神との語らい 聖ラファエラ・マリアの『霊的手記』

神との語らい   聖ラファエラ・マリアの『霊的手記』

序文 マルティン・デスカルソ師の序文

⒈ 初誓願文(1877.6.8)『霊的手記』No.1

1885年の霊操(1885.10.4~)『霊的手記』No.3

⒊ イダルゴ師への霊的報告(1887.11.17)『霊的手記』No.5 

⒋ 自筆原稿の断片『霊的手記』No.6

1887年の霊操『霊的手記』N0.7—8

1888年の1ヶ月の霊操(1888.5.1~)『霊的手記』N0.10

1888年霊操の第三週の終わりにおける『奉献』『霊的手記』No.11

終生誓願文(1888)『霊的手記』No.12

聖心への奉献『霊的手記』No.13 

10.1890年の霊操(1890.2.14No.14   

11.イダルゴ師への霊的報告(1890)『霊的手記』(a)No.15  (b)No.16

12.1890年のいくつかの決心『霊的手記』No.18, No.19

13. イダルゴ師への霊的報告(1891)『霊的手記』No.20

14.1891年の霊操の決心『霊的手記』No.21

15.完徳の誓願文『霊的手記』No.23

16.イダルゴ師への霊的報告(1892)『霊的手記』No.24 

17.自伝の冒頭(1892『霊的手記』No.25

18. 1892年の霊操(1892.10.7~)『霊的手記』No.27

19.1893年の霊操(1893.5.26~)『霊的手記』No.30,28

20.1893年の霊操(1893.9.22~)『霊的手記』No.30

21.イダルゴ師への霊的報告(1893年後半)『霊的手記』No.34

22.ゆるしの秘跡の準備のメモ(1893)『霊的手記』No.29

231894年の霊操の決心『霊的手記』No.32,37

24.マンチーニ師から受けた霊的指導(1894)『霊的手記』No.35

25.1895年の霊操『霊的手記』No.38

26.1896年の霊操『霊的手記』No.30

27.1897年の霊操『霊的手記』No.41

28.1898年の霊操『霊的手記』No.42,43,41

29.1900年の霊操『霊的手記』No.44

30.1901年の霊操の決心『霊的手記』No.49−50

31.1902年のイエズスのみ名の祝日の霊的手記『霊的手記』No.52

32.1903年の霊操『霊的手記』No.30

33.いくつかの祈り(1903)『自筆原稿』No.67 『霊的手記』No.74,75

34.1904年当時のいくつかの手記『霊的手記』No.67,59,58,57

35.信仰と信頼の奉献文(1904.3.4)『霊的手記』No.62

36.1905年の霊操『霊的手記』No.63

37.聖ヨゼフへの祈り(1906.1.21)『霊的手記』No.64

38.新年の決心1907)『霊的手記』No.65

39.詩篇での祈り『自筆原稿』No.7

40. 1908年の霊操『霊的手記』No.67

41.従順の決心(1909.1.21)『霊的手記』No.68 

42.聖ヨゼフへの祈願(1909.1.15『霊的手記』No.69

43.1914年の霊操『霊的手記』No.43

44.祈り文(1914)『自筆原稿』No.5

序文

  • この書簡集の真の宝ともいうべき『霊的手記』を紹介するには、第二の序文が必要であろう。なぜなら、手紙においてはマドレ・ラファエラは人間と話しているが、霊的手記においては、直接に神と語らっているからである。この霊的手記こそは、彼女が並外れた厳しさを持ってじぶん自身に対したことを証しする証人であり、とりわけ、聖性に向かっての緩慢な、苦しい登攀についての証人である。

 しかし、霊的手記はそれほどに美しく深いものであるだけに、一層厳密で、詳細にわたっての、長い時間をかけた研究が必要であろう。幸いにも、すでに他の文筆家が、私よりもより専門的にこれについての深い研究をしておられる。(メルセデス・アグアド著『イエズスのみ心の聖ラファエラ・マリアの霊性の覚書』ローマ1977年)しかし私は少なくとも読者に、敬虔に履物を脱いでこの霊的手記の上を通るようにと、注意を促したい。なぜなら、一人の聖なる人の神との出会いは、モーゼの燃え尽きない茨と同様に、聖なるものだからである。

 厳密にいうなら、この本のすべてのページは、同じように聖なるものである。読者の皆様には、愛に震えつつその中に入っていっていただきたい。喜びつつ入っていただきたい。なぜなら、どのような聖性も魂を広げさせ、聖性を遠くから眺めている人の心さえも広げるからである。

 聖ラファエラがローマの街路を歩みつつ幾度となく感じたこと、「これをあの方たちはなさったのに、どうして私はしないのだろう?」を繰り返しつつ、希望を持って入っていっていただきたい。でも、とりわけ感謝しつつ入っていただきたい。神がこの世に聖人を置かれたのは、私たちの誰もが自分の中に持っている眠れる聖人を目覚めさせるためである。自分の内心に入ると同時にこの本の中に入り、比べてみていただきたい。そして自分の弱さ、小ささを感じても、その単純さではなく愛の乏しさを心配していただきたい。それは、魂を満たされるのは『聖人』を生み出されるお方だからである。私たちのなすべきこと、それはわずかでも愛することであり、あらゆる時に、み心のラファエラ・マリアの障害を見事に要約する『マグニフィカト』の言葉を祈ることであって、ただそれだけである。

J.L.マルティン・デスカルソ

No.1 初誓願文

『霊的手記』No.1:用紙(11X9cm)の片面に書かれている。

 全能永遠の天主、我ラファエラ・デ・ポラス・イ・アイリョン、今後はイエズスの聖心のマリアは、爾の尊前に在りてはいとも卑しきものなれども、主の限りなき御憐れみと御慈愛とにより縋り、爾に仕え奉らんとの熱き望みに駆られ、童貞聖マリアおよび天堂諸聖の御前にて、天主なる爾の御稜威に対し、イエズスのみ心の贖罪者修道会における永遠の清貧、貞潔、従順を誓い奉り、また、その会憲の全てを冰釈したれば生涯をここに委ね、前期の会に入会せんことを約し奉る。

 されば馥郁たる香りとしてこの燔祭を受け入れ給い、先のそを我に与え、切に望ましめ捧げしめ給ひたれば、これを全うせん為に、われに豊かなる成長を垂れ給わんことを、爾の極まりなき全善と仁慈とにより、イエズス・キリストの御血によりて、ひとえに平伏し懇願し奉る。 1877年6月8日  アドリード修道院聖堂にて

No.2 1885年の霊操 (1885.10.4~)

自筆原稿:『霊的手記』No.3:一枚の紙(20X13cm)の両面に書かれている。

 第一黙想 神は私をあることのために造られ、このあることが実現するために、たとえ私がこの世にただ一人存在したとしても必要な手段をお与えになるはずだ、と神に盲目的に信頼しなければならない。全ては主によるもので私によるものは何もなく、全ては主のためであって全く私のためではなく、全て主の内にあって私の内には何もない。

 とても熱心だった。一時間余計に長く祈ることができた。

第二黙想 人生のさまざまな事は、私を最終目的に導くべき手段としてのみ用いるべきであって、それらの思わぬ出来事は妨げとすべきではなく、むしろ、船にとっての波のように、弾みとすべきである。私の仕事はつまるところ、神をお喜ばせすることのみでなければならない。

 半時間延長して祈った。

第三黙想 非常に無味乾燥で気落ちし、不偏心に対して抵抗していた。

闘いながら、できるだけ延長して祈った。

第四黙想 三つの罪では、それぞれが主張しながら耐えず落ち込んでいっているのが見えた。第一の罪では、しばしば直面する何かが難しい事柄に対して、私の判断を従わせるときにしばしばする抵抗。アダムとエワの罪では、私の魂を失わせようとするある事柄を知ろうとする私の内的な傾向、そしてただ一つの罪でどんなことにでも同意してしまうかもしれない不幸。潜心していたが、悔恨の情に動かされるまでには至らなかった。神がどれほど不快な思いをされ、また私の心が不安になるか、私には想像もつかないことだった。このことで私はひどく腹立たしかったが、それは冷淡になること、あるいはもう見捨てられたかもしれないことを恐れたからである。

第五黙想 自分の罪について。いつものように罪について思い巡らしたが、しかしそれによって、ずっと罪の記憶に苦しませられる。一年ほど前の、非常に尊敬すべき人たちに逆らった、私の謙遜の足りなさによる罪への悔恨。これらに関して、今後は見ざる、聞かざる、言わざる。

第六と第七黙想 まるで石のようだった。地獄も死も私の心をうごかさなかった。

決心はいつもの通り:日毎に良い人になること。たとえ骨身にこたえても。

第八黙想 審判の黙想については、イエズスが働きかけられたので、とても心が動いた。喜悦の涙を流し、情愛にあふれた。さらに一層の寛大さを持ってイエズスにお仕えしようと決心する。

第九黙想 放蕩息子の黙想について。はじめ心を動かされたが、その後冷めきってしまう。ひどく眠気がして、気づかぬうちに眠ってしまった。

第十黙想 キリストの国について:いつものように無味乾燥。あまりにも長い要点を聞いて、私の心は何の感動もない。毎日を、もっと熱心に続けていく、と決心する・・・

 (ここまでで終わっている。)

N0.3 イダルゴ師への霊的報告(1887.11.17 / 10.29

自筆原稿:『霊的手記』No.5:二つ折り用紙(21X13cm4面に書かれている。

 この日の午後、気力のなさを感じ、神のことを考えられず、全くそっけない気持ちで、生涯の日々が無為に過ぎていってしまうことをとても悲しんでおりました。このような気持ちにどっぷりと浸って、家の中を歩いておりますと、突然『天使的生活』という言葉が閃きました。それまでの気持ちがすっかりかわり、心は燃やされ、私の生活は天国でのものでなければならない事を悟るために、これが与えられたとわかりました。地上の事物に配慮しないのではなく、自然に振舞いつつそれらを行い、しかも誰にも何ものにも愛着しないようにするのです。ちょうど大天使ラファエルがトビアに同伴したとき、人間の姿は外見だけで心は天にあったように、そのようにです。

 その夜のことでしたか、あるいは翌朝だったでしょうか、私は張り切っていて喜んでおりましたが、私の魂が望んでおり、必要としております神の所用物となるためには、何か妨げがあると気づきました。神父様、このような言い方をお許しくださいませ。でも他の方法では説明のしようがありませんので。イエズスから愛の奔流が迸り出て、私に向かって突進してくるのを私は見ました。しかし傍まで来ると、小さな障害物に途中を遮られて、わずかな火花しか届きませんでした。何が妨げになっていたのかとよく見ますと、私の心の絶え間ない闘いであった錯覚への恐れと、罪を犯しはしないかとの危惧でした。その通りでして、しばらく前からこの二つの恐れのために、私の心は少しも安らかではありませんでした。誘惑にかまけるよりも業を行うべきでございます。つまり、あっさりとあるいは手早く妨げを取り除き、淀んでいる水を見つめたり、濁っている水底をかき回したりしないことで、物事に明るい人は、水の流れが分かたれずにすいすいと流れるように主な障害物を取り除きます。なぜなら、水の力によって小さなものは押し流してしまうことを知っているからです。神はそのように私の魂になさり、流れの勢いで私の不完全さを運び去っていくよう、流れるままにおさせになります。ああ、どう致しましょう困ってしましました!はい、と申し上げると、全てを粉々にする愛が非常な勢いでやってきて、終点である魂もしくは心に押し寄せたときは、危うく灰塵に帰すところでしたが、いただいた力によって、ようやくそれを逃れました。

 こうして19日の今日に至るまで、祈りや礼拝に行き、あるいは少しでも潜心しますと必ずそうなりますが、そうでないときは、それを切望いたしましても、一瞬たりとも得ることはできません。

 健康につきましては、されるままに任せておりますのでー今は病気だと思われ、遅く起床しております。それがどんなに抵抗を感じることかは神のみがご存知です。よくしていただくのが嫌なのではなく、このような生活に慣れてしまう事を恐れるからでしたー遅い時間に黙想をしております。黙想とは申しますがそう呼べるものではなく、むしろ愛の切望ともいうべきもので、黙想の全体がそうなのでございます。あまりのことに、今日はそれほど抵抗することができませんでした。心が惹きつけられると逆らうことができません。小さな声でほんのちょっと嘆きましたら、一瞬、息が止まってしまうかと思われるほどの痛みを感じました。

 当面の問題は、どうしたら良いのか私がわからなくなっていることでございます。私は神父様に何も隠しませんし、自分の考えと、それに原因するものをお話しいたします。それがもし誤りでございましたら、神父様、どうぞそれを私から一掃してくださいませ。もう六年近くも指導していただいておりますので、私の心に起こることはなんでもご存知で、毎日の心の重荷と、その関わりについてもお見通しでございましょう。それらが大きくなってまいりますので、なんらかの力によって自然性を打破すべきでして、私にはこれが原因ではないかと思われますが、手の下しようがありません。なぜなら、外面的によく見えるために尻込みすることを、神父様お望みになりませんでしょう。それに、職務についての配慮も、私の乏しい徳にあったものをお望みでいらっしゃいます。

 申し忘れましたが、下線をつけたあの言葉を理解すると同時に、堅固な徳(どのように表現して良いかわかりませんが)についての知識を得ました。それで、通常ではないことにとても嫌悪を感じ、そのようなものは持ちたくないと心から願いました。

1029日。この日、とても大きな光をいただきました。全ての良きものは、神のおん独り子私たちの主イエズス・キリストから来るのであるから、彼の功徳によって全てを願うべきであり、彼への模倣のうちに私たちの救いと命がある、ということです。強く心が動かされるのを感じ、とても熱心にこの信仰の真理を私のうちに起こさせようとしておられるようです。これ以外に道はないのでして、これこそは聖人がたの歩まれた道でした。他のものは何であれ、私が肯定しそうなものは偽りの道です。この頃、とても誘惑を感じ、ある期間そのような試みの状態でして、今は、そのような方法でキリストにあやかる時ではありません。なぜなら、世間は手を引いてしまうでしょうし、修道会は発展しないし、人々から何も得ることはできませんでしょう。それにしても神父様、神は、私にとって何という絆、何という慈しみでいらっしゃることでございましょう。

No.4  自筆原稿の断片 

冒頭の部分が欠落。『霊的手記』No.6:一枚の紙(10X13cm

  • ・魂が引き抜かれてしまう。「我が魂のいのちよ、憐れんでください」としか何も言えない。よくよく警戒していないと、叫び声を立ててしまう。私の中で奔流は、私をイエズスの方へ押しやってしまい、彼の懐に受け入れられる幸いが見える。ちょっとの間、どういう風にしてだか知らないがうっとりと眠ってしまい、目が覚めたときはすべてが終わっていた。体までが実に心地よい状態で、まるで、どこかに隠れていた幼子のようで、自分が一人前の大人のような気がしなかった。

N0.5  1887年の霊操 自筆原稿の冒頭ではイダルゴ師に宛てられている。

『霊的手記』No.8:二つ折りの紙二枚(23X13cm)の一枚には四面に、

                       他の一枚には三面に書かれている。

イシドロ・イダルゴ神父様

 敬愛申し上げます神父様:神父様への私の無沙汰ももう終わりました。本当に失礼申し上げました。悪魔には何と幾つもの路地があって、その中の目抜き通りに私を引き入れることでございましょう。神父様は私の魂について深い関心をお持ちくださり励ましてくださいましたにも関われず、私はこれらについていつも黙っておりました。このことは、神父様とお話しした日に私を安心させました。いつも私は、これほどに尊敬すべきお方にご迷惑をかけているのだから、かいつまんで話すべきだと思っておりました。祈りについて私が話しますことは、どこからのものともわからない、馬鹿げた話だからでございます。でも神父様、私がそれを平気でしているとお思いでしょうか?いいえ、決してそうではなく、死ぬ思いでございます。それで、全てをお話しした時は、たとえ時には小心によって動揺してもホッと一息つき、神の恵みよってそれらを改められたと思います。神父様、本当に後のことは考えずに、私は全てを話すべきだと思います。

 霊操の第一日目

 霊操に備えて、私の心は数日前より、イエズスが穏やかに、しかも烈しくご自分に引き寄せられるのを感じておりました。昨夜、黙想の要点「心に語ろう」を聞きましたとき、防波堤は壊されてしまい、イエズスのみ心の中に沈んでしまいました。神父様のお言いつけどおりに十五分間いたしましたが、私の心は燃えたっておりました。その後、不本意ながら用事のために中断しなければなりませんでしたが、残りの時間を利用いたしました。でも、あれほどにたくさんのものをくださるとは思いませんでした。能力は宙に浮き、非常に深い愛の中で四十五分ほど過ごしましたが、満足はしておりませんでした。これらの喜悦にも関わらず私は喜んでおりませんでしたが、それは(私が差し上げるのではなく:訳者注)イエズスが私に与えられたからでした。今日の黙想のための要点を聞きましたとき、私の魂の命であるお方のみ心から決して出ることのないよう努力することを決心しました。そうです、そのみ心の中で、主がご存知の、時々滅びの淵に私を立たせる私の欲情と闘うことをお約束しました。そのように今日は第一黙想で努力いたしました。愛しつつ反省することができ、私は自分の目的を果たしていないことを知りました。度々私は手段に抵抗するからです。最も主要なものを思い出しました。それらは、様々な事柄において神のみ旨に抵抗し、判断において、また言葉において私が犯している無数ともいえる不完全さを避け、私の身に起こる全ての出来事において、何の反論も判断もせずに頭を垂れることに私は気づかず、盲目でした。糾明を終えた後、ミサの中でもこの黙想を続け、聖堂を出るまでそういたしました。

 第二の黙想では、最も無味乾燥でした。私の魂が、神の懐でいこうためにその片隅に行こうと闘っているのが見えますし、私の精神の方は活動しようとして、そこから抜け出そうとしております。神父様、神の懐はとても心地よいところでございます。でも神父様が他のことをお言いつけにならない限り、たとえどれほどに辛くとも、心を働かせるという決心を放棄いたしません。

 この頃、神父様におかきするのを遅らせておりますが、私を驚かせるような特別なことが何もないからでございます。祈りはほとんどの場合、深く潜心いたしますが、でもとても受動的で穏やかなものです。一つの言葉に心を留め、それで魂は満たされます。以前に神父様に申し上げましたあの戦慄もしくは苦痛を持って心に関わることをやめてはおりません。それに神をしばしば渇望いたします。日中は、闘いと主からの置き去りです。

 今朝神父様が聖堂で講話をしておられましたのに、不精をして訊ねないで知らないまま、ほとんどここまで書きました。その後、午後からの黙想までを、引き続き静かに落ち着いておりましたが、以前に神父様とご一緒の時よりもっとひどい激情が襲いました。神父様、ひどい二時間でございました。神父様がお考えになれる限りの、一人の人間の上に起こりうるこの上ない屈辱的なことが、私の脳裏に浮かびました。私はとても傲慢ですが、それはもっぱら奥深く隠されております。祝された福者マルガリタ・マリアからさえ非難されました。神父様にいたしましたように、彼女に対しても、まるで、そそのかされたかのように遇したからでございます。聖女よ、どうぞお許しくださいませ。そして神父様もどうぞ私をお許しくださいませ。大いなる気力を持って、なぜなら、私の幻想をこっそりと隠して申し上げず、神父様に対して、まるで修道女か修練長に対してほのめかすようにしたからでございます。こうしてわたしは要点を聞いておりました。頭の中は無数の計画で気違いのようになっておりましたが、幸いにも今では何も思い出しません。

 その中の一つである指導を受けることをやめるというのは、時間の浪費だからでした。ついにそれが終わった時、猛獣を飼いならすことができるようになり、涙さえ流し、自分自身をよく知るに至り、そしてこの状態に私はおります。今私は、私自身である無におりますが、次の第二の攻撃を恐れておりました、必要なものを得るまでには、まだ多くあることでございましょう。神が私のそばにいてくださいますように。決していいことをではなく、ありふれた日常のことを書くことを望んでおられる神父様に自分を開くことを決心いたしました。そして、私をごく平凡な者と見る時、神父様にご指導いただくことは私には過分のことに思われます。でも今は、本当に身に余ることと思いつつも、図々しくも、そのようなことは起こらないようにと願っております。

第二日 不偏心についての反復

 通常の方法で堅実に潜心し、五感を活用して祈りました。最初はあまりうまくいかないようでしたが、その後、努力して深くへりくだりますと、満たされ始めました。これほどに神が私をご自分のものとされ、私がすっかり神に浸されているのを体験したことはありませんし、また、未だかつて、全き信頼のうちに神に委ねきらなければならないことを知ったこともありません。終わりに、とても熱心な神との対話をし、神が私と私に属する全てのことに対してなさりたいことに、不偏の心でいることを、お約束致しました。

 第二黙想 経験に熱心さを持って黙想を始めましたが最初は冷淡で落ち着きませんでした。黙想の間中とても不安の体の不調さえ感じ、黙想の間中落ち着かず、しだいに、終わることばかり考えておりました。とても我慢できない状態でしたので、あらゆる方法で潜心するよう努めましたが、ほとんど最後まで得られませんで、観想するよう努力しましたとき、満たされるのを感じました。王座におられるイエズスが見え、私の魂はそこに繋がれている野獣のようでした。罪にまみれた卑しい世間の見世物となっており、姉妹たちの目にさらされ、皆は私を嘲笑っているようでした。こんなにも嫌悪をもよわせる状態ですのに、私の心のうちに感じる一つのことで、心から喜んでおりました。あ私の心は激しい鼓動で破裂しそう、というより飛びあがらせんかりでした(神父様、なんと書いたらよろしいのでしょう、説明のしようがありませんが?これは私をちょっと引っ込み思案にさせます。)体までが苦痛と感謝の気持ちで粉々になる感じでしたが、これは久しく味わわなかったものです。黙想の糾明が終わるまでこの状態でして、それに浸りましたが、いただいたこの恵みは非常に偉大なものと思われます。

 その後、また元の愚かさに戻りました。今回のように、こんなにも変わったこと、突飛なことを体験した霊操は他にありません。

 多分、神父様にお話ししないという決心が誘惑となったのでございましょう。と申しますのは、神父様に申し上げましたように、他の機会には、あることについてはお話しするのにとても骨が折れましたが、辱めは私の心に善をもたらしました。もし神父様がお許しくださいますなら、節欲をしたいと思いますが、これはお目にかかってお願いしようと思っております。なぜなら、お話しすることに打ち勝たなければ、やがて罪さえも申し上げなくなってしまうことでございましょうから。神父様、どうぞこの私に忍耐してくださいませ。きっと天国ではそれをお見出しになりますでしょう。

 第三黙想 自分の罪について

 非常に深く潜心し、感情は生き生きとしていました。

 注:ここまでで終わる

No.6 1888年5月の一ヶ月の霊操 ( 1888.5.2)

自筆原稿:『霊的手記』No.10:四枚からなる小ノート(21X13.5cm)全紙面に書かれている

終生誓願の準備のための、イエズス会員イダルゴ師の指導による一ヶ月の霊操

 第一黙想 夜半

 不安を感じたが、勇気を出して霊操に入った。この頃ひどい頭痛に悩まされていたし、またその頃そうであったように、一ヶ月の間、石のような状態であったとしても、できる限り最大の熱心さを持って霊操をする覚悟でいる。述べたように苦しんでいたが、大いに忍耐しすっかり委ねていた。すると突然、み心が私の魂と身体をご自分の中にすっぽりと包み込まれ、この一ヶ月の間、み心の中に閉じ込めてくださり、闘いがどれほどに激しくとも、常に私は強められていると保証してくださったように思われた。一ヶ月の間、イエズスのみ心の中に常に慰めと助けと力を見出すだろうと予感した。落胆は深い平和となり、決して疲れないで霊操を始めた時よりもむしろ熱心に終えるだろうと確信した。

 第二黙想 私は神によるもの

 神になすべきことについて非常にはっきりとした光を受け、私の理性は全く働かなかった。感謝の涙。もう何と言っていいかわからない。終わり頃、とてもデリケートな疑いでひどく心が乱されたが、その原因が誰であるかを見抜いて心を落ち着かせ、後程これについて相談することにする。

 第三黙想 私は神のもの

 ほとんど黙想の間中、神にこころを奪われ、非常に静穏な観想のなかで、地上のよりも天上の喜悦を味わっていた。失神する。その心地よさは、自分の存在が、私の神であるキリスト・イエズスのうちに溶けていってしまうかと思われるものだった。この黙想以来、感覚的と思われる仕方で傍らに私の守護の天使がいるように思われ、私の魂に同伴される影響を感じた。また霊操の間、度々悪魔をとても近くに感じたが怖くはなかった。非常に近くにいると思って恐怖で震え上がった時もあったが、嫌悪感だけである。従順によってこれを述べるが、私は別に問題にしていない。

 第四黙想 前回のように非常に静穏で良い黙想であって、私に与えられた多くの恩恵についての、より受動的で洞察的な黙想であった。

 第五黙想 初め大変闘った。しかし深くへりくだると深い平和に留まり、やがて神との一致に達した。

 この日は全体的にとても熱心で大きな喜びがあった。

第二日 被造物の目的

 読み上げられている要点の、被造物と私と同じく永遠から神のお考えの中にあったという言葉を聞いていた時、不意に魂がひどく恍惚となるのを感じた。しかしすぐ後、人間にこのような尊厳を与えてくださったことに感謝を覚え、魂が体から引き抜かれたようだった。こうして半時間ほど喜悦と苦痛の中に留まったが、それは神のみがご存知である。しかし、このような魂の高まりは禁じられていたことを思い出し、甘美な涙を流しつつ、静かに例の動きに魂を引き寄せると、受動的な静穏の一致に留まった。いささか努力しなければならなかった。

 第二黙想 被造物は神のもの

 感謝に心を動かされるのを感じたが、少し気を散らしたので神はお喜びにならなかったと思い、不覚にも遜り、心と体を持っておよそ十五分くらいこうしていただろうか。するとどのようにしてだかわからないが、神のうちに深く恍惚となり、魂が体から引き抜かれるかと思った。憐れみとご慈悲をお願いしたが、あのように恐ろしくてしかも甘美な苦悶をもたらされたイエズスは満足しておられ、少しも同情してくださらなかった。神の慰めがこんなにも恐ろしいものであったとは、誰が想像できよう!本当にその通りで、それを説明するすべを知っているなら、と思う。このような状態に三十分ほどとどまり、その後、受動的だが照らされた観想に入り、その中で休息した。とても疲れていたからである。そして、神との完全な一致はまだ得ていないことがわかった。そうであったことがはっきりと見えた。聖人たちが上がられたより高い段階に上ることがまだ必要である。今は絶対的な秘密を持って私の魂の指導者に委ねるが、これから私を置かれる状態についてもこの方に相談することは、お喜ばれすることになるだろう。完全な交わりをするために、私の魂に割って入る障害物をちらっとみたが、それがなんであるかを、どう書き表しどう取り除いたら良いかを私は知らなかったし、それについて尋ねることもできず、知らせてくださいと願うこともできなかった。というのは、その時それは神のお望みではないと分かったからである。

 第三黙想 被造物は神のためのものである

 いち早く心を動かされたのを感じたが、被造物について考察し、被造物である地上のすべての事物は神の斧であり、それらを神の栄誉と栄光のために用いないなら人間はそれを乱用している、という思いに浸った。それは、あたかも神から盗みをするようなもので、持ち主のように被造物を自分の物にするときも同様である。これらの考察をしていると、午前中の愛の一撃を感じ、神の完全性と理性的存在の美しさについての並みならぬ知識とともに題材によってのみ失われる彼らに対して神が持っておられる親しい関わりについて知った。これが全てではない。たとえ命がなく死んだような肉体であっても、そこには被造物の面影が見える。そして、神への参与によって恩恵のうちにある魂は、ほとんどもう一つの神、神ご自身となる。また神の輝きとなることによって、神のように永遠の存在となる、ということも理解した。だが動物たちはこうではなく、すべての被造物と同じように神から生命を受けるが、それは有限な生命だけであって、そのために理性の能力はなく、本能によってのみ神のご計画を実現する。それで、どんな恩恵も留めておくことはできず、理性によってではなく、関わりによって物事を行う。人間はそうではなくて、愛することを止めることができない。たとえ教皇様が、魂は存在しないし永遠に存在するものでもないと言われたとしても、今日与えられたこの核心は、一瞬たりとも疑うことができない。

 第四黙想 この黙想は非常に無味乾燥だったが、でも今回も潜心し、最初の日の夜半にした第五黙想と同じだった。しかしその後、意志に多くの光をいただいたが、もう思い出せない。

第三日 不偏心について その一

 潜心した。主は、三日目を迎えた霊操の要点に従って私の心を調えていかれるようだ。しばらく前から、恐ろしいまでに苦しんでいたある心の闘いに、今日気づいた。私には、この闘いで不偏な心になることなどはおよそ不可能に見える。私の心の平和のためにとても必要な不偏心を得ることができなかったが、よく闘い、よく耐え忍び、今後のための光と力をいただいた。この闘いがいつか終わるとは思われない。本当にひどいものだが、それに負けることはないと確信し、元気づけられて黙想を終える。

 第二黙想 自分に対する不偏心

 要点を聞いていると心が燃え始めたが、このような祈りの仕方はこの日の黙想には適切でないので、退けようとした。すると石のようになってしまい、ウトウトとさえした。これに気づき、自分の弱さに自分が嫌になったが、勇気を奮って考察をはじめ、神にこの過失をお詫びした。このように闘いながら黙想の残りの時間を過ごしたが、黙想が終わる十分ほど前、私の魂に訪れられるイエズスを感じた。「お前の寛大さによってーと言っておられるようだったー私はここにいる。お前の闘いは知っているし、私と私の代理者に従うために、どんなに苦しんでいるかも知っている。(私は前晩から、あの魅力に引かれるままになることを禁じられていた)

No.7 霊操第三週の終わりにあたっての『捧げもの』

   自筆原稿:『霊的手記』No.11:一枚の紙(20X13cm)の片面に書かれている。

 我らの救い主なるイエズスよ、御身の聖なる十字架のもとに跪き、本日、1888年5月26日午後8時18分、御身の母にして我が母なる聖母マリア並びに、聖ヨハネと聖なる婦人たちのみ前で、職務における御身のみ旨に対して、考えにおいてさえも、二度と抵抗しないことを心からお約束いたします。さらには、職務を果たすに当たって出会う名誉、不名誉の機会から逃げないようにすることも、お約束いたします。

 決して不足することはないと確信しております御身の愛と恩恵によって、これを果たすよう期待しております。それは、私の心におん身の恩恵を留め置く主要な防波堤です。 あなたの卑しい婢女は、今日それを、はっきりと見ました。従順によって受けられた御身の傷に、心からの尊敬と愛を込めて接吻いたします。

                            イエズスの聖心のマリア

No.8  終生誓願文

自筆原稿:『霊的手記』No.12:一枚の紙(20X13.5cm)の片面に書かれている。

 我イエズスの聖心のマリアは、ここに修道誓願を宣立し、神の母なる至聖童貞マリア、天堂諸聖並びに列席者一同のみ前で、全能の天主、ならびに天主の代理者にして教皇庁を代表するマドリード・アルカラの司教閣下に対し、終生の清貧・貞潔・従順を誓い奉る。

 更には、同修道会の会憲のすべての規則に従い、イエズスの至聖なる聖心に対してなされる侮辱への償いに、我が全生涯を捧げることを誓い奉る。

               1881年11月4日       

                   本会のイエズスの聖心の聖堂にて

                         イエズスの聖心のマリア E.C.J.

No.9  聖心への嘆願

自筆原稿:『霊的手記』No.13:二つ折りの一枚の紙(13X10cm)の四面に書かれている。

J H S

 至愛なるイエズスの聖心よ、これほどに御身が私を助けてくださいますので、落ち着いてはおりますが、いくらか恐れが残っているといたしましたら、早くも囚われに陥ったからでして、御身のみ業だと私が思いましたのは、敵の仕業でございます。御身の聖なる先駆者の明日の祝日、そして、間もなく御身の聖心の祝日にあたり、我が心のイエズスよ、哀れな罪びとのためにあらゆる慈しみをお願いいたします。御身を焼き尽くす人類救済の聖なる炎を持って私をご覧くださり、私のすべての汚点、すべての不完全さ、あらゆる盲目さ、あらゆる暗愚さを焼き尽くし、御身のこの上ない憐れみの淵からでる聖なるひかりで満たしてくださいませ。それは、私が確かに回心し、御身に多くの光栄を帰すことのできる、完全な修道女となれるためでございます。

 我がイエズスよ、私がはまり込んでおります混沌の中で、もしかすると見せかけかもしれませんが、御身の中に見出すいのちを失わせぬ静穏のみが私を支えていることを御身はよくご存知です。どうぞ私を堅固な徳の持ち主にしてくださり、指導と私を取り巻くすべてのことに対して、我がイエズスよ、私をお照らしくださいませ。なぜなら、御身のみが私の保護者、私の力、そして慈愛の父であって、できる限りこれらを完全に遵守することを固く決意し、決して不足することのない御身の溢れる慈愛に信頼して、私のすべての約束を永遠に御身にお捧げいたします。

 わが心のイエズスよ、今もそして永遠に、すべては御身のものでございます。我が心のイエズスよ、決して私をお離しになりませんように。

                           イエズスの聖心のマリア

No.10 1890年の霊操

自筆原稿:『霊的手記』No.14:小さな22ページの罫線ノート(13.5X10.5cm)の両面に書かれている。

 1890年2月15日

 私は特別なことは全く好きではないが、霊操を始めようとしたとき地獄が騒動を起こした、と言えると思う。昨日は落胆し、不機嫌で、不潔な誘惑を感じて地獄のような一日を過ごし、最後には、一番辛い虚栄の誘惑を感じた。自分がとても偉く見え、他の人の目にもそうだと思っていた。それで、私の置かれている状況に他の人が少しも注目していないのを見ていて、心の中に反対の印象を感じ始めたので、感謝した。髪までもが準備の黙想の間、私をひどい荒みに置かれたが、私はとても嬉しく思い、この状態が続けばいいと願った。

 このようにひどい準備の状態だったので、第一黙想にもそれが続くだろうと思い、喜んでいたところ、神は私の心の目を開き、私を、私自身であるところの無に戻された。なんと幸いな事だろう。どうぞこの無から決して私をお引き出しになりませんように、さもなければ十字架をどうぞ。上からの光で、神が私にしてくださった事、私を創造し、とりわけ神を愛することのできる心を与えてくださったことを悟った。しかし、この愛の心を駆り立てる別の優れた力のあることもわかった。それはより崇高で、もっと偉大で力があり、それなくしてはこの心は命を持つことができない。私にはそれが魂だと分かった。心は身を結ぶ木のように見えたが、この木は、魂のすべてから樹液を受けている。魂はこの木の根であって、根が深ければ深いほど、そしてキリスト・イエズスのみ心という聖なる土地によりのびのびと根をはるなら、がっしりとした木になる。深く根を張り、この肥沃な大地からあらゆる養分を受けなければ、この木は成長することも良い身を結ぶこともできない。反対に、諸徳を実践して清い生活をする中で魂が神を知ることに成長するなら、花を咲かせ実を結び、福音書(注・聖書 “escritura”と書くところを”Evangelio”と書いている)が述べる流れのほとりに植えられた木となる。これらの根は、その甘美なみ名によってキリスト・イエズスに深く入り込み、あるいは一つとなるであろう。この甘美なみ名は、彼に接ぎ木されるに、魂を穏やかにする注がれた香油となる。今書いたばかりのことを魂に感じたように思われ、あの時のようにこれを感じた。そして、観想によってこの見事な木の根である理解力に光が与えられ、得られた知識によって意志に愛が伝えられる。それは心をめぐる樹液であり、愛を行うよう心を促している。しかし、魂なしには心は何ものでもない。だからこそ、翼がついているのを見たことがあったのは、私がすでに述べていたことを意味していたのだ。もし傲慢でなければ、私の魂は恍惚状態になっていて、あっという間に時間が過ぎてしまった。よりよく理解できたが、考えはまとまらない。

第二黙想 理解力は全く働かない。終わりに深く遜っていると、神がお望みにならなければ、私には何も出来ないことが分った。

第三黙想 殆ど考えることが出来なかった。神の恩恵に捉えられていた。

第四黙想 ここで完全に黙想に入った。非常に高い観想だったが、神の富が示されたかのように、その偉大さがこの上ない巧緻さで私の中に浸透した。あまりの偉大さに酔ったかのようで、私の魂は神の顔を見つめて放心しているようだ。又ある時は、神がこのような知恵を与えようとされた子供、それは私のように無知で、とても惨めな存在であるが、そんな子供のように笑っていたその後、不偏心の黙想で悟ったことは、私の最良にまかせられたものをとる為に自由を神に委ねるべきなのではなく、すっかり神お望みままになり、最上の物を、私自身さえも寛大に差し上げるべきだということであって、どんなに辛かろうともそれを切り捨て、神の物として犠牲とすること。そして、苦悩や試練に際してはそれに甘んじ、それらを切望して無中になり、それらが与えられる時は、大きな恩恵として受けること。

 多くの恵みで、溢れる程だった。あまりにも豊かにされているのを観て、充分に遜らせて下さるようイエズスにお願いする。するとイエズスはそうなさり、遜る以外に何も出来ない荒みの状態に私を置かれた。

第二日

 第一黙想 罪について

 先に述べたように、自分の方からは何もできない状態だったので、黙想の間中、へりくだって過ごし、このような自分に満足していた。黙想がもう終わりかけたその時、私の魂に命を与え、私の精神を強められるイエズスを私の中に感じ、このような状態で聖体を拝領しに行った。

 主を拝領すると、乙女らを生むぶどう酒に酔ってしまった。本当に、聖体を拝領すべきではなかった。というのは、魂がこれほどの豊かさに圧倒されたのに気づいたからで、魂はその中に消え失せ、自らの無と惨めさに逃れようとしている。これほどの善の造り主である神は、ご自分の懐に魂を抱き上げ、優しいみ腕で支え、この世のものではなく、表現のしようもない甘美さで魂を満たしながら、ご自分の顔に触れさせ抱き締められる。以前に読んだことのある、聖母マリアに当てはめた雅歌の一節が、私の中で実現したようだった。それは確かにこうだった。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に述べ、右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。」

第二黙想 第一黙想と同じテーマ

 初めから終わりまで、できる限り遜った。

第三黙想 とても無味乾燥だったが、気は散らさなかった。いつものように、私に求められるのは何一つ拒まず、神のみ手に全く委ねる。それを果たすには、たとえ命がけであってもである。

第四黙想 前よりもっと敬虔で、非常に心が動いた。修道生活の実りを心地よく味わった後、私の本性にとって、不変の心となるのに最も骨の折れる辛い事柄について内省してみた。すると、私が試練と呼んでいたものが実は罰ではないのか、という考えに打ちのめされた。私はひどく動揺し、涙ながらに祈り、できる限り謙虚になって、これについて解明してくださるよう主に願った。見捨てられたかのようで光も慰めもなく、悲しみにくれて三十分余りが過ぎた。最後になって、私の悲しみは慰めであり、私の苦悩は安らぎであったこと、また、苦しめていた修道会の恩人や友人に対して、実は最も親しい友人として彼らに接していたことが分かり、慰められた。しかし、もっと光をくださるよう繰り返し願おう。何人かのとても立派な方たちが、一度ならず私にそれを気づかせてくださったように、騙されるのではないかと心配だ。

第三日

第一黙想 種々の罪について

 受動的一致のうちに心から遜る。

 ミサの間中、愛が溢れ、わが主が酷く扱われるのを見て心の底から涙を流し、悲しみにくれた。ユダヤ人たちの手にかかっておられるのを見ているようだったが、これは以前にもたびたび経験している。

第二黙想 種々の罪について

 前回と同じように始め、考察しようと努めたが、いつものように心は干からびていて、終わりになって光があった。私の心をやさしさ、静穏そして平和で満たした後、それはさらに大きな光となった。心はとても感動していて、前回の黙想で行った謙遜の行為によって受けた恵みの成果を味わっているのが見えた。そして、主は私の心がガラスのような透明さではなく、とういうのは、ガラスはしばしば完全には透明でないからであって、あたかも光のように、一点の曇りも許さず透明で鮮明であることをお望みであると理解し悟った。

 死と審判の黙想は退屈で、努力したが無味乾燥だった。遜る以外に何もできなかった。

第四日 

 地獄について。前回と同じ。糾明の際にはもう少し敬虔だった。

 ミサの間、聖体拝領への激しい望みで粉々になりそうだった。魂がこの糧を、これほどに熱望するとは思いもしなかった。食べ物なしには体が衰弱するのと同様に、この糧なしには魂は萎えてしまうことを、今日体験し、実感した。

 八時まで、残っていた時間をずっと祈って過ごし、深い潜心が訪れたので、そのままにしていた。その中で、私の魂がすでに神の愛のすべての成果である恍惚、洞察などを(私の小ささに応じて)受けていたことが分かった。それらは、神によって私の魂に植えられた木に咲いた花となっているが、神はこの花の実をも与えることを望んでおられる。その実の一つは奇跡の恵みであった。私は目の前にこれまでの苦悩と苦労した仕事を一つ一つ見ていた。身につけた諸徳もそこにあったが、それら全てはもっと成長させるべきで、それらの実が熟すために、とりわけ謙遜に秀でるべきであった。それが確実なものとなることがはっきり分かった。というか、むしろ私の魂が、もっと労苦に満ちた生活を新たに始める必要のあることに気づいたのだった。確かに神の霊は、というか神ご自身はその中で自由に振舞っておられるが、しかし、他の恵みを与えるに相応しいものはまだ見出しておられない。将来にはそうなること、それらをうることができるが、それが実現するには、棘だらけの小道を通らなければならないことが分かった。この世には生きず、あたかも存在しないかのごとくに生き、苦しみながらも私の存在を拘束せず、つまり、全く超自然的な状態で行動することで、それは単純さ以上のもの、あたかも神と一致した状態である。説明がついただろうか、それとも私はでたらめを言っているのだろうか。いずれ注意してもらえることだろうし、これが私の慰めである。

第二黙想 いつくしみについて

 潜心し、私に対する主のいつくしみを一つひとつ挙げてみる。また、私の忘恩についてもそうしていると魂が照らされ、慰められ、深い穏やかさが注がれて、今日、罪を赦され清くされたように思われる。

 最近のある日、一致の観想の中で、四つの見事な資質が魂に伝えられていることが分かった。平静さ、明晰さ、軽やかさ、繊細さで、この四つが私の中で働くのを見、感じているかのようだ。

第三黙想 キリストの国

 潜心し、イエズスのみ心の栄光のために無条件で自分を捧げただけでなく、たとえ私の名誉や命を犠牲にしても、聖なる恩恵の助けによって、できる限りの栄光を捧げることを決意しお約束した。私の司令官イエズスのために何かをすることができることがとても嬉しく、非常に張り切って黙想を終えた。とりわけ、諸民族が聖体を礼拝するようにすることができることでそう感じたが、これは実に偉大なことであるのに、ほとんど大切にされていないことが分かった。わたしの絶え間ない実行は謙遜の第三段階、あるいは第十一の規則の実践でなければならない。

第四黙想 ご託身について

 お告げの場面において深く潜心し、現在、私に起こっていることを具体的に当てはめてみた。アダムの罪は大きかった。だがその賠償は、それにも増して大きかった。年月は経っても、今も溢れるばかりに豊かである。私たちの所にも、同じようにして届くだろう。そう実現されるという確信に満ちて黙想を終える。この点についての多くの光をいただいた。お告げとご託身についての要点は、残念ながら急いでしなければならなかった。

第五日

 ご降誕。いつも以上の光と、この光によって深い穏やかさと霊的な喜び、そして、聖三位のペルソナから学んでことに、できる限り倣おうとの非常に固い決意。世間を臭わせるものすべてを心の底から軽蔑し、あの場面で教える超自然的・神的な生活を十分に感じ取るよう力の限り努力し、この地上には存在しないかのように生き、ここで学ぶのが実に適切な、私の受けたいくつかの教えをたえず反芻すること。

第二黙想 エジプトへの避難

 潜心し、とても熱心だったが、恐れを感じた。敵によるものだが、それで熱意が冷めた。しかしその後再び潜心し、私が習わなければならない、この逃避行におけるマリアとヨゼフの実に極端なまでの信頼を、十分に私の中に植えつけようとした。許されるものなら、せめてあと五日間これについて引き続き黙想すべきだと思う。ご自分の喜びである御独子とその聖なる両親に対して、神は、いったい何というやり方で徳を実践するよう、求められたことだろう。しかも、何ともひどい方法で、信仰と諸徳を試されている彼らはこの上なく聖なる人たちだったのに私たちに模範を残すためどれほど私に教えていることだろう!同じ様な状態に置かれたときには、この神秘にしがみつき、この聖家族に倣う様にしよう。そうすれば、何物も私をぐらつかせることはできない。苦しめられるならなおのこと神にすがりつくこと。祈りが常に私の糧でなければならず、どんなことのためにも、誰のためにも祈りを投げ出してはならない。もし私が神から見捨てられているようだったら、なおいっそう神によりすがり、祈りの力にのみ頼ろう。

第三黙想 神殿に上る

 光はわずかで、何にも集中せず、指導を受けることをやめなければならないことだけが心にあった。指導によって得られた数えきれない恵み、免れることの出来た危険、神を知り喜んで諸徳を実行する道を走れるようにしてくださった堅固さ、的確だったあらゆる指導を思い浮かべた。つまりは神のみ手とされていたのであり、神父様を知った時に魂に衝撃を感じたことも、神が与えられたものだとわかった。とはいえ、これらすべてを、非常に大きな犠牲ではあるが求められるのなら、私は無条件でそれを行う。

第四黙想 隠れた生活

 深く潜心し、あのナザレトの生活が、私の小ささの中でどうしたら実現できるか、とりわけ聖母マリアの生活が可能であるかについて、深く理解した。私は、常におん子イエズスのみ前にあって聖母は苦しまれることは全くなかったかどうかを知りたかった。聖母は苦しまれ、それもひどく苦しまれ、苦しみの中であらゆる徳を実践された。信仰のうちに、なぜなら仕事のためにイエズスの姿は見えなくなるが、それは彼女にとって、堪え難い殉教の苦しみだった。イエズスを切望する思いはいっそう深まり、何者によっても弱められなかったからである。必要なものにこと欠くときも、彼女は忍耐と優しさをもって、永遠の御父が彼らに満足しておられることを見ていたし、信じていた。しかしそうは言うものの、彼らに必要なものは与えられず、愛しい幼子のためにはごくわずかだけで、すでにその頃病身だったかもしれない聖ヨゼフが額に汗して働かなければならなかったことも、彼女は見ていた。このことは、私に、何かが不足した時に忍耐し辛抱強くあるように、また願うことがなかなか聞き入れられなくとも、待つことを知るようにと教えてくれる。

第六日

第一黙想 隠れた生活の反復

前回の黙想よりもいっそう潜心し、その時と同じ光をさらに受けた。

第二黙想 割礼

 とても受け身だったので、自分の方から積極的にしようと望んだ。そうできたが、初めに愛の激情を感じた、こんなに赤ちゃんのイエズスが、そのみ心でつくられた血を流されたので、それに引き起こされたのである。しばらくすると魂は幾らか堪能したので、五感と意志についての反省を始め、割礼を施さなければならないものはないかを見た。最初はほとんど何も見い出さなかったが、しかし、その後たくさん、それも非常にたくさん見つけた。この甘美な幼子は私の師となられ、五感と意志のすべてを巡り、それらにとって余分なものと不足のもの、そして、今私に求められておられる絶対的な節欲を分からせてくださった。すべてにおいて十字架につけられていること、それで十分だ。

第三黙想 イエズス神殿で姿を消す

 潜心し、私を孤独のうちにおいて姿を隠しておられるときのことを当てはめ、いつもしていることをもっと完全に果たす決意をする。それは、たとえそれがこの上なく辛いものであっても、常に同じ熱心さで神に仕えることである。この黙想でも他のほとんどの場合と同じく、イエズスとの間に、ある打ち解けた親しさがあった。

第四黙想 誘惑について

 すぐに祈りに入ったが、その後光は平凡なものだった。キリストの三つの誘惑を私のいくつかの状況に、特に神の事柄を人間的な知恵によって(人々が)処理しようとする場合に当てはめてみた。このような場合に私のなすべきことは黙すこと。そして、神のみ旨だと承認されたと分かったなら行い、決してためらわないこと。

 聖体のみ前でした糾明の間、とても大きな愛の激情が訪れ、ほとんど三十分くらい続いた。その間、神がとても偉大に、そして自分がとても小さく見えたが、それにもかかわらず、私は萎縮しないばかりか帰って伸び伸びとしていた。なぜなら、神を神そのものとして、また、自分を自分そのものとして見ていたからである。自分の小ささをを見て私は自分の中心にいる。なぜなら、神は私の中で全てを、そして私のことを全部してくださるのが分かるからで、それが私の望んでいることである。

第七日

 二つの旗。選定について述べるべきではない。光を受け潜心する。五感の活用では知性と意志をより働かせた。キリストの旗が私に教える全てを全存在をあげて倣い、とくに謙遜と柔和を外的・内的に、そして行動において倣うことを真剣に決意する。敵の旗についての説明を聞いた時、全力をあげて彼らと戦う為に働こうとの激しい勢いが与えられる。それで命、名誉、そして全てを失ったとしても怖くない。

 ミサ中というよりも、より正確には聖体を拝領する時、私は魂にイエズスを感じ、その間中、魂は照らされ、イエズスとの親密な一致の情愛を味わう。そしてわかったことだが、私が切望しなければならないのは謙遜の第三段階に達することであって、これは、霊操の初めに示された木の実に相当するものである。しかしそれを得るには、揺らぐことのない不動の精神を持たねばならない。

第二黙想 三組の人もしくは三人の病人

 命をかけてでも病気を治すこと。よく言われることだが、肉体が絡んでいるが、神の恵みと謙遜な祈りによって私は強められるだろう。

第三黙想 十字架上のキリストの貧しさについて

 とても平穏で自然な能動的観想のうちに、深く潜心する。外面的に貧しく、何一つもないイエズス。自分にそれを当てはめてみると、今の私とどこか似ている。人間的な期待の、なんという脆さよ!あれほどわずかの間に、なんと多くの計画が消えてしまったことだろう!しかし神は今も存在しておられ、神に信頼する者には何一つ欠けることはない。心の中で私に当てはめてみた。イエズスは見た目にも全く貧しく、その貧しさは、永遠の御父のうちに慰めを見いだすことができないほどのものだった。御父はイエズスを完全に見捨てられ、彼が苦しむままにされた。私には何があるだろう。何もない。徳もなく、神が私の小ささに応じてくださろうとするものだけである。私の言葉や行いは信用されず、ひどくおとしめられている。神からも自分の力だけにされているようで、私の誤りを罰し私のひどい盲目さを悲しんでおられるようだ。神はこのような状態に私を置かれる。それが神からの試練であって、私の罪(それはたくさんであるが)、でも悪意によるものではないが、それが原因によるのでなければ私は幸せ者だ。勇気を出し、広い心を持とう。私に対するイエズスのご計画に限界をつけないようにしよう。私が間違っているなら、心の目を開いていただこう。彼のお望みに対して、彼が喜ばれることをし、またはしない心構えができている。

第四黙想 十字架上のキリストの従順について

 外面的には四本の太い釘で打ち付けられ、少なくとも、その尊いお体の最も敏感な部分にある痛ましい四つの傷によって、宙吊りにされておられる。私に当てはめてみた。私も四本のとても痛い釘で、私の十字架につけられている。釘そのものには何の咎もないが、イエズスの釘と同じように、永遠の御父のみ旨によってそうしている。イエズスはどうなさったであろうか?死ぬほどの苦しみをもたらしたにもかかわらず釘を愛し、釘によって十字架につけられたままになられた。私はどうすべきだろうか?同じようにすること。これらの釘によって十字架につけられたまま喜んで生き、その硬さで殺されるに任せること。私にとってその釘は、ほとんどいつも非常に硬い。イエズスは釘によって支えられ、空中に吊り上げられていた。たとえ釘によって引き裂かれようとも、苦しみをいとわず、これらによって引き起こされる苦しみを、和らげようとはされなかった。このように、私も神がお望みになる間、これらの釘によって釘付けられていること。

第八日

第一黙想 十字架上のキリストの貞潔、というよりこの誓願の遂行

 深く潜心し、非常にうつくしいがとてもデリケートなこの誓願の偉大さを思い巡らした。そして、イエズスのみ心に新たな刺を打ち込むことのないように、感覚と能力を厳しく節制することを決心する。また書くときは、極めてゆっくり、かつこの上なく慎重であることが分かった。

第二黙想 お墓について

 非常に潜心し、同時にとても能動的だった。新しい微妙な味わいを感じつつ、キリストの果てしない苦しみの海に入り込んだ。もちろんのこと、全てを自分に当てはめてみた。そして考えたのだが、キリストは死に際して、心臓は停まってもその愛は死ななかった。なぜなら、愛は魂に宿っているからだ。霊操の初めに受けた、魂が心の源であるという光を納得していたので、私の望みである救霊熱を広めるために何もしない時は、主が私に教えてくださるように、祈ることと私にできることをそっと行うことで満足する決心をした。問題を扱うには、死んだ者のようであることという決心を効果的に実行しなければならない。体は死んでいても、魂だけは、神と人とのために愛に満ちて活動しておられたキリストに倣う。

第三黙想 聖マリアへの出現

 潜心した。だがあまりよく考えることはできなかった。想像力が停まってしまったようだ。怠けていたのではない。気持ちは明るかった。

第四黙想 昇天

 非常に潜心し、何を待っているのかと天使たちに言われた時の弟子たちの悲しみに、涙さえ流した。彼らにとって喜びの全てだったが、弟子たちは、イエズスの姿が見えなくなった場所を放心して見つめていた。力づけられはしただろうが、なんと悲しくエルザレムに戻ったことだろう!糾明の終わる頃、特別な喜びを魂に感じた。弟子たちは悲しんで戻っていったが、彼らのために働かれ大いに苦しまれた方の栄光のために働きたいとの特別な望みを、彼らは感じたことだろう。私もその時、同じ望みを感じたし、黙想の間中、そして前回の黙想でもそうだったが、それは喜び以上のもので、イエズスの栄光に大いに関心を持ちたいという強い望みを感じた。今は彼のためにうんと働くこと。喜びを味わう時間は後でたくさんあるのだから。

第五黙想 神の愛について

 最初の要点で非常に深く潜心し、私たちを創造するときに神がなされたこと、私たちを富ませられ、それから私たちを贖われた恵みについて、多くの光があった。何と驚くべき神秘だろう。この神は私たちを養い、すべてを与え、あらゆるものを備え揃えてくださる。必要なものだけでなく、ごく些細なものに至るまで、溢れるほど豊かに与えられる。それらすべてを使っても、何んの報いも求められず、これほどの素晴らしい恩恵を認め、それらをかみのより大きな栄光と愛のために用いること、ただそれのみを求められる。最初に創造された人間の何人かはこの掟を守ったが、あるものたちは守らなかった。神は全ての人を同じように愛し、皆が救われることを望んでおられたが、愛によってはご自分の元に引き寄せることがおできにならなかったので、私たちが知っているように、恐れによってそうしようと彼らを罰された。しかし、それでも人間は神の元に立戻らず回心しなかった。神は変わらぬお方であって、そのなさることは事実として残るので、神の似姿として造られ、とても完全な存在である人間がした侮辱は、彼らの永遠の父に対してなされたものであり、神の第二のペルソナであるおん子がこの神の作品を賠償しなければならなかった。神のおん子は、侮辱者である人間と同じ存在にならない限り償うことはできないと知って、人間性を取るために天から下られた。人間は被造物の乱用によって滅びたが、神のおん子は、被造物に事欠くことによって償い、尊いお体に苦しみを受けて、罪を贖われた。神のこのような恵みを認めず盲目となっている未信者や異端者に深い同情を感じ、良くない信者に対しても同様だった。そして、できる限り人々が神を知り、愛するようにし、そうできなければ祈りを持ってしたいという、非常に強い望みを抱いた。きっと聖フランシスコ・ハビエルはこの黙想で、神の栄光を人々につけるためにしたあの働きのための力を得たのだ。これを目の前にして、キリスト者を怯ませることがあるだろうか?我イエズスよ、この黙想でも、他のすべての黙想の時と同じく、これほどにまで、こんなにあなたを知る幸を得ましたので、あなたの聖なるみ教えが身を結ばずに終わることがありませんように。あなたご自身の功徳、あなたの聖なるおん母、そしてあなたの光とみ教えに実に見事に協力した諸聖人の功徳によって、これをお願いいたします。  

 そして今、我イエズスよ、この恵みの日々にあなたにそういたすべてのあやまちをおゆるしください。

No.11  イダルゴ師への霊的報告

  • 自筆の下書き原稿:『霊的手記』No.15:二つ折り罫紙21X13.5cm

                第四面の一部にまで書かれている

a

 何もお話ししないのではないかと恐れますが、でも、もうこれ以上黙っていることはできません。神父様がご存知のように、私の盲目さはひどく、それは私の責任でございまして、私の情欲はとても強く、いささか引きずられるままになりましたことに気づいております。でも不思議にも完全にではございませんでした。同時に、神父様や皆様がご覧になるようには自分を見る分別を私は失っていると思い、しかも、さらに酷い誤りと思われますのは、神のもとに参りますとき、いつも神が憐れみを持って私を迎え入れてくださり、しばしば、私自身から引き出されてしまう、とても親密な一致を持ってそうされるということでございます。なぜなら、私を彼に変容してしまわれ、私の魂のうちに住まわれ、あたかもご自分の家のように、どんな小さな妨げもなしに自由に出入りなさるからでございます。そして一つの事を教えられましたが、それが常軌を逸した事でなければ、それは私に、神を知り、自分自身を知り、私を取り巻くすべてを認識させるこの上ない神の英知だと思われます。でもその後、この照らしはなくなりはしませんが、私の理解力は厚い雲に覆われてしまったようで、再び叡智の光が外に表れるのを妨げております。しかも、普段には光はもっと明るいのですが、時によっては全く暗くて、私の能力はすべてのものを隠してしまう地の厚い魂のランプ・シェードのようになってしまい、上手く話すことも考えることも何もできません。上手に説明することができませんが。私の魂には、神との間に何の秘密も内容です。どの読書もお説教も、その他のすべてが私を確認してくれるようでして、時折、私の心の中に「力ある方が、私に偉大な事をなさいました」という言葉が、湧き上がってまいります。

 多くの労苦を感じておりますのに、それなしには生きていくことができませんで、労苦が和らいで参りますと、それへの渇望が顔を出し、絶え間ない恥ずかしめの機会が与えられます。それでございますので、しばしばそのような当惑を感じ、軽蔑と困惑が顔に出て、皆がそれを読み取っております。これが抵抗させる力を持っております。

 外面的な苦しみは取り除くように致しております。通常の道から免れたくないからなのですが、すべてがそれに抵抗し、引き続き無関係のように思われますし、この確かな道によるものである事を十分に確かめるために、闇と沈黙が強く駆り立てるようでございます。それが得られる事をこの上なく喜んでおります。と申しますのは、諸徳の実践のうちに充分に試す事を熱望するからでして、それがすっかりどころか、あまり人目につかないように、特に実践に際してそうであるよう切望しております。神父様、こんな言い方をして申し訳ございませんがどうぞ知らぬ顔をなされず、お調べくださいますように。

 ほんの一筆ですが、神父様に全てを知っていただきたく思いました。私の自然性は、神が私を置かれたこの闇と屈辱の状態に抵抗し、時には逃げ出します。それに、他の人たちが、自分たちのものでないものをそうであるかのようにするのを気づかぬふりをするために、ひどく自分を抑えなければなりません。でもそれを得るよう努力しておりますし、すでに得始めて降ります。「他の人たちがお前についてどう考えようと、それが何だというのだ。私だけでいいではないか?」と、神が私に言っておられるようです。

 (b)自筆原稿:『霊的手記』No.16:一枚の罫(21X13.5cm)の一面に書かれている。

b

 苦しみは私の魂を研ぎますが、神はそこに住まわれ、木が青々として頑丈に育つための樹液のように、有り余るほどの力を与えられます。しかも、神とこの魂との間には分かつことのできない秘跡的な一致があるように思われますので、この両者はもう分かつことができません。しかし、私に魂の大いなる清らかさを要求され、神の眼差しは私を照らし出し、その光の中でごく僅かな醜いものも示されて、それがなくなるよう要求なさいます。これにはいささか驚かされました。なぜなら私は弱いものですし、犠牲は骨がおれるはずだとわかるからです。でも同時に、勇気も感じました。

 泣き言を申しますのをお許しくださいませ。と申しますのは、覆いが示され、いのちの主のものとなっていて魂から離れておりませんが、それを完全には見ないように制し苛みます。どうして独りだけにされるのでしょうか?

No.12 1890年の種々の決心

  • 自筆原稿:『霊的手記』No.18:二つ折りの一枚の紙(13X10.5cm)の三面に書かれている。

a

 待つ、という賜物は、適中させる賜物である。もうずいぶん昔にイダルゴ師からいただいた勧めであるが、今日それを体験的に知った。

 私は、修道会とその一人一人が落ち込んできても、決していっぱいにならない底なし井戸にならなければならないし、各自の事、また全体のことを聞くときはいささかも心を乱さず、私を助けてくださる神に信頼して、この上なく泰然自若としていなければならない。この神は、はかり知れない英知と、人間の知恵にはすっかり隠されている方法をもって、しかし摂理の糸によって導かれるものにはとりわけ、いつものようにすべてを取り計らってくださる。

 神は、堅固な徳の実践を求められるので、それを実行する機会を私に与えられる。このことを忘れてはならない。

 ある姉妹に対して自己弁護しようと固執してはならない。そうではなく、彼女が反対する意見を聞き、一度は穏やかに自分は反対であることをわかるように話す。それでも納得しないときは、神に委ねること。そしてその間に、もしかして私が間違っていて、その姉妹に反対していたのではないかどうかを確かめること。

 すべての徳を、でも今は何にもまして、極限まで忍耐深くなければならない。

 会議では、発言に最高の賢明さを持たねばならず、この上ない思いやりをもって、皆の語ることに耳を傾けること。

b)自筆原稿:『霊的手記』No.19:二つ折りの紙(15.5X10.5cm)の三面に書かれている。

b

 姉妹とのかかわりに、外部の人に対しても同様に、今日からは聖なるいたずら心を持とう。

 誰かから注意されるときは、深い謙遜をもって聞くこと。改善できるものはそうし、できないもの、あるいははっきりと見えないものについては、確かめるために考慮すること。

 誰かを褒めるときは十分に用心深くすること。好意を持っている人については、特に慎重であること。

 皆の中に素直さと一致があるようにし、穏やかにではあるがそれを促そう。

 すべての過失をすべての人に注意すべきだが、相手が落ち着いて穏やかにしているときにすべきで、動揺しているときには決してしないこと。

 忍耐を持って皆の話に耳を傾け、相手が話したいだけ話させること。

 誰かが、失敗を私に忠告されるのを喜ばないと気づいたら、祈りを通してそれを行うこと。そして、皆が集まる時までそのままにしておくのが上策である。

 時折、夜の見回りで皆の自室を訪問すること。

不幸にも、偏った人となりによって誰かがある過失を度々繰り返すのに気づいたら、思慮分別をもって、あるいは読書、あるいは説教を通して分からせるようにすること。

N0.13 イダルゴ師への霊的報告(1891年の霊操)

自筆原稿:『霊的手記』No.20ノート状(21X13.5cm)の四面に書かれている。

J H S

 どの霊操においても、観想の光にかけることはありませんでした。しばらく前からこの光は私を離れることなく、静かに私の魂を照らし続けております。この光によって、神が私にこれらの苦悩や労苦(そう呼ぶのは恥ずかしいことですが)を送られるのは、神が私をとても気に入ってくださっているからだと分かりました。それに対して十分に感謝する方法を私には決して分からないでしょう。また、もっと寛大でなかったことを悔やむ日が来るであろうと気づきました。

 主をお喜ばせするには、この道場において、巨人の足取りで、しかも人目を引かずに歩み前進しなければならないのでございます。侮辱、軽蔑、誤解などを私の魂の糧とすべきでして、と申しますのは、キリストは、これによってご自分を養っておられたと分かりましたし、こうして鍛えられた魂に、主は親密な結びつきをもって一体となられ、主の愛そのもので満たしてくださるからでございます。

 これらすべては、二年前に聖三位が私の魂を占有なさりたいと思われた時に、私に思いつかせてくださったことの実現でございます。しかしその前に、これはキリストの十字架になっていなければなりませんでした。その日のことでしたでしょうか、あるいは別の日でしたでしょうか、この十字架は、英雄的な諸徳によって作られるものだと分かりました。すでに、すべては実現しつつあるように思われます。

 神父様には何か不明瞭でためらわれ、信用することがお出来にならないことであったことが分かります。当の本人である私には、神父様のご様子がわからず、神がお役立てになる道具に対しては、むしろ信じることですからそれで怖くなりそのために神父様、私はもう随分前から何もお話しせず、神の摂理のままに任せておりました。神父様が私にとりまして母親以上の存在でいらっしゃることを断言いたします。再度、神父様にお縋りして助けをお願いすることは、神父様のお望みでもあるように思われますので、どうぞ、私の魂においてなされる働き、聖化の業への協力をお辞めにならないでくださいませ。私は、神父様が、耳にされる人々の意見によってではなく、神からの霊感のままに私をお導きくださることが、神のお気に召すことだと理解しております。たとえそれが神父様のお役に立つとしても指導とは別に私を試し謙遜にさせるために役に立つことでございましょう。お分かりいただけましたでしょうか?

 私を指導して下さいますとき、神父様は他に何の底意もなく、誠実にお話しくださいますが、私の魂が受ける光と力については、何とも説明のしようがありません。しかし、それを他の方法でするとき、辛く感じます。なぜなら、私が望みませんと魂は思い止まり、引っ込んでしまうからでございます。

 これらの霊操で、いつものように、神父様のご指示どうりに考察するよう努力いたしましたが、でも全然できませんでした。時間を無駄にしましたでしょうか?いいえ、この観想の光は私の感覚をとらえてしまい、あらゆる最も熱心な黙想の時以上に私に教えてくれました。私にできることといえば、黙し、沈黙と驚くべき孤独のうちに内心を見つめ、魂にもたらされる黙想の実りと、それらについて必要としていた堅固かつ極めて実際的な勧めを見ることでした。実に満たされた状態で、このような状態も、これほどの時間だったことも初めてでした。しかも、自分がとても悪い人間に思われますのに、理由もなく、非常に特別だと思われるこのように素晴らしいことを見て、私は黙して導かれるままになり、涙がこぼれるほどに感謝の念に満たされました。片時もご自分の元から私をお放しになろうとされない、あの慈しみのみ手は、私の魂の内奥を広げ、その傷をお見せなりながら、私に手当てをしてくださいました。しかし、起こった出来事を私に見させ、注意深くそれを当てはめられました。このようにして最終日、枝の主日の日の食堂での読書の折に、私の身に起こった事が確証され、霊操の精神に適っている事が分かりました。なんと嬉しかった事でございましょう!

 三日目、第二黙想をしていたときだと思います。光と明るさに満たされた私が、神の奥深くにいるのがみえました。あまりの良さに驚嘆し、時間を無駄にしたのではないかと恐れておりますと(なぜなら、こんなにも素晴らしいことが一体どこから?)、大きな光に包まれた私が示され、私はそれを見ました。大きな光というよりも太陽のようで、それは神でした。その太陽の中に私が見えましたが、それは、違った色をした小さな火のようで、その周りには、私の弱さによる不完全さによってできた、黒ずんだ環がありました。

 私は考えておりました。こんなにも神の奥深くにおりますのに、その光がこれらの影をぼかさず、私のこのわずかな明るさが、どうしてあの光と混ざらないのでしょうか。そして分かりました。神の光と共には、他のどんな光も混じりませんし、ましてや、どんな不完全さとも混じる事はないのです。それで、光が太陽と混じるように見えても、互いに異なる二つのものは、どのような物体に映しても、対象物は美しくなってもその属性は失われず、そのままに存続し、より明らかになるだけです。そのように、神の光と共なる義なる魂、もしくは愛徳の宿る魂は、あたかも神に同一化するように思えますが、事実はそうではありません。確かに神から恩恵の賜物を受けますが、天国でさえも同じにはなりません。

 あそこに、神の中にこそ私たち入るべきであり、神からすべてを受けるべきですが、しかし、彼の神性が父および聖霊と同一であるなら、聖マリアとも、あるいはまた私たちの神の人生とも混同する事はないのでございます。

N0.14  1891年の霊操の決心

自筆原稿:『霊的手記』No.21:一枚の罫紙(21X13.5cm)の二面に書かれている。

 1891年のこの霊操において、主が光をくださった決心。

 すべての霊的務めを、それだけを考え、深い潜心を持って行う事。

 接するすべての人のうちに神の姿を見、率直に、外面的な尊敬をもって、しかも極めて礼儀正しく接する事。

 言葉遣いによく注意し、どんなことにも決してあわてて答えないこと。

 私について理由なく言われたことに対し、言い訳をしないこと。

 穏やかに平和な心で真実を示し、決してかっかとしないこと。通常は一度だけ、もし問われたならせいぜい2度まで、信じてもらえないなら、良心のあかしによって平穏な心でいること。

 糾明、告解は、いつもきちんとよく行うこと。

 提案してくれる姉妹に対して、心配りをして話すこと。

 快適な安楽な姿勢をとらないこと。

 内的な愛の精神、他の人の外面に現れる短所よりも、長所に注目すること。

 自分を虫けらのように、あるいは虫けらにも劣るものとみなすこと。

 何によっても悲しまないこと。

 他の人の霊的・身体的な善を喜び、しばしばこれらの贈り物についてよく話し、これらを与えられたことについて、主に感謝の行為をすること。

 女性的な想像力に決して重きを置かないこと。

 いつも、言葉を持って活気づけること。

 私の欠点、あるいは他の人の欠点について言われた時は、決して弁護しようとしないこと。むしろ他の時にすべきである。

No.15  完徳の永遠の誓い

イダルゴ師の原稿の自筆の写し:

    『霊的手記』No.23:二つ折りの用紙(15.5x12cm)の二面に書かれている。

1892年1月1日 聖体拝領後

永遠の誓い

 わが愛し奉るイエズスの貫かれしみ心よ。私、み心のマリアは、私への愛ゆえに尊いおん血を流されたこの日この時にあたり、感謝し、この尊いおん血にふさわしく応え、愛すべきみ心の大いなる栄光のために、完全な規則遵守、深い謙遜、およびできる限りの最大の節欲を持ってすべてを行うことを誓います。

 私の命であるみ心よ、尊いおん血が私の心臓を循環し、あなたの犠牲的な愛の生活を生き、あなたのより大きな栄光のために、あなたを讃え共に在ってその眼差しを楽しむ天のエルザレムにおいて、栄光に輝くあなたの愛に私を変容してくださるとお決めになる時まで、尊いあなたのおん血を私にお注ぎください。アーメン。

 汚れなき乙女である、わが母マリアよ。この誓いの証人となり、わが生涯の日々、これを忠実に守ることができるよう、どうぞ私をお助けください。神のおん子の母として栄光を受けられたように、あなたの娘である私によっても、栄光をお受けになれますように。なぜならあなたは母として、私に対して、すべての権能を持っておられるのです。

 この自発的で撤回し得ない誓いをさらに義務として課すために、マドリードにおいて、上記の日の聖体拝領後にこれに署名いたします。

 1892年1月1日に、署名はいたしませんでした、本会マドリード修道院でこの誓願を立てました。くすしくも誓願を立ててから14年目が巡ってまいり、本日、乙女聖マリアのお告げの祝日であり、神の子のご託身の祝日であるこの日に、ローマの私たちの修道院でこれに署名いたします。また同じこの日1864年に、コルドバの現在は本会お聖堂になっている聖ヨハネ教会で、私は永遠の貞潔の誓願を立てました。

                       イエズスのみ心のマリア  E.C.J.

    1907年3月25日 ローマにて

No.16  イダルゴ師への霊的報告

自筆原稿:『霊的手記』No.24:二つ折り用紙(21X13.5cm)の四面に書かれている。

1892年4月3日

 私の仕事の進み具合と霊の歩みを神父様が懸念しておられますことは私をひどく悲しませ、苦渋に満たされて主のもとに駆け寄り、神父様と皆様方が私についてご覧になっておられることについての知識と光をお願いしております。皆様方のご希望に沿って確実に歩むことができるためでございますが、私にはそれが理解できませず、むしろ逆に理解されるのでございます。

 そこにおいて、神のみ前で涙さえ流して闘いましたが、何を得たとお思いになりますでしょうか?大きな確証さえ持って、私の身に起こっていることは試練であり、すべての人は誰も罪を犯さずに神の道具であること、そして彼らの非常に大きな誤りについての深い明白さでした。しかしこれら全ては、私を苦しませるためにひどく苦しみ、多くの場合、あるいはほとんどいつも神の栄光を損なう人への同情と深い謙遜を伴いました。

 それで私は元気づけられ、力づけられまして、私の魂が受ける益と富を前にし、また神がそれをお気に召しておられますので、嬉しくさえなっております。

 これはいつものことですが、先日はこれを感覚的にお示しになりましたので、これを神父様に黙っておきたくございません。4月1日の糾明の時間に、つかの間、私の魂が幼子の姿で現れました。いつものようですがとても美しく、生き生きとしていました。あのような成長は、骨折りと闘いの中で得たのだと分かりました。それはイエズスに深く愛されているように見え、極めて緊密に一致していて、彼はその魂のうちで、言いようもなく満足しておられました。

 あまりの幸せに私は驚嘆いたしました。と申しますのは、あの日あの頃、私は地獄の闇、苦しみの海に沈められていたからでして、私の盲目さと頑迷さによって、もうその瀬戸際にあると思っていたからでした。

 私の魂が満たされた平和、光、甘美な喜びが誰から与えられたかを、私の魂は知っております。と申しますのは、確かにこれは模造できるものではなく、実に教訓的で非常に確実な驚くべきその光景も同様でございます。私は父なる神のみ手に委ね、たとえ地獄全体が立ち向かってこようとも私の上にみ旨が行われますように、と申しあげるばかりでした。

 神父様、私は格別の愛を持って、しかも際立って並外れた愛をもって神から愛されていることが分かりました。イエズスにとって、彼が愛した魂たちの中でも最もそうであることを分からせてくださったのでした神父様、お許しくださいませ。このようなことを申し上げますことがどんなに恥ずかしいことであるかを、お分かりいただけると思いますが(黙って握りつぶしたほうがよかったのではないかと怖くなり、震えております)。光、交わり、接触、眼差し、諸徳についての理解、そして神と私の魂との一致は極めて親密で、尊敬すべき聖人方のそれに類似しております。でも同時に、灯台のように私を導く内的光から目をそらすなら、一瞬にしてすべてを失い、破滅することを学びました。

 まだまだ私は多く苦しまねばなりません。苦しみの杯は、すでに以前から神父様がご存知のように、現在と同じく死に至るまで、私の逃れ場とすべきでございます。と申しますよりも、むしろ、神に自分をお捧げした時からそうでして、この光の合間のみが私を支えてくれますが、しばしば正気にかけております。なぜなら、すべての誘惑は、進歩するにつれて勢いづくからでございます。私は反対に思っておりました。

 二日の日、聖体拝領後とても親密に神と一致しているのを感じました。彼は、苦しみや骨折りのなくなることを願うのではなく、勇気と忍耐を願うことをお望みでした。

No.17 自叙伝の冒頭

自筆原稿:『霊的手記』No.25:一枚の用紙(20.5X15cm)の両面に書かれている。

私の生涯のいくつかのできごとを通して見た、父なる神の慈しみと計らい

 母の死、私がただ独りその傍にいて、その目を閉じました母のあの死の時、私の魂の目が開き、私を迷いから覚させましたので、人生は流謫のように思われました。私は16歳でした(編集者注、明らかに思い違いで、ラファエラ夫人は1869年お2月に死去し、ラファエラはほとんど19歳になるところであった)母の手を取り、世間のどんな被造物にも愛情を寄せることは決していたしませんと、私は主にお約束しました。私の捧げものを主は受け入れられたようです。というのは、その日、一日中、地上のものは儚く虚しくて、永遠なるものこそ熱望しなくてはならない、という考えが心を占め、母を失った悲しみはほとんど、あるいはすっかり何処かへ飛んで行ってしまっていたからです。「私は、何のために生まれてきたのだろうか?救われるため」などの考え、もしくは祈りがとても深く心に刻みつけられたので、この日ばかりでなく、それからの生涯を通じて、徳を得るための励みとなりました。

 引き続き日毎に内省し、また神の摂理もすでに私についての計画を立てていかれていましたので、私の未来の姿がほとんど絶え間無く目の前に置かれていて、世間への迷夢からますます覚めていきました。

No.18 1892年の霊操

  自筆原稿:『霊的手記』No.2710枚綴じの小さいノート(19X13cm

1892年の霊操 ローマにて、107日、初金曜日

a)(第1週についての手記)

 私は神のもの、ひたすらに神のものである。私は神のものであるから、全ての出来事、成功であっても不運であっても、それらを聖なるみ手からのものとして受け取らなければならない。それで、この黙想において実にはっきりと分かったこの核心から私を引き離すすべての言葉、行い、そして思いをも抑制することを、私の基礎学習、継続して学ぶべきものとしなければならない。これが、私の生まれた時からの道となるものである。

 私が直面している恐ろしい殉教についてはっきりと分かった。それは被造物、私の肉体、敵そして神によって実にひどく行われたものであるが、でも、全てに神の働きを見、あれこれと考えあるいは話したりせずに、そのお望みに服すよう努力しなければならない。話すときは、光を与えることのできる人とだけ、良心が確信するなら必要に応じて話すこと。神が、かつて私を外面的に輝かしい業のために用いることを望まれたとしても、今は世間の目から隠され、蔑まれつつ、この上なく正確に喜んで主のみ旨を果たすことによって、同じ光栄を人に知られず、隠されたまま神に捧げることができる、ということを度々思い起こさなければならない。どのような状態にあっても神をお喜ばせするのに役立つが、み旨が私を置かれた屈辱の状態にある今は、私にとっては、はるかにそうである。その状態においては、最高の意向の清さをもって、より英雄的に諸徳が実践できる。

 第二黙想 被造物は、人間が用いるために与えられたが乱用するためではない。これよりも優れた存在である私たちも同様にすべきである。なぜなら、私たちは神の似姿であって、神の完全性に倣い、み旨を果たすのに正確かつ着実であるべきである。聖人になるのは、より才知がるからでも、名声や尊敬されているからでもなく、神の望みをよりよく果たした人だけが聖人となるのである。ここに聖徳の真髄がある。

 人間の主要な欠点は傲慢と快楽である。これらを通して、あらゆる悪が私たちのもとにきた。

 第一の罪である天使の罪。『仕えない』。誰に対して?神に?一瞬のうちにその美しさは、身の毛もよだつ怪物となった。これが反逆の結果である。その後は?自分の造り主に従わなかったので永遠に神の現存から離れ、恐ろしい苦痛の中に永遠に終わりなくいることになる。神が私に機会を与えられたときに謙らないことによって、無限に恩恵を失い、良心の苛責を強く感じ、そしてとても弱くなってしまう。主のご裁量に心中より素直に従う決意をしなければならない。

アダムの罪。従順に反する判断。

 霊操の第一週の実りとして、感覚と想像、能力と幻想を捨てるよう働くこと。記憶については、神によるものと神の栄光になるもの以外は何も思い出さないこと。意志については、止むことなくかみを求め神のお望みのみを求めるために、自分の意志を常に犠牲にすること。想像は、拡大鏡で見るかのように物事を大きくせず、全てを平静な心で見るように努めること。そして、心を乱しているときは一言も話さず、眠って起きるまではその事について考えない事。というのは、眠る前には黒く見えていた事が目がさめると白く見えるのを、私たちは経験によって知っているからである。感覚については何も聞かず、悪く思われて、たとえ『ぼんくら』と言われ『大博士』と呼ばれようとも、耳に栓をする事。資格については、髪の栄光のために私たちに重要でないものには、どんなものにも視線を注がないこと。嗅覚、この感覚については、死んだ人のように十分に制御すること。

何が匂うだろうか?触覚については、あたかも死体に触れるかのように、嫌悪感を持って触れること。味覚については、常により美味でないものを選び、好物のときは、聖なる考えに思いを止めること。触覚については、私たちの身体は死後どうなるだろうか?どんなベッドで?寒さをしのぐのにどんな布団を?誰と?ということを考慮に入れること。虫けらも、その体は腐っていくどんな偉大であったとしても、人は死ぬ。処して全ては終わる。だから、今、全てに死のう。忘れられ軽蔑された人となるように、死んだ後に扱われる死体のようになることを望もう。

 b)キリストの国。奉献

 わが魂の救い主である聖なる司令官よ。本日1892年10月12日、新たに私をあなたの戦列にお加え下さい。苦しみ、労働、軽蔑、侮辱、不名誉、誤解、不信、その他、聖なる十字架のみ側に秘められた一切のものを通して、これまでにもましてよりいっそう、あなたのそば近く従うことができるために、私の名をお書き入れ下さい。これほどの恵みには値しないものですが、心より謙って願う私の望みを顧みてください。わが王よ、私は弱く臆病な者ですが、これまで敵に背を向けることをせず、あなたのお傍を離れることのないようにと、いささか努力してまいりましたことをあなたはご存知です。

 今日、あらめてわたしの忠誠を確認していただくために、あなたのみ前で、聖なる誓願ならびに祈りと約束を更新し、これまでもそうされたように、あなたの恵みが今後もわたしをお助けくださるなら、死に至るまでの忠実をお約束いたします。

 私は、わが王よ、しばしばあなたのもとに勧めを求めに行き、慈しみに溢れる神のみ心の深奥でみ言葉を如何います。そして、ただ聞くだけでなく、そこにあって、あなたのみ教えを身に帯び、あなたのそば近く従うものとして少しは相応しいものとあなたのおん目に映るよう、あなたの尊いみ教えを写し取ります。

 それを得るには、さらにいっそうの努力と助けが必要ですので、あなたの母であり私の母である聖母にお願いいたします。私があなたに従うもののうちに加えられることに関心を寄せられたのは彼女でして、優しく慈しみ深い母として、私のあらゆる弱さに際して支えてくださいました。それに、熱心な私の保護者大天使ラファエル、愛する同伴者である私の守護の天使、特別の新人を抱いているロヨラの聖イグナチオ、そして天上の諸聖人たちにも、私のこの約束と望みを実現するために助けてくださるようにお願いし、いつの日か、これほど望んでいるあなたの不肖のはしためにして娘であり妻である者が、一番最後の、しかも皆の足元ででも構いませんので、あなたのまなざしのもとで楽しむことができますように。

イエズスのみ心のマリア

 ゲッセマにの園での祈りにおいて、イエズスのみ心が、あの苛酷な時に永遠の父のみ手に寛大に委託されたことを考察していた時、とても心を動かされました。

c)決心

自筆原稿:『霊的手記』No.2710枚綴りの小ノート(19X13cm

 下書き 1.

 私の生活の規則となるべき唯一の決心は、自分自身を軽んじ、また人から軽んじられ軽蔑されることを望むこと。栄誉を最も重い十字架のように受け、そこに傲慢という敵が潜んでいると見なすこと。 自分に咎がないのに誹謗され、侮辱されるときは非常な栄誉を受けたとみなして、めったには言い訳しないこと。言い訳をするときは、その辺の誰彼にではなく、霊的で学識があると確かめられた人に相談し、承認されたらすること。非難されたときは、常に黙って謙遜にこれを聞き、従順によらない限り、誰にもこれを話さないこと。自分のことについては一切、良いことも悪いことも話さないこと。必要があって、私を押さえつける人について話さなければならないときは、いつも思いやりを込めて話すこと。その人たちにまた会うことがあるなら、言葉ででも行いででも、ごくわずかな不満の印さえ見せてはならない。手紙でも同様で、例えそうしたくなるように仕向けられてでもである。

 私が自由にできることについては不偏の心でいること。自分の意見に束縛されないようにし、求めないのに与えられたものには取り合わないこと。

 気を回す人たちに対しては言葉少なく、慎重であること。

 院内では、振る舞いにおいて単純に、そして、もし私が目下なら長上に対してして心を打ち明けること。そうでなければ、私を指導される方にのみそうすること。魂の奥底のことについては霊的指導者にのみ打ち明け、外面的に何も表れないようにすること。

 私の魂に、皆から辱められ、卑しめられ、軽蔑された者となりたいとの望みをかき立てること。もし許されるなら、精神的にだけでなく振舞いにおいてもそうされることを主にお願いしよう。自然性にとってはとても苦いこのような機会が来た時は、神のみ許に駆け寄り、そのお勧めに従おう。それがどんなに堅固な者であるかは、もう経験によって知っている。もし、何かを決定しなければならない時は、霊的で偏らない人の勧めを受けるが、たとえこの人たちと出会っても、自然的な気晴らしは避けよう。このような機会には、たとえ命懸けであっても聖人になりたいのです、と何度となく主にお約束した私の望みを思い出そう。

 舌をよく制御すること。他の人の欠点について言及しなければならないときは、特にそうである。

下書き 2.

 あたかも死んでいるかのように生きること。被造物のためにも自分のためにも生きず、ただ神のためにのみ、生きること。

 世間に対して、私は十字架につけられた者でなければならない。あたかも世間が私に対してそうあるべきであるように。

 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです、と常に言うことができるように、全霊を尽くさなければならない。こうして、私の存在と行いのすべてが、私のうちにおられるキリストの命を呼吸しなければならない。私の感覚、能力、愛情はキリストにおいて、キリストのためにのみ活動すべきである。神とともに行うために、すべてを、この神的な坩堝を通さなければならない。

 そして、これで満足すべきではない。適度な熱意を持って、絶えず人々がキリストを知って仕えるように、すべての人を引き寄せるよう働くこと。しかも祈りを持って、さらにいっそう。

 私にとって名誉が耐え難い十字架となり、軽蔑が喜悦となるよう、精魂を尽くして努めなければならない。

下書き 3.

 ⒈ 私を辱めるどのような機会も避けないこと。

 2.動揺を感じるときは、神のもとに駆け寄ろう。主が、私のことをどんなに考えてくださっているかを、経験によって知っているのだから。そして、どんなに求められても、心が落ち着くまでは、一言も話さないこと。

 3.よく聞くこと、特に院内の人に対してそうであること。そして話すことは控えめに。当惑して話に来た人には気晴らしをするままにさせ、対抗しないこと。

 4.信用されようとされまいと、無理強いせずに真実を表明すること。

 5.確実なこととして知ってないときは、それについて言及しないこと。

 6.極めて慎重な、経験豊かな少数の人にのみ打ち明け、その勧めに、確固として従うこと。

最終的な起草

自筆原稿:『霊的手記』No.28:罫のある18枚の用紙のノート(10.5X7cm)の全面に書かれている。

A.M.D.G. JHS

1892年の霊操の決心

  • 自分自身を軽んじ、他の人から軽んじられることを望むこと。
  • 栄誉はとても重い十字架として受け、傲慢の敵がその中に潜んでいることを考慮すること。
  • 咎がないのに誹謗されたときは大いに面目を施したと考え、言い訳をせず、霊的かつ慎重な人の勧めを受けること。
  • 不当な言いがかりは黙って聞き、後でそれについて言及しないこと。イエズスは裁判官の前で黙しておられた。
  • 私を押さえつける人については、必要な時にのみ、しかも、いつも深い愛徳を持って話すこと。
  • この人たちに出会う折には、どんなにわずかなものであっても、不満や怨みのそぶりを決して見せないこと。
  • その人たちのために大いに祈ること。私を苦しませたことでなく、神のみ旨を見、悪意については決して見ないこと。
  • 自分のことについては、良いことであろうと悪いことであろうと、何も話さないこと。
  • 私を辱めるどのような機会も避けないこと。
  • 動揺していると感じるときは、どんなに苦しんでいると見えても、一言も話さないこと。
  • 院内の人とであっても、聞き手にまわり、話すことは控えること。
  • 困惑した人たちが話しに来たときは、気晴らしをするままにさせ、それに面と向かわないこと。
  • 物事を、私が見る通りに判断するよう人に要求しないこと。
  • 真実を表明し、後は各自がそれについて評価するに任せること。
  • 確実に知っていることでない限り、何も話さないこと。
  • 極めて慎重な、経験豊かな少数の人にのみ打ち明け、その進めに、確固として従うこと。
  • 私が自由に行える事は他の人の意見に束縛されずに行い、頼まないのに意見が寄せられたときは、取り上げないでおくこと。
  • くよくよと気にやむ人には、よく考えて言葉少なに話すこと。
  • 院内では、この上なく単純に振る舞うこと。私が目下であるなら長上に、そうでなければ指導者に心を打ち明けること。
  • あらゆる機会に、舌をよく制御すること。
  • 私の全ての業は、たとえそれが全くとるに足りないものであっても、成熟した修道者として立派に果たし、たくさんしようと急いで仕上げないこと。全てをよく行う人は、多くのことをするのである。
  • 悩みや悲しみは人にではなく、神に打ち明けること。人に打ち明けることによってどれほどに霊的な損失を被り、神にそれをすることによって、どんなに得るところがあったかを、経験によって知っているのだから。
  • あたかも死んだ人のように生きなければならない。被造物や私自身のためではなく、神のためにのみ生きること。
  • 世間が私にとってそうであるように、私は、世間にとって十字架につけられたものでなければならない。
  • 私の中におられるキリストの生命が、私の全ての業に輝くよう、全力を尽くさなければならない。キリストに似た者となるよう、私の感覚、能力、愛情はキリストのうちに、キリストによって、キリストのためにのみ用いること。
  • これだけで満足しないで、賢明さと分別を持ってキリストを味わうことができるよう全ての人を引き寄せること。

No.19  1893年5月 霊操

自筆原稿:『霊的手記』No.3025枚綴りのノート(13X10cm)の110ページの

両面に書かれている。10ページ以降には他の霊操の手記が書かれている。

  • 霊操における黙想の手記

 第一日 全ての黙想において次のことを悟った。神なる主が私に求めておられるのは、全く自由に主の摂理に委ねるための生き生きとした信仰である。それは、私に対して最もお気に召すことをなさるためであって、あたかも陶工の手にある一握りの粘土のように、私もそのように陶工のお好みのままに扱われるに任せ、嘆かず、呟きを口にしないこと。フィアット、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」

第二日 私の全ての失敗は神に信頼しなかったことによる。その失敗とは、神の私に対する極みまでの計り知れない愛によらなかったものであって、神への奉仕を不熱心にし、蔑ろにするのでなければ、私に対する極みまでの計り知れない愛によって、私をせきたててくださったことであろう。でも私は知っている。私にとって神は父親以上の存在であって、私の欠点や無数の恩知らずさえも彼の関心をより深めさせ、私のことを案じてくださるこの上なく優しいおじいさまである。

 この悟りがもたらすものはなんであるべきだろうか?昨日と同じである。愛されている娘のように神のおん腕にすっかり委ね、なされるままにすること。たとえ私の名誉や命をかけなければならないとしても、あるいは、神への愛のために地下牢に押し込められる羽目になったとしてでもである。たまたま私が歩むことになった道は、貴いおん子のそれに似ていると思われる。どんな恵みも決して失わないように、これを深く心に刻み付けるよう神は望んでおられる。それは豊かな鉱床であって、鉱床であるからすっかり隠れており、世間のどんな目利きの目にも隠されていて、とりわけ、ひどい窮地に陥っている場合に、そうなのである。

第三日 死と審判は私の大のお気に入りの題材なので、無常の喜びの日だった。願わくは幸いなその時、今日見ているかのような、私への優しさに溢れるわがイエズスの優しいおん目を仰ぐことができますように、そして、遅れることなく、永遠の接吻を差し上げることができますように。主の限りない慈しみが、カルワリオの道によって自分自身に打ち勝つ信仰を活気付けてくださいますように。そうすれば、私はそれを得ることができますでしょう。聖なるご意志にゆだねること、それが近道だ。わがやさしきイエズスよ、どうぞそれを得させてくださいませ。そして、この不幸な世間から逃れてからはたとえ一瞬たりともあなたから離れるという考えには耐えられませんので、もうこれ以上、どんなに小さなトゲを持ってしてもあなたに背くことのありませんように。この告白はなんと嬉しいことでしょう!他のすべてと同じく、私にはなんの功徳もありませんのに、あなたはこれを私にくださいました。

第四日 謙遜の第三段階のうちにキリストに従いたいとの激しい望み、しかし同時に、自分の小ささがこの上なく見せつけられて、それを果たすことの難しさに、内心恐ろしい闘いが起こる。闘いはとても激しものである。なぜなら、主がどうしてもそれを望んでおられるのを知っており、私もそれを拒否するなどとは思いも寄らないし、望みもせず、出来もしないからである。それに、私の善のために私を独り置き去りにされることも分かっているので、臨終の苦悶にも似た苦しみを味わう。主のお恵みによって、我が主がお望みになること以外は何も望まない、というこの霊操の唯一の決心から離れてはならない。

第五日 大きな闘い。目前のとても困難な道で私を待ち構えている闘いに、時どき恐怖の念にかられる。でも、み旨に従い、どうしてもそれに打ち勝ちたいので、そのためにひどく苦しむ。私の道は暗闇であることが、このところ、ますますはっきりしてくる。いつものように神のみ旨に従い、イエズスがおん父のみ手にご自身を委ね、常に労働の生活に汗水を流し、十字架の死に至るまでへりくだられたように、私も小さな蟻の様に、そのみ手にゆだねますと申しあげる。

第六日 わたし身におこったことは誰のせいでもなく、神のみ手から直接にきたものであるとの確信を強める。どんな人も出来事も皆、わたしの傲慢さ、神のみ旨を果たす際にいつもそうであった反抗心を罰するための道具である。今こそ、すべてを心から悔い、至福なる聖三位、聖マリア、天堂諸聖のみ前で、へりくだって助けを願いつつ、私の過失を償い、万事において神のお定めに従い、恭順さだけでなく喜びさえもって、わたしに差し出される聖なる十字架の一片たりとも利用せずにおくことのないようにいたします、とお約束する。全力を尽くして謙遜の第三段階、英雄的な忍耐、挫けない勇気を獲得するよう努力しよう。十字架の重さを感じるときは、殉教者のように自分の闘いに苦しみ、十字架の重さを感じるときは、より高い恩恵、そしてのちには最高の栄光をもたらすことを思い浮かべよう。

第七日 これが今日の実りであって、これ以上、何も付け加える必要はないと思う。あがむべき聖三位、至聖なるおとめマリアならびに天の諸聖人のみ前で、謙遜の第三段階に達するために全力を尽くして努めることをお約束致します。これが神のみ旨であり、イエズスのみ心が私に望まれることを達するための唯一の道であることを、久しく知っておりました。それが、反逆的で自愛心によって狡猾になっている私の意志にとっては難しく嫌悪するものであったとしても、あなたの聖なるご裁量に全くおゆだねし、あなたの十字架につけられた愛のみを受け入れ、いかなる被造物からの慰めも、また侮辱されたことを思い出して自分を慰めることもせず、すべてを私の善のための道具だとみなします。そして、できる限り、私の魂を指導してくださる方にご私の弱さを知っていただき、勧めによって強めていただくために、その指導を神ご自身から出たものとして、盲目的に従います。イエズスの尊い人性と至福になる魂におけるお苦しみを観想しながら、苦しみに、もし必要であるなら魂と身体の殉教の苦しみに身を任さないものがあるだろうか?わがイエズスよ、私が知ることを得ました、あなたとともに十字架につけられる生活の価値を、決してお消しになりませんように。とりわけ試練の際にその時、私をお見捨てにならないでください。愛深くいと優しきおん父よ、あなたのみ手に私のすべてを委ねます。

第八日 被っていた幕は引き上げられ、これまでにした黙想の実りが手に取るように見える。それは私が切望すべきものは、何も残さずすべてをわが主のみ手に全くゆだね、主が私に送られるものは、固くても苦しくても私に送られる愛のしるしとして受取り、他のどんな理由にもしないこと。これは求められるままに私の心をすっかり差し上げることであり、私がすることのできる愛と絶対的な信頼の最大の証であって、この寛大な献身は、ただに私自身の救いだけでなく聖化のためであると固く信じること。そして完徳の道を走るだけでなく、飛んでいくこと。神のために私にできる一番素晴らしいことはこれである。すなわち、どんなに小さな妨げも置かず、み旨に全く私を委ねること。

 わが愛するイエズスのみ心よ、へりくだって願うこの私の望みを祝福してくださり、あなたの汚れなきおん母が、これをこの上なく完全に果たすことのできる恵みを得させてくださいますように。                    1893年6月3日     ローマにて

  • 謙遜の題三段階のために努力する約束

自筆原稿:『霊的手記』No.2816枚綴りの罫オート(10.5X7cm)の両面に書かれている。

 あがむべき三位一体、童貞聖マリア、および天堂諸聖のみ前で、謙遜の第三段階に達するために心を尽くして努力することをお約束いたします。これが神のみ旨であり、私に対するイエズスの御心のお望みの達成のための唯一の手段であることをすでに以前より知り、またこの度の霊操においてはっきりと確認いたしました。私の反抗的な意思と研ぎ澄まされた自愛心にとって、主のご裁量がどれほどに難しく嫌悪すべきものであったとしても、主のお望みに全くゆだね、十字架につけられた主の愛を抱擁する以外にどのような気晴らしも求めず、いかなる被造物のうちにも決して慰めを探さず、受けた侮辱を思い出して自分を慰めることもせず、すべてを事実そうでありましたように、私の善のために用いられるあなたの道具とみなすことです。 そして、私の霊魂を指導される方が私の弱さを知って、その勧めによってそれを強めてくださるよう、その勧告を、あたかも神のおん口から出たものとして盲目的に従います。

 今ここに、三位一体の主よ、イエズスの尊きおん血によって、この私の約束をお受け入れくださり、これを私に望ませ、捧げるための恩恵をくださいましたように、これを果たすための恵みを豊かにお与えくださいますように。

                   1893年6月2日 初金曜日 ローマにて

イエズスのみ心のマリア E.C.J.

  • 霊操の決心

自筆原稿:『霊的手記』No.28:上記の罫ノートの1516頁の両面に書かれている。

 1.私を統べる人に対する素直さと大いなる信仰の精神

 2.恭順さ、聖母マリアに倣うこと、私についての神のご裁量がはっきりわからなくても、聖母マリアの精神を持って「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」といつも言うこと。たとえ嫌悪を催すものであっても。

No.20 霊操 1893年9月  (1893.9.22—

自筆原稿:『霊的手記』No.3025枚綴じノート(13X10cm1415頁の両面に書かれている。

a)霊操における黙想の手記

 第一日 私は全く神のものであるから、陶工の手にある一握りの土のように神のみ手にすっかり委ねなければならない。神のご裁量を拝礼し、心からそれに従うだけでなく、喜びを持ってそうしなければならない。そして、私に差し出される謙遜のどんな機会も逃げてはならない。

 第二日 魂の救い、それだけが私にとっての重要事である。私の自愛心をひどく苦しめることが生じたときはこう言おう。この苦しみに栄養を与えて大きくすることと、より大いなる恩恵を得、のちにはより大きな栄光を受けてイエズスの美しさを一層はっきりと見るために、この苦しみを、私に完全さを求められるイエズスの私への愛のしるしとして喜んで受け取ることと、どちらがいいだろうか?

 第三日 キリストの国の黙想では、十字架の道に従っていきたいとの大きな望み。

 ご託身、ご誕生、エジプトへの逃避行の黙想においては、イエズスが実践された次の5つの徳、第一はおん父の栄光、第二はその従順、第三はその貧しさ、第四は苦しみ、第五は犠牲を通して、彼に倣いたいとの大きな望み。

 エジプトへの逃避行の黙想。

 天の王であるイエズス、そしてその聖なるおん母と聖ヨゼフは避難していかれるが、それが永遠の父のご意志であった。人目につかないようにすることがおできになったであろうし、さもなければ、命を狙ったものたちを罰することがおできになったであろう。しかしそうではなかった。最高の全能の権力を持って逃避するよう命じられる。旅において、かのエジプトにおいて、煩わしさや労苦を減ずるために奇跡をなさったであろうか?何ひとつなさらなかった。最低の人間として扱い、彼らを試みられた。私は自分のために別の行動を望むのだろうか?傲慢な者よ、へりくだりなさい。そして、主がお前の苦痛を和らげられるときは、貴いイエズスとその母聖なるマリアと聖ヨゼフがそぅであったようには、最も愛された被造物として神はお前を遇されず、名誉を失ったものとされたと思いなさい。

 イエズスが神殿に留まられたことについて。イエズスを見失ったと知った時の聖なる両親の苦悩。永遠のおん父のみ旨と知って、両親を置き去りにされたイエズスの強靭さ。それがどんなに両親の心を痛めるかを彼は知っておられたが、それに構わず、必要なこととして、永遠のおん父が命じられたことを行われる。彼は神殿に残られ、聖なる両親の心にわずかな慰めさえも送られなかった。この大きな試みの後、彼らは恵みを得て神殿を探すように促され、そこにイエズスを見出したとき、彼らの心は喜びに満たされた。

 私たちの善のために主が送ろうとされるすべての試練に、私たちも同じようにたゆまず従うなら、イエズスを見出し、慰めを得るであろう。第一に敵に打ち勝ち、第二に主に倣って。

 私のすべての不完全さ、罪、そして受けた貴重でしかも実に豊かな恵みを浪費した原因、それは、神のみ手に委ねることに反対する私の抵抗心で、つまり、格別な表示を持ってまで明白に示され、何度となく私に教え込んでくださった神の代理者たちによって確証された神の御裁量に、私の判断と意志を従わせることへの抵抗であって、それを実にはっきりと確認した。私はそれらを(途中で終わっている)

  • 決心 下書き

自筆原稿:上記手記1516頁に書かれている

 神のみ旨に全くゆだねることをイエズスが私に望んでおられるとわかる。

2.絶え間ない内的な苦しみと何らかの外的な苦しみを、快活な面持ちと深い沈黙を守って耐えて行く生活。修道会の内外の人々に対して、慈愛にあふれた者であることを望まれる。

 私にしてくださるすべての恩恵を他の人たちの目には隠し、神の業を行なっていることを誰にも気づかれないこと。しかし万事において、この上ない単純さを守って良い手本となることを阻むものではない。つまり、これまでのように、知らずしらずのうちに、皆が気づかぬままに私についてくるようにすることである。

 それに、絶えざる節欲への新たなる熱意を私に望んでおられる。

 規則に従って、皆を心から尊敬し、愛すること。

 暗闇のとき、常に黙していること。非常に悩み苦しんで私を指導される方に話す以外は。

人々から尊敬され、よく思われ、同情され、そして満足させられることなどを望まず、心から忌み嫌うこと。かえって台所のたわしのように、誰からも好かれず相手にされないよう、全力を尽くすこと。

 キリストの代理者として、総長と後の四人を尊敬すること。

 何事にも介入しないこと。重要事についてはなおさらである。丁寧に言い訳をすること。

 修道会のために働きたいと強く望むが、諸徳をつんで聖徳に達することが神のみ旨であるので、それに没頭すること。

  • 1893年の霊操における生活の改善

自筆原稿:『霊的手記』No.3220枚綴のノート(13X9.5cm)の111頁の両面に書かれている。

J H S

 至聖なるイエズスのみ心を模範とし、そのご生涯を模倣しよう。しかし次の点に今年は重点を置こう。多分これが、私により強く求めておられるものと思われるからである。

  • 子としての信頼を持って神のみ手に全く委ねること。第一に、神のものとして、私はそのご裁量に盲目的に従わなければならない。私は神のものである。なぜなら私を創造され、それから恩恵で満たされただけでなく、私のうちにいつも激しい抵抗を見出されても、私は倦むことなくそうしたが! 数多くの悪から免れさせてくださった。いったいなんということだろう?私は馬鹿げた者、たしかにルチフェルにも劣る者で、はっきりとではないが、私に対するイエズスの愛のみ摂理について疑っていて、見捨てられているようにさえ思う。イエズスは変わらぬお方、慈母にもまさってその偉大な愛を私に与えられ、彼が強く望まれるのは、彼の愛の癒しにすっかり任せ、常に彼のうちに逃れることである。私はどうすべきだろうか?たとえ彼が私を投げ出されるように思われても、粘り強さによってそれに打ち勝ち、常にいっそう彼の懐の奥に、常に緊密に一致すること。

 そして、状況に応じて、常にイエズスの聖なるご生涯の模範を眼前に置こう。とりわけ次の点について、すなわちエジプトへの逃避行、隠れた生活、人々と、特に使徒たちとのわずかな関わり、受難の際の裁判官の前での沈黙と、永遠のおん父から見放された十字架上での孤立無縁の状態。

  •  聖なるインスピレーションに対する従順さ。この点については私は赤面の至りである。これまで、ほとんど私がそれに応えなかったのに対して、神はどれほどの慈愛を持って、その必要さを私に気づかせようとなさったことだろう?ああ主よ、あなたは私にとって、父親以上の存在となられました。そうです、わが主よ、あなたは父であると同時に私の魂の神となられました。なぜなら、物事についての知識を与えられただけでなく、あなたのみがご存知の光を持って、後に起こることやあなたの忠実さに伴う報いをも予め知らせてくださったからです。そして、私がわがままに任せてこの光を薄れさせてしまった時は、最後の手段として、あたかもそのみ手をもってなさるかのように、一度ならずあなたが示された者に提示なさったこの慈しみの罰をもって、私の中で後退するあなたのみ業に触れさせてくださいました。わが主、わが神よ、私が偽らないことをあなたはよくご存知です。でもそれにもかかわらず、錯覚による誤った口実のもとに、私はあなたに背を向けました。私の錯覚!その錯覚とは、限りない真理であるあなたから目を逸らすことでした。あなたはご自分のお気に召した者に、それが惨めで値しないことには全くお構いなしに、善の所有者として善きものをお与えになります。しかし、私の善の敵によって引き起こされた偽りの謙遜は、あなたがご存知のように、私を絶えず攻め立ててこう言います。「それが神だと誰がお前に言ったのか?」そして私はそれに注意を払い、神より与えられ、指導司祭によって承認された試練について、何も話しませんでした。今後はこのようにはいたしません。愛するイエズスよ、できる限りの最大の寛大さを持って諸徳を実践し、私の良心の指導者が、不確かで難しい事柄やなんの権限もないことで私を試みるとしても、あなたに盲目的に従います。主よ、どうぞ、この私の盲目的な信仰を祝福してくださり、試みの際に揺らぐことのないようにお支えくださいませ。

 第三点 またあなたは、わたしが自分自身に全く死に、生き生きとした信仰のうちに行動することをお望みです。良きイエズスよ、これはわたしにとってはとても大変なことで、今のわたしの置かれている状況では、なおさらそうです。でも、「わたしを保護者としながら、一体、何を大変なことだと言えるのか?」と、あなたは言われます。本当にそうです。あなたと共にであれば大変なことは何もなく、あなたの聖なるご生涯の模範をもっては大したことはありませんが、でもわたしの情欲はあなたがご存知のように、とても根強いのです。「それを根こそぎにするために休まずに働く力を、誰が持っているでしょうか?」しかもあなたは、人の目には全く隠され、また、倍の努力を必要とするとても難しいものとなるこの仕事をお望みです。でもあなたがそれをお望みですので、わたしはいたします。主よ、あなたは、わたしが切望するもの、そして、あなたのお望みを満たそうとわたしが骨折っていることをご存知です。「愛は死のように強く、陰府のようにむごい。」そうであるのは実に当然です。でも被造物は、それに応える力を持たないと思われるほどに、とても弱いのです。わが神、主よ、どういたしましょうか?愛すること、もっと愛すこと、愛は全てに打ち勝つ。だから、止むことなくこの愛を願うことです。

No.21  イダルゴ師への霊的報告のためのメモ

自筆原稿:『霊的手記』No.34:三枚の紙(21x13cm)の両面に書かれている。

 信仰にも聖書にも不明瞭さはありませんが、病者の秘蹟についてだけはそうでなく、それがわたしの絶え間ない苦痛でございます。そしてこれは、謙遜になり、常に慎重であるための大きな恵みだと思われます。

 祈りはもうはほとんど習性になっていて、わたしの魂は常にそのように調えられております。すさみにも慰めにも立ち往生することなく、父親と話す娘のように、いつも話題を準備しており、自分に一番適したものを彼から受けております。そして、いつも、ただ満足するだけでなく、満たされ、感謝し、その存在はなくてはならないものだと確信していて、彼の傍らに戻りたいとの思いをいっそう募らせております。

 苦しむことにいつも飢えていて、打ちひしがれていればいる程、いっそう苦しみを必要とし、そしていっそう満たされます。一瞬の慰めは、正真正銘の十字架でございます。なぜなら、時は短く収穫は多いことを、分からせてくれるからでして、このことは、すでに何年か前に申し上げたことがございます。「主よ、もう少し」、でもわたしの不忠実さが、神の慈しみのみ手を引っ込めさせることになるのではないかと恐れます。

 聖体拝領は習慣になりません。この宝と、全ての業の完全さについてのいっそうの評価を日毎に理解させていただいております。

 どんなに小さな過失も種から咎められないものはなく、苦い思いの恥ずかしさが残りますが、でも謙遜になります。

 情欲はまるで猛獣のようにわたしに向かってきて、時にはとてもひどく襲ってきます。直接にではなく、つまり隠れた方法による神の助けによって、これを功徳を積むものとして役立てることができます。

 時には、奈落の底に落ちているような、恐ろしい闇を感じます。でも、痛悔と謙遜の業を行い、神の憐れみを持って我が身を守り、めんどりの翼の下にいる雛鳥の様に安心し、落ち着いております。

 過去の出来事からは、これほどにわたしを愛してくださる主が、他の方法では決して得ることのできなかったとても堅固な徳を実践する機会を置いてくださったことについての、際立った証拠を引き出しております。それですので、神が役立てられた原因、道具に対しては、反発よりもむしろ同情を感じております。とはいえ、頑迷さはわたしを苦しませ、述べました道具たちが、光の充満を信じておりますのにすごい暗闇でしたので、主に光をお願いしました。イエズスに反対する律法学者たちの振る舞いがわたしの眼前から消えませんが、それは別にしましても、道具の側からとわたしの方からとの双方による不敬を、わたしは案じております。

 日毎にますます、すべての善いものを剥奪され、あらゆる悪を被せられている私を見ております。それに、光そのものと思われる天上の光と、私の魂が受ける恩恵についてもそうでございます。それらすべては掛け値なしに神からのものであって、絶対的に神のものでございます。

 私の心は、神のことを聴くためにはあたかもスポンジのようでして、いつも大いに努めて表に出さないようにしております抑圧へのごくわずかな涙を、搾り取ってくれております。

 祈りについて先ほど申し上げましたように、嫌悪感に負けないようにしております。もう習性になっているようでして、好みにも不快さにも左右されず、私に差し出されるものは上機嫌の顔で取っております。これは、私たちの主には、ことの他お気に召しています。

 私の魂における主の現存はほとんど途切れることがなく、時には天国の心地よさを味わわせて私を喜ばせます。なぜなら、私の魂において主はとても満足しておられ、まるでご自分の家であるかのように非常にくつろぎ、喜んでおられるようにお見受けするからです。神父様、この内的生活は栄光の先触れのようでございます。この生活は、私がどんなに努力しても解くことのできなかった秘儀、聖人たちが十字架をどうして喜び、殉教者たちがその闘いを享受できるのか、また、最大の苦しみが最高の喜悦になるのかを教えてくれました。その寛大さに比例した大きな力を持って居たから、当然のことなのでしょうが。ですから、できる限り私の魂の内奥を拡げるために、大いに寛大な者となりたいと思いますし、この願いは私に、必要な餌を親鳥にねだる雛鳥のように、止むことなく神に向かって口を開いているようにと促します。

No.22  ゆるしの秘跡のための準備のメモ

自筆原稿:『霊的手記』No.29:二つ折りの紙(11X9cm)の二面    

(イエズス会員ムルサバル師からの書面の空白欄)に書かれている。

 不偏心では、全ては神からくるのであり、私達の善のためにそれを許されたのだという信仰が足りない。ここから、神のみ旨に対する従順さに欠ける。

 傲慢については、落胆に苛立つ弱点に気づき、それと闘う。私に関する事柄について褒められなくて残念だった。

 私のライバルが優先されるのを見たとき嫉妬を感じ、悩んで、神に反対さえする。私の判断に従わないとき、心が痛んだ。

No.23  1894年の霊操の決心

    自筆原稿:『霊的手記』No.32:20枚綴りのノート13X9.5cm)の11頁に書かれている。

  • 1893年の霊操の際のノートに書かれた手記

 主の私へのご計画は、緩慢な殉教の苦しみとなって続いており、五年前からの私のひどい傲慢さゆえに、それがこの上なく苦しいものとなっている、ということのほかには、以前に書いたものに書き加えるべきものは何もない。

 神が私についてお望みになること、それは私の魂の自然的生命の完全な死であるが、それを得るために、私が耐えなければならない恐ろしい闘いに、神の恵みが不足するはずはないと盲目的に信頼しなければならない。

 主が私に思いつかせてくださった方法は次のとおりである。道徳的な面、つまり外面的には、ナザレトにおける主の隠れた生活に倣うこと。精神的には、つまり内的には、私の心のうちに主の思いをかたちづくり、主の心に似たものとなり、主の柔和と謙遜にあやかって、出会う苦しみ、蔑み、反対や闘いを耐え忍び、決してこれらに背を向けないこと。どんなに多くのことが起こっても、私のために苦しまれた私の神であるわが主キリストのそれには、到底及びもつかないのである。

  • 後日になって作成したもの

自筆原稿:『霊的手記』No.37:一枚の用紙(21X13cm)の両面に書かれている。

 主は、私に対するこの緩慢であるがとても苦しい殉教は、闘いによってみ旨への深い一致を得るまで続くことを、非常にはっきりと解きあかされた。

 彼が受けられた愛の殉教のすべてを、私が晴れやかな従順の心で耐え、それらを罰としてではなく、彼の特別な行為ゆえの試練と見るよう望まれる。

 また、私についての主のご裁量に対する盲目的な信仰を求められる。これは、確かに私の傲慢さにはこたえることだが、主は助けてくださるだろう。

 すべての業において、いっそうの熱心さを持って、より大いなる神の栄光を求め、できる限り完全にそれを行うよう努力すること。

 それに主は、私が自分自身を忘れるように、他の人が私に好意を持とうと持つまいと、私を尊敬しようと侮辱しようと、私に同意しようと私を拒絶しようと、どうでもよく、全く構わないで、あたかも何のためにも、またどこにも存在しないかのようであることを望まれる。主の恵みは闘いと苦しみによる功徳を取り上げずに、新たにそれをするようにさせる。なぜなら、これはより完全な事であって、より完全なことを私に望まれるからである。わたしに休めとは言われず、むしろ働くこと、それも、とても骨の折れることをするよう告げられる。

 共同生活をより完全に行えば行うほど、いっそうイエズスは満足される。

 あらゆる特典を避け、従順に制限をつけず、できる限り隠れた生活をしよう。キリストとその母マリアに倣う生活ほどに聖なるものはないことを思い出そう。

 最後の日に、神の一撃のようなものを感じ、私の道は、神があらかじめ備えてくださったものだと感じた。

 目の慎みを十分によく守ること。休憩時間には張り合うことのないように警戒し、気をつけていること。

 すべての行為をするに際して、「私たちの行為を…」の祈りを唱えること。食べること、眠ること、そしてすべてを、私たちの主と聖母マリアがなさるように行うこと。

No.24  マンチーニ師S.J.から受けた勧め 1894年

    自筆原稿:『霊的手記』No.35:二つ折りの一枚の紙(13.5X10.5cm)の全面に書かれている。

 神は今、彼女が十字架につけられていることを望まれる。だから、心から神のみ旨に従うべきで、苦悩や不快さのうちに人間の手を見るのではなく、すべての出来事の中に神のみ旨を見ること。しかも従わなければならないだけでなく、神にこう申し上げることも。もし、もっと苦しむことをお望みでしたら、苦悩や苦痛をどうぞ。神は今、この方法によって彼女が聖化されることを求められる。

 隅っこに置かれていることに満足し、何事にも立ち入らないこと。この家のことであろうと、会の統治に関することであろうと、どのようなことが起こっても、全てに黙していなければならない。今、世界には神と私しかいない。私は全てに死んだ者であるから、この世に死んだ者として生きなければならない。私のなすべきことは、誓願と規則をよく守ることでなければならない。後になって私の心を乱させ、不安にさせるどうでもよいことを知ろうと、時折、私をがんじがらめにする欲望を締め出すよう、徹底して自己を統御すること。某にたいして気をつけて話すこと。できるだけ話さないのに越したことはない。これは主がとてもお喜びになる節欲である。

 幸いにも、私はいかなる責任の立場にも無い。自分の聖化についてだけ考えていればよいというのは、大した幸いではなかろうか?

 休憩時間にはできるだけ控えめに話し、動揺している時は決して話さないこと。これは休憩時間以外でもそうである。絶対にボス気取りにならないこと。

 どんな事にもかかわらず、他の人の好意を判断しないこと。誰についても全く何も。ひどく私の心を唆す隠された手があると考えず、内部の人も外部の人も、他の誰も故意にはそのようなことはしないと考える。誰も私を相手にせず、私がいることも知らないと考えること。これは大いに愛徳に反することで、何としても闘わなければならず、心に深く植え付けなければならない。これについて特別糾明をすること。

 私に対してとても忠実な人たちについて疑わないこと。

 わたしへの人々の勧告のすべては、私たちの主である神からのものであって、こうしてみ旨ははっきりと示される。

No.25  1895年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』No.38:イタリア語印刷物(21X13.5cm)四枚の余白に書かれている。

 わたしは救われるために生まれたのだということを、はっきりと、いつまでも確信しなければならない。私は全く神からのものであり、神のものであるから、私の意思は私にとって、神のみ旨に刃向かって私を破滅させようとする強敵であることを納得しなければならない。

 今はもう、この聖なるみ旨がどこから示されるかを知っているので、日中しばしば思い起こして『主よ、お取りください…』と唱え、私のもとにくるものを、この上なく優しい神のみ手からのものとして受け取るばかりである。なぜなら、どれほどに私を愛され、誕生の時から私を見守り、常に他の人の意思に従わせられたかを経験によって知っているからである。それが辛くあるいは難解なものであるなら、信仰と信頼を生き生きとさせ、これほどに私を愛してくださっているお方、私はそれを知っており、それは神であるが、そのお方のみ手に我が身を委ねよう。経験によって知っているように、私の魂をこの試練に置かれた目的を彼は見させてくださるだろう。常に固く規則を守り日毎にいっそう完全に遵守し、それ以外は、たとえ逆立ちで歩かせられるように思われても、他の人のなすがままに任せること。なぜなら、主の道は理解しがたいものであった、主は曲がった物差しで直線をお引きになる。彼は全能で、望む事は全ておできになるので、私たちの考えや計画を笑っておられる。なんとそれらは無秩序なものだろう!

 愛徳について。主が私たちを愛されたように互いに愛し合うようにと、主は最後の晩餐で言われた。モーセの律法では、隣人を自分自身のように愛するようにと言われているが、この愛はさらに完全なものである。主がそうされたように、隣人に命を与えるほどの愛だからである。完全なものだけを愛するのは真の愛ではなく、不完全のものを愛してこそ、真の愛である。それに、そうすることによって愛の純粋さがいっそう示される。私たちはキリストがなさったように行わなければならない。私たちの兄弟のために、たとえそれが悪い人たちであっても、彼らに善をしようとの意向を持って苦しみ、息絶えだえとなること。何故なら、キリストは私たちが悪い者、とても悪い者だとわかっておられるのによくしてくださり、私たちを見捨てないばかりが、私たちの命が続く限りそうしてくださる。もし私たちの皆が互いに互いに相手を喜ばせようと努め、黙して苦しみに耐えるなら、この世は天国となるだろう。何故なら、これが修道生活であるはずだ。また、受けた侮辱を忘れるようにとも言われた。しかも、すっかり忘れるようにと。たとえ心に傷が残ろうとも、乗り越えること。

 何事も穏やかに、よく行うこと。そのためには次の条件が必要である。第一に意向の正しさ、第二に、あたかも結果は私たちにかかっているかのように、なすべき事を行う前に十分に内省する事。よく熟考し、私たちの側として行うべき事をした後、第三に、その結果は主なる神のみ手に委ね、それが良ければ神に感謝し、悪ければ忍耐して心を乱さない事。

 私たちの内外の誘惑。内面では情欲。純潔、信仰、信頼に反する誘惑には決して立ち向かわず、常に拒絶する事。他のより霊的な事柄に助けを求めたのに何の成果もないなら、たとえベットの中であっても、例えば家を造るなど、私たちの気を逸らせる考えを思いつかせる事。次に、怒りに対抗するなど、しっかりと戦う事。私の気に障って心を疼かせ、人に敵対する怒りの火がついてノーと言おうとさせるあの言葉には、私たちが他の人を傷つけたことがあったことを思い出し…(終わっていない。次の文章はイタリア語で書かれている)

 永遠の救いは難しさや不確かさを免れていないが、従順はそれを容易にし、確かなものとする。従順である間は、自分の救いについて私は何も恐れることはない。神の現存に生きること。神の眼差しは、地上のあらゆる民族からの尊敬に勝る。

 天の父に対するイエズスの従順。世が滅び霊魂が地獄に落ちようとも、イエズスのみ心は愛に満ち、霊魂たちの救いに燃えている。しかし、それにもかかわらず(ここまでイタリア語)、永遠おん父の拝すべきみ旨に従い従順であるために、外的な活動は全く無しに、救霊熱を無理にご自分のうちに秘めて、三十歳まで隠れていることが、天の父のご計画であると知っておられた。私もこのように神のご計画に従うこと。今の状況に私がずっといることが神のみ旨であるなら、大いなる寛大さを持ってこの犠牲を行い、平和に、そして大きな喜びをもってこの十字架の重荷を担おう。

 キルストの十字架は四つの部分から成っている。すなわち貧しさ、無視、苦痛と孤立無援によってである。

 霊操の抜粋とその実り

  • 有意的な過失をしないこと。過失には三つのクラスがある。すなわち、第一は有意的なもので、たとえ小さな過失であってもひどく主を侮辱する。このような過失をしないよう、粘り強く努めなければならない。第二は思いがけない出来事、例えば、ある人は実に簡単に怒る。これは、すぐには直すことはできないが、根気よく反省するなら矯正することができる。第三はありのままの自然さ。

No.26  1896年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』No.30:

 第一日 神は私が聖人になることを望んでおられる。聖性はこの世で得なければならず、次の世では報いを受けるだけである。手本であるイエズス。方法は、私の身に起こる全てを神のみ手から送られてきたものとみなし、何も誰のせいにもしないこと。なぜなら、あの人たちは私の聖化のための神の道具に過ぎないのだから。これは私の歩みをさらに阻み、神との完全な交わりを妨げる罠である。私の身に起こる全てを、神の聖なるみ手から送られてきたものとして受け取り、限りない信頼を持って、神のみ手に我が身を委ねなければならない。人間には何も信頼せず、常に神のためにのみ行動すること。人間はあたかも風に運ばれる木の葉のように変わることを、もう経験によって知っているのだから。神は変わらぬお方であり、神の目に隠せるものは何もなく、ご自分の中に持っておられる価値をそれぞれに与えられる。人間は自分たちの目に見えるに任せる。人間には目もくれないこと。イエズスのみが、常に私の愛と信頼が目指すものであって、彼こそ私の充満でなければならない。

 第二日 被造物を乱用し、主のみ手に完全に盲目的に従わないことの原因である罪

 私の心の中には、なんとたくさんの汚点があることだろう。天使的生活をするためにひたすらに愛し、外面的な過ちなしに仕え、天使のように清くなければならないのに。私はそれを利用し役立てることを知らず、この状態を耐えがたい十字架のように見ていた。イエズスと話すよりも彼らと話し合い、彼らを喜ばせることの方が、より功徳があるかのようだった。

 第三日 地獄、審判、死、放蕩息子

 私への主の驚嘆すべき憐れみは、私に、もし彼を愛し続けるなら私は地獄に行かないと確証される。我イエズスが、単純さと真実の霊を私の生き方と行動の仕方に注いでくださったので、審判の際にひどく狼狽することはないだろうと保証されるようだ。確かに、常に神のためにのみ行動するよう、それをしっかり植えつけねばならない。そして、どうあってもこの世では皆の目に隠れて過ごす事を望まなければならない。これは次の世で大きな喜びをもたらすであろう。なぜなら、左の手のする事を右の手が知らないことは、神がとても喜ばれることだからである。

 死についての黙想。すべてのものへの軽蔑、そして私自身への嫌悪と反感。体が腐敗しているようだ。放蕩息子の黙想。黙想の間ほとんど何も考えられなかったが、主のいつくしみへの深い優しさがもたらされたが、それは、私は失われるはずはないという大きな確信としてだった。

b)霊操の決心

  自筆原稿:『霊的手記』No.40:8枚綴りの罫線ノート(10X8cm)の両面に書かれている。

決心

 何としても目を慎むこと

 もっと言葉を慎むこと。ひどく興奮して話すことは決してしないこと。

 他の人に、全く委ね従うこと。

 私の内面を指導する方を盲目的に信じること。なぜなら、知識、徳、経験のあらゆる条件を備えていることを経験によって知っているのだから。

 どんなことがあっても軽蔑を探さなければならない。苦しめば苦しむほど、より栄光があるだろう。おん父に苦しみをお願いしなければならない。イエズスはこれを私に望んでおられる。聖人になろうとの望みを、もっと熱心に更新しなければならい。どんなことがあっても、どれほどに骨折らなければならなくても聖人になること。神はそれを私に求められ、修道会もそれを求めている。神の助けに欠けるはずはない。神がいつも私を特別に贔屓してくださり、仕事をさせるにあたっては、有り余るほどの恩恵を与え、実感する素晴らしい導きを持って助けてくださったことを、私は経験によって知っている。これは何を物語るだろう?私はイエズスのご計画に、盲目的に委ねなければならない。

 私の身に起こる全てのことのうちに、神のみ旨をみること。

 私のことが知られることへの恐れを消すこと。なぜなら、神を賛美するにしても私を軽蔑するにしても、常に利益を生むのだから。

 聖人に、それも大聖人にできるだけ早くなろうとの望みを大いに燃やすこと。そのためには、どんな苦しみも屈辱も拒まないこと。

 私が行う全ての業は、例えどんなにありきたりのものであっても、神のみ前で、神のためにのみ行うこと。

 皆が尊敬され賞賛され愛されているのを見、私は侮辱され軽蔑され無視され、笑いものにするためにだけ私に気を留めるのを見て、大いに喜ぼう。

 私の心のうちで、イエズスを独り置き去りにしないこと。

 私を照らす恩恵を心から認め感謝するものとなり、これに協力すること。しかし断じて何も、絶対に何も私のせいにはせず、常に私であるところの、神の憐れみによってのみ支えられている、もろい汚れた器である自分を見ること。

 イエズスは、特別な結びつきによる私の魂の夫であり、私は竿の妻であるから、彼の関心事と彼に似通ったもののみを探さなければならない。私の生涯を、彼の地上での生活もしくは聖体におけるご生活に似たものとすること。外的なことは全くなく、かえって屈辱と忘却の生活。私はこれを望まなければならないし、自分のものとするようにしなければならない。

 私のうちに救霊熱を大いに燃やさなければならない。一人も滅びる者がないよう、祈りにおいて熱意に燃え立つこと。彼らは、私の聖なる夫のこの上かく尊いおん血が費やし尽くされたものであり、私は実際に彼の妻なのだから、一滴たりとも無駄にしないようにと、どんなに心遣いをすべきだろうか?

 自分のことにはあまり構わず、あらゆる面で、イエズスが関心を持たれていることに大いに熱心に専念すること。主は私に耳を傾けてくださる。この使徒職を実行しないなら、私に対する彼のご計画を実現しないことになる。諸聖人、姉妹たち、私が倣いたいと願っている聖テレサ、シエナの聖カタリナたちは、あらゆる優れた知恵者や雄弁家よりも、彼の心に対してより力があった。謙遜で単純な心の願いは神の心を負かし、神は何ひとつ拒むことがおできにならない。

 私の心、私の全生涯はイエズスのうちに、イエズスによって、イエズスのためにのみ、常に。

 怒りのような激情との闘いに、たびたび立ち向かわなければならないのであって、安閑とした静けさにあることに満足してはならない。闘いなしには勝利も栄冠もなく、生きている限り、休みなく挑まなければならない。

 私の敬愛する母なるおとめマリアへの信頼と愛を燃やさなければならない。

No.27  1897年の霊操

                                           自筆原稿:『霊的手記』No.41

:16枚綴りノート‘10.5X7.5cm)の1~14頁に書かれている。

 私は全く神のものであり、神をお喜ばせし、何も抗弁せずに従うように私を整えなければならない。そのようにしないなら、それは新たな反抗となるだろう。常にあらゆる出来事においてこう言わなくてはならない。「私は神のものであり、神のみ手の中の一握りの土に過ぎない」と。そして、陶土のようになること。

 不偏心 良いものを深く感謝して受け取ることは大体わかるが、自然的なものであれ超自然的なものであれ、神の賜物を尊重することを知ること。そして苦しいことは、私のひどい持病のための薬として大いなる恭順さと感謝を持って受け取り、愛徳を危うくさせる、二次的な原因のせいにはしないこと。

 罪 私の罪は数え切れないほどで、私の髪の毛よりも多い…(ここで途切れている)私の行為の単純さを増すようにと大いに…(ここから後、抜けている。)

 神の国 苦悩の道を通ってキリストの後に従いたいとの大いなる望み。たとえ、人の目には役立たずで何者でもないと映り、軽んじられ、存在を忘れ去られても、神のみ旨が別のものと見えない限り、この望みを燃やそう。

 ご託身 忘れられて隠れて生きることを大きな恵みとみなして喜ぼう。しかし、イエズスが聖母の胎内でそうではなかったように、何もしないのではなく、イエズスが全世界のためにされたように、各瞬間、自分を犠牲にすること。なぜなら、値しない者であるにも関わらずこのためにイエズスは私を選ばれ、私は生贄なのである。

 ご誕生 人々の目にも自分自身の目にも映らないように努める事。そして、小さな徳に大いに重きをおくこと。

 避難 神のみ旨へのなんという恭順さ、そして委託だろう!私はどうだろう。神の道は私のうちに、とはっきり言えるように常に判断し、私の望みをやり遂げるべきでないときに、そのように見ているだろうか?その時には血の涙を流さなければならない!私は神のものではないのか?そうだとするなら、私は、神のご計画の何を疑っているのだろう?ここにこそ、克服すべき私の傲慢さの本体がある。わが神の助けによってそうできるだろう。

 隠れた生活 私にとっての功徳の宝庫はここにある。この世で最も偉大で聖でそして賢者である三人の方は、役立たずのように生活しておられる。とりわけイエズスは三十年にわたって黙し、おん父から託された全世界を救い教えるみ業をほとんどなさらなかった。私は何もしないことにひどく苦しむが、私は何もわからないしなんのためにも必要でなく、すっかり失わせる以外に全く能がない。我がイエズスよ、今日からは、感嘆すべきあなたのお手本が私の模範となりますように!しかも聖ヨゼフに対する謙虚さは、彼があなたよりもはるかに劣るにもかかわらず、あなたは、あたかも何も知らない者のように彼を敬い、従われたのでした。

 見失う 私の尊敬、愛、謙虚さは、永遠の父に対するイエズスのそれに似通っているだろうか?私は日中の何時間かを、天国におられるかのように尊いお三方のみ前で過ごしているが、少しも似ていない。お三方の称賛を祈っているが、私は信心深いだろうか?これからはどうすべきだろう?前もってよく準備し、それらの行為を、あたかも初めてするかのように行うこと。聖体拝領では、大いに熱心さを増し、イエズスご自身がなさったように、もっと一致すること。

 キリストの旗 多くの不完全さを私に犯させるバビロン平原のように、私の心が動揺しているのを何度体験することだろう。では、どうすべきだろうか?エルサレム平原に倣うこと。侮辱を黙って耐え、目にする不完全さを見透かし、もし叱責するときは、どんなにか優しく穏やかにすること。矛盾などには忍耐すること。聖体のうちにおられるおん身を、私のあり方の手本とさせてください。あなたのために全てを耐え忍び、そしてどうしましょうか?黙すこと、あるいは、悪に対して善をあなたに差し上げること。

 三組の人 今日まで私は二組の人だった。これからは真に三組の人に。身を切られ焼かれてもそれを抱きしめ、現に抗っているように肉は抗うが、主に申し上げよう。主よ、お受けください…ただ、あなたの愛と恩恵をお与えください。

 小事への忠実さ 聖ベルクマンスのようにこう言おう。どんな事も軽んじませんし、些細な事柄を大切にすることを止めません。そして主は言われる。小事に忠実な良い僕は、大事にも忠実であろう。小さな行為の一つ一つに、より高い恩恵とより大きな栄光が加わる。夜になると百ぐらい数えることができる。

 謙遜の二つの段階 第一の段階はある程度、第二段階はまだまだで、私はこれに到達しなければならない。どのようにして到達すべきだろうか?心の清さとし自身を低く評価すること。これは私の霊操の主なる成果でなければならない。

 謙遜の第三段階 主はこの段階に私を招かれ、数年前から、はっきりとこの道を歩ませられる。どのように私は応えただろうか?相応しい尊敬を払わず、とても悪い。神の国の鍵を手中にしながら、自尊心と傲慢によって分別を暗くしたために、それを錆び付かせてしまった。今後は主の恩恵と、この黙想中にいただいた光によって、こうはすまい。これこそは聖性に達する道であり、私たちの主イエズス・キリストがこの地上で歩まれたものである。それは、私が見聞きするものとは全く逆さまの、私の激情に火をつけるものであるが、機会あるごとにこう言おう。「このような時、イエズスはどのようになさったであろうか?このような栄誉や称賛に対してどのように振る舞われ、どう重きを置かれただろうか?」たとえ地獄中が私に対して逆らって立っても、私はここで確固としていよう。

 第一黙想 受難について 誰が?何を?どのように?誰のために苦しんでおられるのか?

 罪のため、私のためにである。私は苦しむこと、面目を失うこと、軽蔑されること、そして誰も私を尊敬せず相手にしてくれないことを避けているのではないか?これまで自分がしてきたことで、あえて不平を言うのだろうか?塵しかも害のある塵に過ぎないと自覚することを、しようとしないのではないか?私の体を提供するだろうか?私の感覚、私の情熱を自由にするだろうか?心と魂を常に主と共に釘付けていないのではないか?

 第二黙想 受難について ゲッセマニの園での祈りに際してイエズスが感じられた苦しみを、私のうちに保持し培っていないのではないか?修道会の償いの精神と、これによって立てた誓願によって、これは私の義務である。

 捕縛 起こるべきことをご存知で、兵士たちをまたずに、進みでられる。どのように?子羊のように、死刑執行人をいとおしみながら。最後まで、温和さと父の愛のあかしを私に下さる。拒絶されておられるのに敵のために奇跡を行われる。なんと偉大なイエズスの愛だろう!臆病で惨めな私の心を、誰が御身のもとに移すことができるでしょう?おお、わがイエズスよ!あらゆる悪、とりわけ謙遜と愛徳に反する欠点の狡賢さが入り込む全ての戸口を閉ざし、感嘆すべき諸徳が入りうる御身の広く寛大な心を私にお与えください。

 愛徳の三段階 おおイエズスよ、全てはあなが私の魂に植え付けてくださったものですが、初めのものはいまだにとても軟弱です。しっかりとしたものにするにはどうしたらよいでしょうか?心の中で皆を尊敬し、あの人たちが皆から尊敬されているのを見ることを望み、私自身も常に単純にではあるが、できる限り外面的にもあの人たちに尊敬を表すこと。

 体と魂におけるイエズスの受難 私のために、わが神は、どれほどの苦悩と苦痛に苦しんでおられることだろう!私は彼のためにこの道を本当にはっきりと望ではいるが、苦しんでいるだろうか?確かに苦しんでいるが、謙遜なしにである。凶暴なライオンよりも強い「私」といつも闘っている。私は大いなる聖性に達したいのだろうか?柔和で謙遜なイエズスのみ心の思いを身につけない限り、それは不可能だ。

 反復 同じ光。キリストの精神を持って苦しまない者は、キリストに一致することはできない。神はいつも私に、柔和、謙遜、自己蔑視そして虫けらのように踏みつけられるほどの自己放棄を求められる。業も光も、イエズスはそのようなものは何も私に望まれず、私の全ての判断に死ぬことを望まれる。喜びも悲しみも同じように、情熱を調え秩序づけること。マグダレナにではなく聖母マリアに倣うこと。聖母マリアこそは全き節度と賢明さのお方で、聖なるそのみ子に次いで、最も完全に行動し愛された方である。

 復活 全ては終わり、キリストのお身体と魂には永遠の喜びだけが残る。イエズスとともに、イエズスのように苦しみ、謙虚に柔和にみ旨を果たすなら、私もそうなることを知っている。激しやすく、傲慢で怒りっぽい私の性格には大事業だが、でもイエズスは助けてくださり、この闘いにわたしを置き去りにすることは決してなされない。それに、柔和謙遜を獲得するためにとても苦しまれた、わが父聖イグナチオの取り次ぎもある。

 イエズスの栄光の体 そのお苦しみによって、もちろん人であり神であられる体が、それはなんという美しさだろう。彼に倣った諸聖人たちは永遠に限り無くそれを見ることだろう。そして私は?もし堅固な完全な諸徳、熱心さ、柔和さ、賢明さ、そして聖なる女性たち、とりわけマグダレナのような絶え間ない愛に倣うなら、それは私の手中にある。おお、わが聖女よ、私もあなたのように真に回心し、たとえ精神でだけであっても神のために偉大な働きをし、あなたがあれほどに愛され、私も愛したいと望んでいる主のみ旨であるなら、たとえ、ぼろぼろとなり、何もかも押さえつけられ、あらゆる人からもっともつまらない虫けらのように死ぬほどに軽蔑されても、あなたをお喜ばせいたします。

No.28  1898年の霊操

 (a)霊操に先立った手記

   自筆原稿:自筆原稿:『霊的手記』No.42:彼女に宛てられた手紙、二枚折の罫紙(13.5X10.0cm)

  の余白に書かれている。

 苦しみの真の知恵を学ぶために霊操に入りたい。これこそは聖人たちの真の知恵であって、たとえ命がけであっても、私は聖人になりたい。

 主が私になされようとして、私を導こうとされることの通常ではない生活に対して、不偏の心でいなければならない。辛くて、むしろ行動したいのだが。

 内的・外的な節欲に入念に気を配らなければならない。

 祈った上で徳を増すための方法は、キリストと聖母マリア、聖ヨゼフの諸徳に合わせてこれをお捧げすることである。これはとても役に立つやり方である。

 キリストが私のうちに生きるためには、私はすべてに死ななければならない。

 何の制限もおかずに神のみ旨に身を委ねなければならない。たとえそれによって大きな苦悩や迫害が引き起こされてもである。

 人々の救いのために、大いなる熱心さを持って祈ろう。この決心に気を抜くことのないように。

 節欲によって、心地よいことにも苦しいことにも、内的にも外的にも全く同じであるほどの自己統御を獲得すること。

 わが身に来るすべてを乗り越えるために、常に天を見つめ、あたかも私のみに起こることではないかのようにやり過ごすこと。

 私の心は、情欲の深い根は取り除かれているが、もっと諸徳を培わなければならない。特に穏和さ、神への信頼、そして神のみ、ただ神のみを喜ばせ、神のみに知られ愛されることを望むこと。私の心は準備されていて、恩恵がそこに湧き出る。

b)霊操当初の手記

  自筆原稿:自筆原稿:『霊的手記』No.43:一枚の紙(11.0X9.0cm)の両面に書かれている。

 私は十分に苦しむことを学ぶ為に霊操に入った。わが神が私についてお望みのこと、それは私の魂の聖化であるが、それを得るためにはまだ大きな浄化が必要である。この浄化は、私がそれに同意するのに応じてくるだろう。大きな勇気を獲得し、心を準備しておかなければならない。無為は私の最大の殉教である。神は私が聖人になることを望んでおられる。神の聖なるお望みを無視して聖人になることを止めることはできない。もし聖人になるなら、救霊のためにどんな大きな働きをするよりも、修道会のために、姉妹たちのために、そして隣人のために、もっと尽くすことになる。私の魂は呻いているが、でも、笑っているよりも呻きながらイエズスをお喜ばせする方が、もっと価値がある。喜びは次の世のものだろう。イエズスは私を深く愛してくださり、このことは常に私を励ます筈だ。経験によって私はそれを知っている。特別の愛で愛してくださり、私のために最善のものを望まれる。私が任せきることのみを望まれ、他の全ては主がしてくださる。このためにだけ私が役立つことをご存知だからである。 

c)決心

   自筆原稿:『霊的手記』No.41:19枚綴りノート(10.5X7.5cm)の15頁面に書かれている。

  • 私にくることは全て、苦しくても辛くとも、どんなことであっても神と一致するための大きな賜物であり、道具であり、手段であるのだから、そのまま受け取り、心からそれらを愛し、尊敬し、感謝し、祈りのうちに大いに願い求め、望み…(終わっていない)

No.29  1900年の霊操

  • 三つの断片
  • 自筆原稿:『霊的手記』No.44:マンチーニ師からの葉書(6.0X10.0cm)

                       の余白に書かれている。

 完全な平穏な状態にある今、神のために働きたいと言う熱望は、悪魔の誘惑であることがはっきりわかる。というのは、どんなに犠牲を払っても、たとえ最上と思われることについても、自分の意向を砕くことを主は望んでおられる。主が私の上に置かれた人のなすがままになり、直接あるいは間接に私になされること、それが、たとえ私を地下牢に閉じ込め、あるいは女王の服を着せ、あるいはそのように私を扱ったとしても、盲目的にされるがままでいること。判断の服従と絶対的に盲目的な従順。反対のいざないや行いは悪魔のそそのかしである。それがはっきり分かる。

  • 自筆原稿:『霊的手記』No.45:一枚の紙(6.5X10.5cm)の両面に書かれている。

 わが主なる神は、各瞬間に私の身に起こる全ての出来事において、主のみ旨への完全な服従を望まれる。だから、自愛心にとってどんなに辛くとも、決してあれこれと判断すべきではない。私の働きではなく、私について指図されたことに対する盲目的な従順を求められる。もしこれを肝に銘じなければ、狂人としての生活、破滅へと身をさらすのである。はっきりとした意思と心の平穏のもとに、これを書いている。

  • 自筆原稿:『霊的手記』 n.46:一枚の罫紙(10.0×8.5cm)の三面に書かれている。

 私の心にはこの妨げ、恐ろしい傲慢がはびこっている。私の身に起こるすべての事のうちに神のみ旨を見ないことである。

 あたかも主がお命じになるのを見るかのように、生じるすべての出来事に従うことを神は望んでおられる。

 (b) 愛の生け贄としての奉献

    自筆原稿:『霊的手記』No.47:一枚の紙(22.5×16.0cm)の二面に書かれている。

 主なる神よ、あなたを愛深い神としてではなく、あたかも厳しい審判者かのように感じ、あなたのみ旨に我が身を委ねることを私は恐れましたが、これは、あなたの限りない憐れみをーーそれは私の生涯を通じて、数々の証拠を持ってお示しくださいましたがーー侮辱するものでした。もうこれからはいたしません。そして今、それが甘美なものであっても苦いものであっても、あなたのご計画に我が身を委ね、私に対してお望みのままになさいますよう、決して取り消すことなく、我が身をお委ねいたします。わがイエズスよ、多くのタイトルによって私をあなたのものとされるために、大きな権限をあなたはお持ちです。

 あなたの恩恵に期待して自我の望みを根こそぎにし、すべての事に満足し、すべてに『はい』と応え、あなたへの深い信頼を養い、到来するすべてを、それが、いかほどに辱められ、苦痛なものであっても、それらを私への愛にもえたつあなたのみ心の素晴らしい賜物としてお受けいたします。

ローマにて 1900年12月20日

                     愛の生贄である 聖心のラファエラ・マリア

 唯一の決心。神のみ手への盲目的な信仰と、英知に満ちた聖なるみ旨への完全な委託。

N0.30  1901年の霊操 決心

    自筆原稿:『霊的手記』No.49−50:彼女に宛てられた手紙、

二つ折りの用紙(21.0X13.5cm) の空白に書かれている。

1 私が置かれている今の状態について、神のみ手に全く任せること。それは私にとっては実に辛く骨の折れるものだが、各瞬間に差し出されるすべてを、私のより一層の節欲のために神のみ旨によるものとして受け取る事。

2 時間通りに嫌悪感を表さずに休憩室に行くこと

3 言葉遣いは極めて節度あるものであること

4 あまり激しく自分の望みを表さないこと。同様に言葉によっても表明しないこと。

5 物事がうまくいかず、別の方法ではうまく行くとき、誘惑を打破し、必要でない限り何も言わないこと。

6 修道会に対してはあたかも死んだもののように生きること。何の見かけもなく、世間にとって何者でもなしに。世を贖うために来られたイエズスのナザレトでの三十年のように、そのように、私もまるでなんのかかわりもないかのように生きること。

7 規則の12番が求めるように、全ての事において、最大の自己放棄と絶え間無い節欲を探すこと。

8 11番の規則の精神を得るよう努力すること。それを得るには、神の恩恵に次いで、それらについてそれぞれある期間、特別究明をすること。

 — やすむことなく自愛心を追跡し脅かすこと。

  • 謙遜の第三段階に達するよう精魂を尽くして努力すること。次の方法によって、つまり、自己卑下の機会から逃げず、軽蔑に黙って耐えること。軽蔑されることを望むこと。私たちの望み、考え、意向を非難されるなら、心から喜んで、そのことを神に感謝すること。

 たとえ同じ栄光を帰すとしても、慰めを楽しむよりも、生け贄として、受難のイエズスとともに苦しんで、より多くを得たい。

 自愛心に占領されているので私の精神は弱っている。必要な糧は自己卑下である。しかも大変これが必要である。執拗にこれを望み願い求め、それが来た時はむさぶるように飲み込み、常に大いなる沈黙を、とりわけ内的に沈黙すること。

No.31  1902年 イエズスのみ名の祝日に書かれた手記

    自筆原稿:『霊的手記』No.52:一枚のカード(11.0X7.0cm)の片面に書かれている。

  マンチーニ師は私の霊魂の聖化のために神が置かれた方である。全てのためらいは敵の策略である。

 神が私に望んでおられる高い聖徳に達するためには、全てをすっかり任せなければならない。つまり、神の摂理が私に置かれる全ての出来事において、神父様の指導のもとに私を委ねなければならない。勇気を持って。右顧左眄(訳註、右や左を見回してためらうこと)しないこと、なぜなら、暴風の危険ごとに、魂にとって大きな益となることを、すでに経験によって知っているのだから。

                   本日、19日  イエズスのみ名の祝日に 

       注 イエズスのみ名の祝日は1月の第3日曜日に祝われた

No.32 1903年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』No.30:第一ノートの(13.0X10.0cm)19−25頁

の両面と第二ノート(12.5X7.5cm)の1~7頁の両面に書かれている。

 死について 地上での生活は、どこかに行く、たとえばフィレンチェに行く汽車の旅のようである。もしそこに行かなければならないのなら、途中で何にでくわそうと、全く構わないのではないだろうか?行きずりに見るだけであろう。地上での出来事も、私たちの目的である天国を眺めてそのようにしなければならない。被造物に対しては、あたかも、同じ車両に乗り合わせたもののようにすべきである。不慮の事故のような困難に出会った時は祈ること、そして実に的確に私たちを導かれる神である列車の運転手に信頼すること。このように生きるなら、目的地に着いたとき、どんなに快く迎え入れられることだろう。こういう到着を熱心に求めなければならない。旅の途中では、私たちを引き止めるどのような機会も失ってはならない。むしろ、できることなら旅を切り上げ、絶え間無い愛の苦しみである最短の近道を選ぶべきだ。聖性は魂にあるのであって体にはない。罪を犯すのは私たちの魂である。私たちの判断は認識し、私たちの意志は実行する。魂のない体は土、つまり泥である。魂は命と自然的な美しさを体に与え、しばしば精神的な美しさをも与えていて、ある聖人たちは並外れて輝いており、何人かの善なる人たちもある程度そうであった。魂が聖であればあるほど体はいっそう聖で、のちには、より栄光あるものとなる。魂が実践する全ての善は神から来る。神なしには私たちは無だからである。

 告白 小罪は告白する義務がない。小罪は、知っている九つの事柄の実践によってゆるされる。そうだとすると、大罪のない者がなぜ告白するのだろうか?赦しの秘跡によって豊かに受けられるので、恩恵を増すためにである。それであるから、いくつかの過ちを告白するとしても、過去のすべての過失もしくはより重大と知っているそれらを心から痛悔し(二度と犯さない決意を)すること。これが、罪の赦し、もしくは秘跡的恩恵の増加をもたらすのである。これは、神を侮辱したことをいたみ悲しむことがより強いほど大きい。そして、深く嘆き悲しむには大きな愛を持たなければならず、より強い愛には、より大きな痛苦と恩恵がある。誰かが五つの苦しみと愛を持っているなら、五つ受けるであろうし、それらを百万持っているなら、百万手に入れるであろう。すべては、その人の寛大さによる。

 キリストの国 私はカルワリオまであなたに従います。あなたの生涯は私のお手本です。私の意志は神のご意志から離れませんが、これに凄まじい戦いを挑んでくるのは悪魔です。これに打ち勝つには祈りと謙遜です。

 神のお告げとご託身 謙遜と愛がイエズスに、おとめの胎内を住まいとさせた。神は外面的な才能ではなく、魂のものをご覧になる。愛で飾られれば飾られるほど、いっそう神をお喜ばせする。マリアは許嫁であって、まだ聖ヨゼフと結婚していなかった。ヘブライ人たちの間では、結婚は婚約後ある期間を経てから行われた。天使が出現したとき、彼女は、様々な事柄の中でそれが確かめられると思った。天使は使者とされたとき、それが、お仕えする統治者なる神から与えられたので喜んで受けた。そして彼女が非常に謙遜であったので、一人の人間に敬意を払うことが自分を下げることとはおもわず、もし誰かが反対のことを言ったとするなら、それを侮辱と受け取ったであろう。なぜなら、神の大いなる威光に従う最も小さな行為が、どんなに価値あるものかを知っていたからである。私は神のことについてほんのわずかしか敬わず、尊敬していない。なんと恥ずかしいことだろう、面目次第もない!神のことを神のこととして見るとき、どんなに小さくとも、神のことは無限に価値あるものである。

 おとめの胎内でイエズスは形づくられ、やがて地上こられた使命が示される。彼は心からそれを受け止め、ご自分の永遠の父に撤回することなく捧げられる。何に従われたのだろうか?恩知らずなわたしたちのために苦しみ、死ぬことをである。そして常にご自分お石を、決して生温くされることなく従わせられた。むしろ、あらゆる機会に「私はみ旨を行うためにきた…」と、繰り返しておられた。

 第五日 聖ヨゼフのためらいとエジプトへの避難について。聖なる夫がひどく苦悩するのを見、また、自分が不面目な者と見なされているのを知っているのに、聖マリアの沈黙は何という完全さであろう!おお、わが母よ、たとえ全世界が、悪魔が、肉体が私に弁明するようそそのかしても、神のみ手に全く委ねる、という素晴らしい徳を教えてください。黙し常に信頼すること。そして何をも誰をも恐れないこと。神が私を弁護してくださり、それで十分だとあなたは言われる。もし、そうならなかったら、み旨が行われますように。その後、旅においては、ひどい困難やあなたの純潔な慎みに全く反する事柄にも関わらず神は全てをおくられ、あなたは「お言葉どおり、この身になりますように」。常に甘受し、常に信頼し、常に明白に神のみ旨に合致される。聖母よ、あなたは神のみを愛し、あなたの全ての好み、全ての望み、たとえそれらが非常に聖なるものであっても、神のみ旨をそれらに優先されました。あなたには神の望まれること以外に望むものはありませんでしたので、あなたに対する神の愛と聖性に比肩するものはありません。あなたの判断、あなたの望み、あなたの全てが神のものでした。働きも苦しみも障害も、あなたは常に神のみ手からくるものとして見ておられました。ですから、心からの「フィアット」をおっしゃるための時間が、あなたにはいつも足りなかったのです。

 第六日 神がはからわれる事に服しそれに従い、また神の代理者に従順であることほど、神をお喜ばせすることはない。イエズスの三十年に渡る模範のように。

 第七日 イエズスが私を限りなく愛されたのは神だからであったが、私を愛しておられることを全部示すことはおできにならなかった。なぜなら、苦しむことがおできにならなかったからで、そのために、苦しむことのできる人間性をおとりになった。そして、その一滴の血をもって、人間の血としてばかりでなく位格的一致による神・人の血、人的な血であるばかりが神的な血をもって私たちを贖い、善で満たすことがおできになった。私たちを無限に愛しておられたので、貧しく卑しくされたご生涯だけでなく、与えることのできる最高のものである苦しみの生活、恐ろしい苦悶の生活を私たちに与えようと望まれた。そして、もし父なる神が限界をお置きになっておられなければ多くの苦しみを、しかも、それが父なる神のお望みであったとするなら、世の終わりまで苦しむことを望まれたであろう。このように神は私たちを愛された。神を愛するのは当然ではなかろうか?そう望むだろうか?私たちに求められ、命じられるのはこれだけで、他には望まれない。彼のためだろうか?何のために?私たちのためであり、私たちと一つになり、後に大きな報奨を私たちにくださるためである。どのようにそれに応えようか?全てにおいて、名誉であろうと、不名誉であろうと、私たちmの意志を神のみ旨に一致させることによってである。しかも彼により似た者となるために、彼が愛された不名誉、軽蔑、苦しみを愛することによってである。

 私たちの意志にとって不快なことがくるときは喜んでこれを受け入れ、いろいろな事が来ることを願い、常に喜びと感謝を持ってそれらを甘受すること。侮辱的な辛いものであればあるほど良い。私たちへの愛のためにイエズスはそうされたのであって、もし本当に彼を愛したいのなら、何にも増してそれを模倣しなければならない。彼がそれを喜ばれるよう、すべてを彼に差し上げ、私たちとしては苦しみを探し求め、その機会に気付いたときは、それを見出すために走っていき、決して口実を設けたり逃げたりしないこと。イエズスは受難の時が近づくとエルザレムに向かって急がれ、自ら出向いていかれた。そして機会あるごとにいつもこう言っておられた。私の血の洗礼の時はいつ来るだろう?父への愛ゆえに、父の聖なるみ旨を果たし償うために、また、父が無限の愛を持って愛された人類への愛ゆえに、そして、地上では私の愛と功徳で満たされ、天上においては、永遠にこの愛とこれらの功徳の冠で飾られて、清らかで私と一致するに相応しい者となることを私が望んでいる人類への愛ゆえに、私が全身に痛手を負い、軽蔑され侮辱されて十字架にくぎ付けられる時はいつ来るのだろうか?

 晩餐と園での祈り ペトロのうぬぼれ、すぐさまにひどい失敗。常に自分には信をおかず、神に信頼すること。私は重大な時の方が小事の時りも強いが、それは重大な時には神に信頼するが、小事の時には自分に信頼するからである。だから私はすぐには改めないで、度々過失に陥る。

 小事への忠実さ そうではなかったためにユダは師を売り渡した。聖体を拝領する際は、幸いにも主が今、私に好意を寄せてくださっているかのように、大いなる信頼と親しさを持って拝領しにいくこと。

 苦悩のさ中にある時は神を見つめ、「お言葉どおりに、この身になりますように」と去るのを待つこと。手紙でであっても、気分晴らしをしないこと。神のお望みの時まではそれが消失することを求めないこと。「フィアット」——アーメンーー園での主を思い出すこと。そして試練の意図や長引くことにおじけづかないこと。このような機会での「フィアット」は、神なる主に対してなし得る、より純粋でより美しい愛の行為である。

 受難と磔刑 苦しむことへの望みを増すこと。神をお喜ばせするために誰をも何をも恐れないこと。私に対する人間的な見方と起こる出来事は無視すること。全てが明らかになる日が来るだろう。もし地上で来なければ天上において来る。神のために苦しむのなら、より踏みつけられるほど、一層の栄光がある。全てにおいてただ神のみ。

第八日 もし私が多くの厄介さや不完全さの持ち主から変わって、何の妨げもなしにとても良いもの、素晴らしいものを受けていたとするなら、私のものを持っている人に向かって、「これは、そうするものではないのです。そうするならなくしてしまいますよ、これでは泥棒が入るでしょう」と言い、いつもこれにとらわれて自分のものについて満足していないのは、果たして良いことだろうか?人々は私について何というだろうか?きっと気違いだというだろう。だが、自分の身に起こること、将来、修道会に起こることなどを考えて時を費やすとき、私はそれをしている。今、私は、私に対して神が望まれるとはっきりわかるみ旨を果たすことと、より適切なものを私よりもよくご存じである神の摂理に私を委ねることを考えるべきだ。

 より苦しむものはより多く受ける この地上で、一層自らを軽視し、また人々から軽蔑されることを望み、それを探し求める者は、次の世でより多くの栄光と栄誉を受ける。悪は、良いことよりも千倍も多く功徳を私たちに得させる。責め立てれられ、むごく扱われるものとなることを切望しなければならない。体で罪を犯すのではなく、意志を持ってである。どんなに大きな苦悩も、もし、いっそう神に信頼し、大いなる忍耐を持って耐えるなら、救いはいっそう莫大である。私たちになされるすべてにおいて、神は私たちを助け、私たちが善を引き出すようになさる筈である。

 「この不運は某の責任だ」と決して言ってはならない。そうではなく、その人を神のみ旨の道具と見ること。罪はお望みにならないが、義なる人には、その人の善のためにそれをお許しになる。なぜなら、そこから神の栄光と侮辱した人の善を引き出されるからであって、たとえ殉教者のように命を奪われたとしてもである。お望みであれば、罪を犯すことを防ぐことがおできになるが、私たちの意志のままにされ、自由を制限されるのはほんのわずかの機会だ。人間の理性では理解できない方法ややり方によって、主は常に悪から善を引き出される。特別糾明では特に主要な情欲の根を探し、根こそぎにするまで断固として闘わなければならない。神のみむねに一致する最も有力な方法、もしくは全くそれに従う方法は、たとえ苦くとも、神とそのご裁量への完全な従順である。私たちの特別学習は、常に自分に逆らうことであるべきだ。私たちの意志が中立もしくは無秩序なものであったとしても、絶えずいみ嫌わなければならない。他には正しく私たちはそうでは無い、という罪はないことを信じればならない。決して論争しないこと。すべての人を神の似姿として尊敬すること。実際にそうなのだから。

No.33 いくつかの祈り

a)マドレ・ピラールと自分のために作成した祈り(1903年頃)

  自筆原稿:『自筆原稿』No.7:112枚のノートの(9.0×5.5cm)108頁の両面に書かれている。

 愛するみ主よ。あなたの開かれたみ心によってお願いいたします。あなたの愛の矢で某(注マドレ・ピラール)と私の心を貫いてください。それは、地上のものには全く属さず、その心があなたのみ業に包まれ浸透されたものとなるためです。

b)聖母マリアへの祈り

    自筆原稿:『霊的手記』No.74:8.5×12.0cmの一枚の紙の片面に書かれている。

 愛するみ母よ、あなたに何をお願いしたら良いのか、私にはわかりません。でもあなたは、私の心の中にある全てをご存じです。力あるみ母よ、あなたがお望みのものを沢山、沢山お与えください。私の望む全てをあなたが承認してくださり、しかもそれがあなたのお気に召しますなら。あなたとあなたの尊いおん子のより大きな栄誉のために、私はすべてを望みます。

c)聖母の被昇天の教義の決定を求める祈り

   自筆原稿:『霊的手記』No.75:12.0×17.0cmの一枚の紙の五行に書かれている。

 おお至聖三位よ、私たちの母汚れないおとめマリアに対するおん身の愛によって、聖母の栄光ある被昇天の教義の速やかな決定の恵みを、私たちにお与えください。

No.34 いくつかの霊的手記

(a) 年の霊操に関連した希望と決心

  (1)自筆原稿:『霊的手記』No.67:一枚のイタリア語印刷物(20.5×14.0cm)の余白に書かれている。 

 私の魂は青々と繁ったオリーブの木のようだが、貧弱な実を僅かにつけているだけだ。神と人に対する聖なる技の油をふんだんにもたらすために、この実がたくましいものとなるよう神は私に求められる。

 神に対しては絶え間ない祈りの精神を強め、私の生涯を途切れることのない愛の行為としなければならない。この水脈を私はしっかり開いていて、神が後押しされる限り私は悪用しない。

 私にとって大いなる善とならないものが私の身に生じることを、主がお許しにならないことを決して疑わず、子としての信頼も深めなければならない。

 それで、神の摂理への委託の精神も持つこと。これは私にとっては、いとも容易い筈だ。なぜなら、主なる神が、私の誕生の時から私のためにしてくださったことを、つまり、必要な時には実に驚くべきことをしてくださったことを体験によって知っているのだから。

 こうしてオリーブの木が豊かに実を結ぶように…(ここで終わっている)

  (2)自筆原稿:『霊的手記』No.59:彼女宛の罫紙の手紙用紙(20.5×13.5cm)の余白に書かれている。

 変に目立つことはしないで、大いに感覚を抑制するよう改善すること。

 良心が予め意識させたこと、また、あらゆる機会に良心が私に犠牲にするようにと勧めることについては、休憩時間に話さないよう注意すること。

 過去の不愉快なことについて話してはならない。

 神への信頼を大いに培い、平和を失わないために、全ての行為を、よく考えて行うこと。

 心の平和を片時も失わず、決して人間を恐れないこと。

 祈りを背負いこまないこと。私の道はたくさんの祈りを唱えることではなく、多く祈る道である。

  • 従順と恭順さについての手記

   自筆原稿:『霊的手記』No.58:彼女に宛てられた手紙(13.0×10.5cm)余白に書かれている。

マドレ某(注マドレ・パトロシニオ)に対するひどい嫌悪感が舞戻ってきた。べレシオを通して主にお願いし、この対立は、苦しませる人に、服従し愛を持って接することによって克服することが分かった。

 すべてに対して例外なく盲目的に従い、恭順であること。神は、曲がった物差しで直線をお引きになる方である。

(c) 祈り

  自筆原稿:『霊的手記』No.57:罫紙(10.5×7.0cm)の両面に書かれている。

 甘美なるイエズスよ、今は喜びの季節です。あなたが愛さる娘の心からすべての辛い苦しみを一掃し、あなたもご存じの彼女が熱望しているものを与えて、その心を喜ばせてください。彼女には説明しがたいことですが、彼女にとって近寄りがたい山々も、愛するイエズスよ、あなたにとっては何程でもなく、すでに平らにされています。

 教会を私たちに、そしてあなたのお望みのところに、あなたに相応しい多くの魂が奉献されますように。

 私の魂、某(注マドレ・ピラール)の魂、どう読み取っていいか分からない私の心のうちにあるすべてを、あなたはご存じです。

 イエズスよ、盲目的にあなたに信頼いたします。

No.35 信仰と信頼の奉献文(190534日)

    自筆原稿:『霊的手記』No.62:一枚の紙(8.0×11.5cm)の両面に書かれている。

 あなたは全能の神であり、私について一つのことを求めておられるのを固く信じます。甘美なる主よ、私はここにおります。あなたの聖なるみ旨をお示しくださり、それを果たすために必要な強さをお与えください。私が何者であるかをあなたはよくご存じです。わがイエズスよ。あなたの養父である偉大な太祖と、今日からその九日間の祈りが始まる、私の敬愛する偉大な聖フランシスコ・ハビエルを仲介者にいたします。

 聖三位よ、憐れみとゆるしと恵みを求める私の心のうちにある苦悩を、あなたはご存じです。

 いつの日か讃えましょう、主の恵みによって私に与えられた完全な解放のみことばを守られた主の忠実さを讃えましょう。人間の力を恐れず気にも留めず主に希望いたします。

No.36 1905年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』No.63:24枚綴りの小ノート(11.5×8.0cm)の両面に書かれている。

ひどいすさみの中で霊操に入った。何の成果も力も引き出さないだろうと思われ、主が私に非常に大きな犠牲を求められるような気がする。

 この落胆さの中で第一黙想をずっと過ごし、へりくだって力を願うばかりだった。聖体拝領はとても深く潜心したが、慰めの光は無かった。その後、自室を整頓していると雲が晴れ、心のうちに、疑いえない大きな力と、主が私と共におられ、その日には私を取り巻いている数多くの苦悩から私を救い出してくださるという、特別な信頼を感じた。実りは、神への無限の信頼と力であって、被造物へは何もである。神は全能のお方である。

 第二黙想 この世では神のみ旨にのみ依存し、真に神の子の聖なる自立を妨げるいかなる被造物にも隷属せずに生きなければならない。したがって繁栄も不運も、すべてを神が私の聖化のために置かれる手段として役立たせること。そしてこの状態を堅持し、私の魂にとって最大の実りとなるものを引き出そう。すべての行為において次のように考えなければならない。すなわち、この世にあって、私はあたかも大神殿にいるかのごとくにし、大神殿の司祭として、人々が私に反対するものを、それがどんなものであろうと絶え間無い犠牲として捧げ、また私を満足させるものを絶え間ない賛美として捧げなければならない。そして常にすべては、神のより大きな栄光のために。それが、私たちをこの世に置かれた目的である。

 第三黙想 全く無味乾燥だった。私の心を苦しみに備えなければならない。これが、これからの私の道になると思われる。たとえそうならなくとも、苦しみに対して嫌悪を感じているので、私の意志をそちらに傾けねばならない。苦しむことよりも、何もしないでいることの方がもっと苦痛だ。

 第四黙想 三つの罪について 何もしなかった。何もできなかったから。深くへりくだり、決して傲慢に陥らないようにと祈るばかりである。

 第二日 反復 へりくだり、主が私についてなさろうとするすべてに従うことを、固く決意する。

 第二黙想 前のに同じ、まるで棒切れのように干上がっていた。

 第三黙想 同じ。

 第四黙想 地獄について 神からの永遠の離反と魂の喪失に私は深く心を打たれ、彼らの救いのために祈り、私にできることは何でもしたいとの強い望みが起こる。それに、この何かしたいということは、私が常に抱いている非常に大きな望みであって、この十三年来の何もしない状態から決して抜け出せないと考えると、計り知れない苦しみを引き起こす。私にとって、これはひどい苦しみである。主は私をご自分お瞳のように愛してくださる。私の事をすべて見てくださるので、私は主に信頼している。そこから私を引き出すことのできる被造物は皆、日毎に望みを小さくするようだ。しかし、ある日、主が、もう良いと言われるなら、被造物とは一体何なのだろう。風に運ばれる籾殻のようであって、主はそうなさるだろう。盲目的に主に信頼しよう。主は某(注 姉ピラールのこと)も慰めてくださるだろう。

 第三日 反復 へりくだるだけだった。これほどに愛され、いつも特別の方法で愛してくださった神の憐れみによってだけででも、私は地獄には行かない。

 第二黙想 死について 何も悔やむことはなく、神がお望みの時に、お望みの方法で私を呼ばれるよう、神のご意志にすっかりお任せしている。より平穏な心を得るために、神への信頼をさらに強めることだけは改善しなければならない。そして、闘うよりも、聖なるご生涯と神の完全さを喜ぶことに専念すべきだ。仕事に就きたいという、この強い望みを根こそぎにするよう働かなければならない。母の腕に抱かれた娘のように、盲目的に神に信頼すること。そして、現在をよく過ごすことのみを考え、不必要な心配をしないこと。神が私に問われるのは、与えられたタレントをもって神のみ旨をよく果たしたかどうか、その責任だけだ。才能がなくてしなかったことについては、最後の時に何も考慮しなくてよい。

 したがって、すべての人に役立つあらゆる良いものについて喜ばなければならない。なぜなら、私は神の望まれる事以外は望むべきでないように、神が他の人に行われる全ての善について私は気に入っているべきだ。そして、私はずっと無為に置かれ、他の人たちは神の栄光のために仕事についていることをお望みなら、神が望まれ、許されるこの事以外に私は望むべきではなく、人の目によく見えるべきでもない。彼がこの地上で常に侮辱されて過ごされたのは、父のお望みだったからである。

 それに、誰からも知られないでいたい。できる限り隠れ、私の歴史を、隠れた偉大な業によって神のみ心のうちでのみ形作り、他の人たちの目には、元々のわたしである塵そして灰の姿で現れること。神のみが私の報奨であって、被造物からは何も、何も求めてはならない。大いなる熱心さを持って、私の内に神的ないのちを形づくること。これは、主なる神が私の魂に行われるみ業に、この上ない気配りをもって応えることである。聖テレサ、シエナの聖カタリナ、聖ゲルトルードのように。わが聖女たちよ、あなたたちのように私が応えることができるよう、主にお祈りください。

 第三黙想 憐れみについて へりくだるばかりで、何もできなかった。

 第四黙想 キリストのみ国について 最も親しい人たちのようになりたいとの激しい望み。それは誰たちだろう?聖なる十字架をより印された人たちである。より軽蔑され、辱められ、罪なくして迫害された人たちである。これは偉大な知恵であるが、私は抽象的には非常に愛していても、実際にはほとんどそうではない。主が私の善意を強めてくださることを信頼し、また私の母であり主の母である聖母に信頼する。私としては、私に差し出される侮辱や苦悩を拒まず、神に感謝を捧げ、神によって道具となっているもののために祈り、できるだけの善を行う。

 キリストのみ国 主のご聖なるお望みに全く従うために、すっかりお捧げした。

第四日 み国 反復 同じ思いだった。

 第二黙想 お告げと託身 聖なるおとめは、処女性を失うことを決して恐れられなかった。彼女は、救い主がおとめなる母から生まれるべきことを、聖霊と聖書によって深く照らされ教えられていた。彼女が示した困惑は、告げられた事柄の重大さによるのであって、「私は男の人を知りませんのに」という応答は、彼女の困惑から生じたものである。つまり、すべての人間の通常の受胎の道を取りつつも、それなしに実現するよう、かほどに特別な恵みを彼女に与えられたのである。

 一つの説明が私を満足させた。神の恩恵を知ることは悪いことではなく良いことであるが、それらをただ神のみ帰して、私たちに帰してはならない。私たちは常に私たち自身である塵そして灰に留まらなければならない。時によって灰が人の役にたっても、それを誇る何の理由もないように、人間も、私たちの主なる神が何らかの栄光のために役立たせようとされるなら、すべての善と栄光は神のものであって、何一つ人間のものではないことを認めなければならない。それは実に深い真理であって、人間には、受けなかったもので所有しているものがあるだろうか?もし、全てが神からのものであるなら、何を自慢できるだろうか?聖パウロが言うように、無からの存在なのである。

 対話の際、聖母に、憐れみを持って私たちをご覧くださり、真の謙遜を理解せず、修道会に大きな害を引き起こしている、会の先頭に立つたくさんの人たちの目を開いてくださるようお願いした。そこにあるのは重大な悪であり、わが主とその聖なるみ母にこそ、解決していただかなければならないものである。私が盲目的に信頼しているように、神の摂理によって印された時が到来するとき、そう行われるであろう。何れにしても、それがみ旨であるならその時が早く告げられるよう、倦むことなく祈ろう。というのは、私にとってはみ旨がすべてに越えて大事なこと出会って、このひどく恐ろしい闘いに耐えるための力を、私たちにお与えくださるよう、絶えず祈ろう。

 第三黙想 聖母の訪問 神からのインスピレーションに従う聖母の素早さをこの黙想で得た。盲目的に、そして摂理のみ手に全く委ねて神に従わなければならない。

 第五日 ご降誕 判断の服従の足りなさについて、主は私の魂の傷を明らかにされた。第一は、外的な行動での無秩序さである。全てにおいてあまりにも活動的で、話す際にとりわけそうだ。これを直すためには大いなる努力をしなければならない。あまり性急にせず、全てに重厚さを持たせること。

 割礼、お清め、エジプトへの避難、おん子を見失う、そして隠れた生活

 すべてに聖家族の聖なるご生活を見る。最高の従順、神のすべてのご裁量に対して内心でも抗弁しないし、咎めることも弁解することもない判断の従順。全てはより大いなる善のためになる筈だとの盲目的信頼を実践すること。私の置かれている非常に難しい状況と、不意に起こりうる最大の困難に際して、常にこれを持っていなければならない。

 第六日 二つの旗 わがイエズスよ、私に対するあなたのご裁量を明かしてくださいましたので、今は甘美な時です。ひと握りの陶土のように、私はあなたのみ手の中にあります。どうぞお望みのままに、お気に召すままに私をなさってください。たとえ命を犠牲にするほどであっても、あなたのみ旨を果たす覚悟であることをあなたはよくご存じです。あなたへの奉仕に呼ばれて以来、ほとんどいつも多く苦しみながらも、そう致してまいりました。もちろん、こうして今日まで私を強めてくださいましたので、これからもそうしてくださることを信じております。

 解決は良い指導を選ぶことにあります。主よ、あなたの聖なる思し召しによって私にそれを選んでください。そのつもりでおりますし、その最中にある闘いをよしとされるのでしたら、それを実行する自由をお与えください。

 わが聖母よ、あなたに、あなたの聖なる夫ヨゼフに、大天使聖ラファエル、わが守護の天使、そして、すべての天使軍と煉獄の聖なる霊魂たちに取りなしをお願いいたします。

 謙遜の三つの段階 第三段階。私に差し出されるものは、その多くがとても辛いものかもしれないが、神のみ手からのものとして受け取ること。フィアットと信頼。三つの段階について、最初の二つについては果たすようにしているし、第三についてもそうしている。しかし今、主が私に求められておられるのは、求めることでも拒むことでもなく、甘味なものも苦味のものも同じように、私の善のためにすべて、み手から送られたものとして受け取ることである。

 第七日 晩餐後の言葉。園での祈りと捕縛 修道会の人たちによるあらゆる苦悩、私が苦しむ人たち、そして苦しむかもしれない人たちによる苦悩が私に群がってきて、これ以上はもう苦しむことができないほどに、わたしはひどく気落ちしている。このような状態で黙想を始め、神のみ旨にすっかりお委ねし、何も期待していなかったのに次の考えで慰められた。「わたしが望まない限り、人々は何もすることはできない。私全能者ではないのか?あの時、あの機会にしたように、私は彼らの意図のすべてをひっくり返せないだろうか?」そして、それらを思い出させてくださった。確かに私のために驚くべきことをしてくださった。何を恐れることがあるだろう?長上たちが命じられるすべてに従い、忍耐し甘受することによって主を得ること。それが、その子らが打ち勝つようにと望まれる方法である。

 カルワリオへの道、十字架刑と埋葬の黙想 十字架が重くのしかかったとき、主はどうなさったであろうか?カルワリオまで運ぼうと努力された。私たちの十字架が、生活での悲嘆、不安、苦悩で私たちをぐったりさせようとするとき、どうすべきだろうか?十字架をしっかりと抱きしめ、死ぬまでそれを放さないこと。私にとってなんという教訓であり慰めであろう!十字架のうちに救いと命のあることが、実にはっきりと分かる。屈辱、障害そして軽蔑に苦しむことはイエズス会の真実最高の制服であり、彼らが一流であることがよく分かる。埋葬においては、神のみ業とそのご意志への生き生きとした信仰と全き信頼。なぜなら、全能なるお方にとって不可能なことは何もないからである。

 それで、苦悩の中にあっても大いに元気を出し、恐れず、むしろキリストの衣服を身につけるためにそれらを探し求めよう。某(注マドレ・ピラール)と私の上に起こったことは、主が私たちの徳を堅固なものとするために計らわれたものであることが、はっきりと分かった。それで、これについてはこれ以上考えたり話したりせず、み摂理のみ腕に委ねることを決心する。そしてこれを証明するためにあちらの姉妹たちの手助けをし、皆の目から隠れて働き苦しむためにボロニアに行くことを許可されるよう手紙を書こうと思う。それの方が、ローマにいることに何か重きを置くよりも、私にとってより価値がある筈だ。自分たちの好みや他人の言葉よりも、実行が乗り越えさせる。

 第八日 ご復活 気力が充実し深い信頼。わがイエズスは、ご自分の力で復活されて敵どもを見返された。これほどに愛された者にも、同じようにお出来にならないだろうか?確かにそうなさるだろう。それまでは苦しみへりくだるほど良い。麦の粒は、のちに豊かに実るために死ななければならず、より深く埋められるほど、よりしっかりと根づく。

 また、イエズスを探す聖なる婦人たちの勇気と粘り強さのお手本の後に続かなければならない。私に差し出されるもの受け止め、私の前に開かれた道を、たとえそれが常軌を逸したものと思われても辿ること。神のご計画を誰が悟り得よう。信仰の光によって導かれるべきで、神をお喜ばせし、み旨を果たすことのみを求める正しい意向があるなら、私達がこの神的な燈にかけることはないと常に信頼すること。

 決 心

 神への信頼を増すために、力の限り働くこと。

 自分について決して話さず、家族と手放した者についてはごく稀に。

 感覚は神に奉献したのだから、神のため以外には使うべきではない。

 度々、自分にこう言おう。私は塵であって、塵に戻るべきである。

 改 善 

 すべての行為をもっと重々しくし、内面と外面を整えること。歩くときに、とりわけ話すとき、そして何かをするときに。

 内的には、いっそう主に信頼し、委ね、長上が命じることには、より信仰とさらなる謙遜を、その言葉と命令にはより尊敬を。自分に対してはもっと自己蔑視を、なぜなら、機会のある時に触れたように、内心では自分を何かだと考え、無であるとは思っていない。

No.37  聖ヨゼフへの祈り 1906年1月26日

    自筆原稿:『霊的手記』No64:二つ折りの一枚の紙(18.0×11.5)の両面に書かれている。

 敬愛するわが聖人よ。あなたを祝う今日、大いなる家族よ!とても急を要する必要時のために、すでにすべてをお願いしていますが、かつてないほどの信頼を持って心からお願いいたします。すべてが完全にあなたのおん子のみ心のお望みどおりに実現しますように。おん子はすべてをご存じで、すべてお出来になり、そうなさるべきで、聖三位の栄光と彼ご自身のためにそうなさいますでしょう。それこそ私が心から願っていることでして、そのようにしてあなたは、私たち皆にその精神を抱くようにさせ、修道会を聖化なさるべきで、それが私の望みの理由であることをあなたはご存じです。

 誠に超自然的なわが聖人よ、神のみ旨に反することに巻き込み得るすべてを打ち負かしてください。

 選挙に際しては一つの心一つの魂をお与えください。会議がペンテコステスの日の使徒たちのものに似たものとなり、そしてすべてが同じ精神で行われますように。

 わが聖人よ、他にもお願いがあります。求めていたものを得られなかった人たちが、謙虚に、忍耐を持って、イエズスのように、園での聖母のように、それを甘受しますように。

 わが聖人よ、私たちを祝福し、導き、私たちの守護者、導き手、そして私たちのすべてとなって下さい。あなたに盲目的に信頼してそのみ手にすべてを委ね、あなたがイエズスとマリアにそうされることを願い、へりくだっておん足を接吻します。

                  マリア・デル・サグラド・コラソン E.C.J.

 わが聖人よ、あなたに信頼いたします。私たちの守護者となって下さい。

 あらゆる悪魔の企みを打ち負かして下さい。あなたの聖なる名、大いなる力が輝きますように。すでに今から、お礼を申し上げておきます。

No.38 新年の決心

                    おそらく1907年に書かれたもの

   自筆原稿:『霊的手記』No65:1枚の紙(21.0×13.5cm)の片面に書かれている。

 今年、私は主の喜びとなりたい。誰を模範としようか?洗礼を受けられた私たちの主を指して天の父のみ声が言われたように、「私の愛する子、私の心に適う者」であるイエズス・キリストこそ、道であり、真理であり、命である。

 永遠のおん父はその上、なんと言われたであろうか?「これに従え」。これこそ私の模範である。祝せられよかし。

No.39  詩篇での祈り

    原稿No.7:112枚綴りノートの109−111頁の両面に書かれている。

 おお神よ、苦悩のとき、私の置かれている境遇がどんな者であるかを、あんたに申し上げましたので、私の涙をお心にとめて下さい(Ps.56,9)。神よ、私を憐れんでください。私は人に踏みにじられています。戦いを挑むものが絶えることなくわたしを虐げます(Ps.56,2)。

 神よ、あなたを呼び求めます。なぜなら、あなたはいつも優しく聞いてくださるからです。わたしに耳を傾け、この訴えを聞いて下さい(Ps.17,6)。瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠して下さい(Ps.7,8)

 主よ、わたしのために何か驚くべきことをなさって下さい。わたしを憎む者たちが、あなたがどのようにわたしを救い慰められるかを見て恥じ入るためです(Ps.86,17)。主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは弱く貧しい(Ps.86,1)。主よ、あなたの元に身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの正義によってわたしを助けてください(Ps.31,2)。主よ、憐れんでください。わたしは苦しんでいます(Ps.31.10)。主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく、神に逆らう者をこそ恥に落とし、陰府に落とし、黙らせてください(Ps.31,18)。

 わたしの敵たちは平和を語りますが、わたしが恥に覆われているときは、わたしには重荷です(Ps.35,20)。主よ、あなたはご覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください(Ps.143,9-10)。

 わたしの飲み物に涙が混ざった。あなたはわたしを打ち砕くために高く上げ、わたしは草のようにしおれていきます(Ps.102,13-14)。しかし主よ、あなたはとこしえに王座につき、立ち上がり、修道会を惜しんでくださいます。なぜなら、修道会を憐れまれる時だからです(Ps.102,13-14)。

No.40  1908年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』No67:21.0×13.5cmの用紙の両面に二欄に分けて書いてある。

1908年の霊操の生活改善

方   法

 神への盲目的な信頼。私の身に起こる全ての出来事には私の聖化のための特別な摂理があり、私は、神の摂理に憩って生き、生じる全てのことの中に、霊魂を癒し、神のおん目に快いものとする手段を見ること。

 大いなる熱心さを持って規則と会憲を遵守すること。

 某(注マドレ・ピラール)の、幸運でなく聖性を祈り求めること。

 私の脆弱さはとてもひどいのですが、あなたの力は無限のものです。今日以後は完全にあなたのみ心と無原罪の母のものとなるよう、あなたの力の一部を私にお与えください。

 全ての霊的勤めをよく果たすこと。ご自分の瞳のように私を愛される神への生き生きとした信仰。

 冠を飾るための宝石だと考えて、自分に反する全てのものを、喜んで受けること。

 大いに舌を慎むこと。苦悩については決して話さず(多くの恩恵を失ってしまうから)、たとえ、話すようにそそのかされても、話さないこと。

 徳によってのみ私の霊魂が豊かにされるよう、欲張りになること。

 大切にされることを望まないこと。

 忘れられていることを喜ぶこと。

 ニュースを知ろうとしないこと。

 『メンサへロ』(訳註 雑誌名)を決して読まないこと。

 自室を大いに愛すこと。

 食堂では見回さないこと。

 良い手本となるよう注意すること。

 全ての霊的勤めをよく果たすこと。

No.41  従順の決心  1909年1月5日

    自筆原稿:『霊的手記』No68:一枚の用紙の(17.5×11.5cm)二面に書いてある。

 私の全てを神父様(注オッタピオ、マルケッティ)にゆだね、命じられる全てに従わなければならない。神父様に話さなければならない時は神に聞いており、問題を解決される時は神のご命令であると、確信しなければならない。そして、神父様の賢明さに託さなければならない。なぜなら、神父様は賢明でいらっしゃるだろうし、主において判断される人に言われるだろうから、姉が修道会のために働くことを犠牲にするか否かについて、また、私以上に閉じ込めることについて決定されることに、盲目的に従うこと。

 今日、1909年1月5日、12時のお礼拝のときに、これが分かった。

No.42  聖ヨセフへの祈り

    自筆原稿:『霊的手記』No68:一枚の用紙(17.5×11.5cm)二面に書いてある。

 1909年1月15日

 わが敬愛する父にして太祖なる聖ヨセフ

 限りなく信頼する力ある聖人よ。あなたは、私の不安と苦悩の全てをご存じです。わが愛する聖人よ、イエズスへのより大きな栄誉と栄光、そして修道会と愚かな私の善のために、全てをイエズスのみ旨にしたがって解決してください。

 全てをご自分のこととしてご覧になり、皆を慰め、満足させてください。

 私の愛する全ての甥姪が、わが神と神の母であり私の母である聖母に満足しますように。ご存じのように、これらの言葉に全てが秘められています。

 わが聖人よ、聖スザンナ教会を、それが適当であれば、でももしそうでなければ、それをなさってくださいますように。

 私の指導に、神父様と私に光をお与えください。わが神のみ旨のままに私を指導され、双方が完全にみ旨を果たしますように。

 わが聖人よ、教会の勝利と世界の回心を。

 皆が一つの心、一つの魂となり、手の指のように愛し合うよう、修道会に大いなる祝福をお願いします。

 修道会の病人たちに健康を、特に神のより大きな栄光となるものに、とりわけそれを。

 そして今、聖なる父よ、あなたはイエズスとマリアに次いでこの貧しい娘の思い、言葉、行いの完全なあるじでいらっしゃいますから、お望みどおりにどうぞ。天国においてあなたのおみ足を接吻し、これほどに喜ばせてくださったイエズスおマリアのみ腕のもとにお連れくださるその日まで、常に私を律してくださいますように。

          マリア・デル・サグラド・コラソン  E.C.J.

No.43  1914年の霊操

    自筆原稿:『霊的手記』N0.70 :12枚綴りのノート(10.5×7.0cm)の1−4頁に書かれている。

 スピネッティ師の指導による1914年の霊操 8月23日

 私の心に障害物は見出せず、神が彼女についてなさろうとすることへの心構えができている。

 そこには二つのものがはっきり見える。一つはとても悪く、他の一つはとても良いものである。とても悪いものとは欲情と悪い性向で、彼女はそれを持っており、それはひどいものであるから、常に恥じ入っているべきである。

 これに対して、良いものは非常に優れている。誤っていなければ、しばしば神聖なものとなり、溢れるばかりの恩恵は、とても悪いものを抑制する口輪の「はみ」である。

 じつに明晰なこの理解は、これを心から認め承知し、主への深い信頼、それもありきたりのものではない、限度を置かぬ盲目的な信頼を、とりわけ重大な機会に持つように私にさせなければならない。神は特別の寵愛を持って私を深く愛され、彼への愛と限りない信頼をいっそう培うために、これに気づくよう望まれる。彼と私との間には夫と妻の愛があるよう望まれるが、全てを最大の完全さと優しさを持って行い、この愛によって私が完全になることを望まれる。すべてを彼によって、彼のためにのみ、彼のみをお喜ばせするために行い、生きますように。

 これが、霊操の最初の二日間に得た光である。

 第三、第四日 闘いについて それでも私の魂の内奥は聖なるみ旨に固く一致している。しかし、命がけであっても、殉教の苦しみを経なければならない。

 だが、完徳のためにとても必要な、自分を保ち、この自身への支配を得るためには、沢山の恵みが必要であって、完徳のためにはそれがとても必要である。主の恩恵がそれを実現してくださるだろう。

 決 心

 霊操の最終日である今日、霊操の要約として第二日に書いたように、神がこの上なく私を愛されていることを実に明白に知った。これが今年の決心とならなければならず、それが完全なものとなり、私の中に刻みつけられるよう努めなければならない。主の助け、そして私の敬愛する聖母マリアと私の守護の天使、保護の聖人たちの助けに欠けることはないと盲目的に信頼している。

 全ては神の栄光と人々の善とその救いのため、私が最も心砕くべき気の毒な罪人たちの回心のためである。

No.44  聖女が作成した祈り

                                      1914年8月20日(注.この日教皇ピオ十世が帰天)以降のもの

   自筆原稿:『霊的手記』N0.5:6枚綴りのノート(9.0×5.5cm)の2−4頁に書かれている。

アントニオ師を称えて

 至聖なるイエズスのみ心よ、この世でこの上なく誠実にあなたに仕えた忠実なる僕たちに栄誉を与えられるあなたのご好意によって、へりくだってお願いいたします。あなたの大いなる栄誉と栄光でしたら、あなたの栄光にあれほどの熱意を注いだ忠実な僕ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラを、あなたのみ力によって輝かせ、祭壇上の栄誉を受けさせてください。

 同じく、教皇ピオ十世のためにも、家族と修道会のメンバーによってお願いいたします。わが父よ、不肖の者ですが、他の多くの人たちが善の道に続くための刺激として役立つために、ある人たちが極めて賞賛されるのを見る喜びをお与えください。もうお聞き入れくださったものとして心からあなたに感謝いたします。わがイエズスよ、それが、私のあなたに対する信頼です。

 至聖なるイエズスのみ心よ、この世でこのうえなく誠実に仕えた忠実なる僕たちに栄誉を与えられるあなたのご好意によって、アントニオ師もその一人ですが、もしあなたの大いなる栄誉と光栄でしたら、彼の取次によって、この病人を完全に速やかに癒してくださいますよう、心からへりくだってお願いいたします。

 わが父よ、不肖の者ですが、あなたは私の心をよくよくご存じです。私の願いをお聞き入れください。前もって、あなたに感謝いたします。

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                                         “PALABRA A DIOS Y A LOS HOMBRES”

                                                                  「神との語らい」

        イマクラダ・ヤニェス 著

 大平 尚子 訳

1997年10月

 感覚的、快楽的で、五感に対する放縦さ、特に目と耳と舌に対して。