偽りだと言うことも出来るような文であるが。「どうぞお気持ちを悪くなさらないで下さい。私たちの主は、痛悔するものには憐れみ深い方です。ですから、心配なさらずにお返事を下さいませ。」
マドレ・サグラド・コラソンの以前の行動には何か痛悔すべきことが実際にあったのだろうか。1890年1月25日に行われた総顧問会の議事録の内容を、複雑な説明を探すことなく見てみよう。「修道会を庇うことは出来ない。なぜなら、その財産管理が知られた時には、誰か修道会をかくまう人が必要だ、等」と考えていたマドレ・ピラールの非難に対して、総長補佐たちは、何人かの姉妹の資産が確実に期待出来る上に、「修道会はまだ一軒の別荘も手放していないことに〔マドレ・ピラールは〕気付くべきだ」と答えている。その時まではあらゆる支出を保証する資産があったのである。これらの支出が適当なものであったかどうかについて意見を述べることは出来るであろう。しかし、正義において疑うことが出来ないのは、全ての支出が総長補佐の同意のもとに行われたことである。総長補佐がそう言っており、前記の議事録にもそのように記されている。
着くはずの目録は何日か後にローマに届いていた。「会計の状態は見るのも恐ろしい程です。」と、2月27日にマドレ・ピラールは書いている。「私は、あなたも他の方々も苦しめたくありません。でも、家族(修道会)は大変動と大スキャンダルに直面しています。」
望んでいることを分かる恵みを主が下さるように祈って欲しいとマドレ・サグラド・コラソンは依頼していたが、これはもっともなことであった。望みを当てることは、彼女には不可能であった。善意をもってなされたマドレ・サグラド・コラソンの決定は、同じ善意をもって受け入れられるべきであった。しかし、真の悲劇は、皆が自分たちは正しい行動をしていると確信していることだと、マドレ・サグラド・コラソンは度々感じた。この判断力の欠如の中にある生涯最大の十字架を見つめて、マドレ・カルメン・アランダに書いている。

  「物事に的確に対処出来る恵みを私のためにお祈り下さい[・・・]、私に対する敬意に欠けていたという理由でどなたも責めてはおりません。混乱は、皆の正しい意向の中にあるのです。ですから、神様が私たちに望んでおられるのは祈ることです。あなたのことも他の誰のことも悪く思ってはおりません。残念なのは、私が的確に対処出来ず、お喜ばせすることが出来ないことです。心配せずに祈り、より良い日が来るのを待ちましょう。その日はもう近づいていると思います。その時には、主が寛大にお与え下さったこれらの試みを喜んで受けなかったことが悔やまれるでしょう。私は主に感じるままにお話いたしますが、あまり力がないので、主は注意深く私を取り扱われます。もし寛大であれば、他のなさりかたをされるでしょうが。」(10)

この手紙の文の内容を少し変えて、実際に起こったことを判断する必要がある。マドレ・サグラド・コラソンがこのことに関して受けた試みは、彼女の非常な寛大さと、主を愛し人々を愛し赦すためのほとんど限りを知らない力によってのみ説明出来るものであった。

この年の2月中旬に、創立者姉妹の姪でラ・コルーニャの学校の生徒であったイサベル・ポラスが重病になった。彼女は当時15歳の少女で、それまでの生涯の大部分の年月を叔母たちの傍らで過ごした。幼少時に母を亡くしたから、彼女の家族は聖心侍女、そして当然のことながら、特にマドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールであった。マドレ・ピラールはローマに滞在していたため、総長は即座にラ・コルーニャに向けて出発した。「イサベルが肺炎になったので、ここに来ております。でも、お蔭様で、もう良くなっております。身体はまだとても弱いですが。」と2月15日の姉への手紙に書いている。イサベルについて話すことは、マドレ・サグラド・コラソンにとっては、間接的かつ慎重にマドレ・ピラールを誉める良い機会であった。「イサベルは皆に愛されるタイプの子供です。ラ・コルーニャの人たちが皆一緒になってどれ程彼女のことに関心を持ったか想像がお出来にならないでしょう。お姉様の場合と同様です。ここの方たちはお姉様のことを忘れず、お会いすることを本当に楽しみにしていらっしゃいます。エルバダのご主人が昨日私に会いにいらっしゃいました。もうひとりのマドレ・ピラールに会ったとお思いになったのですが、実は私に会われたのです。何ということでしょう!皆様からお姉様によろしくとのことです。」と、手紙に書いている。

「素朴な精神が私の心を奪います」

前述の文に見られる称賛にもかかわらず、ラ・コルーニャの院長は、自分の不在中に総長が修道院を訪れたことを良く思わなかったに違いない。しかし、この修道院は総長の訪問を必要としていた。この訪問をするにあたってマドレ・サグラド・コラソン は、理解し対話する資質、そしてある姉妹たちには忍耐力を示した。
「ここの姉妹たちは、何人も身体が弱っています。[・・・] フェルナンダは、私が面倒を見ることにしました。病気だからです。彼女が元気になるのを見るまでここを去らないかも知れません。もしも何か起こったら、本当に悲しいことですから。」(11) マドレ・サグラド・コラソンは、学校で教えている姉妹たちの健康を守るためにラ・コルーニャに留まることを考えた。「心の中にあることを話すことが、彼女たちには必要なのです。とても孤独に感じていますから。」というのもその理由であった。このことをマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書き、次のように付け加えている。「少なくとも一ヶ月そちらには戻れないと思います。」(12) ラ・コルーニャには変えなければならないことが多くあったに違いない。その上、マドレ・ピラールの不在が長引くことが分かっていた。それにもかかわらず、マドレ・サグラド・コラソンは、自分の存在によって姉妹を励まし、教育に携わる彼女たちの生活条件を改良し、共同体と修道院を刷新するために適当と思われる解決策を姉に手紙で提案するにとどまった。
マドレ・マリア・デ・ラ・クルスに次のように書いている。「他の所にいる時と同じように、ここにおります。マドリードにいた時のように、そしてこれからもそこにいるように、心穏やかに、喜びを持って。素朴な精神が私の心を奪います。[・・・] 私たちの修道院にある精神です。私は、これを修道生活の精神だと思います。顧問会の教師然としたそれは、私の心を刺し貫きます。このことを分かって下さるか、自分のことがお分かりになると良いのですが。そうすれば、随分違うでしょうから。」(13) マドレ・サグラド・コラソンがラ・コルーニャでの生活に満足していたことは、マドレ・プリシマからの手紙の中にも見られる。「お手紙を受け取りました。その修道院に良い結果をもたらされたこと、又良い方たちであるあの姉妹たちの中であなたが喜んでいらっしゃるのを見て嬉しく思っております。きっと彼女たちもあなたと共にいて同様の体験をしていることでしょう。あなたのことを愛していますし、寂しく感じていたでしょうから。」(14)
しかし、ラ・コルーニャの訪問はそれ程容易なものではなかった。共同体の何人かの姉妹の精神状態のために、度々上手に振舞わなければならなかった。「カルロタは、肉体と精神の健康のためにもっと休まなければならないと思います。」と、マドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている。(15) カルロタは、学校の校長で、マドレ・ピラールを非常に愛しており、マドレ・ピラールもこの愛に応えていた。カルロタの気質上の限界として (16)、精神的に不安定であることを知ってはいたが。この訪問の間にカルロタがマドレ・サグラド・コラソンに対して取った態度の重大さは、この精神状態を考えると緩和される。カルロタはいつもの彼女らしい反応を示した。神経質になり、緊張状態の時には単に頑固で冷淡になるだけではなく、不愉快な感じをも与えた。学校の校長になるほどの素晴らしい教育を受けていたにもかかわらず。
マドレ・サグラド・コラソンがラ・コルーニャに行ったのは、彼女の姪が病気になったからである。イサベルの健康が明らかに回復し始めると、マドレ・サグラド・コラソンは姪のピアノを聴くことを望んだ。その時イサベルは、病気になった時に移された修道院の禁域内のある部屋にいた。当然のことながらピアノは学校にあった。マドレ・カルロタは、時々取る奇異な行動の一つとして、総長とその姪がそのごく普通の望みを満足させるために学校に入ることを拒否した。確かにマドレ・サグラド・コラソンには、このような不合理な主張を無視して行動することが出来た、と述べる必要はないであろう。ある姉妹たちは怒って、ピアノを禁域に持ち込もうとさえしたことも付け加えたい。しかしマドレ・サグラド・コラソンは、姪のピアノを聴かないほうが良い、と言ってこの提案の実行を許さなかった。
この資料および他の同じような資料によって、マドレ・サグラド・コラソンの伝記の中では、このラ・コルーニャへの訪問が彼女にとって大変な仕事であり、共同体は従属を生きず修道精神に欠けていたかのごとく書かれている。しかし、マドレ・サグラド・コラソンはそのようには考えなかった。その時の状態を改善するために幾つかの対策を提案したことは確かであるが、共同体全体と、又特に共同体のある人を大いに賞賛した。使徒活動に携わる姉妹の大部分がそのために十分に準備されていなかったため、特別な配慮が必要であると感じていた。この修道院の生活を良くするに当たって、実際の経験を忘れた精神主義に陥らなかった。姉妹たちの食事をもっと良くし、必要な睡眠時間が取れるよう心配し、これが実行に移されるように細かいことにも心を配った。「フェルナンダとロレトは良くなってきています。皆が元気になるように計らっております。体が弱っていますので。ビジタシオンには、硬いパンではなくその日のパンを出すようにと申しました。硬くて食べられないほどでしたから。[・・・]この方は仕事が本当によく出来ます。外の方たちに対しては申し分ありません。でも、姉妹に対する態度はもっと良くならないと。皆の仕事をどのようにして軽くするか、病気にならないようにどのように健康を維持するかについてほとんど考えず、彼女たちが決まった時間に食事が出来るようにし、非常に疲れている人たちを休ませる等の配慮がないのです。もう全て申し上げました。きっとお姉様もそうなさったように。すこし良くなるでしょうと思っております。」(17)
マドレ・サグラド・コラソンは、非常に慎重に、人事や学校の仕事に関する変更を意味する決定は行わなかった。その修道院における マドレ・ピラールの権限を尊重して、彼女がローマから帰った時に行ったら良いと思われるある人事異動を提案した。「〔カルロタに〕会計係をやめてもらう必要があります。代わりにルトガルダが出来るでしょう。多くの仕事を持っているわけではありませんから。私はルトガルダとサンタが好きです。他のことは後日申し上げます。上のことについてはまだ何も言っておりませんし、何もしておりません。[[・・・] 私が帰ってから、もし良いとお思いになりましたら、そうなさって下さいませ。」この手紙から分かるのは、共同生活の中にある一定の過ちを直すためには、単に道徳的、禁欲的に考えた手段が常に要求されるわけではない、各自の持つ最も優れた点を伸ばせるよう助けながら、過ちの根源まで行くことが必要であると、マドレ・サグラド・コラソンが理解していたことである。
3月の初旬に、総長と秘書はビルバオの修道院を訪れた。マドレ・マリア・デル・カルメンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスにその時の印象を書いている。「・・・ この修道院はうまく行っています。これは本当です。そして、ラ・コルーニャの修道院の状態は良くありません。私は率直にそう思っています。ラ・コルーニャには過度の活動があるのです。姉妹たちは明るく、規則を遵守し、皆犠牲を払ってするべきことをしています。でも一般に、内的生活に欠けているのです。あそこは永遠の応接室です。朝の8時半から夜の7時まで訪問客が出入りしています。ある姉妹たちはとても良くない態度でマドレをお迎えしました。でもマドレは非常に賢明でした。これは正真正銘の事実です・・・。」(19) マリア・デル・カルメン・アランダの用いた表現「正真正銘の事実」は、この手紙の中でラ・コルーニャの共同体についてなされる判断には現れない無限のニュアンスを含んでいる可能性がある。マリア・デル・カルメン・アランダは、「内的生活」をどのように理解していたのだろうか。使徒活動に特別に従事した修道院において、共同体とは関係のない人たちの訪問や彼らとの接触をどのように評価していたのだろうか。これらの点について考察すれば、相当の時間がかかるであろう。ここではこのような考察をすることを提案するにとどめよう。
この頃マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・プリシマに一通の手紙を書いた。この手紙はラ・コルーニャの訪問における彼女の体験の要約とも言える(この手紙を書いた時、マドレ・サグラド・コラソンはまだラ・コルーニャに滞在していた)。

  「・・・ 素朴な精神が私の心を奪い、人間的な知恵は私を混乱させます。今日、この大変謙遜で素直な姉妹とともに、はっきり申し上げることの出来ることは、私が注意を与え、考えを述べ、皆も完全な自由を持って私にそのようにしていても、私は皆のことを大切にし、胸は喜びに溢れているということです。彼女たちも私に対して同様であり、苦々しさや辛辣さなどはありません。皆が一つになって真剣に神の栄光と会の善のみを望み、そのためには生命さえも捧げる用意があります。見せびらかすこともなく、又何もしないと見られることを望むこともなく、全ては謙遜に行われ話されております。謙遜は何と美しいことでしょう。それにひきかえ、高慢は、目に見える高慢だけでも何と醜いことでしょう。こう申し上げることによって、欠点が見えないと言っているのではありません。欠点はありますし、たくさんあります。主としてある姉妹たちのためには必要なので私はここにおります。でも欠点は副次的なもので、非常に重要で危険なものではありません。」(20)

マドレ・サグラド・コラソンは素晴らしい。副次的で重要ではないと彼女が判断する欠点、しかし正に彼女に対して非好意的な態度として表された欠点、を持っている人たちを、並外れた客観性をもって肯定的に評価することが出来た。上の手紙の中では、誤って誇張された謙虚さによって現実がゆがめられていると信じるための確かな理由はない。すなわち、前述の文の中でマドレ・サグラド・コラソンは、ラ・コルーニャで受けたひどい侮辱を隠そうとしていると考える必要はない。この場合、彼女の行動の素晴らしさは、最高の価値基準を単純さと真正さに置いて、重要でない事を重要でない事として正しく評価した点にある。
ラ・コルーニャではいくつかの成功もあった。マドレ・サグラド・コラソンは聖性を生きているという意見を一層強くした人がいたのである。この頃には、修道会の多くの姉妹がこのことを真に信じていた。ある姉妹は彼女の賢明さに感嘆していた。後悔に似た感情を経験している姉妹もいた。これらの出来事が起こって何日か後に、マドレ・ピラールは彼女の妹に、何度か妹を軽視したあの気の毒なカルロタの反応について手紙に書いている。「あなたがラ・コルーニャにいらした時にあなたに対して取った態度を悔やんで私に書いてきた手紙をもしご覧になったら!もう既にあった手紙の束と一緒に焼いてしまったのでお送りしませんが、『私は病気になるほど闘いました。そして今は病気なのです。私の頭にはいったい何があるのでしょう。こうあるべきだと私が考えても、頭がそのようにさせてくれないのです。』と言っていました。あなたが彼女にお取りになった態度を褒め、だからこそなお、その配慮に対する自分の対応を悔いていました。」(21)
ラ・コルーニャにおける行動がいかに控え目で慎重なものであったとしても、マドレ・ピラールに良く思われなかったことに、総長はすぐに気付いた。マドレ・ピラールが彼女に宛てた手紙にそれは現れていた。手紙の中でマドレ・ピラールは、確かに正常な調子でではあるが、ラ・コルーニャの状況についてのマドレ・サグラド・コラソンの意見に反論している。ラ・コルーニャの修道院を軌道に乗せるにあたってマドレ・ピラールには幾つかのプロジェクトがあった。「・・・ 私が考え、そしてそれが失敗に終わることを私たちの主である神が許された解決案については、もし私が一人であの修道院に係われば救えるのではないかと僅かの希望を抱いております。一人でと申しましたが、困難を克服し、姉妹たちと共に学校を運営して来た私が、あの難しい状況をどのようにして最低の悪で統御するかを理解しているからです。」(22) 確かにマドレ・ピラールには学校に関しての経験が少しあった。しかし、彼女だけで学校を統治出来るということはない。その上まだローマにいたのである。もし他の人たちの介入があれば、ラ・コルーニャのことには係わらない一層固い決心をマドレ・ピラール はマドレ・マリア・デル・カルメン宛ての手紙の中で表明している。おそらくマドレ・サグラド・コラソンもこの手紙の内容を知っていたと思われる。手紙の中でマドレ・ピラールは、「私が、勿論それぞれの姉妹の性格を基にして、達成しようとしている一致、平和、愛が再び戻らないならば、他の時にしたと同様に、私の仲介を差し控えます。」(23) 当然のことながら、ここで話されているのはラ・コルーニャの共同体の平和、愛、一致である。マドレ・サグラド・コラソンの訪問が、この共同体の平和、愛、一致をたとえ僅かでも破る機会になったと考えることは、あまりにも正義に反している。

「平和のために、いのちを与えるつもりです。」

この年の2月に、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、修道院と聖堂の問題を理解するために、総長の代理としてサラゴサに行った。マドリードに戻ると問題の件についてマドレ・ピラールに手紙を書いた。マドレ・ピラールは2月22日にマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに返事をし、修道会の歩みに関して感じていた苦しみの全てを述べている。「・・・本当ならこれ以上誰にも手紙を書く必要がなければ良いのですが。書いても無駄ですので、努力して書くのが嫌になります。」彼女は修道会の状態を非常に危険なものと考えていたが、この手紙の中で、このような状態を3人の総長補佐の責任にしている。「悪に加勢しなかった、さらに、共犯者でなかったと弁解することがお出来になるのでしょうか。」つまるところマドレ・サグラド・コラソンに向けられたこの辛辣な叱責は、おそらく総長秘書のマリア・デル・カルメン・アランダを通して、様々な形でマドレ・サグラド・コラソンの耳に届いた。この件あるいはそれと似た他の問題に関連して、マリア・デル・カルメン・アランダは総長補佐の不平をマドレ・サグラド・コラソンに伝えた。「総長様は非常に忍耐深く私の言うことをお聞きになりました。その時以来、本当に熱心に祈っていらっしゃいます。」(24) とマリア・デル・カルメンはマリア・で・ラ・クルスに書いている。これらの会話に現われるのは、一人きりになり、心の静けさは保っていても、想像出来ないほど苦しんでいる一人の人である。
このような状況の中で、様々な障害が大波のように襲い掛かり、日に日に視界が閉じられていくのを見て、マドレ・サグラド・コラソン はマドレ・ピラールに苦しみに満ちた手紙を送った。この手紙の中でマドレ・サグラド・コラソンは、自分のあらゆる責任を負うために充分で余るほどの威厳を示している。

  「サラゴサの問題で総長補佐の方たちを責めないで下さいませ。私だけをお責め下さい。そして、全ての苦みや罰は私に向けられますように。私の誤りですのでイダルゴ師のせいにもなさらないで下さい。[・・・] 誓いますが、全ては私が良いと思ってしたことなのです。私だけ、本当に私だけをお責めになるべきで、総長補佐の方たちのせいにすらなさらないで下さい。[・・・] そして、キリストへの愛によって、私の全てをお赦し下さるようお願い致します。私を修道者聖省に訴える許可をあなたに与えます。修道者聖省は、誤りに価する償いを私に下さるでしょう。私は平和のために命を与えるつもりです。」(25)

「平和のためにいのちを与える」。マドレ・サグラド・コラソンは若い頃からこれを実行して来た。しかし、自分が、修道会の統治において感じられる内的不安の責任者であると信じるのは不可能であった。それゆえ彼女は「私のゆえに失われた」平和については話さず、「私のゆえに」と言っている。会の中で一致のしるしになるという卓越した使命が自分に委ねられていることをマドレ・サグラド・コラソンがどれほど意識していたかを理解しなかったなら、どのような犠牲を払ってでも再び一致を築くために努力し続けるのは、狂気じみて、無駄なことだと思われるであろう。修道会とその一人ひとりのメンバーに対するマドレ・サグラド・コラソンの愛、その並外れた愛の思いは、彼女の言葉に表れ、謙虚な態度に示されていたが、会員たちを虚偽や品位の欠如の危険から救ったのは正にこの愛である。「私は、神や人に不快な思いをさせないようにしております、そして、正しく判断して、誤りを繰り返すことのないように主に祈っております。と申しますのは、イダルゴ師や会の姉妹たちのように罪のない方々がその代価を払っているように感じるからです。」兄弟が一致して働く美しく快い光景を再現することが出来るのだろうか。この手紙を書いた時に、総長の心には詩編133が浮かんでいたに違いない。「全てを忘れて、このような不快な思いをせずに、皆が姉妹として、この会の中で働き続けるほうが良いのではないでしょうか。このようなことをしていると、お互いを駄目にするか、あるいは会を破壊してしまいます。神様はこのことで私たちに責任を問われるかもしれません・・・。」(26)
何日か後に、非常に冷静に書かれたある手紙の中で、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに会の総長統治から退く計画を提案した。疑いもなく、この手紙は前の手紙よりも慎重に考えて書かれている。

  「あなたと他の総長補佐たちが私に対してどのような状態にあるかを、あなたは、私と同様に、ご存知です。私は平和を望んでおります。私たちは平和を求めてここにまいりました。会の平和、善を願って私がしようと望む総長職の放棄について、書面を持ってあなたのお考えをお知らせ下さいませ。外見上は平和があるようです。でも私は修道会を導くことが出来る状態にはありません。枢機卿様は、そちらの家を買う時に私がローマに行くことをお望みですし、あなたもそのように考えていらっしゃるようですので、この家のためにローマに行く時に、修道者聖省において、私の辞任の件を出来る限り慎重に、修道会の面目が保たれるように、取り扱いましょう。ですから、お出来になる時に、私がお願いした意見をお送り下さい。私は総長になるべきではありませんでした。でも、主がこれをお許しになったのですから、忍耐し、全ての人にとって最も穏やかな形で事が解決するよう出来るだけのことを致しましょう。」(27)

マドレ・ピラールはこの手紙に返事を出した。しかし、この手紙の中で言っているように、最初はこの件に関与しないことを考えた。「もしあなたが誠意をもってお話になり、これほど多くの苦しみを解決するために同じ誠意を持って私が意見を述べることをお望みになるのでしたら、三人の総長補佐の方々と一緒にビルバオにいらっしゃり、一人ひとり個別にムルサバル師か ウラブル師に考えを話すより他に方法はないと申し上げます。あなたがムルサバル師、あるいはこのお二人の神父様を高く評価していらっしゃるのを知っておりますから。全てを、あらゆることを今お話しするのです。解釈抜きに、はっきりと。苦悩や対立等だけではなく、私たちの家族の現在の状況を申し上げるのです。」(28) これは前年の1月にした提案と同じである。相談を受ける人たちの賢明さ、および統治における困難に関して姉妹たちに対して取った慎重さを理由に、マドレ・ピラールは、修道会内外において、全てを表に出さずにすむと確言していた。少なくとも、姉妹たちに統治上の難しさを知らせることにおいて慎重であったことは確かである。
5月20日の手紙の中でマドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに、彼女を律宗者聖省に訴えることすら出来るし、平和を取り戻すためであればそれでもかまわないと言っていた。マドレ・ピラールはこれに答えて「・・・ とんでもない。神がその愛によって、今実際にあることから逃れさせて下さいますように。私は司教律宗者聖省のことを言っているのです。あなたのためでも特別な人のためでもなく、私たちの家族のためにそう願います。もし聖省にこの件を依頼すれば、尊き御血の修道会の姉妹たちに起こったと同じことが起こるでしょう。彼女たちの会はその影すら残らないほどになってしまいました。それに加えて、服従、本当にひどい隷属を課されたのです。」(29) 家族とは、当然、修道会のことである。マドレ・ピラールはほとんど常に会をこのように呼んだ。マドレ・ピラールが会に絶えず抱いていた愛と会に対して感じていた責任感を意味深く表す呼び方である。彼女の会に対する責任意識は過剰で、正道を踏み外すことすらあった。しかし、評価するにあたって、これらの不幸な出来事における彼女の介入を忘れることも否定することも出来ない。
「どうぞお願い致します。遅れることなくすぐにこれから申し上げることをなさって下さい。――とマドレ・ピラールは彼女の妹に忠告している―― 第一に、もし考え始められれば、実行なさらないでしょう。第二にこれは緊急なことです。他の様々な予感に加えて、このことがおのずと明らかになるためには、総会が開催され、この総会の司会はどうしても一人の代理の方でなければならないのです(これは免除されません)。このことが計り知れないほど重大であることを分かっていただきたいのです。一方、私は、あなたの責任を考え、あなたのことを裁いたり弁解したりすることなく――このことは誓いません。私が誓わなくとも、本当のことを言っているのを信じていただけると思いますので――、いつもあなたのことを心に留めております。ですから、申し上げることをなさるようにお願い致します。以前にも何回か言ったことを繰り返します。私たち自身の霊魂の善のために度々意見を求めるのでしたら、自分だけでなく他の方たちの責任も持っている私たちには、いったい何をする義務があるのでしょうか」。(30)
前述の幾つかの段落には、これまでの数ヶ月間に度々取られ翌年にも繰り返されるマドレ・ピラールの妹に対する強制的な姿勢が明白に見られる。彼女の主張の中では、非常に危険なことが起こり、修道会全体が実際に破局に陥るという考えが強調されている。さし迫ったものとして語られているこれらの悪の前兆が、マドレ・ピラールの言葉を脅迫的なものにしている。そして、マドレ・ピラールによれば、修道会の破産は多くの人たちの修道召命の喪失に繋がるのであるから、そうなるのも当然であろう。
これら全てのことを終末論のジャンルの枠組みの中に入れることは可能であろう。しかし、これに関して冷静な分析をすることは、その時代から現在までのように多くの歳月の差がある時にのみ可能である。マドレ・ピラールの言葉を聞き、読んだ同時代の人たちは、その言葉に驚いた。マドレ・サグラド・コラソンも強い印象を受けたとしてもおかしくはない。特に破局の責任者として自分が訴えられているのを見て。
二人の創立者の手紙のやり取りの中で驚かされるのは、今私たちが解釈した手紙の他にも余り重要でない手紙を書き続けていたということである。両者を苦しめていた理解に関する非常に難しい問題は、――程度は異なり、ニュアンスも様々ではあったが――。
生活の他の側面に関心を持つ余裕を二人から奪うことはなかった。マドレ・サグラド・コラソンとマドレ・ピラールは、ほとんど一週間に一回文通して家族のあらゆるニュースを伝え合い、細かい様々なことを互いに相談し合っていた。さらに、種々の事柄や人についての意見も交わし合ったが、これらのことについては一度のみならず同じ考えを持っていた。勿論、修道会の召命に関連するテーマについては基本的な考え方の相違が表明されたことはなかった。

マドレ・ピラール 「私のために心からお祈り下さい。私は本当に祈りを必要としております」

この頃マドレ・ピラールは以前にも増して修道会の問題から離れていた。ラ・コルーニャの修道院が創立されて以来、この修道院は彼女の不快感が閉じ込められた象牙の塔であった。彼女が叱責の燃える投げ槍を放った砦とも言える。1890年の12月から孤立は深まった。ローマはスペインから非常に遠かった。
マドレ・ピラールの精神的な孤独は深いものであった。1890年の9月には何日か他の総長補佐と心の一致を感じることが出来、彼女が必要であると考えていた修道会の財産管理の改革を始めるために、総長補佐の支持を得られると考えた。総長補佐とのこの一致は、当然、マドレ・サグラド・コラソンの統治に対する反対が一層強く表明されたことを意味していた。マドレ・ピラールはその時ローマにあって、再び一人であった。この頃にマドレ・マリア・デ・ラ・クルス、マドレ・サン・ハビエル、マドレ・プリシマに書いた手紙はこのことをはっきりと表している。「私はあなたのことを怒っておりませんし、誰をも怒る資格がありません。でも、今日、そしていつも、何年も前から、この世の人皆が私の苦しみの原因となっております [・・・] 私は苦しい隷属状態を体験しています。そして、様々な計画の実施に参加し、皆様に良い顔を向け、誰をも不快にさせない努力をするのが辛いのです。主がこれらの事を理由に私に罰をお与えになりませんように。」とマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書いている。(31)「悪に対抗するにあたって、皆様はもう私の信頼に価しないということを知らないでいただきたくないのです。――とマドレ・プリシマへの手紙の中で言っている――ですから、皆様は私の道をはずさせ、以前のように、私自身説明の出来ない苦しみに陥らせました。神は非難なさらないと思いますが。」(32) マドレ・ピラールは自ら取った態度に閉じこもっていた。その苦しみは確かにマドレ・サグラド・コラソンの苦しみと同様に大きいものであったが、それ程潔白ではなかった。マドレ・カルメン・アランダに次のように書いている。

  「私は生きるのが辛く、誰に対しても苦い気持ちを味わっております。たとえこの状態を説明しようとしても、説明出来ないでしょう。神である主がお与え下さった十字架だと思っております。でも、この十字架を良い態度でお受けせず、危険な状態におりますので、どうぞ私のために主にお祈り下さい。あなたが私を愛していらっしゃることを知っております。ですから、主が、歩むべきだと私が感じている道――滅びの道でなければですが――を選び取って、私を罰せられないように祈って下さい。そして、それが不可能ならば、この道に強く私を駆り立てていただきたいのです。私自身を救う以上のことをしたいと願っておりますから。この望みによってもたらされることを考えると恐ろしくなりますが。どうぞ私のために心からお祈り下さい。私は本当に祈りを必要としております・・・。」(33)

マドレ・ピラールは、自分は良心に従って行動しているという確信を持っていた。私たちには、これが嘘だと考える権利はない。しかし、彼女が行動する際に、情熱が重要な役割を果たしていたことは明らかである。誠実さと不正義、心からの愛と自尊心、謙虚さと傲慢、さらに、洗練された行儀作法と礼を欠いた態度が入り混じっており、このような行動が身体的、精神的に皆を疲れさせていた。当然のことながら、マドレ・ピラールは、決して始めるべきではなかった戦いに疲れていた。その理由の正しさをいかに確信していたとしても ――明らかにそう思えるが――、彼女自身の考えを頑固に固持したために、あの極度に達した緊張状態が生じたことを否定することが出来るのだろうか。
何ヶ月かの間、マドレ・ピラールは、統治に関する問題について意見を述べることを拒んでいた。マリア・デル・カルメン・アランダは、総長秘書として、マドレ・ピラールに意見を求める必要を様々な機会に感じた。「マドレが不快な思いをされないように努めますが、良心にかけて、どうしても申し上げなければならないことがございます。」と、マリア・デル・カルメンは弁解しながら書いている。この文は1891年の3月に書かれた手紙の中にあるが、総長秘書は、マドレ・ピラールが非常に好んでいた表現に注釈を加えてこの手紙を終えている。「マドレ、十字架を抱きしめて下さいませ。[・・・] 苦しむことが益であるなら、最大の苦しみに最大の益があります。私も苦しんでおります。全てが主のお望みのようでありますように。」(34) マリア・デル・カルメンは何日か後によりはっきりと、「マドレ、私に命じられたことを果たすために、本当に申し訳ないと思いつつも、サラゴサの件についてお話し致します。マドレはこの問題を既にご存知でいらっしゃいますから、私がこのことについてお書きしても、残酷だとはお思いにならないで下さいませ。そして、もしこの問題の状況をお知りになりたくないようでしたら、どうぞ手紙を読むのをお止めになって下さい。」(35) この件に関して全てを述べた後に、マリア・デル・カルメンは、彼女の目に映ったマドレ・ピラールの状態およびマドレ・サグラド・コラソンの状態とその態度を実に良く描写した文章を用いて手紙を続けている。

  「マドレ、これで書き終わりました。忍耐をもってお読み下さいましたら、用件はお分かりいただけたことと思います。総長様は、ご夫人が (36) 条件を書面で提出して下さるのを待っていらっしゃいます。顧問会で票を投ずることが出来るように。[・・・] 総長様は、マドレが想像もお出来にならないほど苦しんでいらっしゃいます。心に傷を負われておいでですが、私もこれを知って心を痛めております。全員の承認を得るまでは何も始めず、事を一歩も進めないつもりでいらっしゃいます。[・・・] マドレ、私は祈ること以外は何もしたくありません。でも私が申し上げることを我慢してお聞き下さいませ。総長様はご自分を捧げる覚悟をしていらっしゃいますのに(事がこれ以上進まないと良いのですが)、マドレはどうして一致を固め、神がその事業に望まれる平和があるようになさらないのですか。私の感じていることをお伝え出来ると良いのですが。軽はずみで失礼なことを申し上げていると思います。でも、総長様とマドレのあの大きな苦しみを除くために、私が何事も厭わないことを、主はご存知でいらっしゃいます・・・。」(37)

マドレ・ピラールがローマ滞在中にウラブル師に書いた手紙は保存されていない。ウラブル師からマドレ・ピラールへの返事は保存されているが。これらの返事を読むと、マドレ・ピラールが、総長補佐に示していたと同様のイメージをウラブル師にも現していたことが推測出来る。このイメージとは、悩みつつ、不安に満ち、悲しげではあるが、結局は、――彼女の言うところによれば――困難で厳しい道を通って神を探しているイメージである。あらゆる資料を読むと、この道がマドレ・ピラールの生涯にとって大きな誤りの道であったことが分かる。ウラブル師の指導は、彼の指導が普通そうであったように、霊性の一般的な生き方を示すものであった。ある顧問会に触れてマドレ・ピラールに次のように答えている。「自分の考えとその根拠を率直にはっきりと提示することが、修道者にとってより誠実で相応しいことです。ただし、今回意見を述べるにあたっては、個人的なことや総長様を傷つけることは言わないほうが良いと考えます。総長様に事柄を短く明白に説明した後には、神のより大いなる栄光となる決定がなされることを信じて、神のうちに待たなければなりません。神が長上たちに、適切で良い選択が出来るようインスピレーションを与えて下さることを信じるべきです。そして、そのような選択がなされなかった場合には、これが最終的に良い結果となるように、神が導き、方向付けて下さるのです。」(38) 霊的指導を受けていたマドレ・ピラールの混乱が強まると、ウラブル師はある機会に、彼女を苦しみから助け出す方法が考えつかないため、自分にこれ以上手紙を書かないようにと伝えた。「私たちの主が、全てにおいてより大いなる栄光が実現されるよう取り計らわれることを考えて、いつも自分自身を慰めて下さい。皆様は、物事を完璧に行い、全てを適切に判断し、神のみ旨を果たしたいと熱心に望んでいらっしゃる方たちなのですから。[・・・] 神のみ前でお考えになった全てのことを誠実に述べられた後には、命じられたことを出来る限り良く行うことによって修道会のために大いに役に立つことが出来ると考え、心を安らかに保って下さい。」(39) この時期のウラブル師の手紙は、ある時には非常に一般的であり、又、他の時には確信に満ちた教えが提示されているが、マドレ・ピラールにとっては厳しいものであったと思われる。彼女がこのような霊的指導を受け入れていたという事実から、マドレ・ピラールは、様々な誤りにもかかわらず、手探り状態で神を探していたと、私たちは再度考える。「セルメーニョ師が私の霊的指導を続けていらっしゃれば、私が皆様から身を引くことはなかったでしょうと、あなたはおっしゃっておられます――自分の態度が原因で生じた統治に関する微妙な状態に触れて、マドレ・ピラールはマリア・デル・カルメン・アランダにこう書いている――。でもマリア・デル・カルメン信じて下さい。なぜセルメーニョ師が私から取り去られ、ウラブル師が与えられたのか、私には今その理由が分かります。このお二人は、現在の私の状況のために、神ご自身が作られ、非常に良く繋ぎ合わされた鎖の環なのです。私を高所から突き落として下さらなければ、セルメーニョ師は今の私のためにはならないでしょう。私のことを過度に評価し、慎重さに欠けていらっしゃいます。ウラブル師は他の全ての能力に増して慎重さに秀でておられると思います。」(40)

「私には皆様の沈黙が辛いのです・・・」

1890年の秋から1891年にかけて、マドレ・ピラール以外の総長補佐は、総長に対して、優柔不断で曖昧な姿勢を保っていた。マドレ・サグラド・コラソンから彼女の秘書宛てに書かれた次の文が、その当時の彼女たちの態度を良く表している。「このマドレたちが、どのような心構えでいらっしゃるのか私には分かりません。悪い態度は取られません。でも、私が悪いのでしょうか ・・・ どう言ったら良いのでしょう。私は彼女たちを理解出来ないのです。見たところは、良いのですが ・・・本当に分りません。私の心は平和です。そして、このことが私の生き方に反映され、自然に現れるようにしております。そうならないかも知れませんが・・・。」(41) この文の書き方と句読点のつけ方は、マドレ・サグラド・コラソン自身のものであるが、総長補佐に対する彼女の当惑を明白に示している。総長補佐たちも、自分たちを理解しようとし、自然に振舞おうとする総長に当惑を感じていたに違いない。そして、皆の善意にも関わらず、相互の関係は、自然さに欠けていた。他の時期にあった素朴な信頼関係が崩れ、信頼を示そうとする努力さえも、共同生活を緊張に満ちたものにしていた。
マドレ・サグラド・コラソンは、この状況から生じた一種の奇妙な静止状態と、過度の慎重さに苦しんでいた。

  「皆様は、考えていらっしゃることを教えて下さいませんでした。この沈黙が私には辛いのです。でも皆様にはその方がよろしいのでしょう。ですから、ご意志を強いて変えようとは思っておりません。逆に、新しい総長はどのようでなければならないと考えていらっしゃるのか、そのお考えにしたがって私を教育して下さいませ。古い総長に関しては、記憶すら失われてしまったのですから。可愛そうに!」(42)

他の時期の喜びと信頼の雰囲気とは程遠く、あまり家族的でない雰囲気が支配し始めた。その理由を探そうと試みて、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに手紙を送った。「・・・ 私たち五人の間にある不快感を引き起こしていると、あなたがお考えになる修道会内の原因を幾つかお書き留め下さいませ。きちんとお書き下さるようお願い致します。権威のある方々にお渡ししなければなりませんので。書かれたものは私宛にお送り下さい。他の総長補佐の方々も同様になさいますので、その方たちのものと一緒にしてお渡し致します。」(43) この件について他の総長顧問たちに送られた手紙は、もしあったとすれば、現在は失われている。この手紙への返事も、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスのもの意外は保存されていない。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは4月11日に返事を書いている。「修道会の統治に関わっている人たちが何故互いに理解出来ないか、本会内にあるその原因を書くようにとのことですが、何と申し上げてよいか分かりません。」と手紙は始められているが、言いたかったことははっきりしていたようである。彼女はそれを非常に厳しい表現を用いて伝えている。

  「第一の原因は、敵が、お二人の創立者を訴えて、毒麦を蒔いたためだと思います。第二の原因は、総長様が、総長補佐たちの存在が邪魔であるかのように、その助言を怒ってお受けになるからです。総長補佐と総長との不信頼がここから生じ、愛徳が非常に冷えて、物事を巧妙に処理するようになっております。慎重さに欠けて、常に最上を望み、多くのことが極端に流れています。これは、両者ともそうなのです。総長様にも時々慎重さが足りません。マドレとマドレ・ピラールは感情的に行動されます。そして、お一人がなさることを他のお一人は非常に良くないと判断なさるのです。ご自分の考えの方にのみ持って行こうとされるため、特に用件の処理に関してはかなりの能力があるとは思えません。マドレにとって全てははっきりしているのですが、物事が的確に取り扱われていないのです。そのため、お一人で行動なさるようにすることだけはあえてしておりません。縛られていらっしゃるので、心安らかでおられないと思いますが。本会の悲しい状態をご理解いただけるために充分申し上げました。権威ある方々の手に渡ると書かれ、具体的にどなたの手に渡るのかはおっしゃっておられませんが、主の御前で見たことを記すようにとのことですから、良心の大きな秘密としてお書き致しました。」

マドレ・サグラド・コラソンが「自分の考えにのみ皆を持って行こう」としていたと断言することは至って不正である。重要な事柄に関しては、常に総長補佐に相談していた。そして、具体的にマドレ・ピラールには、重要なことも些細なことも相談していた。しかし、マドレ・ピラールがローマから帰ってからの時期には、絶え間ない伝達を保つための配慮が極端に達し、統治に於ける迅速さを奪っていたが、それは、総長補佐たちに係わりのある全てのことに彼女たちを広く介入させるというマドレ・サグラド・コラソンの考えの現れでもあった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの書いたものを一語ずつ調べてみれば、そこには矛盾する情報が見出される。全ての悪の原因が、二人の創立者の間に蒔かれ、他の総長補佐たちにも広がった毒麦のためだと、彼女が信じていたならば、不一致の種が自分にも及ぶのを感じて、非常にきっぱりと述べている意見、例えば、「物事が的確に取り扱われていない」ことに関して疑いを持つべきではなかったのだろうか。マドレ・サグラド・コラソンの統治には、それほど多くの重要な失敗があったのだろうか。成果の上がらなかった様々な用件についても、彼女の不適格さのせいにすることが出来るのだろうか。サン・ホセの修道院の問題がどのように発展したかを振り返ってみれば、これらの質問への答えが得られる。
このような状況の中で、ある顧問の尊敬の欠如や他の総長補佐の不信頼、つまるところ、居心地の悪さを感じながら、総長は自分に出来ることをしていた。それは、補佐たちに対する義務を細心の注意を払って果たし、彼女たちが――会憲の命ずるところにしたがって厳密に――承認したことを実行に移し、熱心に祈り、出来る限り理解すること [・・・] そして、常に赦すことであった。これだけではない。全ての努力には限界があることを知って、マドレ・サグラド・コラソンは、固い決意のもとに、修道会統治における自らの役目を放棄する方法を探していた。
マドレ. マリア・デル・カルメン・アランダとの文通が、この何ヶ月間に体験した苦しみのある側面をかなり良く表している。マドレ・サグラド・コラソンは、彼女の秘書に信頼を持って話し、自分のしたことについて詳細に語り、統治に関わる問題に関して秘書の性格によってもたらされ得る結果を予想して、様々な用件に関して彼女に助言している。

  「顧問である総長補佐の方たちはご自分たちの考えを確信し、とても一致して、長い集まりをしていらっしゃるようです。私は唇に微笑みを浮かべております。この微笑みが絶えませんように。私のためではなく、補佐の方々のためにお祈り下さい。全てが解決され、平和が訪れますように。」(44)
「神の栄光と修道会の善のために、私よりも補佐の方々にもっと心遣いを示し、私よりも補佐の方々にもっと手紙をお書き下さい。」(45)
「私のことを気の毒だとはお思いにならないで下さい。果たすべき償いを果たしているのですから。それも、本来するべき償いよりもはるかに少ない償いを。神様は本当に憐れみ深いお方です。私は、あなたにも、他の誰にも助言することは出来ません[・・・] 、私の使命は、天からの光が来るまで、沈黙を守り、静かにしていることだと思います。それは、その光に助けられて、あなたがたと私が今いるこの不可解な大混乱から脱け出るためなのです。この大混乱の中にいるのは私で、皆様をその中に引き入れているのかもしれませんが。主は、皆様に耳を傾けて下さるでしょう。こう考えると心が落ち着きます。力づけられると言った方が良いかもしれません。」(46)
「色々なことをおっしゃって下さいと、私にお願いにならないのですか。私は不愉快になっているわけではありません。でも、ある種の精神を良いと思ってはおりません。マドレ方が修道会の精神に従って行動していないと、あなたが考えられる時に、それを良いと思われないように。マドレ方にはこのようなことがあります。そして、マリア・デル・ピラールがいらした時に来られて以来、あなたの精神にも何かそのようなことが見られます。私は間違っているかも知れません。ですから、物事がより良く進む時には、私は全く沈黙し、あらゆる人あらゆることから身を引くのです。もし何かに介入すれば、不愉快な思いをします。もし私がだまされておりますなら、目を開いて下さるように主にお祈り下さい。私はいつもこのために祈っております。もし祈りが聞き入れられなければ、主が他のことをお望みになられる時まで、忍耐しましょう。」(47)
「マドレ、私たちはお互いに理解し合っていません。このような状態が過ぎ去りますように。」(48)
「マドレ、補佐の方たちが持っていらっしゃるあのような権威に私が適応することが出来るよう神にお祈り下さい。〔・・・〕マドレ、真実を言う場合も、権威をもっておっしゃらず、常に謙虚であって下さい。時には、言い方が全てを決定するのです。」(49)
「私が様々な問題から少し身を引いているからといって、私のことを悪くお考えにならないで下さい。身を引いているのではなく、補佐の方たちが全く自由に行動し、考える時間を望むままに充分に取ることが出来るように計らっているのです。ご存知のように、これが私の犯した最大の過ちの一つでしたから。この欠点を直したい、可能な限り全てを直したいと望んでおります。ですから、私としては事を遅らせず、お知らせを怠らないようにしております(私の活動が顔をのぞかせますので)。その後は沈黙して祈ります。何日間も何も解決されずにいても、心は穏やかです。主がこのようにお望みなのですから、私もそれを望みます。そして、本当に安心しております。」(50)
「真の謙遜と柔和を願い、その質を下げないで下さい。そうは見えないかも知れませんが、この二つの徳は、私たちの会の中で、泡の出た後は中身がほとんど何も残らないビール瓶のようになっております。私のためにお祈り下さい。私が祈りを最も必要としておりますので。そうすれば、私の仕事を適切に処理出来るでしょう。全てが神に喜ばれるものとなりますように。」(51)

これらの手紙の何通かには、特別な説明を加える必要がある。例えば、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスのサラゴサにおける行動に関して書かれた手紙である。この修道院の当時の貧しさは著しく、住居、特に、聖堂の条件は最低であった。このような時に、この困難を解決出来る程の多額な寄付を申し出る一人の夫人が現れた。しかし、この婦人は、禁域外の部屋ではあるが、修道院の中に住む許可を願っていた。寄付を受けることには、その結果が伴っていたため、総顧問会で非常に討議され、大多数の賛成をもって寄付は受理されることになった――マドレ・ピラールは反対票を投じた――。この恩人を前にして、修道生活と共同体の自由を保障する幾つかの条項が果たされることがその条件であった。修道会の統治の当時の状況、つまり、顧問たちの不信と、正式な投票によって示された彼女たちの意見に従おうとする総長の生真面目さを考慮すれば、サラゴサに関する全ての論争はゆっくりとした過程のうちに進行したことが予想されると言う必要はないであろう。サラゴサの件を監督する役目のマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、自分の考えに一致した行動を取らず、何回か、総長補佐たちが全員、提案事項に関して意見を述べる前に事を始めようとした。
「マドレ〔マリア・デ・ラ・クルス〕のあの手紙をお読み下さい。――と、マドレ・サグラド・コラソンは彼女の秘書に書いている――。私にはあの方が理解出来ません。あなたはいかがでしょうか。ご存知のように、ご婦人の滞在について投票する前には何の工事もしないようにと、私は反対しておりました。絶対にそうする必要があるのです。それにもかかわらず、マドレは色々な取り決めや取り扱いを頻繁にしていらっしゃいます。全員が投票し終わるまでは何も出来ないと、彼女にお書き下さい。契約に関しても同様です。皆が賛成であっても、秘密投票の形式で決める必要があります。この点は私に責任があります。私も賛成だとお伝えした時に、秘密投票をしてその返事を待つべきだと、あなたに申し上げませんでしたので。[・・・] どうぞ、このような点に注意なさって下さい。そして、私にも気付かせて下さいませ。」(52)
信頼が崩れた今、会憲の遵守が、書かれた文字への隷属となる危険があった。実際には、以前の喜びと愛がなかっただけではなく、様々な事柄の取り扱いに要求される迅速さが失われていた。これは、サラゴサの件において明白であった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛てに書かれた手紙にこのことがはっきりと現れている。

  「お愛し申し上げるマドレ、過去の様々な不愉快なことに注意して下さいませ。これらは皆今と同じような理由で起こりました。どうぞ ホアキン・デルガド師とお話し下さい。教会法上の手続きが行われるまでは、この契約を承認するのを待っておられます。[・・・] 一人の票だけが足りないのです。既にお願いしてあるのですが。七日か八日お待ち下さるようお願い致します。〔・・・〕ドロレス婦人を宿泊者として受け入れることに関して教会法による投票が行われるまでは、工事を始めることは不可能です。[・・・] マドレ・ピラールの返事を待たなければなりません。彼女の票なしに、この件は有効にもならないのです。私がこの件に関心を持っていないとお思いですか?マドレ、説明出来ないほど大きな関心を持っております。でも、何よりもまず、教会によって命じられたことに反して行動しないためには、私の望みをも犠牲にするつもりです。たとえ全員一致でこの件に賛成していても、秘密投票が行われるべきなのです・・・。」(53)

ある事柄について公に同意が表明された後では、既に示された意見が秘密投票によって繰り返し述べられるのが当然であろう。しかし、ある場合にはそのような結果にはならず、これは多くの苦しみの原因となった。いくつかの道を通って、このような異例の結果が出た理由を説明することが出来る。総長補佐たちの顧問としての義務についての養成の足りなさ、個人の考えを保持する際の人間的弱さ、他の人たちの前で自分の考えを述べる際の臆病さ等。しかし、最も重大な理由は取られた態度の不誠実さであるといきなり断言することは出来ない。そのようにしたい誘惑に時々駆られることを告白しなければならないが。マドレ.マリア・デル・カルメン・アランダはその覚え書きの中で、おそらく私たちよりも多くの資料を基にして、その時期のマドレ・プリシマの行動は極度につかみどころがなく混乱したものであったと述べている。「修道会を発展させ、様々なことに着手し、神に信頼する等の望みにおいては、マドレ・サグラド・コラソンと競う程であった。しかし、心の中でそう考えていたと言える。後に、正式な場では身の安全を守っていた。ある日、一つの事柄について意見を述べられた際に、公に行動するにあたって私に言われたことを考慮に入れないようにとおっしゃった。その時は、どのようにするべきか良心に従って考えたことを言われていたのであるが。」(54) 他の機会にマドレ. マリア・デル・カルメン・アランダは、マドレ・プリシマの手紙に書かれている言葉をそのまま引用して、彼女の同じ側面に言及している。マドレ・プリシマは総長秘書に手紙を書き、サン・ホセの修道院とこの修道院を救う望みと関心について述べているが、最後に「この修道院について私が感じていることをあなたにだけ申し上げました。後で意見を述べるべき時には、私の理由と良心に従って行動しなければなりません。」と加えている。(55)
聖心侍女修道会が、少なくとも統治のレベルにおいて、著しい損失、心の自由を失う経験をしていたことは明らかである。平和に満ちた生活から生まれる喜びに到達することを不可能にする道が始まっていた。総長が共同体の素朴な生活を懐かしく思ったのは当然である。「素朴な精神が私の心を奪います。私たちの修道院にある精神です。私はこれを修道生活の精神だと思います。顧問会の教師然としたそれは私の心を刺し貫きます。」(56) 謙遜の姉妹である素朴さという宝が危険に陥っていた。会の中には、純粋な姉妹がまだ多く、非常に多く存在していた。しかし、顧問会においてはそうではなかったようである。マドレ・サグラド・コラソンにとって、会の召命に応えるための忠実さは、謙遜という平地のみに見出されるものであった。

  「マドレ、私たちの会全体が本当に謙遜になるようにお祈り下さい。特に私のためにお祈りをお願い致します。神は、このような魂の中で、人々によって、又主に奉献されている私たちによって与えられる多くの侮辱から逃れて心を休ませられるのです」(57)

「気を緩めることなく、謙遜になるように祈り、謙遜になるように熱心に努力して下さい。」(58) 心の一致、素朴さ、平和。謙遜、謙遜、謙遜。これが、「真実の神、正義の神、信頼すべき唯一の方」「全ての解決をこの方のうちに探すべき」(59) と考えた方に、マドレ・サグラド・コラソンが全存在をあげて向けた叫びであった。

第3部 第4章 注

(1) 霊的手記 14。
(2) 同上。
(3) 1890 年11月27日の手紙。
(4) マドレ・サグラド・コラソンのマリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙、1890 年12月後半。
(5)  1890 年 2 月1日。
(6)  マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙、1890 年12月 31日。
(7)  マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙、1890 年12月。
(8)  1890年12 月27日の手紙。
(9)  1891年2 月4日の手紙。
(10) 1891年1月の終わりの手紙。
(11) 1891年 2 月15日の手紙。
(12) 1891年 2 月20日の手紙。
(13) 同上。
(14) 1891年 2 月22日の手紙。
(15) 1891年 2 月24日の手紙。
(16) マドレ・ピラールは、校長の感情の不安定さについて度々妹と話した。「・・・ 今は気まぐれで、自分でもこれを避けることが出来ないのです。一方では、能力のある人なのですが。[・・・] カルロタは感情の起伏が激しいので、外に出ないほうが良いでしょう(マドレ・サグラド・コラソンへの手紙、1889年9月26日)。ラ・コルーニャでの一年目に起きた夜間の襲撃の際も、カルロタは、共同体の中で、神経質になり興奮したと記されている姉妹の一人であった。
(17) マドレ・ピラールへの手紙、1891年2月21日。
(18) 1891年2月24日の手紙。
(19) 1891年3月3日の手紙。
(20) 1891年2月20日の手紙。
(21) マドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙、1891年3月24日。
(22) 1891年3月24日の手紙。
(23) マドレ・ピラール のマドレ・マリア・デル・カルメン宛の手紙、1891年3月9日。
(24) 1891年3月9日の手紙。
(25) 1891年3月20日の手紙。
(26) 同上。
(27) 1891年3月28日の手紙。
(28) 1891年4月7日の手紙。
(29) 同上。
(30) 同上。
(31) 1891年2月22日の手紙。
(32) 1891年4月23日の手紙。
(33) 1891年3月9日の手紙。
(34) 1891年3月14日の手紙。
(35) 原文はイタリック体で書かれていない。マドレ・ピラールが一定の問題への介入に嫌悪を感じていたことをマドレ・マリア・デル・カルメンがどの程度知っていたかが、この手紙を読むと分かる。
(36) サラゴサ修道院のある恩人。
(37) 1891年3月29日の手紙。
(38) 1891年5月11日の手紙。
(39) 1891年6月11日の手紙。
(40) 1891年8月26日の手紙。
(41) 1891年4月17日の手紙。
(42) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛の手紙、1891年2月15日。
(43) 1891年4月3日の手紙。
(44) 1890年9月22日の手紙。
(45) 1890年9月28日の手紙。
(46) 1891年1月5日の手紙。
(47) 1891年1月の手紙。
(48) 1891年1月。
(49) 1891年2月13日の手紙。
(50) 1891年4月17日の手紙。
(51) 1891年4月。
(52) 1891年4月24日。
(53) 1891年4月23日。
(54) マドレ・ピラールの歴史 I. 12-13 ページ。
(55) 1890年12月1日の手紙。
(56) 1891年2月20日の手紙、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛。
(57) 1891年4月24日の手紙、マリア・デル・カルメン・アランダ宛。
(58) 1891年5月2日の手紙、マリア・デル・カルメン宛。
(59) 1891年4月25日の手紙、マリア・デル・カルメン宛。